【最終選考作品】田口弘美という人


「チケットが買えなかったから、転売されているチケットでコンサートに行ってきたの」

 目の前に座る「()(ぐち)(ひろ)()」という人が、そういう人だ。
 今勤めている会社の事務員として中途採用された際、同じタイミングで入社した同期が彼女だった。最初の研修で同じ時間を過ごす事もあったが、部署が異なるためそれほど仲良くはない。すれ違う際に(あい)(さつ)する程度だ。少なくともわざわざ終業後に、会社近くのカフェで向かい合うような仲ではないはずだと、私はそう思っていた。
 まだ若く人当たりも良い彼女は、会社の誰からも好かれていた。髪の毛もメイクも服装もネイルも、何もかも(てい)(ねい)に整えて出勤する彼女に比べ、息子を保育園に送るために毎朝戦争のような時間を過ごしている私が自分の()()(たく)に時間をかけられる余裕もなく、()(ぐせ)を必死に抑えただけの髪と最低限の()(しょう)を申し訳程度にのせただけの顔。仕事の覚えが悪い上に要領も悪いため、常に自分の事でいっぱいいっぱいになっている私が社内の人達からどのような目で見られているかは想像に難くない。
 そんな非対称的な私達がなぜカフェにいるのか。それは昼休みに突然彼女から誘われたのだ。今日の保育園のお迎えは夫が担当で、とくに断る理由もなかった私は二つ返事で了承したのだが、こうして膝を突き合わせている状況があまり()み込めていない。美意識の高い彼女が向かい側でデカフェのコーヒーを頼んでいるのを(はた)()に、私はマシュマロたっぷりのホットココアを注文した。
「転売されたチケットで入場できなかったりしないの? 今そういう規制をよく見るけど」
「私が行ったコンサートはとくに何もしていなかったよ。ちなみに隣の人も定価の十倍払って観に来たって言ってた」
「十倍すごいね
 子供を産んでから自分の趣味に使うお金も時間もなくなってしまった私からすればなんとも(まぶ)しい話だ。だからといって彼女達のした行為を良しとはしないけれど。ただそれを(とが)めるような関係でもない。私はホットココアの上にのっているマシュマロをスプーンで(すく)いつつ彼女の話を聞き流した。彼女もとくにそれを気に留める様子は見せなかった。
(なか)(はた)さんを今日誘ったのは、別に転売の話がしたかったわけじゃなくて」
「うん」
「まだ誰にも言ってないんだけど
うん?」
「私(にん)(しん)してるんだ」
「えっ」
 思わずスプーンをテーブルの上に落としてしまった。カランと軽い音に気付いた店員さんがすぐにおしぼりを持ってきてくれたのだが、(とし)()()もなくそんな事をしてしまった自分が恥ずかしい。店員さんにお礼を述べながら(こぼ)してしまったココアを拭いている間、彼女は笑うでもなく何か声をかけるでもなくじっと私を見つめていた。
「ごめんね、驚いてしまってその
 ここから続けられる言葉を必死で探した。彼氏はいたんだっけ? 結婚はしていたんだっけ? 今の時代何をどう聞いたらハラスメントにならないのか考えすぎて、なかなか言葉を続けられなかった。口をまごまごさせている私から手元のコーヒーカップに目線を移した彼女。デカフェを頼んだのは美容意識が高いからではなかった事に気づく。
「生理が遅れている事に気づいて病院に行ってきたの。今十週目だって。彼氏とはまだ入籍していないんだけど、そのうちするつもり」
「あ、ああ、そうなんだ。おめでとう。つわりとか体調は大丈夫?」
「うん。私つわりないタイプみたい」
「そんなタイプあるんだ
なんかさ、産婦人科の待合室って独特な(ふん)()()じゃない?」
「え?」
 店内のBGMにかき消されそうなほど小さな(つぶや)きに、私は短く言葉を返す。彼女の目線は依然としてカップに向けられたままだった。
私産婦人科にかかったのが初めてだったんだけど、明暗がハッキリと分かれているって言うか
 うーんと押し黙った彼女はどうやら言葉を選んでいるようだった。
「会計待ちの時にエコー写真を見ていたら隣に座っていた女の人が突然泣き始めちゃって。『うちの子が流産したのでそれしまってもらって良いですか』って言われたの。びっくりして。別に私も自慢するつもりで出していたわけじゃないんだけど、何も言えなくてそのまま写真は(かばん)にしまったの」
「あー
「けれど周りにいるほとんどの人が妊婦さんで、お腹の大きい人もたくさんいて。私のエコー写真だけ指摘したところで彼女の何が満たされたんだろう。なんだか『哀れ』ってこういう事なのかなって思った」
 彼女はそのきれいな指をまっすぐに伸ばしネイルを眺めながら呟いた。
 そう、彼女はこういう人だ。自分が経験しないであろう人側の気持ちを考える事ができない。悪気もないから咎めたところできっと何の意味もないだろう。その気持ちを少しでも()もうとする気があれば「哀れ」などという言葉で片付ける事はできないはず。
 なんとなく居心地が悪くなった私は残っているココアをほぼ一気に飲み干した。これ以上何の話も聞きたくない。伝票を(つか)み帰り()(たく)をしている私に気づき、彼女は「あと一つ話したい事があって」とぼやいた。私は彼女がその続きを話す前に帰らなかった事を(こう)(かい)する事になる。

