【最終選考作品】風景画の解釈(著:大橋項)
「……え?」
フリーマーケットが催されている公園の一角で、俺は大袈裟に驚いてみせた。
「お気に召されましたか?」
店主の女性が声をかけてくる。やや年齢不詳な雰囲気はあるけれど、四十代半ばくらいだろうか。
「そう……ですね。これ、どこで手に入れたんですか?」
「私も詳しくはないんです。ずっと蔵で眠っていまして」
「でも、本当にこの値段で?」
女性はゆっくり頷いた。
「一番の目的は、気に入ってくださる方にお渡しすることなんです。あなたはこの絵、気に入ってくれたんですよね?」
「勿論です」
俺は答えながら、頭の中でそれっぽい言葉を並べてみる。
「複雑な岩場の海岸線に、沈んでいく夕日。全体的に郷愁的な雰囲気を感じます。素朴な魅力に溢れている、素晴らしい作品だと思います」
「なるほど。そういう解釈もあるんでしょうね」
女性は肯定も否定もせず、にっこりと笑った。
既にここからプロローグが始まっていただなんて、当時の俺には解釈する余地がなかった。
「良い感じじゃん!」
俺はファミレスでハンバーグ定食を食べながら小さく感動した。
「この画角だと、あんたの間抜けな演技もちょっとはマシに見えるでしょ」
枝野は自ら撮影した動画を進めたり戻したりしながら、編集作業に勤しんでいる。
「一言余計なんだよ。でもとにかく、これで大バズりして収益化間違いなし!」
枝野は賛同することなく、うーんと唸って腕を組んだ。
「こういう動画ってハッピーエンドにならないでしょ? 後味が悪いんだよね。だからバズることはないんじゃないかな」
枝野が断言するので、俺は狼狽する。
「……でもこれが流行ってくれないと、俺はいよいよ就活と向き合わなくちゃいけないんだけど」
現実逃避の限界が迫っていることは、自分でも分かっていた。
「いや四年の七月から始めても最早手遅れだから」
ぴしゃりと枝野が正論を浴びせてくる。
「とにかくちゃんと編集するから、これで駄目だったら諦めて就活やんなよ」
俺はそう言われて、曖昧に頷きを返した。枝野がここまでしてくれて、自分自身と真剣に向き合うチャンスが、この時の俺にはまだ残されていた。けれどそんな解釈ができなかった。
そうやって完成した『フリマの絵を世界的名画みたいな雰囲気出しつつ購入するドッキリ』というタイトルの動画は、特に誰からも注目されることなく、日々大量に投稿される新着動画の陰に埋もれていった。
しっかり現実と向き合っていた枝野は有名企業に就職し、俺はフリーターにしかなれなかった。住む世界の異なる俺達は連絡を取らなくなり、俺はこの絵のことを次第に忘れていく。
二年後に、あの日を迎えるまでは。
文明の進化は、東京都板橋区にある四畳半の木造ボロアパートにまで、しっかりと到達する。
居酒屋でのアルバイトが終わった深夜、ストロング系チューハイを飲みながら動画サイトを観ていると、カメラアプリの広告動画が流れた。
若い男がファッション雑誌を読みながら、モデルが履いている奇抜なスニーカーに目を留める。これ良いじゃんと呟くと、隣の女がしたり顔で、雑誌のページをスマホ撮影する。カメラアプリは高度な画像検索をして、靴の詳細を表示する。すごいね最新技術、という内容だった。
まんまとすごいねと思ってしまった俺は、アプリをダウンロードしてしまった。それから取り敢えず、目の前にあった飲みかけのチューハイを撮影してみた。ローディングと表示されて、すぐに商品詳細が表示される。へえ、これは凄いと思いながら、一体どこまでいけるんだろうかと考えてみる。例えば丸まった靴下や真っ白な壁は駄目だろうけど、どんなマイナーなチューハイでも、製品画像が明確なものは探し出してくれるだろう。
