【佳作】転生したら超つまらないOLになってしまったと嘆く人物が、私の後輩になった件(著:白坂小深)
その日、わが社に王女様が入社した、と社内中がざわついた。
ことの発端は、社長の一言だった。まだ若い、四十代前半のやり手社長である。
「うちの会社もだいぶ忙しくなってきたからね。新しい社員を入れようと思うんだ」
私の勤める会社は、実店舗を持たない、インターネットショップを開いている。取り扱っているものは、海外製の雑貨や食器だ。社長が直接海外に行って買い付けている製品は、なかなか日本では手に入らないものが多く、一定数のファンがいる。大手通販サイトや自社サイトに出品すると、それなりの売り上げがあった。
社員は私を含めて三人という少数精鋭だ。そのうちひとりは男性の営業で、女性ふたりで社内業務のすべてを担っている。商品ページの管理から注文者への確認メール。それに商品を梱包して発送をしたり、問合せに答えたり、入金確認をしたり。やることは多岐にわたり、確かに毎日があわただしく過ぎていた。
「人手が増えるなら、ありがたいですよね、早紀さん」
向かいに座る奈子ちゃんが、にこりとほほ笑んだ。彼女は私よりふたつ年下の後輩。天然パーマのふわふわとした髪が、パソコン越しに揺れるのが可愛い二十五歳だ。
「そうだね」と私は返したが、私は若干、緊張もあった。なぜなら社長から、「じゃあ新人さんには水本さんが教えてあげてね」と教育係に任命されたからだ。奈子ちゃんは、もう退職した先輩に教わったし、私は誰かにしっかりと仕事を教える、というのが初めてだった。
どんな人が来るのだろう。分かりやすく説明できるだろうか。私のせいで会社を辞めたいとか言われないようにしないと。ああ、あと今はパワハラも厳しいから、言葉遣いにも気をつけないと。そんなことをぐるぐると、私は考えていた。
けれど、私のそんな不安を一掃するような事件が起きたのだ。
彼女は、黒縁の眼鏡をかけ、艶のある黒髪は胸まであった。真面目そうなお嬢さん、というのが第一印象だった。わが社は制服はなく、割とラフな格好も許されているが、彼女は白のカッターシャツにタイトスカート、という、あとジャケットを羽織ればスーツになるような服装で、私たちの前に立った。朝礼の時間である。
「今日から俺たちと働いてくれる、小西薫さん。まあ初めの一か月はお試し期間で、お互いに問題がなければ本採用、ということで。じゃあ小西さん、挨拶をお願いできる?」
彼女は小さく頷くと、すっと背を伸ばした。そして……。
「小西薫です。前世ではソレス王国という小さな国の王女として何不自由ない暮らしをしておりましたが、転生したらまさかの超つまらないOLになりそうで、もうどうしようかなって感じです。どうぞよろしくお願いします」
この瞬間、社内の時間が止まった。私は奈子ちゃんを見た。奈子ちゃんは私を見た。奈子ちゃんは私に、「今、何て?」と表情だけで尋ねてきているが、おそらく私も同じような顔をしていたはずだ。
前世、ソレス王国、転生、超つまらない……気になった単語を並べてはみるが、何ひとつ、意味は分からない。
「うん。じゃあ元王女は、あの水本さんから、仕事を教えてもらって」
社長が私を指さした。社長の長所は、細かいことをいちいち気にしないところである。お蔭で仕事はやりやすい。社長の短所は、物事を深く考えないところである。なんだよ、元王女って。なんで元王女が面接を通過しているのよ。私もそう呼ぶぞ。
小西さんは私の隣の席に来ると、「よろしくお願いします」と頭を下げた。私もあわてて、「あ、水本早紀です。よろしくお願いします」と挨拶をする。まだ私の脳内は混乱したままだったが、なぜか平静を装わなければという謎の使命感に囚われ、日常業務にとりかかる。
「じゃあ、とりあえず、朝一で軽く掃除をするから、事務所内を掃除機かけてもらえるかな?」
私が掃除機を小西さんに手渡すと、小西さんはどうしてか不思議そうに、掃除機を見つめる。
「あの、これの使い方、教えてもらっても良いでしょうか?」
