【最終選考作品】奇跡の一枚(著:あいうちあい)
もう使わないからと言って、僕は長らく借りていた一眼レフカメラを父に返した。それは逆立ちしても高校生の手には届かない高価な代物で、頗る性能が良く、父が仕事で忙しく趣味に割く時間がないことからずっと借りていた物だった。
「本当にもう使わないのか?」
「うん」
理知に富んだ父の顔は険しく、その視線は真っ直ぐ僕を捉え、見透かそうとしていた。僕は堪らず、つぅと目を逸らす。父の書斎には本が山と積まれ、至る所に写真が飾られている。普段なら図書館のように安心する場所なのに、今は居たたまれない。
少しして、父は閉ざしていた口を開いた。
「博人、今週末にでも川に散歩に行こう」
「でも」「写真は撮らないんだろう? 分かっている。ただの散歩だ」
「……分かった」
父が半ば強引に誘ってくることなど一度もなかった。正直気が重く、億劫である。しかし、これを断る術を僕は知らなかった。
書斎を後にして自室に戻る。部屋に入った瞬間に変な感じがすると思ったら、壁に飾っていた写真を昨日全て外していたからだった。通りで殺風景な訳だ。何だか自分の部屋ではないみたいで、僕はベッドに飛び込んでそのまま枕に顔を埋めた。暗い眼裏を凝視すると、色とりどりの砂がちらちらと蠢いている。それを見ているうちに、思考は勝手に一人歩きをし始めた。
「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うということを念頭に置いておくんだ」
父に初めてカメラの使い方を教えてもらった時、綺麗に撮るコツを訊ねたらそう返ってきたことを思い出す。その日は休日で、近所にある公園のツツジが満開だというのでカメラを引っ提げて二人で出かけたのだった。ようやく穏やかな南風が吹き始め、新緑のせせらぎが聞こえる時分、ピンクの星形は誘惑するように咲き乱れていたのをよく覚えている。まさに躑躅と形容するに相応しい光景に、僕は早速カメラのレクチャーを受けて何枚か撮ったものの思うようにいかず、それで訊ねたのだ。それにしてもカントなんて、当時中学生の僕が到底分かるはずもなかった。
「どういうこと?」
「私たちは、物があってそれを見ているのではなく、認識できる範囲で物を見ているということだ」
「余計、分かんないよ」
父は顎に手を当てて少し考えてからまた話し始めた。「父さんは目が悪いから眼鏡を取ったらぼんやりと靄がかかったように世界が見える。お前はまだ目が良いからはっきり見えるだろう? つまり、人によって世界の見え方が違うということだ」
「そっか。同じ世界を見ているのに、一人一人違うんだね」
「そうだ。一人一人の能力や知識、その時の感情でも世界の見え方が全く異なってくる。例えば、悲しい時に晴れていたら空が色褪せて見えるけど、嬉しい時に晴れていたら空が鮮やかに見える」
「うん、それは分かる」
「人はそうやって各々世界を切り取って見ているんだ。だから父さんは心揺さぶられる光景を、なるべく見たまま、感じたまま写真に収めたいと思いながらシャッターを切る。だけどこれが難しい。何故だか分かるか?」
その問いかけは恐らく先ほど上手く撮れなかった理由に繋がっている。
「レンズ越しに見る世界は、僕が実際に見ている世界と違うから?」
満足気に父は頷いた。「そうだ。だからどう表現したら自分の見えている世界に近づけるか、考えなくてはならない」
父は僕の手からカメラを取ると、無言で被写体と対話をしながらゆっくりと構え、そしてシャッターを切った。父に撮られたツツジは画面越しでも可憐な艶っぽさが滲み出ていて、こうやって撮っているからこそ、父の写真には惹かれる魅力があるのだと合点した。
「凄い。と思うけど……、駄目なの?」
目の前の人は首を捻っていたのだ。
「いや、悪くない。ただ、自分が見たままの世界を完全に切り取ることはきっとできないんだ。カメラは私ではないし、写真を見る人も私ではない。それにそもそも写真になった時点で、それはもう私の見たそれそのものではなくなってしまっているのだから」
父の話は時に難解で解しがたい。けれど今父が何か越えられない壁に悲しんでいることだけは分かった。
「でも、僕は遠い将来、この写真を見て今日のことをきっと鮮明に思い出すよ」
