【最終選考作品】まちがいさがし(著:ラム・и)
耳元で鳴り響く爆音。布団を蹴っ飛ばして起き上がったおれは、スマホの画面に浮かぶストップのアイコンを素早くタップする。音は鳴りやまず、次に画面に浮かんできたのはパズルのピース。五つのピースを組み合わせ、きれいな正方形を作るまで、スマホは大音量で悲鳴を上げ続ける。毎日違う問題が出される最強目覚ましアプリ。けれど、おれがこの問題を解くのは六回目。指が覚えている。おれの手の中でスマホはたちどころに静まった。昨日も一昨日もその前の前の日も、同じパズルだ。いや、正確に言うと昨日でも一昨日でもなく、全部「今日」。おれは同じ七月十八日の朝をもう六回も繰り返している。そう、今日は六回目の二〇二X年七月十八日。時間は午前七時。
ハーフパンツに襟口のへたった部活Tシャツ姿のままトイレに入ると、センサー式の便座の蓋が、かすかな電子音を響かせて開く。よし、変わりない。一度指摘された「間違い」は、次のターンでは修正され、元に戻るのだ。
テーブルの上の握り飯を立ったまま口に入れる。
「リョウ! 今日は遅刻しないでよ!」
流しの前のおかんが、皿洗いの水音に負けないようにと声を張り上げる。「おー」と生返事だけして、卵焼きをつまむ。
昨日はおかんの横分けの前髪がまんなか分けに変わっていた。これは相当発見が難しいパターンだ。母親の前髪なんか、男子高校生の目に入るはずもない。下手をすると見逃してしまうところだ。一昨日の便座がセンサー式じゃなくなっていたパターンと比べると、急に難易度が上がったように感じる。でも結局気づいたのだから、おれは孝行息子に違いない。
「リョウ、聞いてる?」
けたたましくたたみかけてくるおかんを無視してテーブルの上の弁当箱を摑み、部屋へ戻って制服に着替える。白シャツにグレーのチェックのスラックス。深緑のネクタイはいつも通りゆるめに結ぶ。リュックを背負って家を出る。
マンションの駐輪場から自転車を引っ張り出し、いつもの通学路を走り始める。が、さっそくつんのめりそうになる。マンションの前の交差点の横断歩道のラインが、目にも鮮やかなショッキングピンクになっていた。
歩行者用の青信号が、ぴよ、ぴよ、とのどかな音を響かせる中を、小学生の列がショッキングピンクを踏みしめながら進んでいく。なかなかシュールな光景だ。それにしても、あまりにも分かりやすすぎる。もしかして、罠? いやいや、おれの元いた世界を思い出せ。第一回目の七月十八日。横断歩道は、ショッキングピンクなんかじゃなかった、絶対に。
おれの左胸が、ドクンと大きく鼓動する。その左胸に握りしめた右のこぶしをドンッと押し当て、誓いを立てるようなしぐさで、おれは叫ぶ。
「横断歩道がショッキングピンク!」
そのとたん、世界がグルッと反転する。マンションが傾き、小学生たちの行進がおれの頭上に、そして青空がおれの足元に。遠ざかる意識の中で、星雲のような光り輝く渦が近づいてきて、その中に呑み込まれてゆく自分を感じた。
「ねね、やっぱり、今の分かりやすすぎたよね?」
綿菓子みたいにほわほわした甘い声が言った。
おれはどこまでも広がる、暗闇と光の粒の混じった空間に、寝そべった姿勢でふんわり浮かんでいる。
声の主はおれの顔をのぞき込んでいる。が、あいにくその顔は見えない。キリンのマスクをかぶっているからだ。うん、たぶん、キリン。子どもの落書きみたいに目鼻の配置がだいぶ狂っているけど、首までスッポリ覆った黄色に茶の斑模様と、先っぽの丸い二本のツノは、キリンだろう。なで肩でほっそりとして、白い千切れ雲みたいな衣を身につけている。五歳くらいの小さな女の子に見える。でも、人を食ったような話し方は、決して五歳児のそれじゃない。うんざりしながら、おれは答える。
「分かりやすい、おかんの前髪よりずっと分かりやすい、だから逆に混乱した」
