【最終選考作品】蒼穹へ泳げ(著:水鳥たま季)
age39.
ここに、一本のボールペンがある。
ペンの軸は透明だ。持つ角度を変えると、魚のキャラクターのフロートが、ラメ粒子の波に乗って、透明な筒のなか、上へ下へとひらひら泳ぐ。これをわたしに買い与えてくれたのは、在りし日の、わたしの祖父だった。
児童向けに大量ロットで生産された、いわゆるファンシー文具のひとつに過ぎないこのペンは、しかし実のところ、魔法のペンでもある。本当は、ずっと秘密にしていたことなのだけれど、今日はわたしの人生で、きっと何より特別な日のひとつになるから、知ってほしい。
どうか見てほしい、他でもないあなたに。
それは、ペンをゆっくり左右に揺らすことで始まる。軸の中で、ラメ粒子の波が揺れ、魚の赤い尾ひれがひるがえる。その動きにあわせて、目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返しているうちに――ほうら!
まるで水のカーテンを潜り抜けるかのように、プラスチックでできた魚が、いとも容易く軸という質量を通り越し、つるん、と空中に躍り出た。体をしならせながら、魚は上下左右、自由自在に宙を泳ぎまわる。久し振りの自由遊泳だからか、今にも歌い出しそうなほど上機嫌だ。
そのうち赤い鱗の魚は、窓ガラスをすり抜けて、沖天の勢いで、太陽輝く蒼穹のかなたへと泳ぎ去っていく。ああ、もうそんなにも高く、泳いでいけるようになったのね。わたしはひととき、瞼を伏せて祈る。
長い間、しまいこんでしまっていて、ごめんなさい。どうか、自由を謳歌してほしい。あなたと一緒に空想の世界へ漕ぎ出す喜びを知ったその日から、わたしは、ひとりぼっちの夜のしじまが、朝のやってくることが、ちっとも恐ろしくはなくなったの。
わたしはジャケットの胸ポケットに、さも高級万年筆でございと言わんばかりに、魚の泳ぎ去ったペンを挿す。すう、と息を吸い、三回応接室の扉を叩くと、室内から、お入りください、といらえがあった。
わたしはぎゅっと強くドアノブを摑むと、勢いよくひねって、扉をひらいた。
「受賞者、水嶋さより。入ります!」
さあ、新しい世界へいってらっしゃい。
耳の奥で、ぱちゃん、と、尾ひれの跳ねる音がした。
age11.
買ってほしい、と言いなさい。
それが、祖父が東京を訪れる際、決まって母から言い聞かせられる言葉だった。そのくせ彼女は、在来線と山陽新幹線を乗り継ぎ、ゆっくりゆっくりわたしたちの街へとやって来る祖父のことを、一度だって、自ら出迎えようとはしなかった。大抵の場合、わたしは、わたしよりも七歳年長の姉とふたりで、東京駅の喧騒の中、八重洲中央改札をくぐり抜けてくる祖父のことを待った。
祖父は、痩せたオオカミに似ている。長身痩軀に鋭利な面立ち、銀縁眼鏡。ぴしりと糊のきいた背広姿に、ハットを被った祖父は、去年と同じ杖をつきながら、今年もわたしたち姉妹の前に現れた。
「お爺ちゃん、いらっしゃい。長旅、お疲れ様でした」
教科書を読み上げるように、姉が出迎えの口上を述べる。祖父は小さく頷く。笑顔の欠片もない。これも、例年通りだ。
祖父が片手に提げていた鞄を、恭しく受け取った姉が、後ろ手に、強くわたしの背中を叩く。
「おじいちゃん、こんにちは」
わたしはたたらを踏みながら、祖父のもとへ寄り、ぺこりと頭を下げた。そのまま、あらかじめ姉に言われていたとおり、鞄を明け渡したことで空いた彼の手を、するりと繋ぐ。祖父の手は骨ばっていて、いつもどこか、ひんやりと冷たい。
「こんにちは」
