【最終選考作品】左回りのイワシ(著:度会メグ)
付き合ってもうすぐ半年の恋人である、福永俊介と同棲している部屋は、大学の目の前にある「バナナハウス」という変な名前のマンションの六階で、彼自身その変わった名前を気にしているのかは分からないが、履歴書などに個人情報を入力する際には、マンション名を書かずに住所と部屋番号だけ書いてすましていたことをふと思い出す。
私はいつも、このバナナハウスの六〇一号室で、俊介と一緒に朝起きては濡らした歯ブラシで歯を磨く。どこかで、歯を磨く時は歯ブラシを濡らさずにそのまま歯磨き粉を付けるのが正しいという記事を見たような気もするが、変える気はない。俊介がいつもこうしているからだ。
研究室のコアタイムに合わせて先に家を出た俊介を見送った後、ひとりで歩いて学校に行く間は、イヤホンで俊介に教えてもらったバンドの、ありきたりな失恋ソングを聞きながら登校する。「伏し目がちなあなた」という歌詞で俊介を連想しては、濡れたまつげの奥に宿る暖かい春の日差しのような俊介の瞳を想う。少し遅めの朝に、彩度を極限まで落とした灰色のワンルームで目覚め、腕の中の私に「今日は雨だね」と言って笑う。「もっと早起きしたかったのに」とも。そんな俊介が。カーテンを開けなくても耳を澄ませなくても、空気の質感や色彩で「今日は雨だね」と言う俊介が、私は好き。
俊介とのLINEを見返しながら大学の授業を受け、俊介の好きなカツカレーを学食で食べ、また同じように上の空で授業を受けては家に帰り、俊介の腕のぬくもりのなかで眠りにつく。
これが私の幸福な日常である。
「瞳、そろそろお風呂に入ってきな。明日も学校なんだから」
先週の木曜に水族館で買った、大きなイルカのぬいぐるみを枕に横たわった状態で、俊介が声をかけてきた。ツンと鼻を刺すような空気の下で人々が群れる忘年会シーズン、普段この時間帯は酔っぱらった学生の叫び声や歌い声が騒がしいのだが、今夜は随分と静かな夜だった。
「んーまって、課題が今いいとこなの。俊介、先に入ってきていいよ」
「ずいぶん集中してるな」
「今日の二十四時までだから割と焦ってるんだよね」
パソコンからは顔を上げないまま目線だけで時計を確認し、また作業に戻ると、俊介はベッドから起き上がり、ローテーブルに向かって座る私の隣に腰を下ろし、そっと軽く頭を撫でた。
撫でられた部分からじんわりと波紋のように、幸福感が全身に伝わる。私より少し大きくて私より少し硬い俊介の手は、私より少し暖かくて、それがまた愛おしい。ついさっきまで俊介が横たわっていたイルカのぬいぐるみの方に目をやると、イルカのカーブした部分が俊介の頭の形に少しだけへこんでいて、思わずにやける。
「ねえ俊介、私ね俊介のすべてが好き。本当に大好き」
「すべてって、すべて?」
「そう、すべて。そうやって、私が好きって言っても同じ言葉では返してくれないところも含めて」
俊介は口元だけでほほ笑んだ。
「そういえば、先週の水族館の写真、俺まだ送ってなかったよな、イワシのやつ」
「あー、もらってない。どう、可愛く写ってる?」
「あれは傑作だった、瞳のイワシのものまね」
イワシは泳ぐときに大きく口を開いて海水と一緒にプランクトンを食べる、ということを何かと物知りな俊介が教えてくれたので、私は目を見開いて、口を大きく開けて真似して見せたのだった。俊介のいつもは淡白な一重の瞳は、笑うと涙袋に埋もれて幼くなる。私のしたこと、私の言ったことで細身で口数の少ない彼の猫背が軽く揺れる。なんて素敵なことなのだろうと思う。
私はパソコンに向き直り課題を再開することにした。締め切りまで残り時間二十分。締め切りの数日前には課題を終わらせる真面目で計画的な俊介とは違って、私はいつもぎりぎりを攻めるタイプだ。
「あ、充電ない。写真送るの後でもいい?」
「いいよ、お風呂行ってらっしゃい」
俊介は、もう一度私の頭を軽く撫でてから立ち上がった。着替えの下着をクローゼットから取り出す彼の丸まった後ろ姿を見ながら声をかけた。
「スマホ、お風呂入ってる間に充電しときなよ」
