【佳作】もしもの同居人(著:明海透)

1
週末の追い込みを終えた俺は、夕飯に何を買おうか考えながら電車を降りた。
馴染みのコンビニは駅から続く大通りに沿った一直線上にある。自宅はその中間点に位置する。つまり、駅を出てからの行動には二種類ある。一度帰宅してからコンビニへ向かうか、自宅を通り過ぎて直行するか、である。
大した違いはないが今日はコンビニへ直行することを選んだ。結果は大収穫。ダメもとでのぞき込んだ棚の奥に、ラスト一個の特製シュークリームを見つけたのだ。家に寄っていたら、誰かに買われていたに違いない。
大学時代から住み続けているボロアパートは、三部屋が並ぶ木造二階建てだ。メンテナンスを怠る大家のせいで年々お化け屋敷と化しており、一年前には取り壊しによる退去のお願いが出ていた。
他の住人は早々に退去していき、現在入居しているのは自分だけだった。退去期限は二か月後に迫っており、俺はようやく重い腰を上げた。引っ越しは一か月後の予定だ。
一つの区切りとして家電を新調しようと思い、大きなものはあらかた捨ててしまった。下の扉を閉めると、上の扉が開く冷蔵庫も例外ではない。最近コンビニ通いになった原因はこれだった。
その他の荷物は最低限の生活に必要な物だけを残して段ボールに詰めてしまった。退去期限ギリギリまで行動しなかった反動で、まとめ過ぎてしまったのだ。残りの一か月、不測の事態が起きないことを願うばかりである。
俺の住む203号室を目指して奥へ進んだ。鍵を開けると、なぜか室内は明るかった。
電気を消し忘れたか──無駄な電気代を後悔したのも束の間、淡い電灯の下にパンツ一丁の男を見つけた。今まさにズボンを穿こうと片足を上げたところだ。
「あ、すみません」
顔を引っ込め、扉を閉めた。跳ね上がった心臓に手を当て深呼吸をする。迷惑防止条例違反? 窃視? 住居侵入罪? 相手が女性でなかっただけ幸運か? 様々な考えが駆け巡ったが、すぐにおかしいと気付いた。
壁に埋め込まれたプレートは203号室を示している。持っている鍵で扉が開いたのだから、ここが自分の部屋であることは間違いない。そもそもこのアパートには現在自分しか入居しておらず、新たな住人は募っていない。ならば空き巣だろうか。この廃墟に金のニオイを感じたのならセンスがなさすぎる。
突然の出来事に打ち始めた動悸だったが、少し冷静になった今では違った意味合いで脈打っていた。なぜなら、一瞬目にした謎の男の顔には見覚えがあったからだ。そんなことがあるわけないと信じて再び扉を開けた。
短い廊下の先には謎の男が立っていた。すっかり着替え終わり、くたびれたスウェット姿でこちらを見ている。ゆがめた顔は「ありえない」と言わんばかりだ。それはこちらのセリフだ、と同じ表情で睨み返す。きっと考えていることも同じなのだろう。
「お前は……」
謎の男と声が重なった。
「「俺か?」」
悪夢のような沈黙が流れた。目の前の同じ顔をした人間は何者なのかと牽制し合う。見れば見るほど、近くて遠い、裏表の存在に感じてしまうのが不思議で気持ち悪い。
まずは落ち着いて警察に連絡を、と考えていると謎の男が俺の名前を口にした。
「なんで俺の名前を知っている」
「違う、これは俺の名前だ」
それから生年月日、血液型、出身地などの個人情報、果ては自分しか知らないであろう情報の応酬になった。結果、すべての問答は完全に一致したのだった。
鏡と話しているようで心身ともに疲れてしまった。男も諦めたようにため息をつくと「夕飯買ってくる」と言って靴を履き始めた。俺一人を残していくなんて不用心な奴だ、と思うと妙な親近感が湧いた。
「真っ直ぐ行ったコンビニか?」
ああ、と頷いて男は部屋を出た。どうせあいつも特製シュークリームを狙っていることだろう。無駄な期待を持たせては可哀そうだ。最後の一つは俺が買ってしまったことを教えるために玄関を開けた。
しかし、そこに男の姿はなかった。
シーチキンおにぎりと半日分の野菜がとれると謳われたうどんを食べ終えた。食後の楽しみのためにティーバッグの緑茶をマグカップにセットし、電気ケトルのスイッチを入れた。徐々に立ち昇る湯気を見つめながら、今しがたの出来事を思い返した。
