【佳作】ゆにこぉん・プリン(著:白石 智)
容疑者は無職の二十代男性――。もし自分がいま罪を犯したらニュースでそう読み上げられるんだろう。
男性は日中車で徘徊しており――。元小学校勤務の事務員で、現在は無職――。
どうして犯罪のニュースは無職や非正規を強調するんだ。職業差別を助長して、ああまた無職かってわかりやすいタグ付けにみんな納得するに違いない。だって少し前まで自分もそっち側だったから。
運転席のウインドウをノックする音に、心臓がバクンと跳ねあがった。ほんの少しだけ窓を下げると、初冬のひやりと冷たい空気が車内に入り込む。
「あの、ずっと駐車場にいますよね。具合とか悪い? エンジンふかしっぱで大丈夫ですか?」
すき間から若い男がのぞきこんでくる。髭で刈り上げの男は、ユニコーンのポップなイラストが描かれたエプロンを身に着けていた。道の駅の人間だろうか。
「すみません、もう行きます。大丈夫ですから」
あわててアクセルを踏み、道の駅「かつやま」の無駄に広い駐車場を横切って国道に出る。同じような民家が続く、どこにでもあるような田舎の景色。実家から一時間かけて市を跨いだ道の駅まで足をのばしたのに、またひとつ行くところがなくなった。
三年勤めた仕事を辞めて、一か月が経つ。その間、僕はこの軽自動車で日中を過ごしている。
銀杏の葉で埋もれた神社の一角に車を停めた。Wi—fiもないのでスマホは触らずシートを倒し、眠くもないのに寝ころがる。ほこりっぽいカーエアコンがフル稼働して、洞窟の風みたいな音を立てている。後部座席にはコンビニのビニール袋、くせのついた文庫本、ティッシュ、くしゃくしゃの上着。それから求人雑誌。散らかっているのに、いや散らかっているからか、安心する。車の中は自分の巣のようだ。動物が自分の巣の中で、痛みを丸まってやり過ごすように。仕事をしているふりをして暗くなるまで車で過ごし、両親の待つ家に帰る。
母親から電話がかかってきた。むくりと起き上がる。
「まだお仕事は終わらないの。あなたも毎日忙しいとは思うけど、今日ぐらいご飯一緒に食べましょう。家族は一緒が一番なんだから」
ツキリとみぞおちがへこむように痛む。
「もうすぐ帰るよ。今日は先生方が遅くまで職員会議だったからその後の清掃をしていたんだ。大変だった」
「そう。お掃除は女の人にお願いすればいいのよ。優しいのはあなたのいいところだけど、自分の仕事だけしていればいいんだから」
ごく自然に嘘をつくことにも慣れてしまった。後部座席に脱ぎ捨ててあった藍色のカーディガンを身に着けて、アクセルを踏み神社を出る。街灯もない道は都会の繁華街よりもよほど危なく、ハイビームに切り替えた。
先ほどメールボックスを確認したら、先日応募した求人は書類審査で落ちていた。地元では新しい求人を探すほうが難しいのに。むしゃくしゃする気持ちが消えずアクセルを踏み、誰もいない道を走る車のスピードが上がる。
無職になったことは誰にも言っていない。両親にも、友人にも。友人に誘われていざ会ったら「いま何してるの」と聞かれるのが怖くて、メールも返信していなかった。
黒い影の塊に息を呑み、既のところでブレーキを踏んだ。人影かと思ったものは田んぼの脇に放置されたリヤカーだった。
冷や汗の浮いた額をハンドルにくっつける。もし人を轢いていたら、僕は容疑者の無職男性だ。そして警察に捕まって、黙って仕事を辞めたことが親にばれる。自分で言うよりも、そのほうがいっそ楽かもしれない。どうしてこんなことで悩んでるんだろうと思いながら、両親の待つ家に帰った。
「あの、お兄さんこの前もいましたよね」
