【最終選考作品】りりうむ(著:波止場裕)


 二十二時のワイドショーで流れてきたそのニュースを見て、真っ先に浮かんだのはりりうむのことだった。
 第一志望だったデザイン科のある芸大に落ち、地方の公立大学へ進学した去年の春。べつに親しくなりたいわけでもない相手ととりあえず連絡先を交換し、ビラをもらったサークルの新歓に行き、単位を落とさぬ程度に講義へ顔を出す毎日にあたしは早くも()きていて、気分の乗らない日々は勉強はおろか、絵を描くという最大の趣味すらも億劫(おっくう)にさせた。思考を(むしば)む絶対的な低体温が、それまで胸の内に溶ける余裕のあった「好き」とか「楽しい」とかいう気持ちの溶解度を下げ、固体として溶け残った分がざらざらと体外へ落ちていく。起き抜けのような気だるさが昼を過ぎても抜けなくなって、愛用していたペンタブレットは机の隅でレジュメの山に埋もれていった。そんな日々にも次第に慣れ始めたころ、偶然聴いたのが音楽アプリのおすすめに表示されたエキセントリックの新曲だった。
 エキセントリック通称エキセンは四人組の若手ボーイズグループで、動画配信サイトへ投稿したオリジナル曲が大手レーベルの目に留まったことをきっかけにメジャーデビューを果たしたという華々しい経歴の持ち主でもある。ラップパートを主に担当する(みや)とハルカ、ボーカル担当の()(げつ)と蓮という特徴的な構成も相まって注目を集め、最近は半ばアイドルのような立ち位置で音楽番組に呼ばれることも増えてきた。
 家に帰る電車の中で彼らの新曲を再生し、素直にあ、いいな、と思った。YouTubeで検索をかけるとMVがヒットしたのでそちらも視聴してみる。二周、三周と繰り返してもワイヤレスイヤフォンの振動が新鮮に()(まく)を打った。特に二番のBメロ、MVでいうと花月と宮が肩を組んで二人の歌とラップが掛け合うように重なる部分が心地よかった。
 エキセンは普通に顔出しもしているアーティストだけれど、メインビジュアルやグッズなんかにはメンバーをデフォルメしたイラストが使われているし、ネット発のグループということもあってかファンアート文化がわりと盛んな印象がある。家に着いた後、あたしはその花月と宮のシーンを元に二時間ほどかけてイラストを描き、「素敵な曲に会えたので」というコメントと共にツイートした。当時は別にエキセンのファンというわけではなかったけれど、せっかく久しぶりに楽しく絵を描けた日だったし、記念に投稿しておこうと思ったのだ。
 それなりのフォロワー数はありつつも普段はアニメや漫画のファンアートばかりを載せていたアカウントだったので、今回の絵への反応は正直期待していなかったけれど、それが予想外に伸びた。元々エキセンのファンアートを描いていた(かい)(わい)の人からもたくさんの反応が寄せられて、その一つがりりうむからだった。
 普段は反応をくれた人のプロフィールをいちいち確認したりしないから、あたしがりりうむのアカウントを目に止めたのは(まった)くの偶然だった。はっきりとは覚えていないけれど、たぶん流れてきた通知にたまたま指が触れでもしたんじゃないだろうか。
『この人の絵好き』
あたしの投稿へのリツイートの後に添えられていたのはそんな簡潔な言葉だった。本名の(かしら)()()か何かか、それとも適当に決めたのか、アカウント名はひらがな一文字だけ。アイコンはややくすんだ薄い緑一色で、その奥に存在する人間の温度は最低限に抑えられていた。(いち)(べつ)しただけではユーザーの人物像を想像しようもないプロフィール(らん)。画面を下にスクロールして、その人が絵を描く人であることを知った。それも、かなり上手(うま)い部類の。
 そのアカウントのメディア欄はエキセンのファンアートで埋め尽くされていた。たぶんあたしのと同じ有名ペイントツールを使って描かれたイラスト。厚塗りっぽい筆致と透明感のある水彩調の色使いが混在した画風に、公式グッズのデフォルメされた絵柄を意識しつつも実際のメンバーの顔立ちの特徴を捉えて描き分けるデッサン力がしっかりと()み合っていた。舌を巻いた。あたしより上手い、と直感でわかった。
