【最終選考作品】蒼穹へ泳げ(著:水鳥たま季)


age39.

 ここに、一本のボールペンがある。
 ペンの(じく)は透明だ。持つ角度を変えると、魚のキャラクターのフロートが、ラメ粒子の波に乗って、透明な(つつ)のなか、上へ下へとひらひら泳ぐ。これをわたしに買い与えてくれたのは、在りし日の、わたしの祖父だった。
 児童向けに大量ロットで生産された、いわゆるファンシー文具のひとつに過ぎないこのペンは、しかし実のところ、魔法のペンでもある。本当は、ずっと秘密にしていたことなのだけれど、今日はわたしの人生で、きっと何より特別な日のひとつになるから、知ってほしい。
 どうか見てほしい、他でもないあなたに。
 それは、ペンをゆっくり左右に揺らすことで始まる。軸の中で、ラメ粒子の波が揺れ、魚の赤い尾ひれがひるがえる。その動きにあわせて、目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返しているうちにほうら!
 まるで水のカーテンを潜り抜けるかのように、プラスチックでできた魚が、いとも容易(たやす)く軸という質量を通り越し、つるん、と空中に躍り出た。体をしならせながら、魚は上下左右、自由自在に宙を泳ぎまわる。久し振りの自由遊泳だからか、今にも歌い出しそうなほど上機嫌だ。
 そのうち赤い(うろこ)の魚は、窓ガラスをすり抜けて、(ちゅう)(てん)の勢いで、太陽輝く(そう)(きゅう)のかなたへと泳ぎ去っていく。ああ、もうそんなにも高く、泳いでいけるようになったのね。わたしはひととき、(まぶた)を伏せて祈る。
 長い間、しまいこんでしまっていて、ごめんなさい。どうか、自由を(おう)(か)してほしい。あなたと一緒に空想の世界へ(こ)ぎ出す喜びを知ったその日から、わたしは、ひとりぼっちの夜のしじまが、朝のやってくることが、ちっとも恐ろしくはなくなったの。
 わたしはジャケットの胸ポケットに、さも高級万年筆でございと言わんばかりに、魚の泳ぎ去ったペンを挿す。すう、と息を吸い、三回応接室の扉を叩くと、室内から、お入りください、といらえがあった。
 わたしはぎゅっと強くドアノブを(つか)むと、勢いよくひねって、扉をひらいた。
「受賞者、(みず)(しま)さより。入ります!」
 さあ、新しい世界へいってらっしゃい。
 耳の奥で、ぱちゃん、と、尾ひれの跳ねる音がした。

age11.

 買ってほしい、と言いなさい。
 それが、祖父が東京を訪れる際、決まって母から言い聞かせられる言葉だった。そのくせ彼女は、在来線と山陽(さんよう)新幹線(しんかんせん)を乗り継ぎ、ゆっくりゆっくりわたしたちの街へとやって来る祖父のことを、一度だって、自ら出迎えようとはしなかった。大抵の場合、わたしは、わたしよりも七歳年長の姉とふたりで、東京駅(とうきょうえき)喧騒(けんそう)の中、八重洲(やえす)中央改札をくぐり抜けてくる祖父のことを待った。
 祖父は、(や)せたオオカミに似ている。(ちょう)(しん)(そう)(く)に鋭利な(おも)(だ)ち、銀縁(ぎんぶち)眼鏡(めがね)。ぴしりと(のり)のきいた背広姿に、ハットを(かぶ)った祖父は、去年と同じ(つえ)をつきながら、今年もわたしたち姉妹の前に現れた。
「お(じい)ちゃん、いらっしゃい。長旅、お疲れ様でした」
 教科書を読み上げるように、姉が出迎えの(こう)(じょう)を述べる。祖父は小さく(うなず)く。笑顔の欠片(かけら)もない。これも、例年通りだ。
 祖父が片手に(さ)げていた(かばん)を、(うやうや)しく受け取った姉が、後ろ手に、強くわたしの背中を叩く。
「おじいちゃん、こんにちは」
 わたしはたたらを踏みながら、祖父のもとへ寄り、ぺこりと頭を下げた。そのまま、あらかじめ姉に言われていたとおり、鞄を明け渡したことで(あ)いた彼の手を、するりと(つな)ぐ。祖父の手は骨ばっていて、いつもどこか、ひんやりと冷たい。