祖父は眼鏡の向こうで目を細め、おうむ返しに答えた。繋いだ手を、ほんの少しだけ握り返してくれるけど、その動きはどこかロボットのように、ぎくしゃくしている。
わたしは子どもながらに、「今年もやっぱりおじいちゃんは、わたしたちのことが苦手なんだな」と考えた。
それからわたしたちは、中央線に乗り、新宿駅へ向かった。姉の誘導で、百貨店の最上階で、昼食を食べる。
わたしの目の前に提供されたのは、オムライスに立派な旗の立った、お子様ランチだった。ケチャップのたっぷり含まれた、つやつやのチキンライスをじっと見つめていると、また、姉から背中を叩かれる。慌ててスプーンを口に運び、美味しいと述べるけど、祖父は、聞いているのだか聞いていないのだか、コーヒーを啜りながら、窓の向こうに立ち並ぶビル群を眺め、黙っていた。
ふわふわの卵を割り、チキンライスと一緒に咀嚼しながら、わたしはいつも学校から帰る頃に食卓に準備されている、ラップのかかった白いごはんのことを思い出していた。冷えたままのごはんに、のりたまのふりかけをかけて、かきこんで、お茶椀を洗い、伏せたら終わる夕食。
ああ、わたしはこんなにもあつあつで、口に入れた瞬間、ぎゅうっと唾液の湧き上がるようなオムライスよりも、家でひとりきり、誰の目を気にすることなく食べられる、のりたまごはんのほうが好きなのだ。
「お爺ちゃん、私、欲しいものがあるの」
食事を終えたあとは、ひととき、姉の独壇場となる。実際このとき、年明けに大学受験を控えていた彼女が必要としていて、けれど手に入っていないものは、挙げれば枚挙に暇がなかった。英和辞書、漢和辞書、参考書、度の合った眼鏡。
わたしたちの家庭は、貧しかった。酒乱でギャンブル癖のある父親のもとから逃れ、母親は清掃員と介護のパートで食いつなぎ、わたしたち姉妹を育てていた。わたしが物心ついたころにはもう、母は早朝から夜中までほとんど家に不在で、彼女が帰ってくる頃には、多くの場合、心身ともに憔悴しきっていた。
「あんたなんか、産まなきゃよかった」
不安、疲弊、焦燥、孤独感。やり場のない母の苛立ちは、ぼうっとして要領の悪いわたしに向けられることが多く、彼女はしばしば感情を剥き出しにして、わたしを殴った。そしてその数秒後には、子どものように床に倒れ、両の手足を振り回し、泣き喚いたりもした。
反して、容姿も美しく、成績優秀で将来有望な姉のことは、目に入れても痛くない、と言わんばかりに可愛がり、尊重した。それどころか奇妙に畏怖し、欽慕しているようなふしさえあった。
姉は、『家族』というコミュニティに対し忠実で、奉仕的だった。彼女は自身の立ち居振る舞いが、一家の命運を左右することに、つとめて自覚的なひとだった。母にとって姉は、カンダタの摑んだ蜘蛛の糸とも呼べる存在であり、その畏敬を帯びた期待に、空々しいほど無垢に応えることが親孝行だと、姉自身も割り切っていた。
だから姉は、年に一度、こうして祖父が上京するときには、母の言いつけ通り、めいっぱいに道化を演じ、祖父のことを頼るのだ。実際、彼女の才能に見合う環境を整備するための資金など、振ろうが揺すろうが、落ちてはこない。祖父もそのことを理解しているから、姉があれもこれもと指差す品々を、機械のようにしらじらしく、勘定してまわるのだろう。
暗黙の理解に、暗黙の理解を重ね塗りし、交わす言葉に中身などないと知りながら、それでも絆らしい絆を見出して、繋がりつづけている。そうしなければこのひとたちは、誰もかれもが『家族』にはなれないのだと、疑いながら信じようとしている。
