【最終選考作品】ビードロの便り(著:渡辺梨花)
ポストに届いた葉書きを見て、来年以降の暑中見舞いはメールにしようと心に決めた。去年までは祖母と小学校時代の担任の先生から欠かさず年賀状と暑中見舞いの葉書きが届いていたが、昨年祖母は逝去し、小学校の先生からは年賀状は届いたが、とうとう今年は暑中見舞いはなく、届いたのはただ一枚、小学校の同級生の十和子からだけだった。
十和子とは特に仲がいいというわけではなく、ただただ、葉書きのやりとりが習慣となっているだけだった。小学校の夏の宿題で、手作りの暑中見舞いを作り、送り合うというものがあり、クラスメイト全員に葉書きを出したことがあった。その年はたくさんの葉書きが届き、「良太は長野の田舎で過ごしているらしい」「ゆみちゃんはプールに行って日焼けをしたらしい」「圭吾は毎日アイスを食べているなんて羨ましい」等、普段は毎日顔を合わせているのに、しばらく会っていない友人たちにお互い想いを馳せていた。それが多分小学校三年生の頃で、その翌年にもまたたくさんの暑中見舞いが届いたが、六年生になる頃にはもうほとんどの友人は暑中見舞いを出さなくなっていた(年賀状はくれたが)。そんな中、十和子だけは律儀にクラスメイトに暑中見舞いを出し続け、僕もまた律儀に返事として暑中見舞いの葉書きを送っていたのだった。
当然、他のクラスメイトも十和子に暑中見舞いの返事をしているものだと思っていたが、どうやらそうではないらしいと気づいたのは中学二年生のことだった。
「暑中見舞い何書こうかなあ」
夏の部活帰りに不意に呟くと、「暑中見舞いって何?」と同じ小学校出身の圭吾が言った。あれ、なんだかおかしい、とは思ったが、
「毎年誰かから来ない? 暑中見舞い。その返事なんだけどさ」
と、あえて十和子とか、とは言わずに探りを入れる。
「ああ、五年生くらいまでは十和子とかなかじーとかから来てたかも。でも、俺は送らなかったし、そっからは特に来ていない気がする」
なかじーというのは三・四年生の頃の担任だった中島先生のことだ。圭吾の他に同じ小学校だった友人たちが「俺も」「たしかに、昔暑中見舞いもらったよな」と口々に言った。
なるほど、クラスメイトの大半は暑中見舞いに返事を出さなかったのか。
「え、もしかして大樹は十和子とかとまだやり取りしているの」
圭吾が興味津々の顔で尋ねてくるので、僕は思わず「いや、ないない、先生とかだよ」と返した。圭吾は疑うこともせず「なあんだ」と空を仰ぎ、「まっぶしい、やべえ、前が見えねえ」とふざけ始めた。圭吾のノリに乗っかって「それなあ、もう、こうするしかねえ!」と野球帽をお面のように被ってちょけた。
それっきり、同級生と暑中見舞いについて話すことはなかった。
小学生時代の十和子は、年の割には大人っぽい、おとなしい雰囲気の子だった。大人になって振り返ると美人だったと思うが、当時は細いフレームの眼鏡をかけていたし、何より明るくてケラケラと笑う可愛らしい女の子の方がずっと人気があったから、クラスで十和子のことが好きだった人はいなかったと思う。僕も、いつも屈託のない可愛い笑い声をクラスに響かせていた、二つ結びのよく似合う麻実子が好きだった。
麻実子は残念ながら私立の女子中学校へ進学し、十和子は大抵のクラスメイト同様、近所の公立中学校へ進学した。
十和子とは中学校三年間、小学校の夏休みの延長戦かの如く、毎年暑中見舞いのやり取りをしていたが、ただそれだけだった。同じクラスになることもなく、廊下ですれ違って目が合うようなこともなく、吹奏楽部の十和子と野球部の僕が試合の応援をきっかけに恋に落ちる、なんてこともなかった。そもそも、野球部の応援に吹奏楽部が演奏をするような強豪校でもなかった。