「私の彼氏、妻子持ちなの」



それで、その『彼女』とはあれから会ってないまま?」
 翌週の日曜日、私は家族と映画館に来ていた。息子も楽しめる映画を選んだのだが、彼は途中で()きて寝てしまっていた。子供が寝ている時間は大人にとって(つか)()のボーナスタイムである。映画館の隣にあったカフェでコーヒーでも飲もうと、夫は寝ている息子を抱えてすぐに車までベビーカーを取りに戻った。その間にカフェへと先に向かった私は、最後にカフェで飲んだのはいつだったっけと考えてすぐに先週彼女と一緒に行った事を思い出し、ずんと気持ちが重たくなる。まだ何も飲んでいないのに胸やけした気分である。
 ブラックコーヒーの入ったカップを二つ持った私が窓際の席に着くとほぼ同時に、眠った息子が収まるベビーカーを押して夫が店内へと入ってきた。彼がこのボーナスタイムをどれだけ楽しみにしているかはその荒い呼吸が表していた。そこで夫から切り出された話にうんざりとした視線を返す。
「彼女、仕事休んでるみたいで見かけないんだよね」
「じゃあ、あの日気まずい雰囲気で別れたきりなんだ」
「そう」
 彼女とカフェに行った日、衝撃のカミングアウトを聞いた後、あまりにも早くその場を後にしたかった私は(あい)(まい)に言葉を返し、ほぼ強引に会計を済ませて一人先に店を出た。内容が内容なだけに他言するのはどうかと思ったのだが、一人で抱え込むのは難しかったため夫にカフェで聞いた話をすべて吐き出した。
「でも、彼女みたいな人ほど何事もなく無事に出産できるんだろうな」
 世の中そういう風にできている。
 いくら転売チケットでコンサートに行こうが、()(りん)しようが、流産した人を哀れだと見下そうが、彼女はこの先何か制裁を受ける事もなく(じゅん)(ぷう)(まん)(ぱん)な人生を(おう)()するのだろう。()(てい)行為をはたらいているのだから相応の処罰を受けてほしい気持ちもあるが、ただもう関わりたくない気持ちの方が大きい。
「そもそも何で彼女はそんな大事な事を私に話してきたんだろう」
「友達だったら絶対反対されるからじゃない? 不倫中の人達はとくに自分達にとって優しい言葉だけを()り好みするんじゃないかな。会社の同期だったら当たり(さわ)りのない事だけを言ってくれるし」
「でも会社で広められるかもって考えない?」
言いづらいんだけど、広められるほど仲の良い人いる?」
「あ
 そこでタイミングよく息子がぐずり始めたため、カップを返却した夫が息子を抱き上げ、私は(から)になったベビーカーを押して店外へと出た。キンと冷えた空気が耳を突き刺し、思わず肩を(すく)める。冬になると気持ちが落ち気味になってしまうなと、私はもう彼女が話した事をすべて忘れることにした。そうでないと負の感情に流されてしまいそうだった。



