【佳作】夏の橋渡り(著:つなべ夏)
やっぱりやめよ。私は投げやりな気持ちで橋の欄干にもたれかかり、ちろちろ流れる小川を見下ろしてポッキーをかじっていた。あと少しで同窓会の始まる時間だった。この橋を渡ってまっすぐ行けば、会場になっているダイニングバーのある商店街へ突き当たる。お盆休みに合わせて催される、高校の学年全体での大規模な同窓会。今ごろみんな集合し始めて、おのおのの大学生活の話に花を咲かせているだろう。
しゃべりたい友達はたくさんいるのに、私はその場に混じる自信がない。
「清野さん?」
突然名前を呼ばれて振り返った。私に声をかけてきた若い男性。知り合いだろう。いつものように私は視線を高速で巡らせる。
「えっと……」
きちんとセットされた短髪、ゆったりしたダークグレーの半袖シャツに、細身のパンツを合わせている。肩から下げたボディバッグと左腕に巻いた黒のシンプルな腕時計。そこまで確認したけれど、お手上げだった。関係性が分からない以上、誰ですかと尋ねるのもためらってしまう。言葉に詰まる私に気付いたのか、目の前の男性が先に口を開いた。
「ああそっか。相貌失認ていうの、だったっけ」
先回りしてくれたおかげで、慌てていた心臓が少し落ち着いた。これを知るのは、高校時代の同級生だ。顔の見分けがつかない「相貌失認」をもつ私は、知り合いとの予定外の遭遇や、久々の再会にいつも緊張し、焦ってしまう。
「うん、そう。ごめんね、わからなくて」
「いや……俺、辻。覚えてる?」
名乗られて、懐かしさと罪悪感が混ざり合いながら押し寄せてきた。辻くんと、長谷川くんとの苦い記憶が鮮明によみがえる。背格好の似ている二人。慎重さの欠けていた私の、犯した過ち。
「覚えてるもなにも。話しかけてくれてありがとう」
高二の夏以降ずっと避けられていたから、もう話せないのだと思っていた。こうやってあいさつができてよかった。私は胸のつかえがとれたような心地で、同窓会へ向かう辻くんを見送ろうと小さく手を振った。それなのに、どういうわけか辻くんは私の隣に並ぶと、欄干に背を預けた。
「清野さんは今日の同窓会行かないの?」
「辻くんこそ、急がないと始まっちゃうよ」
辻くんは女子に人気があった。こんなところで油を売ってる暇はないはずの人だ。立ち去る気配のない辻くんの横顔をずっと見ているわけにもいかなくて、私は手に持っているポッキーの箱に目を落とした。印字された文字をくまなく読めてしまうほどの時間が流れる。
沈黙を持て余して、ポッキーを箱ごと差し出した。
「食べる? 新商品なんだって」
「ありがとう」
辻くんは私を一瞥して、箱の中で破ってあった袋からポッキーを一本取り出した。そのためらいのなさに私はぎょっとした。
「ナッツは入ってないよ」
「ああ、うん。ありがとう」
律儀に二度もお礼を言って、辻くんはぱきっと食べた。私も一本取り出して、表面がゆるく溶けはじめているポッキーを唇で折った。
ぱきっ、ぽきっ。その軽快な音は、小川のせせらぎに流されていく。夕暮れをまとったぬるい風が橋の上を吹き抜けた。
ふう、と細いため息を吐いてから、辻くんが口を開いた。
「ずっと、清野さんには話さないといけないって思ってたんだ。あのときのこと」
あのときのこと。緊張をはらんだ声音でそう言われて、私は身構えた。あのあと私は謝って、辻くんは「気にしなくていいよ」と口では言っていた。本心から許されたのかわからないけれど、もう過ぎた話のはずだった。それを改めて蒸し返す、彼の真意がわからなかった。
私は幼いころから、人を見分けるのが不得意だった。それでも中学までは胸に名札を付けていたし、少しぐらい人違いをしても冗談のように流されて、自分も周囲も特に気にしていなかった。
しかし高校生になると、名札がなくなったうえに学年全体の人数が増えて、困ることがたびたび起きた。廊下ですれ違ってもその人が誰かという確証が持てなくて、自分から声をかけることが難しくなった。だけど相手は私を一目見て笑いかけてくれる。そこで初めて、自分の顔認識は他人と違うのではないかという疑問がわいた。
