【最終選考作品】わたしは回転木馬(著:堀祐貴)
〈一〉
近ごろ私は、馬に乗っている。
なんということはない。他にすることがないので、仕方なくだ。夜もすがら、同じところをぐるぐるぐるぐる、馬に乗って漂うように走り続けている。
「一晩中走らせるなんて、馬が可哀想じゃないか」なんて苦情は受け付けない。私も今年で二八になる。もう木製の馬に感情移入できるほど、無垢な少女ではない。
実のところ私は、何日も連続して同じ夢の中にいる。夢にしては妙にリアルな質感であるが、ここへ来るのはきまって眠りに落ちた後なので、やはりこれは夢なのだろう。音もなくゆらゆら走る木馬につかまり、周囲を見渡してみる。遠くの方では星に紛れて観覧車が、月の行進よりもすこしはやい速度で回転運動をしている。その手前では、ジェットコースターの線路が、大蛇がとぐろを巻くようにうねりをあげるが、こちらは消灯していて動いていない。とはいえ私は一度も、アレが動いているのを見たことはないが。
焦点が手の届く範囲まで戻ってきたので隣を見ると、白馬が私とならんで駆けている。私が上がれば白馬が下がり、白馬が上がれば私が下がる。シーソーの要領である。前にもうしろにも、馬、馬、馬。こうして、中心の円柱を軸にして目が覚めるまで、私はメリーゴーラウンドの一員となり、毎晩まわるのだ。
三日ほど前に気づいたことだか、律儀にも、この遊園地には管理人がいる。
いい加減、馬に乗って周回するのも飽きてきはじめた私は、他の乗り物にも乗ってみようかと思い立った。固い首筋を押した反動で馬からぴょんと飛び降り、ひとまず、一際存在感を示すジェットコースターを目印にして歩くことにする。
その小屋は突然現れた。そう錯覚するほど小屋は夜に馴染んでいた。小屋の扉は観音開き式で、半分ひらいた隙間から、ぽっ、ぽっと蛍のような儚い光の玉が二つ、宙に浮いて光っていた。猫でもいるのだろうか、と思い近づくと、どっこい、そこには老女が座っていた。たるんだ頬に、きゅっと結んだ口元。こちらを一心にみつめている。私が会釈すると、老女もコクリと頷いた。もう幾晩もこの遊園地にいるが、私以外に人をみるのは、これが初めてだった。
「あなたも、毎晩ここへ?」と尋ねると、
「ここの管理人だからね」と老女。みずけのない声だった。管理人さんがいるんだ、と呟くと、「そりゃお前さん、管理人がいなけりゃ、どうして乗り物が動くと言うんだい」老女があまりに当然の事のように言うので、私も、そりゃそうか、と思った。
「じゃあじゃあ、アレ動かしてもらえます?」私はうねるとぐろを指差し伝えると、老女は私の指先を目で追ったが、ああアレはダメダメ、と首を振った。
「なぜです?」
「あんまり激しいのに乗ると、興奮して起きちまうだろう」
なるほど。確かに、中途半端に夜中に起きると、そこから寝るにも寝られず、陽が昇るまで辛いかもしれない。どれなら乗せてくれるのかと聞くと、あとは観覧車くらいだね、と言う。そうですか。私は少しトーンを落とした。狭くて閉ざされた空間が、あまり得意でないのだ。なにも夢の中でまで無理をして、苦手な場所で時間を過ごすこともあるまい。
「私やっぱり、元に戻って回ってることにします」
老女にお辞儀をして、来た道を戻り、馬たちが回る支柱をめざす。わずか数十メートルのことであったが、幼い頃初めて隣町まで出掛けたときに感じたような高揚もあった。
メリーゴーラウンドにたどり着き、私は再び馬に足をかける。ゆりかごのように規則正しく上下する振動が心地よい。私にはここが合っているようだ。
音もなく走る馬の上で、目が覚めたら何をしようか、と物思いに耽る。
〈二〉
ストレスがたまると、私は餃子を作る羽目になる。私のストレスは、キャベツをみじん切りにすることで発散されるからだ。
厚く層になった固い葉々が、ザックザックと音をたて、小さくなっていく様は爽快なものである。しかし、キャベツをみじん切りにすると、困ったことに、キャベツのみじん切りができてしまう。まな板にのった大量のそれを消費するには、ミンチと一緒にして皮で包むくらいしか術を知らない。