中学に入って十和子と話したのは、たった一度だった。中学校三年生の冬、同級生の大半が受験を終え、残すは卒業式となった二月の終わりのことだった。もうすぐ卒業、というセンチメンタルな響きに押され、誰もいない教室で黄昏れようと朝七時に登校すると、昇降口に人影があった。膝丈のスカートから覗くほそっこい白い足、膝下までぴちっと穿いた紺色ソックス、黒いローファー。ピーコートの上には、赤と紺のチェック柄のマフラーが巻かれ、肩甲骨あたりまである髪の一部がマフラーの中に入っていた。下駄箱へ消えていく彼女を思わず追いかけた。下駄箱には、上履きに履き替えた十和子が不思議そうな顔で立ち、こちらを見ていた。
「……おはよう」
金縛りにあったかのように声が出せず、かすれた声で僕は言った。
「おはよう」
氷上に転がるビー玉のような声で十和子は言った。冬の澄んだ空気が一層その透明感を強調するかのようだった。十和子ってこんな声だったっけ。そこでふと、三年以上聞いていなかった声なのだと気づいた。
「早いね」
僕が上履きを履き替えている間も十和子はそこにいたので、なんとなく並んで歩き出す。
「今日は、たまたまだよ」
十和子はしょげているような、残念なような、ほっとしているような、不思議な表情でそう言った。もしかして僕は今、朝の特別な一人時間を邪魔してしまっているのではないか。
「大樹、くんは、いつもこんなに早いの?」
名前を呼ぶのが久しぶりすぎて、なんと呼ぶべきかわからないといった風に十和子は言った。同じ小学校の友人でも、中学校に入ってからなぜか苗字で呼ぶことが増えた。思春期らしい気恥ずかしさからだったのかもしれないけれど、僕はずっとそれを寂しいと思っていた。男女ともに、苗字で呼ぶと今までよりずっと距離を感じてしまっていた。もっとも、一部の男女はそれによってあえて距離を作ることでお互いを「男女」と認識し合い、恋が生まれたりもしていたらしいけれど。
思えば、十和子が人と話しているのをあまり見たことがない。男女問わず、他人のことを何て呼ぶのだろう。あのビー玉みたいな声で。
「俺も、たまたまというか」
たまたま、という十和子の言葉を借りているようで恥ずかしくなり、早口で補足する。
「いや、その、卒業も近いし、学校一番乗りしてみるのもいいかなって。なんとなく」
十和子は眼鏡の奥の瞳を一瞬大きく開き、それから「あは」と笑った。笑うと意外に大きい口から、白くきれいに並んだ歯が覗いていた。
「一番乗り、とっちゃってごめんねえ」
と十和子はおかしそうに言って、「じゃあ私、二組だから」と五組の教室の前で別れを告げた。僕が五組だということを知っていたのかという小さな驚きはあったが、確かに僕も十和子が二組だということくらいは知っていた。
十和子は、眼鏡を外したら実は結構大きい瞳を持っているんじゃないか、と、彼女の後ろ姿を眺めながら思った。相変わらず目立たないタイプの子ではあったが、きっと大人になったらめちゃくちゃにモテるんだろうな、と、まだまだ分かりやすく可愛い女の子が好みだった僕は他人事のように思った。
十和子からの十七枚目の暑中見舞いは、薄紫の風鈴の絵柄の葉書きに、「今年も暑いですね。そろそろ地球が心配です。」と達筆な字で書いてあるものだった。十和子の暑中見舞いは毎年、無地の葉書きに手書きのイラストが添えてあるので、既製品のように見えるこの葉書きもきっと、十和子の描いたものなのだろうと思った。
一方の僕は、絵心はこれっぽっちもなかったので、いつも必要枚数だけ郵便局で既製品である暑中見舞い用葉書きを購入し、一言添えて送っていた。今年はその一言に、「とうとう十和子からしか暑中見舞いが届かなくなってしまいました。よかったら来年はメールにしませんか。アドレスは、xxxxx」とメールアドレスを書いた。
メールアドレスを交換してまで暑中見舞いのやり取りを続けたいというわけでもなかったけれど、年賀状同様、習慣になっているやり取りが減っていくのは寂しい気がして、挨拶程度の関係性だとしても、十和子と細く長く繋がっていられたら、と思った。
最後になるかもしれない暑中見舞いの葉書きを出してから四日ほど経った頃だろうか。知らない連絡先から一通のメールが届いた。