「えっ? 掃除機の?」
「はい。王女だった頃は、掃除はすべて、臣下たちの仕事だったので。私はしたことがないんです」
「なるほど」
いや何が、なるほど、なのか。思わず自分に突っ込みを入れる。彼女はいつまで、なんとか王国の王女で、いつからが小西薫なのか。いやそもそも、転生とは何か。ものすごく気になったが、知り合ってまだ数分、そこまで踏み込んだことは質問できなかった。
「あの……小西さんは、いくつ?」
年齢を尋ねるので精いっぱいである。
「私は今年二十四です。あ、この世界の二十四歳は、掃除機を使えるのが当たり前なのでしょうか?」
「……当たり前、とは一概に、言い切れないかな。うん。色んな人がいるしね。うん、色んな人がさ」
奈子ちゃんの、好奇心をたっぷり含んだ視線を感じながら、私は小西さんに掃除機の使い方を教える。小西さんは「へえ、意外と簡単ですね」と掃除機を前後に動かした。ついでに、私の頭の中の、転生云々の記憶も吸ってくれないかな、そんなことを思いながら、私は机を拭く。
掃除が終わると次は、いよいよ仕事内容の説明である。私は普段しない、腕まくりをして、気合を入れた。
「えっと、小西さんはパソコンは使えるの?」
「はい。ソレス王国にも似たようなものはありましたから」
そうなのか。よく分からないがまずは、商品の在庫管理を入力してもらう。これは難なく、できるようだ。それから毎日必要な作業や、お客さんからの注文の入り方などを説明し、ふと、初日からあまり根詰めてはいけないと思い、いったん休憩を取ることにした。
私は彼女の分とふたつコーヒーを淹れ、カップを手渡す。
「ありがとうございます。こちらのコーヒーは原産国はどこで、どんなこだわりがある豆を使っているのですか?」
「大変優秀な日本企業が研究に研究を重ね、安定した味で簡単にすぐに淹れられるよう、工夫された豆です」
つまりはインスタントだ。小西さんは「へえ」と頷きながらコーヒーを飲む。味の感想は特になかった。
その時、私の携帯電話がピロンと鳴った。見ると、向かいに座る奈子ちゃんからメールが届いていた。
『早紀さん、どんまい!』
私が奈子ちゃんを見ると、奈子ちゃんはさっと顔を伏せてパソコンを打ち出した。肩が震えている。完全に、面白がっているようだ。
「私……」
ぽつりと小西さんが口を開いた。彼女の方から話し出してくれるのは嬉しい。そうだ、今は彼女との距離を縮める方が先決だ。「うん、なになに?」私は小西さんの方を向く。
「こう見えて、バターが嫌いなんです」
「……バター?」
こう見えて? どう見えて? ん? 実はその白のカッターシャツの背中には、「バターLOVE」とでもプリントされているのだろうか。確認したくなり、私の腰が浮きかける。するとまた、携帯電話が鳴った。
『バターってみんな好きなのに、珍しいね。が正解ですよ、早紀さん!』
「嘘だあ」
私はつい口に出してしまい、「いえ、本当に嫌いなんです」と小西さんに返された。もう、何というか、カオス真っ只中である。
「王女様の中では、まだ話が通じる、まともな方じゃないですか?」
というのが、奈子ちゃんの小西さんに対する評価だった。仕事帰り、駅までの道中である。北風が強く吹き、肩をすぼめながら私はうーんと唸る。
「転生って、アニメや小説で聞く、あの、転生だよね?」
「アニメや小説でしか聞かない、あの転生ですね」
「現実社会でも起こりうることなの?」
「少なくとも小西さんの元では、起こっているみたいです」
「起こっているねえ」
私と奈子ちゃんの会話ももはやループしているが、それも仕方ない。正しい答えなど、見つかりっこないのだから。
それでも小西さんは、パソコン入力は問題なくできるし、覚えも早かった。ただ会話の端々に、違和感をちりばめるだけで。
「私、あれ笑っちゃいました。早紀さんが、電話は出ないと慣れないから、少しずつ出ていこうねって言ったら、小西さんが、私から声をかける前に相手が話し出すのは、無礼にあたるんですけど、って言ったの」
