【最終選考作品】三連符(著:高代旭)
火葬場の待合室で紙コップに入った緑茶を持ち上げた。温くなった緑茶はどこか黄色味がかって見えて、先日行った健康診断の検尿を思い出した。一気に飲む気が失せて、持ち上げたコップをそのまま長机に置いた。
窓の外を見ると今にも雨が降り出しそうで、夕方から夜にかけて雪に変わるでしょう、というお天気キャスターの言葉を思い出した。今夜は寒くなるだろう。それもそうだ。もう年の瀬だ。この忙しい時期に奴もよく死んだものだ。人に気遣ってばかりいたくせに、死に際は随分自分勝手じゃないか。
「進藤さん」
妹の千代ちゃんに声を掛けられ、振り向いた。
「ごめんなさい、来てくれたのに挨拶もちゃんと出来ず」
「いいんだ。こっちこそごめん。昨日はどうしても帰れなくて」
「いいの。ツアーだったの知ってるから」
力なく笑った目尻に皺が出来る。似ている。兄妹なのだなと改めて思った。
「大丈夫?」
聞くと、千代ちゃんは小さくほぅと息を吐いて、隣の椅子に座った。
「突然だったから、まだあんまり実感がなくて」
哀惜の感情より疲弊を強く感じさせた。兄妹の葬式ともなるとするべきことも多いのだろうか。葬式に出ることさえ初めての自分には分からない。父母は物心がついたころには既にいないし、養父母はまだ健在だ。まさか家族よりも友人の葬式が先になるなど思いもよらなかった。出掛けに焼香のやり方やマナーを調べている時点で、彼女の気苦労の一つも理解してやれない。
「この前会った時は元気だったんだけどな」
「進藤さんも気を付けてよ? タバコ、まだ吸ってるんでしょ?」
「俺はまだ若いから」
「お兄ちゃんと一つしか違わないくせに」
呆れたと言わんばかりに溜め息を吐かれた。軽口を叩けるくらいには気力はあるようだ。少し安心した。
「ママー!」
小さな子供の金切り声が待合室に響く。ごめんなさい。と千代ちゃんが席を立ち、幼児を抱く旦那の元へ小走りで近付いていった。母が来たからか幼児はすぐに泣き止み、安堵したように彼女の胸の中で眠り始めた。
千代ちゃんが結婚して何年が経ったろう。奴には、お前は千代と結婚するもんだと思っていたよ。と何度も言われた。その度に我々は二人で否定して、困ったように笑い合った。
若い頃、今からずっと若い頃だ。一度だけ彼女とキスをしたことがある。奴が家を空けていて、千代ちゃんだけが奴の家にいた時に、どちらともなく唇を交わした。
しかし、その一度の触れ合いだけで、自分達は一緒にいるべき者同士ではないと確信した。何をどう感じたのかは分からない。けれど、互いに唇が触れた瞬間に理解した。あぁ、この娘とは合わないなと、この男とは合わないなと、互いが言葉にせずとも分かった。
直後、奴が家に帰ってきて、動揺した素振りなど一つもなくいつも通り三人で過ごした。
我々は仲が良かった。仲は良かったが、結局それは奴がいたからだ。奴が我々の幸せを望んでいたからだ。
奴は俺の一つ上で、高校の先輩だった。何をするにも温和な男で、あの時代には珍しく斜に構えていない実直な男だった。軽音部に所属していて、校内一ギターが上手かった。いや、楽器は何でも弾けた。初めて見る楽器でも小一時間も触れば自分のものに出来た。天才だった。だが、ギターはその中でも抜群だった。
初めて会ったのは町のレコード屋で、ギターを担いでLP盤を物色する俺が物珍しかったと言った。その頃はもうCDが主流でレコードは骨董品扱いだった。音が違うよな、という奴に通ぶった顔で頷いたが、その頃の俺には音の違いなど分からなかった。今でも詳しくはない。AはAだしGはGだ。ただ俺には金がなく、家にレコードプレイヤーしかなかっただけで、仕方がなくレコードを買っていた。
軽音部には奴とやる気のない三年が数人いただけで、部活動というにはあまりに締まりがなかった。奴以外は皆てんで下手くそで、けれど気のいい人ばかりで居心地だけは良かった。何度か奴の演奏を聞くためだけにライブハウスへ赴いた。奴のバンドはありきたりなコピーバンドで、奴だけが異様に上手く、逆に悪目立ちしていた。ただの仁義でバンドを組んでいたのは誰の目にも明らかで、その三年が卒業したら、すぐにバンドは解散し、軽音部は廃部になった。俺は見知らぬ誰かと組むつもりはなかったし、奴も仁義を果たした軽音部にこれ以上所属する必要もなかった。
