【入選】グリル並木のオムライス(著:中野 直)

どうやら父には彼女がいるらしい。
十七歳の佐倉遥はうっすらとその存在に気が付いてはいたものの、興味のないふりをして生きてきた。だってやっぱり気持ち悪い。
リビングでテレビを見ている時だった。
「日曜日、ちょっと会ってほしい人がいてな」
父の健介は、一切こちらを見ず、何度も椅子に座り直しながら切り出した。
「グリルなんとかって、ほら、遥が行きたがってた店」
「グリル並木でしょ」
「そう、そこそこ」
「誰に会うの?」
正直、ついに来たかと言う気持ちの遥だったが、店に釣られてホイホイ行きますというのも癪だった。
「誰っていうか……」
いつもは格好つけたがる父の上ずる声に腹が立った。狼狽える姿なんて見たくない。
「わかんない。行けたら行く」
冷たい声を出し、遥は自室の扉を閉めた。
翌日の学校の昼休み。親友の菜々子と麻衣に昨日の事を話した。何でも話せる二人には、父には彼女がいると、前々から伝えている。
「行きたい行きたい!」
「なんで菜々子が行くのよ」
冷静な麻衣が菜々子を諭す。
「だって遥のお母さんになるかもしれない人じゃん。見たい見たい!」
騒ぐことの大好きな菜々子は興奮している。
「再婚するの?」
「いや、わかんない。ただ会ってほしい人がいるって言われただけ。女の人とも言われてないしさ」
菓子パンを頬張りながら遥は答える。
「友達のおっさん連れてくるわけないじゃん。遥に会わせるってことは結婚相手でしょ」
菜々子と麻衣は弁当を食べるのも忘れて、話に夢中になっている。
「でもさ、遥のパパってかっこいいじゃん。絶対キレイなお姉さんだと思う」
菜々子が確信を持って力強く頷く。
「お姉さんて。うちのお父さん五十二だよ」
「いや、ありえるよ。遥のお父さん、仕事でモデルと会うこともあるって言ってたじゃん」
麻衣も目を輝かせている。
父はアパレルブランドの本社で働いている。遥も何度か撮影を見学させてもらったことがあり、そこそこ有名なモデルと対等に話をしている父のことを、自慢げに二人にも話した。
「いや、ないって」
と言いつつも、遥は少しニヤけてしまった。
帰り道の話題もずっとそのことだった。二人は三十代の有名女優の名前を片っ端から挙げ、遥の未来のお母さんを想像していた。
「いいないいなー。うちのママなんてただのおばちゃんだもん」
「うちも! 私の中学のジャージとか着て、スーパーとか行ってるもん。いいなー遥」
菜々子と麻衣にひたすら羨ましいと言われ、遥もまんざらでもない気分になってきていた。
「でもさー、綺麗でも何でも知らない人がお母さんになるって無理かも」
「お母さんって思わなくてよくない?」
麻衣が淡々と言う。
「お父さんにとっては奥さんかもしれないけど、遥にとってはただの綺麗な年上のお姉さんって感じでよくない?」
なんかそれいい。遥も乗ってきた。
「カフェ行ったり、メイク教えてもらったり、そういうの出来たらいいけど……」
いいじゃんいいじゃんと二人が盛り上がる。遥はキラキラした日常を想像し、浮き足立った。やっぱり二人に話してよかった。
「じゃまた明日ねー」
家電のマルタの看板の前で手を振り合う。ここが三人の分かれ道だった。看板には大きく「信頼と実績」と書かれている。
グリル並木は昔ながらの洋食レストランだ。強気な値段設定の為、この辺に住む人々には特別な日に行く店とされている。何かの記念日なのだろう、着飾る家族をウエイターがポラロイドのカメラで撮影している。
「もうすぐ着くって」
父はスマホと店の入口を交互に何度も見ながらそわそわしている。
すごく小さい頃、このレストランで同じようなことがあった。遥の七歳の誕生日。父の隣に座ったその女の人は、とても優しそうで明るくて、綺麗な人だった。父が今まで見たことがないほど楽しそうにしていたので、遥もなんだか嬉しくてずっと笑っていた。
