【最終選考作品】少女はサファイアの涙を流す(著:荒野羊仔)
幾重にも重ねられた薄絹のヴェールのような夜の帳が一枚ずつ剥がれ、埃っぽい部屋に光が射し込む。やがて光は埃に反射し部屋全体を満たし、静謐な朝が訪れる。
「おはよう、ミリアム。昨日はよく眠れたかな?」
「はい、旦那様」
着替えを用意しようと伸びをすると欠伸が溢れそうになる。慌てて口をつぐむも空しく、カランと音を立てて生理的な涙が落ちた。透明のサファイアは窓から射し込む光を眩しいくらいに反射している。
旦那様は気負わなくてもいいんだよ、と優しく頭を撫で、小さな宝石をつまみ上げた。
「君の流す涙は本当に綺麗だね、心が澄んでいるのだろう」
旦那様はサファイアを光に翳すと、眩しそうに眼を細めた。
宝石の涙を流す少女、なんて言うと酷い境遇を想像するでしょう。確かに酷い目にあったこともあるけれど、今は幸せに暮らしている。
優しい旦那様。素敵なお屋敷、穏やかな日々。だけど、たったひとつ、この世界には足りないものがある。
窓の外、丹精に整えられた庭が朝日に照らされ、花々持つ美しさを輝かせている。
きっと、私たちは違う景色を見ている。彼が見ているのは屋敷の内から見る光景に過ぎないが、私が見るのはあの頃小高い丘から見た、世界の風景。あの頃、燃えるような朝焼けを見ても何を思うこともなかった。思い返せば何と美しい景色だったのだろうと、カランと、小さな淡い暁色の涙が零れてくるのだ。
「いつか悲しみが癒える日が来るといいのだが」
私の境遇を慮っての言葉。だけど今が悲しいからとて、幸せだった思い出は幸せでなくなるだろうか。今が幸せだからとて、悲しみがなかったことになるだろうか。
哀しみの涙は夜の色に。嬉しい涙は暁の色に。旦那様は、淡い色の宝石しか見たことがない。
*
私は小さな山間の村に生まれ育った。農作をして暮らす、どこにでもある閉じた村だった。この力は、生まれつき備わっていたらしい。子供の泣き声が聞こえると、どこから現れたのか部屋の中には小さな砂がザラザラと足にこびりつく。私の産みの親である母は、泣き声を上げても水分を流さない子供を何か得体の知れない生き物なのではないか、我が子にとってかわった化け物なのではないかと訝しむようになった。とは言え、早く育てて仕事ができるようにならなければ一家の食い扶持は稼げない。いかなる化け物であったとて、仕事ができるのであれば大した問題ではない。いつか正体を現したら、その時にこそ殺せばいい。父はそう説き伏せたという。
子供が成長するにつれて砂の粒は大きくなっていった。そうしてその砂に色があることに気付く。ある時は透明で、ある時は明るい暁の色。そしてある時は深く青い、夜の色。それが宝石であると気付くのは必然だった。母は外では決して泣かないようにと言いつけた。
村には時折行商人が訪れた。母は少しずつ彼と打ち解けていき、ある時、母はその行商人にこっそりとそれぞれの色の石を見せた。彼は全ての石を注意深く観察すると、これらの色の違う宝石は、全てサファイアなのだと言った。行商人曰く、サファイアは青色が最も価値が高く、次いで色のある石の価値が高く、透明の石には価値がないのだと言った。行商人は青色の石にこれまでに見たことがないほどの大金を支払い、これよりも大きな宝石が出てきたらまた見せてほしいと言い残し、去っていった。
その日を境に私の生活は変わった。私は家から出ることを禁じられた。仕事をするよりも、泣いた方が金になるからだ。両親は私に様々なことを試した。どうしたら青いサファイアを出すようになるのか。そうして色の法則に見当をつけていく。透明の色は欠伸をした時などの生理的な涙。暁のような色は嬉し涙を流した時。そして青い色は、悲しみを感じた時。両親はもっと青い石を、と望むようになり、私を悲しませるために工夫を凝らすようになる。