男が着替えていたスウェットは、今朝脱いだ状態のままで布団の上に丸まっていた。着古したそれは紛れもなく自分のものだ。部屋を荒らされた形跡はなく、何か盗られた様子も見受けられなかった。
では、先ほど見たものは何だったのだろう。出てきた答えは「疲れている」だった。連日の残業による疲れが「もっと自分を労れよ」というメッセージを込めて幻覚を見せたのだ。
それがなぜ着替え途中の自分だったのかは謎だ。深層心理が何かを訴えているのかもしれないが、専門ではないのでこれ以上考えるのはやめにした。きっと、深く考えてはいけないことなのだ。
お湯が沸き、電気ケトルの電源がカチッと切れた。同時に玄関がガチャッと開いた。チャイムを鳴らさず玄関を開けるのはあいつしかいない。どうやら悪夢は続くようだ。
「まだいたのかよ」男はテーブルの向かいに腰掛けた。
テーブルにシーチキンおにぎりと野菜うどんが並べられた。顔はもちろんのこと、今となっては服装も同じである。買ってくるものまで一緒となれば、こいつは「もう一人の俺」であると認めざるを得ないのだろうか。『俺』はのんきにおにぎりをかじり始めた。
「なあ、よくそんな平然と食っていられるな」
「ん? まあな、答え合わせはさっきしただろ。さすがにラブレターの書き出しを答えられたらお手上げだよ」
自分しか知りえない情報合戦の最後にこいつは「初めて書いたラブレターの書き出しは何?」と問うた。俺たちは息を合わせると、歯を食いしばりながら「「君が一輪の花に見えた」」と答えたのだ。
ずっと避けていた質問だった。だが、お互いの正体を確かめるのにこれ以上の質問はなかったはずだ。中学二年、人生初のラブレターは冒頭を書いた数分後にキッチンで灰と化していた。これはまさに自分しか知らない情報──否、黒歴史だ。
「ちょっと考えたんだけど、今の状況ってわりとヤバいんじゃないか?」『俺』が言った。
「そりゃ正常とは言い難いな」
「死ぬかもな。片方が……あるいは両方」
「どうしてまた」
「ドッペルゲンガーってやつだよ。自分にそっくりな奴は世界に三人いて、そいつに出会ったら死ぬってのはよくある話だろ」
「有名な話ではあるけど、あくまでそれは他人だろ? 記憶が同じだったり、俺の部屋にいた理由は説明できないような気がするけどな。……この場合、お前の部屋でもあるのか?」
「あるいは未来や過去の自分と出会ってしまったパターンだな」
「なるほど。それなら記憶や部屋が同じだったことに説明がつくか。確かにアニメとか映画のタイムスリップものでは自分と接触するのはご法度だよな。時の流れがおかしくなって、俺たちが消滅……って感じか」
「タイムスリップしてきたのか?」
「自覚はないな」
「だろうな」
会話は途切れ、うどんをすする音が部屋に響いた。用意したお茶はぬるくなり、ティーバッグを浸し過ぎたおかげで渋みが出ていた。
「お茶いいな。俺にも淹れてくれよ」
「自分でやれ。ってか、マグカップ一つしかないだろ。シュークリームを持たない者に飲ます茶はねえよ」
「残念だったな」『俺』は得意顔を浮かべると、エコバッグに手を伸ばした。「ちょうど一個残っててさ、ラッキーだったわ」
『俺』はシュークリームをテーブルに出した。何の変哲もないパッケージである。だが、今回に限っては異様な雰囲気をまとって見えた。なぜなら、それは存在するはずのないものだからだ。
「……おい、いつものコンビニへ行ったんだよな? 何で残ってるんだよ」
「何でって言われても……」『俺』は困ったように後頭部をかいた。「確かに人気でいつもこの時間は売り切れてるけど、今日の俺はツイてるんだ」
「最後の一個は俺が買ったはずだろ?」
棚の奥に隠れていたものを掘り出して手に入れたのだ。間違いなくラストだったはずだ。にもかかわらず、こいつが嬉々として最後の一個を買ったと言い張るのはなぜだろうか。嘘をつく理由はないし、そもそも嘘をついているようには見えなかった。
このシュークリームは現状を紐解くヒントになるだろうか。できるだけ頭を柔らかくして情報を整理しよう。
少し大袈裟ではあるが今日この時間、例のコンビニにあった最後のシュークリームは世界に一つだけ、と言えるだろう。そして、この俺自身も間違いなく世界に一人だけだ。だが、目の前にそれぞれ二人(つ)存在するのもまた事実。