「遥、この人がお母さんになったら嬉しい?」
父は冗談っぽく遥の顔を覗き込む。父も隣の女の人も期待に溢れた顔をこちらに向けている。小さい遥は何も言えなくて、ニコニコしたまま黙り込んだ。
「じゃさ、もしお母さんになってほしかったらオムライス。嫌だったらハンバーグ」
お子様メニューを遥の前に広げ、さぁどっち? と促された。
遥はハンバーグを指差した。
オムライスを選んだら、父が遠くへ行ってしまう気がして怖くなったから。目の前の父と、隣の優しそうな女の人は困ったような顔をして、遥を見ていた。
「お待たせしちゃって!」
店内に突然の大声が響き渡った。いつもより良い服を着た客達が、入口を振り返る。
エコバッグと手提げ袋をいくつも手に持った小太りのおばさんが、キョロキョロと店内を見渡している。
「こっちこっち」
笑顔の父が手招きをしている。
遥は固まった。生まれて初めての思考停止。
小太りのおばさんは、どうもどうもと息を切らして席に着く。
「買い物してたら遅くなっちゃって。あ、これ、遥ちゃんに似合うかな。そこのね、洋服とお惣菜売ってるお店で見つけてね」
洋服とお惣菜? 小太りのおばさんは、エコバッグから取り出した煮物のパックや干し芋やブラウスをテーブルに並べる。ガサガサとすごい音を立てる後ろで、蝶ネクタイのウエイターが水を持ったまま立ち尽くしている。
「こちらはみどりさん」
父が恥ずかしそうに頭をかく。
「お父さんとお付き合いしている方です」
遥が驚くより先に、蝶ネクタイのウエイターが、え! という顔をした。
「やばいやばい、何それ」
菜々子と麻衣が腹を抱えて笑っている。
放課後、昨日の悪夢を二人に話した。
「ザ・お母さんって感じじゃん」
あーそんな感じと遥も頷く。
「エプロン見えたもん」
「してないのに?」
「してないのに」
二人はまた笑う。
「ハニーズのTシャツの袖んとこ、わざと折ってたら、折れてるって直された」
オシャレ殺しと二人が笑う。
「ねーどうしちゃったの、遥パパ。綺麗な人見過ぎておかしくなっちゃったのかな」
菜々子は笑い過ぎて涙を拭いている。
「いや、でもそれ現実かもね」
麻衣がまだ笑いをこらえながら冷静に言う。
「遥のお父さんはさ、現実見てるんだよ」
遥は、一緒にカフェだのメイクだの、現実離れした未来を想像した先週の浮かれた自分を思い出し、溜息をついた。
「どうすんの、遥」
「どうもこうも。私が決めることじゃないよ」
「大人――」
「大人とかじゃないよ。昔さ、一度あったの」
遥は小さい頃に会った女の人の話をした。ハンバーグを選んだことを今も後悔していると。
「私が嫌だって言ったもんだから」
「それでお父さん、その人と別れたの?」
「知らない。けど、もうその人の話はしなくなったから別れちゃったのかも」
「それは遥のせいじゃないよ」
菜々子が力強く背中を叩いてきた。
「普通嫌だよ。ハンバーグ頼むよ」
うんうんと麻衣も頷く。
「だし、そんなことで離れるようなら、そもそもそんなに好きじゃなかったんじゃない?」
ほんとそれ、と二人が必死に庇うので、ついつい遥は笑ってしまった。
「その話って十年以上前だよね?」
「あんまり覚えてない。小学校入った時かな」
「十年前は遥のパパも四十ちょっとか。やっぱ五十越えるといくら格好良くてもおばちゃんしか余ってないのかなー」
菜々子がさらっと失礼なことを言う。でもこれが現実なのだ。実際父が連れてきたのは、若くもなくモデルでもない、その辺のおばちゃんだったのだから。
「おばちゃんの方はラッキーだよね。どこで知り合ったの?」
「知らない。婚活パーティとかだったら嫌だから聞かなかった」
必死で結婚相手を探している父を想像する。数々のお断りを乗り越え、ようやく見つけた相手があれとか。情けなさ過ぎるではないか。
「私、絶対若いうちに苦労せず結婚するわ」
