【最終選考作品】透明で美しい魚たち(著:水野すきま)
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水族館なんて何が楽しいかわからないけど、心愛がはしゃいで嬉しそうにしているから、まあいっかって思った。それに、りょーくんはこういうところには絶対に来ない。アタシと違って、東京が嫌いだから。
「女の子には、絶対に特別な女友達がいるんだって」
池袋のサンシャイン水族館で、真夏の青空と都会のビルを横切る「空飛ぶペンギン」を見ながら心愛が言った。
「なにそれ」
「男はいくらでも替えがきくんだって。でも、その特別な子はそうじゃないって。ゆいーつむにってママが言ってた」
「なにそれ、初めて聞いたんだけど」
「彼氏だって特別だよね。ウチにとって、そーたの代わりなんていないもん」
「そうじゃなくて、心愛のママのこと」
心愛の口から飛び出したアイツの名前にアタシは顔をしかめたけど、本人は空をのびのびと泳ぐペンギンを眺めながら、唇のはじっこをちょっと持ち上げた。そこにある丸い紫色のアザが歪む。
「ママの話、初めてしたもん。樹里だけだよ。たぶん、ウチのゆいーつむには樹里だよ」
アタシは心愛の言うスイーツみたいな、ゆいーつむにって言葉の意味もわかんないし、「そーなんだ」と応えたらもう何も言えなくなっちゃった。心愛も何も喋らなくて、黙ったままのアタシたちの間をペンギンが横切った。中学生の頃から七年も一緒にいるけど、こんな話なんてしたことない。
「心愛、あのさ。さっきの魚の名前、なんだっけ?」
苦し紛れについさっきまで見ていた魚の話を持ち出すと、心愛がこっちを見た。14ミリのカラコン越しの視線がぶつかる。
アタシたちはバカだから、水族館で魚を見たって「きれーい」「かわいー」「おいしそー」ってバカ丸出しのことしか言えなかった。そんな中で、一回だけアタシたちは声を揃えて「綺麗」と口にした。小さくて、透明で、キラキラした魚。壁に書いてあったカタカナの名前は呪文みたいに長くて、アタシたちは爆笑しながら何度も繰り返し唱えた。覚えて帰ろーってゲラゲラ笑ってた。
「え? なんだけ。トラ、トラ……なんとか、かんとか、キャット、フィッシュ」
「動物多くね? トラに、キャットに、フィッシュって」
「うるさいなあ。てか樹里は覚えてんの?」
「忘れた」
だって、中学校は半分くらいサボって、高校はほとんど行ってなくて、やりたかったはずの美容の専門学校も中退した。アタシも心愛も、おんなじ地元でおんなじ人生を歩んできた。単語ひとつまともに覚えられなかったアタシたちに、長いカタカナの名前なんて覚えられるわけがなかった。
人生で初めて見た透明な魚。綺麗だと思ったのにその名前を覚えられないのが、なんていうか、ダサいなって思う。アタシの人生って、結局こんなもんなんだなって。中三の頃の担任に言われた言葉を思い出して嫌な気分になったのに、アタシの唇は笑おうとしている。
「アタシたちさあ、ヤドセンの言った通りになっちゃったね」
「なんだっけ……あ、キャバ嬢予備軍だなってやつ?」
心愛と並んで向かい合ったヤドセンは、着ぐるみみたいな体と脂っぽい顔をしていたくせに、目はカラカラに乾いていた。遅刻と、授業の邪魔をしたのと、スカートが短かったの。たぶん、アタシたちのそういうのがムカついたらしい。ツバを飛ばしながら怒鳴り散らすヤドセンに、目を合わせて笑った。必死になってやんのって小さい声で言ったら心愛が笑い出しちゃって、ヤドセンはますます怒り狂ってた。
「そ。アタシ、アイツ大っ嫌いだったなあ。化粧すんなだの、スカートが短いだの、そんでさあ、大宮のキャバ行ってんの写真撮られたじゃん。マジキモすぎて一生笑える。アイツ、ウチらのことそーゆー目で見てたんだなって」