 夢中になってその人の絵を眺めていると、当のアカウントからフォローされたという通知が画面に飛び込んできて、あたしもすぐにフォローを返した。少量の(つぶや)きの中でエキセンのファンアートを淡々と投稿してゆくそのアカウントは、他のユーザーとの交流をほとんどおこなっておらず、同じ趣味を持つユーザーと(つな)がるためのハッシュタグなんかを使うこともしていなかった。だからだろうか、かなりの絵の上手さに反してフォロワー数は三(けた)に留まっていたが、投稿が拡散されることや本人の目に触れることを目的としてはいないのだろうということが何となくわかった。最初のうちはタイムラインでその人を目にするたびに脳内でひらがな一文字のアカウント名を再生していたが、次第にあたしはその人をりりうむと呼ぶようになった。ユーザーIDの文字列が@liliumで始まっていたからだ。
 りりうむをフォローしてわかったことはそれほど多くない。りりうむがタイムラインに浮上する(ひん)()は週に一度くらいで、半分以上がイラストの投稿だった。次に多いのがエキセンの出演情報やライブの日程などをまとめたメモ書きに近いツイート。りりうむ自身に関する投稿は本当に少なく、それも誰にでもできるような(とく)(めい)性の高いものばかりで、でもだからこそ偽りのない感じがした。おすすめによく流れてくるような、ウケや同情を狙っていることが見え透いた投稿とは違って、りりうむの『頭痛い 雨のせい』とか『基礎実験やっと終わった』といったツイートには人間的な手触りがあった。温度の低さは変わらなかったけれど、だんだんとりりうむという存在の(りん)(かく)の部分に触れられるようになってゆく気がした。
 あの日以来あたしはエキセンの曲をよく聴くようになって、たまに彼らのファンアートを描けばりりうむが必ずいいねをくれ、それが嬉しくてますますエキセンの情報を追いかけるようになった。MVが公開されているようなヒット曲だけでなくアルバムにしか収録されていない楽曲も全部聴いたし、過去のライブDVDなんかも買った。エキセンのファンアートを描いている人の中にはりりうむの他にも絵が上手い人はたくさんいたし、元々のあたしのフォロワーの中にもやり取りをする相手はいたけれど、エキセンのファンアートを投稿するときにあたしが意識するのは一言のメッセージすら交わしたことのないりりうむだけだった。元より投稿頻度は低いし通知もオンにしているから見逃すはずがないりりうむのツイートを、それでも追いかけるという行為をしていたくて、あたしは飽きずに一日に何度もりりうむのアカウントを開いてページの更新を繰り返した。エキセンのファンアートをきっかけにあたしのフォロワーはとんとん拍子に増え、りりうむはずっと何も言わずにあたしの絵にいいねをくれ続けて、そうして一年が経った。
 界隈でもそこそこ有名な描き手となったあたしと、変わらずの調子で淡々とエキセンのファンアートを投稿し続けるりりうむのフォロワー数には十倍以上の差が生まれていて、あたしがりりうむにこんなにも執着しているだなんて周囲にはきっと理解されないだろう。だけどりりうむだってエキセンの公式アカウントの他には十個ほどしかアカウントをフォローしておらず、その中にあの日の絵一枚だけであたしを加えてくれた。りりうむはあたしの特別だったし、りりうむにとってもあたしは少なからず意味を持つ存在だったと信じていたい。
 あたしの知っている数少ないりりうむの情報の、どんな部分に()かれたのか、自分でもよくわからなかった。あたしがりりうむについて知っていることは本当に少なくて、まず、理系の大学生であること、すなわち(とし)がそれほど離れていないということ。それから東京に住んでいること。頭が痛くなるから雨の日は好きでないということ。そしてこの人はたぶん、宮と花月の関係性を特別なものとして見ているということ。
 宮と花月はかつて同じ専門学校で作曲を学んでいた同級生で、エキセン結成の立役者となった二人だ。今でこそラップパートと歌とで担当は分かれているが、かつて、まだインディーズだったころには二人きりで弾き語りをする配信なんかも(ひん)(ぱん)にやっていたらしく、古参ファンからは半ばコンビ扱いされている節がある。りりうむの絵も普段のツイートも、決してそのことを明言してはいなかったけれど、いくつもの絵を見ていくうちになんとなくわかった。二人の髪にさりげなく入れられた同じ色のハイライト。瞳の差し色に互いのメンバーカラーをよく使うこと。そして、それぞれ別の絵に描かれた宮と花月の首元に、揃いのネックレスがほんの少しだけ見えること。