ネットで検索すると、「相貌失認」というワードが出てきた。顔のパーツは見えているのに、一つの像として結べない。親しい人の顔すら覚えられない。家族と家の外で出会っても素通りしてしまう私は、まさにこれだと思った。
それでも、毎日話す仲良しの子たちは、制服の着崩し方や、髪型、爪の色、アクセサリーのデザインを、日々アップデートしながら見分けることができた。困ったのは話す機会の少ないクラスメイトだ。教室の座席と体格や声を頼りに、かろうじて判別していた。
なかでも、サッカー部の辻くんと長谷川くんは見分けるのが困難だった。ふたりはいつも一緒にいるからか、ノリやしゃべり方すら似ていて判別がつかない。ときたま話しかけてくれるほうは辻くんらしい。そんな見分け方しかなかったので、仲良しの沙織に何気ないふうを装って尋ねたことがあった。
「辻くんと長谷川くんって似てるよね。とっさに見分けつかないんだけど」
「えーっ、マジで言ってる? 二人ともイケメンだけど、顔の系統違うじゃん!」
沙織によると、辻くんは塩顔、長谷川くんは豚骨顔らしい。
「あ、それに辻くんのほうはナッツアレルギーらしいよ。木の実の混ざってるもの食べられないんだって。去年のバレンタインのとき女子内で共有された情報」
したり顔で教えてくれたが、そこは見た目で分からない。そのまま恋バナへと転がっていく沙織の話に頷きながら、とりあえずは話しかけてくれるほうが辻くんということにしていいか、と諦めた。
そんななか、高校二年生の初夏に野外学習が行われた。長野県にある青少年の家で二泊三日を過ごすのだ。
大好きなお菓子もバックパックにたくさん詰めて、楽しみにしていた当日の朝。集合場所のグラウンドを目の前にして、私は立ちすくんだ。
全員私服、普段と違う持ち物、髪型。いつも目印にしていた要素がすべて取り払われた集団。親しい友人すら見つけられない現状に、私は途方に暮れてしまった。
「なんか深刻な顔してるけど大丈夫?」
声のほうを向くと、サッカー部のロゴ入りのジャージを羽織った男子が私を覗き込んでいた。サッカー部で話しかけてくれる人なんて、辻くんしかいない。
「あ、いや、なんか盛り上がりに圧倒されて」
「ははっ。みんな朝からテンション高いもんな。まあのんびり楽しもうよ」
彼はそう言って走り去り、色とりどりの私服の集団に紛れた。おかげで緊張が少しほぐれた。むしろ私服だとみんな格好が違うから、一度見分けがつけばわかりやすい。そう前向きに考えて、私はさざめきのなかに足を踏み入れた。
それでも現地に着き、オリエンテーションと周辺散策を終えたころには私は疲れてしまっていた。誰かと話すたびに服装や持ち物を覚えて、それと照らし合わせながら活動しなければならず、頭は常にフル回転だったのだ。
自由時間には少し一人になりたくて、ホールと宿泊棟をつなぐ廊下の長椅子に座っていた。外で遊んでいる人が多くて、ここは人気が少ない。ぼんやりしていると、タッタッタッと足音が近づいてきて、一人の男子が通りがかった。
「あれ? 清野さん体調悪いの?」
目の前の男の子が着ているサッカー部のジャージは、泥はねでずいぶん汚れていた。
「ううん、休憩してただけ。具合悪そうに見えるかな?」
「いや、朝も難しい顔してたし、もしかして体調悪かったんかなって思って」
辻くんだ。朝もだったけど、よく気が付く人だと感心した。
「大丈夫だよ、ありがとう。それよりジャージすごいけど、どうしたの?」
「な。やばいよなこれ。部活のやつらと本気アスレチックしてて。さすがに汚れすぎていったん戻ってきたわ」
「そんなに汚れるなんて本気度ヤバいじゃん」
「そうそう。ぬかるんだ斜面でみんな次々こけてったし」
アスレチック場で次々こける男子高校生たちを想像して噴き出してしまった。くすくすと笑い続ける私に、話題にそぐわない少し震えた声が降ってきた。
「清野さん、あのさ。あのー……」
可笑しさは途切れ、彼がなにかを言いよどむ様子に私の心臓は無意識に身構えた。
「けっこう前から、俺、清野さんのこと気になってて……つーか、好きで。や、いきなり何言ってんだよって感じだけど、笑ってんの見たら言いたくなって……急にごめん」
しどろもどろに伝えられた突然の好意に、顔がかあっと熱くなる。生まれてはじめてされた告白というものに、舞い上がりながら動揺した。