それでは、アート作品はどうだろうか。
そこまで思考が辿り着いたのと同時に、俺はあの絵の存在を思い出していた。立ち上がってクローゼットの扉を開くと、雑多に詰め込まれたガラクタの奥の奥から、額に入った絵を取り出す。埃を払って撮影、ローディング、そして結果が表示される。枝野とファミレスで過ごした夜に、俺がいくらネットで調べてみても分からなかった事実が、瞬時に判明する。
まずこの絵は、九道高直という人が描いた連作、七浦海岸シリーズのうちの一つらしい。個人名のウィキペディアが表示されるあたり、そこそこ有名な画家なのだろう。提示された別の九道の絵は構図こそ異なるものの、タッチや色調が良く似ていた。達筆過ぎて解読できなかった右下のサインも一致している。チューハイを飲み干し、九道高直の情報をスクロールしていく。
一九七〇年生まれの、新潟県出身の画家。男性、左利き。学生時代から油絵の才能が評価される。温かみのある人物画、風景画に定評があり、三十代半ばより代表作の一つである七浦海岸に取り組み始める。と記載されている。
来歴や人物についての内容を読み進めていくと、初の単独展がつい先日開かれたらしいことが分かった。よく確認してみると、終了が未来日付になっている。つまりは、まだ開催期間中ということだ。
九道高直展 想いを運ぶ――記憶を紡ぐ――
画家の初期作品から、希少な人物画、連作七浦海岸を余す所なく展示する、九道高直の半生を振り返る特別展となった。
そんな説明を見て、俺はなんとも形容し難いぞわぞわとした気持ちになった。少なくとも、連作の一つが俺の手元にある以上、特別展にすべては揃っていないということになる。会場は東京都の多摩地区にある美術館で、物理的に行けない距離ではない。そして明日は休みだ。
しばらく逡巡した後で、この絵を持っていこうと決意した頃には、すっかり酔いは醒めてしまっていた。
翌日、俺は朝から美術館に向かった。額を小脇に抱えて歩いていると、この絵を買ったあの日のことが思い起こされた。あの頃はまだ、確かに人生の可能性が残されていた。頑張ればまともな仕事に就けたかもしれないし、変わりなく枝野とつるんでいる未来だって、あったのかもしれない。あの時、もっとああしていれば……などと女々しく考えているうちに、あっという間に美術館に辿り着いた。とはいえここからが問題だった。あまりに馴染みがなく、どうすればいいのかが分からない。まずは関係者に事情を説明する他ないだろうと思い至り、チケットカウンターに向かい始めたタイミングだった。
「すみません」
髪をさっぱりと後ろで束ねた、凜とした雰囲気の女性に声をかけられる。典型的な美術館職員という感じの、慇懃な空気を纏っている。
「はい……」
夜道で職務質問をされたような、心許ない気分になる。そんなに挙動不審だっただろうか。
「もしかしてそれ、九道高直の作品ではありませんか?」
そんなことを直球で訊かれて、俺は驚いて息を呑んだ。しかしながら訊ねた本人も半信半疑といった様子で、こちらに強張った顔を向けている。
「九道さんから、彼の絵を持った男性が来るかもしれないと言われていました」
「流石に冗談ですよね?」
俺はそう返しながら、彼女が言っていることについて冷静に検討してみる。俺が九道高直の絵を持って、ここに現れることが予見されていた? 俺自身が昨日まで、この絵の存在を忘れていたというのに?