二人でやるか? と奴が言い、俺は何気ない風を装っていいよ、と言った。しかし、内心はビビっていた。奴の才能を俺は誰よりも知っていた。
「楽譜読めないんだよ」
曲を書いてきたと言って楽譜を差し出す奴にそう言うと、奴は驚いた顔を向けた。
「えぇ? じゃあどうやって弾いてるんだ?」
「耳で聞いて、……あとは、なんとなく」
「俺のことを天才だなんだ揶揄するくせに、お前も随分な奴だなぁ」
「俺のは努力だ」
「あぁそう」
お前の方がよっぽどだよ。呆れたような声に思わず眉根を寄せた。
「分かった。じゃあ楽譜の読み方、教えてやるよ。プロになるならどちらにせよ読めるようにならなきゃな」
青臭い話だが、奴には夢を語っていた。俺が音楽界を変えると、今思えば噴飯物の夢を。しかし奴は笑わなかった。決して俺の夢を笑わなかった。
音楽理論を一から学ぶのは存外苦痛だった。出来ることの為に仕入れる知識ほど苦しいものはない。だが、それが今の自分にとってこの上ない財産になっているのは間違いない。
「音符だと思うから覚えられないんだよ」
難しく考えすぎだ。奴はこちらに顔も向けず言った。
「子供の頃、オタマジャクシと習ったろ? そう思えばいい」
「俺のこと幼稚園児だとでも思ってんのか?」
「そういうわけじゃなくてさ。要はそのオタマジャクシの手を繋いでやって、五線譜の上で迷子にさせないようにしてやりゃいいんだ」
「簡単に言うなよ」
「だから難しく考えるなって」
漫画雑誌から目を逸らしもせず事も無げに言う。何がオタマジャクシだ。ガキ扱いしやがって。そもそも手がないじゃねぇか。心の中でぶつくさと文句を垂れながら、それでも毎日繰り返しその『オタマジャクシ』と懸命に手を繋ごうとした。ある時は走り去り、ある時はおかしな鳴き声を上げ、ある時は文字通り迷子になったりして、それでも俺は奴の言う通り根気強く、難しく考えすぎないように奮闘し続けた。
夏が終わり、秋風が吹き始める頃、拙くではあるが楽譜を読みながら曲を弾けるようになっていた。
「手、繋げるようになったじゃん」
ギターを抱きながら何処か誇らしげに言う奴に、俺は照れ臭くて何も言わず、ただ旋律を奏でていた。
葬儀が終わって家に帰ると、携帯にメッセージが残っていた。送られたのは数分前。千代ちゃんからだった。
『お兄ちゃんの遺品で進藤さんに渡すものがあるの。時間がある時に連絡して』
遺品という文字に僅かながら痛みを感じた。千代ちゃんが言っていたように奴が死んだ実感は俺にもなかったが、けれど文字として見ると現実が背筋を撫でた。嫌な感触だ。怖気のような、寒気のような、不気味な感触。
数か月前、奴が癌だと笑って言った時にも、同じような感触を味わった。
すい臓癌だった。ステージ4。見つかった時には、もう手の施しようがなかった。余命は半年だったか、一年だったか。もっと短かった気もする。千代ちゃんに聞いた気もするがよく覚えていない。詳しく聞く前に、奴はあっという間に死んだ。瘦せ細ってはいたが、気力も意思も衰えていたわけではなかったはずだ。見舞いに行けば、奴は変わらず目尻に皺を寄せて笑った。実感なんて湧くはずもない。そんな簡単に死ぬなど思ってもいなかった。奴に健康診断には行っておけよ? と冗談交じりに言われて、縁起でもないことを言うなよと笑いながら窘めた。しかし奴の言うことを聞いて、仕事の合間に予約して検査をし、そしてその結果が出る前に奴は死んだ。危篤だと聞いたのはホテルの一室だった。懇意にさせてもらっているアーティストのツアーに帯同していた。ツアーはまだ数日残っていた。帰るわけにはいかなかった。訃報はそのすぐ後に届いた。死に目には、当然会えなかった。なんとも恩知らずな奴だ。暗くなった液晶に映る恩知らずの顔を見つめて思った。
