【佳作】オクガミサマ(著:波之間之泡)

あ、俺来週はオクガミ様の日だから駄目だわと佐倉が呟いた。今日バイトだから、のノリだった。聞き慣れない単語にオクガミサマって何、と聞き返すと「家にイルモノ」だと言う。
「イルモノ、って居る? 者?」
司が尋ねると「そう」と佐倉の返事はあくまでも軽かった。
「俺の実家、めちゃくちゃ田舎じゃん? だだっ広い平屋敷でさ。コの字に建っていて中庭に離れがあるんだけど」
そこにいるんだよオクガミ様が、と佐倉は笑った。笑うと切れ長の目の印象が柔らかくなる。
「……それって家の守り神とかそういう感じの話か」
「まあ、そんなもんかな」
「もっと詳しく聞かせてくれ。夕飯奢るから」
「え? なに、水上、そういう話好きだっけ?……あ、専攻がそうだったか。民俗学」
「そうだよ。そういう家の憑き物みたいなの滅茶苦茶興味ある。卒論もそれで行こうと思ってるし。もしかしたらフィールドワークさせてもらうかも」
お前珍しくテンション高いなと佐倉が目を丸くした。
佐倉にとっては卒論は卒業するための手段のひとつにすぎないのだろうが、自分にとっては大学で学んだことの集大成だ。
ゼミで熱心に取り組んだのは「憑き物筋」というテーマだった。しかし「狐憑きと精神疾患」は比較的手垢がついているし、犬神憑きは資料集めが難航していた。座敷わらしも憑き物なのだがこちらは切り口が多すぎて迷いがあった。どうしようかと思っていたところに令和現在で家に憑いた守り神の話が聞けるなんて、興奮しないほうがおかしい。
オクガミ様、おそらく奥神様と書くのだろうが文献では見たことがない名称だ。
「俺今日はサークルに顔出しだけど水上は?」
「俺は図書館に来ただけで講義はないんだ、だからいつでもいい。佐倉に合わせる」
「じゃあ五時に駅前で待ち合わせにしよう。遅れそうなら連絡する」
ひらひらと手を振って佐倉は背を向けた。
学部の違う佐倉智徳と知り合ったのは一年生の新歓コンパの時だ。とにかく人を集めたかったらしいウインタースポーツ同好会というサークルの先輩に引っ張られ、連れて行かれた先にいたのが佐倉だった。高校生ぽさが抜けない自分と違いあか抜けた外見の佐倉は目立っていた。脱色して無造作に流された長めの髪に、着崩した柄シャツ。スラリとした長身に切れ長の目が特徴的な端正な顔。はじめは同じ新入生だとは思わなかった。
「お、隣よろしく。経営学部の佐倉智徳。何飲む?」
安い居酒屋の座敷席でそんなふうに気軽に声をかけられ、「文学部一年の水上司です」と怯えながら返すと佐倉は吹き出した。
「俺も一年だって。しかも一昨日東京出てきたばっかの田舎もんだから」
「なんだ、てっきり先輩だと思った」
大学デビューしたてだって、と手を振られたがそれにしては服装がこなれているし場馴れしている。しかも軽薄そうでいて物腰には品があった。無難に黒のシャツにジーンズを着て縮こまっている自分とはあきらかに違う生き物だ。
「水上、真面目そうだな。とりあえずウーロン茶にしとく?」
「ああ、まだ未成年だしそうする」
「やっぱ真面目だな」
佐倉が目を細めて言うのにノリが悪いと思われたかと少し落ち込んだ。
「俺はお子様だからオレンジジュース。すいません、こっちウーロン茶とオレンジジュースお願いします」
やたら大きな声で注文すると佐倉は司と目を合わせ笑った。
そのとき連絡先を交換したが司はこの時限りの仲になるだろうなと思っていた。タイプが違いすぎるからだ。だけど予想を裏切り佐倉はまめに連絡を寄こしてきた。なんとなく定期的にご飯を食べに行くことが習慣づき、四年の春学期が始まった今日まで友情は続いている。
「悪い、お待たせ」
五分遅れで駅に現れた佐倉はやっぱり目立っていた。髪の色は一年のときよりも落ち着き、服装もシンプルになったがそれが本来の品の良い顔立ちを引き立てている。去年まではかなりの数の女の子と付き合っていたようだがそれも落ち着いたようだ。
