【最終選考作品】惑星を捨てる(著:水野すきま)
吉岡は私に星座を与えて、それから地球を捨てた。彼が口にした星座の名前と声は、私の記憶の底に残り続けている。
「本日の降石確率は0・02%で、衝突の恐れはほとんどないでしょう」
テレビから聞こえたお天気お姉さんの明るい声に、食べかけのトーストを一気に口に入れて、コーヒーで流し込んだ。眉が寄ったのは、たっぷりの砂糖でベッタリと貼り付くコーヒーの甘さではなく、自分の置かれた状況のせいだった。
天気予報の時間には食べ終わって制服に着替えていないと遅刻する、というのは経験則から分かっている。けれど、どんなに時間がなくても降石確率――隕石が落ちる確率は必ずチェックしなければならない。
とはいえ、0%でも3%でも私が生まれてから隕石は一度も落ちたことはない。次に隕石が落ちたらバラバラになるはずの地球は、まだなんとか存続している。
宇宙の情勢が変わって、惑星に隕石が降り注ぐようになったのは一世紀ほど前のことだった。太平洋の真ん中に落ちたのを皮切りに、幾度と地球を襲った隕石は、大陸の形を変え、海を暴れさせ、眠っていた火山を叩き起こした。
私の住む日本にはまだ落ちたことはないが、満身創痍の地球は次の衝突でマントルが崩壊、マグマに覆われてバラバラに弾け飛ぶ、らしい。
天気予報が終わって立ちあがろうとしたが、鉄でできた巨大で無機質な箱が画面に映って、私は縫い付けられたように動けなくなった。
「コスモス八十三号は来週、地球から旅立ちます」
トーストとコーヒーを詰め込んだ胃が、巾着の紐を引っ張ったときのように収縮した。
地球の終わりが見えてきた時から始動し、半世紀以上前に開始された惑星間移民計画は、僅かずつ進行している。半年に一度、地球から人々を連れ去ってゆく船は、来週の今頃にはまた新たに約三万人を乗せて地球を脱出する。新天地に向けて、片道二十年の旅だ。
テレビの向こうのリポーターは、楽しげに宇宙船コスモスの内部を紹介している。宇宙船の中心にある商業区画と呼ばれる場所には、食品や衣類のお店や病院やヘアサロンにペットショップまであって、人間が生きていくために必要なものが揃っているように見せていた。
「遅刻するんじゃない?」
空いたお皿とマグカップを取りに来た母に声をかけられて、私は弾かれるように立ち上がった。慌てて制服に袖を通して、鞄を引っ摑む。
高校三年生の私たちに突きつけられた難題は白紙のまま、鞄に突っ込んだ。玄関のドアを開けると暑くて湿って重い夏の空気が流れ込み、容赦なく降り注ぐ太陽が肌を焼いた。
「気をつけて」
「はーい」
自転所に乗ってペダルを踏み込む。見慣れた景色をかき分けながら、ふくらはぎに力を入れる。こうしている間にも、神様が宇宙の法則を書き換えているのだろうか。精密な計算の上に成り立っていたはずの宇宙は、どうやらその形を丸ごと変えようとしているみたいだ。
信号待ちで自転車を止めた私は、半袖から伸びる剥き出しの自分の左腕に目をやった。私の星座は、私の毎日は、何も変わらない。横断歩道を渡り、学校の前の坂を筋繊維を酷使して登るのだって、変わらない。
全力でペダルを回した甲斐があり、予鈴と同時に教室に飛び込むことができた。教室は冷房が効いていて、汗で張り付いたシャツと前髪が一気に冷えた。肩で息をしながら席に着いて鞄から荷物を取り出すと、今朝そのまま入れたプリントはぐしゃぐしゃになっていた。
「まだ書いてないん?」
クラスメイトに覗かれ、私はそそくさと真っ白な紙を手で覆った。進路希望調査票には、まだ名前しか記入していない。
「えー、だって、決まんなくない? そう簡単にさあ」
私たちの目の前には大きな二択が横たわっている。地球に残るか、脱出するか。担任は大事なことだから親御さんとよく話し合うように、と言った。私は自分がどうしたいのかすら分からないままで、両親にも切り出せないでいる。だから、いつまでもこの紙は白紙のまま。
「まあね。うちは決まってるけど」
「え、そうなの?」
「うん。移民一択。だって、私そのために生まれた子だもん」