両腕いっぱいに紙袋を抱えた姉が、今度はおまえだ、という顔をして、わたしのことを振り返った。
「さより。あんたも欲しいものがあるんでしょう。あそこにほら、おもちゃ売り場があるわよ。子どもと言ったら、おもちゃでしょ。あたしにはわからないけど」
黙って立ち尽くしているわたしを置いて、姉は売場に突入していく。
「オルゴールなんてどう? あんたいつも、夜になると、さみしいって泣くじゃない」
姉は、ぜんまいをひねると、虹色の光と甘いメロディーとともにお姫様の人形がくるくる回転する、オルゴールを手に取った。
「いらない」
わたしは、首を横に振った。いらない。欲しくない、機械仕掛けのおもちゃなんて。
わたしが夜に涙が出るのは、さみしいからじゃない。わたしを気の済むまで殴り、蹴り、ひとしきり暴れ疲れて眠りについた母が、朝になればどうしようもなく、不機嫌をあらわに瞼を開けることが、こわいからだ。母の言いつけ通り、教科書をめくりながら、わたしが寝付くまでじっと枕元に座っている姉が、本当はいつまでも聞き分けなく泣いているわたしを、疎ましく思っているとわかることが、こわいからだ。
全部、ぜんぶ、わかっているのに、それでも涙が止められないことが、こわいのだ。
『家族』というコミュニティの中で、誰も、なにも、わたしという存在が心から望まれて生まれたのだと、答えてはくれない。わたしは子どもで、あの家が確かに帰る場所ではあるけれど、自分はこの『家族』の中では異分子で、異端で、きっとここを終の棲家にしてはいけないのだと、夜が訪れるたび、はっきりとわかる。その事実に打ちのめされ、涙のあふれて止められないわたしの孤独に、人工物の音が光が、お姫様の人形が、一体何の役に立つというのだろう。
わたしは、姉の指差すほうから離れ、おもちゃ売場のすみ、児童向けのファンシー文具が陳列されている一角に向かった。しばらく売場を眺めていると、一本のボールペンが目に留まる。ペンの軸は透明だ。持つ角度を変えると、魚のキャラクターのフロートが、ラメ粒子の波に乗って、透明な筒のなか、上へ下へとひらひら泳ぐ。
(さかな)
手に持って、矯めつ眇めつ、眺めながら、想像してみる。
そうだ。涙があふれて、どうしても眠れない夜は、このペンで、物語を書いてみるのはどうかしら。心の中に、思い浮かぶままに。だって学校で、先生に褒めてもらったばかりなのだ。水嶋さんは、文章が上手ね。物語を書いてみるのはどうかしらって。
夜がおそろしい。わたしにとって、その事実は動かせないものだ。ならばせめて、この魚と一緒に、空想の世界へ漕ぎ出してみたいと思った。ラメ粒子の波間を、赤い魚の尾ひれが軽やかにひるがえるのを、想像する。プラスチックの体にまたがり、自由遊泳。真夜中だってかまわずに、好きな歌を思う存分口ずさんだりしながら、海の中を冒険するのだ。
泳ぎ回るうち、あふれた涙は、きっといつしか波に同化し、透明になって見えなくなる。遊び疲れて眠りにつくころには、思ったよりも呆気なく、ひとりぼっちの夜のしじまを、越えられているに違いない。
「あの……おじいちゃん。これを買ってもらえませんか」
そう言って、ボールペンを差し出したわたしのことを、痩せオオカミに似た祖父が、じっと見下ろす。
「こんなもんでいいのか」
尋ねる声にはどこか、戸惑っているような気配があった。わたしは迷いなく頷いた。
「これがいいの。これが好き」
はっきりと言い切ったわたしに、姉が、なにか言おうとしたのが見えた。けれどそれより先に、祖父が財布から五百円玉硬貨を取り出し、手のひらに握らせてくれる。