顔も記憶も部屋も夕飯のメニューまで一緒だった『俺』だが、改めて観察すると違うところがあった。そろそろ切ろうと思っていた爪はしっかりと切られている。髪も心なしか整っており、月一で散髪に行っているようだ。悔しいが美意識についてはこいつのほうが一枚上手のように見えた。
つまり、すべてが一緒というわけではないのだ。大筋は一緒でも細事は違う。存在しえないものが存在する。これらを勘案すると、一つ確かめたいことが浮かんだ。
「ちょっと来てくれ」
「どこに?」
問いかけには応えず玄関の外へ出た。扉を開けたまま俺はアパートの通路に立ち、『俺』は部屋の廊下に立って訝しげな目を向けている。ほんの一時間前の出会ったときと同じ状況だ。
「今から扉を閉めるから、閉じたらすぐに開けてくれ」
「何がしたいんだよ」
「いいから。わかったな?」
『俺』は面倒くさそうに頷いた。その姿を閉じゆく隙間から見つめ続けた。扉はバタンと音を立てて閉まった。
一瞬、世界が断絶されたような感覚を覚えた。しかし、周りを見ればいつもの日常が広がっていた。隣家の明かりが孤独感を煽り、大通りを走る車の走行音が物寂しく聞こえている。
すぐに開かれるはずの扉は、沈黙したままピクリとも動かない。
思った通りだ。これで一応の説明はつくだろうと確信を得て扉を開けた。そこには『俺』の狐につままれたような顔が待っていた。
「おお……お前、どこ隠れたんだよ」
「どこにも隠れてない。ずっと扉の前に立ってたよ」
「いやいや、なんかのマジックだろ? ほら、鏡とか使ってさ、ミステリー小説とかによくあるやつ。じゃなかったら新手の詐欺だ。特殊メイクかなんかで俺に変装してるんだろ」
「だったらむしろ良かったんだけどな。お前がコンビニへ行ったときもすぐに扉開けたけど、お前の姿は消えてたよ」
『俺』の眉間に深いしわが寄せられた。
「……どういうことだ」
「たぶん、パラレルワールドだ」
「パラレルワールド? あのときこうしていれば、ああしていれば……っていう選択で別の選択肢を選んだ世界が無数に広がっているってやつか。いわゆる並行世界だな」
「それだ。絶対に交わることはない世界だけど、何の因果かこの部屋の中だけが交わったんだ。これなら説明できそうだろ」
「だから部屋の外に出たら観測できないってことか」
「世界が二つで、この部屋が一つ。ラスト一個のシュークリームが二つあるという矛盾も解決だ」
『俺』は顎に手を当てて唸った。
「だとしたら俺たちの分岐点はなんだ?」
「直近でいえば仕事帰りにコンビニへ直行したか、一度家に寄ったかだろうな。もっと前から分岐した世界の俺たちかもしれないけど」
「でも、お互いにラスト一個を手に入れたってことは、直行するか否かは、買えるかどうかに影響がなかったってことだよな」
「そうなるな」
「じゃあ、俺たちが出会った理由はなんだ? なんの影響もない選択肢で分岐した世界が、この部屋で重なったことに意味はあるのか?」
ふう、と息をついて俺は言った。「それは、わからない」
2
無益な推理の後は、どうやって眠るかが問題になった。
布団は一組しかない。かと言って、同じ顔をした人間と同じ布団で仲良く寝るのは断固拒否である。されど、新たに布団を買うのは面倒だし、外泊するのは財布に響く。
折衷案として出たのは、敷き布団と掛け布団をそれぞれ使うというものだった。夏なら問題なかったが、現在は十一月である。寒さは厚着と段ボールで凌ぐしかない。じゃんけんの結果、『俺』が掛け布団を使うことになった。
もっと早く引っ越せばよかった、とつぶやきながら『俺』が掛け布団に手をかけた。その瞬間、またしても奇怪な現象が起きた。掛け布団が幽体離脱したのだ。
『俺』は幽体となった掛け布団を持ち上げていた。逆に『俺』側からは半透明の掛け布団がその場に残って見えるらしい。
改めて周りを観察すると、いろいろなものがブレて見えた。大半の荷物を段ボールにまとめてしまったために今まで気付かなかったのだ。試しにテーブルを少しずらせば、半透明のテーブルが現れた。まるで物体が高速で振動したときに見える残像のようだ。