車の中で菓子パンをかじっていたら、以前と同じエプロンをした若い男に声をかけられた。髭といい刈り上げといい、見た目は完全にHIPHOPなのに身に着けていたものはやはり、ユニコーンのファンシーなエプロン。
長居できそうなコンビニや隣町の図書館をローテーションしたが、Wi—fiがいちばん安定するのがこの道の駅「かつやま」だった。「かつやま」は新しくできた道の駅で市内では珍しく人気のあるスポットだ。とはいえ田舎なので平日昼間は団体で来るお年寄りのツアーか、近隣の小学生たちが訪れるぐらいだ。
若い男はにこやかで、長時間の駐車を注意しに来たわけではなさそうだった。
「良かったらぁキッチンカー出してるんで、デザートにプリン食べてきません? ここで店を出させてもらってるんですよぉ。試食もできるんで」
プリン? 見た目は焼き鳥屋だけど。
「いや、僕は……」
サイドミラーを見ると彼のものらしいキッチンカーが映っていた。板張りの外装に目の覚めるようなスカイブルー。のれんのように連なった三角形で彩られている。黒板のメニューには「ミルクプリンのみ」とあった。車体にも同じ七色のたてがみをした、ユニコーンが描かれている。
「遠慮しておきます。もうちょっとしたら車出すので」
「お客さん来なくて暇なんですよ。来てくれたらサービスするんでよろしくです」
「大変だね」
一人になってから、嫌みに聞こえただろうかと思った。実際に嫌みみたいなものだ。「大変だね」なんて、自分にはできないな、みたいな言い方をして。お前は気楽そうでいいよな、なんて意地悪な気持ちが嫌みになって口から出た。
この辺で後ろ盾もなくて、高卒じゃ目新しい仕事なんてキッチンカーぐらい――なんて一瞬でも思ってしまった自分が恐い。仕事が決まらないからって人に当たる、いつのまにこんな、ねじくれた人間になったんだろう。
食べかけの菓子パンをそれ以上食べる気にならず、ゴミ袋代わりのビニールに入れて後ろに放った。そろそろ後部座席を片付けなければ、車の中に虫が湧いて、母親に問い詰められるかもしれない。
しばらくぼんやりした後、ため息を吐いてからスマホを起動する。手慣れた動きでブックマークから求人を検索した。『事務員』や『正社員』で地域検索するが、新しい情報は更新されていない。
スクロールしていると、数分もしないうちに腹痛を覚えた。
まただ。
きりきりと絞られるような胃の痛み。倒したシートの上に芋虫のように背を丸めた。求人を調べているとなぜか起こる体調不良。
両親に黙ってることは悪いことじゃない。自分に言い聞かせる。仕事を辞めたって報告するのは後でもいい。次の仕事を見つければいいだけ。
なのに腹痛でろくな就職活動もできていない。焦ってばかりの自分は、ハムスターの滑車を回してるみたいだ。ハムスターは運動になるけど僕は何も生まない。
やらなきゃいけないのに、やらなきゃお前はこのままなのに。
いつもならスマホをしまって大人しくしていれば治まるのに良くならず、水を買おうと車から出た。駐車場を挟んだ道の駅がひどく遠く感じる。車から出てすぐ足が絡まってしまい、コンクリートに胸を打ち付けた。その場で腹を押さえる。脂汗がこめかみを流れた。
「――どうしたんですか」
駆けていく足音が聞こえ、意識がふっつりと消えた。
小学生のある時期、スイミングスクールへ行く時間になると腹痛を起こしていた。それも毎回。一度目は休ませてもらったが、スイミングの時間がやってくるたびに腹痛が起こる。
「そんなに毎回痛くなるはずがない。それは心が弱い証拠よ」
母親に腕を引いて無理やり連れていかれた。更衣室で苦しんでいるのを発見したコーチが母親に電話したけれど、母親は趣味の絵手紙教室にいて、連絡がつくまで救護室のベッドで丸まっていた。
