【最終選考作品】アイオライト(著:萬代あや)
昼に発令された梅雨入り宣言を裏打ちするかのように、やむ気配を見せない雨が降り続いている。雑居ビル特有の閉鎖的なエレベーターを避け、その脇のコンクリートの階段をひと息に2階までかけ上がった。
色とりどりに通路の左右に並ぶ扉の中から何度目になるであろう、〝多様性〟を意味する名の店の茶色いドアを押し開け、まとわりつく湿気から逃げるように身体をすべり込ませた。
「マオさんこんばんは」
暗めの店内はいつもと同じように、誰かの歌を待つカラオケのバックミュージックが流れている。
カウンターの中でマイクを拭いていた男性はすぐこちらに気づき、顔を上げた。
「あー希未ちゃんいらっしゃい。お疲れー」
そう言ってマイクをスタンドに戻し、迎え入れてくれる。
店内に他の客はいない。というより、それを狙って開店5分後に入店したのだが。
「ごめんなさいマオさん、まだ準備中でした?」
「ううん、もう20時でしょう? 全然大丈夫。好きなところ座って」
5席あるカウンターのうち、一瞬迷って真ん中の席に腰かけた。
手渡してくれたハーブの香りをまとった温かいおしぼりで両手を拭くと、一日の疲れが浄化されてこぼれていくようで、ふうっと思わずため息が漏れた。
「梅雨入り前からほんと毎日じめじめしてますよねえ。ようやく華金ですよ華金!」
「あんた……華金ってもう若い子にはもう通じないからね。世代的にはあたしがギリよ。レモンでいいの?」
そうあきれながら手際よくグラスに透明なアイスペールから氷をうつしてくれる。
「はい、いつものレモンサワーで」
「オッケー」
ハイブリーチの白に近いまっすぐな短い髪はお酒を作る動きに合わせサラサラと揺れ、見るともなしにぼうっとみとれてしまった。
「今日も残業になっちゃって。終わりが見えなかったのでもういいやって切り上げて、そのままここに直行したんです」
少し驚いたような顔をしたのち、目の前に涼しげなレモンサワーが置かれた。
「え? じゃあなにも食べてないの? はい、とりあえず乾杯。お腹すいてない? うちフードはないけど……なにか出前とる?」
「あ、大丈夫です。最近夜しっかり食べると太ってしまって。やっぱり歳ですかねえ……」
ハイボールが入った私よりひと回り小さいグラスをからからと鳴らしながら、
「まだ30なりたてでしょ? あたしと変わらないじゃない。空腹にお酒はよくないからね。悪酔いしないように気を付けてよ」
そう話すマオさんはさすが日頃ジム通いしているだけあって、スッキリした細身のスタイルを保っている。
「……やっぱりムキムキの方がモテるんですか?」
「んー、もちろんゲイにも好みはあるけど。あたしが鍛えているのは自分がだらしない身体でいるのが許せないだけ」
お昼のメニューがラーメンだった私は、罪悪感とともに思わず背筋を伸ばしてしまった。
飲み放題のこの店は一時間3千円、一時間を超えるとそれ以降は延長一時間千円で飲み放題が続いていく。店内にはカラオケもあり、それも料金込みだ。
ちょうど一年ほど前、大学時代の友人と久しぶりの再会を果たし、2、3軒ほどはしご酒をきめた私たちふたりはすっかりいい気分になっていた。
解散にはまだ早く、かといって次のお店のあてもないまま飲み屋街を歩き回り、
「ミュージックバーだって! カラオケあるかな!?」と、エレベーターに乗り込み「2」のボタンを連打して飛び込んだのが、マオさんとの初めての出会いだった。
すでに酔っていた初見の私たちをマオさんは迷惑がるでもなく受け入れてくれ、その夜の私たちは他の酔客とともに歌い踊り、とどめとばかりにしこたま飲み、翌日は過去に例のないほどの二日酔いに襲われる羽目になった。
ぴったりと身体に張り付くようなタンクトップを装着した初見のマッチョに、
「飲みなさいよブス!!」