でも、結局アタシたちはヤドセンの予言通りになった。というか、もうそれしかなかった。りょーくんの知り合いに紹介された地元の飲み屋街のキャバクラで働いて、一年くらいだっけ。指名ももらえるようになって、たぶん、ヤドセンよりは稼いでると思う。知らないけど。
「たしかに。樹里の店にヤドセン来るかもね」
「そしたら写真撮って送るわ」
「ねーやめて、まじでおもろいから。死ぬマジで」
「てか、心愛の店かもよ?」
「え〜、まじで無理」
アタシたちはまたゲラゲラと笑った。教え子の働く店にノコノコと現れるおっさんのキモさと情けなさは、想像だけでもめちゃくちゃ笑えた。学校では偉そうに説教なんかしてるくせに、女に相手にされないからノコノコ店に通ってんだ。
「ねー樹里?」
「なに?」
一通り笑い転げた心愛の目尻でアイラインが滲んでいた。きっと、アタシの化粧もよれてるから、この後トイレに行ったら直そうなんて考えてた。
「ウチさあ、赤ちゃんできたんだ」
「え? はあ?」
思わず心愛のお腹を見たけど、どう見てもぺったんこだった。こんな薄くて頼りない腹に? アタシは冗談やめてって笑おうとしたのに、アイツの人を舐め腐ったクソみたいな態度を思い出して、目蓋の辺りが上手く動かせなかった。
「そーたの子。できちゃった」
心愛の口元のアザがまた歪む。アタシたちの目の前をのびのびと泳いでいったペンギンは、おやつの時間なのか水槽から上がってどこかへ行ってしまった。別に、アザについて今さら聞くことなんてない。今に始まったことじゃないし、アタシは何度もアイツと別れろって言った。けど、でも、
「赤ちゃんって……だってアタシたちまだ十九だよ。どうすんの」
「産むよ。うん、絶対産む。今決めた」
心愛はラメでキラキラする目を細めた。心愛はアタシのことをゆいーつむになんていうけど、りょーくんに会う前の日も、アイツと付き合う前も、心愛は結局アタシよりも男に従った。そういうふうにできている。心愛のそういうところをバカだと思いながら、でも心愛とは友達のままでいる。空白のガラスの前で、アタシはぎこちなく唇を動かした。
「……じゃあ、今度は心愛の子と一緒に見に来よう。ペンギンと、トラなんとかキャットも」
「樹里、フィッシュいなくなってる」
「あれ、たしかに」
目が合って、アタシたちは笑った。スタバでも、帰りの電車でも、アタシたちは隙間を埋めるように空回りのお喋りを続けた。地元の駅で別れてからアタシは早歩きで帰宅した。そのままベッドに横になって心愛の平らなお腹を思い出す。次に会うときにはまあるく膨らんでいるはずのお腹。冷たくなった足に毛布をかけて、アタシは無理やり目を閉じた。次にいつ会うか決めてないって気がついて、明日ラインすればいいやって思った。
けど、次の日に心愛はラインとインスタを消していなくなった。たった一晩で透明になって、この地元から脱出した。ねえ心愛、トラキャットフィッシュは、敵に見つからないように透明に進化したんだって。アタシはバカだけど、それだけはなぜか覚えてるんだ。
1
学校が嫌いになったのって、いつからだっけ。分数がわかんなくなってからかな。いや、掛け算が覚えられなかった頃だけ。スイミーの音読がアタシだけ下手だった頃かも。
中学校の入学式、アタシは心愛と出会った。ママが中学生なんて親いらないでしょっていうから、入学式には一人で来ていた。とりあえず自分の席に座りながら、胸のリボンを捨てたくてしかたなかった。
「サイアク」
「んね。うちもばーちゃんに来てもらえばよかった」
ひとりごとに返事がきたことに驚いて隣を見ると、丸い顔の初めて見る子が気まずそうに笑った。可愛い子だと思った。
