【佳作】プラムレッドの行方(著:豆倉炎々)

話しかけてくるタイプの店が嫌いだ。
並べられた化粧品たちに指先ひとつでも触れようものなら、彼女らは近づいてくる。斜め後ろから響く、コツコツというヒール音。その数だけ、背中の汗腺が一つ一つ開いていく気がした。
「よろしければ、お試しもできますので」
にこやかに言う女性店員とは目を合わさないまま、「はい」と「はあ」の中間ぐらいの曖昧な声を返した。顔は見たくないが、あからさまにそっぽを向くのも感じが悪いという微妙な葛藤で、私の目はふよふよと泳ぐ。胸上につけられたチョコレートのような色のバッジには『M・Y』という文字が刻まれていた。カスタマーハラスメントだのプライバシーだのにうるさい時代なので、こうして店員の名札がイニシャル表示になっているところも増えている。私のイニシャルは宮本優菜の『Y・M』でちょうどこの人の逆だな、と思った。きっと生き方も真逆なのだろう。
「カワイイですよね~。今シーズンの人気商品でして、再入荷したばかりなんですよ」
ほら、こういう風に。
会釈だけして、手に取りかけたチークを棚へ戻す。店員の視線は接着剤のように私の後頭部にへばりつき、それを引き剥がすようにして慌てて店を出た。そのまま、逃げるようにしてショッピングモールの中を闊歩する。五秒ぐらいしか手に取れなかったあのパウダーのことを、私はそれほど欲しがっているわけではない。ただ、一週間前に見た動画に映っていたことを思い出して、ラメの輝きを見たかっただけだ。
別に彼女が悪いなんて思っていない。用意されたマニュアルに従っているだけだ、と頭ではわかっている。けれどそれは苦手意識を和らげる材料にはならない。あの朗らかな笑顔の『M・Y』の目に、私はどう映ったのだろう。ロクに化粧もできていない変な客と思われただろうか。心臓が早鐘を打ち、先ほど背中にかいた汗は少しもひいていく気配がない。気がつけば足は勝手に駅の方向へと向かい、電車に乗っていた。リンリアンちゃんが先週紹介していたファンデーションも見たかったのに、結局いつもこうだ。
ワンルームの部屋にたどり着き、ソファ代わりに使っているビーズクッションへ腰を下ろす。会社の帰り道、乗換駅にあるショッピングモールに少し寄っただけだというのに酷く疲れた気分だった。テーブルに置きっぱなしにしてあるタブレットを手に取り、動画サイトを開く。リンリアンちゃんの動画はいつも十九時に更新されるので、あと二十分ほど時間がある。適当な動画を流して時間をつぶし、買い置きのジャスミン茶を飲んだ。
リンリアンちゃんというのは私が最近熱心に追いかけている美容系インフルエンサーで、SNSや動画投稿で活躍している。チャンネル登録者は六十二万人。SNSのフォロワーはもっとたくさん。二十六歳の日本人というプロフィールが正しければ私と同い年のはずなのに、肌の質感が私なんかとは全く違う。ココアのような色の髪はいつもつやつやで、笑うと逆さのカマボコのような形になる口がとても可愛い。
彼女を知ったのは、私が動画サイトで『垢抜ける方法』などと検索したときのことだった。上から三番目に出てきた、アイシャドウを持って笑顔を浮かべる彼女のサムネイルに、思わず画面を指先でつついていた。よくある感じの動画で、さして驚くような内容もなく、編集も大して上手いわけでもなかった。でも私は彼女に夢中になってしまった。
ショート動画をぼーっと見ていて、気がつけば十九時を三分ほど過ぎていた。私はスイスイと指先を泳がせ、リンリアンちゃんのもとへ向かう。サムネイルが表示され、画面に向けて微笑みかけるリンリアンちゃんがすぐ目の前へと現れる。今日のタイトルは『【最強】サンクシナリの褒められリップがヤバすぎ!全色比較レビュー【ベスコス候補】』だった。
再生すると、綺麗なリップを持った綺麗なリンリアンちゃんが喋り出す。
「皆さんこんばんは、リンリアンちゃんです! 今日は明日新発売のサンクシナリの新作リップを送って頂きましたのでレビューしていきたいと思います。サンクシナリさんありがとうございます! まず見てくださいこのパッケージ、この見た目からして超かわいくないですか?」