とドスの効いた、いわゆるオネエ言葉で酒をあおられたことも初めてのことだった。
家が遠いその友人はそれきりだったが、私は騒がしさと相反する不思議な居心地のよさを感じるこの店にすっかり魅了され、その日以降ひとりで足しげく通うようになった。
二度目に訪れた際に初日の飲み過ぎを謝罪したが、「もっとひどいのがいっぱいいるから、あれくらいなんて」と、どこで覚えたのか華麗なウインクを披露してくれた。
何度となく通ううちに顔なじみになった客とはあいさつを交わし、マオさんも交えてたわいもない話をし、たまに歌い、踊り、たまに後悔するほど泥酔する。ただの会社員である私にとって、さまざまなセクシュアリティを持つ人々が集まるこの非日常的な空間は、なくてはならない場所になっていた。
「なんでカラオケバーでもゲイバーでもなくて、ミュージックバーなんですか」
とマオさんに以前聞いてみたが、
「カラオケだってミュージックじゃない! それにここはゲイだけが集まる場所じゃないからね」
と、わかるようなわからないような理論で納得させられてしまった。
こんな低料金でやっていけるのか心配もあったが、別料金でショットを頼む客もおり、店の周年やマオさんの誕生日、七夕やハロウィン、クリスマスや年末年始、バレンタインなど、シャンパン狙いのあらゆるイベントをたびたび打ち出しているので、それでまかなえているらしい。
「あたしは独り身だしここは家賃も高くないし、そんなに物欲もないから生きていくには十分」
とマオさんは笑う。
今日は早い時間にマオさんとゆっくりおしゃべりをする作戦だったが、結局この日もあれよあれよという間に店内は満員御礼となり、何度も見たことがあるマオさんファンの男性客がその場にいた全員にテキーラをふるまい始め、みな好き好きにカラオケを歌い、盛り上がりの中たった2時間で私はしっかりと酔っ払いと化していた。
これがここ何か月か、私の週末ルーティーンになっていた。
週明け月曜日の朝。無情にも一週間の始まりを告げるスマホのアラームを止め、布団にくるまったまま眠気覚ましにスマホのSNSを起動させた。
お気に入りの店の新作情報、友人の近況報告。私が寝ている間に更新された世の中の情報があふれており、その中に昨夜のマオさんもいた。
それは男女含めて4、5人くらいのグループがテキーラショットで乾杯する様子で、「イエーイ!!」というかけ声とともにグループ一人ずつを順番に動画で撮影してた。
おそらく撮影したのはマオさんなのだがその動画は見ていて酔いそうなほど左右にぶれており、
「ああ……また昨夜も激しかったんだな」
と察してベッドの中で笑う。
「……え?」
次の投稿に移ろうとすべらせていた指が止まり、しぶとくまとわりついていた眠気がはじかれる。その楽しそうなグループの中に見知った顔があったような気がして、思わず動画を静止させた。
「……田辺さん?」
そこには動画の撮影主であろうマオさんに向かって満面の笑みで手を振る、同じ会社の田辺さんであろう男性が映りこんでいた。
田辺さんが配属されているシステム・設備課は、私がいる総務課と同じ1階フロアにある。身長が低くやや小太りでいつも眼鏡をかけている田辺さんは、頼まれた仕事の対応の速さと正確さで、社内の評判は悪くなかった。会社行事の歓送迎会でしかほとんど顔を合わせることはなかったが、奥さんとたしか3歳の娘さんがいるはずである。
動画に映っていたのは一瞬だったが、いつも気難しい表情で一心不乱にパソコンに向かっている仕事中の田辺さんの顔と、SNSの中の笑顔とはなかなか結びつかず、私は困惑した。
「まあ……普段接点ないし、勝手なイメージの決めつけはよくないよね」
と思い身支度にとりかかったが、出勤するまでの間、実際には見たことのない田辺さんの満面の笑みは頭からなかなか消えてくれなかった。