「東十和子です。暑中見舞いの葉書き撤廃案、了解です。残念だけど、こちらの方が手軽かもしれないわね」
葉書きと変わらない印象の文面だった。中学校三年生の時に聞いた、ビー玉のような十和子の声をふいに思い出した。
「連絡ありがとう。葉書きのほうがよかった?」
思えば、十和子は手書きのイラストを添えてくるくらいなので、葉書きのやり取りを楽しんでいたのかもしれない、と罪悪感に駆られたが、
「葉書きの方が好きだけど、メールのほうが気軽に連絡できそうだし、いいんじゃないかな。思えば、年に一度の暑中見舞いしかやり取りをしていなかったので、大樹くんが何の仕事をしているかすら知らないわ」
という十和子の返信を見てほっと一息。確かに、お互い何をしているのかすら知らないのに、もう二十年くらいお互いを知っているのだなと不思議な気持ちになる。
十和子も僕も、返信頻度は数日おき程度だったが、お互いの近況報告や、共通の知人についてなどについてメールを送り合った。十和子は今、歯医者をしているらしい。知らなかったが、親が歯科医院の開業医で、十和子はそこを継ぐ予定なのだという。小学生の頃からそれとなく感じていた品性は、医者の娘であったからか、とわかるようでわからない理由で一人納得した。
その年から、十和子とのやり取りは、年に一回の暑中見舞いから、年に数回のメールへと変わった。年始の挨拶、暑中見舞いとお互いの誕生日に挨拶程度に連絡し、そこから何往復か、近況報告的に会話をする、というパターンだった。時折、どちらともなく「恋人ができた」「恋人と別れた」といったライフイベント的な連絡を送り、「あらおめでとう、どんな人?」「それはそれは、ご愁傷さまでした。しばらくは独り身を楽しんで」なんていう他愛のない返事を送り合うことでささやかな癒やしを得ていたような気がする。恋人をよく知る知人や、実際に打ちひしがれている姿を見ている友人よりも、何も知らない十和子に打ち明け、当たり障りのないことを言われる方が、ずっと心に染みた。
十和子も同じだったようで、「最近、ばったりと初恋の君と遭遇してしまった……! いつ振りかのときめきだったよ」なんていう連絡が来たこともあった。初恋、ということは小中学生時代の可能性が高いだろう。僕が知っている人なのかもしれない、と彼女の初恋に勝手にドキドキしてしまうのだった。
「二十九歳の誕生日おめでとう」
と連絡をした七月のことだった。誕生日祝いへの返信だけはいつも当日中にする十和子から返事がなかった。今年は仕事が忙しく、誕生日に休暇を取れなかったのだろうか、など勝手に想像していたら、その翌日、思いがけない連絡があった。
「ありがとう。このやり取りもかれこれ四・五年は経ったかしらね。素敵に歳を取りたいものです」
ここまではいつもの十和子らしい文面だったが、一行空けて、やや興奮気味な言葉が飛び込んできた。
「ところで大樹くん、わたくし、この度誕生日にプロポーズされてしまいました。しかも、相手は誰だと思う? あの、初恋の君なのです! これについて、大樹くんと話したいから、近々電話でもしましょう。十和子」
プロポーズ! しかも、初恋の君と。初恋の人と再会したとは聞いていたが、まさか付き合っていたとは露知らず、僕はかなり驚いたが、同時にじんわり温かい気持ちが広がっていった。
学生時代は皆が気づかなかった十和子の美しさに気づく人が現れ、しかもそれは、昔から十和子が想いを寄せていた(細い銀のフレームと、度数の強いレンズの奥の大きな瞳で密かに目で追っていたであろう)人だなんて。なんだか素敵な映画を観たような気分になり、十和子の興奮が移ったかのように、僕まで高揚してしまった。
「感慨深いぞ。それは。おめでとう。ぜひ色々聞きたい。電話は明日の夕方以降か、来週の二十時以降であれば、都合つくよ」
と返事を送るとすぐに十和子から連絡があった。
「ありがとう、本日二度目のありがとうね。それじゃあ、明日の十六時頃に。と、急ぐあたり、わたしの興奮度合いが伝わるかしらね」