「私もあなたと同じくらい驚いています。でも」
職員の女性は、少し砕けた感じになって続ける。
「九道さんご本人には、何かしらの確信があったように見受けられました」
「そう言われても、俺は九道さんとは面識もないし、この絵だってたまたまフリーマーケットで購入しただけなんです」
俺はまとまらない思考回路のまま説明した。職員はうんうんと聞いてくれた後に、一つ咳払いをしてから話し始めた。
「端的に言いますと、私は九道さんから、その絵を買い取ってほしいと依頼されています」
そう言った職員は、いつの間にやら右手に分厚い小洒落た封筒を携えていた。よく考えれば最初から持っていた筈だけど、少なくとも俺には買い取りという概念と共に突然現れたように思えた。
「ご確認ください」
ずっしりとした重みのあるその封筒を受け取り、言われるがまま中身を取り出してみると、一枚の手紙と、大量の札束が入っていた。手が震え始める。ざっと見繕っても百枚はありそうだ。百万円。
「併せて、二つ言伝があります」
浮き足立ってきた俺の気持ちを、職員の淡々とした声が宥める。
「一つは、手紙はご自宅に帰ってから読んでください。もう一つは、特設展を是非お楽しみください」
職員はそれだけ伝えると、封筒と引き換えに、九道高直の絵を持ち去っていった。俺はその背中を見送りながら、現金をどうしたものかと悩んだ。そして最終的に、封筒を握りしめたまま九道の作品を見て回ることにした。それが最も適切な振る舞いのように思えた。
そういった経緯で、俺は大金を握りしめたまま九道高直の特別展を鑑賞した。人物画から始まり、風景画、そして連作七浦海岸を順番に見ていく。高尚なことは分からないけれど、九道画伯の作風には、全体的に柔らかい雰囲気があって良いなと思った。壁一面に並べられた七浦海岸を見比べていると、佐渡島の情景が浮かんでくるようだった。初めての美術館は想像以上に楽しく、俺が保管していた絵が並ぶことがあるなら、もう一度来てみようかなどと考えたりもした。
余韻に浸りつつ帰宅して、そういえばと、渡されていた手紙の存在を思い出した。認められた文章をぼーっと読み始めて、そして読み終わった頃には、異様な事態が進行していたことが発覚する。酷く混乱したけれど、取るべき行動は一つしかないように思えた。
俺はほとんど躊躇なく、震える指を動かしながら、数年振りに枝野に電話をした。
「あのさあ鯨井」
ファミレスに颯爽と現れた枝野は、僕の正面にどさりと座った。
「突然連絡するなとは言わないけど、流石に急過ぎない?」
「悪かったけど、話聞けば分かってくれるって」
俺は最早、一刻も早く詳細を伝えたくて、気が気ではなかった。
「何なの一体。会ってから話したいなんて、ドラマじゃないんだから」
低めの声で言って、枝野はドリンクバーのコーラをストローで勢いよく吸い込んだ。俺は減っていく黒い液面を見ながら、どこから説明したものかと頭を悩ます。
「まずさ、俺らが最後の動画投稿で買った絵、あったろ?」
「ああ、海辺みたいなやつね」
「そう。あの絵を描いた九道って人の展示が今やってて、そこに持ってったら俺が来るって職員に知られてて、これで買い取ってくれた」
俺は自分でも支離滅裂だなと思いながらも矢継ぎ早に事実を並べて、現金の入った封筒もテーブルに並べた。厚みがあることを示すために、側面を立てて。
「ちょい待ち。え? 理解が追いつかない」
枝野はそう言ってから腕を組み、眉間に深く皺を寄せた。しばらく沈黙した後で、周囲を見回す。
「っていうドッキリでしたーとか言い出したら許さないからな」
「……俺は言わないんだけどさ」
「俺は? どういうこと?」
怪訝そうにした枝野の顔を見つつ、俺は烏龍茶で水分を補給してから、手紙を取り出す。
「現金と一緒に入ってたんだ」
拝啓、鯨井君、枝野さん。
まずは私の宝物――七浦海岸・想――を大事に保存してくれて有り難う。今頃君達は困惑していることだろうと思う。なので少しだけ種明かしをさせてもらいたい。
まず、鯨井君が今日、特別展に来てくれたのは偶然ではない。すべては二年前、君達が私の絵を購入したところから立脚――もしくは変遷――して続いている、一連の力学のようなものだ。