菜々子が空を見上げ、誓い出した。
「あ、そういえばさ。高山先輩、北海道の大学行くって知ってた?」
「え? 北海道?」
遥は目を丸くして驚いた。
「農業の大学行くんだって。お姉ちゃん情報」
高山先輩は麻衣のお姉さんの同級生で、遥の片思いの相手だ。先輩は真っ黒に日に焼け、いつも豪快に笑っている。髪の毛なんて自分で切ってるんじゃないかと思うほど揃ってない。この都会の学校で、自然児丸出しの高山先輩を好きになって一年が経つ。北海道か。
「遥いいの?」
良くはない。ただ、告白する勇気もない。
「北海道っぽいよね、先輩」
「あー確かに。北海道顔してる」
三人で笑い合った。北海道か、遠いな。
家に帰ると綾ちゃんが来ていた。
「おかえりー」
「ただいま。今日なに?」
「生姜焼き。手伝って」
遥は制服姿のまま、シンクで手を洗う。
「結婚するのかな、お父さん」
綾ちゃんがピタっと動きを止める。
「あのさ、遥ちゃん」
綾ちゃんがかしこまって、母親のような顔でこちらを見る。
「私ね、結婚するのよ」
「へ? お父さんでしょ?」
「お父さんも、かな。私も結婚するのよ」
人生二度目の思考停止。ジャージャー流れる水の音だけが時を刻んでいた。
綾ちゃんは同じマンションに住んでいる亡くなった母の妹だ。母親は遥が産まれてすぐに亡くなったと聞かされている。物心ついた頃からご飯を作って洗濯をしてくれていた叔母の綾ちゃんは、遥にとってはお母さんのような存在だった。
「結婚、するんだ」
「婚活バスツアーって知ってる?」
「うん。あーそこで?」
「そこで。四十八年間生きてきて良かったわ」
綾ちゃんが自虐的に笑う。そっかそっかと遥も笑うしかなかった。
帰りの遅い父を待たずに綾ちゃんと二人で生姜焼きを食べた。綾ちゃんは、千葉でお寿司屋さんをしているという結婚相手の話をたくさんしてくれた。
「お寿司、食べ放題」
だから結婚することにしたと綾ちゃんは笑う。
スマホの中の写真を見せてもらうと、長髪のおじさんと綾ちゃんが笑っていた。
「寿司屋ってみんな角刈りかと思ってた」
「サーフィンするのよ、おじさんのくせに」
綾ちゃんは大事そうに写真を眺めている。
「千葉に行っちゃうんだ」
「うん、そうだね」
「もうあんまり来られない感じ?」
「東京から千葉なんてすぐよ。ま、でも、うん、そうだね」
遥は急激に襲ってくる不安と寂しさで胸がいっぱいだった。生姜焼きも全然味がしない。
「だからお父さん……」
「それは違うんじゃない? 家政婦さん欲しさに結婚するような人じゃないでしょ」
箸を置いた遥を見つめる綾ちゃんは、申し訳なさそうな顔をしていた。
二十二時を過ぎても父は帰ってこなかった。先に寝ようと自室へ戻る前に、なんとなく仏壇の前に座ってみた。小さい頃はいつもここで手を合わせていたような気がする。遥にそっくりな小動物のような顔をした母の写真が、こちらを見て笑っている。
「なんかみんな離れてくんだけど」
思わず声に出して言ってみたら、ポロポロ止めどなく涙が溢れてきた。泣いても泣いても涙が止まらなかった。
翌朝、父に叩き起こされて目が覚めた。
「お前めちゃめちゃ遅刻だぞ」
昨晩、泣き疲れて逆にぐっすりと眠ってしまい、目覚ましの音にも気が付かなかった。父が焼いてくれたパンを食べながら、急いで支度をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「私、もう行くよ! 行ってきます!」
遥が玄関を開けると、そこに小太りのあの人が立っていた。
「おはようございます。みどりです」
遥は、キャーッと思わず叫んで、後ずさりをしてしまった。
「オバケかと思った?」
みどりさんはクスクスと笑っている。何事かと駆け付けた父も驚いて固まっている。
「え……どうして?」
「あー違うの違うの。はい、これ」
みどりさんは遥に巾着袋を差し出す。