どうやら向こうの世界のものは半透明となって見ることはできるが、触れることはできない仕組みらしい。
それからは段ボールを部屋の中央に積み並べ、二分した部屋をそれぞれの生活圏と定めて眠りについた。
そして現在、妙な緊張感をもって目を覚ました。昨夜の出来事を思い返し、段ボール壁の向こう側の気配を窺った。
「もう一人の自分」なんていうチープなSF物語はなかったのだと一笑に付したいが、どうだろう。何もない空間が広がっていれば安心だろうか? それはそれで自分の精神状態が心配だ。もしかすると『俺』が居てほしいのかもしれない。『俺』がいる状態といない状態、果たしてどちらがまともなのか。
はやる気持ちを抑え、恐る恐る段ボール壁をのぞくと、向こう側から同じように『俺』の顔が生えてきた。不思議と「まあ、そうだよな」という安堵感が広がった。
電車に鞄を忘れて二十万円失う羽目になった。つい先ほど歩きスマホで転んだ治療費として五万円払ったばかりなので痛い出費だ。
俺が踏んだり蹴ったりの人生を歩んでいる一方、『俺』は配偶者を見つけて一等地の家を購入していた。
「1、2、3、4、5……えーっと、『双子が産まれた。お祝い金として全員から三万円もらう』はい、毎度あり」
『俺』は手のひらを出して催促しつつ、勝手に紙幣を取って加えた。
俺たちは夜の暇つぶしとして人生ゲームに興じていた。就活時代に現実逃避として買ったものを発掘したのだ。お互いの世界のものには触れられないので段ボールの上には人生ゲームのボードが二つ並んでいた。
結婚や出産は素直に祝福したいし、喜んでお金を出したいものだ。しかし、その相手が『俺』であった場合は別である。あったかもしれない未来──正解のルートを選んだ自分──を見ているようで妬ましい。たとえそれがボードゲームであったとしてもだ。
ルーレットを回すと8が出た。コマは大きく進んだが、止まったマスは一回休みを告げていた。四人家族となったコマが俺を置いて進んでいく。その様子を見ながら、一つ気になっていたことを尋ねた。
「お前、彼女いんの?」
「自分の胸に訊いてみろ」
「それじゃあ、柏木さんは? そっちの柏木さんは元気でやってんの?」
柏木さんは同期のマドンナ的存在であり、営業成績もトップクラスの人物だ。一つ大きな案件をこなして己の存在をアピールしたいところだが、うまくいったためしはない。
「元気なんじゃね? そんな頻繁に会わないからわかんねえよ」
「同じ営業部なんだから毎日会ってるだろ」
「柏木さんは総務だろ」
どうやら向こうの柏木さんは配属先で人生を分岐させているようだ。ならばこれはチャンスである。
「どうせ気になってるんだろ、お前も」
「いや、それほど知らないし。カワイイとは思うけどな」
「だよな。だったらさ、いろいろ探ってくれよ。食の好みとか気になってる店とか、悩みでもいいぞ」
「なんでそうなるんだよ。同じ部署なら自分でサクッと訊けよ」
「同じ部署だからこそだよ。気軽に訊けない距離感とか、しがらみがあるだろ。その点、お前はちょっと気まずくなっても問題ない」
「ケンカ売ってんのか?」
「頼むって。俺の有り金、全部やるから」
「いらねえよ、そんなはした金」『俺』はルーレットを回してコマを進めると続けた。「お、また子供産まれた。祝え」
ご祝儀・出産祝い貧乏とは、この年代でよくある話なのだろう。俺は祝い金を支払うと借金生活に突入した。
3
俺と『俺』による奇妙な共同生活は二週間が過ぎようとしていた。人生ゲームが毎晩の習慣となり、勝敗は五分五分だった。このようにして世界の均衡は保たれているのだな、と妙に納得できる結果だった。
常連と化したコンビニへ向かう足取りは、いつもより軽かった。なぜなら、飲料広告の大型案件がコンペを勝ち抜いて採用されたからだ。連日の残業が実を結んだのだった。
柏木さんからは、おめでとうと賛辞のお言葉を頂いた。今思えば、そのときが関係を築くチャンスだったのかもしれない。一言「食事でもどうですか」と誘えなかったことが唯一の心残りともいえた。
今日のところは『俺』と今後の英気を養おうと思い、酒やつまみをカゴへ入れていった。どうせ好みは一緒なのだから、お気に入りの品々を二人分買ってコンビニをあとにした。