「え、ええーっ……あの、えーっと……」
負けないほどのしどろもどろさで、私は目を泳がせる。彼の右手が少し震えながら、落ち着かない様子で下唇を軽くひっぱっていた。
「えっと、う、嬉しいです。辻くんみたいなみんなに好かれてる人に、そんなふうに思ってもらえてるって信じられないんだけど、あの……」
まずは友達になろう、かな。それとも今度二人で遊ぼう、とかかな。なんて答えたらいいのか目まぐるしく考えて、ふとおかしな雰囲気に気が付いた。張りつめた沈黙が落ちている。口元にある彼の右手が、時が止まったかのように握られていた。その上でかすかに開いたままの唇から、揺れた声が漏れた。
「俺、長谷川だけど。え……マジで? 俺の認識そのレベルかあ……」
瞬間、やってしまった、とショックが押し寄せた。大事なタイミングで最低な失敗をしてしまい凍りついている私の前で、うつむいた長谷川くんは気まずそうに続けた。
「やー、うん、ごめん。今の聞かなかったことにして、忘れて。じゃ」
そう言って、長谷川くんは宿泊棟のほうに向かって駆けていった。取り残された私は、頭をかかえた。
最低だ。朝も今も、ジャージの彼は長谷川くんだったのだ。二年生になって三ヶ月ほど経つのに人間違いをするなんて、あなたに全く興味がありませんって言っているようなものだ。あんなにまっすぐな好意を向けてくれた長谷川くんを、どんなに傷つけただろう。そう思うと涙が出そうになった。廊下に反響した誰かの騒ぎ声が近づいてきて、私は逃げるように宿泊部屋へ向かった。
みんなが出払っている部屋の隅で膝を抱えた。失礼でひどいことをした私が泣く資格はないのに、立てた膝小僧には涙がわずかに染み込んだ。嬉しかったのだ、ほんとうに。それなのに、もらった思いを私は踏みにじったんだ。
部屋の外ではときたま誰かが楽しそうに走っていく音がする。みんなはしゃいで浮足立っている。
――今からでも間に合うだろうか。
学校じゃないこの非日常の空間が、とどまる心を後押しした。学校に戻ってしまったらきっともう話しかけられない。だから今、悲しい思いをさせてしまったことをせめて謝るだけでも。
困ったときの口実にと、鞄を引き寄せて新商品のチョコレートの小袋を取り出した。それを握りしめて立ち上がり、私は部屋を飛び出した。
ホールに向かって走った。夕食の時間が近づいているからか、食堂に向かう生徒がちらほら見えた。流れに逆らい、くまなく走って探し続けると、まばらな人影の隙間にサッカー部のジャージを見つけた。こちらに向かって歩いてくるその姿に私は駆け寄った。
「さっきっ……げほっ」
走ってきたせいでむせてしまった。恥ずかしくて顔に熱が昇る。荒い呼吸のまま、一息に叫んだ。
「間違えてしまってごめんなさい!」
私は思いっきり頭を下げた。長谷川くんは何も言わない。置き去りになった謝罪の言葉が宙に浮いて、頭のてっぺんがざわついた。私はどうしようもなくなって、手に持っていたチョコレートを彼の手に押し付けた。
「ほんとうにごめんね。これ、お詫び。新商品なんだって。よかったら食べて」
場違いに饒舌な自分がいたたまれなくなり、私はくるりと踵を返して駆け出した。
顔が熱い。今は誰にも会えない。私はあわてて近くの女子トイレに逃げ込んだ。個室の中で、心を落ち着かせる。
自分の一挙一動を振り返ると、耐えがたい羞恥で消えたくなる。それでも、謝れたことへの安堵の気持ちも同じくらい大きかった。
トイレから復活して廊下を歩いていると、外から戻ってきた沙織たちと出会った。
「夕飯セルフだって。キヨも行こ行こ」
誘われて食堂に向かうと、すでに長い列ができていた。お盆を持って、料理の盛られた器を順番に取っていくスタイルだ。最後尾に並んで中の様子をうかがっていると、沙織が配膳場の奥の台を指差した。
「あそこのドレッシング、サラダにかけ放題らしいよ。地元のいろんな味置いてるんだって」
示された先では、台を囲んだ男子のグループが盛り上がっている。その端にサッカー部のジャージの後ろ姿を見つけた。ふざけ合っていろんなドレッシングをかけまくっている男子たちの横で、一本のボトルを手に取ってパッケージをじっくりと見ているようだ。その背中をつい目の端で追ってしまう。