「ママじゃなくて?」
「うち、ママいないもん」
「あーね」
スーツを着た女の先生が教室に入ってきて、何かを選ぶみたいな目で教室を見渡した。クラスメイトたちが何を言われる訳でもないのに席についたのを確認し、先生は挨拶をしてから名簿を開いた。次々と名前が読み上げられていく。
「木澤樹里さん」
「……はい」
機械みたいに読み上げられた自分の名前に、アタシは同じく機械みたいに返事をした。
「佐藤心愛さん」
「はあい」
子供っぽい返事に教室からくすくすと笑い声が上がる。先生は少しだけ眉を動かしてから、やっぱりマシンみたいに名前を読み上げていく。さとうここあ。なんかものすごく甘そうな名前だ。いろんな連絡とか注意事項とか。そういう話を聞いて、終わりの挨拶をした。アタシはさっさとカバンを摑んで立ち上がる。
「ね、樹里。一緒に帰ろ」
佐藤心愛は、かばんを持ったアタシの袖を摘んだ。隣の机の上には、配られたプリントとぬいぐるみみたいな筆箱がまだ広がっている。心愛は机の横に掛けてたかばんを膝に置いて、それらを雑に突っ込んだ。
「ん。てか、心愛ってどの辺に住んでんの?」
樹里って呼ばれたから、心愛って呼んだ。少しだけ緊張して、声が震えていた。心愛はきょとんとして左を指差した。
「え、あっち。ほら、市立病院の方」
「じゃあ逆じゃん」
「そうなの? あ、じゃあウチくる?」
「は? 今から? アタシ帰りたいんだけど」
「ええー。じゃ、また今度」
心愛は鍋の中で崩れた豆腐みたいに笑った。そういう顔を見たら、まあいっかって思った。
「うん、今度」
「ばーちゃんがお菓子用意してくれるよ」
「やった」
心愛とバイバイしても、うちに帰っても、まあいっかはずっと続いた。夜の十時頃にママが帰ってきて「何? 楽しかったの?」ってメンドそうに言った。アタシは「別に」って答えてから和室の襖を閉めた。何をするにも窮屈なアパートは息苦しくて、ずっと嫌いだ。
心愛はアタシと同じくらいバカだった。たぶん心愛もおんなじことを思ってたんじゃないかな。二人とも先生からは嫌われてたし、友達をうまく作れなかった。教室の底で二人きりだった。六月ごろには放課後に心愛の家に毎日入り浸るようになったけど、心愛もばーちゃんも何も言わなかった。流行ってるものとか、アイドルとか、そういうのは全部心愛の部屋で覚えた。心愛が教えてくれた中でも、化粧という魔法にアタシはのめり込んだ。ちょっとコツを覚えたら自分の冴えない顔が変わっていくのが楽しかった。
「樹里はメイク上手だねえ」
「うん。楽しい」
アタシは慎重にアイラインを引きながら答えた。アイライナーを置くと、心愛は気まずそうに笑って、何か嫌な予感がした。
「樹里さ、サッカー部の亮哉先輩知ってる?」
「あーまあ」
雨が古い一軒家の屋根に当たる音を聞きながら、アタシはばーちゃんが持ってきたカルピスを飲み込んだ。亮哉先輩という名前にアタシはわざと嫌な顔をした。
「夜にさ、亮哉先輩たちと遊びにいくんだけど……一緒に来てくれない?」
「はぁ? なんでそんなことになったの」
「話しかけられたから……。お願い、ひとりはやなの」
友達はいないくせに心愛は男によく話しかけられる。たぶん、可愛いし話し方もトロいから。だから、学校の廊下で亮哉先輩に話しかけられる姿は簡単に想像できた。
「やだよ。亮哉先輩、なんか怖いもん。やめた方がいいよ」
「お願い! なんかしつこくて、ラインもめっちゃ来るし、一回行かないとずっと続きそうなんだもん」
心愛は本当に困ってます、って顔の前で両手を合わせた。ちらっとアタシを見上げる心愛のマスカラがダマになってることに気がついて、アタシはまあいっかって思った。
「ん〜〜……まあ、いいよ。つまんなかったら帰ろ」