明日は餃子だな、と私は金曜の夜中、木馬に揺られながら考えた。ここではだいたい、取り留めのないことを沸々と考えて過ごす。そうでもしないと目が覚めるまで退屈だし、実際取り留めるための紙もペンもないこの空間では、あまり複雑なことを考えたって仕方がない。
朝が来て目を覚まし、冷たい外気から身を守るため、膝をたたんで羽毛布団をかぶりなおし、夢を見ない程度の浅い眠りをおかわりする。そうして再び目を覚ますと、もう昼前になっている。ベッドからずるように降り、浴槽になみなみとお湯をためる。「おうちで温泉気分」と謳われた小袋の封を切り、粉末を浴槽にぶちまけ、橙色が侵食する様子を無為に眺める。服を脱ぎシャワーをあびて、あご先がつくまでお湯につかるが、橙色に染まった湯船は、残念ながら私を温泉へと連れていってくれはしない。一週間の疲れをとばすには、やはりアイツを刻むしかないらしい。
朝昼兼用にパンを食み、眉だけさっとラインを引くと、ニット帽にダウンジャケットを装備し、私は近所のスーパーへと向かった。
土曜の昼下がりのスーパーは、平日の夜とは違った活気がある。そこにいるのは、仕事終わりの疲れた大人たちばかりではない。老若男女が交差する。目の前を小学生の兄妹が、追いかけっこをして通りすぎていく。半額シールの貼られていない惣菜たちは、心なしか誇らしげにみえる。
キャベツが積まれている野菜コーナーへ足を運ぶ。その中から、葉々が詰まっている二つを選び、両手のひらにひとつずつのせてみる。目を瞑ると、自分が大きな天秤になったようである。下唇のあたりに皺を寄せながら、集中する。さあどうだ。少しして、天秤が左に少し傾いた。左キャベツに軍配が上がったのだ。内心で、おめでとうと声をかけ、左キャベツを買い物かごに入れ、右キャベツを積みなおす。レジに向かう過程でニラとミンチ、餃子の皮を取得し、空いているレジを探し、台にカゴを置く。
店員がゆっくりミンチを持ち上げ、「ひき肉がひとつ」という声とともに、右側へ移動する。私はぼんやりそれを眺めながら、ん? と思う。今度はニラが持ち上がる。「ニラがひとつ」と、ニラが移動するとともに、抑えきれない違和感が湧いてくる。聞き覚えのある声。私は財布の中身を確認する素振りを見せながら、上目遣いで店員を盗み見た。思わず声をあげそうになる。深緑のポロシャツの胸には「小杉」とネームプレートがついている。なぜここに、という驚きとともに、じわじわと脈が速くなる。店員はこちらに気がついている様子はない。「九三〇円ね」と緩やかな手つきでレジスターをいじっている。私は無言で、じゃらじゃらと言われた金額を出した。レシートを受け取り、購入品を袋へつめるときに初めて、息まで止めていた事に気づき、ぷはぁと急いで酸素を取り込んだ。
家に帰って、キャベツを刻みながらも、私はまだ上の空だった。頭に浮かぶのは、スーパーにいた「小杉さん」のこと。あのしゃがれた声に、ぽってりとした頬。彼女は間違いなく、夢のなかで管理人をしていた、あの老女であった。
〈三〉
窓際の席から外を眺める。私立の幼稚園がみえるが、日曜日なので子供たちはいない。小さな運動場には寒々しく風が吹いていた。
私は煉瓦つくりのレトロな喫茶店で、人を待っていた。待ち人が本当に来るのか、少々不安もある。なにしろ、約束をとりつけたのは夢の中だ。
彼女をスーパーで見かけた夜、私はいてもたってもいられなかった。眠りに落ち、白馬の上へと位置するや否や、早々にそこからとびおりて小屋へと向かった。
老女は、薄暗い小屋の中で、ちんと座っていた。私は挨拶もなしに、「小杉さん?」と声をかけた。少し声が震えた。だめだめ、あまり興奮すると起きてしまう、と自分に言い聞かせた。
老女は返答こそしなかったが、代わりに目をまあるくし、口のなかをもごつかせた。
「小杉さんですよね? 私、見たんです。あの、起きてるときに、ですけど」そしてスーパーの名前も口に出し、追い打ちをかけた。
老女は苦虫を嚙み潰したような表情で、「よしてくれよ。今は夢の中にいるんだ」と言った。どうやら、気に障ったらしい。一方で、やっぱり同一人物だったんだと、鼻の穴がすこし膨らんだ。