「なになに? キヨなんか顔赤くない?」
ドキドキしているのを、沙織に目ざとく見つけられた。列の動きに合わせて配膳されたおかずを一つずつお盆に載せながら、平静を装って話した。
「いや、ちょっとさっき、長谷川くんと話したってだけ。ほとんど初めてだったから」
「あーね。長谷川くん普段はキヨのこと意識しすぎて話しかけられないっぽいもんね。それをサポートする辻くんよ」
「ええっ⁉ なにそれ、初耳……」
「まあ恋多き私の勘だけどね」
恋多き女の本能に慄きつつ、サラダを取ってドレッシングの台に向かった。オーソドックスな和風、胡麻、青じそなどのほかに、長野で作られた本わさびやりんご、くるみのドレッシングまで並んでいて、選ぶのが楽しかった。
沙織が男子のテーブルを指差して、あっち座ろうよと言ってきたので、力いっぱい首を振って拒否した。長谷川くんの近くで食べるなんて、今は無理。
ぶつぶつ文句を言う沙織を引き連れて、彼らから長机一つ挟んだ場所に背を向けて座った。
ガタン、と大きな音が後ろで聞こえたのは、食べ始めてしばらくたったころだった。
「辻⁉」「辻くんっ!」
驚いて振り向くと、一つ先の長机に、辻くんの名前を叫びながらみんなが駆け寄ってきていた。取り囲むように一気に人だかりになっていく。
「辻くんどうしたんだろう」
心配そうな声で立ち上がり様子を見に行く沙織のあとを、私もついていった。人垣の隙間にその姿が見えて――私は目をみはった。
荒い呼吸で苦しそうにうずくまっているのは、サッカー部のジャージ姿の男子だった。
さっきまでの自分の認識を信じられなくなって、押し寄せた疑惑が胸を激しく打ち付ける。担任がみんなをかき分けてやってきて指示を出している声が、脳内を反響する。駆け付けた別の教師に薬を口に入れられて、どこからか用意された担架で辻くんは運ばれていった。
ざわめく周囲のなかから、甲高い女子の声が響いた。
「これアーモンドチョコじゃん! なんで辻くんこんなの食べてるの⁉」
その手には、私が長谷川くんにあげたはずのチョコレートの空袋が握られていた。サアッと血の気の引いた私に追い打ちをかけるように、Tシャツにカーゴパンツを穿いた隣の男子が答えた。ついさっきも耳にした声。私を好きだと言った声。
「それ、清野さんが辻にあげたらしい」
周囲の視線がまばらに動き、やがて私に集まった。のっぺらぼうの顔たちが、いっせいに私のほうを向いていた。
あの場面を思い出すと、いまだに胸がすうっと冷たくなる。
「辻くんが大事に至らなくてよかった、ほんとうに。あのあとサッカー部のマネの子たちに怒られたんだ。『辻くんと長谷川くんを見分けられないなんてありえない、わざと間違えたんじゃないのか』って」
「それで相貌失認だって言ったの?」
「うん。学校中に広まっちゃったし、そんなの言い訳だって責められちゃったけど」
「言い訳なんかじゃ――」
「ううん、言い訳だよ。だって考えればわかるはずだった。アスレチックで泥まみれになっていた長谷川くんも、サッカー部のメンバーも、みんなそれぞれ着替えてたんだよね。ジャージだった長谷川くんは私服に、私服だった辻くんはジャージに」
「清野さん」
「ほんとうに、辻くんにも長谷川くんにも、私は――」
「違うんだ」
遮る声の大きさに驚いて、顔を上げた。
「あれは清野さんのせいじゃない。だって俺は、清野さんにもらったチョコレートを、大丈夫だと思ったから食べたんだ」
「……大丈夫って、どういうこと?」
「木の実にはたくさん種類があって、一つにアレルギーがあってもほかの種類にも症状が出るわけじゃないんだ。俺はくるみのアレルギーだけど、アーモンドは大丈夫。他人には細かく説明する必要もないからナッツアレルギーって言ってたんだよ」
アーモンドは大丈夫。その言葉で、凝り固まっていた罪悪感が溶けていくようだった。そのあとでわずかに怒りが湧いてくる。
「そんな、そんな大事なこと、早く言ってくれたらよかったのに」
不満をぶつけながら、ずっと持っていた疑問についても腑に落ちた。
アレルギー持ちなのに、新商品のお菓子をもらって成分表を確認しなかったの?