確認の機会は思いがけないほどに早く、その日の夕方に訪れた。
使っているマウスの電池がなくなり、取りに行かなくてはならなくなった。
備品庫はシステム・設備課を通り抜けた先にある。周囲に「お疲れ様です」の声をかけながらフロアを通り抜けると、一角でパソコンに向かう田辺さんがちらりと見えた。
しんと静まりかえった備品庫の中には私しかいなかった。会議用カメラやスピーカーなどの機材の他、文具類が整然と並んでいたが、なにしろ種類が多く、なかなかお目当ての電池が見つからない。あちこちの引き出しを引っ張り出していると、斜め後ろに人の気配を感じた。
「何かお探しですか?」
なかなか出てこない私を気遣ったのか、たまたま自身の探し物があったのか、振り向くと今朝画面上で見つけた顔が立っていた。
「あ、すみません。マウス用の単三乾電池ってどこですか?」
と聞くと、迷いのない動作で棚のひとつから取り出した。
「ここ、どこに何があるかわかりませんよね。すみません近いうちにラベルを作りますので」
そう言って電池を渡してくれた田辺さんのスーツの袖から、紫がかった天然石が並ぶブレスレットがちらりと見えた。
「ありがとうございます。助かりました。それであの、田辺さん。変なことを聞くんですけど……。もしかして昨夜マオさんのお店で飲んでましたか?」
と聞くと、田辺さんは黒縁眼鏡の奥の目を大きく見開いた。
「え……いや、週末は飲んでいなかったと思いますが……あ、いや、飲んでたかな。あ、飲んでいたかもです」
昨夜飲んでいたことを忘れるほど酔っぱらったのだろうか。
「お店のSNSで田辺さん見かけたんです。すごく楽しそうだなと思って」
最後は余計だっただろうか。いつも会社の飲み会では普段のテンションを変えることなく、きっちり一次会で帰る田辺さんに対する皮肉になってしまったかもしれない。
「ああ、そういうことですね。そうですね。あの日は飲みすぎてしまって。SNSにあがっていたんですね。お恥ずかしいです」
と目をそらしながらバツの悪そうに田辺さんは答えた。
「私も週末たまにあの店行くんですよ。マオさんが大好きで。あそこほんとおもしろいですよね! ゲイもノンケも関係なく毎回大騒ぎですっかりはまっちゃってます。もし今度会えたら乾杯しましょう」
と言うと、
「そうですね。機会があれば。では。お疲れ様です」
とさっさと倉庫を出て行ってしまった。あとに取り残された私は、あのSNSの田辺さんらしき人はやっぱり別人なのではないかと疑うようになっていた。
翌日。そろそろお昼に差し掛かろうというころ。なにげなくスマホを開いてみると、マオさんからお店のSNSのアカウントを通してメッセージが届いていた。
「お疲れ様。悪いんだけど、近々店に来てもらうことってできる?」
何度もメッセージを見返して考えてみたが、心当たりはまったくなかった。
少なくとも私は今までマオさんから一度もこのような「営業」をかけられたことはなかった。というか、メッセージが送られてきたことも初めてだった。
「来たいときに来ればいい」がマオさんの信条であり、よっぽどのとき以外は個人的なやり取りをしないことはわかっていた。それだけにこの呼び出しは何の意味を持つのだろう。
「わかりました。今日仕事終わってから、20時過ぎに行きますね」
と返信し、ぬぐうことのできない疑問符を頭の中に散らしたまま、スマホの画面を暗く落とした。
「マオさーん来ましたー」
マオさんはカウンターの内側で簡易椅子に座り、スマホをいじっていた。
「ああ、ごめんね急に呼び出して。何飲む? 今日は呼び出したからおごるから」
マオさんの固い表情で、いい話ではないことを悟り、姿勢を正して受け止める準備をする。
ウーロン茶のグラスを私の前に置き、マオさんはまっすぐに私の顔を見ながら、静かに話し始めた。