「こんにちは」
 祖父は眼鏡の向こうで目を細め、おうむ返しに答えた。繋いだ手を、ほんの少しだけ握り返してくれるけど、その動きはどこかロボットのように、ぎくしゃくしている。
 わたしは子どもながらに、「今年もやっぱりおじいちゃんは、わたしたちのことが苦手なんだな」と考えた。

 それからわたしたちは、(ちゅう)(おう)(せん)に乗り、(しん)宿(じゅく)(えき)へ向かった。姉の誘導で、百貨店の最上階で、昼食を食べる。
 わたしの目の前に提供されたのは、オムライスに立派な旗の立った、お子様ランチだった。ケチャップのたっぷり含まれた、つやつやのチキンライスをじっと見つめていると、また、姉から背中を叩かれる。慌ててスプーンを口に運び、美味(おい)しいと述べるけど、祖父は、聞いているのだか聞いていないのだか、コーヒーを(すす)りながら、窓の向こうに立ち並ぶビル群を眺め、黙っていた。
 ふわふわの卵を割り、チキンライスと一緒に(そ)(しゃく)しながら、わたしはいつも学校から帰る頃に食卓に準備されている、ラップのかかった白いごはんのことを思い出していた。冷えたままのごはんに、のりたまのふりかけをかけて、かきこんで、お(ちゃ)(わん)を洗い、伏せたら終わる夕食。
 ああ、わたしはこんなにもあつあつで、口に入れた瞬間、ぎゅうっと(だ)(えき)の湧き上がるようなオムライスよりも、家でひとりきり、誰の目を気にすることなく食べられる、のりたまごはんのほうが好きなのだ。
「お爺ちゃん、私、欲しいものがあるの」
 食事を終えたあとは、ひととき、姉の(どく)(だん)(じょう)となる。実際このとき、年明けに大学受験を控えていた彼女が必要としていて、けれど手に入っていないものは、挙げれば枚挙に(いとま)がなかった。英和辞書、漢和辞書、参考書、度の合った眼鏡。
 わたしたちの家庭は、貧しかった。酒乱でギャンブル(ぐせ)のある父親のもとから逃れ、母親は(せい)(そう)(いん)と介護のパートで食いつなぎ、わたしたち姉妹を育てていた。わたしが物心ついたころにはもう、母は早朝から夜中までほとんど家に不在で、彼女が帰ってくる頃には、多くの場合、心身ともに(しょう)(すい)しきっていた。
「あんたなんか、産まなきゃよかった」
 不安、(ひ)(へい)(しょう)(そう)、孤独感。やり場のない母の(いら)(だ)ちは、ぼうっとして要領の悪いわたしに向けられることが多く、彼女はしばしば感情を(む)(だ)しにして、わたしを(なぐ)った。そしてその数秒後には、子どものように床に倒れ、両の手足を振り回し、泣き(わめ)いたりもした。
 反して、容姿も美しく、成績優秀で将来有望な姉のことは、目に入れても痛くない、と言わんばかりに可愛(かわい)がり、尊重した。それどころか奇妙に畏怖(いふ)し、(きん)(ぼ)しているようなふしさえあった。
 姉は、『家族』というコミュニティに対し忠実で、奉仕的だった。彼女は自身の立ち居振る舞いが、一家の命運を左右することに、つとめて自覚的なひとだった。母にとって姉は、カンダタの摑んだ蜘蛛(くも)の糸とも呼べる存在であり、その畏敬を帯びた期待に、空々(そらぞら)しいほど無垢(むく)に応えることが親孝行だと、姉自身も割り切っていた。
 だから姉は、年に一度、こうして祖父が上京するときには、母の言いつけ通り、めいっぱいに(どう)(け)を演じ、祖父のことを頼るのだ。実際、彼女の才能に見合う環境を整備するための資金など、振ろうが揺すろうが、落ちてはこない。祖父もそのことを理解しているから、姉があれもこれもと指差す品々を、機械のようにしらじらしく、(かん)(じょう)してまわるのだろう。