「いつもの定食屋でいいよな」
歩き出しながら確認すると佐倉はオッケー、と軽い返事を返してきた。酒を飲まない司は食べるのがメインだ。佐倉も付き合いでは飲むが特にアルコールが好きということでもないので二人の時はだいたい同じ店に行く。安くて美味い上に、食後のコーヒーが絶品の定食屋。まだ六時前なら空いてるはずだ。
「あー、やっぱ水上とのメシは楽だわ。食べることしか考えなくて済むし」
「女の子と行くときと違って気を使わなくていいってことか」
「そういうこと。オシャレなご飯もいいんだけどさ。やっぱ白飯と塩辛いおかずが腹にたまるじゃん」
ガラガラと引き戸を開けるとこちらを見もせずに店員がいらっしゃいませと声を張り上げた。セルフサービスの水を取って勝手に空いている席に座る。
「塩サバ定食と、……水上はいつもの? 野菜ピビンパ?」
「うん、それがいい」
司は肉類が苦手だった。魚は大丈夫だが、調理されたものはあまり好きじゃない。ゼミでは変な宗教にはいっているのではと噂されたこともあったが純粋に好き嫌いだ。そういうと今度は野菜ばっかり食べているから美肌なのかとからかわれたが。
そういえば佐倉は司の偏食について深く聞いてきたことはないなと思いながら、五分もせずに運ばれてきた料理に手を付けた。しばらく食べることに集中する。
本題にはいったのはコーヒーが運ばれてきてからだった。
「オクガミ様について初めて聞いたのは12歳のときだ」
誕生日祝いのあとに改まって父親に呼ばれたのだという。
「俺の伯父さん、父親の兄に武徳さんていう人がいるんだ。俳優でもやっていけそうなかっこいいひとで子供のころは憧れてた」
会社勤めをしている様子もなく、いつも和服姿でそれが様になっているという。
「俺の父親が本家の跡取りになるんだけどさ、武徳さんはいつも丁重に扱われて、俺の家の一番広い部屋に住んでるんだ」
全てにおいて伯父が一番だったと佐倉は言う。
「武徳さんはオクガミ様付きなんだ」
父親はまずそれを俺に話した。そして伯父のあとにオクガミ様付きの指名を受けているのは俺だと告げられた。オクガミ様付きになった者は地元を離れることはできない。結婚もできない。だから次男である父が跡を継いだのだということ。子供ながらにそれが重い役目だというのが伝わってきた。
佐倉は一気に話すとコーヒーを飲んだ。
「……結婚できない?」
「ああ。オクガミ様に尽くすんだ。還暦まで」
「オクガミ様って、実体があるのか?」
司は乾いた唇を無意識に舐めた。家の守り神として離れに「イルモノ」。それは概念的なものだと思っていた。
「そうだと思う。姿は伯父しか見たことないけど、オクガミ様に呼ばれたとしょっちゅう離れに出入りしてたから」
オクガミ様付きを差し出す限り佐倉の家は繁栄する。そう聞くと座敷童に近いと思う。座敷童も家につき、居る限りは繁栄をもたらす。そのため遊び相手を用意して家につなぎとめるといった話を読んだことがある。ただ結婚まで制限されるような例は聞いたことがなかった。
「離れは童間って呼ばれてる。オクガミ様付きしか入れないことになっていて、俺も入ったことはない」
「ご神体とかがあってそこにお供えものしているわけじゃないのか?」
童間。それは中に「年をとらないもの」がいるということだろうか。
「さあ。中を覗けないからなんとも。……でも俺、子供のころに声は聞いたことある気がする。離れにいる伯父と、もう一人が会話してる声」
その言葉に嘘は感じない。少なくとも佐倉はオクガミ様の実在を信じているのだと思った。
「来週、伯父が還暦になる」
だから実家に帰って役目を継いでそのあとはこっちに戻らない、と佐倉は笑う。
「……え、だって大学は」
「単位は取りきったし卒論も出した。大学側と話はついてる。卒業式くらいは顔出すかもな」
