【最終選考作品】あいつの葬式、宗派なに?(著:薄田もなか)
『トシのやつ死んだらしいぞ』
もう三年ほど会っていない高校時代の親友の一人から届いたメール。四十七歳の内藤清(通称・キヨシ)、は電車の中でその一文を何度も読み直した。メールが届いてもう五分ほど経っただろう。文章から友人の死を読み取ることはできるが、どうしても頭がそれを受け入れようとしない。
キヨシ、トシ、そしてメールを送ってきたナベちゃん。高校時代はこの三人での思い出が全てと言って良いほど一緒の時間を過ごした。そして今日、その親友の死を知らされた。
――次の駅で降りなければ
そう思っても、この力の抜けた体で、この人混みをかき分けて出口にたどり着くことができるだろうか。キヨシはそう思いながら、携帯電話の電源を切った。
プシューと音が鳴ると、自宅の最寄り駅に着いた。力が入らない体をなんとか動かして、電車の外に這い出る。そのまま歩き続ける力がなく、目の前のホームのベンチにどさっと座り込んだ。
「トシのやつ。本当に死んだのか」
発車合図のベルが、キヨシの呟きをかき消すと、電車がのっそりと動き出した。
少しずつスピードを上げていく電車の窓に、キヨシの姿が反射する。年をとって広くなったおでこが、時の流れを物語っているようだ。
気づけばトップスピードに達した電車は風を巻き上げて次の停車駅へと姿を小さくする。
――どうせ帰っても、相手にしてくれない妻と娘だけだ。なんならこのまま飲み歩いてしまうおうか。喪服のクリーニングはいつ出したか。ナベちゃんは日程知ってるのかな
駅のベンチで、頭の中に同時に色々な思いが流れ込んでくる。その時、ポケットの中の携帯電話が小刻みに震えた。
キヨシはそれを取り出すと、側面にあるボタンに力を込める。ぱっと明るくなった画面にナベちゃんからメールを受信した知らせが表示された。
『葬式は三日後らしい』
四月中旬、生暖かい風がホームに入り込み、キヨシの少ない前髪が少しだけ揺れる。
キヨシがうつむくと、膝の上には口の開いた通勤鞄。そして、その中のファイルに入った一枚の書類が目についた。もう数ヶ月間も鞄に入れっぱなしの書類が。
「俺、帰りは明日の夜になると思う」
「夕飯は?」
「夕飯は……どうかな」
「外で食べてもらった方が助かるんだけど」
(なら、先にそう言ってくれよ)「わかった」
キヨシの中で、今朝の妻との会話が一瞬頭をよぎった。
トシの葬式のために乗り込んだ地元へと向かう新幹線。窓から景色を眺めながら、明日の夕飯は駅弁を買って食べようとキヨシは思った。
亡くなったトシは、仕事の都合で地元から車で二時間ほどの場所に、奥さんと高校生の息子と暮らしていた。しかし、奥さんがトシの地元で葬式をしてあげたいという事で、会場はキヨシ達の地元のセレモニーホールになった。
喪服と着替えが入った大きめの鞄は頭上の荷物置きスペースに置かれ、座席に設置されている小さなテーブルには二口ほど飲まれたペットボトルの水が置かれている。
出かけるとき、妻や十七になる娘に『いってらっしゃい』と最後に言ってもらったのはいつだろうか。自分も『行ってきます』なんて、言い慣れないくらい口にしていない。キヨシはトンネルに入っては黒くなる窓に、何度も自分の老けた顔が反射すると、そんな事を思ってしまう。
トンネルの暗闇と自然の景色を交互に見ているうちに、キヨシは自身の地元の駅に着いた。すごい田舎でもなければ都会でもない、いわゆる地方都市だ。ホームに降りると想像よりもずっと冷たい風が吹いている。四月だというのに周りはコートを羽織っている。いつも帰省するのはお盆や正月だったから、四月の気温の予想を間違えてしまったようだ。
体をギュッと縮めて、なるべく体温を逃がさないように全身を小さくしながら、改札まで続くエスカレーターを下る。降りると多少は暖房が効いている様子で、ホームよりは過ごしやすい。人の流れに乗って出口へ向かい改札を抜けると、目の前に大柄な人影が現れた。キヨシは目の前に現れたその人物の顔を確認すると、そこには訃報のメールを送ってくれたナベちゃんが居た。