 気づいている人は多くないと思う。りりうむはメンバー四人をほとんど均等な頻度でイラストに登場させていたし、普段のツイートでもどのペアが好きなどという話はおろか、自分の推しを明言したことすらなかったからだ。エキセンについて、誰と誰が付き合ってるだとか、或いはもっと踏み込んだ下世話な話だとかを本人にも見えるような場所でするアカウントは時折目に入ってきていたしそういう人たちには嫌悪感を抱いていたけれど、りりうむにはそういった感情はおぼえなかった。りりうむの描くものから(よこしま)な色を感じたことは一度もなくて、むしろ美しい宗教画を見ているときような(せい)(ひつ)な気持ちで満たされるから不思議だった。この絵を描いているときのりりうむの表情を思った。祈りにも似た感情がこめられているような、そんな気がした。
 りりうむが新しい投稿をしていないかチェックする日々の中で、りりうむが「(しい)()」というユーザーとは何度かやり取りをしていることに気がついた。二人の会話の内容によればエキセンのライブ会場で実際に会ったこともあるようで、双方が(えん)(りょ)のない口ぶりだった。もともと知人だったのだろうか、それとも表立った交流を好まないだけで、りりうむも実は普通にフォロワーと話をしたり一緒にイベントに行ったりするような子なのだろうか。
 ある日、ライブの前夜にりりうむがこんな投稿をしていた。
『前乗りしたんだけどホテルの部屋が(かん)(ごく)レベルで寒い』
 それに続いた椎名のリプライを見て、えっ、と口から吐息がもれた。
『彼女と?』
 りりうむはそれに『連れてこないよ ファンじゃないし』と短く返し、それ以上椎名が話を続けることもなく、やりとりはそこで途切れた。
 あたしはりりうむの性別を知らない。本人も自撮りなどの投稿は一切したことがないので顔すら知りようがない。ただ、地方であったライブの翌日に投稿された『せっかくだから歩いてる』というツイートに添付された写真では、観光地らしき商店街を背景に飲み物を持つ片手を写り込ませたりりうむの指はやや(きゃ)(しゃ)で、爪には暗い青色のマニキュアが塗られていた。
 (きょう)(くう)を左右にわたる緊張した糸がぐっと引き(しぼ)られるような感覚があった。胸の中の空間が狭い。浅い呼吸のまま液晶を操作して、その日描き上げていた絵を投稿した。自室のベッドに座り、壁にもたれて(ほお)をぺったりとつける。寒い季節でもないのに白い壁はひやりと冷たくて、つまりはあたしの顔が熱を持っているのだった。
 りりうむが女性を好きになる人だからといって、それを知ったことでりりうむにどきどきしてしまうようになるのはおかしいことだと思った。どういった相手にどきどきするのかはあたし自身の特性に依るものであって、相手側の特性に依って決められるものじゃないはずだ。そのはずだった。今のあたしの状態はきっとすごく不自然で、それ以前にりりうむにとって失礼なものである気がした。なにが、と言われてもうまく説明できないけれど。
 手の内のスマホが光って新しい通知を告げた。@liliumで始まるアカウントからのいいねを知らせる通知だった。マニキュアを塗った形のいい爪が(のう)()にちらついて、あたしの投稿の下部の白いハートマークに触れてその色を赤にする指を思う。壁にもたれていた体がずるずると脱力してベッドに落ちた。腿に吸い付くシーツが冷たくて、泣きたいような気持ちだった。
 りりうむはあたしの神様だけれど、あたしの信仰は完全なものになれない。


 流れ続けるワイドショーをそのままにテーブルの上のスマホを(つか)む。一度つるりと取り落としそうになって、自分の手が震えていることに気づいた。汗ばんでいるせいか指紋認証が使えず、PINでロックを解除する。青い鳥のアイコンを押すとタイムラインに次々と投稿が流れてきて、無数のユーザーたちの巨大な感情のうねりが伝わってきた。耳から入ってくるワイドショーのキャスターらの声はみな明るく、薄っぺらく、優しげで、視覚を刺激する文字、文字、文字の正負を問わない激情とはまるで対照的だった。
 それでは会見の様子をご覧いただきましょう、というキャスターの声が響いてパッと画面が切り替わる。先ほどおこなわれたらしい会見の映像が流れ始め、ワイプに映るワイドショーの出演者たちはみな一様に()(きん)(ばい)(よう)されたような清潔な笑顔を浮かべた。「フラッシュの点滅にご注意ください」のテロップの向こう側、スポットライトを当てられてエキセンのメンバーが並んでいた。花月が一歩前に出ている。肩のあたりで整えられていた花月の美しい黒髪が短くカットされていて、似合わないスーツを着ていた。ゆったりしたモード系の服が好きなのに。