そんな、と言ったきり司は言葉を止めた。佐倉の軽い口調と裏腹に事態は重い。あと一年の大学生活を切り上げ、自由を奪われるなんて。
「こっち出てきたのは最後の自由時間っていうか。まあ三年間遊んだし、帰るのは仕方ない」
「知らなかった」
冷めてしまったコーヒーを飲み干して呟くと言わなかったからなと佐倉が笑った。
初めて会ったときの身なりや物腰からいい家の出身なのだろうと思っていた。金に困っている様子もないし、所作も洗練されていていて羨ましかった。田舎出身だと言っても余裕がある家庭なのだろうと。都内でも23区の外れに住み、奨学金を背負ってアルバイトと単位取得に追われていた自分と比べて恵まれているやつはいいよな、と何度か思ったこともある。だけど司には家のしがらみはない。どちらかと言うと親は自分に無関心で、一人暮らしを始める時もこれで食費が減ると喜んでいた。
「……いい家も大変だな」
オクガミ様の実態が何であれ佐倉家でのしきたりが決まっているのであればそれに逆らうのは困難なのだろう。令和の現代でといいつつも、神社のお参りや厄よけをする人がいなくならないのと同じで信仰というのはそこかしこで生きているのだ。
「水上、一緒に来る?」
気がつくと驚くくらい近くに佐倉の顔があった。
「え」
「興味あるっていってただろ。オクガミ様。流石に儀式そのものは見せられないだろうけど、離れを外から見るのはできるし。用意とかも見ていいよ。古い書き付けも残ってるし卒論の役にたつかも」
「……いいのか」
「無駄に部屋数ある家だし、旅行だと思ってくれば。俺も一人で帰るより楽しいし。もう彼女とも別れたしな」
どうせなら水上の役に立ちたいじゃん? と言われ泣きそうになった。
佐倉の実家は都内から新幹線で2時間、ローカル線を乗り継いでさらに1時間かかる場所にあった。
司も卒業に必要な単位は揃えてあり、あとは卒論を出すのみなので自由が利く。バイトと就職先の説明会の日程を調整した後は1泊分の荷物をまとめるだけだった。
「水上って都内に実家があっても一人暮らしなんだな」
平日の空いた車内に乗り込む。佐倉は駅弁を司の分も買ってくれた。この間の奢りのお礼と言われありがたく受け取る。
「……邪魔者なんだよ。俺。再婚家庭だから。父親と、再婚相手と、その子供がいて」
大学に入ってからは誰にも言っていない家の事情を口にしてしまった。佐倉の家の事情を聞いてしまった後ろめたさがあるのかも知れない。
「俺が家出れば部屋もひとつ空くし、水入らずで暮らせるからな」
弁当に西京焼きが入っていてどうしようかと迷っていると佐倉の箸が伸びてきて摘まみ上げた。代わりに筍の煮物が置かれる。
「ふうん。色々あるよな。……一緒に暮らしてたのって、弟? 妹?」
「姉。っていうのか? 連れ子だから血はつながってない」
「ドラマみたいだな。可愛がられなかったか? 水上、年上受けしそうじゃん」
「夜、部屋に来ようとするから、鍵買ってきてつけた」
吐き捨てるように言うと佐倉が食べる手を止めた。思い出したくない、ガチャガチャとノブの回る音が頭に蘇る。民俗学を学んでいると怪談を読むことも多いが司にとって一番の恐怖はドアを開けようとする女の手だ。
「だからか、お前が女の子と付き合わないの」
そう言って佐倉は黙々と白米を片付け始めた。肯定の意味で頷くとそれ以上詳しくは聞いてこないのに安堵しながら司も弁当を食べるのを再開する。そのまましばらく沈黙が続いた。
「儀式は今日の0時だ。それまでは自由に過ごせる。俺は事前準備があるし、家は儀式が終わるまで無人になるからなにも構えないけど」
新幹線からローカル線に乗り換えるとさらに人が減った。車両に二人しかいない。
「本当に部外者がいていいのか」
今更ながら心配になって聞くと佐倉は笑った。
「心配しなくても俺とオクガミ様しかいないから」
「伯父さんも立ち会わないのか」
「ああ。伯父さんのほうの儀式は昨日終わってる」