「久しぶりだなぁ!」
ナベちゃんが大きな手でキヨシの肩をポンと叩いた。
「ナベちゃん、わざわざ迎えに来てもらって悪いな。車で来てくれたんだろ?」
「ここじゃあ、車ないと不便だからな」
ナベちゃんは前回会った時よりもさらに太っている気がしたが、意外と繊細なところがあるから指摘はしないでおく。
「キヨシその恰好できたのか? 寒いだろ」
「寒いね、四月なのにこんなに寒かったとは」
「日本海側を甘く見るなよ? まだストーブもコタツも出してるぞ」
「地元なのにその感覚忘れてたよ」
ナベちゃんは高校卒業後は地元で親の会社を継いで、従業員が五人程度の小さな町工場を営んでいる。十年ほど前に代表取締役になり、昔から太っていたがさらに社長としての貫禄が出てきた。結婚は親友三人組の中で唯一していない。する気もなさそうだ。
「本当は今日も仕事なんだが、お前も来るし葬式もあるし。休みにしたんだよ」
ナベちゃんが歩き出しながら言った。キヨシはその後ろを半歩下がってついていく。
「急に死んだんだな、トシのやつ」
キヨシは少し寂しそうに言った。
「前から病気はしていたらしい、家族にしか言ってなかったらしいけどな」
「ナベちゃんはどうしてそれを知ってるだ?」
「トシが死んで、奥さんから俺に連絡があって。それで聞いた」
「奥さんから?」
「トシがな、死んだら俺とお前には連絡してほしいって言ってたらしくて、先に俺に電話してきたんだよ。奥さんすごい泣いてて大変そうだったからさ、キヨシには俺から連絡するって言って、それでお前にメールしたんだ」
「そうだったのか」
「うん。本当はお前に電話しようと思ったんだが、あの時俺もショックでやばくてさ。メールにした」
ナベちゃんはキヨシにメールした日を思い出してか、少し悲しそうな表情をした。
「俺もナベちゃんからメールきて、しばらく動けなかったよ。まさかトシがな……」
二人の間に一瞬の沈黙ができた。お互いの頭に浮かぶのは高校生の時に三人で馬鹿をしていた日々。沈黙は二秒ほどなのに、大量の思い出が間を駆け抜けていった気がした。
「そうだ」
ナベちゃんがキヨシの方に顔を向けた。
「明日も寒いらしいから、コート貸してやる。俺んち寄っていけよ」
ナベちゃんがそう言うと、キヨシと肩を組む様に手を回した。
――俺たちだけになっちまったな
キヨシはそう言われた気がした。
もう三十年近く前になる、当時高校生二年生だった頃の夏休み。
三人しかいない卓球部は、練習もそこそこに体育館の中二階、誰も上がってこないスペースに設置してある卓球台の上でトランプをしていた。
顧問も練習に顔を出すことはなく、夏休みもただ友達三人で集まりたいという理由だけで練習を組んでいた。
下のメインの体育館からバレーボールが地面に弾む音が聞こえてくる。
中二階の体育館側の壁は二メートルくらいしかなく、風通しを良くするため上部と天井の間が空いている。その壁のない空間には防球ネットが張ってあり、ビールケースくらいの台があれば、その上に乗って下の体育館を覗き見ることができるくらいだ。
「はぁー暇だな」
卓球台にトランプを放り投げながら、ナベちゃんは太った体を揺らした。
「暑いし。夏休みなのにわざわざ学校来てさ」
キヨシは卓球台に散らかったトランプを集めながら言う。
「でも、ここに来る意味はあるんだよなぁ」
坊主頭のトシがそう言うと、釣られてナベちゃんもムフフと笑って「今日は、女子バレー部か」と呟いた。
「よし!」
トシが気合を入れた声を出すと、ナベちゃんに手招きをして卓球台を二人で運び始めた。
「おいおい、またのぞき見かよ」
キヨシが二人を呆れ顔で見る。
「これが楽しみで、夏休みもわざわざ学校来てるんだろうが」
トシは坊主の頭をじょりじょり触りながら言うと、体育館側の壁にぴったりと横づけされた卓球台に靴を脱いで上った。それに続いてナベちゃんも慌てるように靴を脱いで上ると、二人は壁の上部に張られた防球ネットの網目から下のメインの体育館を見下ろした。