 すぐ隣に立つ宮が、いつもと変わらない無邪気な笑顔をした宮が、白いマイクを片手に言った。
『花月、結婚おめでとう』
 同じ番組を見ているのだろうフォロワーたちの投稿でタイムラインがすさまじい速さで流れ始める。苦い味の()(えき)が舌の裏側からじわりと(にじ)み出して、飲み込もうとすると舌の付け根が()ったようにうまく動かなかった。頭はひどく冷めていて、指先は頼りなく震え、息のしかたを忘れかけていた。それでも()(ずい)()(きん)は動いてあたしを生かしていたし、五感は機能し続けて絶えず耳から花月の声を受信していた。
 震える手で自分のアカウントを開き、フォロー(らん)をスクロールする。十回ほどのスクロールで一番下まで行き着いて、すぐさま引き返すように今度は下から上へと目を()わせた。さっき(えん)()できなかった不味(まず)い唾液が今さら(のど)を伝っていった。
『結婚が決まって、一番に報告したのは宮なんです。ずっと応援してくれていたし』
 回らない脳にじわじわと熱だけが溜まっていって、おそらく酸欠を起こしていた。は、は、と犬のような呼吸でただ指先と目だけを動かす。第一志望だった芸大の実技試験のときも同じような状態になった。手を動かせば動かすほど何かが間違っているような気がして、不合格だろうなという静かな絶望が既に目の前にあり、どんどん指先と(かい)()していくあたしの頭はさらにその先、このままもう絵が描けなくなるのじゃないかと、そんな未来について考えていた。
『相手は一般女性です。音楽業界の方で、活動を続けていく中で知り合って。今後も手を取り合って歩んでいけたらと思います』
 だけどあなたが変えてくれた。きっかけをくれたのは確かにエキセンだったかもしれないけれど、でも、それから先は全部、あたしの光はあなただけだった。エキセンが世界の太陽であなたは月にすぎないのだとしても、あたしが一番に愛しているのはあなただった。そしてその太陽が、今、軌道を変える。
「りりうむ」
 限界を迎えた脳が突沸(とっぷつ)を起こした。熱い()(ほう)がビーカーの底を()りつけるように(まなじり)から涙がごぽりと落ちて、それで、ようやく理解した。
『いつも支えて下さるファンの皆さん』
 花月がこぼれるような笑顔で言った。
『これからも応援よろしくお願いいたします』
 りりうむのアカウントが消えていた。


 芸能人の結婚に騒ぐ人たちが苦手だった。正確に言うと、結婚に際して「騒ぎ立てなければならない」という空気がだめだった。めちゃくちゃに喜ぶとかめちゃくちゃに悲しむだとか、他人の結婚ひとつで「めちゃくちゃ」になれてしまう人たちのことが理解できず、どこか薄気味悪くもあった。結婚を発表した芸能人の名前がTwitterでトレンド入りするたびに、その上位に流れてくるツイートにはどれも、正の方向であれ負の方向であれ(ばく)(だい)なエネルギーがこもっていて、人間の肉と(あぶら)のぬるい温度を感じた。自分自身では初めは特段大きな感情を持っていなくとも、他人のツイートを眺めているとだんだんとそれに取り込まれてゆくのがSNSというものらしく、(つな)がりのある人が絶対値の大きい発言をすると周囲のユーザーたちの感情もわらわらとそれに流されてゆくらしかった。初めは思い思いに歩いていた小さな虫たちが次第に足並みを揃え、一つの巨大な感情生物として歩き出す様を、いつもどこか冷めた目で眺めていた。
『おめでとう花月くん! ずっとずっと応援するよ!』『ごめんここ(かぎ)(アカ)にします 相互以外は切るのでよろしく』『kgtもしかしてパパになるんか? 奴の子なんてマジ国で保護すべきだろ』『宮さん自分のことみたいに嬉しそうでエモい』『ごめんなさい、ちょっと今心の整理がつかないです』『ガチ恋女さんたち爆散してて草』
 スクロールのたびに次から次へと新しいツイートが画面を埋め尽くしては消えていき、気が付けば「花月」「エキセントリック」「結婚」のワードを全てミュートに設定していた。りりうむがあたしの心の中に占めていたスペースの大きさと、それが失われた穴を少しでも汚されないためならエキセンのことも花月のこともこんなに簡単に自分の世界から消すのだということを、あたしは同時に知ってしまった。