写っているツツジが綺麗だったことは勿論、公園で鬼ごっこを楽しむ元気な子供たち、カラスが餌を求める鳴き声、移動販売のクレープ屋さんの甘い匂い。今の僕が父と体験していることはこの写真の中に全てある。
思いが伝わったのか、父が相好を崩した。「そうだな。写真の良いところは思い出も一緒に切り取れるところだ」「うん」
つられて笑うと、父は驚くべき速さで僕に向かってシャッターを切った。
「あ!」「良い写真を撮るもう一つのコツは、一瞬のシャッターチャンスを逃さないことだ」「駄目、何も良い写真じゃない。著作権の侵害だ」「それを言うなら肖像権だろう」
僕は頬を膨らませたが、父は声を上げて笑っていた。暖かな昼下がりのことだった。
それから僕は暇さえあればカメラを借りて写真を撮った。割れたアスファルトの隙間から顔を出しているハルジオン、カラフルだった名残が残る錆びたボロボロの滑り台、校庭で練習をしている運動部など、自分が何かを感じたものは手当たり次第カメラに収めていった。被写体を探しながら散歩をすると、別世界に迷い込んだかのように目に映るもの全てが新鮮に見えてくるから不思議だ。それと同時に自分は今まで様々なものを見落としてきたのだと痛感する。
撮る時は父に教わったコツを思い出しながらシャッターを切った。経験を積むほど要領を覚え、構図、明暗、彩度などを意識するようになっていった。そしてそれと同時にあの時父が言っていたことも分かってきた。写真で僕の見た全てを切り取ることはできない。僕の情景は僕だけのものなのだ。父と同じように悲しく、また寂しいと思った。けれどそれでも写真を止める気にはならなかった。
ツツジの日から一年経った頃、夜明けの湖を撮りに行こうと父に誘われて、車で少し行ったところにある湖を訪れていた。そこは日本で十の指に入るほど大きい湖で、子供の頃から何度か来ている景勝地だったが、カメラを始めてからは来ていなかった。
「既に綺麗だよ」
何度も日本一に選ばれるほど水質が良いので、浅い場所なら湖底が見える。しかもその日は快晴で、写真を撮るのにうってつけの日だった。
「撮っておいで。父さんはテントを張って夕飯の支度をしているから」
僕は早速散策を始め、やがて、ここだと思うところを見つけた。対岸は遠く、その地平線からこちら側まで深緑の山並みが連なっている。その緑を隔てて上には蒼穹が広がり、下には湖が、まるで海のように波打って、太陽の光を複雑に反射し、青と白をちりばめていた。雄大な自然を感じさせる絵だ。
その後も時間帯に合わせて表情が変わる湖を、僕は夢中になって追っかけた。休憩したのは夕飯の一回だけで、後は星の瞬く時間まで延々と湖に向き合っていた。
「良いものは撮れたか?」「うん、見て」
僕は意気揚々と今日の成果を報告する。
「うん、どれも良く撮れている」
父に褒められて、僕は素直に嬉しかった。
「ホットココアでも飲むか」「飲む」
暖かい季節にはなっていたけれど、ここは町中よりもずっと気温が低い。特に夜の冷え込みは尋常ではなく、防寒着を着ないと耐えられなかった。
テント前の小さな焚火を前に、二人並んでココアを飲んだ。焚火はパチパチと爆ぜ、湖はちゃぽんちゃぽんと岸辺を打ち、木々はさらさらと葉を揺らす。そして頭上には瞬く満天の星々。自然は意外にも賑やかである。
「父さん、夜空がね、宇宙人の町の夜景みたいだ」
僕がそう言うと、父は目を見張り、次いで空を仰いだ。「確かに。営みがあるようだ」
それから一つ頷いて微笑した。「お前には世界がよく見えているよ」
それは最高の誉め言葉だ。つい口元が緩んでしまう。僕は悟られたくなくて、ココアを飲んでそれを隠した。
少しして、明日も早いからと床に就いた。
そして夜明け前、僕は父に起こされて寝袋から這いずり出た。かなり眠たいが、本番はこれからだ。眠たい目をこすりながら外に出ると、まだ暗いというのにカラスが既に鳴き始めていた。
「カメラ、忘れているぞ」「ごめん」
我ながら何のために起きたんだという感じである。
やがて、少しずつ目前の山の稜線がくっきりしてくるにつれて、僕の脳も覚醒した。
何だ、これ。
始めはぼんやりと薄ピンクだった向こうの空が、次第に白に近い黄色になり、そこから濃いオレンジが押しあがってきて、山並みを真っ黒に象った。しかしこちら側は未だに藍の星空が残っている。反対色である朝と夜の空の堺目は喧嘩することなく共存し、細かなグラデーションで繋がっていた。そして凪の湖は大きな鏡となって、この空模様を双子の如く真似ている。