「わあい樹里、ありがと。大好き」
「はいはい」
夜になって、アタシたちは並んで自転車を走らせた。待ち合わせ場所の小さくて暗い神社には灯りなんてなくて、代わりに向かいのセブンイレブンが強く光っていた。心愛にくっついてきたアタシを、亮哉先輩は歓迎するでもなく、邪険にするでもなく扱った。亮哉先輩の隣には、学校では見たことのない男の人がいた。
「あ、来た。そーたさん、ウチの学校の後輩」
そーたさんと呼ばれた男は、アタシに一瞬だけ視線を寄越してから心愛をジッと見た。
「……コンバンワ」
「ちす」
アタシのテキトーな挨拶と、コイツのふざけた挨拶。笑っちゃうくらい、初対面から合わなかった。アタシはそう思ったけど、心愛は違ったみたい。
「初めまして、心愛です。そーたさんって、亮哉先輩より年上だから高校生?」
「……学校行ってない」
「そーたさんは、オレが一年ときの三年で、もう働いてんだ」
「え、すごーい」
暗い中で顔もろくに見えないけど、心愛の目がすごいものを見る時の光でいっぱいなのはわかった。ただでさえ甘い声がより甘く聞こえた。
「……別に。学校行きたくねーし」
「へえ、なんかすごいねぇ」
心愛の返事に「別に」ともう一度言って、アイツはタバコの先に火を点けた。真っ暗な中でオレンジ色が息づいて、心愛のまあるい目に小さな光が映っていた。
居場所が心愛の家から夜のコンビニの駐車場やグラウンドに変わった。心愛についていくうちに、四人でいることが当たり前になっていった。心愛の間延びした笑い声に、アイツは少しだけ笑う。ハムスターを見るような目を許せなかったけど、狭いアパートにいなくて済むのはよかった。それに、自分と似たような人たちと過ごすのは好き嫌いは別にして妙に安心して心地よかった。かろうじて行ってた学校をサボるのはあっという間だったけど、ママはアタシに何にも言わなかった。
中三になって、ヤドセンにキャバ嬢予備軍だなって言われて笑い飛ばした。アタシたちはちっちゃな金魚鉢にいる四匹の魚みたいだった。
心愛とアタシは、亮哉先輩の通う名前さえ書けば受かる高校に入った。狭い水の中にしか居場所がなくて、おんなじところをうろうろし続ける魚。
結局高校にはろくに通わなかったし、専門学校もさっさと中退した。誰にも手入れされることのない水は濁っていった。でも、誰一人だってここから出ることはできない。
心愛がアイツを好きだって言った時、辞めといた方がいいって言った。けど、心愛はいつのまにかアイツを「そーた」と呼ぶようになった。奥歯に貼り付くキャラメルみたいな声がイヤだった。それからアタシは亮哉先輩と付き合い始めた。初めてりょーくんって呼んだ時、死にたいなって思った。けど、金魚鉢には四匹しかいない。もう、どうしようもなかった。
3
キャバ嬢なんて仕事ができるタイムリミットはもうそこまで来ていた。二十六なんて、店では最高齢だ。でも他にできる仕事なんてアタシにはない。たぶん、まだ、もう少しは稼げると思うけど。新しい子が入店するたびにアタシは深い水の底に沈んでいく。毎日化粧をするたびに自分の顔に変化がないことにほっとする。梅雨の鬱陶しい雨音を聞きながら、客にラインを返して支度をしているとりょーくんが帰ってきた。
「おかえり、早かったね」
「……仕事やめた」
「は?」
りょーくんはちょっと働いてはすぐに仕事を辞める。嫌なことを言われたとか、ムカついたとか、そんなバカみたいな理由。
「ねえバカじゃないの? いいかげんまともに働いてよ」
「うっせーな」
「家賃どーすんの。てか、まじありえない。なんも考えてないの?」
ねえ、アンタはさあ、自分がどこにいるか分かってんの? アタシたち、おんなじ地元にいるのに親のとこなんて今更帰れないんだよ?