「お昼はいっつも菓子パンだって聞いたから。はい、お弁当」
何がなんだかわけの分からない遥は巾着袋を受け取る。重っ。鉛のように重い。
「緑ヶ丘高校でしょ? おばさんも市役所行くから、一緒にそこまで、ね」
みどりさんに腕を摑まれ、もはや連行の姿勢で遥はマンションを後にした。
学校までの道のり、みどりさんは自転車を押しながら、ずっと一人で話していた。お昼ご飯の大切さとか、市役所でパートをしていることとか、どこに行くにも自転車、とか。
「菓子パンじゃ、チカラ出ないでしょ」
を、十回以上言われながら校門に着いた。
「じゃあね、頑張って」
颯爽と自転車にまたがり去っていく逞しい背中を、遥はただただ見送った。
昼休み、菜々子と麻衣が興味津々で遥の弁当箱を見つめている。
「嫌な予感しかしないんだよね」
渋る遥に代わって、菜々子がオープンっと蓋を開ける。そこには、ぎっしりと詰まった白い米の上に、鮭が一匹ドンっとのっていた。
「男の弁当じゃん」
菜々子がたまらず笑い出す。
「でもさ、菓子パンよりずっといいよ」
麻衣も笑いを堪えている。
遥は二人の弁当を見る。卵焼きにブロッコリー、プチトマトやらの彩り溢れる女の子のお弁当だ。わざわざこんな弁当を持ってくるだなんて、嫌がらせだろうか。
「いらない」
遥は弁当に蓋をした。
「じゃ私食べるよ、それ。交換しよ」
菜々子が自分の可愛い弁当を遥に差し出す。
「いや、いいよ」
「よくないよ、かわいそうじゃん」
「こんなに食べられないよ」
「だから私食べるって言ってんじゃん」
二人のやり取りを見て麻衣が笑う。
「全部並べてみんなで食べよう」
結局三つの弁当を並べてみんなで食べた。
次の日の朝もみどりさんはやって来た。ついでだからと重たい弁当箱を遥に手渡す。学校までの道のり、みどりさんは自転車を押しながら、また一人で喋っていた。故郷は北海道とか、韓国ドラマにハマってるとか、好きな色とか好きな匂いとか。
「じゃあね、頑張って」
ひとしきり喋って、みどりさんは去っていった。次の日も、その次の日も。
「なんかさ、結局遥の弁当が一番米進むよね」
「思ったー」
今日も三つの弁当を三人でシェアしていた。
「こういうさ、ちまちましたおかず。プチトマトとかさ。可愛いけど、いらないよね」
山盛りの米の上に鮭、肉、時にはホッケが丸ごと置かれただけの弁当を奪い合うように食べているところを見ると、菜々子と麻衣は本当に気に入ってくれている。何故だか、遥は少し誇らしかった。
珍しく帰宅の早い父が、レシピを見ながらパスタを茹でている。
鼻歌交じりのご機嫌な父を見て、遥はずっと避けてきたあの人の話をしてみたくなった。
「お弁当が現場監督のみたいなんだけど」
父はフっと笑う。
「鮭がドーンって」
「地元が北海道だからな。色々食材を送ってくれるらしいよ」
「さすがに恥ずかしい」
だよな、とまた笑う。
「いつから……」
いつから付き合ってるの? と聞きそうになって言いよどむ。これ浮気された妻のセリフだ。
「もう、おじさんとおばさんだからな」
父は遥の目を見て静かに話し出した。
「お父さんもみーちゃん……みどりさんも……」
「みーちゃんでいいよ。てか、みーちゃんて」
父は一度咳払いをし、話を続ける。
「結婚とかそういうのはもういいんだ。老後をな、一緒に暮らせたらっていう」
「結婚、しないんだ」
「みどりさんがな、お昼は大事だから、遥にお弁当持たせてあげたいって。そっか、それなら一度きちんと紹介しなきゃなって」
「菜々子が言ってた。もうお父さんも五十過ぎてるから、ああいう人しか余ってないって」
「ハハハ」
ハハハじゃないよ、まったく。
「はい、お弁当」
毎朝のルーティンにみどりさんが追加されて三カ月が経つ。弁当は相変わらず男弁当だ。
「十年くらい前に病気しちゃってね」
自転車を押しながらみどりさんが話し出す。
「お薬飲んでたら、味覚がちょっとね」