「ああ……で、あ、私今超つまらないOLでした、って小西さん、うなだれていたね。その前にすでに、私は小西さんに声をかけていたから、打ち首にされたらどうしようかと思ったよ」
「不思議ですねえ」
「不思議だねえ」
「でも、早紀さん」
奈子ちゃんはふいに、空を見上げた。私もつられて暗い空を見る。オリオン座が美しく輝いていた。
「私たちが認識している世界って、ほんのごく一部じゃないですか? 実は私たちが知らないだけで、転生が当たり前の世界を持つ人も、存在するのかも」
奈子ちゃんは、他人を自分の普通という枠に簡単にあてはめない。そんな考え方ができるところを、私は尊敬している。私も「そうかもね」と同意する。
「明日はその転生ってやつを受け入れて、話をしてみようかな」
「そうですね」
平和な結論が出たところで、駅に着いた。
「奈子ちゃん、今からデート? 今日の私服可愛い」
「あ、嬉しい。そうなんですよ」
ピンクのワンピースを揺らしながら幸せそうに奈子ちゃんは笑い、「お疲れさまでした」と改札を通って行った。
奈子ちゃんの姿が見えなくなると、私は改札にくるりと背を向け、ふうと息を吐く。実は、私は今、緊張していた。私も今日は、それなりにおしゃれをしている。なぜなら今から、アプリで知り合った男の人と、初めて、会う約束をしていたからだ。
私はもう二年近く彼氏がいない。そろそろ焦ってはくるものの、職場では出会いはないし、趣味もインドアなものばかりで、知り合える機会もない。そう奈子ちゃんにぼやいていると、「私の周りでは結構、アプリを使っている子いますよ。それきっかけで付き合っている子もいるし。早紀さんも登録してみたらどうですか?」とアドバイスをもらったので、思い切って、アプリデビューをしたのだ。ちなみに奈子ちゃんは、彼氏とは学生時代からのお付き合いらしい。なんともうらやましい。
携帯電話が鳴った。お相手が駅に着いたというメッセージだった。きょろきょろと周りを見渡し、同じく誰かを探していそうな男の人と、目が合った。
比良智也さんは、私より三つ年上で、アプリの写真と同じ、柔らかい雰囲気の男性だった。彼も私と同じで、身近に出会いがないからアプリに登録したそうだ。彼が予約してくれた落ち着いた雰囲気のイタリアンのお店で、私たちは向かい合って座る。
改めての自己紹介に始まり、好きな食べ物の話や、仕事の話をした。お互い猫が好き、とプロフィール欄に書いてあったが、実はどちらも飼ってはおらず、いつか飼いたいですよね、と笑った。
けれど、私は人見知りもあって、うまく話をふくらますことができない。比良さんも静かな人で、自分から色々話すタイプではなく、徐々に会話が途切れていく。くるくると、フォークでパスタを巻くだけの時間が増える。沈黙に焦った私は、つい勢いで口走ってしまった。
「あっ、あのっ。比良さんは転生って、信じますか?」
けれどすぐに、後悔した。比良さんが「転生、ですか?」と不思議そうに首を傾けたからだ。まずい、初対面でスピリチュアルな話は、変な勧誘だと思われてしまう。
私は「実は、ですね……」と、新しく会社に入った子が前世は王女様で、転生して超つまらないOLになってしまったと嘆いていること、私は内心、嘘だと思っていたけれど、私の後輩は、自分たちが知らないだけで転生という概念もあるかもしれないとすぐに相手を否定しなかったこと、そんな考え方は、私も見習おうと思ったことなどを、立て続けに話した。
自分のことばかり話して、比良さんがうんざりしていないか心配になったが、話を聞き終えた比良さんは、「楽しそうな職場ですね」と笑ってくれた。「それに」比良さんは穏やかにほほ笑む。
「その新入社員の方、OLは超つまらないと今は言っていますけど、きっと魅力的な先輩たちのお蔭で、今の生活も悪くない、そう思ってくれるんじゃないでしょうか。そうなったら、水本さんの勝ちですね」
その瞬間、比良さんから後光が差して見えた。頬が熱くなる。あの転生話から、そんな温かなことを言ってもらえるとは、思いもしなかった。今日、来てよかった。心からこの出会いに感謝した。