「ごめんなさい。こんなこと初めてだったから、確かめたくなってしまって」
私は頭を下げた。しかし行動とは裏腹に、好奇心は止まらない。
「どうして、私の夢の中にいるのです?」
小杉さんは、かすかに唸った。私たちの間に、暫くの沈黙があった。私は小杉さんから目を離さず、次の言葉を待ち続けた。小杉さんは尚も、目を閉じてなにか考え込むようであったが、まあいいかという具合に眉を少しあげ、話し始めた。
「ここは、私の夢なんだ」
「小杉さんの、ですか」小杉さんは頷く。
「私の人生には夢なんてなかったのよ。いいことも悪いこともない、平らな人生さ。親も早くに亡くしたし、今も独り身でね」
私は邪魔をしない程度の相槌を入れて聞いた。小杉さんも、心なしか口の滑りがよくなってきたようだ。本当は誰かに、話したかったのかもしれない。
「そんな私を不憫に思ったのかね。ある晩、私の夢の中に男が現れたんだ。いや、男といって良いのか、そいつはスーツ姿だったが、顔面は鼻の短いゾウみたいだったね。ともかくそいつが言ったんだ。『あなたの夢を叶えてあげましょう』って」
それでそれで、と私は小杉さんに迫った。しかし小杉さんは、そこで続きを話すことを止め、代わりに「ああ、だめだね」と言った。
「あんた、興奮しすぎだ。もうじき起きちまうよ」
私は視界がぼやけ始めていることに、小杉さんに指摘されて気がついた。
「やですよ。続きを聞きたいのに」私は駄々をこねた。小杉さんは、「困った子だね」と言ったが、あまり困ってはいなさそうだった。平坦な口調で、「明日の午後二時、スーパーの斜め向かいにある喫茶店においでよ」と言った。
わかりました、と答えるのと同時に、私はつむじのあたりをみょーんと摘まみ上げられ、空に向けて引き上げられた。次の瞬間、私はベッドの上にいた。首筋の辺りを触ると、汗でじっとり濡れていた。私は「午後二時 スーパー向かい 喫茶店」と、紙にひょろひょろの字を書いて、もう一度布団にくるまった。
小杉さんは、ちゃんと時間通りに喫茶店に来た。そういえば、私は一度も挨拶をしていないなと思いだし、「岡田です」と頭を下げた。小杉さんも、「どうも」と、軽く頭を下げた。
ホットコーヒーを二つ頼んだ。いきなり本題に入るのもどうかと思い、「お家はこのあたりですか?」と聞いてみた。そうだよ。小杉さんはそっけなく答え、窓の外を眺めてしまった。そうですか。私も窓の外を眺めた。
店員がホットコーヒーを運んできた。ソーサーがカチャリと音を立てたことを契機に、「お聞きしてもいいですか。小杉さんの夢について」と投げかけてみた。小杉さんは、コーヒーのうわべをズズッと音をたて啜った。
「言ったようにね、私はこれまでずーっと、夢なんてものは持たずに生きてきたんだ。あの男にもそう言ってやったんだけどね。そんなことはないでしょう、と聞かなかった。埒が明かないから、回顧してみたんだ。記憶の中を潜水するようにして、楽しかったこと、明るい思い出をね。そしたら、まだうんと幼い頃、両親に連れられていった遊園地を思い出したんだ。そんな半世紀以上さかのぼらないと良い思い出がないなんて、笑えるだろう。地元にある小さなところだけど、当時は今ほど娯楽がなくてね。誰も彼もが笑って、幸せそうで。遊園地ってすごい、私遊園地になりたい、ってバカなことを考えたもんさ。そんなことを、あのゾウ男に話したのか、話してないはずなんだけどね。あいつは『承りました』と言って消えたんだ。すると、次の夜から私は」
「遊園地の管理人になっていたと」
小杉さんはフンっと、私に会ってから初めて笑った。自虐的な乾いた笑いだ。
「当時の私の夢を叶えたつもりなのかね。別に、遊園地の管理人になりたかったわけではなかっただろうけど。それでも、実は結構楽しかったんだよ、最初は。音楽を鳴らしてみたり、いろんな乗り物を動かしたりしてね。私の夢の中へ迷い混んできた人たちを楽しませたもんさ。昔夢見た遊園地に近い、幸せな空間だったかもしれないね」
小杉さんは、また窓の方を向いてしまった。外の景色よりももっと遠くを見つめているようだった。