「あーうん、まあそうか。うんそうする」
と言った彼の声色に、なぜか少し違和感を覚えた。マイナスイオンをまとった心地よい声はいつもと変わらないのだが、その間というかリズムが、瞳の体にはいつものようにすんなりと入ってこず、空気中を泳いでいるのであった。
そして、その違和感は、すぐに形となった。
俊介がシャワーを浴びる音を聞きながら課題を進めていると、視界の端で充電器に挿された状態で床に横たわる彼のスマホが、息を吹き返したようにぱっと光った。いつもなら気にも留めないことなのに、つい、パソコンで課題をする手を止めてしまった。
「何の通知だろう」
そっと彼のスマホをのぞき込むと、そこには「今週の日曜ならあいてる!」「水族館いきたいなあ」と二件の通知が並んでいた。ひなこ、という女だった。
心臓が一度大きく跳ねて、異常に肥大化したような感覚に陥った。のどの手前までしか息が吸えない。心臓がうるさい、はやい。
まず最初に、姉妹とかいたっけ、とか、友達と出かけるのかな、とか考えた。しかし、私の把握している限り俊介の交友関係の中にひなこという女はいなかったし、「今週の日曜ならあいてる!」という返答からして俊介がなにかしら先に誘うLINEを送った可能性が高い。まして姉妹など、俊介にはいなかった。
次に湧き出てきたのは、怒りでも悲しみでもなく「見てしまった」という後悔だった。見なければ、知らなくてよかったこと。見てしまったことによって疑念は無限大に広がることになるその事実に後悔した。怒りとか悲しみは、すぐに湧き出るものではないということを動揺する心と切り離された頭で静かに分析していた。
画面から顔を上げると、シャワーの音が聞こえなくなっていることに気づき、私はあわててパソコンの前に戻った。いつもなら、髪をドライヤーで乾かしてから戻ってくる俊介が、濡れた黒髪をタオルで拭きながら戻ってきて、そのまま隣に座った。俊介の束になった水滴の滴るまつげを、きれいだと思った。
「課題、おわった?」
「まあぼちぼちって感じかな、あとちょっと」
本当は二行程度しか進んでいないけど、私はなるべく自然に、数分前の私を演じながら答えた。彼は特に違和感を感じることはなかったようで、
「俺髪乾かしてくる」
とだけ言って、充電器に挿してあったスマホをもって、洗面台に戻ってしまった。「スマホ、そんなに気になるの?」なんて言えるわけもなく私は気づかないふりをした。今すぐに問いただしてもよかったのにそうしなかったのは、恥ずかしいくらい分かりやすい彼の行動に蓋をしたかったからだった。私が蓋をすれば、全てなかったことになるような気がした。
その時ふと、数分前に発した「すべてが好き」の言葉が、行き場のないまま宙を漂っていることに気づいた。結局、課題はそのあと一文字も進められなかった。
「それ絶対浮気されてるよ」
今日の学食はやけに賑わっているが、正面に座るみっちーの声は興奮気味に上がっているので、話し声や食器の音が背景と化して、きちんと私の痛いところをつく。みっちーのさっぱりとした茶髪のショートカットは今日もよく似合っている。
「えーやっぱりみっちーもそう思う? あーあ萎えるんだけど」
本当は「あーあ萎えるんだけど」どころではない。昨日は、心地よい寝息を立てる俊介の横で、一睡もできなかった。しかし、いざ友人を前にしてみると不思議なことに軽快な口調になってしまう。たぶん、防衛本能の一種で何かしらのドーパミンが出ていて、自分の悲劇をエンタメのように語ってしまうのだと思う。知らんけど。
私とおそろいで注文したカツカレーのカツをスプーンでうまくすくいながら、なにかと正義感の強いみっちーは私に問いただす。
「瞳の彼氏、そういうタイプだと思わなかった。理系で大学院生で、そんな遊んでる感じしなかったよね。ほかに情報は取れてないの?」
「うん、スマホのパスワード分かんないんだもん。本当むかつくよね」
「ね、むかつくよ。ていうか分かりやすすぎじゃない? 彼氏。瞳に見られたかもとか思わなかったのかなあ」