その日の夜、比良さんから、また会いたいですというメールが届いた。早速、次の予定を決める。楽しみにしています、そんな言葉で比良さんのメールは締めくくられており、私の胸も高鳴った。
ベッドに入ってから、「小西さん、ネタにしてごめん」と私は手を合わす。けれど、小西さんのお蔭で彼と次につながれたわけで、「王女様、ありがとうございます」そうお礼を言わずにはいられなかった。
小西さんは少しずつ仕事にも慣れ、それに伴って私も教える量を増やしていった。ある時、商品の入った段ボール箱が届いたので、「このダンボール、一緒に運んでもらえるかな? 検品をするから」とお願いすると、「私、前世ではナイフとフォークより重いものを持ったことがないんです」と返された時は思わず噴き出してしまったが。それでも、ちょくちょく面白い前世話を披露しつつも、小西さんは仕事を覚えていってくれた。これなら、一か月の研修期間も乗り越えられそうだ。
その日は、いよいよネット上に公開される商品ページの入力をお願いした。金額や仕様を間違えてはまずいので、「今日は入力に集中して。電話は私が出るから」と伝える。
小西さんは王女様の頃は当然と言えば当然だけれど、働いたことがなかったそうで、今こうして毎日出勤しているだけでも奇跡です、なんて言うから、私はなんかもう色々、応援したくなっていた。
電話が鳴った。私が出る。
「ありがとうございます。輸入雑貨のロビンです」
「ちょっと!」
耳元で、女性の大きな声がした。第一声だけで、明らかに怒っているのが分かる。
「お宅から届いた商品、カップのふちが欠けているんだけど!」
一瞬にして、胃が縮みあがった。まれに、あるのだ。出荷をする時は検品を必ずする。けれど梱包方法が悪かったのか、はたまた配送中に衝撃があったか、はっきりとした理由は分からないが、商品が破損していたという連絡が。
「申し訳ございません。一度ご注文内容を確認いたしますので、注文番号かお名前を教えていただけますか?」
「友達へのプレゼントに買ったのに、こんな不良品じゃ渡せないじゃない! どうしてくれるの!」
相手は怒り心頭らしく、こちらの話を聞いてくれない。仕方なく販売履歴からカップの商品を探し出し、名前を確認する。
「そうだって。なんで客のことも把握していないのよ。これだからネットショップは!」
「申し訳ございません」
何を言っても逆上されるだけなので、ひたすら謝りつつ、商品の在庫を確認する。だが、うちが扱う商品はほとんどが一点ものだ。案の定、今回のカップも、在庫は残っていない。こうなると通常は謝って返金、という流れになるのだが、果たしてこの人は、それで納得してくれるだろうか……。
体が重くなるのを感じながら、「大変申し訳ないのですが」と切り出そうとした、その時。ポンポンと腕を叩かれた。見ると、小西さんが自分のパソコン画面をこちらに向けている。その画面の中には、今電話でやり取りしている商品と同じものが映っていた。小西さんはすっと、メモ用紙を私に差し出す。
『このショップで同じものが買えそうです。とりあえず今、キープをお願いしておきました』
意味を理解した私は、だが自分の判断だけでは決められないので「恐れ入ります、すぐに在庫を確認いたしますので、分かり次第、折り返し連絡をさせていただきます」と電話口で伝える。「早くしてよねっ」女性はそう言い放ち、電話はガチャンと切れた。
受話器を置くと、私はふうと息を吐いた。いや、休憩している場合ではないのだが。
「小西さん、ありがとう。社長と相談してくる」
「はい。ちなみにこれが金額です。利益は出ませんけど、今すぐなら、今日出荷も可能だそうです」
メモを渡され、私は「あ、ありがと……」と受け取る。意外そうな顔をしては失礼だが、正直、驚いた。
「小西さん、仕事早い! かっこいい」
向かいで奈子ちゃんが拍手をしている。小西さんは照れくさそうに、
「前世ではこういう食器に囲まれて、生活していたので」