ああ、きっともうすぐだ。
空は徐々にグラデーションの幅が広がっていった。そしてついに、黄金の光が稜線から顔を覗かせた。湖にはそれに続く道が浮かび上がっている。
僕は言葉も忘れて必死にシャッターを切った。目の前にある全ての自然が手を取り合ってダンスをしていた。その光景は筆舌に尽くし難く、だからこそ僕は写真に収めなければならなかった。この世界を切り取りたい。この心が打ち震えて止まない情景を誰かと分かち合いたい。息を呑むほどとても美しいものを見た、不意に涙が出てくるほど素晴らしいものだったんだ。駄目だ、陳腐すぎる。僕の語彙では、言葉では足りない、語りつくせない。だから写真が必要だ。この得も言われぬ世界の、この世のものとは思えないほどの絶景の写真が。
朝を告げる輝きは立ち昇るごとに光量を増していき、忽ち夜の空を支配した。その頃になると湖は目覚め、キラキラと白い挨拶をし始めたので、僕は呆然とカメラを下ろした。
「綺麗だったな」
「うん、綺麗だった。父さん」
僕は湧き上がる情動を聞いてほしかった。
「暗いからこそ、明るさが際立つんだね」
「そうだ」
太陽があれほど光り輝くためには夜の闇が必要なのだ。そして色もまた同じく、鮮やかに見えるためにはそうでない部分がなければならない。物事は対比があるからこそ、より双方が際立つ。それは例えば幸と不幸、希望と絶望、喜びと悲しみ、生と死なども同じなのかもしれない。それらはコインのように表裏一体で切り離すことはできず、どちらがより優れているとか、価値があるとか、きっとそういう話ではないのだ。
「分かっているつもりだったんだ。だけど今日、本当の意味でそれを理解した気がする」
「良い経験をしたな」
僕は世界の真理を垣間見た気分だった。そして同時に胸がきゅうとして堪らなくなった。
「でも、父さん。この写真ではきっと完全に伝わらないよ」
この感動を伝えたいのに、伝えきれない。これほどもどかしいことは初めてだ。
父はそっと僕の肩に手を置いた。
「そうかもしれない。けれど、人には無限の想像力がある。お前の写真を見た人は、お前が何を思い、どう感じてそれを撮ったのか、この朝の気温、音、匂い、雰囲気、そういった諸々をきっと最大限まで想像して共感してくれるだろう。そうやって誰かとこの世界を分かち合うことはできるはずだ」
それは途方もない祈りにも似て、けれどその通りだと僕は思った。自分も誰かの写真を見る時、あれこれ想像をしているから。もしかしたら良い写真とは見る者の想像力を搔き立てる作品のことなのかもしれない。
父の励ましは力強く、僕は救われた気持ちになった。
その後、「ハルモニア・ダンス」と題したこの写真を中規模なアマチュア・フォトコンテストに応募したところ、何と入選し、父の言う通り、僕は誰かとこの朝の光景を分かち合うことができたのだと思って嬉しかった。
そう、僕は写真が好きだった。
しかし今はどうだ。僕は揺蕩っていた意識を呼び戻して目を開け、窓の外を見た。それまで私を撮ってと両手を広げて微笑んでいた世界が、今は他人のようによそよそしい。
僕は写真が撮れなくなっていた。
次の土曜日、約束通り父と一緒に外に出た。僕は撮らないと宣言したが、父はカメラを携えていた。
初秋の空は高く、ほうき雲が浮かんでいる。吹く風は清涼で、色褪せつつある木々はのどかながらもわずかな切なさを感じさせた。
家から歩いてすぐのところにあの湖から流れてきている清い大きな川がある。幼少期より慣れ親しんだ場所だ。橋の上から川を見下ろすと鮭が遡上していた。この鮭たちは四年前この川で生まれ、その後大海原へ旅立ち、今は産卵とその生涯を終えるためにこの故郷の川に戻ってきていたのだった。
てっきり父はカメラを構えるものだと思っていたが、一向にその気配はない。橋の欄干に手をかけ、川を見つめている。僕もそれに倣った。父は必ず頭で言うことを考えてから話し出す。きっと今は父の中で言葉を紡いでいる最中だから、僕はそれをじっと待った。
遠くで鮭がぽちゃんと飛び跳ねた時だった。
「昔、この川で溺れかけたことがある」
父が唐突に話し始めた。「うんと幼い頃の話だ。ここよりも上流の場所で友達と二人で川遊びをしていた。昔のことだからね、親は近くにいなかった。そして二人で溺れた。私は無我夢中で水を搔き分け、気がついたら大きな石にしがみついていた。しかし、友達の姿はなかった」