「随分な浮かれようだな」
いそいそと宴の準備を進めていると冷ややかな視線に声を掛けられた。先に帰宅していた『俺』は弁当の空箱を傍らに置き、スマホをいじっていた。
「堅いこと言うなって。ほら、お前も立てよ」
部屋を分ける段ボールの上に酒とつまみを並べた。
「ほう、悪くないラインナップだな」
「だろ? アメリカンドッグも買ってきたから冷めないうちに食べようぜ」
「で、俺は見ていればいいのか?」
「は? 何言ってんだよ」
『俺』はため息をつき、差し出したアメリカンドッグに手を伸ばした。しかし、その手は空を切るばかりだった。
「あっ……」
そうだった。こちらの世界のものは、あちらからは触れられないのだった。『俺』からしたら二人分の酒とつまみがディスプレイされているだけだ。
「わかった、わかった。買ってくればいいんだろ」
あきれた様子で首を振ると『俺』は買い出しへ出掛けていった。
言われた通りかなり浮かれていたようだ。そして、もう一人の自分というあり得ない存在を認め、気の合う同居人として受け入れていることを改めて自覚した。「二人なら悲しみは半分に、喜びは倍に」とはよくある言い回しだが本当なのかもしれない。
仕事は多忙を極め、あっという間にカレンダーは月末を迎えていた。俺は『俺』と過ごす最後の週末に向けて帰路についた。明後日の日曜はいよいよ引っ越しだ。
自分と語り合うのは気恥ずかしいが、この一か月間のことや将来のことを話しておきたいと思った。前回の宴会のようにバカ騒ぎする気はない。一本のチューハイだけで十分だ。
できれば『俺』にも何か飲んでいてほしいが、こちらで買っても意味はない。準備しておくように言いたくても、連絡を取る手段がないことに今さら気付いた。
連絡も取れなければ、物を共有することもできない。それでいて生活スペースは半分にさせられる。まことに不便な同居人だ。しかし、所詮は『俺』である。考えていることは同じだろうと信じてコンビニを出た。
玄関を開けると珍しく明かりは点いていなかった。当然、「おかえり」という声もない。久しぶりに一人暮らしを実感しつつ、あいつも忙しいんだなと自分自身を労った。
開けられることを待つチューハイは汗をかいて段ボールを濡らしている。この夜、『俺』が帰ってくることはなかった。
4
「もう一人の自分?」
「はい、もっ……もしもの話ですけどね」しどろもどろになるな、と己を鼓舞して言葉を続けた。「見た目も考えも行動も、自分としか思えない人間が現れたらどうします?」
休憩時間、自販機の前でばったり会った柏木さんに沈黙を避けるための質問をしていた。
「んー、それはもう……自画自賛かな」
「自画自賛?」
「うん。すごいなあ、頑張ってるねえ、カワイイよ、さすが私だ、って」
「すごいポジティブですね」
「だって自分なんでしょ? だったら無条件で認めてあげたいじゃん。いろいろ不安で大変なことだらけだけどさ、他ならぬ自分が背中を押してくれたら心強いんじゃないかな」
「そういうもんですかね」
柏木さんは微笑を浮かべ、コーヒーを口にした。「ま、ちょっと怖いけどね」
ときは引っ越し当日を迎えていた。俺はお湯の張られていない風呂の浴槽で柏木さんとの会話を思い出していた。
風呂場にいるのは『俺』側の引っ越し業者と鉢合わせないための緊急避難である。透けた荷物で騒ぎになっていない様子をみるに、わざわざ隠れる必要はなかったかもしれない。だが、一人で気持ちを切り替える時間が取れたのは好都合だった。
金曜の夜に帰ってこなかった『俺』は、土曜に朝帰りをしてきた。「おかえり」と掛けた言葉に返事をせず、早々と布団にもぐり込んだ。こちらの問いかけにも「ああ」、「ちょっとな」とそっけなく返すだけである。
隠し事をしているのは自分のことのように明らかだった。しつこく何があったのか問い詰めると『俺』は渋りに渋って白状したのだった。昨夜は柏木さんと過ごしていた、と。
頭が真っ白になった。なぜお前が? どうやって? 繋がりはなかったはずだろ? 様々な疑問が湧くと、別れの前に語り合おうなどと考えていた自分が馬鹿らしくなった。そして裏切られた気持ちは次第に怒りへと変わっていった。