「うーん、髪乾かしに行った後も特に何も言われなかったからなんとも。でも、もしかしたら浮気じゃなくて、友達同士での約束だったりするのかな、とかは思う」
「瞳が彼氏のこと信じたいっていう気持ちはわかるけどそれはないよ、明らかにデートじゃん、ひなこって女の文面的に」
「そうだよね」
思ってもみない強気な言葉が出たかと思えば、彼を信じたい弱気な自分も出てきて、うんざりする。
「瞳は彼氏に依存しすぎなんだよ。彼氏のことになると脳みそが溶けて冷静な判断が出来なくなっちゃってる。そんな彼氏、絶対に別れなよ、ね?」
「私は俊介が浮気していることよりも、俊介と別れなきゃいけなくなることの方がずっとつらいもん。自分でも情けないけどこれが今の気持ち」
浮気をするような彼氏は彼女のことを大切にしていないので別れなければならない。単純明快かつ明らかに正しい一般論を、自分が今置かれている状況にだけは、どうしても落とし込むことが出来なかった。俊介を失うことの方が何よりも怖かった。
「そういえばみっちー、話したいことって何なの?」
みっちーのまっすぐな正しい瞳に見つめられるのが痛くて、苦し紛れに話題を変える試みをしてみたところ、みっちーは「そうそう!」とあっさり話題を変えてくれたので、密かに肩をなでおろした。
そもそも今日は、みっちーの方から話があるということで誘ってくれたのである。俊介のことについては会って早々「最近彼氏とはどう?」と言われてしまったので、つい話してしまったけれど、本当は特に誰かに相談したいわけでもなかった。
「私、FXを始めようと思ってるんだよね」
「FX?」
あまりにも予想外だったので、思わず間抜けな声を出してしまった。
「サークルの先輩に誘われておととい勉強会的なのに行ってきたの。ほら、私起業とか興味あるって話してたじゃん。これから就活とか始まるけどさ、普通に就職しても貰えるお金ってやっぱり上限があるっていうか。思いっきり稼ぐにはやっぱり自分が何か価値を生み出す側にならなきゃいけないわけじゃない。それで、そういう起業に興味ある学生とか実際に自分でお金稼いでる人とかが集まる勉強会があって、そこで出会った人たちが本当にいいひとばっかりで、お金の稼ぎ方とかを教えてくれたの。その中で、やっぱりFXだけは絶対やっておいた方がいいって言われたんだよね」
私が相槌をはさむ間もなくみっちーはその勉強会のことについてつらつらと話した。みっちーがそんな勉強会に行っていたことは初めて知った上、みっちー自身の言葉ではない、勉強会とやらの人たちの言葉をどっぷりと浴びせられ、なんだか気圧された。それにみっちーの目、私の目を見て話しているようで全く捉えてはいないことが分かる。
「そのFXでお金を稼ぐっていうのは具体的にどうするの? みっちーそういう知識とかあったっけ」
「自動売買ツールを使うんだって。その勉強会の人たちもみんな割とやってて、初心者でも効率的に利益が出せるんだって」
「なにそれ、怪しくない?」
反射的に思わず出してしまった言葉に、みっちーは眉をひそめた。
「そんなことないよ、その場にいた人たち、みんなFXは稼げるって言ってたし。収益率のデータとか期間とか細かいことまで丁寧に説明してくれたよ」
「そっか、なら大丈夫なのかな。自動売買ツールはいくらするって言われたの?」
「五十万」
「ねえ怪しすぎ。やめたほうがいいよ。勉強会で知り合った人たちから勧められたFXの自動売買ツールで、みんな稼げるって言ってて、初期投資が五十万? やばいって」
「違うの、初期投資の分はすぐに取り返せる仕組みになってるから。自動売買ツールを使えばリスクはほぼないって言われたし」
「絶対に考え直した方がいいよ。詐欺かなんかだよそれ」
「本当にいい人達だったの。詐欺とか、そんなんじゃない」
みっちーが、スプーンを深く握りなおしたのが分かった。心地悪い空気の中一定の間が空いた後、先に口を開いたのはみっちーの方だった。
「ごめん、確かに安いお金じゃないもんね、瞳が心配してくれてるっていうのはよくわかる。でも、勉強会の人たちのこと本当に信頼してて、私の起業の夢とか、趣味の話とか、一切否定せず素敵だねって言ってくれて、その、色々と悩んでたから凄い救われたの。だからやってみたいっていう気持ちもあるんだ」