「でも、当てたね。これで残り五問。ねね。サービス問題だよ。サービス問題」
「でもあと五回もこれやんでしょ? いいかげん、疲れたんだけど」
「そう? ゲームだよ、ゲーム。ゲームって楽しいじゃん」
「おれ楽しくない」
「そんな。昔よくやってたじゃん、『まちがいさがしゲーム』」
「覚えてないし。なんで知ってんの?」
「いや、一般的にさ、小さい子って『まちがいさがしゲーム』好きじゃん」
「そんな一般論出されたって。しかもおれ小さい子じゃないし」
「最近は認知症予防とか、お年寄りのデイケアでのレクリエーションとかで人気らしいよ」
「いや、だから、おれ高校生」
おれがこのやりたくもないゲームに強制参加させられたのは、第一回目の七月十八日を無事終えて、布団に入ったあとだった。寝入ったはずのおれは、気づくとこの星雲みたいな空間にいて、突然現れた見ず知らずのキリンに「今からゲームのルール説明をしまーす!」と元気いっぱい、宣言されたのだ。
「ゲーム?」
星雲に浮かんだまま、おれは尋ねた。
「そそ。『まちがいさがしゲーム』。やったことあるでしょ。『左右の絵には五か所の違いがあります。探してください』とか。右の絵のTシャツの柄は星なのに、左ではハートになってるとか」
「ああ」
「原理はあれと同じなんだけどね、ちょっとだけ難しいよ。きみには今から、もう一度、というか最低でももう十度、七月十八日を生きてもらいます。で、きみが昨日過ごした本物の七月十八日との違いが、十個あるからね、その十個を全部見つけてほしいんだよ」
「なんで?」
「だって、おもしろいよ、ゲームだもん」
「おもしろくない。あと、おまえ誰?」
「それでね」
キリンは気にしていない様子で続けた。
「きみは間違いを見つけたら、左胸の早押しボタンを素早く押して答えを言うの。たとえば、『Tシャツの柄のハートが一つ多い!』とか」
「早押しボタン?」
おれは着ているTシャツのヘロヘロの襟口から自分の左胸をのぞいた。もちろん、そこにはボタンなんてものはなく、たいした胸筋もない貧弱な男の胸があるだけだ。
「早押しって、誰かと競うの?」
「誰もいないよ。きみだけのゲームだから」
お構いなしにキリンは続ける。
「それで、一つ間違いが見つかるたびに、きみはまた七月十八日の朝に戻るから。全部で十個の間違いがあるから全部見つけてね、そうしたらきみは元の世界に戻れるよ」
「なにそれめんどい」
「間違いを全部見つけるまで、このゲームは終わらないよ」
キリンの声が低くなった。
「きみは永久に七月十八日を生きることになるよ。そこから先には行けなくなる。地獄の無限ループだよ。七月十九日はきみには永遠にこないの」
「なんだよ、それ。どうしてそんなことしなきゃなんないんだよ」
「だってルールだもん。それからね。間違ってないのに間違いだって言っちゃったらダメ。一回でもお手付きしたら、もう永久に元の世界に戻れなくなるよ。あと、わざと自分で改変しちゃった場合もね。本物の七月十八日の流れを忠実に守ってよ。異変だけ指摘するの。異変に関与しちゃいけない、君はボタンを押して答えを言うだけ」
「それ、むずくね?」
「ルールは分かった? じゃ、がんばってね! ときどき応援に来るからね!」
言い返すひまもなく、おれはぐるぐると渦を巻き始めた星雲の中心に、なすすべもなく呑み込まれていった。そして、次に目覚めたのは、終わった「昨日」であるはずの七月十八日だったのだ。
「ときどき応援に来るからね!」という言葉どおり、キリンは時々こうして様子を見に来る。
「あと五つ見つけるのはともかく、いちいち朝に戻んのめんどいんだけど。一気に何個かってわけにはいかねーの?」
「ま、ま、いいじゃん、七月十八日を少なくともあと五回楽しめるんだよ! 出血大サービス! レッツエンジョイ!」