渡した私も悪いけど、不用心に食べた辻くんの責任なんじゃない?
あのあと辻くんに直接謝ったときに、口から出かかったこと。そんなこと言える筋合いはないと抑え込んで、それでも頭をよぎるたびに私は自分に嫌気がさした。
「ごめん」
あっけなく覆されてしまった事実に、はあとため息が出る。気が抜けた心地で顔を上げると、目の前にいる彼の右手が、落ち着かない様子で下唇を軽くひっぱっていた。
その仕草をみて、息が止まる。また私は間違えた。だけど、今度は意図的に――
「アーモンドが原因じゃなかったのなら、あのとき辻くんはどうしてアレルギーの症状が出たの?」
「さあ。サラダに間違えてくるみ入りのドレッシングをかけたのかもしれない」
「でもあのとき、辻くんはドレッシングのボトルをじっくり見てたでしょう? それなのに、どうして?」
「見落としだよ、そんなこともある」
「アレルギーがあるなら、新しく口にするものは必ず成分表を確認するんじゃないの?」
「何年も前の話だし、ちゃんと確認したかどうかなんてもう覚えてないよ」
「違うよ、今の話だよ」
こちらにぱっと向き直る顔。ばらばらに見えるこの目も鼻も口も、全部合わせて、一人の人として覚えておきたいのになと、場違いなことを考えて切なくなった。
「どうして辻くんのふりをしているの? 長谷川くん」
視線がぶつかる。沈黙のなか、お互い目はそらせなかった。胸が締め付けられる。彼の小さく開いた口から、掠れた声が尋ねた。
「いつ気付いたの?」
「今だよ。私はずっと、辻くんはアレルギー持ちのくせに他人からもらったお菓子に何が入ってるかも確認しないで食べちゃう人だと思ってた。でも、そうじゃなかった。つまり、さっき私がポッキーあげたのにためらいなく口にして、緊張してるときに唇を触るくせのあるあなたは、長谷川くんだよね」
「……ごめん」
「どうせ見分けがつかないだろうと思って騙したの?」
「いや、こんなところで思いがけず会って、話したいのに合わせる顔がなかったんだ」
「あのころ失礼なことしたのは私のほうだよ。二度も間違えた私のほうが、長谷川くんに合わせる顔がなかった」
「それでも、あの騒ぎで清野さんを名指ししたのは俺だから。まるで犯人みたいに責められてたのに否定しなかった。否定できたのは俺だけだったのに。好きな子をかばわなかったこと、ずっと後悔してる」
好きな子と言われて胸が痛んだ。告白されたあの日の私が間違えなければ、そのまっすぐな気持ちを近くで感じられる未来もあったのだろうか。
「あのとき、知らなかったから否定できなかったんじゃないんだね」
長谷川くんが、ひゅっと息を吸い込んだ音が聞こえて、私は苦しくなった。
「長谷川くんだけは、辻くんの症状がアーモンドのせいじゃないことを、ほんとうは知ってたんだね」
合わせる顔がなかっただけじゃない。きっと、ほんとうのことを話したくない気持ちが辻くんのふりをさせていた。それなのに嘘を貫き通せない彼に、透けて見えるのは罪悪感だ。きっとそれは、すべてを打ち明けてしまわないと終われない後悔。
たっぷりと黙り込んだ長谷川くんは、息をひとつ吐いてから、絞り出すように言った。
「ごめん、ほんとうにごめん。俺は――清野さんに罪を着せたんだ」
震える声で、すべてをぶちまけるようにとめどなく、彼は語り始めた。
「あの日、清野さんに告白したあと辻に愚痴ったんだ。お前と間違えられたって。辻は、『これまでさんざんきっかけ作ってやってたのにそのレベルかよ』って笑ってた。傷に塩塗られたよ。しかも夕飯の前になって、清野さんに謝られたって辻から聞いたんだ。もう一回間違えるなんて思わないからさ、俺、清野さんが辻にだけフォローしに行ったんだと思った。俺と辻を間違えたこと、辻には悪く思われたくないから謝って、俺は謝るほどの存在じゃないんだって。俺に対して邪険すぎるだろって清野さんにはむかついたし、辻にはだいぶ嫉妬した。だから――ちょっとした仕返しみたいな気持ちだったんだ。ドレッシング混ぜまくったひどい味のサラダ食わせてやろうって」