「あのね、希未ちゃんの会社に田辺さんているでしょう?」
それはあれこれ予想したもののどれでもなく、私は面食らってしまった。グラスを持つ両手に力が入る。
「あ、はい。課は違うんですけど、同じ会社なんです。私より二年後輩で」
「うちのSNSで見つけて会社で声かけたんですってね……希未ちゃん。それはやっちゃいけないことなの」
マオさんは固まった私に「わかるかしら?」と言いたげな表情を浮かべた。
「ナベちゃんはオープン当初から来てくれているお客様で、いつも遅い時間に決まったお仲間といらっしゃるの。ここはゲイバーではないつもりだけど私はゲイだし、自然に同じセクシュアルの方も集まってくる。ここに出入りしているってことはナベちゃんも〝そう〟見られるってことなのよね」
そう話すマオさんは今までで一番真剣で、だけどそのまなざしは驚くほど優しかった。
マオさんの言いたいことがだんだんクリアに形を作り、それは私のもとに届き、そして響く。
「うちに来てくれるお客さんはゲイであることをオープンにして楽しんでいる方が多くて、そこだけが目立つから勘違いしてしまいがちなんだけど。ナベちゃんのように性的指向を隠しながら生活している人の方が圧倒的に多いの。特に会社のようなパブリックな場所でその類の話をすることは十分に気をつけなきゃいけない」
私のしてしまった失敗を怒るでも責めるわけでもなく、諭すようにマオさんは話し続ける。うつむいて顔を上げられない私の視界には、水滴で濡れたグラスとコースターだけが見えていた。
「私もうかつだったの。まさかふたりが同じ会社だなんて思わなかったから。希未ちゃんにもこんな思いさせてごめんなさいね」
「本当にすみませんでした。私、何もわかっていなくて。知り合いを見つけたことで浮かれてしまって、取り返しのつかないことをしてしまいました。マオさん……私、出禁ですか?」
と聞いた途端、いつものように声を上げて笑った。
「んなわけないでしょ! 希未ちゃんが出禁ならうちに来る半分以上のお客さんは出禁になっちゃうわ!」
私のいたたまれない気持ちを察したのだろう。空気を変えるかのようと必要以上に明るくふるまってくれる。
「今回は周りに誰もいなかったんでしょう? それに希未ちゃんは常連さんにも一見さんにも、セクシュアリティ関係なく気を遣って飲んでくれていること、わかっているわよ。まあ……、たまに飲み過ぎるけど羽目は外さないし。いつも来てくれて本当に感謝してる。これはほんと」
その優しいことばにうかつにも涙がこみあげてきてしまう。ここで泣いたら困るのはマオさんなのに。
「これで深刻な話はおしまい! いつものように楽しく飲みましょう」と切り上げてくれたが、さすがにそのまま飲み続けられるはずもなく、私は消沈した気持ちを悟られないよう、お店を後にした。
扉を閉めたとき、横の看板の灯かりがついていないことに気づいた。私とふたりきりできちんと話すために、閉店にしてくれていたのだろう。
暗い看板をぼーっと見つめていたらパッと開店を告げる灯かりがついて、さらに泣きたくなった。今夜もマオさんを慕うお客さんであふれ、テキーラが飛び交い、騒がしいカラオケの喧騒に包まれるのだろう。
私は店を背に、あふれそうになる涙を必死にこらえて歩き出した。いつの間にか降り出した雨はおろしたてのパンプスを容赦なく濡らし、雨水を吸い込んだ靴はよりいっそう私の足どりを重くさせた。
翌日。社内チャットで田辺さんのページを呼び出し、初めてのメッセージを送った。
「お疲れ様です。急で申し訳ありませんが、本日お昼休みにお時間いただけますか?」
返事はすぐに返ってきた。
「承知しました」
シンプルな一文を認め、私はすうっと息をのみこんだ。