駅に着くと無人の改札を抜けた。平日とはいえこんなに人気がないのかと驚く。古びた小さな売店に老女と向かい側のホームにやはり年配の駅員がいるだけだ。
「ここからタクシーな。あ、夕飯買うならここの売店で。俺の家の周りは店ないから」
「あ、うん。佐倉は?」
「俺は今からは何も食べない」
改札の側の売店でパンを買った。確かに見渡す限り畑が広がり、ぽつぽつと民家があるだけだ。子供のころ見たアニメ映画にでてきた田舎の風景そのもの。ここで育ったなら確かに神仏とか妖怪の存在を信じてしまいそうな圧倒的な自然だ。
「夜になると真っ暗になるから、慣れてないと怖いかも」
いつの間にか1台だけ停まっているタクシーに乗り込んだ佐倉が手招きする。その時になぜか思い出した。
『招かれなければ入れない』
それは何の本で読んだ一節だっただろう。ふいに生ぬるい風を感じて身を震わせた。
佐倉家は広大だった。司が卒業した小学校の体育館より大きい。都内の豪邸とは違う歴史を感じさせる漆喰の壁や瓦の屋根が重々しく佇んでいた。普段は人が住んでいて手入れをしているのだろう、荒れたところは全くなかった。石畳を踏んで六畳はありそうな玄関に入る。夕方で灯りがついていないとはいえ、廊下の先が見えない。
「すごい家だな」
「古いだろ。空調は最新だから、寒くて寝られないってことはないだろうけど」
この広さでエアコンを使うと一体いくら電気代がかかるだろうと庶民としては気になるところだ。
「ここが俺の部屋。好きにしてくれ」
奥まった一室に入ると中は普通の学生の部屋だった。シンプルな学習机に本棚。ベッドもある。家具は高級そうだが高校時代の教科書や漫画本が残っていてほっとした。
「これがオクガミ様に関する書き付けだ。あと廊下を出て左にいくとトイレがある。風呂は俺のあとでいいよな?」
頷きながら和綴じの本を受け取った。保存状態はいい。まだ紙の痛みも少ない。
「ポットを持ってくるから、お茶やコーヒーくらいは飲める。俺も支度があるからそれくらいしか構えないけど」
「充分だよ」
すでに目は文字を追い始めた。筆で書かれているしところどころ掠れて読みにくいところもあるけれど、単語は拾える。
「じゃあ、後でな」
部屋を出ていく佐倉のほうを見もせずに司は片手をあげた。
おくがみ様は佐倉家の童間にいる。
佐倉家の本家及び分家から健康な男子を一人、おくがみ様付きとして献上し、おくがみ様からの要望は全て叶えること。その見返りとして佐倉の土地に豊穣をもたらし、当主及び親族には地位と名誉を与える。商いは繁盛し相場はよく當たる。
おくがみ様付きは還暦を迎えるまでとし、次代へと引き継ぐこととする。途中の交代は赦されない。おくがみ様の……は、……代わる事となるが是はお付きのものが……する。……は、女人と通じていないものとする。おくがみ様付きは御役目を外れるまでは婚姻を禁ずる。これはおくがみ様付きがおくがみ様の……であり、おくがみ様付きはただ……すべきである』
比較的近年に書かれたもののようだった。文字の掠れた部分を推察しようと全文をもう一度通しで読む。
『女人と通じていないものとする』はおくがみ様付きの条件ではないだろう。佐倉には彼女がいた。泊まりのデートもしていて何もしないわけがない。ならばもう一人役目を持つものがいるのだろうか。
婚姻を禁ずる。その後の空白はわかる気がした。これはおくがみ様付きがおくがみ様の「伴侶」であるからだ。この儀式は異類婚の一種なのかもしれない。
読み込むうちに夜になっていた。勧められて風呂に入り出る頃はもう23時をとっくに過ぎていた。
「離れを見せてやるよ」
佐倉は家紋の入った着物に着替えていた。髪も整え、いつもよりも年上に見える。墨染めの布地が夜の闇に溶けそうだった。