わたしはレジに急いだ。カウンターは、わたしの背よりも僅かに高くて、つま先立ちでお会計を待つ。
レジのおばさんが、小さな百貨店の紙袋に包んでくれようとするのを断り、テープだけ貼られたペンを片手に戻ったわたしは、そのまま、勢いよく祖父の腰に抱きついた。祖父が、明確に凍り付き、たじろいだのがわかったけれど、この時のわたしは誰に何を思われようと、然したるできごととは思えなかった。
頬が、かっかと熱い。呼吸が弾む。わたしのペン。わたしだけのペン。
きっとこれは、魔法のペンになる。
嬉しかった。こんな気持ちになったのは、ほんとうに、久し振りだった。
「ありがとう、おじいちゃん。大切にします」
祖父は、何も言わなかった。けれどわたしの手を、骨ばった大きな手がゆっくりとさらって、繋ぎなおしてくれたことを覚えている。
姉は、心底呆れた顔をしていた。あのオルゴールが救うのは、毎夜毎晩、聞き分けなく泣きやまない妹から手離れできる、姉のほうなのだとわかっている。
わかっていて、それでもやっぱり、自分ひとりのことしか尊重できないわたしは、きっと祖父が帰ったあとも母に殴られ、姉に蔑まれる。『家族』というコミュニティの中で、わたしだけが異分子で、異端であることは変わらない。きっと変われない。
けれど、わたしは魔法を手に入れた。孤独と戦うための、空想という魔法。
このペンで、きっと、わたしだけにしか書けない物語がある。
age14.
それから数年が経つ頃には、年に一度、東京駅で祖父を迎え、そして同駅に見送りに行くのも、わたしひとりの役目になっていた。難関国公立大学への進学を果たした姉が、『家族』の浸透圧から自由になりつつあったからだ。
サークル活動にいそしみ、恋人を作り、アルバイトで得た収入の半分は家計に充当しながらも、残りの収入を貯めて、姉はしばしば旅行に出かけるようになった。しがらみから解かれはじめた姉は、身内の贔屓目を除いても、溌溂と輝いていた。
それに反比例するように、母は気力を失っていった。感情の抑揚が乏しくなり、白髪が増え、眼窩は落ち窪み、みるみるうちに老け込んでいった。
「さよりだけは、あたしを置いていかないで」
わたしを殴ったり、蹴ったりすることをしなくなった母は、かわりに幼い子供が甘えるように、いついかなるときも、わたしのそばにいたがった。
ぐずつく母の背をさすりながら、夜になれば心だけ、赤い鱗をした魚との、夜間遊泳がはじまる。その頃には、ペンの中の魚はもう、軸という質量さえも乗り越えて、自在に宙空を泳ぐようにまで育っていたけれど、私は魔法が使えるようになったことを、決して誰にも明かさなかった。
ただひっそりと、ノートに物語を書きためていくようになっていた。
「ねえ、おじいちゃん。その杖は、やっぱりマレーシアで買ったの?」
東京駅構内の喫茶店、四人掛けのボックス席で、わたしは祖父に尋ねた。祖父が乗って帰る予定の新幹線まで、もう数十分の猶予がある。祖父は「何か欲しいものはあるか」とわたしに尋ねたが、わたしはただ、祖父と向かい合って過ごせる時間があれば、それで十分だった。とはいえ、ゆっくり腰を落ち着けるには残り時間が心もとなく、祖父はホットコーヒーを、わたしはアイスティーを、一杯ずつ注文した。
祖父の杖は、握り手の部分が、水牛の角でできているそうだ。とろりとした濃乳白色に、茶褐色が流水紋のように伸びている。彫り込まれているのは、多分、梵字というものだ。サンスクリット語。
「そうだね」
私の質問に、痩せオオカミに似た祖父は、ちらりと杖を見て、そう答えた。そのまま、手に持っている英字新聞に視線を戻し、品良くコーヒーを啜る。