伝わるよ、と僕は思わず声を出して笑った。
「お久しぶり」
十六時きっかりに電話が鳴り、「はい」という間もなく、十和子のビー玉のような声が響いた。友人と昼から飲み、汗だくになって帰宅してすぐに冷蔵庫の麦茶を飲んでいたところだった。真夏の暑さを一瞬忘れさせてくれる品のいい風鈴や、少しだけ気温の低い木陰のように、十和子の声はいつだって涼しげなのだった。澄んでいる、という方が近いかもしれない。
「懐かしい声だな」
と思わず口にすると、
「そうね、電話なんて滅多にしなかったものね」
と十和子は電話の向こうでふふふと笑った。
「そんな珍しい電話で言いたかったことって何さ」
早速本題を、と切り出す。十和子は少し間を置いてこんなことを言い出した。
「ねえ、中学三年生の冬、朝早くに、ばったり会ったの、覚えている?」
僕の記憶に残る最後の十和子。あの朝の空気を思い出して、心がしんとする。十和子の後ろ姿と振り返ったシルエットがぼんやりと思い浮かぶ。着ていた上着やマフラーはどんなだっただろうか。雪は降っていただろうか。長いこと思い返していなかった景色は、想像以上に細かいところが抜けていて、こうやって記憶は薄れていくのだなとセンチメンタルに思った。
「覚えているよ。朝練でもあんな早い時間に学校へ行くことなんてなかったから、十和子がいてかなりびっくりしたよ」
「うん、私も、あんな時期に早く登校してくる人なんていないと思っていたし、びっくりしたわよ。それに」
一息ついて、十和子は言った。
「あの日、実は、初恋の君の下駄箱にラブレターを入れようと思っていたの」
「えっ」
その一言で、ふいにあの日の十和子の表情がよみがえってきた。残念そうにもほっとしているようにも、拗ねているようにも見えたあの表情。
「もしかして、俺、それを邪魔しちゃっていたのかな」
あの日だって、十和子の朝の時間を邪魔したのではないかと薄っすら思っていたような気がする。
「そんなことないよ、って言いたいところだけど、どうなんだろうね。そのことをね、思い出したのよ。プロポーズされたときに、ふと」
電話越しの、見えない十和子の表情がふいに目に浮かんだ。十和子はもう眼鏡をかけていないのだろう。十和子の繊細なイメージはあの眼鏡のフレームの印象もあった気がしてきて、大きな瞳の十和子はどんな風なんだろうと想像する。白い肌に黒い瞳、氷上に転がるビー玉のような澄んだ声。いつかもそんな風に思っていた気がするけど、きっと美人なのだろうな。こんなに長い付き合いなのに、僕が知っているのは少女の頃の姿だけだということが、不思議だった。
少し間があり、十和子は続きの言葉を口にした。
「初恋の君はね、二つ下の学年でね。ほら、三年生と一年生の下駄箱って離れていたじゃない。だから、そこへ行こうかどうか、手紙を置いていくべきかどうか、迷っていたの。それで、大樹くんより先に学校に着いていたのに、追いつかれちゃって。ああ、今日は縁がなかったのだから諦めようって。でも、同時にホッとしていたというか。実は、小学生の頃から好きだった人だから、もし、手紙を渡してしまったら、もう二度と彼は私と目を合わせてくれないんじゃないかとか、色々想像してしまっていて」
小学校から好きで、同じ中学だったということは、僕とも同じ小・中学校だったということだ。しかし、二つ学年が違うとなると、さすがに見当がつかない。十年以上秘められていた「あの日」の話にドキドキしながら耳を傾ける。
「大人になって彼と再会して、恋人になって、そしてプロポーズをされて、思ったの。もしあの日、手紙を渡していたら、きっとこの日は訪れなかっただろうなって。運よく中学三年生のあの冬から、彼と付き合えたとしたってきっと、思春期の揺らぎや、子どもと大人の狭間の葛藤や、社会に揉まれ擦れていく中で、お互いを想い続けていくのは、難しかっただろうなって。そういうことは全部それぞれ、乗り越えてきた後、その瞬間としては一番いい状態で出会えたから、結ばれたんだろうなって。だからね」