机の上に置かれた大学病院からの封筒を手に取った。丁寧に開けて、中身を乱雑に抜き取る。検査結果だ。一つずつ目を通す。けれど再検査の文字はどこにも見当たらなかった。肺も異状一つないらしい。ふっと沸き上がった感情に、思わず検査結果を握りしめた。
……何を考えた。思いを振り払うように一人頭を振った。奴と同じであれば良かったと、俺は今、そう望んだのか。罰当たりな。
馬鹿馬鹿しい。それを奴が望むか? まさか。奴が望むものはいつだって変わらない。
高校を卒業してすぐ、奴は千代ちゃんを連れて家を出た。詳しい話は聞かなかった。聞いてほしいようには見えなかったからだ。ただなんとなく、原因は分かっていた。一度や二度ではない顔の腫れや怪我を見れば、子供ながらにだって分かるものだ。いや、子供だからこそ気付いたのかもしれない。
聞いてくれるな。痛々しい顔をしている奴と顔を合わせると、必ずそんな想いの籠もった視線を感じた。俺は何も出来ないやるせなさとぶつけようのない怒りを胃の腑に押し込んで、ただギターを搔き鳴らした。ゲインを上げて、何を弾いているのかもわからないくらい歪ませて、あの狭苦しい家をぶち壊すほどにデカい音でギターを鳴らした。近所迷惑など知ったことか。救いの手を差し伸べない大人が何を迷惑だと抜かすのだ。この音が聞こえるだろう。それならば苦しみの声も聞こえたはずだ。何が迷惑だ。抜かせ。言えるものか。言わせるものか。黙ってこの音を聞け。この怒りの音を。
俺は吹き飛ばしてやりたかった。奴を苦しめている何もかもを、吹き飛ばしてやりたかった。
奴は生きていくために音楽を辞めた。俺よりも才能のある男が、下らない理由のせいで辞めたのだ。
そんな彼らに比べれば、俺は恵まれていた。
養父母とは仲が良くなかった。口論や皮肉が飛ぶことはなかったが、顔を合わせても交流らしい交流は生まれなかった。けれど、一般的な施しは与えてくれた。どうして俺を引き取ったのか、どうして育てようと思ったのか、それは分からないが、少なくとも俺達『親子』の間に愛はなかった。必要最低限の生きる糧は与えてくれた。それで十分だった。俺は欠けていたが、彼らに比べれば十分に恵まれていた。
しかしだからこそ、俺は奴に気に入られたのかもしれない。
俺は恵まれていた。だが、彼らに似ていた。
つまり俺達は、手を繋いでくれる者がいない同士だった。
立て込んでいた仕事を片付けて、千代ちゃんに連絡を入れた。返信はすぐに来た。日取りを決めて、時間通りに奴の家の前へ行った。
「あけましておめでとう」
千代ちゃんに言われて、年が明けていたのを知った。
「大丈夫?」
虚を衝かれた言葉に声が出なかった。大丈夫。言おうとした言葉が喉の奥で引っかかった。上手く返答出来なかった。辛うじて頷いた。千代ちゃんは俺の気持ちを察したのか、それ以上は何も言わず家の鍵を開けた。
「引き払っていいって言われてたんだけどね」
窓を開けながら千代ちゃんが言った。
「どうせ助からないんだからって」
「そういう所あるよな」
他人に対しては慈愛のある人間だったのに、自分のこととなると奴は酷く冷徹だった。千代ちゃんが困ったように笑うのを、やるせない気持ちで見つめた。
「どこに仕舞ってあるかな?」
冷たい風が部屋の中に入り込んできて、籠もった空気が一気に入れ替わった。外そうとしたマフラーはそのままに、千代ちゃんの後についていく。
「渡すものって何?」
「私も知らない」
「何それ?」
「だってお兄ちゃん、教えてくれないんだもん」
千代ちゃんは押し入れに顔を突っ込んで、くぐもった声で言った。
「俺が死んだらあいつに渡してくれって、そう言われたの」
「何を?」
「だから知らないって」
押し入れの中にはなかったのか、立て付けの悪そうな襖をガタガタ揺らしながら閉めた。
「遺産かな?」
俺が茶化すと、千代ちゃんは呆れたように、
「そんなものあると思う?」
と、笑った。それもそうか、と俺もつられて笑った。