君達が私の絵を買い、保管し、広告をきっかけに思い出し、特別展が開催中であることを知り、美術館に持参する。そこまでが私の七浦海岸・想という作品だった。現実の風景から着想を得た私の絵が、今度は現実に影響を与え、そしてまた絵画へと紡がれていく。二年の熟成を経て、作品はまもなく完成を迎える。俗世間に埋没――あるいは隔絶――することなく高い芸術作品に昇華できたのも、すべては君達のお蔭だ。心ばかりの謝礼は二人で仲良く使ってほしいと思っている。願わくば、一度七浦海岸を見に行ってほしい。佐渡島はとても良いところだから。
最後に、君達が七浦海岸・想についてどう思うかという点は、とても興味深い。作品が完成した暁には、君達の解釈――最早当事者なのだから、所感と言った方が正確かもしれないけれど――を是非聞かせてもらいたい。改めて有り難う。
九道高直
手紙を読み終えた枝野は長らく考え込んでいた。けれど突然、よし、と言ってコーラを飲み干すと、挑むように俺を見据えた。
「行くか、佐渡島」
空になったコーラのグラスをぼーっと見つめていた俺は、完全に不意をつかれた。
「……本気で言ってんの?」
俺は便宜的に訊ねはしたけれど、本気だと知っていた。枝野はそういう人間だ。
「なんか九道の思惑通りに動くみたいで癪だけど、行ってみるしかなくない? 軍資金はたっぷりあるんだし、二人で仲良く使おうよ」
「いつ?」
「明日の始発? 私は三十九度の高熱でアポ全部リスケしてもらうから、あんたもバイトあるなら親戚死んだことにして休んで。一緒に行こうよ佐渡島」
「無茶苦茶だろ……ファミレスに呼びつけるのとどっちの方が急なんだよ」
俺はうんざりした感じでそう言いながら、あーそうだったと思い出した。モノクロの絵画に色彩がもたらされるように、蓋をしていた筈の感情が、鮮明に浮かび上がってきた。
俺は枝野のこういう、戦略家なくせに破天荒なところが、好きだったんだ。
「まあ、なんとかするよ」
辛うじて答えながら、俺は最早、枝野の顔をまともに見れなかった。
翌日は早朝の四時に起きて、東京駅から新幹線で新潟へ向かった。そこからタクシー、ジェットフェリー、バスと順々に乗り継いでいく大移動だった。そんなこんなで七浦海岸に着いた頃には、ちょうど夕陽が沈み始めていた。
「こっから似た構図になる場所探すのって、結構過酷じゃない?」
枝野は溜息混じりに言った。確かによく似た岩場の海岸線が続いていて、七浦海岸・想で切り取られた場所を特定するのは、随分と骨が折れそうだ。
「取り敢えず見て回るかあ」
伸びをしながら枝野が言って、俺達の捜索はスタートした。最初は謎解きゲームの間違い探しみたいでポジティブに挑めたけれど、焦燥感から次第に会話は少なくなっていった。
一時間くらい黙々と探し続けても、近しい景色とは出会えない。夕日はみるみるうちに沈んでいく。やはり無謀だったかと諦めかけた時だった。
「あれここ、かなり似てるよね?」
枝野が訊いてきたので、同じアングルから見てみる。確かにかなり近い気がした。
「ここの突き出た岩も、抉れた感じも似てる……というか、一緒に見えるな」
俺は合致している事実を確認しながら、一歩前に進めた気がして嬉しくなった。けれど、枝野は剣呑な表情を浮かべていた。
「枝野?」
「そっち向いたまま、目線だけ左」
俺は言われたまま視線を移動させる。
するとそこには、誰かがいた。
離れたところにいるので面立ちまでは分からないけれど、背の高い痩身の男性がこちらを向いていた。七浦海岸を見ているのか、それとも俺達を見ているのかは、定かではない。
「一生の後悔より、一瞬の恥だよね」
自分に言い聞かせるように言った直後、枝野は走り出した。男も走り去っていく。俺は呆気に取られながらも、枝野を追いかけるけれど、運動不足が祟り、すぐに体力の限界を迎える。
「くそ! 取り逃した」
諦めて肩で息をしていると、枝野が悔しそうに戻ってきた。
「九道側の人間だろうね。とっ捕まえれば話が早かったのに」
「そうかもしれないけど、何が目的なんだろう」
俺は最早、何が何やら分からなくなり始めていた。