と小さく笑った。それと今回のファインプレーとにどのような関係があるのだろうか、と一瞬思ったが、私はとりあえず、社長の元へと急いだ。
「お疲れ様」
三つのグラスがカチンと澄んだ音を立てる。それからそろって、ジョッキを傾けた。今日は小西さんの歓迎会も兼ねて、仕事終わりに奈子ちゃんと三人で、居酒屋に来ている。
「小西さんは、こういう大衆居酒屋に来るのも初めてでしょ?」
私が尋ねると、「あ、そうですね」と小西さんは頷く。物珍しそうに、店内をきょろきょろとしていた。お酒は飲めるみたいで、三人ともビールでの乾杯だ。それから枝豆や焼き鳥、軟骨の唐揚げといった、定番メニューがテーブルを賑わす。
「あー、仕事終わりのビールは最高ですね」
奈子ちゃんが白髭をつくりながら、満足そうな息を吐いた。奈子ちゃんは幼顔に似合わず、酒豪なのだ。私も大きく頷く。
「このために頑張ってるって感じだよね」
「あ、早紀さん、そういえば前に、ちょっと気になる人がいるって言っていたじゃないですか? どうなったんですか? その後」
アプリで知り会った比良さんのことだ。「あ、それがね」私はつい、顔がほころぶ。
「無事、お付き合いすることになりました」
「おおーやりましたね! 早紀さん!」奈子ちゃんは自分のことのように飛び跳ねて喜んでくれる。それから、「小西さんは、彼氏はいるの?」と奈子ちゃんが問いかけ、「いないんですよ」と答える小西さんに、私たちは、好きなタイプとか、デートに行くならどこがいいとか、ガールズトークを繰り広げた。
会話が一段落したところで、私は「あ、小西さん。仕事でやりにくいこととか、嫌なこととか、ない?」と確認をする。職場では話しにくいこともあるだろうから、聞いておきたかったのだ。
「あ……大丈夫です。丁寧に教えていただいているし」
「そっか。何かあったら、遠慮なく言ってね。あ、そうそう。こないだのカップ、見つけてくれてありがとうね。本当に助かったよ」
「お客さんの怒りも収まって、良かったですよね」
奈子ちゃんもクレームを受けたことがあるから、しみじみと言う。
「いえ、そんな」
眼鏡の奥で小さくほほ笑む小西さんの頬が赤いのは、お酒のせいか、もしかして照れているのか。控えめな反応が、奥ゆかしくて、ほほ笑ましい。その辺りは、王女様の資質なのだろうか。
「小西さん、良かったらまたこうやって、仕事終わりに三人で飲みに来ようね」
私の提案に、奈子ちゃんも「そうそう」と乗ってくれる。
「きっと王女様時代の生活も華やかで豪華だったんだろうけど、こうやって働くのだって悪くないよ? 自分の稼いだお金で、自由にお酒を飲んで、恋バナをして。最高じゃない?」
小西さんはぱちぱちとまばたきを繰り返し……それから、ジョッキを持つと一気にビールを半分ほど飲みほした。
「そうですね。私今、とっても楽しいです」
そんな小西さんに、私と奈子ちゃんは顔を見合わせて笑った。
比良さん、私、どうやら勝てたようです。
きらきらと輝く小西さんの笑顔を見て、私は最近できた、優しい彼氏の顔を思い出し、そっと、報告をした。
*****
「小西、どうだった? 今度の職場は」
旦那様に声をかけられ、私はきっちり四十五度腰を折った。
「はい。今回の職場ですが、まず、毎朝掃除があります」
「なに、掃除だと? そんなもの外部業者に任せておけばよいのに」
「それから、クレームの電話がかかってくることがあります。あの応対はかなり、大変かと」
「クレーム処理?」
旦那様が、ありえないというように首を振った。まあ、想像通りの反応である。今回も旦那様から許可は下りないのだろう。
六十代の恰幅の良い旦那様は、不動産を複数動かしている会社の社長だった。私はそのお屋敷で、使用人として働いている。お屋敷はめまいがするほどに広く、私を含め五人の使用人が、シフト制で出入りをしていた。仕事内容は家事全般だが、ある時、不思議な仕事を命じられた。
旦那様にはひとり娘がおり、今大学三年生だ。ゆくゆくは、旦那様は自分の会社で、社長秘書として雇用する予定らしいが、その前に、世間を知るために、全く関係のない職場で数年、お嬢様を働かせたいそうだ。