狭い家だ。二人で探したらすぐに見つかった。台所の吊り戸棚の奥、隠すようにしてあった。アタッシュケースに見えたが、よく見ればエフェクターケースだった。
「ギターの道具?」
「どうだろう?」
持ち上げて疑問に思った。エフェクターが入っていれば、もっと重いはずだ。重さだけでいうのなら、そのもの自体の重さしか感じない。何も入っていないか、入っていても至極軽いものかのどちらかだ。
「開けていいの?」
「もちろん。進藤さんのだからね」
台所から居間へ戻って古びた机の上にエフェクターケースを置いた。
「お金だったりして」
今度は千代ちゃんが茶化したように言った。俺は笑いながらケースを開けた。
中にはノートが一冊入っていた。何の変哲もない大学ノート。少し薄ぼけていて、年季が入っているものだというのは分かった。俺と千代ちゃんは互いに顔を見合わせて、またそのノートに目を移した。
「日記かな?」
「そんなことするタマかね?」
手に取り、ペラペラ捲ると合点がいった。
「楽譜だよ、これ」
「え?」
手書きで起こされた癖のあるオタマジャクシに見覚えがある。二分音符なのか、塗り潰し損ねた四分音符なのか、見分けが付き難いのも懐かしい。
「お兄ちゃん、音楽続けてたんだ……」
千代ちゃんが零すように言った。
高校を卒業して彼らはすぐに家を出て、誰の手も借りずに二人で生きてきた。奴は手取りの少ない町工場で朝も夜もなく働き、一人手で千代ちゃんを大学まで通わせた。高校を卒業したら働くと言う千代ちゃんを諭して、有数の国立大学へ進学させた。
あいつは俺らとは違って頭の出来が違うからな。奴が嬉しそうに笑っていたのを思い出す。比べられた俺も、違いないと疑うことなく頷いた。
そんな奴が、まだ音楽を続けていたなんて。辞めたものだとばかり思っていた。それは千代ちゃんも同じだったろう。俺達は何も知らなかった。知られたくなかったのか。未練があったと思われたくなかったのだろうか。いつもみたいに気を遣ったのか。
「なんで内緒にしてたんだろう?」
「……さぁ?」
言ってくれれば良かったのに。声音がそう言っていた。俺もそう思った。
ギターの一本もない家で、頭の中に浮かんだ音を書き起こしていたのだろうか。周囲の迷惑になるからと、そんなことを考えていたのだろうか。そんな迷惑、少しくらいかけたって良かっただろう。
「ギター、持ってくれば良かったかな?」
俺の言葉に千代ちゃんは、今度聞かせくれればいいよと、穏やかに笑った。
家は少ししたら引き払うと千代ちゃんは言って、必要なものがあればなんでも持っていっていいとも言った。奴の家には日用品くらいしかなかったし、楽譜の他に形見に出来るものもなかった。ギターの一本でもあれば貰っただろうが、しかし、きっと引き取れはしなかったとも思う。俺には重すぎて弾けなかっただろう。この楽譜だって重いのだ。たった一冊の大学ノート。それだってのに、中身が何か分かってからのエフェクターケースは、嫌になるくらいに重かった。
大学ノートを机の上に置く。乱雑な机の上にあって、ノートは紛れることもなく一際異彩を放っているように見えた。
俺に遺した意味は分かる。生前から奴は口が酸っぱくなるほど何度も、お前のことが心配だよと言っていた。冗談めかして言うこともあれば、酔っ払った顔をして真面目なトーンで言うこともあった。言い回しは毎回違うが、言いたいことは変わらず同じだった。
千代はもう心配いらない。旦那は気に入らないが、どうしようもないくらい良い奴だ。何があっても千代を守るだろう。子供と千代を命に代えても守るだろう。でも、俺はお前が心配だ。俺が死んだら、お前は一人ぽっちになるだろう。それが心配だ。死んでも死にきれねぇ。
病床に臥していた時にも、帰り際、必ず同じようなことを言っていた。俺の心配より自分の心配をしろよ。俺は笑って言った。だが、奴の死を想像したくなくて現実を遠ざけただけだ。
もう子供ではない。オタマジャクシではない。人の死を受け入れられないほど幼くもない。しかしそれでも、訃報を聞いた瞬間、どうしようもない不安に襲われた。現実味のない死という言葉が、俺をだだっ広い荒野へと連れてきた。何もない、何処へ行けばいいのかも分からない荒野だ。