スイミングスクールは仲の良い子がやめてしまって、一人になることが多かった。行きたくないと言えなかった、かわりに腹痛を起こした。子どもだった僕は母をがっかりさせるのが怖かった。
母は何から何まで僕の面倒を見た。朝ごはんの用意から進学先まで。僕は「真面目で良い子」が取り柄だった。母は過保護だったけど、それ以上に争いたくなかった。
地元の大学を卒業し、地元の学校に事務員として就職した。母は僕にもっと華やかなキャリアを望んでいたらしく不満そうだったが、ひとまず地元で就職できたことだけは喜んでいた。口数の少ない父が何を考えているかはわからなかったが、母親の中では息子が近くにいることは決まっていたようだ。
「もう晃一も二十歳を過ぎてるんだから朝飯ぐらい一人で準備させたらどうだ」
「なにいってるの。そんなわけにはいかないでしょう」
よくわからない言い分を言って、母親は自家製のマーマレードをバターの上に塗りたくり、それを僕の前に置いた。父が母に何か言ったのはそれきりだった。
いちばん下っ端の自分は誰よりも早く出勤し、先生方の机を磨き、ゴミ出しや玄関の掃除をした。電話や来客の対応に追われていると、本来の事務仕事に手が回らず残業するしかなかった。事務員の数は少ないのに、一人当たりの仕事量は多い。正規の職員が採用されず、辞めるまでの三年間ずっと下っ端だった。
軍隊でも人は厳しい環境にいると人格が変わると言うが、忙しすぎる職場もそうなのかもしれない。
ちょっとしたことで苛々するようになり、運転も荒くなった。保護者から一時間以上電話で詰められた日は涙が止まらなくなって、車の中で泣いてから職場に戻った。泣くにしても、学校の寒々しい、暖房のついてないトイレが嫌いだった。あのときから車の中は、安全地帯だったのかもしれない。
兆候はあった。いつもはしないような簡単なミスを連発し、上司に怒鳴られたが改善は見られなかった。その時期は事務員と教員が対立して、職場の空気も最悪だった。
三年経ったある日、腹痛で倒れた。病院で検査したが悪いところはなく、心因性の可能性が高いと言われた。
「僕よりも職場にはもっと忙しい人がいるんですが」
「早河さん、許容量は人によって違います」
慰められているのはわかったけれど、医者の言葉は気休めにはならなかった。むしろその後も悶々と考えた。許容量は人それぞれ。だとしたら、僕は弱い人間ということになるんじゃないか。
「ご家族にも今の状況をお話ししてみてください」
言えなかった。
――心が弱い証拠よ。
医者へ行った週明け、朝起きるともう腹が痛かった。朝食をお茶でなんとか流し込み、車に乗り込む。時間が経っても苦しいままで「休ませてください」と職場に電話した。すると、痛みは魔法のようにすーっと引いていった。職場に申し訳ないのと、自分の身体さえどうにもできないのが情けなくて泣いた。
誰にも言わず、退職代行を使って辞めた。
目が覚めると、網目状になった木の天井が見えた。胃の痛みは消えている。「大丈夫?」と聞かれて刈り上げの部分に入った虹のタトゥーが目に入り、ぎょっとした。あの若者がこちらをのぞきこんでいた。
「お兄さん平気? 駐車場に倒れてたよ。いま救急車呼ぼうかと思ったけど」
「すみません。救急車は大丈夫です……。本当にすみません」
なにが悪いかはわかっている。
道の駅のスタッフらしい人も出てきて具合を聞かれ「すみません、もう大丈夫です。ご迷惑おかけしました」と頭を下げた。ペットボトルの水をもらい、ありがたくいただく。ちびちびと胃に入れた。じっとこちらを見る若者の視線を感じる。もう一度頭を下げた。
「すみません本当に。迷惑かけてしまって」
「そんな、何回も謝らなくていいよ。あのさぁお兄さん、食べれそうやったらプリンいりません? 試食やってるんでよかったら」