私のうかつさを詫びなくては。決して踏み込んではいけなかった田辺さんの領域に、土足で上がり込んだことを。許してもらえるわけがなくとも。
会社の1階と2階をつなぐ外階段はいつも開放されているが、空調の効いているビル内の階段やエレベーターが優先されるため使う人はほぼおらず、それが今は都合がよかった。
朝まで降り続いていた雨は今はやみ、薄曇りの中、湿り気の混じった風が吹いている。
腰をほぼ直角に折り曲げて謝る私を前にして、田辺さんは明らかに戸惑っていた。
「や……いや、中川さんそこまでしなくても……。とにかく顔を上げてください」
その声からは怒りの感情は感じられず、むしろ私以上に申し訳なさを感じているように聞こえた。
「すみません自分こそ……。中川さんは周りに言いふらすような人じゃないって、マオさんに言われたんです。あとから冷静に考えたらそうだなって。なんですけど、あのとき声をかけられたときは本当に動揺してしまって」
ひと息にそう話す。
「とにかく知られてしまったってことで頭がいっぱいになってしまって、あの日の夜にマオさんに相談に行ったんです。おおげさにしてしまって本当にすみませんでした」
田辺さんの缶コーヒーが握られた右手には、今日も青みがかった紫色の天然石のブレスレットが光っている。
「いえ、それに関しては配慮が足りなかったんです。私すぐ調子にのるところがあって……自分が好きなお店に会社の人がいることがわかってうれしくなっちゃって。でもああいうお店に通うからには特に気を遣わないといけないのに。気づかせてくださって、ありがとうございました」
向き直ると改めて頭を下げた。緊張がうずまいていた空間が少しゆるんだように思えた。
そして私はマオさんと昨夜話した後からずっと気になっていた疑問を口にした。
「田辺さん……答えたくなければかまいませんが。もしかして、そのブレスレットの石、アイオライトですか?
……マオさんのお店の名前の」
田辺さんはゆっくりと手首のアイオライトに左手で触れ、そこに目を落としたのち、
「お昼時間はまだ大丈夫ですか? よければ座りませんか?」
と穏やかな口調で、先に階段の端に腰を掛けた。
一瞬考えたのち、濡れていないことを確認し、階段に横並びに座る。梅雨のコンクリートのにおいはいっそう強くなり、田辺さんの左側に位置どった私からは、少しふくよかな右手にはめられた、アイオライトがよく見えた。
お店に通い始めて何度目だったか、マオさんに店名の由来を聞いたことがあった。
「アイオライトって天然石があってね、その名前なの。紫がかった深い青色でそれ自体好きなんだけど、調べてみたらアイオライトには多様性やアイデンティティって石言葉があるみたいで。ちょうど五年前に店をオープンするにあたって名前を考えていた時で、これだ! って思って決めたの」
当時を思い出したのか、グラスを拭きながら店内を見回した。
「まあ、そんなたいそうな思いや考えが合ってつけたわけじゃないけど。ただ、どんなセクシュアルであっても、ここでは関係なく楽しく歌って飲めたらいいなと思ってるだけ。歳も性別も関係なく。ゲイでもノンケでもね」
そう教えてくれた当時のマオさんは黒髪だったが、とてもまぶしく見えたことを覚えている。
そんな由来をもちろん田辺さんも知っているだろう。その想いがこめられたアイオライトを身に着けているということは、田辺さんにとっても特別な意味があるということだ。
「奥さんとは大学の同期でサークルで出会いました。とても利発で優しくて、離れているうちの両親とも仲良くやってくれて、人間としてとても尊敬のできる人です」
私はうなずいた。
「でもやっぱりそういう行為は苦しくて。でも彼女もお互いの両親も付き合っているうちからこどもを心待ちにしているのがわかっていたので。ずっと悩みましたが、自分は自分を押し殺して生きていこうと決めて、結婚しました」