「弘美ちゃん、さっき渡した資料を十部追加でお願いできる?」
 この会社はどこで経費をケチっているのかコピー機が一つのフロアにしか置かれていない。そのためコピー機の周りには他部署の人達が集まってくるのだが、たまたま彼女がそこにいる時に来てしまった。しばらく休暇をとっていたのはやはり体調を崩していたのだろうか、今会うのは少し気まずいなと(とっ)()に物影へと隠れる。また時間をずらして来ようと(きびす)を返そうとしたその時、何やら親しげに彼女の名前を呼ぶ人が現れた。思わずそっと振り返ってみると、そこには彼女の上司である(いぬ)(かい)課長が立っていて、「(せい)()さん」と彼女も当たり前のように下の名前で返した。
「大丈夫です。会議のメンバー追加ですか?」
(きゅう)(きょ)第二営業部にも入ってもらう事になったんだ。弘美ちゃんも出席できる?」
「すみません、私今から別の打ち合わせが入っているので後で議事録確認させてもらいますね」
「分かった! ああ、それと今日飲みに行かない? おいしいワインのお店見つけたんだ」
私はお酒飲めないけど良いですか?」
 二人とも私の存在には気づいていないようで、立ち去ろうにも立ち去れない空気の中盗み聞きしてしまうような状況になってしまった。どうしよう。
 犬飼課長は妻子持ちである。先月行われた社内のイベントでは可愛(かわい)らしい奥様と娘さんを社内の人達に紹介しているのを見かけた。そしてこの空気感、まさかとは思ったが彼女の不倫相手は恐らく課長だ。しかしふと疑問に感じたのは、当然のように飲みに誘った彼の態度だった。彼はまだ彼女が妊娠している事を知らないのだろうか。彼女は「そのうち入籍する予定」と言っていたためもうすでに伝えているものだと思っていた。その考えは的中していたようで、少し(とげ)のある彼女の言葉に一瞬たじろいだ課長は「ああ、そうだったね」と軽く笑いながら受け流した。
「そこは料理もおいしいからさ、そっちを楽しんでよ。ローストビーフがおすすめだよ」
「妊婦は食べられませんけどね」
ええと、そうなんだ
「でも楽しみです。お誘いありがとうございます」
 終業後にいつもの場所で良いですか? と彼女はいつもと変わらずきれいに微笑(ほほえ)んだ。課長はそれに(あん)()したように「車で待ってる」と応え、少し周囲を見渡してから彼女の頭をぽんぽんと()でた。嫌悪感から「ひっ」と小さな悲鳴が()れてしまい咄嗟に口を手で押さえる。というよりも手で押さえていないと昼食に食べたサンドイッチが出てきそうだった。
 課長の遠ざかっていく足音を聞きながら私もすぐにその場を立ち去ろうとしたのだが、
「中畑さんって盗み聞きとかするんだね」
「ぎゃあああ!!」
 いつの間にすぐ傍に来ていたのか、すでにコピーを終えたらしい彼女がひょこりと顔を(のぞ)かせた。まだ見つかっていないと信じ切っていたために自分でも驚くほどの大きな声が出てしまう。咄嗟の言い訳もできずにただ気まずさを前面に出す私とは反対に、彼女は丁寧に巻かれた髪を耳にかけながら「ちょっとお茶でも飲まない?」と涼しげに笑った。
 自動販売機の前で「中畑さんはお茶で良いよね」と私がまだ何も言わないうちに彼女は麦茶を買って差し出してきた。慌てて自分の分は払うよと携帯を取り出したのだが、あの日は全部会計済ませてくれたじゃない、と自身も同じ物を買いながら私が払う事を拒否した。
「今時間大丈夫? 少しだけ話したくて
「私は平気だけど田口さんは今から別の打ち合わせがあるんじゃないの?」
「そこから聞いてたんだね」
「あっ」
 小さく息を呑む私を気にも留めないのか、彼女はコピーした書類を数えながら「犬飼課長が私の彼氏だよ」とサラリと告げてきた。それがあたかも特別な事ではないように口にするため、私は急いで周囲を見回す。幸いにも今この瞬間、私達以外誰も確認はできないが、誰がいつ現れるか分からない場所でそんな事を簡単に口にして大丈夫だろうか。警戒心のない彼女を見て、同じ部署の人達にはもうバレているのではないだろうかと考えた。
「さっきの会話を聞いて分かったでしょう。彼、私の話を何も聞いてないの」
 私の心配を余所(よそ)に彼女は溜め息を吐く。そこで先ほどの会話を思い出したのだが、不倫相手の前に部下である彼女のスケジュールを()(あく)していなかった(あげ)()、妊婦にアルコールを勧める課長。夫が言っていたように不倫をしている人達は自分達の仲を否定する言葉を聞き入れてくれない。その前に彼女達の問題に首をつっこんでトラブルに巻き込まれたくはなかったが、この言葉を言わずにはいられなかった。
「絶対に課長はやめた方がいいよ」
 (にが)(むし)()み潰したような顔でやっと吐き出した言葉を、彼女は一体どう受け止めるのだろう。響かなければそこまでだ。彼女は口元に笑みを(たずさ)えたまま「どうして?」と分かり切っている事を尋ねてきた。
「だって普通妊婦さんにお酒を勧める? 妊婦さんが食べたらいけない物も把握していないのは、奥さんが妊娠している時も関心を持っていなかった証拠じゃないの?」