最低限の照明しかないからと薄暗い中手を引かれ一際大きな和室に入った。佐倉が障子を開けると月の光が射し込む。手入れの行き届いた庭木に囲まれた離れは神社の本殿に似た木造の小屋だった。屋根は黒く塗られ、銀の装飾が施されている。造りは和風なのに何故か外国の棺を思い出した。それは白木の十字が貼り付けてあるからだと思い至る。
「……俺、部屋に戻ってるから」
もう日付が変わる。身内すらここにいないのに部外者の司がいていいわけがない。部屋を出ていこうとすると佐倉に遮られた。
「大丈夫だ。障子を閉めればわからないから、ここにいろよ」
佐倉は笑って中庭に降りた。草鞋を履いて離れに近づいていく。静寂に草鞋が地面を擦る音だけが響いた。
司は慌てて障子を閉める。だけどほんの少しだけ、隙間を残すことに抗えなかった。もし本当にオクガミ様がいるのなら――
見たい。この目で見てみたい。
佐倉が離れの引き戸を開けるのが見えた。月の光が煌々と落ちて童間の中を照らし出した。そこからゆっくりと小柄な身体が入り口に近づいてくるのが見える。
白い着物を着た少年だった。抜けるように白い肌と灰色に艶めいた髪。驚くほどに大きな瞳は銀褐色に輝き、形の良い小さめの鼻と薄い唇。色素や造作は日本人離れしているというのに着物やこの屋敷に馴染んでいる。
「御前が次の代のものか」
高低を感じない声が響いて司は息を呑んだ。
「佐倉本家の次男です。智徳と申します」
小柄な身体の前に佐倉が跪いた。
「良い殿御だ」
白く細い手が佐倉の頬に伸びる。
「武徳に似ている。美しい顔だ」
満足そうに笑う薄い唇から尖った犬歯が覗き司は目を見開いた。あの歯はなんだ。
「形代ももう用意済みだな。武徳と御前は好みが似ている」
可笑しそうに笑うのに、佐倉が顔を傾け母屋の司に目線を向けた。気づかれる。少しだけ障子から覗かせていた顔を完全に引っ込ませた。いや、だけどこれほどの月明かりなら影が。司の影が映っている。気づかれないはずがない。
背中からヒヤリとした空気が入り込んで身体の芯から凍った心地になる。人と人でないものの契約の場に居合わせた人間の末路を過去に読んだ資料のなかから引き出そうとするものの身体が震えて頭も上手く動かなかった。
「出ておいで」
そう声をかけられたのは、佐倉ではない。自分だ。何故か声音だけで分かった。招かれている。行ってはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響いた。生き物としての本能がそう言っていた。手足に力が入らない。それなのに司は障子を開けていた。照明をつけていない部屋の中を月光が照らし出した。
オクガミ様。細い肢体にのった顔がこちらを向く。明らかに人ではなかった。でも生きている。人間の理を外れた狭間に居るものだ。恐怖と同時に感嘆が湧いた。本や資料で読んだ異界の存在を自分のこの目で見ているという高揚感が恐れを薄める。
裸足のままふらふらと中庭に下りた。草は刈られ、地面は均されて居るから足の裏が痛むことはない。佐倉がたどたどしく歩く司の手を取ってオクガミ様の前へと導く。
「良い。良い。清浄だ」
離れの三和土に立ちながらオクガミ様が手を伸ばしてきた。
「入られや」
オクガミ様付きしか入られない、童間に司は招かれた。ああ、自分は招かれている。真冬の川の水のように冷たい瞳に見つめられ目をそらすことができない。両足が離れに入った。立ち入ってはならない、禁足地。否、出てはいけない禁足の場所──。
「とても良い形代だ」
鼻先が触れるほどに顔を近づけられ目を覗き込まれた。その途端自分がしてしまったことを思い知った。何故入ってはいけない場所に招かれたのか。
「女人との交わりの後もない。穢れの少ない身体で直ぐにも入れる」
形代は女人と通じていないものとする。掠れて読めなかった文字が頭の中で埋まった。
「意識は残りますか」
佐倉が口を開いた。その目には少なからず司を慮る色があったがそれを望むのは佐倉のためだろうと頭の片隅で思う。