「それ、本気で言ってる? 突然理由もなくこんな過酷なゲームに投げ込まれてさ、理不尽じゃね? よかったら代わるけど」
キリンは一瞬無言になった。マスクをつけているから、その表情は分からない。
「わたし、君を見守るのが仕事だから」
なんだか大人びた声だった。
七回目の七月十八日が始まった。トイレの便座は勝手に上がり、おかんの前髪は左に流れ、ゼブラゾーンのラインは白。おれは自転車をかっ飛ばしながらも周囲に何か異変はないか神経を張り巡らせるが今のところ異状はない。生徒玄関脇の花壇の前に自転車を放置して校舎へ駆け込む。あとで生徒指導部のにこっぴどく叱られるのだが、もう慣れたものだし、第一回目の七月十八日と何一つ変えてはいけないのがルールだ。
教室に駆け込むと同時にチャイムが鳴る。寸分狂いもないタイミングで、すばやく席に着く。
「リョウ、今日もギリじゃん」
同じバスケ部の町田が隣の席からちゃかしてくる。担任のはいつもどおりのひっつめ髪に銀縁眼鏡。化粧っ気のない顔をニコリともさせず、無言でペンを出席簿に走らせる。チャイムが鳴り終わる前に出席簿に遅刻の斜線を入れ終えるのが彼女の流儀だ。このクラスの遅刻者数が他クラスから抜きんでて多いのは、彼女のこの容赦のないチェックによるところが大きい。三回目の七月十八日は、彼女は眼鏡をかけず透け感のある赤いブラウスを着て、バッチリ化粧までしていた。にっこり微笑みながら、「みんなおはよう、ホームルーム始めまーす」と、一日が明るくなるような弾む声で挨拶した。おれはもったいないと思いつつ、右のこぶしを左胸に当て、「鈴原がイケてる!」と叫んだっけ。
一時間目は数学の時間。野球部のが指名され、黒板に宿題の答えを書かされる。
おれが発見した「まちがい」第一号が、サウスポーの相崎が右利きになっているということだった。授業中だし、本当に叫んでよいものかためらったが、これは現実ではない、ゲームの世界だ、ここで叫ばなければゲームをクリアできない、と自分に言い聞かせて叫んだ。「相崎が右利き!」
今、目の前で相崎がおなじみの解答を書いている。解答は間違っている。おまえ間違うのこれで何度目だよ、いつまで間違う気だ、とこっそり突っ込んでみる。
今回はなかなか「まちがい」が見つからない、と思っているうちに昼休みになった。ベランダのベンチで同じバスケ部の町田・と昼メシを食べる。おれはおかん手製の二段弁当。金杉がノリ弁。町田がサンドイッチとホットドックというラインナップ、の、はず……。
見ると、町田が、ドロドロした緑色の、粘度の高い液体にまみれた赤い丸い物体を口に入れている。
「ま、町田?」
「あ、これ? ローホンの新作のタコのジェノベーゼサラダ」
町田は赤と緑の色彩の絡み合った物体を掲げて見せる。
「タ、タコ?」
「なんだよ、女子が喜びそうなオシャレな感じの食いやがって!」
金杉が町田にからむ。
「結構うまいんだよ、これ。枝豆とかアボカドとかコンキリエッテピッコレとか入ってんの」
「コンキリ? おまえの口から出る言葉じゃねーよ!」
どうでもいいことにウケた金杉がゲラゲラ笑う。いや、どうでもよくない。
(町田、おまえ、タコ嫌いだろ?)
口が勝手に動き出しそうになるのを、寸前で止めた。
大口を開ける町田の口の中へ赤いボールが吸い込まれてゆき、町田はそれをうまそうに咀嚼する。その至福の表情を見ていたら、むらむらと怒りが湧いてきた。
(町田! おまえがなぁ、タコ嫌いだ、デビルフィッシュなんか食えない、タコ食うくらいならかに道楽のカニに挟まれて死ぬって言うから、道頓堀の「赤鬼」あきらめたんだぞ、おれは!)
去年の修学旅行での無念の思いが、ふつふつとよみがえってくる。大阪グループ行動、タコ焼き屋を却下したのはおまえだろうが!
大阪まで来て憧れの「赤鬼」をあきらめざるをえなかった、おれの無念を思い知れ!