閉じ込める。家から出さない。詰る。無視。殴る。蹴る。首を絞める。食事だけは求める以上に与えられた。食事を与えなくて宝石が出なければ、意味がないから。両親はありとあらゆる趣向を凝らし、青色の涙を流させた。それが数年続いた頃、とうとう涙が枯れてしまったのか、どんな刺激にも反応しなくなった。
両親は宝石を出さなくなった私を無価値だと言った。何のためにお前を生かしておいたと思っている。お前は化け物だ。化け物なら化け物らしく、最後くらい役に立ってくれ。
両親が最後に掛けた言葉が、それだった。涙は、ひとつも流れなかった。母はこれまで行商人がどれほど迫ろうとも、どこから宝石を調達したかを頑なに語らなかったが、私が宝石を出さなくなった途端にあっさりとその出所を吐いた。
商人の旦那、実はあんたに今まで売っていた宝石はこの娘が出していたんですよ。そんな話信じてもらえないだろうから隠していたんですが、ええ、ひょっとして都会で見世物にした方が儲かるんじゃないかと思いましてね。宝石の涙を流す娘なんて、いい客寄せになるんじゃあありませんか? 我々はわずかばかりの宝石を売って慎ましやかな生活をしておりまして、貯まった石はほらこんなに。出すのには条件がありますので今すぐお見せすることはできませんが、娘から出るものでなければ、田舎の農夫がどうしてこんなに貯められましょうや。この娘は金の卵を産む雌鶏でございます。どうかこの娘を引き取っていただけないでしょうか。
行商人はその言葉を丸々信じたわけではない。この農夫たちは口減らしにしたいのだと考えた。行商人にとって娘は新たに得た商品のひとつに過ぎなかった。もし本物なら、一躍金持ちになれるに違いない。もう過酷な行商などをせず、辺鄙な村になど来なくていい。もし偽物だとしても、年頃の娘はそれだけで金になる。ここのところ、農夫たちは自分たちの畑もろくに耕さず金に物を言わせ他の者に押し付けていた。その振る舞いは狭い村で彼らを孤立させるには、充分すぎた。
そうして私は、宝石の涙を流す少女として行商人に売られた。
荷馬車の荷台、手枷と足枷をつけられながら揺られる。小さな村の外で、これからどんな生活が待つのか、見当もつかなかった。それも全部、どうでもよかった。両親から受けていた仕打ちとどちらが辛いかなんて、分かりきっていた。今のこの気持ちに比べれば全て、どうでもいい。
きっとこの宝石は、私の心を削り取っているのだろう。鮮やかな色に輝く宝石が零れ落ちる度、私の中の綺麗なものは全部、削げ落ちていってしまうのだ。
荷馬車は時折馬を休めながら、数日かけて山道を降っていった。行商人は時折水と食事を用意したが、私はそれを受け取らなかった。親に売られた娘が、生きることを望むはずがなかった。行商人としては金の卵を産む雌鶏を死なせるわけにはいかず、いくら拒もうが無理矢理に私の口に捩じ込んだ。私はそれを全て吐いた。やがてそれが何日も続くと、貴重な食料を分けてやろうと思った俺が馬鹿だったと、流石の行商人も私に構わなくなった。
瞼を閉じて荷馬車の揺られるままに身を任せる。この馬車は一体どこへ行くのだろう。きっと行商人の話でしか聞いたことのない、大きな街に行くのだろう。小さな村に居た頃にはあんなに望んだはずなのに、今は全く嬉しくない。
きっとこのまま死んでしまうのも、悪くない。生きていることより辛いことなんてない。私が望むことって、一体なに? そんなものあるの?