リンリアンちゃんがうっとりとした目で、手の中のリップを見つめる。深緑色のパッケージはキラキラと上品に輝き、その内側の赤色との対比を鮮やかに映し出す。私の目はそれに釘付けになり、小さなスマートフォンの画面にさらに顔を近づけた。
――あ、可愛い。
本当に素直にそう思った。サンクシナリといえば、リンリアンちゃんも何度かレビューしてるから知っている。デパートに入っている歴史ある海外ブランドで、二十代から三十代を中心に人気を集めているらしい。リンリアンちゃんは毎日たくさんの化粧品を紹介してくれるけれど、何の引っかかりもなく可愛いと思えるリップは随分と久しぶりだった。
「はい、手首につけてみました! 色はこんな感じで、全部で八色展開です。どの色も凄くカワイイですよね。ちょっと透け感があってオシャレ!」
細くしなやかな手首の内側に、リップが一塗りずつ綺麗につけられている。赤とピンクとオレンジとブラウン、それぞれの中間色。白いキャンバスに描かれた、暖色だけで作られた虹みたいだ。
「では早速塗っていきたいと思います! うわ凄い、スルスルっと塗れちゃいますね。とっても滑らかです。どちらかというとマットというよりはツヤっぽいですね~。仕上がりはこんな感じで、縦皺も目立たないし唇をぷっくりと見せてくれますよ。しかもマスクをしても落ちにくいんです!」
リンリアンちゃんが色々な角度で笑ってみせる。画面の中の彼女の唇は、寸分の隙もなく完璧な色と形をしている。私自身の唇とはまるで違う、手の届かない理想の表象のようだった。こちらに近づくと、リングライトというのだろうか、瞳の中にドーナツ型の光が入る。カラーコンタクトも入っていないのに薄い色をした虹彩。
「では順番に、全色見せていきたいと思いま~す! ではどうぞ!」
小洒落たBGMがかかり、リンリアンちゃんが次から次へと唇の色を変えていく。カット編集されてフィルターもつけられたそれは、ちょっとしたファッションショーみたいだ。
ダークオレンジも良いけど、さっきのサーモンピンクも良かったな。でも最後のプラムレッドが一番素敵。
「はい、どうだったでしょうか~。どの色もすっごく素敵なんですけど、特に最後のプラムレッドが一番お気に入りです。今年の秋冬はヘビロテ間違いなしですね!」
ほら、やっぱりプラムレッドだ。
自分が可愛いと思った色とリンリアンちゃんが気に入った色が一致したことに、なんだか誇らしい気持ちになる。
「実はこれを昨日つけてお出かけしてたんですけど、会う人会う人から褒められちゃいました! 本当にお気に入りなので、皆さんも是非チェックしてみてください! こちらは十一月二十日からの発売で、価格は税込で五千五百円です。それじゃあまた、次の動画でお会いしましょう。またね〜!」
リンリアンちゃんが手を振る。動画が終わり次の動画のオススメがずらりと並んだ瞬間、私はコメント欄を開いた。
『今日も凄く可愛い! プラムレッド、一番似合ってると思ってたのでリンリアンちゃんと一緒で嬉しいな~』
当たり障りのないことをつらつらと書き込む。こうしておくと、たまにリンリアンちゃんがハートのスタンプをくれる。別に認知してほしいとも思わないが、憧れの人間からハートが送られてくるとなんとなく嬉しい。タブレットを消し、夕飯を作った。疲れていたせいか、冷凍パスタを食べるとそのうち寝落ちしてしまった。
リンリアンちゃんが可愛らしく告げた日付は、私が嫌いな――というよりも、社会人なら大半の人間が嫌うであろう月曜日だった。ダラダラと動画を見て潰した土日を悔やみながら、シャワーを浴び、最低限の化粧を顔に塗りたくる。玄関で私を待つくたびれたベージュのパンプスは、私を憂鬱な場所にしか連れていってくれない。
「おはようございます」
小さな声で挨拶をし、鞄を握りなおしながらデスクへと向かう。パソコンを立ち上げてメールの送受信ボタンを押すと、大量の自動メールが濁流みたいに流れてきて、ちょっとした眩暈を覚える。
これは営業宛て、これはこっちの案件、とシステムへと入力していく。AIだの効率化だのが叫ばれている時代なのだからこんなのさっさと自動化できないものなのかと思うが、予算がなければどうにもならないらしい。けれど目視で選別してはポイポイとフォルダへ入れていく作業は、何とも言えない無力感というか停滞感がある。動物の動画を見ているとたまに流れてくるヒヨコ鑑定士のような人も、こういう気持ちになるのだろうか。いやでも、あれは年収が高いらしいし。