「そっか、いい人たちだったんだね。でも親とかには相談してみなよ」
おととい出会っただけの人たちのいったい何を知っていて何を信頼しているの、なんてことは口が裂けても言えなかった。要領が良くて賢くて私なんかよりよっぽどしっかりしたみっちーが、どうしてこんな怪しいものに引っ掛かるのかが理解できなかった。たまにテレビで流れたり、学校の授業でも習ったりしたような、一般的な詐欺の常套手段で、みんなが口をそろえて「こんなの私は絶対引っかからない」っていうやつじゃないか。
すっかり冷めてしまったカツカレーを口に運ぶ。この味が変わらずおいしいのは、今この瞬間も俊介に関わるものを摂取できているという喜びが、少なからず関係しているからだ。「彼氏のことになると脳みそが溶けて冷静な判断が出来なくなっちゃってる」そう。確かにその通りだと思う。
みっちーが詐欺に引っ掛かっているかもしれないと思う一般的な判断能力が私に備わっているのならば、俊介に関してもそういう風に正しい自分でいられたらいいのに。
昨晩、考え抜いた結論だ。私は、俊介がたとえ浮気していたとしても別れるつもりなどない。昨日の夜見てしまった、ひなこという女からのLINEに目を瞑りさえすれば、バナナハウスの六〇一号室、俊介と目覚める幸福な朝を手放さずにいられる。わざわざ追及した末に待っているものが別れならば、私はすべてに気づかなかったふりを出来る。今の俊介を愛しているからこそ、この愛を守り続けるためにも、見たくない部分には蓋をしたい。
それから、思わずLINEを見てしまったあの夜以降、私はひなこという女について何も詮索することはなかった。
日曜日、良く晴れた冬の朝に、俊介は研究室の集まりがあるからと言って家を出た。白のボアジャケットを羽織った後ろ姿から、微かにサボンの香りがした。
そして私も、彼を見送ってから三十分ほど時間をあけて、みっちーと待ち合わせしている水族館の最寄り駅へと向かった。俊介が浮気している現場を確認しになど行きたくなかったのだが、昨日みっちーから何度も説得され、仕方なく行くことになったのだ。普段あまりしないパンツスタイルは一応俊介に見つからないためではあったが、家を出る前に気持ちばかりのキャップもかぶることにした。
県内に大きな水族館は一つしかない。イルカのぬいぐるみを一緒に買って、イワシのへたくそなものまねを彼が愛おしそうに笑ってくれた、あの水族館。
私との思い出はたった一週間ちょっとで塗り替えられてしまうのね、なんて浸りたいところであったが、私とみっちーは、日曜日の水族館の混雑具合を完全に軽んじていたことの方に気を取られることとなった。圧倒的に多いのが家族連れ、それからカップル。前回俊介と来た時は平日だからか比較的落ち着いていたが、今日は人混みと騒がしい声と閉鎖空間で、むしろ憂鬱になるくらいだった。気疲れした私たちは、巨大なイワシの水槽を囲むようにぽつぽつと並んだ簡素な椅子に、なんとか腰を下ろして二人並んで座っていた。
「この中から彼氏見つけるのってなかなか至難の業かもしれないね」
「むしろよかったよ。私、俊介が浮気してるところなんて全然見たくないもん。何回も言ったけど、あの日見たことはすべて忘れるつもりでいるんだよ。見たくない部分には蓋をして、私の愛したい俊介だけを愛するの」
「そうだよね、見たくない部分には蓋をしたいよね、私瞳の気持ちがすごく分かる」
隣でみっちーが、手のひらをしきりに握りなおしていて、あ。何か言いたいことがある時の仕草だ、と思った。そのせわしなさと規則性は、イワシが延々と水槽の中を旋回している姿と重ねられた。やがて、あのね、という声が聞こえた。