 暗黙の理解に、暗黙の理解を重ね塗りし、交わす言葉に中身などないと知りながら、それでも(きずな)らしい絆を(み)(いだ)して、繋がりつづけている。そうしなければこのひとたちは、誰もかれもが『家族』にはなれないのだと、疑いながら信じようとしている。
 両腕いっぱいに紙袋を抱えた姉が、今度はおまえだ、という顔をして、わたしのことを振り返った。
「さより。あんたも欲しいものがあるんでしょう。あそこにほら、おもちゃ売り場があるわよ。子どもと言ったら、おもちゃでしょ。あたしにはわからないけど」
 黙って立ち尽くしているわたしを置いて、姉は売場に突入していく。
「オルゴールなんてどう? あんたいつも、夜になると、さみしいって泣くじゃない」
 姉は、ぜんまいをひねると、虹色の光と甘いメロディーとともにお姫様の人形がくるくる回転する、オルゴールを手に取った。
「いらない」
 わたしは、首を横に振った。いらない。欲しくない、機械仕掛けのおもちゃなんて。
 わたしが夜に涙が出るのは、さみしいからじゃない。わたしを気の済むまで殴り、(け)り、ひとしきり暴れ疲れて眠りについた母が、朝になればどうしようもなく、不機嫌をあらわに(まぶた)を開けることが、こわいからだ。母の言いつけ通り、教科書をめくりながら、わたしが寝付くまでじっと枕元に座っている姉が、本当はいつまでも聞き分けなく泣いているわたしを、(うと)ましく思っているとわかることが、こわいからだ。
 全部、ぜんぶ、わかっているのに、それでも涙が止められないことが、こわいのだ。
『家族』というコミュニティの中で、誰も、なにも、わたしという存在が心から望まれて生まれたのだと、答えてはくれない。わたしは子どもで、あの家が確かに帰る場所ではあるけれど、自分はこの『家族』の中では異分子で、異端で、きっとここを(つい)(すみ)(か)にしてはいけないのだと、夜が訪れるたび、はっきりとわかる。その事実に打ちのめされ、涙のあふれて止められないわたしの孤独に、人工物の音が光が、お姫様の人形が、一体何の役に立つというのだろう。
 わたしは、姉の指差すほうから離れ、おもちゃ売場のすみ、児童向けのファンシー文具が陳列(ちんれつ)されている一角に向かった。しばらく売場を眺めていると、一本のボールペンが目に留まる。ペンの(じく)は透明だ。持つ角度を変えると、魚のキャラクターのフロートが、ラメ粒子の波に乗って、透明な筒のなか、上へ下へとひらひら泳ぐ。
(さかな)
 手に持って、(た)めつ(すが)めつ、眺めながら、想像してみる。
 そうだ。涙があふれて、どうしても眠れない夜は、このペンで、物語を書いてみるのはどうかしら。心の中に、思い浮かぶままに。だって学校で、先生に(ほ)めてもらったばかりなのだ。水嶋さんは、文章が上手(じょうず)ね。物語を書いてみるのはどうかしらって。
 夜がおそろしい。わたしにとって、その事実は動かせないものだ。ならばせめて、この魚と一緒に、空想の世界へ(こ)ぎ出してみたいと思った。ラメ粒子の波間を、赤い魚の尾ひれが軽やかにひるがえるのを、想像する。プラスチックの体にまたがり、自由遊泳。真夜中だってかまわずに、好きな歌を思う存分口ずさんだりしながら、海の中を冒険するのだ。
 泳ぎ回るうち、あふれた涙は、きっといつしか波に同化し、透明になって見えなくなる。遊び疲れて眠りにつくころには、思ったよりも(あっ)(け)なく、ひとりぼっちの夜のしじまを、越えられているに違いない。
「あのおじいちゃん。これを買ってもらえませんか」
 そう言って、ボールペンを差し出したわたしのことを、(や)せオオカミに似た祖父が、じっと見下ろす。
「こんなもんでいいのか」
 尋ねる声にはどこか、戸惑っているような気配があった。わたしは迷いなく(うなず)いた。
「これがいいの。これが好き」
 はっきりと言い切ったわたしに、姉が、なにか言おうとしたのが見えた。けれどそれより先に、祖父が財布から五百円玉硬貨を取り出し、手のひらに握らせてくれる。