わたしは、祖父の隣の席に移ると、まじまじと祖父の杖を観察した。無遠慮なわたしの突飛な行動にも、このときの祖父はもう、そこまで驚かなくなっていた。
「高そうな細工だね」
「任せきりにしとったら、気付いたら派手になっとった」
祖父は英字新聞から目を離さぬまま、そう答えた。たとえ目線が合わなくても、わたしがなにか話し出せば、必ず耳を傾けてくれる人だ。
母も姉も、もしかしたらまだ気がついていないのかもしれないけれど、祖父は気難しいわけでも、偏屈なわけでもない。ふたりきりで過ごせば、案外、のんびりしていて大雑把な人だ。身なりはいつもきちんとしていて、几帳面な人ではあるけれど、こだわりのないものにはとことんまでおおらかで、そういう自分を自覚しつつ、「まあいいか」と、放置しているふしさえあった。なぜなら、こだわりがないからだ。
祖父はいわゆる、外交官だった人である。十年前までは、ずっと東南アジア諸国を飛び回り、現地駐在員として生活していたらしい。中でもとりわけ長く過ごしたのが、マレーシアだったそうだ。プール付きの白亜のお屋敷に、大勢のお女中さんを雇い、奥さん帯同の上で暮らしていたのだという。
なお、祖父の「奥さん」のことを、わたしが祖母と呼ばないのは、実際、血のつながりがないからだ。その「奥さん」こそが、祖父の戸籍上の正妻と呼べるひとであり、言ってしまえばわたしの母は、いわゆる、婚外子と呼べる存在だった。母は、祖父とともに暮らすことはおろか、母の実の母――祖母に抱かれた記憶もないという。
祖父が公務で日本を発ったのち、産後の肥立ちが悪く、逝去した祖母の親族たちのもとで、母は養育された。彼女が実の父たる祖父と初めて対面したのは、祖父が定年退職し、病没した正妻のご遺骨とともに日本へ帰国した、まさにその日だったそうだ。
母は、生まれて初めて対面した自身の父の前で、まず名を名乗り、次の言葉で「もうじき結婚いたします」と、三つ指をついて報告した。これが、最初で最後の親子の対面になるだろう、と考えていたらしい。けれどその生活のゆくすえは、前述したとおりだ。紆余曲折を経たのち、父と母の関係は粉みじんに破綻した。
正しい『家族』の形をついに知ることのないまま、二人の子どもを抱えて途方に暮れた母は、孫を抱かせる、という選択肢さえ思い浮かばなかった祖父のもとを、再訪することに決めた。
「お父さま。どうか今度こそ、『家族』をお救いください」
空々しいほど無垢に笑って、母は再び三つ指をつき、頭を垂れた。祖父は眉ひとつ動かさず、立ち尽くしていたそうだ。
『家族』というコミュニティに、母は縁がなかった。だからこそ母は、その虚像に囚われつづけている。遠い昔に千切れ落ちたはずの糸を、拾い上げて撚り合わせ、繋ぎ合わせて繕おうと、躍起になっている。それがわかるから、どれほど手をあげられようと罵倒されようと、わたしは母を憎めなかった。あわれなひとだと思っていた。
彼女が祖父を頼ったのは、遠い昔に自分と祖母を捨て、何らの私財を残さず日本を発っていった自身の父親への、安直な復讐だったのかもわからない。結果として祖父は、自身が終の棲家として都内に所有していた不動産を、わたし達一家に譲渡し、自身は遠く山陰の、特別養護老人施設へと引っ込むことを決めた。以来彼は年に一度だけ、在来線と新幹線を乗り継いで、わたし達『家族』に会いにやって来る。
かろうじて、繋げられた糸。でもそれは、祖父がわたし達と共に暮らすことに明確に怯み、『家族』の浸透圧に呑まれるのを忌避したことで、どうにか切れずに保たれているだけの糸でもある。