「どうして」とだけ言って、私は口をつぐんだ。どうして、今はあんなにさみしい遊園地になったのでしょうか、と続けようとしたが、踏み込んでよいものか躊躇した。しかし、小杉さんは私の言わんとすることを察してくれたようだった。
「しばらくして、またあの男が来たんだ。『困ります。こんな夜中に、どんどん人を起こされては。この遊園地で興奮をした人たちが、みんな真夜中に目覚めてしまい、寝不足になっています。遊園地になりたいという夢は叶えましたが、人に迷惑をかけてはいけません。音楽は消して、心拍数の上がる乗り物は停止させて、ライトの明かりも抑えてください』ってね」
私はおしぼりを強く握っていた。見たこともないゾウ鼻男が憎らしくなった。
「そんな遊園地、誰も来たくないだろう。今ではあんたくらいさ、あんなところに毎晩来る物好きは」
なんでもなさそうに諦める姿が、私には一層不憫に映った。気づけば私は机に身をのりだし、小杉さんの手を握っていた。
「私は、毎晩楽しいですよ」
小杉さんは突然迫ってきた私に驚き、唖然としていた。
「あそこで一晩中、くるくる回っているのがかい」
「そうです」力強く答える私に、小杉さんはふふっと、今度はちゃんと可笑しそうに笑った。
私はそれからも、毎晩くるくると回った。半分意固地になって回った。
二、三日に一度は、小杉さんのいる小屋のところへ行って会話をした。できるだけ楽しげに、笑いながら会話をした。小杉さんも少しずつ、笑ってくれるようになった。
私なら夜中に起きても大丈夫だから、小杉さんの好きなように遊園地を動かしてくださいよ、と提案してみるのだが、小杉さんはいつも、いいよと手を振るだけであった。
小杉さんの夢なんですから、小杉さんの好きにしたらいいんですよ。私はその都度、語りかけた。
それからしばらくして、小杉さんはいなくなってしまった。
〈四〉
広い公園の中心に立っている。遊具などは何もなく、短く刈られた芝生と、砂場だけがある簡素な広場だ。横には、名前の知らない高校の同級生たちがいて、私たちの前には立派な毛並みをもったジャーマン・シェパードが、ハアハアと呼気を荒げて舌を垂らしている。私が手に持つフリスビーを勢いよく飛ばすと、シェパードはフリスビーを追いかけて駆け出した。私はフリスビーの行方をぼんやり眺めていたのだが、同級生の女の子が私の手を取り、「さあ、私たちも行こう」と、フリスビーを追いかけ、走り出してしまった。フリスビーはどこまでも飛んだ。住宅街に出て、器用に家々の間を通り抜け、田んぼの畦道を行き、最終的に私たちは、山の中に辿り着いた。それまで休むことなく走り続けていたシェパードは、突然停止し、鼻をひくつかせながら、地面を掘り出した。私たちは固唾を呑んで、その様子を見守る。シェパードが「ワン」と、私たちに報告するように吠えるので、穴を覗くと、そこには黒くごわごわした芋のようなものが埋まっていた。「やったね岡田ちゃん、トリュフだよ!」彼女は嬉しそうに拍手をしている。
「トリュフを見つけるのって豚じゃなかった?」と言ったところで目が覚めた。無秩序な夢だ。ずっと小杉さんの夢の中で、お行儀よく馬に乗っていたもので、元来、夢に秩序などないということすら忘れていた。前頭葉が重たくて、瞼がうまく開かない。カーテンを引いて、朝陽を浴びる。
昨日今日と、私は小杉さんの遊園地に行けなかった。どうしてかは分からない。てっきり、そのうちまたすぐお邪魔するものだろうと思っていたが、みるのは無秩序な〝私〟の夢ばかりである。そのまま一週間が経った。
いつものスーパーで買い物をするときも、小杉さんの姿をみつけることはできなかった。
仕事のうちは良かったが、休みがくると、なんだか色々考えてしまった。そのうち、嫌な想像もした。私が小杉さんの夢に行けなくなったのではなく、小杉さんに何かがあったのではないか。胸のあたりを押さえて、居間でうずくまったまま、冷たくなっている小杉さんを、想像した。家族もいない小杉さんが自宅で倒れていても、誰も見つけてくれないかもしれない。一度考えると、もうだめだった。