「ワシも、娘に甘いだけではだめだからな。いずれ、わが社の代表になってもらうんだから」
そう旦那様は言うが、お嬢様が仕事に就くまでの過程が、角砂糖をチョコレートでコーティングしたくらいに、甘かった。旦那様からの指示は、お嬢様と一番年齢の近い私が、お嬢様が働くにふさわしい会社かどうかを、潜入して下見をしてほしい、という内容だった。そのお嬢様独り立ち計画に巻き込まれる会社ば、迷惑この上ないだろうが、私も命じられた仕事を、断ることはできない。
お嬢様は世間知らずの箱入り娘で、アルバイト経験はおろか、家事すらも何もしたことがない。基本、守られて生きている。みんなお嬢様に意識を向けているから、お嬢様は突拍子もなく自分のことを語ったりする。バターが嫌いだし、何か提案されればとりあえず文句を言ってみる癖もある。よって私は、仕事内容の他に、天然の不思議ちゃんを演じながら、それでも周りはどれくらい許容してくれるか、などを調べる必要があった。毎度毎度、転生前は令嬢や王女のような立場にあったから、現世の仕事についていけない、常識もない、という我ながら謎設定のアピールをするのも、面倒ではあるのだが。
今までに三社、潜入しては辞めている。理由はまちまちだ。電話が多い会社、事務仕事はそれほど大変ではないが、私に対して終始蔑むような態度を取る同僚がいる会社、残業の多い会社、などなど。お嬢様が安心して働けそうな職場は見つからない。
四社目に入ったのが、今の、輸入雑貨を扱うネットショップだった。お嬢様もパソコンなら使えるし、掃除や多少の力仕事さえ我慢できれば、今度こそ、お嬢様も働ける環境だと思った。居心地も良い。
だが、大きな問題が見つかった。まれにではあるだろうが、クレームの電話がかかってくるのだ。隣で、お客に怒られている水本さんの姿を見て、ああ、お嬢様には絶対に無理だ、そう確信した。今まで怒られたことのないお嬢様は、おそらく、客に第一声、怒鳴られただけで、話も聞かずに受話器を置いてしまうだろう。お嬢様には荷が重すぎる。
けれど。旦那様を前に、私は居酒屋でお酒を酌み交わした、ふたりの先輩のことを思い出す。少しもったいないような気がして、一応、伝えてみる。
「ですが、働く人たちは、みんな優しい人ばかりです。環境としては、お嬢様にとても良いかと」
「いや駄目だ。仕事内容がひどい。また他を探す。小西はその会社、適当に辞めて良いぞ。また次が決まったら、潜入調査を頼む」
簡単に言ってくれる。けれどもちろん口には出さず、かしこまりました、とまたお辞儀をして、私は仕事に戻った。
クレームの電話がかかってきた時、私もこの仕事はお嬢様には無理だと判断した。だから、その後の私の道も決定した。私は一か月の研修期間後、会社を辞めることになる。散々お世話になったにもかかわらず、だ。申し訳ないのでせめてものお詫びとして、私は破損になった商品と同じ物を探し、確保した。旦那様の広いネットワークを拝借すれば、大抵のものは手に入る。そんな世界もあるのだ。
私はまた、旦那様が探してきた新たな会社に、潜入する。けれど……今の会社で初めて、未練があった。誰かの役に立ち、感謝されたのも初めてだったし、私の転生話も、馬鹿にせず受け入れてくれる、素敵な人たちがいる職場だ。飲み会も楽しかったし、ああやって同世代の人たちと一緒に過ごす魅力を、知ってしまった。
いっそ、使用人の仕事の方を辞めて、あの会社に就職しようか、そんなことまで考える日々だ。給与は今の仕事の方が良いのだけれど。
まあ、いいか。時間はもう少しあるから、しっかり考えよう。それから……次はどんな、王女様時代の話をしようか、なんて楽しんで妄想している自分がいる。水本さんたちは、私の不思議発言を、誰かに話しただろうか。どうせなら、これをネタとして、酒のつまみとして、笑ってもらえたら嬉しい。私にできるのは、それくらいだから。
そんなことを思いながら、私はお屋敷の掃除に取りかかる。
【おわり】