クラスメイトは呆れたように笑って、机の上を指で撫でた。移民は基本的に家族単位だ。家族の中の誰かが選ばれれば、二親等までは一緒に移民することができる。もちろん、地球に残りたいという強い希望があれば家族と別れて残る選択も可能であるが、ほとんどは家族で一緒にコスモスに乗る。
「自分たちが若い頃は、まだJ7の情報が入って来なくて、うまくいってるかどうか分からなかったから地球に残ったくせに。それからJ7が軌道に乗りそうってわかって、子供作って、私について移民しようって計画なんだよね。ほんと、やんなる」
クラスメイトは乾いた笑いを漏らしながら、机から指を離した。何かで見た映像の、離陸する宇宙船のように軽やかだった。
J7とは、無人惑星探査機が発見した七つ目の日本領の星(J1〜6は居住に適さなかったため、今は放棄されている)である。約六十年ほど前、何もない惑星J7に人が生きるためのあらゆるものを整えるため、その能力を持った人々がコスモス一号に乗り込んだ。
全てが未踏でギャンブルだった。無事に着いた彼らは、重力や酸素量、気候や環境、衣食住と、人間の生存に必要な様々な体制を整えた。当時の船長をはじめとする彼ら英雄の記録は今でこそ書籍や映画になり、多くの国民を希望で照らしている。
しかし、私たちの親世代が私たちと同じ選択肢を突きつけられていた当時、J7の様子を知る者は地球には一人もいなかった。地球とJ7との通信は、距離や宇宙線の関係で不可能だからだ。唯一の連絡手段は、再び二十年をかけて地球に戻ってくる無人の船に託された報告書と手紙だけだ。
そんな手探りの状況の中であれば、このクラスメイトの親のように移民は時期尚早だと考える人はかなり多かっただろう。
私は口元を緩ませるように意識しながら話を継いだ。
「まあそういう家って多いよね。うちの親は……あんまり気にしてないんだよね。なんも聞いてこないの。ウケる」
話せばちゃんと相談に乗ってくれるとは思うが、私の進路について両親から何かを言われたことはなかった。たぶん、どちらでもいいと思っているのだろう。
「それはそれで珍しいね。私の場合、適性検査がなあ。結構微妙かも。移民希望者も年々増えてるもんね」
たとえ二十年前の情報だとしても情報が安定して届くようになり、移民は未知の得体の知れないものではなくなった。希望する人が増加したことで、現在では選抜のために、移民希望者には適性検査の受検が義務付けられている。
とはいえ、宇宙船の旅は安心安全なわけではない。これまで宇宙船が飛び立ったのは八十二回、そのうち四艘は行方不明となり事故の可能性が高いと言われている。今現在、かの星へ向かって音速に近いスピードで進んでいるコスモスだって、無事に到着する保証はない。
それでも、いつ消滅するか分からない地球を捨てて、より生存の可能性が高い新たな星に希望を託す。それは、生き延びたいという生存欲求に従った、当然とも言える選択だ。
本鈴が鳴り、一限の宇宙史学の先生が教室のドアを開けた。教科書を開くと、左腕のほくろが目に入った。ふと、吉岡はどうしているのだろうと思った。
吉岡は二年生の時に同じクラスだった男子生徒だ。天文部に所属していて、いつも遠くを眺めて、心を宇宙に飛ばしているように見えた。無口で無表情なのに、どこか独特な存在感のあった彼は、特定の誰かに篤い好意を抱かれるわけではないが、烈火の如く嫌われる人でもなかった。
吉岡と関わったのは、たった一度だけだった。夏休みが目前に迫った七月の半ば、蝉の声とエアコンの音がミックスした放課後の教室で、私たちは向かい合って座っていた。日直の私と自席で本を読んでいた吉岡は、プリントを綴じるという雑務を担任に押し付けられていた。
「……僕がやっておくよ。帰ろうとしてたよね?」
「いいよ。どうせ暇だし」
輝かしいほど眩しくはなく、沈むほどに暗くもない。無機質で均一的な明るさの教室で、向かいに座る吉岡を盗み見た。どこにでも溶け込めそうなのに、独特な存在感のある、話したことのない男子生徒は黙々とプリントの端をホッチキスで留めていた。休み明けの校外見学学習のお知らせだった。