「お前だって、ただのキャバ嬢じゃん。なんでそんな偉そうなの?」
「りょーくんに言われたくないんだけど。ほんと無理」
結局、いつも通りだった。喧嘩して、罵り合って、お互いに磨耗して疲弊して最後は無言になる。それでもアタシたちは一緒にいるしかなかった。他に居場所があれば、こんなに息苦しくないはずなのに。経年劣化した沈黙をチャイムが破った。本当に今日はサイアク。りょーくんが玄関を開けると、重たい湿気と一緒にアイツはズカズカとうちに上がり込んだ。透明に進化して、濁り切った水の中から脱出した心愛に誰よりも執着している男は、いつも酒の匂いをさせながらアタシたちの住む安くてボロいアパートに来る。
「心愛は?」
「そーたさん。勘弁してくださいよ。オレらもわかんねーすよ」
どろりと濁った目が、アタシとりょーくんを交互に見た。
「どこだって聞いてんだよ。樹里、お前知ってんだろ。心愛と仲良かったろ? ナメやがって、いつまでもふざけてんじゃねえぞ」
「知らないって。てか、いいかげん来ないでよ。また文句言われる」
「っせーな。だいたい、お前がアイツのこと隠したんだろ」
こうやって大声を出して喚くから、隣の住民からは苦情ばかりくる。心愛を隠されて腹を立てるくせに、コイツは心愛を殴ってた。まじで意味がわからない。
りょーくんはこういうときにはなんの役にも立たない。部屋の隅で神妙そうな顔をして黙っているだけ。取り憑かれたように延々と捲し立てるアイツを見ていると、アタシはいつも心愛の唇の端にあった丸い紫色のアザを思い出す。
「お前、知ってんだろ。頼むから……いい加減心愛の場所教えろよ」
散々な態度で家に上がり込んできたくせに、アイツは最後にはいつも情けない顔で泣きながらアタシに縋る。そうすると、アタシの中では怒りと優越感が同じだけ肥えていく。アタシにはコイツの顔に丸い紫色のアザをつける力はないけど、アタシは怒りに任せてコイツのことをズタズタに切りつけることができる。
「ほんとに知らない。てか、散々心愛のこと殴ってソレ? マジでウケるからやめてくれる?」
そんなことを言えば、アイツはいつもちゃんと傷ついた顔をする。それがムカつくし、ある種の快感でもあった。
「……悪かったと思ってる。二度と手ぇ出さないから」
「それ、心愛に言ってくんない? アタシに言われても困る」
「その心愛に会えないから、こんなに頼んでるんだろ」
「知らないっての」
こんな不毛なやり取りをもうずっとしている。コイツが仕込んだ心愛の子どもは、もう六歳くらいになるのかと思った。ぺったんこの腹の中にいた子どもの大きさを、アタシは想像することができなかった。
ヤドセンがウチの店に現れたのは、七月の終わりの金曜のことだった。運悪く卓に着いてなかったアタシに、黒服が接客するようにと指示を出した。アタシはレジ横のカーテンの隙間からヤドセンの写真を撮った。十年分老けた姿は、あの頃よりもますます情けなくなっているのに、少しも面白くなかった。
席に向かう。驚愕か嘲笑か屈辱か。カラカラに乾いた目に浮かぶ感情を想像しながら、アタシは最大級の笑みを浮かべた。
「初めまして、ジュリです」
ヤドセンはアタシの頭からつま先まで、ゆっくりと視線を這わせた。
「ジュリちゃん……」
それから、本当に嬉しそうな顔をした。
「可愛いね」
想定していたものは一つもなかった。油田みたいに脂ぎった顔に、初めて会った可愛い女の子に向ける緩み切った表情を乗せていた。その目は潤んでいるようにすら見えた。
「お隣失礼します」
合皮のソファに腰掛けると、ヤドセンはメニューをアタシに見せて「何飲む?」と気遣わしげに尋ねた。ああ、と思った。この男は、アタシのことは一つも覚えてなんかいないんだ。芋虫みたいな指先で肉に埋まりそうなネクタイを解きながら、ヤドセンは黒服に酒を注文した。
「お名前伺ってもいいですか?」
「屋戸っていいます」
知ってる。
「屋戸さん! お仕事は何されてるんですか?」
「学校の先生。それが結構大変なんだよ」
それも、知ってる。
「え、そうなんですか! 学校の先生ってやっぱり大変なんだあ。すごーい!」
「そんな、大したことじゃないよ」
照れくさそうなヤドセンは、意気揚々と仕事の話をアタシに聞かせた。困ってる子がいたけど自分の指導で良い子になったとか、立場が上になっていくにつれて責任が重くなったとか、最近の若い後輩の指導は大変だとか。