私は部屋着の上にカーディガンを羽織り、サンダルをつっかけて、家を飛び出した。ぺたぺた間抜けな音を響かせ、不安を押さえ込むように歯を嚙み合わせながら、小杉さんの勤めるスーパーに足早で向かった。空はどこまでも気持ちのよい青だった。包み込むような暖かさだった。ゆっくりとした時間の中で、私だけが忙しなかった。
スーパーに着くと、トマトを陳列している店員を視界に捉え、すみませんの断りもなしに、「小杉さんはどこですか」と迫った。「え、え、」と、私の勢いに店員はたじろぎ、しどろもどろになりながら、「こちらは全て熊本県産になりますが」と答えた。
「小杉さんです。こちらで働いておられる小杉さん!」
私は語気を強めながら言った。店員は、コスギサン、コスギサン、と口の中で転がし、ようやく「ああ、小杉さん」と合点がいった。
「小杉さんなら、先日、お辞めになられましたよ」
「辞めた?」
「ええ。なんでも、自分の夢のためだとか、なんとか。あのお年で、一体どんな夢を叶えようとされてるのか知りませんが」
店員は一礼して、再びトマトを陳列し始めた。彼の背中を見つめたまま、私はしばらくその場でつっ立っていた。小杉さんは、辞めたのか。小杉さん、夢みつかったんだ。知らなかったな。まあでも、無事ならよかった。私はすとんと気が抜けた。
「帰ろう、特に買うものも無いし」私はわざわざ口に出した。店を出るとき、手ぶらの私にも「ありがとうございました」と声がかけられた。「別にありがたくないですよ。何も買ってませんので」と言いたくなったが、それは口には出さなかった。
春の風が、私の髪を梳かした。慈愛をないまぜにしたような優しい風は、私の頬もなでた。それらが妙に鬱陶しかった。来た道をそのまま帰るのが癪で、知らない道を選んで歩いた。分かれ道になる度に、私は知らない道を選んでやった。
小杉さんが無事ならよかったじゃないか。やりたいことがみつかってよかったじゃないか。それなのに、私は何を苛立っているのだろう。
私が選んだ知らない道は、いつの間にか私を、河川敷沿いの堤防へと運んでいた。堤防には幹の太い桜の木々が、等間隔に並んで根をはっている。満開とはいかないまでも、時折風にのせて花びらを散らし、ちゃんと桜の仕事を全うしていた。春だ。堤防下の河川敷では、親子連れのグループや、学生たち、はたまた老人の集いが、レジャーシートを広げながら、わいわいきゃっきゃとやっている。みな、桜の存在なぞ忘れているようである。
私は腰を下ろし、木の幹に背中をあずけ、両手で自分の膝を抱えこみ、三角座りをした。みなから忘れられた桜を、背中でひしひしと感じてやった。桜も、私を受け入れてくれているようだった。
「あのさ、いなくなる前に、一言くらいあってもいいと思わない?」
私は桜に愚痴をこぼした。桜は何も言わなかった。かわりに、風にのせて花弁を一枚、私のつむじへぽんと置いた。
しばらく私は、三角座りの頂点に顎をのせたまま、ぼんやりしていた。河川敷では、楽しげな声があちらこちらであがっている。口々に起こる会話が、綿のようにくっつきあってカタマリになって、私の方へ昇ってくる。内容までは分からないが、とくに気になりもしない。私の意識は、下ではなく上にあったからだ。
ヒョロロロと、ひとり逞しく旋回する鳶。私は、彼が舞う様子を目で追っていた。堂々と飛び行く鳶をみていると、私の心を平常へと押し戻してくれる気がした。目をつむり、耳をすます。ヒョロロロ。ヒョロロロ。私は鼓膜で鳶の存在を確かめた。
目を閉じてそうしていると、やがて、頭が重たくなってきた。どんどんどんどん重たくなって、膝の上に、顎がずぶずぶと食い込んでいった。ヒョロロ…。鳶の声も、フィルターを通したようにくぐもっていく。波線状にふりそそぐ太陽光が、私をふんわりくるむ。