「そういう小さいストレスが積み重なるといつか爆発してしまう。その時に何で爆発したかを理解してくれる人じゃないとこの先ずっとしんどいよ。結婚生活はずっと続くんだよ」
中畑さんは(だん)()さんに恵まれているからそうやって正論を振りかざせるんじゃないの」
 ぎゅっと薄い唇を嚙み締めた彼女は、手元の書類に目線を落としたまま口を開く。
「そりゃあ、奥さんが妊娠した時に何でも献身的に取り組んでくれる人が良いに決まってる。でも世の中そんな人の方が希少だよ。ご自分の旦那さんがそうだからって周りがみんなそういう人と結婚できると思わないで」
「なっ、
「私だって『ちゃんとした人』と結婚したかった。でももう今さらどうにもできないよ。一人で子供を育てていける経済力もキャリアも私にはないんだから」
 時間とってごめんね、と手早く書類をまとめて立ち去る彼女。一人残された私は(ぼう)(ぜん)とその後ろ姿を見つめていたのだが、ピタリと動きを止めた彼女は踵を返し、険しい表情のままコツコツとヒールの音を鳴らして戻ってきた。そしてその手に持っていた薄桃色のブランケットをずいっと私に差し出す。
「中畑さん、言い忘れていたけどオフィスは足元が冷えるからこれ使って」
 彼女の突然の言動に言葉が出てこない私を無視してブランケットを押し付けられる。むしろこれは妊婦であるあなたが使うべきでは、と受け取りを渋っていると、私はもう一つあるから大丈夫と無理やり押し付けられてしまった。一体何なのか。とりあえず彼女の厚意を()()にする事もできず、おずおずと受け取った私を確認して、彼女は今度こそ背を向けて歩いていった。妊娠しているから(じょう)(ちょ)が不安定なのだろうかと、少し失礼な事を考えつつ自分の部署に戻った私は素直にブランケットを膝に掛ける。まだ先ほどの嫌悪感が残っているのか、ふわりと香る()ぎなれない柔軟剤の(にお)いが気持ち悪かった。