「宮本さん、ちょっと」
「はい」
後ろから上長の声がかかり、椅子を回転させて振り向く。
「一昨日のメールあった件ってどうなってるんだっけ」
「営業二課の山之内さんに連携済みです。そちらで巻き取って頂いてます」
「ああそうだっけ。じゃあそっちに聞いてみるか」
山之内さーん、と上長が叫ぶと、二つ先のデスクの島から、はぁいと山之内さんの返事が聞こえた。私の喉からは決して出ない種類の、芯のある明るい声。コツコツとヒールがリノリウムの床を叩く音が近づいてくる。
「何かありました?」
「ちょっとここ修正したくて、システムで差し戻し処理しても良い?」
「駄目ですよ。それやるとお客様の方にメールが飛ぶんで」
山之内さんはきっぱりと言い切る。
「もし修正するのであれば、一旦取り消して入力し直してくださいね」
「コピペで作っていいの?」
「……やり方わかってなさそうですね。ねぇ宮本さん、今って時間に余裕ある?」
「え? あ、はい」
急に振られ、思わず間抜けに見上げてしまった。頼んでいい? と手を合わせられ、一も二もなく頷く。入力しなおすだけなら五分もかからないので、後ろに上長と山之内さんを携えたままパソコンの画面を切り替えた。ごめーん、という風船よりも軽い上長の謝罪が後頭部に当たってぽよんと跳ねるような気がした。
「この件、色々な部署巻き込む割には規模が小さいから、あんまり受けたくないんだけどねぇ」
「お気持ちはわかりますけど、上手くいけば後から跳ねる案件だと思うんですよ」
私の後ろで、二人が会話を交わす。
「この間先方ともお会いしましたけど、今後力を入れていく分野だとお話しされていましたし。あそこのグループ規模を考えればゆくゆくは金のなる木になっていきますよ」
「まぁ山之内さんがそう言うなら……」
私にはさっぱりわからない話題を聞いているうちに、入力は終わった。これでいいですか、と聞くと上長は満足そうにデスクへ戻っていく。山之内さんは苦笑し、小さな声で言った。
「まったく、自社システムのことぐらいちゃんと理解しててほしいよね。宮本さん、ありがと」
横を向くと、頬骨に沿って鋭角に入れられた濃いオレンジのチークがよく見えた。自分のデスクへ戻っていく山之内さんの後ろ姿は、天井から吊られているかのように真っすぐだ。
いいなぁ。正社員で、営業で、顔も声も綺麗で。二十八歳だっけ。私と二歳しか変わらないのに、手に持っているカードの量が桁違いだ。こちとら派遣社員の事務で、顔も声も全く冴えない人生だというのに。
ログイン画面の右上には、宮本優菜という私の名前ではなく『派遣社員06』と表示されている。これが私の価値なんだろうな、と思うと、どうにもならない嫉妬が滲む。山之内さんは正社員だから、右上にはきちんとフルネームが載るのだろう。山之内真紀さんだったか。
「あ、」
『M・Y』だ、とどうでも良いことに気がつく。羨望が心の表面をちりちりと焼き、キーを打つ指先に力が入らなくなるのを感じた。
その日、帰宅する電車のルートを変えてターミナル駅へ寄った。
駅直結のデパートへ入り、フロアマップからサンクシナリの文字を探す。きちんと化粧直しもしてきたから大丈夫、と自分に言い聞かせ、独特の匂いが漂うそのフロアへと足を踏み入れた。白く強烈な照明に照らされながら、足早にそこを目指す。
その一角には、客が一人と店員が二人いた。今日から発売のリップは、店頭の一番目立つ場所に気取った顔で置かれている。
足を止めてそれを見つめた瞬間、一人の店員――ここでは美容部員と言うべきなのだろうか。彼女は信じられないほどの速度で笑顔を向けてくる。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
「あ、あの」
苦手意識をぐっと堪え、目の前のリップへ指を向けた。
「これのプラムレッドって、まだありますか」
「はい、ございますよ」
「それください」
小学生のおつかいみたいなぎこちない会話をすると、美容部員はにっこりと笑って「在庫お持ちしますね」と言ってくれた。持ち帰るだけのものを、宝物のように洒落た袋で包んでくれる。萎んでいた気力が一気に膨らむのがわかった。恭しく頭を下げられながら店を去った時には、私の頬は赤くなっていたと思う。