 わたしはレジに急いだ。カウンターは、わたしの背よりも(わず)かに高くて、つま先立ちでお会計を待つ。
 レジのおばさんが、小さな百貨店の紙袋に包んでくれようとするのを断り、テープだけ貼られたペンを片手に戻ったわたしは、そのまま、勢いよく祖父の腰に抱きついた。祖父が、明確に凍り付き、たじろいだのがわかったけれど、この時のわたしは誰に何を思われようと、(さ)したるできごととは思えなかった。
 頬が、かっかと熱い。呼吸が弾む。わたしのペン。わたしだけのペン。
 きっとこれは、魔法のペンになる。
 嬉しかった。こんな気持ちになったのは、ほんとうに、久し振りだった。
「ありがとう、おじいちゃん。大切にします」
 祖父は、何も言わなかった。けれどわたしの手を、骨ばった大きな手がゆっくりとさらって、繋ぎなおしてくれたことを覚えている。
 姉は、心底(あき)れた顔をしていた。あのオルゴールが救うのは、毎夜毎晩、聞き分けなく泣きやまない妹から手離れできる、姉のほうなのだとわかっている。
 わかっていて、それでもやっぱり、自分ひとりのことしか尊重できないわたしは、きっと祖父が帰ったあとも母に殴られ、姉に(さげす)まれる。『家族』というコミュニティの中で、わたしだけが異分子で、異端であることは変わらない。きっと変われない。
 けれど、わたしは魔法を手に入れた。孤独と戦うための、空想という魔法。
 このペンで、きっと、わたしだけにしか書けない物語がある。

age14.

 それから数年が経つ頃には、年に一度、東京駅で祖父を迎え、そして同駅に見送りに行くのも、わたしひとりの役目になっていた。難関国公立大学への進学を果たした姉が、『家族』の浸透圧から自由になりつつあったからだ。
 サークル活動にいそしみ、恋人を作り、アルバイトで得た収入の半分は家計に充当しながらも、残りの収入を貯めて、姉はしばしば旅行に出かけるようになった。しがらみから解かれはじめた姉は、身内の贔屓(ひいき)(め)を除いても、溌溂(はつらつ)と輝いていた。
 それに反比例するように、母は気力を失っていった。感情の抑揚(よくよう)(とぼ)しくなり、白髪が増え、(がん)(か)は落ち(くぼ)み、みるみるうちに老け込んでいった。
「さよりだけは、あたしを置いていかないで」
 わたしを殴ったり、蹴ったりすることをしなくなった母は、かわりに幼い子供が甘えるように、いついかなるときも、わたしのそばにいたがった。
 ぐずつく母の背をさすりながら、夜になれば心だけ、赤い(うろこ)をした魚との、夜間遊泳がはじまる。その頃には、ペンの中の魚はもう、軸という質量さえも乗り越えて、自在に宙空を泳ぐようにまで育っていたけれど、私は魔法が使えるようになったことを、決して誰にも明かさなかった。
 ただひっそりと、ノートに物語を書きためていくようになっていた。

「ねえ、おじいちゃん。その(つえ)は、やっぱりマレーシアで買ったの?」
 東京駅構内の(きっ)(さ)(てん)、四人掛けのボックス席で、わたしは祖父に尋ねた。祖父が乗って帰る予定の新幹線まで、もう数十分の(ゆう)(よ)がある。祖父は「何か欲しいものはあるか」とわたしに尋ねたが、わたしはただ、祖父と向かい合って過ごせる時間があれば、それで十分だった。とはいえ、ゆっくり腰を落ち着けるには残り時間が心もとなく、祖父はホットコーヒーを、わたしはアイスティーを、一杯ずつ注文した。
 祖父の杖は、握り手の部分が、水牛の(つの)でできているそうだ。とろりとした濃乳白色に、(ちゃ)(かっ)(しょく)が流水紋のように伸びている。彫り込まれているのは、多分、(ぼん)(じ)というものだ。サンスクリット語。
「そうだね」
 私の質問に、痩せオオカミに似た祖父は、ちらりと杖を見て、そう答えた。そのまま、手に持っている英字新聞に視線を戻し、品良くコーヒーを(すす)る。