私たちのホッチキスのテンポはバラバラで気持ち悪いリズムを刻んでいたけど、不思議と居心地は悪くなかった。ただ、向かい合っているのに無言なのもなんだか妙な気がして、私はA4の用紙の表題を指した。
「校外見学学習ってさ」
思っていたより大きい声が出た。吉岡は動かしていた手を一瞬止め、こちらをちらりと見てから再び動かした。
「宇宙船見学だよね。やっぱさあ、うちらみたいな若いのに積極的に出てってほしいのかな」
半年に一度、新たな星へ向かって旅立つ宇宙船は、当然だが乗船人数が決まっている。最近は移民を希望する人が増えているため、誰でも乗れるわけではない。何かしらの能力、つまりJ7という成長期の惑星の発展に貢献できる人間から優先的に宇宙船に乗ることができる。
「まあ……そうかもしれないね」
地球がこんなことになっても、人間は繁栄を諦めない。だから、適性検査をしてまで選ぶのだ。J7の住民の生活維持に貢献する能力のある者、宇宙船の開発をはじめとした惑星移民に出資する経済力のある者、そして、健康で若い生殖能力に問題のない者を。
「去年流行ってたドラマあるじゃん」
「……僕、あんまりそういうの詳しくないけど」
「あの、移民の宇宙船で男の子と出会って、恋して、色んなこと乗り越えて、結ばれるってやつ」
胸キュンラブロマンスを前面に押し出したドラマは女子の間で大流行していて、私も欠かさずに観ていた。次の日に友達と感想を言い合っていると、一人の子が「私も移民しようかな」と言い出した。
その瞬間に、言いようのない違和感が頭の片隅で存在を主張した。それからドラマを見るたびに、警戒心と胡散臭さを感じるようになった。主演の俳優が最終回の直後にコスモスで移民したことも、私の得体の知れない感情に拍車をかけた。
上手く言えない感情を自分の内側で醸造し続けるうちに、拙いながらも言葉が伴ってきたが、それを誰かに言ったことはない。
渇いた喉を潤すように唾を飲み込むと、貼りついていた喉が剥がれる痛みがした。
「あれさ、はじめは毎週ドキドキして、ああ、良いなあって思ってたんだけど……なんか、そのうち素直にそう思えなくなったんだよね」
吉岡はホッチキスを置いて、続きを促すように私を見た。
「結局、私たちの役目って次の世代を生み出すことじゃん。その……なんていうの? 私たちに移民したいって思わせるために作られたのかなって。そう思ったら、なんか……心から楽しめなくなっちゃった」
ヘラヘラと笑って話を締めくくると、吉岡は少し考えるようにゆっくりと瞬きして、それからポツリと呟いた。
「プロパガンダってこと?」
「なにそれ?」
「……なんでもない」
そっけなく言った吉岡は、再び黙々と手を動かし始めた。私はスマホを取り出して、検索欄に『プロパカンダ』とフリック入力した。小さな画面に、コンマ数秒で答えが表示される。
「特定の思想・意識・行動へ誘導する意図を持った行為……」
画面の文字をそのまま読み上げると、〝しっくりくる〟としか言いようのない感覚が隅々に行き渡った。感心して吉岡を見ると、変わらず無表情で何を考えているのか分からなかった。
「僕はそのドラマのことは知らないけど……」
「そうだよ! これだよ、これ! 吉岡は物知りだねえ。うわ、なんかスッキリした」
カチン、と一際大きな音が聞こえて、それから音が止まる。
「……そんなことない。分からないことばっかりだよ」
「いやいや、私は今、はじめて吉岡のことを心から尊敬した。やっぱさあ、めっちゃ本読んでるだけあるね」
「それは買い被りすぎだと思う。僕なんて、父の足元にも及ばないし」
吉岡の一言には、自分の父親を手放しで尊敬する態度と、同い年の口から飛び出た父という畏まった言い方と、自分の父親を比較の基準にする無自覚な傲慢さが、いい塩梅で同居していた。それが面白くて声を立てて笑うと、物言いたげな視線に睨まれた。
「ごめんごめん。でも、吉岡がお父さんと同じくらいの歳になる時にはもっと物知り吉岡になってんだね」
「そんなこと……」