「私、あれから自動売買ツールのこと調べ直したの。瞳にはああいう風に言ったけど、やっぱり気になっちゃって。そしたら、それまでは気にならなかったような、利益率のこととか初期費用のこととか、おかしい部分がたくさん見えてきちゃって。うそだ、あんなに素敵な人たちが勧めてくれたものが詐欺なわけないって思ったけど、でもやっぱり違和感は消せなくて。それで、とりあえずFXのことは考え直させてくださいって連絡した。私からお金を取りたかっただけなんだって思うとむかつくけど、素敵な人たちだったなって気持ちは変わらない。おかしいよね私」
「おかしくないよ、よかった。考え直したんだ」
光を満遍なくまとった巨大な生命の渦は、規則正しく美しい。「群れと同じ方向に泳ぐ」ことを絶対的な正しさとして遺伝子に組み込まれていて、それが生きることに直結しているイワシが、今の私にはとても羨ましかった。
「私、瞳が浮気されてるって聞いたとき、どうしてそんな最低な男とすぐに別れないんだろうって思ってた。でも、そう思えたのは私がそのことに関してはたまたま一般論の中にいられたからに過ぎないって気づいたんだ。一般論のいう正しさの中では、浮気って正しいことではないから、自分が安全な多数派の中にいるときは、正しくないことを思いっきり否定できるの。でも、ふと自分に置き換えたとき、信頼してる勉強会の人たちに詐欺されてるかもしれないってなって、私は簡単に最低な人たちだな、なんて思えなかった。自分のこととなると、びっくりするくらい弱くて一貫性なんてなかったし、自分が一般的には間違っていることはわかっていても、自分なりに守りたいものが確かにそこにあった。そういう葛藤が、瞳の中にもあったんだなってことが今なら痛いくらい分かるよ」
私は、イワシが旋回するのをただ見つめながら、右回りなんだ、と思った。みっちーの言っていることはよく分かるけど、なんだか面倒くさい。私の守りたいものは俊介との日常。だから見たくない部分には蓋をする。それで放っておいてほしい。放っておいてくれないのなら、私のこの俊介をどうしようもなく好きな気持ちをどこかに持っていって。私は独り言のようにつぶやいた。
「私、イワシになりたいな。俊介が浮気していても私は俊介と別れたくはない、それが私の意志だけど、その意志は群れがいう正しさとはかけ離れてるんだもん。その中で自分なりに葛藤するのってすごく疲れる。だったらいっそイワシみたいに、本能で群れの正しさに適応できるようにつくってほしいな」
「そんな悲しいこと言わないで。自分なりに向き合って葛藤することってすごく大切だと思う。でも、今の瞳は現実から逃げてるだけ。それも一つの選択肢ではあるけど、やっぱりちゃんと全部知った上で葛藤すべきだと思うの、まあ一般論に過ぎないけどね。だから今日、瞳を水族館に無理やり誘ったの。一般論って個人の経験の結晶とも言えるから、結果的には正しいみたいなところも少なからずあると思うんだ。だから、見たくない部分も見たうえで正しい形で葛藤はしてほしい」
その時、イワシの奥に見覚えのあるシルエットを見た気がした。細身で少し猫背。円柱状にそびえたつイワシの水槽のちょうど裏側を、おそらく俊介が通ったのだ。
ほとんど反射で顔を下げてしまったので、みっちーが異変に勘づいた。
「なに、え、あれ、瞳の彼氏じゃない? 白のボアジャケット。こっちにくるよ」
まさか本当に鉢合わせするとは思わなかった。これだけ人がいれば会うこともないだろうと思っていたのに。いざ目の前にしてみると、浮気しているところを見たくないという気持ちよりも、自分がここにいることを知られたくないという気持ちの方が勝った。私はキャップを深くかぶり、ただ膝小僧を見つめた。
もしここにいることが知られたら、こそこそ後をつけてる自分はもちろんみじめだし、浮気がばれてわかりやすく動揺する俊介もみじめ。そんなみじめな二人にはなりたくない。バナナハウスの六〇一号室で抱き合って眠る、幸福な二人こそが私の見たい夢。
「ああ結局私、自分を守りたいだけなんだな」
とつぶやいたその時、みっちーに激しく体を揺さぶられ、思わず顔を上げてしまった。
「瞳の彼氏の横にいる女、女子高生なんだけど! しかもめっちゃギャル!」
じょしこうせいのぎゃる ジョシコウセイノギャル 女子高生のギャル
脳内で処理するのに一定の時間がかかった。女子高生のギャルだと?