そう自分に問いかけた時、たった一つの単語が頭を掠めた。
海。
いつか、行商人は青色の宝石を海に喩えたことがあった。全部が塩水でできていて、村のある山々全てをつなげたよりももっと大きい、一面の青。一目でいいから、本物の海を見てみたい。
このままこの馬車に乗っていて、私は海を見る機会はあるだろうか? きっと、ない。これまでのように閉じ込められるか、見世物にされるだけ。自由などない。
ならば、もしも一縷の望みをかけるなら、今この馬車から飛び降りたら、逃げられるんじゃないか。もし失敗しても死ぬだけだし、生きているより、ずっといいのではないか。
幸い、行商人は馬を休ませる時に生きているかを確認するだけになった。山道は悪路で、ガタガタと大きな音を立てながら道を進んでいる。私一人が飛び降りたところできっと、物音の一つも聞こえやしない。
鎖を引き摺りながら幌の境目を目指す。幌を捲り上げると荷台の後ろは土埃が舞っており、思わず咳き込んだ。よろめきながら荷台の後ろに立つ。轟々と音を立てながら馬車は進んでいく。目まぐるしいほど早く景色が変わっていく。
スゥ、と息を吸い足の裏に力を込め、勢いよく飛び降りた。飛び降りる瞬間、体を丸め頭を抱える。体は肩から地面に落下し、ものすごい勢いで進行方向の後ろへと転がった。足枷の鎖が擦れて大きな音を立てる。行商人が気付いていないか確認して、すぐにでも街道から離れないと。なのに痛みのあまり気絶しそうだ。薄れゆく意識の中で、馬車が遠ざかっていく音が聞こえていた。
*
額を何か冷たいものが撫でる感触がする。遠い昔の記憶を掘り起こされる。ほんの二、三歳の頃の話。母が風邪をひいた私の額に、水に浸した布を当てていた。熱を帯びた額にはその感触が心地よく、母もこの時ばかりは優しかった。汗をかいた肌を濡れた布でくまなく拭いてくれた。たまには風邪をひくのもいいかな、と思ったのを覚えている。熱に浮かされた私が見た夢なのか、本当にあった記憶なのか定かではない。次の日にはいつもの母に戻っていたから。
冷たい感触は額から頬へ、そして首筋へとつたってくる。不意に、左手の手のひらが暖かい感触に包まれる。ぼうっとした頭が、その感覚に身を任せている。いつか感じた春の陽気のように暖かくて、心地がいい。このまま眠っていられたらどれだけいいだろう。左腕をつたっていた冷たい感覚が肘に到達した瞬間、鋭利な刃物で刺されたかのような痛みを訴えかけてきた。
「??ッ」
声にならない声が上がり瞼が開かれ、微睡みから目覚める。目の前には見知らぬ男、そしてふわふわの犬がいた。
「起きたか。起きたなら自分で拭け」
濡れた布をぶっきらぼうに渡して、彼はそっぽを向いた。それが彼、リュカとフィルとの出会いだった。
私は彼に背を向け体を拭いた。擦り傷はいい。ただ、全身の至るところにある痣は彼に不快感を与えていないだろうか。ちらっと振り返ると、彼は背を向けながら小刻みに足を揺らしソワソワと落ち着かない様子だった。落ち着かないのはどうやらお互い様のようだった。
一方犬は新しい客人に興味津々で、飼い主の様子を気にすることもなく、周りをうろうろしている。思わず笑みが漏れた。
頃合いを見て、彼は薬草を差し出した。
「擦り傷に効く」
彼はこちらを向くように促すと手枷を慎重に外しはじめた。
「お前、奴隷か」
直接的な物言いに、少したじろぐ。たしかに親に売られた身ではあるけれど奴隷、なのだろうか。見世物に、とは言っていたけれど、正しくは何と言えばいいのか、分からない。
「似たようなものかな」
カチャカチャと、金属音が響く。
「酷い怪我だ。何故逃げた」
「……死ぬ前に、海を見てみたいと思ったから。どうせ死ぬなら、死ぬかもしれなくても逃げた方がいいかなって」
「行くあてがないなら、共に来るか」
「願ってもないこと、だけど……」
私に何か、返せることがあるだろうか。涙も出ない、私に。
「仕事を手伝ってくれればいい。過酷な仕事だが」
手枷が外れて、数日ぶりに自由になる。彼は次いで足枷を外し始める。俯いたまま彼は問う。
「お前、名前は」
「ミリアム」
名前を名乗るのなんて、いつぶりだろう。家から出ることもなく、両親にすら呼ばれなかった名前。私にも名前があったのだ。海の雫を意味する名前が。
「俺はリュカ。こいつはフィル。羊飼いをしている」
フィルは待っていましたとばかりに、高い声で一声鳴いた。