グラスを仰いで「ジュリちゃんみたいな子が一緒に働いてればいいのに」と言われた時には、思わず吹き出しそうになった。学校の先生なんて、絶対にやりたくない。
キャバ嬢としてのアタシはヤドセンを上手く捌いたと思う。聞いて、相槌して、お酒を勧めて、褒めて、励まして、持ち上げて。ヤドセンは高いシャンパンを注文して、店長は上機嫌でアタシに目線を送った。でも、全部がどうでも良かった。もう、全員等しくバカなんだと思った。ただ一人、心愛を除いて。
ヤドセンは大満足で帰っていった。またくるね。今度は指名するし、いつか同伴しようと言った。アタシはその日に店を辞めた。店長は必死になって説得して、しまいには脅してきたけど、こんな馬鹿馬鹿しいこと一日だって続けられないと思った。アタシも、透明になりたかった。
りょーくんが日雇いの仕事に行った日、リュックに荷物をまとめてアパートを出た。鍵は郵便受けに落っことした。バス停で待つアタシの頭に、真夏の日差しが容赦なく照りつけていた。心愛が住んでいた市立病院の方から近づいてきたバスに乗り込むと、ひんやりした風が肌を撫でた。
通ってた中学の横の橋に差し掛かると、エンジンは息切れしたような唸り声をあげた。スマホから目を離して窓を見ると、ひとりの老女が歩道をゆっくりと歩いていた。心愛のばーちゃんだった。頭は真っ白で、腰はずいぶん曲がっていて、最後に会ったときよりもずっと小さくなったばーちゃんを、バスはさっさと抜いていった。車内には猛烈に稼働するエアコンの耳障りな音が、ただ満ちていた。
西日の照り返す川面がギラギラと光って、アタシの目の前をあの日見た透明な魚が泳いだ。一匹の魚の名前も覚えられないまま生きてきた。心愛、ねえ。あの魚の名前、なんだっけ。駅に向かうバスの中で、心愛の言ったゆいーつむにの意味が少しだけわかった気がした。
地元を離れて半年が経って、身の回りのことがようやく落ち着いたアタシは池袋に向かった。サンシャイン水族館は平日の割にそこそこ混んでいて、アタシは水槽を見て回った。美味しそうなカニ、可愛いクリオネ、大きくて青い水槽。一つ一つ、魚の名前を見たけど、覚えられそうにはなかった。階段を登ってフロアが明るくなったとき、あ、と思った。たしかこの辺にいたはず。アタシたちが、笑いながら覚えておこうねって約束した魚。
六年前と同じく、透明で綺麗な魚はそこにいた。
「トランスルーセントグラスキャットフィッシュ」
口の中で飴を舐めるように名前を溶かす。もう二度と忘れないように、刻みつけるように。
「トランスルー……セントグラス、キャットフィッシュ」
美しく、気高く、自分の中身を曝け出して泳ぐ魚。敵に見つからないために進化した、透明で美しい魚。水槽の前から動けないまま、いつまでも水槽を見つめた。子供連れ、カップル、友達同士。幸せそうな人たちに囲まれて、アタシはたったひとりだった。
「セイラ、このお魚好き」
「そうなの? あんまり可愛くなくない?」
「ええ〜かわいいじゃん。ママ、センスなーい」
「そんなこと言わないでよ。悲しーなぁ」
間延びした声が耳に入って、アタシは思わず振り返った。小さな女の子が、ママと手を繋いで反対側の水槽を眺めていた。もしかしたら、と思った。その顔を確かめたくて、アタシは丸い後頭部に熱心に視線を注いだ。心愛だったらいいのに。振り返ってアタシに気がついて。そしたら、アタシはヤドセンの写真を見せて、ばーちゃんこの前見たよって言って、それから、
「でも、セイラはゆいーつむになんでしょ? ママいつもいうよね?」
「うわ、自信満々だなあ。でも、うん。そうだね。セイラはママの一番特別。唯一無二の宝物」
「またママと来たいなあ」
「そーだね。来よ。ママも、セイラとまた来たい」
鮮やかなピンク色の爪が、トランスルーセントグラスキャットフィッシュでもペンギンでもない魚を指差す。アタシは、水槽の前から足早に立ち去った。まあいっか、って思ったら泣きそうになって走って出口に向かった。ひとりしか乗っていないエレベーターで、アタシは崩れるようにしゃがみ込んだ。
心愛。アタシね、今度はちゃんと覚えておこうと思ったの。アタシはバカだけどさ、今度はちゃんとスマホのメモにも入力したんだ。だから、忘れたって大丈夫なの。心愛、アタシ何回だって思い出せるよ。それだけでこの先も生きていける。生きている限り、私は貴女を思い出せるから。
地上に着いて、私は池袋の街を駅に向かって歩き出した。アスファルトを叩くヒールの音が心地よい。私はたったひとり、人混みの中を進んでいく。
【おわり】