俊介の隣を歩く女は、茶髪のロングヘアを器用に巻いて遠くから見てもわかる濃いアイメイク、着崩した制服姿は瞳の学生時代の姿とは真逆とも言っていい、確かに正真正銘のギャルだった。長いネイルで丁寧に彩られた真っ赤な爪は、俊介の腕に海藻のように絡みついていた。
「ふ、あはは」
瞳はただ笑った。不思議と、笑いが止まらなかった。
「瞳! なんでここに!?」
あまりにも見つめすぎたからか、俊介がこちらに気づいてしまった。私がどうしても見たくなかった、哀れで情けない、動揺を包み隠すことのできない表情で俊介がこちらに駆け寄ってくる。私は椅子から立ち上がった。
気づいたら走り出していた。人混みの中を、イワシの水槽の周りを、俊介から逃げるために、ぐるぐるぐるぐると走り回る。背後から「待って」とか「違うんだ」」とか声が聞こえるけれど気にしない。私の好きな声でそんな情けないこと言わないで。
俊介のすべてを愛していると思っていた。だけど、それは違った。私は、俊介の見たくない部分に蓋をして、愛したいところだけを愛して、俊介のすべてを知った気になっていただけだった。いつだって、自分の好きな俊介を、自分の好きな二人の関係を守るのに必死で、好きだと言った時に好きだと返してくれないことも、彼の不審な行動も、都合のいいように解釈していただけだった。
現に今、私は俊介が女子高生と並んで歩く姿を見て、心の底から幻滅したのである。よりによって女子高生? しかも私よりよっぽど頭の悪そうな女。こんな女と浮気されるなんてまっぴらごめんだ、と。俊介と女子高生の接点といえば一つ思い当たる節がある。俊介が週三でやっている塾のアルバイトだ。果たして塾にこんないかにもギャルな女が通うものなのかは分からないが、おそらくそこで手を出したのだろう。蓋を開けて現実を見てみれば、こんな男に心酔していた自分が心底情けなかった。
だけど、だけど彼を愛おしく思う気持ちも並行して顕在していた。この気持ちがどんなに恣意的なものであるとしても、彼の首筋の匂いや髪の柔らかさ、手の温度を思うとどうしようもなく愛おしい。雨の日は、彩度の低いあのワンルームで一緒に目覚めて、早起きできなかったことを一緒に悔しがりたい。でも雨だしこんな日が一日くらいあってもいいよね、と揺れるまつげは、あなただから素敵。
私は、自分が分からなくなっていた。イワシの水槽の周りを何回走っても、私は彼をどう思っていて、これからどうしたいのか、全く見当もつかなかった。
その時ふと、イワシの水槽に意識が向いた。銀の粒が巨大な渦を巻く。正しさに従順な生命の結晶。走る私の横で、イワシは私とは逆向きに旋回しているのであった。
「あ、私だけ左回り」
群れの中で、私だけが葛藤を抱えていた。私だけが私の心に従っていた。私だけが自分の意志で左回りに人混みの中を泳いでいた。自分の気持ちと真っ向から向き合う私は、群れからははぐれてしまっているけれど、とても美しく、強い何かになれている。見たくないものに蓋をするのは楽だけど、どこか納得できない自分がいて、気持ちよく眠れなかった。今、私は私の意志で葛藤できて、私の意志で決断できる、なんてすばらしいことだろう!
私は立ち止まり、俊介の方を振り向いた。
「俊介、話をしよう!」
【おわり】