天使の羽が耳をかするように、微かに十和子が息を吸う音が、受話器越しに伝わってきた。
「あの冬の日、大樹くんが朝早く来てくれて、私を引き留めてくれて、よかった。そうでなかったらきっと、どう転んでも、再会してから付き合うことなんてなかったと思う」
走馬灯のように、小学生から中学生までの記憶が脳内に浮かんでは消え、流れていった。十和子とは関係のない思い出も含めて、物凄いスピードで大量に。その中で、時折十和子のビー玉みたいな声が響く。
「大人になってからの十和子を俺はあんまり知らないから、初恋の君と再会したときに、どんないい状態だったのか、俺はわからないけど」
と前置きして、僕は言った。
「俺、子どもながらに、小学生の頃から十和子の澄んだ雰囲気を綺麗だなって思っていたよ。きっと彼も、無垢で透き通るみたいな十和子のことも知っていて、そこも含めて十和子のことを好きになったんじゃないかな。……うまく言えないや」
二人が結ばれたのはたまたまじゃなくて運命だよ、と言いたかったけれど、気障な気がして、何より二人の運命を薄っぺらくしてしまいそうで、かといって他にいい言い換えも思いつかず、言葉に詰まってしまった。
見えない十和子は、なんだか嬉しそうな顔をしているように感じた。
「そっか。そうかもしれないわね。そうだといいな」
夏の光を浴びてキラキラに輝くビー玉は勢いよく氷上を滑り、湖にポチャンと音を立てて落ちた。波紋は規則正しく揺れながら広がっていった。
久しぶりの電話から一か月後には、いつもの通り「暑中見舞い申し上げます。去年くらいから気温の上がり方がおかしい気がしていて、相変わらず地球が心配です。」と十和子からメールが届いた。小学三年生の頃から変わらず、八月初旬から半ばに送り合うのが暗黙の了解になっていて、この時期になるとどちらともなくメールを送るのだった。
いつからか、十和子の暑中見舞いには、地球の今後を憂う言葉が添えられるようになった。高校生くらいからだっただろうか。年に一回の葉書きを見て、どうやら彼女は地球の温暖化や気候変動への関心が高いらしいと気づいてからは、僕もなんとなく日常の中で環境への配慮を持つようになった。
「暑中見舞い申し上げます。今年も緑のカーテンをしているけど、凌げないくらいには暑いね。家は暑いし、会社は寒いし、どこにいても居心地の悪い季節になってしまった」
と返事を送る。
二十歳くらいの頃に、「緑のカーテンを始めました」と暑中見舞いに十和子がイラストともに描いたのを見て、一人暮らしの家で緑のカーテンを見様見真似に作ったのが、始まりだった。小学校時代に育てた朝顔の種をとっておいてあることに気づき、プランターと土を買ってきて試しに植えてみたら、想像以上によく育った。ただ、カーテンにできるほどには蔓が成長しなかったので調べてみると、どうやら緑のカーテンは春のうちから育て始め、夏に向けて準備しておく必要があると知った。その翌年には、四月に種を植え、支柱も準備したところ、七月にはしっかりと蔓を伸ばして緑のカーテンが出来上がった。
想像以上の達成感を得たその年、僕は珍しく十和子より早く暑中見舞いを出した。朝顔柄の葉書きは郵便局に見つからず、代わりに向日葵柄の葉書きを選んだ。
「アサガオで緑のカーテンを作ってみました。もともとエアコンの寒さは苦手だし、影があるだけで意外と涼しい気がする。何より、日々水をやったり、土をいじるのが思ったより楽しいです」
今となってはすっかり緑のカーテンの育成も板についた。個人的にも夏の風物詩になっている。窓越しに朝顔を眺めながら、向日葵を買おう、とふと思い立った。ちょうどお盆休みで実家へ帰るつもりだったので、母親が喜ぶだろうと思った。