 翌日、今日も今日とて保育園に行き渋る息子と格闘を繰り広げた私はすでに疲れ切った状態で出社した。見慣れないブランケットの掛かった自席へ足を向けるも、ふといつもと違う雰囲気を(まと)うオフィスに気づく。本人達は小声で話しているつもりだろう女性陣達の(かん)(だか)い声が耳につき、その原因をすぐに知る事ができた。
「犬飼課長と田口さん、不倫だって!」
 驚いた顔のまま勢いよく彼女達へ顔を向ける。「声がでかいって!」と笑いながら肩を叩き合う同僚達の姿を見て、当事者でもないのに心臓がバクバクと大きな音を立てた。昨日彼女と話していた内容を誰かに聞かれてしまったのだろうかと思案していると、ゴシップ好きの同僚がニヤニヤと笑いながらこちらへと向かって来ている事に気づいた。
「中畑さんって田口さんと同期だったよね?」
そうですけど」
「田口さんが妊娠してた事知ってた? しかも相手は犬飼課長だって」
いえ、今初めて知りました」
 仲が良いわけでもないので、と続けた私はどこか不服そうな顔を尻目にパソコンと向かい合う。
 私は別に彼女の事が好きではない。昨日努めて冷静に(さと)そうとしたのだが、逆ギレされた事で一層嫌いになった。それでも彼女以上に、個人の事をペラペラと社内で触れ回る人が嫌いだ。私は膝に掛けたブランケットをぎゅっと握り締め、同僚達のひそひそ話す声を背に業務に取り掛かった。
「田口さんってそういうの上手(うま)くやってそうなのにね」
「課長の奥さんはもう知っているのかな」
「知られないわけないよ。元社員だから知り合いがたくさんいるし」
「ああ、課長社内結婚だったっけ。かわいそう」

「でも結局田口さんみたいな人が幸せになるのよね。彼女って『そういう人』だから」

 本人のいない部署でこの雰囲気だ。彼女は今どのような空気の中過ごしているのだろうか。彼らの行った行為に対して一切の同情はできないのだが、どうして胸に何かつかえたような感覚を覚えるのだろう。
 私は無理矢理業務に集中する事で、一旦彼女達の事を忘れようとした。そもそも他の事を気に掛けられるような余裕などないため、時間を追うごとに自然と周囲を取り巻く(うわさ)は気にならなくなった。だから知らなかったのだ。(ちょう)(ほん)(にん)達が社長室に呼ばれ、来月には自主退職を迎える事になっている事を。それを知ったのはもう彼女の最終出勤日が過ぎた後だった。