他の生徒にバレないように、目だけを壁の上から出して、下で練習する女子バレーボール部の様子をうかがう。
「今日もいいなぁ……な? ナベちゃん」
トシが鼻の下を伸ばしながら言う。
「良い眺めだ……。なんでバレーボールしてる女子ってショートカットの子が多いんだろうな、トシ」
「短い方がプレーしやすいのかな。可愛いからなんでも良いけど」
すると、呆れた顔をしていたキヨシもいつの間にか隣に並んで覗いている。
「俺はバスケの子みたいに後ろで束ねてる方が好きだけど」
キヨシがそう言うと「じゃあ見んなよ」と残りの二人が口をそろえて言った。
壁の上部から三人が、まるで三つ並んだ山の様に頭を出している。
健全な高校二年生の男子三人。卓球などどうでも良く、女子生徒の光る汗となびく髪、ボールを追うその姿を、男子特有のレンズを通して眺めているのだ。
「あぁー。彼女とかできたらなぁ」
トシが嘆いた。
それに続くようにナベちゃんも口を開く。
「俺も。何が楽しくて男三人でつるまなきゃいけないんだ。彼女がいれば、それは楽しい夏休みなんだろうな。そう思うだろキヨシ」
「でも、どうしたら彼女とかできるんだろうな。女子と話すだけでも緊張するのに」
「そりゃあ、顔とかスタイルが良ければ自然とできるんだろう。ナベちゃんみたいに太ってたらできない」
「おい! 俺は太ってない! ふくよかなんだ!」
「確かにトシの言う通りだ、顔もスタイルも良くないとなぁ。俺たちはダメだ」
女子バレー部が休憩になり、見えない位置に行ってしまうと、三人は卓球台から降りた。
「あとは、お金か? お金あればモテるだろ」
トシが言った。
「お金ねぇ、ナベちゃんの家は社長だけどモテてないぞ?」
「うちは小さな町工場だから」
三人で向き合いながらそれぞれが『お金』『モテる』について考えている。すると、トシが「そうだ」と手を叩いた。
「宗教作るってどう?」
「「はぁ?」」
トシの意味不明な提案に他の二人は眉間にシワを寄せた。
「お寺とか神社ってさ、お賽銭とかお布施とか貰えるじゃん」
トシはニヤニヤして自分の考えを述べる。
「信者が多ければ、その分お金もいっぱいもらえるだろう? 現に宗教団体が儲けてるみたいな話も聞くし」
キヨシとナベちゃんは依然として眉間にシワを寄せたままだ。
「そこで、宗教を作って勧誘してさ、お賽銭とお布施でガッポリ。どうだ!」
トシがそう言って二人に共感を求めると「ないだろ」「怪しすぎるよ」とさっきよりも眉間のシワを深くした。
「怪しいし、別にモテないだろ」
ナベちゃんが言った。
「美人ばっかり勧誘するんだよ、そしたら信者からしたら俺たちは教祖なんだから、モテるだろ」
「「うーん」」
いつの間にか仲間にされていたキヨシとナベちゃんは腕組みして首を傾げた。
「な! とりあえず三人でこの宗教のルールみたいなの決めてさ、ノートに書きだして聖書みたいなの作ってみようぜ!」
一人で楽しくなっているトシに、他の二人はもう乗っかるしかない雰囲気にされていた。トシがどこからか新品のノートを持ってきたかと思うと、黒いサインペンを片手に言った。
「それで? 教団の名前どうする?」
「紺のコートだけど貸してやる、濃いめの紺だから葬式でも大丈夫だと思う」
ナベちゃんはそう言うとキヨシを家の中へと手招きした。
「ナベちゃんの家、すごく久しぶりだな」
ナベちゃんは実家暮らしだが、両親は今日の朝から旅行に行っているらしい。
キヨシは、自分の荷物をリビングのソファに置いた。すると、少し開いていた鞄から書類が一枚見えた。
「あ…」
通勤鞄に入れっぱなしだった書類だ。妻に見られるのが心配で、わざわざ今日の鞄に入れ替えて持ってきたのだ。まるでお守りのように。
なんとなく、その書類から目をそらしたくて、キヨシは鞄の口をしっかり閉めた。
玄関の方に一瞬姿を消したナベちゃんがコートを片手に戻ってきた。
「ほら、このコートでどうだ?」
「お、ありがとう」