「いや、だって、お父さんにいろいろ教えてもらいながら、自分でも勉強できるじゃん? それって、ものすごい速さでもっと物知り吉岡になるってことでしょ? や、吉岡のお父さんがどんな人か知らないけど」
吉岡は丸くした目をゆっくりと伏せた。
「……確かに、そうかもね」
それから小さく鼻を啜って、手に持っていたホッチキスで作業を再開した。それに倣って私もプリントを取ろうと腕を伸ばすと、思わずこぼれたような「あ」という音が聞こえる。見ると、吉岡はしまったって顔をしていた。
「ん? どした?」
「なんでもない」
「えー気になるじゃん。教えてよ」
「大したことじゃない」
「えー知りたーい」
しつこく訊くと、吉岡は耐えきれなくなったように私の左腕を指差した。
「カシオペア座」
教室中に充満する夏の音に乗った吉岡の声は、鮮明に私の耳に届いた。吉岡の指が、半袖の私の左腕に並んだほくろを結びながら宙をなぞる。軌道はWを描いた。
「……初めて言われた」
言われてみれば、腕に並んだ五つのほくろはカシオペア座に見えなくもない気がする。
「こんなに完璧なカシオペア座の配置なのに?」
「ほくろを星座として見たことないよ」
私の左腕をじっと見つめる吉岡の姿に、少しだけ背筋が伸びる。今まで気にも留めなかった、無造作に並んでいると思っていたほくろが、吉岡によって意味を与えられたような気がした。
「本当に好きなんだね、星」
「うん」
「カシオペア座だね」
「うん」
「これって、今夜見える?」
「うん。北の空に、きっとある」
初めて聞く楽しげな声は、柔らかいのに耳に心地よく残った。右手の人差し指で吉岡が示した軌道をなぞると、これまで肌に存在する点だったものが愛おしく思えた。
「とっておきの宇宙だね」
吉岡の言葉には確かな祝福が含まれていた。生まれつきそこにあったほくろが、たまたま星座の形をしていただけなのに。胃のあたりがきゅっとして頬の内側がこそばゆくなる。
「吉岡にはないの?」
「……あるよ」
「見たい」
「それは……無理」
「なんで?」
私がよっぽど見たがっているように見えたのか、吉岡は困ったように、それから少し恥ずかしがるように、唇を内側に巻き込んだ。
「……怒らない?」
叱られた小さい子みたいに吉岡はこちらを窺った。色の白い頬に少しだけ赤みが差す。
「怒んないよ」
「その……内腿の、付け根にあるんだ」
これ以上の羞恥などないというような小さな声に、吉岡の心地よさの理由が少しだけわかったような気がした。
「あ――…たしかに、それは無理だね」
「ごめん」
「ううん。ね、吉岡の星座は、何座なの?」
「オリオンベルト。オリオン座の、三つ並んだところ」
「へえ、じゃあ今夜カシオペア座と一緒に探してみようかな」
「夏にオリオン座は見えないよ、冬の星だから」
吉岡の白い腿の内に並んだ三つのほくろを思わず想像してしまった。寒くなったら、夜空にオリオン座を探そうと思った。吉岡のとっておきの宇宙を知りたかった。
「吉岡はさ、宇宙が好きなら移民するの?」
「……しないよ」
「へえ、意外」
少しだけ視線を彷徨わせて、答えの輪郭をなぞるように吉岡は話し出した。
「おんなじ地球でも、南半球だと見える星は違うんだ。僕の星は、きっと地球以外の惑星からは見ることができない。お揃いの星には、近くにいてほしい」
誰からも聞いたことのない思いがけない理由に、ええ、と笑おうとして、それからやめた。ホッチキスの音はしなくて、代わりにザアザアという血液が運ばれる音が耳の奥で主張している。
「誰からも聞いたことない。そんな理由」
「そう?」
「でも、吉岡っぽい」
私は笑ったけど、吉岡は笑わなかった。少しだけ明るい色の目は、作業する手元を真剣に見ていた。
吉岡ともっと話したいと思ったが、もう留めるべきプリントは残っていなかった。「僕が届けておくから、帰っていいよ」と言って吉岡は去っていった。空いた向かいの席を少しの間だけ眺めて、それから私は教室を後にした。
それから半年間、吉岡に話しかけられることも、私から話しかけることもなかった。あの夏の時間が幻だったのかと思うほど、私たちは元のクラスメイトのままだった。