「大枠で言えば七浦海岸・想を完成させたいんじゃない。知らんけど」
枝野は投げやりに言った。
「テキトーかよ」
俺は指摘しながらも仕方ないよな、という気持ちだった。結果的に謎は深まり、一歩前進したものの二歩後退したという感じかもしれない。でも、何も得るもののない無駄足だったかと言われれば、そうでもなさそうだった。
「めちゃくちゃ……綺麗だよな」
七浦海岸の複雑な岩肌が、水平線に沈んでいく夕陽に照らされている光景は、形容し難い程に美しかった。
「うん、私も結構感激しちゃってる」
枝野が静かに呟く。俺達はそれからしばらくの間、無言で海岸を眺め続けた。いつまでもこの時間が続いて欲しいと思ったけれど、周囲は粛々と夜闇に包まれていった。
「結局、プラマイゼロって感じだよな」
俺はため息混じりに言ってから、部屋のグラスで佐渡島産の日本酒を飲んだ。ホテルの売店で買った安い酒だったけれど、想像以上に美味しくて驚かされた。
「そうだねえ」
枝野は苦笑して、ビールの缶にちびりと口をつけた。
七浦海岸を離れた俺達は、予約をしていたホテルの部屋で酒を飲み始めていた。
「でも、なんて言えばいいんだろ」
「何?」
枝野が訊いてくる。俺は自分の感情と向き合ってみる。始発からの長距離移動で、身体は確かに疲れていた。九道達の目的は分からないままだし、徒労感がないわけではない。でも、率直に言うと。
「久しぶりに楽しかった。何か日常から離れて、生きてるって感じがしたよ」
「何それって言いたいんだけど、結構分かっちゃうんだよな」
枝野はビールを呷り飲んでから続ける。
「嫌なことあった時なんかさ、大学生の頃のこと、思い出しちゃうんだよね。だからシンプルにあんたと楽しい旅行ができて良かったよ。確かに生きてるって感じ。やばいよね。言ってて恥ずかしくなってきたわ」
照れ隠しのようにそう付け加えた枝野は、頬を真っ赤にしている。
やばいのはこっちだ。
そこまで言われて、楽しかったね、また何年後かに会おうよ、なんて無難な結末は、ダサいにも程がある。
一生の後悔より、一瞬の恥。
枝野の台詞が脳内で再生される。そう、その通りだ。俺は意を決して、グラスに残った酒を空けようとした。けれど。
その判断がよくなかった。
少し酔いがまわり、緊張し過ぎていた俺は、グラスを摑み損ねた。手の甲に当たったグラスは倒れ、テーブルに日本酒が溢れて広がる。
「あーあーもう」
枝野が笑いながら、ポケットティッシュを取り出した。想定外のトラブルだったけれど、結果的にこの偶然が呼び水になった。二人でテーブルを拭いている最中に、枝野の動きが止まった。
「あれ、枝野?」
寝落ちにしては早いし唐突過ぎると思って見ていると、枝野はゆっくり顔を上げて、俺を見据えた。
「マジか、気づいちゃったかも」
「……どういうこと?」
訳がわからず訊ねると、枝野はティッシュペーパーが元々収まっていた、ケースの広告を指差した。分譲住宅の広告らしく、タワーマンションが荘厳に聳える傍らに、一節が添えられている。
――ゆとりから始まる未来へ――
「私なりの新解釈……発表してみていい?」
枝野が半信半疑、といった声音で言った。俺は恐る恐る頷く。
「まだ仕掛けが?」
「どうだろう、でもなくはないと思う。九道の手紙持ってる?」
俺はポケットから手紙を取り出して、枝野に渡した。
「気になったのは、この連続する伸ばし棒」
枝野はそう言いながら、該当箇所を指差していった。
「よく翻訳小説なんかで使われるよね。ちょっと気取った書き方だなーくらいにしか思わなかったけど、使われてる四箇所の始まりの言葉を抜き出すと、宝物、立脚、埋没、解釈になるんだけど、偶然だと思う?」
俺は改めて手紙を読み直して、息を呑んだ。非現実的な付合に、頭が痺れ始める。
「嘘だろとは思うけど、偶然だとは思えない。このティッシュ、どこで?」
「……あんたに呼び出されて、駅からファミレスに向かう途中。男の人だったけど、ごめん、よく覚えてない」
枝野は頭を抱えるけれど、致し方ないだろうと思った。俺だって今日乗ったタクシーの運転手の人相なんて、まったく記憶にない。
「もし枝野の解釈が正しいとすると」