「ねえ、おじいちゃん。マレーシアは、多宗教国家なんだよね」
「そうだよ」
痩せオオカミに似た祖父は、短く答える。彼は寡黙で、物静かな人だ。自発的に口を開くということ自体、滅多にない。会話の皮きりは、対峙する相手側の仕事であって、それさえ祖父自身が回答に値すると判断しなければ、彼の天岩戸というものは、容易に開かれるものじゃなかった。相対するのが子どもであっても、血の繋がった孫であっても、祖父のこうしたスタンスや立ち居振る舞いは、昔から一貫して変わらない。
相手を見て手加減も斟酌もしない性格は、組織というものでは要らぬ誤解を招き、ひょっとしたらある程度、敵を作りもしたかもわからない。けれど、忖度も裏表もない実直さというものは、案外稀有なことでもあって、場合によっては同じくらい、誰かから好かれていただろう、とも思うのだ。
そして孫のわたしはといえば、そういう愚直な祖父のことが、ありていに言って大好きだった。『家族』というコミュニティの浸透圧に、息苦しい日々の続くわたしにとって、祖父は唯一、閉じた世界の外から訪れる異邦人であり、また、自身の足で外の世界へ戻っていく旅人でもある。吟遊詩人のような存在、とも表現できるかもしれない。
まあ、吟じて聞かせてくれるどころか、長いセンテンス自体、ほとんど喋ってはくれないのだけれど。
「おじいちゃん。マレーシアの人達ってさ。神様のこと、どのくらい信じてるの?」
わたしの問い掛けに、祖父は英字新聞から目を上げ、流石に怪訝そうな顔をした。
「なに?」
「日本は、神様がいっぱいいるでしょ。クリスマスと年越しとお正月で、全然違う宗教でお祝いするのが、当たり前だし」
勿論、日本国内にも、真剣にひとりの神様を信仰している人は大勢いるだろう。けれど、おそらく割合が違う。
「でもマレーシアの人たちは、みんな真剣に神様を信仰してるんでしょ。それなのに、多宗教国家ってことは、隣に住んでる人が――もしかしたら家族も、違う神様を信仰してたりするってことだよね?」
祖父が、ぱちりと瞬く。わたしの話は天岩戸に、それなりに興味深く届いたようだ。
「日本でもさ。別に神様とか大げさな話じゃなくても……家族で価値観が合わなくて一緒に暮らせないとか、あるでしょ。価値観程度でそんな話になるのに、神様が違うって、絶対折り合いつかないよなーって」
嘘をつくと、閻魔様に舌を抜かれる。親より先に死ねば、賽の河原で石を積む。殆どの日本人が知っているような訓戒だけど、きっと今のこの国に、それらを真剣に信じて守り抜こうという人はいない。
生まれた時から当然に崇拝する対象を持つ人たちにとって、神というものは、どれほど絶対的な存在なのだろう。息苦しく感じたりしないのかしら。搦めとられて溺れたり、抜け出したいと思いたくなるようなものには、ならないのかしら。
いつか、遠い国のビルに飛び込んでいった、飛行機の映像が思い出される。殉教。信仰のもとに死す、ということ。わたしには、わからなかった。少なくとも、もっとずっとちっぽけなしがらみの中から抜け出すことさえ、今のわたしには想像もできないのだ。
「さあ。儂は、考えたことがないな」
祖父の回答は、そっけなく端的だった。そうだろうな、と思っていたので、特に驚かない。「だよね」と答えて頬杖をつき、窓の向こうを行き交う雑踏を眺めた。
祖父はしばらく黙り、隣のわたしが眺めている景色に、同じように目をやった。そしてとても稀有なことに、自ら口を開いた。
「どこの国で暮らそうが、そういうもんは、互いに知らんでいいことだ」
「信仰は、共有しなくていいってこと?」