 わたしは、祖父の隣の席に移ると、まじまじと祖父の杖を観察した。(ぶ)(えん)(りょ)なわたしの(とっ)(ぴ)な行動にも、このときの祖父はもう、そこまで驚かなくなっていた。
「高そうな(さい)(く)だね」
「任せきりにしとったら、気付いたら派手になっとった」
 祖父は英字新聞から目を離さぬまま、そう答えた。たとえ目線が合わなくても、わたしがなにか話し出せば、必ず耳を傾けてくれる人だ。
 母も姉も、もしかしたらまだ気がついていないのかもしれないけれど、祖父は気難しいわけでも、偏屈なわけでもない。ふたりきりで過ごせば、案外、のんびりしていて(おお)(ざっ)(ぱ)な人だ。身なりはいつもきちんとしていて、(き)(ちょう)(めん)な人ではあるけれど、こだわりのないものにはとことんまでおおらかで、そういう自分を自覚しつつ、「まあいいか」と、放置しているふしさえあった。なぜなら、こだわりがないからだ。
 祖父はいわゆる、外交官だった人である。十年前までは、ずっと東南アジア諸国を飛び回り、現地駐在員として生活していたらしい。中でもとりわけ長く過ごしたのが、マレーシアだったそうだ。プール付きの白亜のお屋敷に、大勢のお女中さんを雇い、奥さん帯同の上で暮らしていたのだという。
 なお、祖父の「奥さん」のことを、わたしが祖母と呼ばないのは、実際、血のつながりがないからだ。その「奥さん」こそが、祖父の戸籍上の正妻と呼べるひとであり、言ってしまえばわたしの母は、いわゆる、婚外子と呼べる存在だった。母は、祖父とともに暮らすことはおろか、母の実の母祖母に抱かれた記憶もないという。
 祖父が公務で日本を(た)ったのち、産後の肥立(ひだ)ちが悪く、逝去(せいきょ)した祖母の親族たちのもとで、母は養育された。彼女が実の父たる祖父と初めて対面したのは、祖父が定年退職し、病没した正妻のご遺骨とともに日本へ帰国した、まさにその日だったそうだ。
 母は、生まれて初めて対面した自身の父の前で、まず名を名乗り、次の言葉で「もうじき結婚いたします」と、三つ指をついて報告した。これが、最初で最後の親子の対面になるだろう、と考えていたらしい。けれどその生活のゆくすえは、前述したとおりだ。(う)(よ)(きょく)(せつ)を経たのち、父と母の関係は(こな)みじんに(は)(たん)した。
 正しい『家族』の形をついに知ることのないまま、二人の子どもを抱えて途方に暮れた母は、孫を抱かせる、という(せん)(たく)(し)さえ思い浮かばなかった祖父のもとを、再訪することに決めた。
「お父さま。どうか(﹅)(﹅)(﹅)(﹅)、『家族』をお救いください」
 空々しいほど無垢に笑って、母は再び三つ指をつき、(こうべ)を垂れた。祖父は(まゆ)ひとつ動かさず、立ち尽くしていたそうだ。
『家族』というコミュニティに、母は縁がなかった。だからこそ母は、その虚像に囚われつづけている。遠い昔に千切(ちぎ)れ落ちたはずの糸を、拾い上げて(よ)り合わせ、(つな)ぎ合わせて(つくろ)おうと、(やっ)(き)になっている。それがわかるから、どれほど手をあげられようと(ば)(とう)されようと、わたしは母を憎めなかった。あわれなひとだと思っていた。
 彼女が祖父を頼ったのは、遠い昔に自分と祖母を捨て、何らの私財を残さず日本を発っていった自身の父親への、安直な(ふく)(しゅう)だったのかもわからない。結果として祖父は、自身が(つい)(すみ)(か)として都内に所有していた不動産を、わたし達一家に(じょう)(と)し、自身は遠く山陰の、特別養護老人施設へと引っ込むことを決めた。以来彼は年に一度だけ、在来線と新幹線を乗り継いで、わたし達『家族』に会いにやって来る。
 かろうじて、繋げられた糸。でもそれは、祖父がわたし達と共に暮らすことに明確に(ひる)み、『家族』の浸透圧に(の)まれるのを忌避(きひ)したことで、どうにか切れずに保たれているだけの糸でもある。