行き道の花屋は、お盆の時期なので当然だが仏花が大半を占めていたけれど、店の奥にちゃんと向日葵もいた。向日葵なんて一種類くらいだろうと高をくくっていたけれど、花の大きいものから小さいもの、背丈も様々、四種類程度あり、思いがけず迷うことになった。五分ほど悩んだ結果、小ぶりなものを五本、花束にしてもらった。花瓶に飾るならこのくらいがいいだろう、と思った。
恋人へのプレゼント以外で花を買うなんて、学生時代に壮行会などで部活の仲間と一緒に先輩へ花を贈ったぶりかもしれない。真夏の日差しで花がしおれてしまわないか気になったが、向日葵は太陽の光をサンサンと浴びて心地よさそうにも見えた。
思い付きの小さなサプライズを実行しているということがなんとなく誇らしくて、気分良く歩いていた。鼻歌でも歌いそうになったとき、向こうから歩いてくる人に目が留まった。
片手で日傘を差し、もう片方の手で、先ほど僕が選ばなかった背が高くて大きな向日葵を一輪持った女性だった。両手に花、ならぬ、片手に日傘、片手に向日葵。両手とも肘を曲げ、脇を締めているので、どう見ても不格好なのだが、その女性は堂々とこちらへ向かってくる。花屋で向日葵を見つけて、どうしても買いたくなってしまったのだろうか、と想像した。ほんの数分前、僕はあの大きな向日葵を買うことに躊躇してしまっていたこともあり、大きな一輪を手にしている彼女を少し羨ましく思った。
大きな向日葵を手にした彼女と、小さな向日葵の花束を手にした僕がすれ違う。傍から見たらちょっとした映画のシーンのように見えるのではないか、なんて戯言を思い付きながら彼女と一瞬、同じ接線に立った時、風鈴の音が聞こえた。いや、風鈴ではなかったかもしれない。涼し気で透き通った、馴染みのある音が聞こえた気がして、思わず振り返る。
日傘から見え隠れしている大きな向日葵と、ワンピースから見える白くて華奢な足首。
何の確証もないけれど、僕は五メートル先のその人へ届くような声で言った。
「十和子?」
僕の声に振り返った彼女は、大きな瞳をさらに丸くした。そして、目一杯に光を含んだビー玉が氷上を滑るかの如く静かに、でもよく通る声で僕の名前を呼んだ。ビー玉は僕の中にストンと転がり込み、収まった。十和子と僕の間にある空気を伝わってやってきたそれは僕の中で響き、じわりと広がった。電話とはやはり、違う。相手と空間を共にしているだけでこんなに響き方が変わるのだ、と僕は一人感動した。
「こんな偶然ってあるのね」
と十和子が言い、
「よく考えたら、同じ地元だし、あり得た話だったよな」
と言いながら僕は、十和子が実家の歯医者を継いだのだということを思い出していた。そりゃあ、このあたりに住んでいるよな、と。
「そうねえ。でも私、知り合いとばったり会うことってあんまりなかったなあ。それこそ、初恋の君以来、よ」
十和子は大きな目を細めてクスクスと笑い、続けて言った。
「それから、大樹とばったり会うのは、あの日ぶりね」
あの日。十和子の運命の日とも言えるかもしれないあの冬の日、僕は彼女の人生に登場してしまったのかもしれないな、と思った。
「実際に会うのもあの日ぶりだね」
学生時代の面影を残しつつも、すっかり大人になった彼女をまじまじと眺める。相変わらず美人ではあるが、あの頃感じた奥ゆかしい雰囲気はすっかりなく、さっぱりと洗練された印象だ。
「何年も会っていないのに、ずっと葉書きやメールや電話で繋がっていて、こうして地元でばったり出会えたりするんだから、不思議よね。ある意味、運命の人なのかしら」
「こういうのを腐れ縁っていうのかな」
「ああ、そうね、腐れ縁ってやつか。ふふふ」
十和子は喜びを隠せないといった感じで終始笑っている。
「今後の人生でも、どうぞよろしく」
冗談っぽく僕が言いながら握手を求めると、彼女は向日葵を日傘と同じ手で持ち直し、空いた方の手で僕の手を握った。
「こちらこそ。これからの人生にも、ぜひ登場してくれると嬉しいわ」
やはり、僕は彼女の人生の一登場人物になれているのだな、と嬉しくなり、思わず笑顔がこぼれた。
こうして僕たちは、改めて友人となった。
【おわり】