そう言って前を向いたまま、寂しそうに田辺さんは笑った。手首の石に触れたまま。
「アイオライトには開店当初から通っています。きっとマオさんにも気持ちは伝わってしまっているでしょう。ただ、奥さんも娘も、大切な家族で。裏切るわけにはいかないんです」
遠くを見たまま続ける。
「自分はいつか田舎に帰ります。実家で親がやっている会社を継ぐことが決まっていて。そうなったらお店に行くこともマオさんにも会うことはなくなって。なにごともなかったかのように、忘れるだけです」
田辺さんの思いと覚悟に対して何も言葉をかけることができず、私はずっと隣で黙っていることしかできなかった。
空を覆っていた薄雲はいつの間にか深みを増し、その中にたっぽりと雨をためこんでいるように見えたが、話の間雨粒が落ちてくることはなかった。
「うん、もちろんわかっているわよ。ナベちゃんの気持ちは」
そうたんたんと話すマオさんはいつもと変わらず、まるで他人の話をしているかのようだった。おそらくこんな出来事はマオさんにとっては日常茶飯事なのかもしれない。
「でもナベちゃんの境遇も家族を守ろうとしていることもわかっていたから、そこに踏み込んじゃいけなかったの。いくらお得意様でもね」
「田辺さん、いつかは実家に帰って家業を継ぐって言っていました。私なんかにはわかりませんけど、田辺さんの人生ってこれでいいんでしょうか。本当に愛した人とは絶対結ばれないなんて。そんなのって……」
言葉を絞り出せば出すほどそれはそらぞらしく空回り、私の喉を詰まらせる。
「失恋は誰しも経験することでしょう? 形が違うだけであって。希未ちゃんも想いが届かなかったりフラれたことくらいあるでしょう?」
と、少しいたずらっぽい目を向けられ、私は過去のあれこれを思い返して苦笑するしかなかった。
「ゲイが女性と結婚することは珍しくないのよ。ひと昔前と違って世間ではLGBTQが受け入れやすくなっているのかもしれないけど、それでも全然まだまだ! 特に家族の理解を得ることは簡単じゃないと思うわ……それに!」
と、残っていたハイボールを一気に飲み干した。
「あたしの好みは韓国アイドルだって知っているでしょう? 残念ながらナベちゃんはそもそもあたしのタイプから外れているわ」
そう笑ったマオさんの本心だって、私にわかる日はきっと来ない。
それから三年の月日が流れたのち、田辺さんは会社を退社した。娘さんの小学校入学にあわせ、地元に帰るとのことだった。その間私たちは業務以外のことで言葉を交わすことはなく、アイオライトで会うこともなかった。
オープン当初からの常連であった田辺さんを惜しみ、アイオライトでは仲間内で送別会が開かれたらしい。私もマオさんに声をかけてもらったが、丁重に辞退した。
その代わりというわけではないが、会社の送別会には参加した。
自身の送別会だというのに田辺さんは終始毅然としたふるまいを見せ、次々に席に訪れる別れという名の挨拶に忙しそうに応対していた。
店を出たあと、帰路に就く者、二次会に繰り出す者、三々五々に散らばる人の中、田辺さんは少し離れた場所で私を呼び止めた。
両手いっぱいに花束と餞別を抱え、
「中川さんと仕事ができて、よかったです。いろいろとありがとうございました」
と、握手を求めてきた。
その右手首が空っぽになっていることに気づき、私は思わず涙ぐんだ。
田辺さんは驚いたのち、手首にそそがれる私の視線に気づいたのか、くしゃっと泣き笑いのような表情を浮かべた。
「本当に、ありがとうございました。どうかお元気で」
私にもう一度告げると、人混みを抜けながら歩いていった。
アイオライトをいくつも重ねたような夜の中を、田辺さんは迷いなく進んでいく。そんなうしろ姿を、私はいつまでもいつまでも見送っていた。
【おわり】