目を伏せた父の横顔で、その次の展開が何となく読めてしまった。
「その後、下流で冷たくなっている友達が発見されたよ」
何と返せば良いのか分からない。しかし、なぜ今日父がわざわざ僕を呼んでこの話を始めたのかは分かった気がした。
「私は幼いながらに不思議に感じていた。何故私ではなく、彼だったのだろうと。そこに何の違いがあったのだろうかと。……よく考えて、結局、そこに大した違いはなかったのだろうなと思った。右にいたか左にいたか、あるいは前にいたか後ろにいたか。違いなんてそれくらいしかなかったんだ」
父は遠い目をしながら今度は空を見上げた。
「私はあの時死んでいたかもしれない。そして私があの時死んでいたとしても、この世界は全く何事もなかったかのようにすました顔で回っていただろう」
そしたら母さんは別の男性と出会い、お前は別の誰かとして生まれたか、あるいは生まれなかったのかもしれないと父は付け加えた。
「その可能性はお前だけではなく、父さんにも言えることだ」
父の父親、つまり僕の祖父は戦時中に一度、三途の川を渡りかけたと言っていた。
「そう考えると、今ここに、この私として生きていることさえ不思議に思えてくる。……私という存在は何故これほどまでに不確かなのだろう?」
ああ、つい先日の記憶がフラッシュバックする。あの湖から一年と少しが経った今年の夏、僕が十六歳の誕生日を迎えた時にそれは突然降りかかってきた。
「実はね、あなたには雅人っていう弟がいたのよ」「え?」
母からのカミングアウトはまさに寝耳に水だった。
「一卵性双生児だったの。だけど母さん、あなたしか産んであげられなかった」
「……何で急にそんなことを?」
「水子は引きずると成仏できないって言うから黙っていたの。だけど博人ももう高校生になったし、そういう事実くらいは知っておいた方が良いかなと思って」
「……ふうん」
その時は吃驚したけれど、それくらいの反応だった。しかし、その日から確実に僕の世界は狂い始めた。
はじめは自分と同じ顔の弟がこの家で一緒に生活していたらどうだったろうと想像した。共に成長して遊んで、時には喧嘩もして、同じように写真にハマっただろうか。それはそれで賑やかで良い日常だと思った。
ところが、その楽しい妄想は母の出産に思いを馳せたところで終わりを告げた。そこには産声を上げた僕と、上げなかった弟の姿がある。ここでふと疑念が過った。
何故、弟だったのだろう?
僕が死んで、弟が生き残る可能性だって十分あったはずだ。瓜二つの僕たちの運命はどこで違えてしまったのだろうか。そう考えた時、僕の足元は突然砂上の楼閣のようにさらさらと崩落していった。
僕は偶然生きているんだ。
ここにいるのが弟でも世界は何の問題もなく回っているだろう。僕である必要などどこにもない。両親でさえ、ここにいるのが僕でも弟でもどちらでも構わなかったに違いない。どちらでもそれに適応して生活を送っただろうから。そしてもし弟が生まれていたら、僕は生まれていないか、あるいは別の誰かとして、別の場所、別の年代に生まれていたかもしれない。それなら僕が今ここにこうして生きている理由などどこにもないのだ。
生と死さえコインの表裏であり、どちらも等しく尊いものだと達観していたつもりだったのに、そもそも僕というコインの存在自体があやふやなものだったなんて思わなかった。
今まで見ていた美しい世界に、この僕自身は全く必要とされていなかった。その真実は僕を酷く落胆させた。それと同時に、見えている世界が僕の世界ではなく他人の借り物のような気がしてきて、僕は写真で世界を切り取ることにまるで自信がなくなってしまった。
あれほど情熱を注いでいたのに、撮るのが急に怖くなったのだ。それにこんな心情で撮ったところで碌なものは撮れない。僕は写真と、いや、世界と向き合うことができなくなっていたのである。しかし、それだけではない。
僕は何故僕としてここに生きて、存在しているのだろう?
これは人生に関わる重要な命題だ。僕は僕として生きて、存在している明確な理由が欲しい。この回答が得られない限り、今後の人生を歩むことはできない。むしろ、他の人たちは一体どうやって生きているというのだ?