取り敢えず俺は、二人の認識に相違がないか、答え合わせをしてみる。
「わざわざ俺達を七浦海岸まで行くように仕向けて、写真を撮るやつまでいたってことは、九道達の七浦海岸・想の取り組みは続いている。とすると、枝野の新解釈の信憑性も増す。『宝物は、君達の立脚した場所に埋没している。解釈は自由だけどね』って感じかな」
「私もそう思うけど、これもう飛躍し過ぎじゃない?」
「それすらも解釈次第ってことなのかな……俺達が気づいていないだけで、世の中は意外とそういう枠組みで動いているのかもしれない。他にも気づいてない伏線があったりしてね」
と冗談めかして言った俺は、実際に九道高直特別展のタイトルに込められた伏線をまんまと見逃していたけれど、頭の中はそれどころではなかった。
「なあ、枝野」
「どしたの?」
心臓が跳ねる。ここで勇気を出さないと、俺は多分一生後悔する。
「今回の件で確信したんだけど、俺ずっと、枝野のこと好きだったみたいだ。迷惑かもしれないけど、この気持ちは他に解釈のしようがない」
情けないことに声が震えた。枝野が俺を見据える。どれくらいそうしていたか分からない時間が経過した後に、枝野の口元が綻んだ。
「二年遅いよ、ばーか」
枝野は咎めるように言ってから立ち上がり、傍にあるベッドにぼすんと背中から倒れ込んだ。それから。
「私も。二年遅くなっちゃったけど」
小さな声で、けれどはっきりと呟いて、そのままスヤスヤと眠りについた。
俺はしばらく、その場から動けなくなった。窓から見える日本海の暗がりと、枝野の寝顔を交互に見ながら、止まっていた人生が動き始めるのを感じていた。
新潟から東京に戻った俺は、近々に居酒屋のバイトを辞めるつもりだと店長に伝えた。
「ちなみに何で辞めるの?」
店長に訊かれた俺は、率直に応えてみた。
「真剣に将来を考えたくなったのと、ちょっと佐渡島で採掘したい土地がありまして」
「正気か? 佐渡金山っていつの時代だよ」
店長は盛大に眉を顰めた。そして直後に、でもまあ金が取れたらこの店貸し切ってくれよ、と言って笑った。
というわけでバイトはなくなったけれど、忙しい日々が始まった。
派遣会社に登録して、佐渡島について調べ、九道について調べ、随分気が早いけれど、二人暮らし可の物件を探してみたりもした。一日はこんなに短かったのかと思ってしまうくらいに、とにかく時間が足りなかった。ようやっと九道高直特別展に戻ってこられたのは、佐渡島を訪れてから一週間も後になってしまった。
「あー、そうくるのかって感じだよ」
枝野が俺にだけ聞こえる声でそう言って、大きなため息をついた。俺も何かしらあるだろうとは思っていたので、七浦海岸・想が追加展示されているくらいでは驚かなかった。けれど別の違和感に気がついた時には、思わずマジかと声を漏らしてしまった。
数日前に俺が持参した絵画には、筆が加えられていた。
夕景の七浦海岸の一角に、小さく誰かの後ろ姿が二つ書き加えられている。そしてそれは俺と枝野によく似ていた。更には二人の足元には、陰の黒色ではなく、意味深に明るい色が置かれていた。埋没する何かを示すように。
「もういっそ全部忘れて、一切関わらないようにしてみる?」
枝野が苦笑いを浮かべて呟く。
「それすらも九道達の思惑通りの可能性はあるよね」
「なんて粘着質なやつらだ」
枝野はそう言ったものの、あまり悲観的な感じではなかった。
恐らく俺も枝野も、近しいことを考えている。
俺達はこれからも、全容がよく分からない、壮大などっきりを仕掛けられ続けるかもしれない。少なくとも俺の頭には既に、この加筆版を画像検索したら、どうなるだろうかという想像が浮かんでしまっている。
最早構い続ける義理はないのかもしれないけれど、まあ付き合ってやってもいい。案外九道もひょっこり姿を表して、同じ作品に関わった者同士、親しくなれるかもしれない。
何より逆説的に言えば、この試みが続く限り、俺と枝野は一緒に巻き込まれ続け、一緒に過ごし、一緒に歳を重ねていけると言えなくもない、というのは、流石に強引過ぎるだろうか。でも。
そんな解釈もまあ、悪くはないように思えた。
【おわり】