「ないんですか?」
「そうなの、ちょっとね。クリーム系とかは特にダメね。お料理も自分で作るとなると、味が良く分からなくなったり」
ケラケラとみどりさんは笑う。
「だから手の込んだお弁当作れないのよー」
「病気って」
「大変よー病気は。いろんなもの諦めたもの。仕事とか結婚とか。ってそれは病気のせいじゃないだろって顔してるー」
みどりさんがこちらを指差し豪快に笑う。
「じゃあね、頑張って」
遥は自転車にまたがるみどりさんの腕を思わず摑んでいた。
「美味しいです。あの……友達も美味しいって。みんなでお弁当食べてます」
あら良かったと満面の笑みを向けて、みどりさんは去っていった。
「北海道は良い所よ」
「でも遠いですよね」
季節は巡って、もうすぐ今年が終わる。着膨れしたほぼダルマのみどりさんが自転車を押す横を、遥はトボトボとついていく。
「遠いわよー。簡単に行ける距離じゃない」
「ですよね」
高山先輩が北海道の大学に行ってしまう。あと三か月もすれば、もう毎日こっそり見ることも出来なくなる。
みどりさんはふいに立ち止まる。
「おばさんになって後悔してることの一つ。気持ちを伝えられなかったこと」
「……はぁ」
「相手の気持ちとか先のこととか考えちゃって、自分の気持ちを後回しにしちゃったの」
後悔してるーとまた歩き出した。
「でもでも、先輩困りませんかね? こんな時期に告白されてもってなりますよね?」
遥はみどりさんの自転車を一緒に押す。
「結果はなんだっていいの。先輩がおじさんになった時、そういえばあの日、勇気を振り絞って気持ちを伝えてくれた女の子がいたなーって思い出してくれたらそれでいいの。思い出を作ってあげたらいいじゃない」
「思い出を作ってあげるって……なんかそれ新しい! 良いですね、それ」
いけそうですっとはしゃいでいたら、もう学校に着いてしまった。
どうしよう、もっと話していたい。
「じゃあね、頑張って」
みどりさんはよいしょっと自転車にまたがり、去っていった。
「さすがおばさん、良いこと言う」
帰り道、菜々子と麻衣はみどりさんの言葉に感銘を受けていた。
「遥の背中をポンって押してくれてるもんね」
「うん。告白するのが怖くなくなったもん」
うんうんと二人は頷く。
「そういえばさ、昨日パパに聞いたの」
菜々子が思い出し笑いをしている。
「もしもね、若い綺麗な女の人がパパの前に現れてさ」
ないないと麻衣が笑う。
「結婚してくださいって言われたら、ママと離婚する? って聞いたの」
くだらない質問したねと遥が笑う。
「そしたらさ、もちろんって最初冗談で言ってたんだけど、ちょっと間を空けてさ」
三人は立ち止まる。
「できないなって言うの、大真面目に。ママが太ろうがどんどん醜くなろうが離れないって。ママには…………あれ? なんだっけ」
「ママには何?」
遥が先を促す。
「なんだっけな。何かがあるんだって」
「もー何も覚えてないじゃん」
三人はまた歩き出す。
「菜々子のママに何があるのか聞いておいて」
「ほんと、眠れないわ」
分かった分かったと菜々子が笑う。
「じゃまた明日ねー」
三人は、いつもの場所で別れて歩き出す。
「あー! これだこれ!」
振り返ると菜々子が看板に向かって大きく叫んでいる。
「ママにはこれがあるんだって!」
菜々子が指した家電のマルタの看板には「信頼と実績」と大きく書かれていた。
グリル並木の扉を開ける。来月千葉へと旅立つ綾ちゃんに結婚相手を紹介したいと言われ、ここへ呼ばれた。
遥はずっと上の空だった。
みどりさんがお弁当を届けに来なくなって一カ月が経つ。父に聞くと、「病気」が再発して入院しているとのことだった。遥は無性に腹が立った。悲しいというよりも腹立たしい。
ケーキの味と健康を交換したはずなのに、次は一体何と交換させられるのだろう。一体何を奪われるのだろう。そして、何を諦める?