「やっぱり中畑さんだ」

 彼女が退職してから五ヶ月が経った。()(ちゅう)の二人は転勤や降格の話も出たそうだが揃って退職届を提出したらしく、私はもう季節外れになってしまったブランケットを返しそびれてしまったため、どうしようかと考えつつも一旦自分のロッカーに仕舞い込んだ。彼女の家に郵送しようとも思ったのだが、連絡先さえ知らない私は調べるのも(おっ)(くう)になってしまい何もできないでいた。
 通院のために早退した私は受診を終え、保育園のお迎えまで近くのお店をふらふらと見て回っていた。その時少し懐かしい声が耳に入ってくる。振り返るとそこにはブランケットの持ち主が立っていて、彼女は記憶の通り人当たりの良い笑みを浮かべていた。
 ただ、私は彼女の姿を見て(とっ)()に言葉を返せなかった。あの時から数えると週数的にお腹が大きく出ているはずなのに、彼女のお腹は変わらずぺたんこだったからだ。その上タイトスカートとピンヒールまで()きこなしているその様はどう見ても(にん)()ではなかった。色々な考えを頭の中で巡らせては口ごもる私を見て、彼女は「久しぶりに会えたしお茶しない?」とあの時と同じカフェを指差した。
 店内に入った瞬間香るコーヒーの匂いに落ち着きながら、それとなく周囲に知っている人がいないか目線を配る。警戒する私とは裏腹に「別に誰に聞かれても良いよ」と彼女はメニューを眺めながら興味なさそうに口を開いた。私達はあの時と同じ、デカフェのコーヒーとマシュマロののったホットココアを注文した。
「仕事を辞めた後に中畑さんと連絡とろうと思って、SNSを探したけどいなかったんだよね。もしかしてアカウント持ってない?」
「ああ、そう。めんどくさがりだからSNS何もしていなくてブランケット返せていなかったから今日会えて良かった」
「何か貸してたっけ?」
 とぼけているのか本気で言っているのか、どちらにせよずっと私が持っておくのも何なので彼女に送付先の住所を尋ねた。手持ちのメモ紙に住所と名前を書いて渡してくれたそれを見て、「田口さん」ではなく「犬飼さん」になっていることにドキリとした。無事に彼と再婚できたようだ。ただ、課長の家族の気持ちを考えるとどうしてもお祝いの言葉を伝える事はできず、それを察したのか彼女は注文したココアを飲みながら「出産した時も誰からもおめでとうって言ってもらえなかったんだよね」とはにかんだ。

「妊娠八ヶ月で死産だったの」

 心臓がひゅっと縮んだ。
 ショックから目を見開く私に彼女は「お腹の中で赤ちゃん亡くなっちゃってて」と言葉を続ける。こういう時に何と声を掛けるのが正解なのか分からなかった私はただひたすら無言を貫き、彼女を見つめたまま熱いコーヒーを口に含んだ。
「妊娠したら当然無事に出産するんだと思ってた。だから(たい)(どう)がないかもって病院に行った時も先生からの『大丈夫だよ』の言葉を待っていたし、大丈夫じゃない方の人生なんて考えてもなかった」