「ねえ、おじいちゃん。マレーシアは、多宗教国家なんだよね」
「そうだよ」
 痩せオオカミに似た祖父は、短く答える。彼は(か)(もく)で、物静かな人だ。自発的に口を開くということ自体、(めっ)(た)にない。会話の皮きりは、(たい)(じ)する相手側の仕事であって、それさえ祖父自身が回答に値すると判断しなければ、彼の天岩戸(あまのいわと)というものは、容易に開かれるものじゃなかった。相対するのが子どもであっても、血の繋がった孫であっても、祖父のこうしたスタンスや立ち居振る舞いは、昔から一貫して変わらない。
 相手を見て手加減も(しん)(しゃく)もしない性格は、組織というものでは要らぬ誤解を招き、ひょっとしたらある程度、敵を作りもしたかもわからない。けれど、忖度(そんたく)も裏表もない実直さというものは、案外稀有(けう)なことでもあって、場合によっては同じくらい、誰かから好かれていただろう、とも思うのだ。
 そして孫のわたしはといえば、そういう(ぐ)(ちょく)な祖父のことが、ありていに言って大好きだった。『家族』というコミュニティの浸透圧に、息苦しい日々の続くわたしにとって、祖父は唯一、閉じた世界の外から訪れる異邦人であり、また、自身の足で外の世界へ戻っていく旅人でもある。(ぎん)(ゆう)(し)(じん)のような存在、とも表現できるかもしれない。
 まあ、(ぎん)じて聞かせてくれるどころか、長いセンテンス自体、ほとんど(しゃべ)ってはくれないのだけれど。
「おじいちゃん。マレーシアの人達ってさ。神様のこと、どのくらい信じてるの?」
 わたしの問い掛けに、祖父は英字新聞から目を上げ、流石(さすが)(け)(げん)そうな顔をした。
「なに?」
「日本は、神様がいっぱいいるでしょ。クリスマスと年越しとお正月で、全然違う宗教でお祝いするのが、当たり前だし」
 勿論(もちろん)、日本国内にも、真剣にひとりの神様を信仰している人は大勢いるだろう。けれど、おそらく割合が違う。
「でもマレーシアの人たちは、みんな真剣に神様を信仰してるんでしょ。それなのに、多宗教国家ってことは、隣に住んでる人がもしかしたら家族も、違う神様を信仰してたりするってことだよね?」
 祖父が、ぱちりと瞬く。わたしの話は天岩戸に、それなりに興味深く届いたようだ。
「日本でもさ。別に神様とか大げさな話じゃなくても家族で価値観が合わなくて一緒に暮らせないとか、あるでしょ。価値観程度でそんな話になるのに、神様が違うって、絶対折り合いつかないよなーって」
 嘘をつくと、(えん)(ま)(さま)に舌を抜かれる。親より先に死ねば、(さい)の河原で石を積む。(ほとん)どの日本人が知っているような訓戒(くんかい)だけど、きっと今のこの国に、それらを真剣に信じて守り抜こうという人はいない。
 生まれた時から当然に崇拝(すうはい)する対象を持つ人たちにとって、神というものは、どれほど絶対的な存在なのだろう。息苦しく感じたりしないのかしら。(から)めとられて(おぼ)れたり、抜け出したいと思いたくなるようなものには、ならないのかしら。
 いつか、遠い国のビルに飛び込んでいった、飛行機の映像が思い出される。(じゅん)(きょう)。信仰のもとに死す、ということ。わたしには、わからなかった。少なくとも、もっとずっとちっぽけなしがらみの中から抜け出すことさえ、今のわたしには想像もできないのだ。
「さあ。(わし)は、考えたことがないな」
 祖父の回答は、そっけなく端的だった。そうだろうな、と思っていたので、特に驚かない。「だよね」と答えて(ほお)(づえ)をつき、窓の向こうを行き交う雑踏を眺めた。
 祖父はしばらく黙り、隣のわたしが眺めている景色に、同じように目をやった。そしてとても稀有なことに、自ら口を開いた。