羊飼いの仕事は過酷だ。草原から草原へと昼夜を問わず歩き回り、羊を食べ、毛にくるまって寝た。ほとんど人と関わりを持たず、一頭も失くさないように気を張り詰めて過ごす。定住先もなく、過酷な仕事だった。初めはついていくので精一杯だった。痛む体を引きずりながら必死に歩き、時にリュカの手を借りながら険しい山を登った。
だけどその日々は喜びに満ちていた。人生のほとんどを家で過ごした私にとって世界は広く新しく、毎日が長い旅をしているようなものだった。
リュカは口数も少なく、最低限、必要なことしか話さなかった。リュカは私の生い立ちを聞かなかったし、私も彼が何故羊飼いをしているのかを聞かなかった。口を開けば罵倒だった両親と比べるべくもなかった。二人の間に横たわる沈黙は、何よりも心地よかった。
ある日のこと。羊が岩を舐めているのを見た。初めは気のせいかと思ったが、よくよく観察していると、別の羊も同じ岩を舐め、周囲に散った小さな石の欠片を食べていた。夕食時にリュカにその疑問をぶつけた。
「あれは岩塩だ。羊も塩を摂らないと病に罹る。人間もだ。干し肉に塩をかけるのは保存のためだけじゃなく、塩を摂らないと死ぬからだ」
干し肉を嚙みながらリュカはそう答えた。
「塩って、海でしか取れないんだと思ってた」
「海からも取れる。元々この辺りは昔海だった。塩が残って固まったのが岩塩」
「こんな山の上なのに、海だったの……?」
「大地は移動する。何百年も、何千年もかけて山は海になり、海は山になる」
何百年、何千年……。途方もない時の奔流にくらくらする。そうか、ここも海だったんだ。いつか、行けるかな、海に。何年も、時を積み重ねていけば、いつか。
そうしてしばらく経った頃、私はまた宝石の涙を流すようになった。暁にも黄昏にも似た、淡く輝く、橙色とも桃色ともつかない色。どこか岩塩にも似ているそれを、私はとても美しいと思った。
涙が宝石になることを知っても、リュカは私に何を要求することもなかった。生きろということ以外は。今更死ぬつもりなんてない。だって今が、生きてきた中で一番幸せなのだから。それに、生きるだけで、瞬く間に日々は過ぎ去っていった。宝石はリュカに渡していたが、彼はそれを売る素振りはなかった。しかし羊を飼うだけでは生活は立ち行かない。路銀が要る。時折、羊の毛を紡いで織ったものを売って日用品を買った。リュカは他の人との関わりは最小限に留めた。私が人との関わりを恐れていることを、きっと察してくれていたのだと思う。
そうして何年かの時が過ぎ、リュカは病を患った。街に降りよう、と何度も諭したが、お前一人で羊の面倒を見れるわけがない、と言い張り、体に鞭を打ち続けた。せめて宝石を売って薬を、と言ったが、リュカは頑なに売ろうとしなかった。一度換金してしまえば足がついてしまうから、その水準に慣れて緩慢な堕落が始まるからと。私がどれほど涙を流して頼もうと、彼は頑として首を縦に振らなかった。
星の瞬く冬の夜に、リュカを看取った。リュカは死ぬ間際に、羊を、とだけ言った。リュカの荷物は少なく、共用のものを除けば、僅かばかりの路銀の入った皮袋があるのみだった。躊躇いながら皮袋を確認したが、彼に渡した宝石はひとつも見付からなかった。ああは言ったものの、きっと二人で生きていくのは難しかったのだろう。涙は出なかった。
散々迷った末に、次の冬が来る前に、私は街に降りることに決めた。季節の割に涼しい日々が続き、植物の育ちが悪かった。もう冬を越すことができないほど羊は数を減らし、売ることもできず立ち行かなくなった。冬を越せない弱ったものから順に屠り、糧とした。一人で皮を裂き肉を断つと、内臓の辺りで硬い音がした。腹を開くと大小様々な宝石が詰まっていた。彼に渡した石だった。彼の最期の言葉の意味を知り、初めて声を上げて泣いた。家を出て以来、初めての青い宝石が、心の一部が剥がれ落ちていく。
私は、たとえ追われて生きる生活になったとしても、リュカと生きたかった。リュカさえいればそれで、よかった。そう伝えたくても、もう彼は居ない。羊を屠る度に出てくる宝石を皮袋に詰めた。いつしか古い皮袋は路銀よりも宝石が多くなった。
私にとって、リュカは家族だった。私はまた家族を失くしてしまった。フィルを抱き寄せ、その毛皮に顔を埋め、また泣いた。
*