「智徳が望むのなら残してやろう。どのみちもうここからは出られぬ。意識を残すなら残すでそちらのほうが面白いかもな」
「……佐倉、おまえ初めから」
もう後戻りできないのだということを本能が先に理解していた。震える声で問う司に佐倉はうっそりと笑う。
「そうだよ。……俺はこの先、ここから離れずオクガミ様に仕える。自由に就職もできないし結婚することもできない。代替わりする還暦までずっと。人には長い、長すぎる時間だろ? なんで俺がって思ったよ。俺だけがって」
月が陰った。佐倉の表情が見えなくなった。
「だけどさ、今年はオクガミ様の身体も入れ替えの時期なんだ。俺がオクガミ様付きになることは変えられない。だけども、オクガミ様の器を選ぶことはできる。……オクガミ様相手なら、交わってもいいって伯父さんから聞いていたし」
だからわざと水上の興味を引くように話したんだという声には笑いが混ざっていた。
「沢山の女の子と付き合ったよ? だってオクガミ様付きになったら俺には自由がないから。同時に器になるやつも探してた。これから四十年近く仕えるんだ、少しでも好みのほうがいいと思うだろ?」
熱に浮かされたまま喋り続ける佐倉をオクガミ様が可笑しそうに眺めていた。
「大学もその外でも探したけどさ、俺の一番好みの顔って水上だったんだよね。結構女子にも可愛いって評判だったよ、お前。しかも性格もいいし、肉が嫌いで普段から精進潔斎しているようなもんだろ。オクガミ様の器になるには未経験でなきゃいけないのもぴったりだった。結構前から決めてたんだ、水上にしようって」
最後の一言で頭に血が上った。
「俺の意思はどうなるんだよ」
振り絞るように声を出すと同時に涙が溢れた。騙されたことも悲しかったしここから既に出られなくなってしまったことが悔しい。だけど一番はこれから自分が何になってしまうのか分からないのが恐ろしかった。オクガミ様とはなんなのか。まだ結論はでていない。
「俺が側にいてやるよ。話し相手になるし必要なものは何でも買ってやる。好きなだけ民俗学でもなんでも専念できる。大学は……もう単位取りきったっていってたよな。卒業はできるだろ。手続きも佐倉の家で引き受ける」
ふざけるなと怒鳴りたいのに声が出ない。す、と後ろからオクガミ様の手が肩に乗る。ひやりとしたナニカが纏わりついた。
「院に行きたいのに金がないって諦めたんだよな。ここなら働かずに研究続けられるぞ。読みたい本があればなんでも手配してやる。ああ、奨学金も残ってるんだよな? それも肩代わりされる」
お前にとってもいい話じゃん、と佐倉は笑った。
その切れ長の目が細められるのを見ているうちにどんどんと身体に満ちてくる液体のようなモノ。それは冷たくて、身体が酷く寒い。今自分には体温があるんだろうか。確かめるのが怖かった。
後ろで音がした。踵の側にさっきまでオクガミ様だった身体が転がっていた。
「首を出せ」
司の声だった。発した覚えのない、だけど紛れもない自分の声に佐倉が目を見開く。
「仰せのままに」
そう言って身を屈めた佐倉の首筋が晒される。皮膚の下の血管が脈打つ。その音さえはっきりとわかった。
司は口を開けた。この動脈に、尖った歯を当てれば佐倉(智徳)の血液が溢れてくる。俺はそれを(飲みたい)温かいその液体でこの身体を満たしたい。
「奥嚙様」
智徳が呼ぶのにゆっくりと顔を寄せて歯を立てた。咥内を満たす芳香と味わったことのない極上の甘さで満たされる。智徳はわたし(俺)にこの先ずっと生命のもとを注いでくれる大事な存在だ。願いがあるなら叶えてやる。富も名声でも与えてやれるものは全て。その代わり。
「お前はわたしのものだ」
智徳の髪を撫でながら告げると、恍惚とした表情でこちらを見あげてくる。
その切れ長の目を愛おしいと思うのが自分なのか、自分ではないナニカなのかもう司にはわからなかった。
【おわり】