「そもそも彼と結婚する時から何も大丈夫じゃなかったのかも」
 スプーンでマシュマロを(すく)いながらぼんやりと話す彼女。
 彼女達の関係が社内に広まった原因は二人が退職した後に判明した。彼女達が食事に行った店にたまたま別部署の人達が居合わせてしまったらしく、二人はその事に気づく事なく今のように堂々と妊娠や離婚について話していたとの事。課長はすでに転職に向けて動いていた時だったようで、誰に見つかっても問題ないと思っていたのかもしれない。
「会社に退職届を出した日に奥さんと直接話す事になったの」
「直接!?」
()(てい)の証拠を全部目の前に突き付けられて、私の家族に言わない代わりに慰謝料三百万であの人をあげるって言われた。その時はお金さえ払えば大事にならないと思ってすぐに貯金を下ろしたんだけど、三百万でゴミを引き取る事になって()(わい)(そう)だって同情されたよ」
 その言葉は彼女にとってひどく重くのしかかったようだ。あれだけ好きだったのに今はどこが好きだったのか思い出せないと、その瞳に何も映さない彼女は少しやつれているようにも見えた。
「彼の転職先はかなり忙しいみたいで全然家にも帰ってこないし、私との始まりが不倫だったから本当は別の女と会ってるんじゃないかって毎日疑うのにも疲れた。中畑さんが言った通り、結婚生活ってこれからずっと続くんだよね」
課長は赤ちゃんと会えた?」
 正直に言って彼女が今経験している事は死産以外すべて()(ごう)()(とく)でしかない。自分で選んだ道を後からぐちぐち言うくらいなら最初からしなければ良いのにとも思ったが、きっと今掛ける言葉としてそれは適切ではないだろう。ただ妊婦である事を気に掛ける様子も見せなかった彼が、産後の彼女にどう接したのかが気になったのだが、悪い意味で想定通りの言葉が返ってきた。
「ううん。赤ちゃんがお腹の中で亡くなってすぐに連絡したんだけど、仕事が大事な時だから全部一人で頑張ってって言われた」
「え!?」
 普通の出産とは違う上に彼女は出産自体が初めての経験だ。立ち合いすら希望せずに悲しみを分かち合おうともしないなんて、一体何のために奥さんと離婚して彼女と一緒になったのだろうか。予想通りとは言えあまりのショックに手が震えた。
「ひどいよね。本当に三百万で粗大ゴミ受け取ったんだなって実感した」
田口さんには悪いけど、元奥さんは今ストレスなく生活ができているかもね」
「それはそう!」
 絶対笑うところではないのに、彼女は大きな口を開けて笑った。ひとしきり笑った彼女はカップに浮いたマシュマロを眺めながら「私、本当は中畑さんに憧れてたんだよね」と今までの会話とはまったく別の意味で衝撃的な事を告げてきた。私に? 彼女が? 困惑した私は(まゆ)()を寄せる。
「私も映画を見終わった後に楽しくカフェで話せて、子供の事も自分の事も気遣ってくれる(だん)()さんが良かった」
 彼女の言葉に動きが止まった。あの時たまたま居合わせちゃったんだよね、と悪戯(いたずら)に笑う彼女は(ぼう)(ぜん)とする私を()()に伝票を持ってささっと会計を済ませてしまった。彼女のように素早く動けない私はもたもたと荷物をまとめて後を追うも、やっとあの時の分が返せたと、彼女は(かたく)なに私の差し出すお金を受け取らなかった。
「ていうか中畑さんが前飲んでいたココアが気になって今日頼んだけど、あれめちゃくちゃ甘いね。もう二度と頼まないわ」
「本当? 私は好きだけど
 他愛(たわい)のない会話をしながらカフェを後にする。周りからは仲の良い友人同士にでも見られているだろうか。でも今日別れた後、きっと彼女とはもう会う事はないだろう。最寄り駅に着いた私達はそれぞれ電光掲示板で自分の乗る電車の時刻を確認する。
「もうすぐ電車来るから先に行くね」
「うん。それじゃ」
なんともあっさりとした別れだなと改札へ足を向ける彼女の後ろ姿を見送っていると、ふいにピタリと動きを止めた彼女はいつの日かと同じようにコツコツとヒールの音を鳴らして戻ってきた。

「中畑さんは無事に出産できますように」

 彼女の声に反応するように、(ふく)らんだお腹の中でドコドコと子供が動き回る。あの時ブランケットを渡してくれたのは、私が妊娠している事に気づいていたからだった。まだ自分でも気づいていなかった時期なのになぜ彼女は分かったのだろうか。それを尋ねてみると「だっていつも吐きそうな顔をしていたから」と笑われた。
あの、赤ちゃんの名前って何?」
 (とう)(とつ)に尋ねてしまい、手を振って別れようとした彼女の動きがピタリと止まる。
 死産だった子供は戸籍が作られない。それだけじゃない。新生児の泣き声に囲まれて書く死産届、退院後に行う火葬の手配、抱き上げる事もできない小さな体。地獄のような時間を彼女は一人でよく耐えたと思う。いや、実際は耐えきれなかったはず。鉄の扉の向こうに運ばれていく小さな(ひつぎ)を見て、置いていかないでと泣き叫んでしまった事を冗談めかして話していた彼女。一緒に燃やされたかったと笑う顔はきっと一生忘れないだろう。
 みるみるうちに涙でいっぱいになった瞳を揺らし、彼女は()み締める唇の間から可愛(かわい)くてきれいな名前を(つぶや)いた。
「お誕生日おめでとう」
 この言葉が合っているのか分からないが、(ぶん)(べん)(しつ)でも誰からもお祝いの言葉を掛けられなかったと言っていた彼女。膝から崩れ落ちて泣く彼女を尻目に私は静かにその場から立ち去った。
 彼女は色んな傷を抱えてこれからも生きていくけれど、次の人生でもきっと「どうやっても幸せになる人」だと思われるだろう。田口弘美はそういう人だ。

【おわり】