「いたずら心で、辻くんにくるみを食べさせたってこと?」
「違う。信じてもらえないかもしれないけど、そんなつもりじゃなかったんだ。いつもと違う空間で、告白とか……いろんなことがあって俺おかしかった。アレルギーのことは頭から抜けてて、ただ辻に『不味い』って言わせたい、みたいな気持ちで、辻のサラダに俺の皿から一口分こっそり入れたんだ。気付いたのは辻が倒れた瞬間だった。それまでは、リアクションもなく普通に食べてしまった辻を恨みがましく思ってたほどだったんだ」
すべてが腑に落ちた。長谷川くんがあれ以来抱えてきた苦しみを、痛いほど感じる。
「あれは、俺のせいだった。それなのに、俺はやってしまったことの重大さが恐ろしくて、言えなかった。ずっとほんとうのことが言えなかった。清野さんにもみんなにも――辻にも」
「辻くんはなんて言ってたの?」
「無事に戻ってきたあとに、『テンション上がってやらかしたわ、わりぃ』って、それだけ。気付かれてなくてほっとしたよ。そんでそんな自分にうんざりしてさ。あんなに気を許してた辻と一緒にいるのが苦しくなった。三年でクラスが離れて、サッカー部引退して、高校卒業して、そのたびに俺は心底ほっとした。こんなんもう友達とは言えないよな。それなのに辻には友達だと思っててほしいなんて、虫が良すぎる自分も嫌だ」
話を終えた長谷川くんは、欄干に寄りかかってうなだれた。そんな彼の横顔を、私はじっと見つめていた。
私は手に持っていたポッキーの箱を差し出す。
「食べる? たぶんもう溶けちゃってるけど」
長谷川くんは、小さく首を振った。私は溶けてくっついたポッキーをひとりで食べる。小川のせせらぎ、薄暗くなった空、涼しさを帯びた風。
「それならやっぱり、長谷川くんは同窓会に行かないといけないね」
「え」
会いたい友達はいて、一度会場に向かったのに参加する勇気がなくて、辺りをうろついていた私。きっと長谷川くんも同じで、だからここで偶然出会ったんだろう。
「私、野外学習から帰ったあと、辻くんに直接謝ったんだ。私があげたアーモンドチョコのせいでごめん、って。そのとき辻くんは、『気にしなくていいよ』って言ったの。私のせいじゃないとも、アーモンドのせいじゃないとも言わなかった」
それがなにを意味するのか、私にはわかった。
「あのことを否定できたのは、長谷川くんだけじゃない。辻くんだって、私の罪を否定することができたんだよ。それでもそうしなかったのは、長谷川くんと友達でいたかったからなんじゃない?」
長谷川くんが顔を上げ、こちらを見つめる。
「辻くんは全部気付いてて、そのうえで長谷川くんをかばったんじゃないのかな。長谷川くんがみんなから責められないように、自分と気まずくならないように」
「嘘だろう……」
「辻くんに会って確かめてきなよ。ほんとうのこと言っても、二人は大丈夫だと思うよ。だから、さあさあ」
私は呆気に取られている長谷川くんの背中を軽くたたいて、押し出した。
「清野さんも一緒に行こうよ」
「私はいいよ。行っても誰が誰だかわからなかったらやっぱり気まずいし」
「大丈夫だよ。マネージャーから、有志で全員分の名札作ったって聞いたよ」
「え?」
「サッカー部のマネが女子集めて作ったんだって。たぶん、清野さんが困らないように」
「ほんとうに?」
橋の下の小川から、絶え間なく水の流れる音が聞こえてくる。川底の小石は少しずつ、流れの先へと運ばれていくのだろう。
相貌失認だと告白して、それは言い訳だと責められた過去。人に話しかけるのが怖くなったこと。
すっかり水に流してしまうことはできない。だけど、過去を水に薄めながら、流れに背中を押されて、前に進めるような気がした。
「行こう、一緒に」
「うん、行こう」
表情はうまく読み取れないはずなのに、目の前の長谷川くんは朗らかに笑ったように見えた。
【おわり】