夏も秋も過ぎて、あらゆるものに春の兆しが宿っていた日。二年生最後の修了式の日に、担任に促されて吉岡が教卓に立った。
「父の仕事での関係で、一緒に宇宙船に乗ることになりました」
前に立った吉岡は、やっぱり笑わないまま淡々と挨拶をした。それから、宇宙の研究をしていた父がJ7に行くことになったと吉岡は続けた。
親の庇護下で暮らす十七歳は、親に、ひいては親の頭上にのしかかるものに逆らえない。未成年の吉岡には着いていく選択肢しかない。
「今までありがとうございました」
そう締め括った吉岡は、泣きもせず、笑いもせず、ただ正面を見据えていた。私は呆然とその姿を見つめていた。
吉岡の宇宙、吉岡のオリオン座。
私の宇宙、私のカシオペア座。
とっておきの、私たちの宇宙。
冬の夜空で、私たちの星座は同じ視界に入らないくらいに離れていた。
「どうか、お元気で」
ホームルームが終わり、吉岡の周りには寂しそうに声をかけるクラスメイトが集まった。けど、吉岡は吉岡らしくあっさりと別れて教室を後にした。吉岡の背中が見えなくなった瞬間、自分の身体の内側が巨大な手にギュッと握られる感覚がして、私は椅子をひっくり返して立ち上がった。
留めるべきプリントがなくても、話すべきことがなくても、私はあの日を幻にしてはいけなかった。
「吉岡!」
玄関で靴を履き替えていた吉岡に、私は叫ぶように呼びかけた。吉岡は、ローファーを片手に持ったままこちらを見て固まった。
「探して!」
吉岡の少しだけ明るい色の目が、丸く見開かれた。
「新しい星座、吉岡とお揃いの。で、もしあったらでいいから、カシオペア座も」
春の風が吉岡と私の間を吹き抜けた。コスモス八十二号は来週飛び立つ。吉岡とは、もう会えない。
「ありがとう」
吉岡の目が僅かに細められ、唇の端が少しだけ持ち上がる。吉岡は笑った。小さくて控えめな、美しい笑みだった。
三月の最終日、私は青々とした芝生が生い茂る公園にいた。宇宙船の発射場から近いこの場所は同じように見届けにきた人でいっぱいで、誰もがただ青いばかりの北の空を見上げていた。
正午ちょうど、轟音が聞こえた。吉岡を乗せたコスモス八十二号は軽やかに飛んで、あっという間に見えなくなった。涙が眼球を覆って、宇宙船の残した白く細い雲がぼやけて、空に溶けた。
進路調査票を眺めていたら、授業は終わっていた。体育も、数学も、惑星基礎も、昼休みも、午後の現代文もホームルームも。いつの間にか放課後になっていて、私は二年生の頃に使っていた教室に向かった。夏の鋭い西陽が差し込んで記憶よりも白っぽい教室に、半年前は吉岡がいた。
一緒にプリントを綴じた日、あの日に彼が座っていた席に腰を下ろした。この行為に意味があるのかなんて分からない。私は鞄からくしゃくしゃになったプリントを取り出して、空白の欄を埋める。
ボールペンを置き、肺から押し出すように息を吐いた。
J7まで追いかけようと考えたこともあった。けど、吉岡を理由にしてはいけない気がしていた。
「吉岡、やっと決めたよ」
目の奥が痛くなって、悲しいんだと思って、すぐにそうじゃないと気がついた。辛い、寂しい、苦しい。どれも違う。ああ、と思った。受け入れられない、だ。
吉岡はたった今、私にとって死んだ人になった。もう二度と、会うことはない。選択したのは私自身なのに。
「決めたのになあ……」
自分の声が揺らいだのが分かったら、もうダメだった。上半身の力が抜けて、そのまま机に身体を預けた。袖で目元を雑に擦ったら、目蓋の周りがヒリヒリとした。机に突っ伏した暗い視界に、星は一つも見えなかった。
遠くを眺める少し明るい色の目や、私の腕に星座を見つけてなぞる指先、少し恥ずかしそうに赤くなった頬。それから、控えめで美しい笑み。それらはすべて宇宙船が連れ去ってしまった。彼は、別の惑星の住民になった。
吉岡と私が、同じ星空を見ることはもうない。彼のいる場所から見える景色を想像することすら、私にはできない。
けれど、かの星から見える星がどんな色や形や連なりをしているか想像はつかなくても、それを見上げる吉岡の後ろ姿は少しだけ分かるような気がした。
【おわり】