家へ帰って、早速鏡の前に座る。クレンジングシートで唇を拭いてから、改めて新品のリップを塗った。プラムレッドが、私の唇に乗ってぬらっと光る。唇同士をんまんまとすり合わせ、鏡に向かって微笑んでみた。
……似合っているような気がする。多分。
漫画やアニメのようにシャラーンと劇的な変化があるわけもなく、いつもよりちょっと唇の色が深いだけの私がそこにいた。リンリアンちゃんに似合うリップの色はすぐにわかるのに、私は私にこれが似合っているのかどうかすらわからない。けれどやっぱり、素敵なリップだ。
「真面目で大人しい良い子」と言われて育ったタイプの人生だった。顔も性格も地味であることを自覚し、自分なりに身の程を弁えて生きてきたつもりだ。そのまま地味に堅実に生きていくつもりだったのに、就活でとことん躓いた。店員と話すことすら苦手な女が、あんな場でにこやかに振る舞えるわけもない。それでも働くしかなかったので、就活を諦めてからは渋々派遣会社に登録した。そして『企業マッチングコーディネーター』とやらに、地味な女にお似合いの地味なシステム会社を紹介されてあの場所にいる。
世の中にはもっと不幸な人間など山ほどいるのだから、今の『派遣社員06』だって飢えないだけマシだ。そう思い込もうとしてみるのだが、やはり自分なりに一生懸命生きてきた結果がここかと思うと萎える。
次の日から会社にもプラムレッドを塗っていったが、当たり前のように誰からも何も言われなかった。そもそも私の唇が何色だろうと、みんなさして興味を持たないだろう。青紫色じゃなければ良いだけだ。昼ごはんのおにぎりに持っていかれた赤色を、鏡の前でキュッと引きなおす。少しだけ元気が出るような、そうでもないような。でも鏡に映る私は半年前よりはずっとマシであるはずだ。
リンリアンちゃんを見つけた半年前、私は躍起になって綺麗になろうとしていた。駅ビルのショーウィンドウに映った自分の煤けた深海魚のような姿に唖然とした――というありきたりな理由だった。だから『垢抜ける方法』なんていう言葉を毎日のように検索し、そこでリンリアンちゃんに出会った。雑誌のモデルも、テレビに出ているアイドルも、綺麗だなとは思えどそこまでのめり込むこともなかったのに、どうしてリンリアンちゃんの動画ばかり見てしまうのか自分でもわからない。リンリアンちゃんになれないことはわかっているはずなのに、少しでも近づきたいと思う。羨ましい気持ちと、それ以上の愛おしさ。
ぐだぐだと考えながら化粧品をポーチの中にしまっていると、山之内さんとすれ違った。お疲れ様ですと小さな声で言うと、同じ言葉が一・五倍ぐらいの声量で戻ってくる。ちらりと見えた山之内さんのポーチは、ルルアマンドという高級ブランドのものだった。
「あ、宮本さん」
「はい?」
「宮本さんに連携してもらった案件だけどさ、受注決まったよ。ありがとね」
「そうですか……良かったです」
そう言いながら、私は良かったとは一つも思っていない。連携したのは私の手柄でもなんでもなく、機械に振り分けられたメールが私の担当フォルダに来ていたというだけだ。私はそれを読み、コピーとペーストを繰り返して社内システムに放り込み、それが山之内さんのものになっただけ。会釈をして化粧室を出て、せかせかと廊下を歩く。
別に嫌味を言われたわけではない。頭ではわかっていても、この惨めさはどうしたらいいのだろうか。見下されたような気分になるのは、私が卑屈なだけなのに。
下唇を嚙む。つけたばかりの口紅のことを思い出し、慌てて歯を解放した。
悶々とした気分で帰宅し、コンビニで買ってきたサラダを食べながら十九時を待った。
その日のリンリアンちゃんの動画は『最近の毎日メイク紹介』で、最後の仕上げとしてリンリアンちゃんが選んだのは、サンクシナリの約二倍の値段がするルルアマンドのルージュだった。色はローズピンク。
「これはまだ動画で紹介してなかったかなぁ。今度動画撮りますね。これ塗ると顔が決まる気がするんですよね~。色味が絶妙で、しかも落ちづらくて最強なんです」
リンリアンちゃんはとびきりの笑顔で言う。
「なんで?」
と思わず口に出ていた。
サンクシナリのプラムレッドはどうなったの。今年の秋冬はヘビロテ間違いなしですねって言ってなかったっけ。たまには違うのを使いたかっただけ? タイミングが合わなかっただけ? いやでもこれは『最近の毎日メイク紹介』だ。