 たしかりりうむのアカウントは三年近く使っているものだったはずだ。ちょっとのきっかけでアカウントを消してまた新しいものを作って、というようなことをするタイプには思えなかった。フォロワーの『会見のかげちゃんかっこよかったー、私が奥さんになりたいよー笑』というツイートが視界を下から上へと滑る。無邪気で無害で愛らしかった。でも、そういうことを笑ってツイートできるような子だったらりりうむはいなくならなかった気がした。
 Twitterの外でもりりうむと繋がっているかもしれない唯一のユーザーだった椎名のアカウントを確認したが、鍵がかけられて(えつ)(らん)できなくなっていた。とはいえDMは解放されていたし、向こうはあたしのことをフォローしているので、おそらくコンタクトを取ろうと思えば何かしらの反応は返ってきたはずだ。でもあたしはスマホをソファに投げつけて、もうその画面を見なかった。
 りりうむは固定ツイートに「画像の保存・転載はご(えん)(りょ)ください」と書いていたので、あたしはずっとそれを(りち)()に守って一枚もりりうむの絵を保存しなかった。しておけばよかったと思った。あたしの絵をリツイートしてくれたときの通知も、フォローしてくれたときの通知も全部、スクリーンショットでも何でもして残しておけばよかった。だってもう、この世界にはあたしとりりうむが繋がっていたことを証明するものが何もない。
 あたし、りりうむの正確なIDすら覚えていない、とぼんやり考えて、じわじわとせり上がってきた涙が(まぶた)の縁を超えた。
 他人の結婚にめちゃくちゃになれてしまう人を見るのが苦手だった。あなたにはそういった人たちと同じにならないでほしかったという気持ちと、りりうむは他の人たちとは違うのだという足を引きずるような信仰心とが今もまだ戦っていた。あたしはどこまでもみっともなくて、どこまでもりりうむのファンだった。『結婚なんてしないでほしかった』、そんな単純なツイートを繰り返すアカウントたちとあなたの悲しみは違うのだと、誰よりもあたしが信じていたかった。
 りりうむの痛みをあたしが全部引き受けたいだなんて馬鹿なことを考えた。本当にりりうむが今、悲しんでいる証拠なんて、あたしの元にはひとつもないのに。涙が(あふ)れて止まらなかった。りりうむが泣くところなんて見たことがないけれど、今はきっと泣いていると思った。それもまた信仰だった。
 (はっ)()が好きで、朝が弱くて、コンタクトを入れるのが苦手なりりうむ。血液型占いの結果のようなごくありふれたことばかり。それだけしか知らないけれど、でも、それが確かにあなたの一部であることを知っている。
 ワイドショーが終わり、気象予報士が明日の天気を伝え始める。大きな液晶に全国の地図が映し出され、気象予報士は明るい声で話しながら画面をタップして東京の上に傘をかざした。
 りりうむのいる東京に、雨が降る。
 明日は水曜日だ。りりうむの嫌いな基礎実験がある日。りりうむはきっと、明日も大学に行くのだろう。目を覚まして、低気圧による頭痛に顔をしかめながら起き上がる。あたしも似たようなもので、明日もアラームは七時に鳴るし、目を覚ましたらベッドを出て顔を洗うだろう。きっとコンタクトは上手(うま)く入らなくて、またりりうむを思い出して泣くだろう。それでも朝ごはんを食べて、服を着替えて、メイクをして大学に行く。呼吸のたびに胸の中の(くう)(どう)を思って、意味もなくTwitterをひらいたりして、自傷行為のように泣くだろう。
 続く日々の中で、あたしは祈る。あなたを胸に生かし続ける背徳と、あなたがいなくなった世界でそれでも死ねない愚かさを抱いて、次第に()えていく傷を許すことなく祈り続ける。
 どうかこの世界が、できるだけあなたを傷つけないように。
 明日りりうむは、りりうむでなくなったその人は、何を思うのだろう。今日いなくなったりりうむという存在にとっての神様が花月だったのか、宮だったのか、それともエキセンそのものだったのか、あたしには知る(よし)もない。あるいはもっと、ぼんやりしたものだったのかもしれない。ままならない日常を共に背負ってくれる「宮」と「花月」の幻影のような。だとしたら明日からのその人の信仰は、現実とは離れた世界を永遠に揺蕩(たゆた)う二人の幸せになるのかもしれなかった。あたしの愛したりりうむはその道を選ぶような気もした。
 だけどりりうむ、あたしあなたがどんな顔をしてそれを祈るのかも知らない。

【おわり】