街へ降りることを決めるまで随分躊躇った。もう羊飼いは続けられない。だけどフィルとは離れられない。もう家族を失うことには耐えられなかった。だけど住み込みの仕事、それも犬を連れてなんてそうそう見つかるはずもなく。
諦めて次の街を目指そうとした時、情報屋が思い出したように、奥から古びた一枚の紙を取り出した。
「一つだけ思い出したよ。郊外だから応募がなくて何年も求人が出たままになっている屋敷がある」
地図には歩いて三日は掛かる距離が記されていた。ここなら、ひょっとして。一縷の望みを懸けて私は屋敷を目指した。
宝石の涙について、誰にも知られなければ。人と距離を保てば、密やかに暮らせるだろう。もし宝石の涙を流すことを知られてしまっても、閉鎖的な屋敷であれば、家に居た頃と似たような生活に戻るだけ。フィルさえ居るなら、大丈夫。もし一緒に居られなかったら、また逃げ出してしまおう。そう思いながら三日間歩き続けた。
「ここで働きたいって? 神が遣わしたとでも言うの? 素晴らしいわ!」
屋敷を訪ねると、拍子抜けするほど簡単に仕事にありつけた。ちょうど長年勤めた使用人が辞めることになり、働き手を求めていたのだと言う。私には部屋を与えられ、フィルには庭に小さな小屋が用意された。
挨拶をするために通された部屋には紫水晶の原石があった。初めて本物を見た私は、中央に向かって生える姿を棺のようだと思った。旦那様は病弱で、外に出られない代わりに、美しいものを集めているのだと言う。
「初めまして。どうかよろしくね」
旦那様は何も事情を聞かず、ただ受け入れてくれた。
ここはとても穏やかだった。日が昇ってから日が落ちるまで働く。目の前の仕事をこなせば明日は訪れる。明日に怯える必要がない。食事も出るし、フィルに会うことも許される。洗濯物を干し終えた後に、フィルと日向ぼっこをするのが好きだった。
しばらく暮らすうちに、私はすっかり油断し、旦那様の前で宝石の涙を落としてしまった。旦那様は私の体質を知っても、無理に取り上げることはなかった。私が自分の意思で手渡したものだけをコレクションの一部に加えた。ただ、私が価値がないと捨てようとした透明の宝石は捨てることを咎められ、コレクションの一部に収まった。旦那様は私に宝石を出すよう強要することはなかった。どんな目にあっても構わないと思っていたのに。私にとって、この上ない僥倖だった。やがて穏やかな日々の中で、淡い色の涙を流すようになった。だけど。
夜が深まり、屋敷中の人が眠りに就いた頃、私はそっと寝台を抜け出す。冷たく軋む床に腰を下ろし、ベッドの下へ手を差し入れる。コツン、と微かな音を立てた、真っ青な、大粒の涙。あの日流した、悲しみの深い青。幾夜を重ねても、朝が来なければ永遠に増え続ける悲しみの宝石。海のように一面に広がる青色の宝石。青色の宝石は貴方への贈り物。青色の宝石をちりばめた床の上で、私は貴方を思う。リュカ。私の唯一の家族と呼べる人。けれど貴方も、もうどこにもいない。
どんなに穏やかで幸せな日々も、貴方のいない悲しみを癒やすことはできない――。
ある夜、青色の宝石を広げているところを旦那様に見つかった。物音を不審に思い、部屋の扉を開けたのだ。青い宝石には価値がある。いくら旦那様でも、目が眩んでもおかしくない。私は身構えた。この青は、リュカに捧げた悲しみだ。誰にも渡すことなんてできない――。
「起きていたのかい。悪いことをしたね。体に障るから、早く寝るように。宝石は他の子たちに見つからないように、しまっておくといい」
想定してしていたのとは違う、拍子抜けする台詞だった。本当にただ私を心配して、物音の正体を確認しただけのようだった。
「あの……、怒らないんですか? 隠していたこと」
この家に来てから、夜に流す涙以外は全て、旦那様に渡していた。確かに、旦那様から要求されたわけではないけれど、それ以外に私を置いておく理由が思いつかない。
「怒りはしないさ。宝石は君の心なんだから。君の好きにしたらいいんだ。心が無価値ということはないから、捨てるくらいならコレクションに加えさせてほしい」
私の心に価値があるなんて。そんなこと信じられるわけもない。価値のある宝石にしか意味がないと、私の両親は何年も何年も、体感時間にするとその何倍もの時間を費やして、青い涙を流させ続けたのだ。その青色と、透明の宝石の価値が等価であるわけががない。だったら、私は何のために生かされてきたというの――?