脳みそがぐちゃぐちゃになる。美容系インフルエンサーが毎月たくさんコスメを買っていて、そのほとんどを使っていないことなんてわかりきっている。リンリアンちゃんはほぼ毎日のように動画を更新するし、コスメへの悪口は決して言わない。リンリアンちゃんは紹介するコスメをどれも「カワイイ」と言う。とっくに聞き慣れたし、そのすべてを愛用していないことも知っている。でもリンリアンちゃんが「本当にお気に入り」と語って、私もそれを素敵だと思えた。それが嬉しかった。リンリアンちゃんと同じものを愛せると思ったから買いに行ったのに。
画面の中の彼女は今日も美しく「これめっちゃカワイイんですよ」と語る。彼女の周りはきっとカワイイで満ち溢れているのだろう。それは嘘じゃないと思いたい。でも、私が可愛いと思ったサンクシナリのプラムレッドよりも、リンリアンちゃんはルルアマンドのローズピンクを選んだ。胸のあたりのざわめきが治まらず、動画を消して布団へ潜り込む。
いい歳して、何をこんなくだらないことで凹んでいるのだろう。私が選ばれないことなんて、いつものことなのに。
翌日から、プラムレッドのリップを手に取ることができなくなってしまった。サンクシナリのロゴが入った深緑色のパッケージは、今はポーチの奥底へ入れてある。一度落ち込んだ気持ちをもとに戻すというのは難しいもので、二週間ぐらいはずっと悶々としたままだった。あれだけ毎日楽しみにしていたリンリアンちゃんの動画を、今は少しこわごわとしながら見ている。クリスマスコフレを手に微笑むリンリアンちゃんはやっぱり可愛いが、唇の色はあのプラムレッドではない。会社から帰る電車の中、今まではリンリアンちゃんの過去動画を見たりしていたのだが、そんな気になれずSNSを開いた。世界中と繋がれるそのツールを覗き込んでみれば、今日も悲喜こもごもの言葉が転がっている。
「サンクシナリのリップ、個人的には微妙。発色良すぎて使いづらい」
「クリスマスコフレ予約戦争すぎて無理~疲れちゃうよ」
「最近のリンリアン、案件多すぎ。初期の頃の方が全然よかった」
「てか加工強すぎて見づらい」
皆思い思いを吐き散らし、今日も今日とて地獄の様相である。服やファッションの話題から、整形、ダイエット、ルッキズム、エトセトラエトセトラ。フォローしているのは美容系インフルエンサーばかりのはずなのに、なぜかオススメ欄には悪口ばかりが流れてくる。それらを疲れた頭で眺めていると、画面に流れる不満や批判の言葉が、自分の内側にある同じ種類の感情と静かに共鳴する。他人の言葉に、自分の心が容易く引きずられていくのを感じた。
「サンクシナリのリップ、オススメされてたから買ったのに結局使ってるのはお高いルルアマンドのリップっていうね。さすがに視聴者への配慮が足りなくない?」
そんな言葉が私の中に生まれて、思わずそのまま打ち込んでいた。リンリアンちゃんの名前は出さなくても、きっとわかる人にはわかる。フォロワーは十数人しかいないのに、すかさず二つのハートが飛んできた。やっぱりみんなそう思ってるよね、と少しだけ溜飲が下がる。けれど家に帰って夕飯を食べると我に返り、投稿を消した。そもそも私なんてたくさんの視聴者のうちの一人でしかなくて、リンリアンちゃんが配慮する必要なんてないし、全員に配慮することなんて無理なのはわかっているのに。
でも、私は悲しい。リンリアンちゃんと同じものを愛せなかった自分が、悲しくてやりきれない。
結局数週間落ち込んで、その後は特にきっかけもないけれど勝手に回復していった。たまにインターネットで流行っている語気の強い「私は私、口出ししないで!」的な曲なんかを聞いて、励まされた気分になる。翌日はちょこっと勇気を持ってみたりして、けれど数日もすればすっかり忘れてまた元の自分に戻る。そんなもんだよね、と思いつつ、そんなもんで良いんだろうか、と思ってみたりもする。ドラマみたいに劇的に私を救うものなど何もないのだから、一人でコンビニスイーツを食べたり猫の動画を見たりして、自分の面倒を見るしかなかった。朝九時になれば出社し、十八時になれば退社。スキルもへったくれもない仕事を毎日こなし、クリスマスムード漂う街を冷めた目で見つめながら、内心羨んでいる。そういう日々の繰り返しでしか、私は生きていけないのだ。