その様子を一瞥した『俺』は着替えだけ済ますと部屋を出ていき、今日まで帰ってこなかった。きっとネットカフェにでも泊まったのだろう。数十分前に帰ってきたかと思うと「引っ越し業者が来たから隠れてろ」と言われ、風呂場に追いやられたのだった。
すりガラスに『俺』の姿が浮かび「終わったぞ」と声が掛かった。
ブレがなくなり、本来の姿に戻った部屋は違和感を覚えるほどにスッキリして見えた。人間の適応力に驚かされ、若干の寂しさが芽生えた。
これで最後になるのなら、心のわだかまりもスッキリさせるべきだろう。世界は違っても『俺』が俺であることに変わりはないのだ。柏木さんの言葉を信じ、順調にコマを進める『俺』の背中を押すことに決めた。
「忘れ物はないか?」
「ああ、大丈夫だ」
「一時はどうなるかと思ったけど、何とか乗り切ったか。今思えばあっという間だったな」
そうかもしれないな、とつぶやいた『俺』はリュックを手にして短い廊下を進んだ。
「もう行くのか?」
「惜しむような別れでもないだろ」
「……それもそうか」
靴を履く『俺』の背中を見つめて言った。
「まあ、いろいろあったけど楽しかったよ。柏木さんのこと大切にしろよ」
「……ああ」
「仕事も恋愛も、これが順風満帆ってやつか。羨ましいな、さすが俺だ」
「……違う」『俺』は背を向けたまま答えた。「俺はコンペに落ちたよ。仕事は相変わらずパッとしてない」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。「そんなこと一言も……」
「言えないだろ、お前のうれしそうな顔見たら。あの案件通ることがどれだけデカいかは、俺が一番わかってるよ」
胃の辺りがずしりと重くなった。あの日の俺は本当に浮かれ過ぎていたのだ。世界が違うことは理解していたはずなのに、どうして同じく仕事が成功したと錯覚したのだろう。
「でも、考えてみれば当然の結果なんだよ。帰りはいつもお前のほうが遅かっただろ。仕事に懸ける気合も情熱も俺が劣ってたってだけの話だ。それが疎ましいばっかりに柏木さんに手を出して……カッコ悪いよな」
『俺』は自嘲したような顔を向けた。
「……いや、それでもお前は一歩踏み出せたんだからすげえよ。俺なんて同じ部署にいても一声かけるのが精一杯だぞ」
お前はすごい、いやお前のほうがすごい、とひとしきり言い合った。次第に変な自己暗示をかけているようで目が回ってくる。
もういい、やめにしよう、と我に返って二人で深呼吸をした。細かいことはもういい。どれだけ考えても、結局は別の世界の話だ。
「とにかく話せてよかったよ」
「さすがに喧嘩別れ……みたいなのは寂しかったよな。そうだ、柏木さん情報いるか?」
少し前までは喉から手が出るほど欲しかった情報だ。だが、今はもう必要ない気がした。
「いや、カンニングはやめておく」
『俺』は「生意気な奴だ」と笑って扉を開けた。通路まで出るとこちらを振り返った。
「閉めたら最後、だよな」
「おそらく」
「じゃあ、最後に一つ。柏木さんにかける言葉は『君が一輪の花に見えた』ではないぞ」
「わかっとるわ、そんなもん。さっさと出ていけ」
「おう、じゃあな」
「お前も仕事、頑張れよ」
「俺を誰だと思ってるんだよ」
ニッと上がった口角を最後に扉が閉まった。もう会うことはないだろうという確かな予感がした。
結局、最後まで何もわからず仕舞いの出来事だった。それでも、日々を共に生き、認めてくれる存在がいると知れたのは何ものにも代え難い支えとなった。
人生は否応なく選択を迫ってくる。そうして世界は分岐して無数に広がっていくのだろう。その数だけ後悔や心残りが生まれ、もしもの世界に想いを馳せるのだ。仕方のないことである。だが、少なくともそこに不正解はないのかもしれない。
日々の努力と一歩を踏み出す勇気があれば、どの選択肢も正解ルートになり得る。この一か月はそんなことを学んだ気がした。
『俺』は今どの辺りを歩いているのだろう。部屋に戻って窓を開けると、いつの間にか下にトラックが停まっていた。
ピンポン、と古ぼけた音が鳴り響く。
自分の部屋へ入るときにチャイムを押す奴はいない。忘れ物を取りに来た、なんてことはないだろう。
どうやら俺もこの部屋を出ていくときが来たようだ。
【おわり】