「どこの国で暮らそうが、そういうもんは、互いに知らんでいいことだ」
「信仰は、共有しなくていいってこと?」
「宗教にかぎらず、何事もそうだよ。訊かれたからって、おいそれと他人に答えなきゃならんようなもんでもない」
家族でも、答えなくていいの?」
「自分でないなら、家族も他人さ」
 いろいろな意味で、祖父にしか言えない言葉だった。誰を相手取ろうが、自分の立ち居振る舞いがどう解釈されるかということに、彼は全くこだわっていない。
 それでいて、捨てたはずの母に住まいを(ゆず)り、孫たちに請われるまま物資供給し、なんなら未来の学費まで援助すると約束してくれている。(つじ)(つま)が合っていないような気がしたけれど、ここは訊いても、きっと答えてくれないことなのだろうと思った。
 祖父は新聞を置き、眼鏡(めがね)を外す。しばらく(み)(けん)(も)みしだいたあと、痩せオオカミに似た彼は、まっすぐにわたしを見た。
「さよりは、叶えたいものがあるかい」
ある」
 わたしは、向かいの座席に置いている、自分のハンドバッグに視線をやった。中には財布やハンカチのほかに、あのボールペンが入っている。夜を待って、思い描きたい物語は、まだたくさんあった。
「なら、誰に何を言われようが、お前はそれを(しか)るべきときまで、口にするな。他人に知られんでいい。(か)き回されるから、馬鹿をみるし、馬鹿をみたくなるんだ」
「家族にも、言わなくていいの?」
「そうだよ。なにかを口にするのは、それがお前にとって絶対に本当だと、自分の中の神様に約束できるときだけでいいんだ」
 祖父はそう言って、腕時計を見た。そろそろ、新幹線の発車時間が近い。
 杖を片手に立ち上がった祖父と店を出て、八重洲中央口まで、連れ立って歩く。改札前で立ち止まった祖父は、どこか、からかうような目でわたしを見た。
「さて、なにか儂に言いたいことはあるかい」
 わたしは驚いた。こんなふうに、チャーミングな祖父の振る舞いを見るのははじめてだった。なるほど、このひとを愛した女性が多いことに、なんだか得心がいってしまう。おかしくなって、思わず笑った。
 ペンの入ったバッグを握りしめ、わたしは答えた。
「おじいちゃん、大好き。またすぐ来てね」
 わたしの言葉に、祖父はかすかに口許(くちもと)をほころばせた。
「はい。また来るよ」
 祖父はそのまま、杖をつきながらゆっくりと、改札の向こうへ歩き去っていった。子ども相手だから、孫相手だからと、彼はこちらを振り返ったりもしないし、手を振ったりもしないし、おじいちゃんもさよりが好きだよ、なんて、お飾りめいたことを言ったりもしない。
 ただ自分の中の神様に約束できることだけを、彼は答えたのだ。

 わたしはバッグから、ボールペンを取り出した。ペンをゆっくり左右に揺らせば、軸の中で、ラメ粒子の波が揺れ、魚の赤い尾ひれがひるがえる。
 このペンは、魔法のペン。おそろしくてとてもひとりでは越えられない、夜のしじまを前にしたときだけ、心を遊ばせて自由に泳ぎ回ることができる。今は真昼どきだ。わたしはまだ、魔法は使えない。けれど。
(物語は書ける)
 わたしは、雑踏の中で(きびす)を返した。
 自らの手で、物語を書こう。わたしだけが異分子で、異端であるあの家で、それでも書こう。朝も昼も夜もなく、幾千幾万の言葉と向きあおう。まだ神様と約束することができないうちは、胸にしまっておくかわりに、文字にする。プラスチックの魚の体にまたがり、ラメ粒子の波間を泳いで、幾度となく旅をしてきた景色はきっと、わたしだけにしか(つむ)ぎだせない物語になる。
 魔法をこえた、物語になる。

 耳の奥で、ぱちゃん、と、尾ひれの跳ねる音。きたるべきいつかの日、魔法の解けた赤い魚は、(ちゅう)(てん)の勢いで、太陽輝く(そう)(きゅう)のかなた目がけて泳ぐだろう。

【おわり】