「だって、青い宝石が一番価値があるって」
「ああ、確かに青色が有名だがね。一番価値が高いのはパパラチアサファイアという、橙と桃色が混ざった色だ。これは時に青色のサファイアの方を上回る。異国の言葉で蓮の花の蕾を表す。君にとっては喜びの涙かな。悲しみよりも、喜びこそが最も価値がある」
暁の、色――。
リュカと過ごした日々に流した色の涙は、暁と雲の境目のような、淡く、眩い――。
胸を焦がすような、眩い夢のような日々が、走馬灯のように駆け巡る。
リュカ、リュカ、リュカ――。
何度も彼の名を呼ぶ。貴方と過ごした日々は、何よりも、美しく輝いていたの。何よりも、価値のある日々だったの――。何よりも、幸せだったの――。
声にならない叫びが、口から漏れ出した。暗い部屋の中、大粒の涙が、音を立てて床に落ちた。
その宝石の色は、暁にも黄昏にも似た色をしていた。
*
あの夜から数日後。旅の支度を整えた私は、屋敷の庭に立っている。傍らにはフィルが寄り添っている。彩り豊かな花々は、晴天の下そよ風に揺られている。この美しく整えられた花園とも、今日でさよなら。
あの夜一晩中泣き続けて、私は屋敷を出ることを決めた。リュカは願った。私が生き続けること。リュカと出会ったあの日に抱いた願い、海を見たいという願いを、叶えにいこう。
リュカのために流した青色のサファイアを、売って旅の資金にすることにした。換金は旦那様が仲介してくれた。確かに宝石は私の涙ではあるけれど、手放したところで私の悲しみは、決してなかったことにはならない。皆そうやって生きている。私の悲しみも、私の胸のうちにあるのだ。
愛しい日々の縁に、暁の色のサファイアだけを持っていく。私にとって一番価値のある、リュカと過ごした日々の宝物。
杖が地面をつく音がして、振り返る。旦那様が立っていた。
「お世話になりました」
深々と頭を下げる。旦那様が温かく迎え入れてくれなければ、私は今日まで生きてはこられなかった。リュカを亡くした私を生かしてくれたのは、旦那様だ。
「こちらこそ、楽しい日々をありがとう。君が来てくれたお蔭で、退屈な日々も色付いたよ。困ったことがあったら便りを寄越しなさい。いつでも力になるから」
「旦那様……。本当に、本当にありがとうございました」
もう一度頭を下げる。涙が土の上に落ちる。日の光に照らされて、一際明るく輝く。いつもより桃色に色付いた、涙。人は感謝でも涙を流せるんだ。
「これだけはもらえるかな? 君が私のために流してくれた涙だからね。君の心は美しい。……本当に」
日に透かして見るそれは、本当に美しいと思えた。屋敷で過ごした日々も、こんなにも美しく輝いていた。
街路を幾分か歩き、途中で振り返って旦那様に、屋敷のみんなに手を振る。本当に良くしてくれて、ありがとう。何度も振り返って、何度も手を振る。みんなの姿が見えなくなるまで、そうしていた。
屋敷が見えなくなって、ようやく前を向く。まずは海を目指そう。どんなに長い道のりだって大丈夫。リュカと、フィルと、羊たちと、険しい山々を渡ってきたんだから。リュカと過ごした明るい日々の、一等輝く宝石を胸に抱いて。一面に広がる、青い海を目指して。私の旅は続くのだ。
【おわり】