お見舞いに行きたいと病院を聞いたのだが、結局行かないまま時が過ぎている。元気で明るい小太りのみどりさんが、痩せ細り、何かの管に繋がれベッドで寝ている、そんな姿を想像すると怖くて動けなかった。
「お待ち合わせですか?」
振り向くと、蝶ネクタイのウエイターが立っている。遥はウエイターが手に持つポラロイドの写真を指差した。
「あの、それって……」
「こちらはご来店されたお客様のお写真です。記念日にお撮りしまして、そちらに貼らせていただいております」
ウエイターはエントランスの隅に目を向ける。ボードにピンで留められた数枚の写真を見て、遥の頭の中で何かがカチっとはまる音がした。ハンバーグを頼んだ七歳の誕生日。小さい遥の前に座った優しそうな女の人。
「これって昔からですか? ですよね?」
「随分前からこちらのサービスはござ……」
「その、随分前の写真ってありますか?」
遥はウエイターの腕を摑む。
「し、少々お待ち下さいませ」
もしも勘違いじゃなかったら、きっとあの人はまた後悔する。気持ちを伝えられなかったと、またいつか後悔してしまう。
アルバムをめくる。十年以上前だから、もっと前。勢い良くめくる遥の手が止まる。
ほら、やっぱり。
そこには少し若い父と小さい遥、そして、今より綺麗なみどりさんの写真があった。
「信頼と実績……」
ウエイターがポカンとした後、ありがとうございますと丁寧に頭を下げた。
十年の時を経て、きちっと太って、きちっとおばさんになったみどりさんを、父は見捨てたりしなかった。綺麗な女も若いモデルも目に入らないほどの信頼と実績。父はちゃんとみどりさんを見ていた。
「でもさ、お父さん」
遥は駆け出した。
でもさ、お父さん。
後悔してるって知ってた?
病院の入口に着く。怖がってる場合じゃない。遥は深呼吸をして病院の中に足を進める。
「お世話さまでしたー、どうもー」
聞き覚えのある大きな声。たくさんの紙袋とエコバッグを持った小太りのみどりさんが、こちらに向かって歩いてくる。
「あら?え――遥ちゃん、なになに?」
拍子抜けした遥は、呆然と立ち尽くす。
「もしかしてお見舞い? やーだ、嬉しい」
みどりさんは遥の肩をバンバン叩く。
「退院……ですか?」
「一旦ね。ちょっと来るの遅かったわね」
アハハハと笑うみどりさん。
「あ、荷物、持ちます」
なんだか気恥ずかしくなって、遥は紙袋を奪うように持ち、外に出た。
自転車で来たのよと言うみどりさんと駐輪場へ向かう。退屈だったから病院に置いてある『三国志』を全巻読むところだった、というみどりさんを遮り、遥は思い切って伝えた。
「私、今から先輩に告白してきます」
みどりさんの目元から笑みが広がる。
「北海道の? うんうん! 良い良い!」
「だから……みどりさんも」
「ん?」
「みどりさんもちゃんと気持ち伝えなきゃ」
みどりさんが困った顔をしている。あーこの顔だった。小さい遥がハンバーグを頼んだあの時も、みどりさんはこの顔をしていた。
「お父さんと結婚したいんでしょ?」
「ちょっとなに? どうしちゃったの?」
「老後一緒に過ごせればいいとか、そんなの嘘ですよね」
四十八年にして、結婚というカードを手に入れ、好きな人の待つ千葉に旅立つ綾ちゃんの嬉しそうな顔を、遥は思い浮かべる。
「おばさんだからって、病気だからって別にいいじゃないですか。結果なんてどうだって」
「遥ちゃん」
みどりさんの目が少し潤んでいる。遥は、中年のおばさんを泣かせてしまった罪悪感に耐えきれず、自転車にまたがる。
「とりあえず、送ります」
乗ってくださいと、顎で背後をしゃくる。
「えー二人乗り? 捕まらない?」
遥はペダルを漕ぐも、重くて前に進まない。みどりさんを乗せた自転車は、歩くより遅いスピードでゆっくりと前に進んでいく。
「今度、うちで、三人でご飯でも……」
全然進まないじゃなーいと大声で笑うみどりさんには聞こえていない。
遥は決めている。みどりさんが家に来たらオムライスを作ろう。どういう意味か二人に伝わるだろうか。
遥はクスッと笑う。
「わかんないだろうな」
淡い日差しの降り注ぐ冬の午後。
遥とみどりさんを乗せた進まない自転車は、それでも前に向かっていく。
【おわり】