お昼休憩の終わり頃に職場のトイレに入ると、山之内さんがいた。会釈だけしてみるが、山之内さんは「こんにちは」と挨拶をしてくれた。
パウダーとリップだけを付けなおそうと思い鏡の前で何の気なしにポーチを開けるが、チャックを開けると小さな埃のようなものが舞った。そして中が粉まみれになっている。
「げ……」
嘘でしょ。思わず声が漏れると、横にいた山之内さんが反応した。
「あちゃー、やっちゃった?」
「……みたいです」
「私ウェットティッシュ持ってるよ、使う?」
「……すみません、ありがとうございます」
パウダーの蓋が緩んでいたらしく、中に入っている小物すべてに、小麦粉のように粉がまぶされていた。山之内さんが袋ごと渡してくれたウェットティッシュで一つ一つを拭いながら、ポーチの外へ出していく。奥底で冬眠していたプラムレッドのリップを拭いていると、それはトイレの蛍光灯を反射して深緑色に輝いた。
「それ、サンクシナリの新作リップ?」
山之内さんが言い、私は目を瞠る。見せて見せて、と言われるがままに拭いたばかりのそれを差し出した。
「パケがオシャレだよね。これは何色?」
「プラムレッドです」
「あーいいね、秋冬って感じ。プラムって響きがかわいいよね。実際のプラムは食べたことないんだけどさ」
特に蓋を開けたり繰り出したりすることもなく、ただそのパッケージをニコニコと見つめるだけで山之内さんはそれを返してくれた。私はウェットティッシュで軽くポーチの内側を拭い、もとの場所へと詰めていく。
「私も買おうかなーって悩んでてさ、でもお金ないから我慢中」
「え、でも山之内さんって……」
稼いでますよね、というのはさすがに失礼な気がして口を噤んだが、山之内さんは何が言いたいかわかったらしい。苦笑しながら化粧ポーチを開き、カラッとした口調で言った。
「うち、妹が絶賛病気中でさー。だからあんまり悠々自適生活って感じでもないんだよね。あ、このルルアマンドポーチは貰い物」
「えっ……」
何と言っていいかわからない私に、山之内さんはポーチの中からピンク色のリップを取り出す。玩具みたいなパッケージは、先端部分に亀裂が入っていた。そのまま山之内さんはその蓋を取って、唇に線をひいていく。
「見てよ私の。めっちゃジェネリック品。サンクシナリに似てるってこないだバズってた韓国コスメのプチプラ品でさ、まぁ悪くはないんだけど、そんなに似てるかって感じ。一週間も使ってないってのにもう蓋の部分が割れてんの」
プチプラって感じでしょ、と山之内さんは笑う。
「でもいいなー。現物が一番可愛いわ。ボーナス入るまで待ちきれないよ」
ピンクの唇は、よく見るとチープなラメがまばらにひっついていた。けど、山之内さんの顔は暖色に彩られて明るく輝いている。私は知らなかった。明るい色に囲まれた山之内さんのリップの蓋が、ひび割れていることを。自分よりはるかに恵まれているはずだと決めつけ、身勝手に妬んでいたことが急激に恥ずかしくなる。誰だって事情を抱えている、だなんて頭ではわかっていたはずなのに。
「プラムレッド似合うの羨ましいなー。ピンクもいいけど、赤が似合うのって良いよね。そういう色、私がつけたらめっちゃバブリーになるからさ」
悪戯っぽく言われたその言葉は、私のかさついた唇にじんじんと熱をもたらす。
「……ありがとうございます」
ボソボソと言う私を置いて、彼女は先に戻るねーと去ってしまった。私はまだ心臓がドキドキしていて、リンリアンちゃんとは少しも似ていない山之内さんの唇の色を思い出していた。粉まみれの状態から、山之内さんのウェットティッシュによって救済されたリップを手に取る。それは私の唇の上で深く、鮮やかに発光する。リンリアンちゃんの本当のお気に入りには選ばれなかったプラムレッド。私が選んだ色。鏡の中の自分がぎこちなく笑う。褒められた、というよりも、自分の選んだ色を「良いよね」と言ってもらえたというだけのことが、私の唇を弧の形にさせてくれた。
明日は、この色に似合うチークを探しに行くのも良いかもしれない。『M・Y』のところで手に取ったチークの色を思い出しながら、ポーチの一番取り出しやすい場所へ、私のリップをそっとしまった。
【おわり】