おれは町田をヘッドロックした。もちろん、おれの頭の中で。
キリンの言葉がよみがえる。
異変に関与しちゃいけない。あなたはボタンを押して、答えを言うだけ。
この世界に一つでも変化をもたらしたら、おれは永遠に七月十八日に閉じ込められる。無事七月十九日がスタートしたあかつきには、町田の頭に一発くらわせてやる。まあ、向こうの町田にとっては飛んだとばっちりだろうけど。
深呼吸をして、右のこぶしを胸に当てる。
「町田のタコ好きー! こんちくしょー!」
「あと四つだよー。もうゴール見えてるよ。ねね」
星雲に浮かんだおれに、キリンが言う。
「もう限界。おんなじ日、繰り返すの疲れるんだけど」
「だよねー。うんざりでしょ。早く次の日に行きたいでしょ」
「繰り返してると、一回目の記憶があやふやになってくる。間違えるかも」
「大丈夫、やさしいのにするから。自信がないときはスルーしたっていいんだよ。ねね。何回繰り返してもいいんだから、七月十八日。もう間違いない、これが間違いってときだけ答えることにしてさ、あと百回くらいやってもいいかも」
「やだよ!」
「あはは、うそうそ、冗談だよ。ゲームクリアまでもう一息じゃん! ねね。最後まで楽しんでね!」
「楽しくねーから」
おれはそれから三つの「まちがい」を見つけた。
七つ目。放課後部活に出たら、主力選手だった一九〇センチの小林ジェフリーが女子マネの一人になってた。この日はおれたち三年生の引退試合でもあり、二年生にこてんぱにやられて終わった(ここは変わんないのかよ、と思った)。
八つ目。帰り道、夕日が東の空に沈んでいくのを眺めた。こんな光景を見るのは、最初で最後だろうと思ったから、目に焼き付けた。
九つ目。バイトに行く途中、すれ違ったおじさんの連れているトイプードルが、一匹から十匹に増えていた。確かに、見逃すはずのないサービス問題が増えている。
十一回目の七月十八日。おれはコンビニのレジにいた。時間は午後九時。今日「まちがい」を見つければ、ゲームクリアだ。おれは晴れて元の世界に戻れる。そう考えると、ほっとするというより、やたらに緊張感が高まってくる。
それもそのはず、おれがここにまだいるということは、どういうわけか、今回はまだ「まちがい」が見つかっていないのだ。もうすぐ十一回目の七月十八日が終了しそうだというのに。これはかなり焦る。
コンビニの中にいるのは、バイトのおれと、髪の毛の薄さ具合からたぶん五十代と思われる店長。お客さんはスイーツの棚を物色している仕事帰りふうの(たぶん)二十代女子と、雑誌コーナーで週刊誌を立ち読みしているスーツの男性。このあと二十代女子は確か「氷結」オレンジのロング缶を買い、スーツの男性は何も買わずに十時過ぎに出ていく。それにしてもよく覚えてるな、おれ。
これから、最後の「まちがい」が生じるのだろうか? 二十代女子が「氷結」じゃなくて「アサヒスーパードライ」を買うとか? いやいや、それかなり難易度高めだろ。ほんとに「氷結」だったか自信がなくなってくる。 スーツの男が突然コンビニ強盗始めるとか? そんな緊急事態になったら、おれ、早押しボタンとか押してる余裕あるかな?
それとも、もしかして見逃したのか? サービス問題続けておいて、最後の最後に「おかんの前髪」レベルの難問になっていたとか? もし、とっくに見逃していたとしたら、今夜家に帰って眠っても、また明日七月十八日が始まるのかも知れない。うんざりする。性格の悪いキリンのことだから、「ねね、やっぱ、わかんなかった? だよねー」くらい言いそうだ。確信を持てない限り、おれは「早押しボタン」を押せない。お手付きは一回でも「無限ループ」送りなのだから。
しかし、ふと、疑問が浮かぶ。
こんなに必死になって戻らなきゃいけない「世界」だったろうか、元の「世界」は?
おれは七月十九日を始めたいのか?
おれの中の別の声が答える。そりゃ、始めたいに決まっている。彼女作りたいし、大学にも行ってみたい。海外旅行もしてみたいし、『ワールドトリガー』の最終回も読みたい。
でも。と、また別の声が言う。別に、このまま七月十八日を繰り返してたってよくね? 仲間とだらだら過ごして、弁当食って、部活の引退試合で負けて(勝ちたいけど)、バイトして。受験勉強もしなくていいし(ていうか今もしてないけど、高三の夏……笑)、将来就職とかしてずっと自分の食い扶持稼ぐために働き続けるなんて、なんか、だるくね?
ずっと「今日」を生き続けるってのも、悪くないんじゃね?