父はそんな僕の異変に気が付いたからこそ、今こうやって話をしてくれているのだろう。
「父さんはどうやって抜け出したの?」
僕は目前の先人に、藁にも縋る思いで問うた。すぐに答えを教えてもらえると思っていたのに、答えは予期せぬものだった。
「毎日、同じ場所から川の写真を撮った。そしてある日突然気が付いた。シャッターチャンスは一度きりなのだと。それから、誰も同じ川は二度と撮ることができないのだと」
「誰も同じ川に二度と入ることはできないじゃなくて?」
古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは万物流転を唱え、この世の全ての物が刻一刻と変化する様を川にたとえたという。
「父さんの言いたいことは少し違う。川でなくても良い。誰も同じ風景は二度と撮ることができない、の方が分かりやすいか。まぁいずれにしろ、今のが答えを見つけるヒントだ。一年も真剣に撮っていれば分かるだろう」
父はカメラを渡してきた。
「もう写真は撮らないって言っただろ」
「誰に見せるでもない、気楽な写真だ。良いか、シャッターチャンスは一度きりだ。それを忘れるな」
そう言うとカメラを半ば強引に押し付けてきて、そのまま僕の反応も見ずに踵を返して一人足早に帰ってしまった。
「何なんだよ……」
珍しく父に苛つきながらも僕はその場で一枚パシャリと撮った。川と鮭とほうき雲と秋空。ただそれだけの写真だ。
気分は乗らなかったけど冗談を言う人でもないから、僕はそれから父に倣って律儀に川へ通い続けた。
シャッターチャンスは一度きりだ。
誰も同じ川は二度と撮ることができない。
そんなの当たり前である。鮭が飛び跳ねたところを撮りたいなら本当に一瞬だし、毎日同じところから撮っている川の写真も一様ではない。同じ晴れの日でも雲の様子、鳥や魚がいるかどうか、岸辺の人、落ち葉、川しぶきなど全てが違う。撮る時間帯が違う時もあるので猶更だ。
父さんは一体何が言いたいんだ?
僕は生きている理由を問うたつもりだった。この自分という存在の寄る辺の無さに対して、何か明るい道しるべが欲しかった。それなのに僕は何をやらされているのだろう。
晩秋の夕暮れ、帰宅する人々や車が橋を往来する中、僕は欄干にだらしなく寄りかかって顔を埋めた。川底には使命を全うして息絶えた鮭たちが白くなって沈んでいる。それを見ると、言い様もなく胸を締め付けられた。
あいつらも、僕と同じなんだ。
偶然ここで鮭として生まれ、広い海を冒険して、最期は故郷の川へ帰り、子孫を残して死ぬ。川へ戻ってこられる鮭などほんの一握りだ。そう考えるとこの鮭たちは天寿を全うしたエリートたちである。しかし生き物の営みにおいて個は重視されていない。誰が戻ってきても良く、そのために予め多くの稚魚が卵から孵る。そしてどれほど頑張っても最期はこんなふうに誰に褒められるでもなく、小さく傍らで死んでいく。
虚しかった。頑張って生きて死んだ者たちが可哀想だった。そしてそれは自分にも同じことが言えるのだからやるせない。
僕は居住まいを正すと黙祷した。せめて僕だけは敬意を表して悼んでやろう。
やがて冬になって雪が降ると、白鳥が飛来した。毎年この川には三十羽くらいが渡ってくる。愛嬌があり温厚で、いつも岸辺近くにいるのでかなり至近距離から写真を撮らせてくれる気の良い鳥たちである。僕もよくお世話になっていた。しかし今年は橋の上の遠くからしか撮っていない。
僕は未だに自分の存在理由を追い求めて、寒さにもめげずに毎日川に通っていた。けれど何も分からない。あれから父に一度だけ尋ねてみたけれど「人は自分が懸命に考えて見つけ出した答えにしか納得しない」とあしらわれてしまった。
転機が訪れたのは真冬だった。
その日は朝からずっと灰色のくすんだ雲がかかり、雪が降っていた。それは昼を過ぎ、僕が学校から帰宅する夕方頃になってようやく止んだ。
「道、除雪入ってないだろうから気を付けるのよ」「分かっている、行ってきます」
夕飯前に川へ行くのが日課になっていた。
雪は膝丈まで積もっている。僕は前に歩いた人たちの足跡に合わせて歩いた。この方が体力を温存できるし、靴に雪が入り辛い。
ようやく橋に着いたところで、珍しいものが目に飛び込んできた。
天使のはしごだ。
分厚い雲の切れ間から太陽の光が降り注いで見える現象のことである。それが川にかかっていた。しかも放射線状の広範囲ではなく、スポットライトのような光の柱で、ちょうど白鳥がいる場所を照らし出していた。
僕は何かに導かれるようにその岸辺に向かって走り出した。足に纏わりつく雪が煩わしい。全然前へ進めやしない。それでも何とかあの光がなくなる前にたどり着こうと、僕は必死に雪を跨いで跨いで突き進んだ。
やがて岸辺に到着した。何とか間に合ったと安堵した矢先、今度は舞台の観劇者になっていた。暗い川に一筋の光が射して白鳥を照らしている。その様は劇的で、かの有名なバレエの演目を、実際に白鳥たちがこの川で密かに演じているかのようだった。
ほとんど反射的にレンズを向ける。そしてシャッターボタンに手をかけたまさにその時だった。
あ!