「宗教にかぎらず、何事もそうだよ。訊かれたからって、おいそれと他人に答えなきゃならんようなもんでもない」
「……家族でも、答えなくていいの?」
「自分でないなら、家族も他人さ」
いろいろな意味で、祖父にしか言えない言葉だった。誰を相手取ろうが、自分の立ち居振る舞いがどう解釈されるかということに、彼は全くこだわっていない。
それでいて、捨てたはずの母に住まいを譲り、孫たちに請われるまま物資供給し、なんなら未来の学費まで援助すると約束してくれている。辻褄が合っていないような気がしたけれど、ここは訊いても、きっと答えてくれないことなのだろうと思った。
祖父は新聞を置き、眼鏡を外す。しばらく眉間を揉みしだいたあと、痩せオオカミに似た彼は、まっすぐにわたしを見た。
「さよりは、叶えたいものがあるかい」
「……ある」
わたしは、向かいの座席に置いている、自分のハンドバッグに視線をやった。中には財布やハンカチのほかに、あのボールペンが入っている。夜を待って、思い描きたい物語は、まだたくさんあった。
「なら、誰に何を言われようが、お前はそれを然るべきときまで、口にするな。他人に知られんでいい。搔き回されるから、馬鹿をみるし、馬鹿をみたくなるんだ」
「家族にも、言わなくていいの?」
「そうだよ。なにかを口にするのは、それがお前にとって絶対に本当だと、自分の中の神様に約束できるときだけでいいんだ」
祖父はそう言って、腕時計を見た。そろそろ、新幹線の発車時間が近い。
杖を片手に立ち上がった祖父と店を出て、八重洲中央口まで、連れ立って歩く。改札前で立ち止まった祖父は、どこか、からかうような目でわたしを見た。
「さて、なにか儂に言いたいことはあるかい」
わたしは驚いた。こんなふうに、チャーミングな祖父の振る舞いを見るのははじめてだった。なるほど、このひとを愛した女性が多いことに、なんだか得心がいってしまう。おかしくなって、思わず笑った。
ペンの入ったバッグを握りしめ、わたしは答えた。
「おじいちゃん、大好き。またすぐ来てね」
わたしの言葉に、祖父はかすかに口許をほころばせた。
「はい。また来るよ」
祖父はそのまま、杖をつきながらゆっくりと、改札の向こうへ歩き去っていった。子ども相手だから、孫相手だからと、彼はこちらを振り返ったりもしないし、手を振ったりもしないし、おじいちゃんもさよりが好きだよ、なんて、お飾りめいたことを言ったりもしない。
ただ自分の中の神様に約束できることだけを、彼は答えたのだ。
わたしはバッグから、ボールペンを取り出した。ペンをゆっくり左右に揺らせば、軸の中で、ラメ粒子の波が揺れ、魚の赤い尾ひれがひるがえる。
このペンは、魔法のペン。おそろしくてとてもひとりでは越えられない、夜のしじまを前にしたときだけ、心を遊ばせて自由に泳ぎ回ることができる。今は真昼どきだ。わたしはまだ、魔法は使えない。けれど。
(物語は書ける)
わたしは、雑踏の中で踵を返した。
自らの手で、物語を書こう。わたしだけが異分子で、異端であるあの家で、それでも書こう。朝も昼も夜もなく、幾千幾万の言葉と向きあおう。まだ神様と約束することができないうちは、胸にしまっておくかわりに、文字にする。プラスチックの魚の体にまたがり、ラメ粒子の波間を泳いで、幾度となく旅をしてきた景色はきっと、わたしだけにしか紡ぎだせない物語になる。
魔法をこえた、物語になる。
耳の奥で、ぱちゃん、と、尾ひれの跳ねる音。きたるべきいつかの日、魔法の解けた赤い魚は、沖天の勢いで、太陽輝く蒼穹のかなた目がけて泳ぐだろう。
【おわり】