俺はお前が心配だ。それが、このノートを遺した意味だ。奴はきっと、ずっと俺のことを案じていた。俺が一人ぽっちになることを心配していたのだ。何時まで経っても奴にとって俺は手のかかる弟みたいなものだったのだろう。迷子になることを案じた。この荒野に置き去りにされることを案じた。だからこのノートを遺したのだ。少しでも寂しさを紛らわせるようにと。一人ぽっちでも生きていけるようにと。
俺は笑った。呆れ笑いだ。奴は俺をずっと子供扱いしていた。死んだ今でも俺を子供扱いしている。
「幼稚園児だとでも思ってんのかよ」
ノートを捲って独りごちる。返答などない。だが、そうじゃなくてさ、と温和な声が聞こえた気がした。
一筋、涙が零れた。
不出来な弟だったろう。俺はあんたに何もしてやれなかった。あんたの妹に何もしてやれなかった。あんた達を守ることも、助けることも出来なかった。申し訳なく思う。死の間際にも、傍にいてやることが出来なかった。仕事なんて断れば良かったんだ。でも出来なかった。怖かったんだ、あんたを目の前で喪うことが。情けないと思うが向き合えなかった。あんたの死と向き合うことが出来なかった。後悔してもし足りないよ。今更もう、遅いけどさ。弱い俺には出来なかったんだ。遂にこの時が来たんだと思ったよ。あんたは俺の心配をするが、俺もあんたが心配だった。あんたはいつでも俺達を心配していた。自分のことなど顧みず、俺達の幸せだけを願った。それが心配だった。いつかあんたが壊れてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。それが遂に訪れたんだと思った。でも、あんたは立派だった。死ぬ間際にだって、一切声を荒らげたりなんてしなかった。恐ろしかったろう。苦しかったろう。痛みに眠れなかったはずだろう。けど、あんたは誰に当たることもなかった。蛙の子は蛙じゃない。あんたは最期まで、誰にも牙を剥かなかった。看護師さんが言ってたよ。あんなに我慢強い人見たことないって。鼻が高かったね。誇らしかった。そうだろうって、自慢してやりたかった。俺の兄貴、凄いだろうって、自慢してやりたかったよ。あんたがどう思っていたかは知れないが、俺はあんたを、あんた達兄妹を、本当の家族みたいに感じていた。天涯孤独の俺の手を、逸れないように繋いでくれていた。迷子にならないようにしっかりと、力強く握ってくれていた。嬉しかったよ。俺に兄と妹が出来たみたいでさ。家族がなんなのか分かりもしない俺に、あんたが、あんた達が教えてくれたんだ。そんな兄貴をさ、死んでまで心配させるなんてことしないよ。大丈夫。迷うことなんてない。あんたが遺してくれたノートがあるからさ。手の繋ぎ方はあんたが教えてくれただろう? 何があったって忘れやしない。だから、安心してくれていいよ。
真夜中、電話をかけた。迷惑だと思ったが、どうしても聞かせてやりたかった。
『もしもし?』
数回コール音が鳴って温和な声が耳に響いた。少し声を潜めていたが、どこか掛かってくることが分かっていたような雰囲気があった。
「一曲だけ、弾いてもいいかな?」
前置きもなく言った俺に、しかし千代ちゃんは驚きも戸惑いもせず、いいよと穏やかに笑った。それが嚙み締めたくなるほど嬉しかった。
指が踊る。三連符が多用されたスロウな長調。楽譜の上でオタマジャクシが迷うことなく泳ぎ回る。仲良く手を繋いで、だだっ広い荒野を進む。
『進藤さん』
旋律の途中で千代ちゃんが名を呼んだ。穏やかな声だった。
『ありがとうね』
俺は返事をしなかった。礼を言われる筋合いなどない。俺はただ、妹に兄の書いた曲を聞かせているだけだ。それだけだ。
旋律が冷えきった部屋の中を一杯に満たした。近所迷惑だと奴は怒るだろうか。下手くそと言って笑うだろうか。どちらでも構わない。
オタマジャクシ達が、だだっ広い荒野を迷いなく進む。
【おわり】