キヨシはコートを受け取り、さっそく試しに着てみた。大柄のナベちゃんのコートはキヨシには少しぶかぶかだ。
「ちょっとデカいか?」
「小さいよりいいよ。寒いから助かる」
キヨシは、コートを羽織った自分の姿が問題ないことを確認すると脱ぎ始めた。
「あ、本当にコタツもストーブもまだ出てる」
「そりゃそうさ。朝なんて下手したら温度が一桁だぞ?」
ナベちゃんはそう言うと、キッチンから持ってきたお茶をキヨシに渡した。
「今日はキヨシも実家に一泊か?」
「うん、親に顔も見せときたいし」
「そうか、じゃあ車で送るよ、明日の葬式行くときも乗ってくだろ?」
「ありがとうナベちゃん、助かるよ」
キヨシは貰ったお茶を一口飲んだ。身体の中心からヒンヤリした感覚がお腹の方まで落ちていくのが分かる。
「……トシがなぁ」
キヨシはポツリと呟いた。
自分と同い年の親友の病死。青春のど真ん中を共に過ごした友の一人が欠けたという現実。そいつの葬式に出るという悲しさ。
キヨシは、三点でピンと張ってたロープが、力をなくして弛んでしまったように感じた。
「なぁ、俺の部屋で卒業アルバム見ようぜ。久しぶりに」
ナベちゃんはそう言うと、自分の部屋へと続く階段の方へと向かった。どうしても拭えない悲しい雰囲気に、二人は気付かないフリをしたいのだ。キヨシも「いいね」と言って、ナベちゃんの後ろについて階段を上った。
ガチャリと音を立てて扉が開くと、整理整頓された部屋があった。窓際にベッドがあり、その反対側の壁に机と大きな本棚が並んでいる。
「ナベちゃんの部屋とか、高校卒業以来だよ。相変わらず片付いてるね」
キヨシは部屋を見渡しながら言った。
「押し入れの中に詰め込んでるだけだよ」
ナベちゃんはそう言うと、本棚の前に立って卒業アルバムを探し始めた。
「えーっと、アルバムは~。あった!」
ナベちゃんがそう言ってアルバムを引っ張り出そうとした時、アルバムの隣にあった一冊のノートも一緒になって引っ張られ、その場にパサリと落ちた。
「ん? なんか落ちたぞ」
キヨシがナベちゃんの足元に落ちたノートを拾うと、二人でそれを覗き込んだ。
【ハンサム教 聖書】
「……これは。あの時の」
キヨシがそう呟く。
二人で見覚えのあるそのノートを見つめていると「これ……、懐かしいなぁ! おい!」とナベちゃんが目を大きくして言った。
「これ、トシが宗教作って儲けようとか、怪しい事言った時に作ったやつ」
キヨシが表紙を懐かしむように見つめる。
「女子が食いつくように、ハンサム教って名前にしたんだったな」
キヨシが半笑いで教団名の由来を思い出す。
「夏休み中に思いついて、夏休み中に飽きて、布教も何もしなかったよな」
ナベちゃんがそう言ってノートを覗き込む。
「そうだったな。でも、なんでナベちゃんの家にあるんだ?」
「部活の後に俺んちで内容を考えたりしてたろ? たぶんトシの奴が置いていったんだ」
「あー。なるほどな」
「何が書いてあるんだ? 全然覚えてないよ」
二人はその場に座ると、パラパラとノートを開いた。そこには、男子高校生が考えた教団の馬鹿らしいルールが書いてあった。
・週末は教祖とデートをする
・教祖と家の方向が同じ人は一緒に下校する
・クリスマスを一緒に過ごす
・バレンタインデーにチョコレートを渡す
読めば読むほどくだらない内容である。キヨシとナベちゃんは、それを時々鼻で笑いながら眺めている。
三人でノートを囲んでワイワイ言っていた日々。もう戻らないあの頃。トシの笑顔。
ノートをめくる度に思い出が溢れ出てくる。
ノートが進んでいくと、四季に合わせて行う祭りや、年末年始のお祝いの仕方など、行事のことも書いてあった。内容はもちろん、夏祭りは水着で参加など、男子高校生の考えるくだらないものばかり。
「女性の信者しかいない想定だよな、これ」
ナベちゃんが呆れながら、しかし笑いながらそう言った。
「馬鹿だよなぁ、ほんと」
キヨシがそう言いながら次のページをめくると、『葬式の仕方』という文字が目に飛び込んできた。