白鳥のカップルがスポットライトに躍り出て、求愛のポーズを取った。と同時に、僕の指先に力が入っていた。
僕は震える手で恐る恐るデータを確認する。そこには天使のはしごの下で、仲睦まじい白鳥たちが愛を囁くようにお互いの頭をこつんと合わせている姿が写し出されていた。その姿は愛らしいというだけでなく、人間にはちょうどハートの形に見える。
完璧だ。
劇のフィナーレをカメラに収めることに成功した。それは全くの偶然だが、まさに奇跡の一枚だった。
そして、奇跡という単語が脳裏に過った瞬間、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。
僕の存在もまた、奇跡だったのか。
この写真は偶然の産物だ。そして今ここにいる僕という存在もまた、無数にある可能性のうちの一つである。それはつまり、ほとんど起こり得ない確率で起きた奇跡なのではないか。僕はそのことにもっと驚いても良いのではないだろうか。
父さんはこれを言いたかったんだ。
生きている理由などない。けれど理由がなくとも生きていける。いや、理由がなくとも生きていて良いのだ。全くの偶然、全くの奇跡だからこそ、生はこんなにも尊い。かけがえのない存在というのはそういうことなのだ。
じゃあもう一つの意味は……。
誰も同じ川は二度と撮ることができない。今なら分かる気がして、僕は写真のデータを一枚ずつ遡った。同じ構図でも、やはり皆どこかが違う。それはそうだ。刻一刻と変化する自然と、偶然生まれてくる者たちが織り成す世界に必然はない。どれ一つとして同じ模様にはならない万華鏡のように、一期一会の瞬間がすぐに立ち現れては消えていく。毎瞬偶然が積み重なって世界ができている。
世界は、なんて神秘的なんだ。
全てが偶然だからこそ、この世界はこんなにも面白いのかもしれない。
雅人、ごめん。
僕は事の発端である弟を内心少し恨んでいた。そして同時に僕だけ生きていることに対して後ろめたさも感じていた。その両方に謝る。未だに引け目がないわけではない。しかし、今はそれよりも、生まれた者として弟の分まで生を謳歌しようと思った。それが僕にできる唯一の弔いである。
考え事をしている間に天使のはしごは消え、代わりに銀の切れ間から爽やかなスカイブルーが覗いていた。僕の見える世界は、再び目に染みるほどの煌めきを取り戻したようだ。
その夜、僕は書斎で寛いでいる父に顔を出した。「次の写真展に応募しようと思う」
「そうか」
返事は素っ気なかったが、その表情は柔らかく、目尻にはカラスの足跡ができていた。僕は何だかこの人を驚かせてみたくなった。
「ねぇ、このカメラもうくれない?」
「なっ、駄目に決まっているだろう」
「だってもうずっと僕が使っているし」
「貸しているという心持ちが大事なんだ」
「ふふっ、冗談だよ」
父の急な慌てぶりに思わず吹き出してしまった。こんな賢者のような人でも物欲はあるのだなぁと思って安心する。
「博人」「何?」
「雪が溶けたらまた湖に行こう」
「いいね、でも今は今で見頃だよ」
「今度は登山だ。覚悟しておけ」
「本当? やった!」
山の頂上から見下ろす湖は格別に違いない。
部屋に戻ると賑やかになっていた。そう言えばつい先ほど、外していた写真を壁に飾り直したのだった。
ああ、ようやく帰ってきた。
ベッドに腰かけてほっと一息つく。それから少しして、僕はスマホを取り出すと、おねだりする登山用具を調べ始めるのだった。
【おわり】