ヒョロロ! と大きな音がしたので、顔をあげると、鳶が私の前でバサバサと滞空していた。口をあんぐりしている私に、「さあ、私たちもいこう」と、脚を差し出す。「どこへ?」と聞いても、「さあ、さあ、」としか言ってくれない。私がおずおずと鳶の脚をつかむと、鳶は一際強くバサリとやり、垂直に大きく飛翔した。私はつり革にぶらさがって遊ぶ小学生のような体勢で、鳶に全身を預けた。一瞬で下にいるひとたちが小さくなるが、なるほど、よく見える。これが鷹の目か、と感心する。宴会をしているひとたちは、変わらず酒を酌み交わしている。相変わらず何を話しているかは分からない。しかし楽しげである。子どもは膝までズボンのすそを折り、浅瀬で水かけをしている。私が飛び立ったところには、桜の木にもたれかかり、私が三角座りをしている。
ヒョロロロ、と声をあげ、今度は街の方へ飛んでいく。はやいはやい! と私ははしゃいだ。落ちるかもしれない、とは微塵も考えなかった。鳶はどこまでも飛んだ。私の家を越え、どこか知らない街も二つほど越えた。鳶を真似て、ヒョロロロと声を張ってみたが、やはり人の声では、それほど響かなかった。それが可笑しくてくすくすと笑った。
観覧車が見えた。それから、ジェットコースターも。それが小杉さんの遊園地だと気がついたのは、随分近づいてからだった。昼間の遊園地は、夜の遊園地と、全くの別物であった。
ジェットコースターはうねりのなかを、豪速で駆け回っている。甲高い叫び声が空まで響く。フリーフォールが、観客をのせてゆっくり上昇しては、重力に従って一息に落ちていく。地上では、小さな汽車が子どもを乗せて、園内をほくほくと回っている。
鳶は、私が言葉を発する前に、急降下していた。地上に近づくにつれ、鳶は羽ばたきを大きくした。ぷらぷらさせていた私の足が、つま先からゆっくり、地面をとらえた。目の前には、白いペンキ塗りの、清潔そうな小屋がある。小屋からは、観音開きの扉から、小杉さんが顔を出していた。小杉さんは、驚きと、その後ばつの悪さを、それぞれコンマごとに顔へ出し、最後に照れたように笑った。
「急にいなくなるから、びっくりしました」私はできるだけとげが出ないよう、親しげに言った。ごめんね。小杉さんは言った。
「ここ、どうしたんですか?」私はぐるっとまわりを見渡す。多くの人が行き来し、アトラクションは人々を楽しませ、園内には愉快な音楽がかかっている。
ああこれね、実はね、小杉さんはすこし言いにくそうにしながら、話してくれた。
「ほら、あんたが毎晩言ってくれただろう。子どもの頃夢見たような遊園地にしてくださいよって。口ではいいのなんて言いつつも、もしそうできたら、満たされるかもしれないなって。内心そんな気持ちが膨らんでいっちゃったんだよ。それで私、思い付いたんだ。昼間の夢ならいいじゃないかって」
「お昼の、ですか」私は繰り返した。小杉さんは頷く。
「昼間のうたたねだったら、別にすぐに起きたって構いやしないだろう。どうせ、一時間やそこらで起きるんだから。そしたら、それは間違いじゃなかったみたいでね。あの男も、なんにも言ってこないんだ。授業中にうたたねする学生、夕食を作る前にひとねむりする主婦、休日はもっといろんな人が遊びに来るよ。そうだ見ておくれよ。平日は保育園の子どもたちがお昼寝の時間に集団でくるもんで、汽車を走らせることにしたんだ」
小杉さんの声に呼応するように、汽笛がポウと声を上げる。小杉さんの幸せそうな笑顔が、私にも伝播する。小杉さんは話し続けた。
「昼間にここへくるために、夜はマンションの管理人をしてね、生活の昼夜を逆転させたんだよ」
なんと、そのお年で、と私は驚く。
「アルバイト募集をしていたその会社も、最初は同じ反応をしたね。だから、言ってやったんだ。『私は現役で一晩中、大きな施設の管理人をしているんだ。れっきとした経験者だよ』って。なに、嘘じゃないさ」
私は吹き出した。
なんでも好きなのに乗ってくといい、と言う小杉さんに、私はううんと断りをいれた。私はやっぱりあれがいい、とメリーゴーラウンドを指差す。
「なんだい。折角いろいろ動かせるようになったっていうのに」
不服そうな小杉さんを、まあまあとなだめる。
「だって、激しいのに乗ると、すぐ起きてしまうじゃない」
ようやく夢を楽しめるようになった小杉さんを、もっと見ていたいもの。小杉さんに聞こえない程度の声で、私はつぶやいた。
【おわり】