自動扉が開いて、夜風が入ってきた。え、このタイミングで客なんか来たっけ、と、ぼんやり考えながらも反射的に、
「いらっしゃいま……」
言いかけて、おれは言葉を失った。
肩に触れる長さの髪が、扉から吹き込む夜風に揺れる。天井の照明の光を映して、アーモンド形の眸がきらめく。美咲がニコッと笑いかける。美咲。
「リョウ、おつかれー!」
美咲がおれに話しかける。おれはあんぐりと口を開けたまま、突っ立ていた。美咲。美咲。
「今日は塾がんばってるわたしにごほうびの日! スイーツの日!」
美咲が笑っている。心臓がバクバクして、息がうまく吸えない。これか。最後の「まちがいさがし」。生きてる。美咲が生きている。鼻の奥が、急にツンとなる。
美咲が死んだのは、一年前の七月十八日。塾の帰りにコンビニに向かう途中で、左折するダンプカーに巻き込まれて死んだ。十七歳だった。
美咲とは高校は違ったが、保育園から中学までが一緒だった。よく笑う明るい女の子で、高校では男バレのマネージャーをしていたらしい。美咲はときどきおれのバイト先に来て、スイーツを買っていった。レーズンバターサンドがお気に入りだった。レジ打ちをしながら、おれは美咲と言葉をかわす。ほんの二言、三言。そんな夜が何度かあった。
幼馴染としての親しみはあったけれど、好きだとか、そんなふうに感じていたわけじゃない。でも、美咲が死んでから、おれは、少し変わった。小さな違和感が四六時中おれについて回った。仲間とバカ話をしているときも、部活でロングシュートを決めたときも、カラオケボックスで「髭男」歌っているときも、いつも、薄い膜を隔ててこの世を見ているような、おれだけ狭い別の場所からこの世をのぞいているような。そんな気持ちが、ずっと続いていた。
一回目の七月十八日は、美咲の一周忌。だからおれは一回目のその日、バイト終わりに美咲の轢かれた場所に行って美咲のために祈った。祈っていると、一年前におれが失ったのは、美咲だけじゃないような気がした。美咲と一緒に永遠におれの中から消えてしまったものがあるような気がした。それが何なのかは知らない。でも、きっとおれはこれからも、スマホの画面に流れる動画をただ眺めているような毎日を、生きていくのだろうと思った。そして、家に帰って眠った。そうしたら、翌朝から「ゲーム」が始まったのだ。
美咲、とおれはスイーツの棚の前に立つ美咲を見つめる。美咲は前と変わらない姿で、屈託のない笑顔を浮かべて、壺出しプリンとかガナッシュとかシュークリームとかを眺めている。「目移りしちゃうな」なんて呟きながら。いつもそうだった。でも、最後には、「やっぱりこれ!」って、レーズンバターサンドを選ぶんだよな、美咲。
一日の最後にこうして美咲に会えるなら、この七月十八日を永遠に繰り返してもいいかもしれない。
「地獄の無限ループ」っていうけど、元の世界だって「地獄の無限ループ」だったじゃないか。目覚めても、目覚めても、そこは美咲のいない世界だった。おんなじだよ、とおれは思う。そもそも、美咲が死んだこと自体が間違いじゃないか。そっちのほうが、「まちがい」だったんだよ。そんな間違った世界、おれは戻らなくていい。美咲がいる世界が、正しい世界だ。
いつのまにか、おれは泣いていた。これもダメなのかな。一回目の七月十八日のおれは、バイト中に泣いたりしなかった。キリンは「わざと」改変することは許されないと言ったけど、この涙は勝手に出てきてんだよ。でもまぁ、もうどうでもいいか。美咲がここにいるんだから。
美咲がスイーツに手を伸ばす。美咲の背負ったリュックに ぶらん、と揺れる黄色いものが見える。ディズニーキャラクターのティガーのマスコットだった。
「これ、ティガーだもん!」
美咲が、目にいっぱい涙をためて叫ぶ。美咲はクレヨンが散らばった床の上にペタリと座り込み、紺のスモッグの胸に、描きあげたばかりの絵をギュッと抱きしめている。そんな美咲を取り囲んで、悪ガキどもがはやし立てる。
「ティガーだってー」
「ティガーはトラだろー。なんでおまえのティガー、ツノあんだよ」
美咲はハッとしたように絵を見て、たちまち頬を真っ赤にした。
それ、ティガーに見えないよ、キリンだろ。なんか模様も違うし。とおれも思った。
思ったけど、気づいたら散らばったクレヨンを拾い集めて、美咲の周りのやつらにぶつけまくっていた。先生があわてて飛んでくるまで。
星雲の上に、おれはいる。
「気づいちゃったかー」
と、キリンの、いや、ティガーのマスクを脱いだ美咲が言った。ティガーの絵を描いた頃の五歳児の顔をしている。
「美咲、絵、下手だったよなー」
「うるさい!」
「なんで小さい女の子みたいになってんの?」
「リョウと毎日過ごしていた頃の姿になってんの。保育園でさ、『まちがいさがし』、いっぱいやったじゃない?」
「そうだったかな」
「わたしには、最高の思い出の一つだよ」
でもね、と美咲は続けて言う。
「わたしの大事な人たちには、これからもっと、たくさんの思い出を作ってほしい。私の歩けなかった道を、先の先まで、ずうっと先まで歩いていって、私の見られなかった景色を、いっぱい、いっぱい見てほしい」
それを言いたくて、遊びにきちゃった。だからね。
美咲の声が、星たちに吸い込まれるように消えてゆく。美咲の姿は、もう見えない。
わかったよ、美咲。
おれは右のこぶしを左胸に当てる。力強く鼓動し続ける、心臓の上に。
美咲、ありがとう。
そして、今までで一番の、大声で、叫ぶ。星雲の果てまで、届くように祈りながら。
【おわり】