「……おいナベちゃん、葬式の仕方だって。そう言えば、こんなのも考えたな」
「そう言えば、仏教でもキリスト教でも、結婚式とか葬式の仕方があるんだから俺達も考えようぜって、トシが言ってたな」
当時の三人が考えた葬式の仕方には、シンプルに一項目だけ、
・黒いブラジャーを着用すること
とだけ書かれていた。
「まったく、男子高校生ってのは呆れるね」
ナベちゃんは過去の自分達のどうしようもなさを嘆いた。
「葬式の仕方……か」
キヨシはノートの文字を眺めながら言った。
「なぁ、ナベちゃん」
「ん?」
「これやらないか?」
「は?」
急な提案にナベちゃんは首を傾げた。
「世界に三人しかいないこのハンサム教のやり方で、トシを弔ってやらないか?」
「え、黒のブラジャー着けるの?」
「俺たちで。特別な方法で見送ってやろうよ」
キヨシは、自分でもこれが馬鹿げた提案であることは承知していた。しかしそれ以上に、この聖書と呼ばれるノートから親友三人の繋がりを強く感じた。過去の自分たちと今の自分たちを繋ぐノート。この方法で弔えるのは自分たちだけ。この方法で弔えば、力をなくして弛んでしまったロープが、また三点でピンと張れる気がした。
「おいおい本気かよ、キヨシ。大丈夫か?」
「おかしいのは分かってる。でも本気だよ」
ナベちゃんは、キヨシの目を見ると少し黙って、考え込むように目を閉じ、やがてゆっくり口を開いた。
「…今から俺の車で出かけるか」
「え?」
「ブラジャー買いに行くんだよ、俺が持ってる訳ないだろ?」
ナベちゃんはポケットから車の鍵を出した。
「ありがとうナベちゃん!」
「トシのやつ、あの世で怒るだろうな」
「なんで? 嬉しいだろ?」
「女性の信者につけてほしかったのに、おじさん二人が黒のブラジャー着けて参列しても嬉しくないだろ!」
そりゃそうか、ははは。笑い声の余韻を残して、二人はナベちゃんの部屋を後にした。
『なぁトシ、葬式なんだから、せめて黒だろ』
『えーなんだよキヨシ。赤いブラの方が色っぽいじゃん』
『そうかもしれないけど。葬式だぜ? ナベちゃんはどう思う?』
『そもそも、葬式にブラジャーの色まで指定されるって。そんな宗教入りたいか?』
『『確かに!』』
駅の中のカフェでキヨシとナベちゃんがコーヒーを飲んでいた。
「あーあ、トシも灰になっちまったよ」
ナベちゃんが背もたれに体重をかけながら言った。大きな体で、椅子がギシギシと唸る。
「そうだな」
キヨシはそう言うと、コーヒーを飲んだ。
「キヨシと俺で、本当にブラジャーをつけて参列するとは。誰も気づいてなかったよな?」
ナベちゃんは葬式を思い出して少し笑った。
「大丈夫だよ、上からワイシャツとジャケットも羽織ってたんだから」
キヨシもそれを思い出したのか半笑いだ。
「二人でブラを買いに行った時も恥ずかしかったなぁ! おっさん二人で、黒のブラジャー選んでるんだぜ? 危ないだろ!」
ナベちゃんが喋ると椅子がさらにきしむ。
「しかも、ナベちゃん迷ってたしな、サイズ」
「そうだよ! キヨシはやせ型だから一番小さいの選べばいいけど、俺は太ってるからね? ちょっと胸あるからね?」
ナベちゃんが自分の手で胸のあたりをポンと触りながら言った。
「びっくりしたよ、ナベちゃん試着したろ」
「店員さんも戸惑ってたな」
「そりゃあビックリするよ」
「でも、合わないやつ買う訳にいかないだろ」
二人の笑い声がカフェの隅に溜まる。
「結局二つ試着したけど、合わなかった方も申し訳ないから買ったよ。俺の試着したやつなんて売り物にならないだろうから」
「いやぁ、あれは笑ったよ」
「ま、余ったブラはトシの棺桶に入れてやったけどな。同じ宗派の仲間として」
キヨシとナベちゃんは、「トシとの思い出の品を入れさせてほしい」と言って、余ったブラと聖書のコピーを大きめの茶封筒に入れて棺桶に入れた。
「キヨシ、奥さんに『これなんですか?』って聞かれて焦ってたよな?」
キヨシはその時を思い出して笑っている。
「俺が返答に困ってると、ナベちゃんが『親友同士の思い出です。開けないでください』なんて言ってさ。怪しすぎて笑いそうだった」
「開けられたらまずいだろうよ!」
ナベちゃんが強めの口調で言った。
「はぁーあ。トシのやつも笑ってるさ、俺とナベちゃんを見て」
「そうかもな。俺達はある意味、あいつの考えた宗教の被害者みたいなもんだ」
「やっぱり、葬式中に俺達の胸の膨らみに気付いてた人いるんじゃないか?」
「いるかもな」
二人はガハガハと笑いながらコーヒーをくいっと飲み干した。
「じゃあ、俺行くよ。親が旅行から帰ってくるからさ、家の鍵開けないと」
ナベちゃんはそう言うと、車の鍵をポケットから出した。
「そっか、送迎ありがとう、ナベちゃん」
「いいって、気を付けて帰れよ。あと、これ聖書のコピー、棺桶に入れる分のついでに、キヨシにもと思って」
「俺にも?」
「三人で持ってた方がいいだろ」
ナベちゃんはそう言うと聖書のコピーをキヨシに差し出した。キヨシは、両手で大事そうに聖書のコピーを受け取る。
「キヨシ、俺の方がデブだから先に死ぬだろう。そん時は黒のブラ着けて来いよ」
「任せとけ」
会計を済ませ、ナベちゃんは駐車場の方へ、キヨシは新幹線乗り場の方へ向かって別れた。
キヨシが乗る新幹線が来るまでまだ三十分ほど時間がある。曜日と時間のせいか、待合室も空いていて、若い男女とサラリーマン風の男しかいなかった。
売店で駅弁を買い、キヨシは待合室に入った。空いているのをいいことに、二人分のベンチを使って、座った隣のベンチに自分の荷物を置いた。
荷物の中から、さっき渡された聖書のコピーを取り出し、表紙を見つめた。
【ハンサム教 聖書】
聖書の表紙を見てキヨシは思う。駅のカフェでナベちゃんと向かい合って座った二人用の席。三人いればボックス席に通されるのだろう。もう、三人で何かを囲むことはできないのだろう……と。
空いている待合室で、キヨシは聖書を読み始めた。過去の自分たちが残したくだらない読み物だが、それは輝く宝物に見えた。
ページをめくって読み進めていると、キヨシはハッとして手を止めた。そこには結婚についてのルールが書かれていた。
・当宗教では離婚は禁止とする
キヨシはそのページから次をめくることができない。
ふと、当時のトシが言っていた事が頭の中で思い出された。
『俺たちはモテない。だから運よく結婚できたら奥さんに逃げられないように、離婚禁止ってことにしようぜ』
キヨシは聖書のその一点から目を離すことができない。
〝離婚は禁止〟
帰っても、『おかえりなさい』を言ってくれない妻と娘。俺に『おはよう、おやすみ』も言わない家族。夕飯を一人で外食で済ますことが増えた自分自身。
買った駅弁をキヨシはチラッと見た。
少し開いた鞄。そこから見える一枚の書類。ずっと通勤鞄に入れっぱなしだったのに、今回の鞄に入れ替えてまで持ってきた書類。
キヨシは鞄の中に手を入れ、少しツルッとした紙質の書類を取り出した。
〝離婚届〟
キヨシは自分の名前だけ書かれたその書類を見つめた。
そして、また聖書に視線を向けた。
〝離婚は禁止〟
キヨシの中でトシの笑った顔が浮かぶ。
「俺たちはモテないから、奥さんを逃がしちゃいけない……か」
――俺から『ただいま』を言ったのはいつが最後だろうか。『おはよう、行ってきます』も、俺から言った事はあっただろうか。俺は現状を変えようと何かしただろうか。
キヨシの頭の中に、聖書と離婚届と駅弁がぐるぐる回る。
黒いブラをつけて参加した葬式。
キヨシは急に可笑しくなってその場で上を見上げた。
「くそ。とんだ教団に入信させられたよ……トシ。分かったよ」
キヨシは、静かに笑うと、手元にあった離婚届をクシャクシャに丸めた。
そして、ふと駅の中にあるお土産屋が目に入った。
「土産買って、思いっきり『ただいま』って言ってやろう。返事が返ってくるまで」
キヨシはすくっと立ち上がり、備え付けのごみ箱に離婚届を捨てると、足を前へと踏み出した。
【おわり】