「え?」
「プリン健康法です」
聞いたことない。外に出た若者はすぐに戻ってきて、瓶に入ったプリンを差し出した。
この見た目で、かわいいものを寄越すじゃないか。
プリンはジャムの瓶のように小ぶりで蓋は金色。ここにもユニコーンのシールが貼ってあり『ゆにこぉん・プリン』と印字されていた。黒のプラスチックで出来たスプーンが添えられている。
一瞬だけ腹のことがよぎったが、介抱してくれた若者の視線に押されるようにスプーンを手に取る。蓋を開けると、表面は雪のように真っ白な粉がかかっていた。粉以外の部分も真っ白で、ミルクプリンのみ、と黒板にあったメニューを思い出す。スプーンを差し込むとぷつりと膜が破れてとろりとした液体が流れる。ひと口ふくんで驚いた。思わずつぶやく。
「うまい」
濃い牛乳のうまみがとろとろと舌の上で溶けて甘みが染みこんでいく。そういえば甘いものを外で食べるっていつぶりだろう。
「うまいでしょぉ」
男は見た目に反して人懐っこそうな眼を細めた。
「牛乳は、このへんに牧場あるやないですか、 そこの茶色い牛から取れるミルクもらってます」
飲むように入っていくので、あっという間にガラスの底が見えてきた。とろっとしたミルクの液体が、流れる血と一緒に胃や心臓にまで届くような気持ちになる。固められたらいいのにと思った。ぐずぐずで弱い僕の心を、プリンのように固めてしまえば。
「……僕もプリン作れるだろうか」
「え、お客さん仕事探してる感じですか」
食いつかれ、するりと口から出た。
「忙しいのにとつぜん辞めちゃったんだ。親には仕事行ってるフリしてる」
余計なことまで言ってしまった。身近な人には口をつぐんでしまうのに、知らない相手には簡単に吐き出してしまう。インターネットで悩み相談を書くのに似ている。
「へー、偉いね」
「偉くはないよ。親には嘘ついてるんだから」
「いや、それは親に余計な心配かけたくないんでしょ。偉いですよ」
びっくりした。予想外の言葉に、若者の顔をまじまじ見た。嘘をついてることは親不孝だと思っていたから。驚きと、それからいま初めて、自分と話している若者の存在を認識したような気持ちになった。
「まあ親ってなに言っても心配するじゃないですか。言わないほうがいいことだってあるし。ぶっちゃけ何年経ってもうるせーっすよね。悪いことしたわけでもないのにね」
悪いことをしたわけじゃない。そうなのかな。辞めるときだってたくさん人に迷惑をかけて、結局自分のことしか考えられなかった。
目頭が熱くなって感情がぶれてしまい、あわててうつむいて腕に顔を押しつけた。どう見ても泣いてるのはばれている。けれど若い男はなにも聞いてこなかった。感情のぶれに見て見ぬふりをされる。そういう気遣いをされたのは初めてかもしれなかった。
「俺、平日の夜は工場で夜勤してるんです。意外と夜勤おすすめですよ。夜のほうが穏やかな人多いし、昼夜逆転で生活バランス崩しちゃう人はあれだけど、俺には合ってたかな」
彼は祖母と二人暮らしをしていて、休みの日や午後にキッチンカーで道の駅や県内の主要な駅を回っているそうだ。それを聞いて年下のHIPHOPな若者がずっと大人びて見えた。
「すみません」
「え、なにが?」
「キッチンカーなんて楽そうだと思ってたから。簡単に言っちゃって」
「ああ。実際ラクそうに見えるでしょ。俺だってラクそうだなぁって思ったから始めたし」
「そうなの? なんとなく……プリンが好きとか」
「屋台のおっちゃんとか、ガキ相手に商売して楽そうでいいなーって思ってたんです。まあ稼げそうってのもあったけど、実際は夜も働かないと回せないぐらい厳しくて。俺、頭で考えて商売しろって無理なんすよ。でもけっこう今、楽しいですよ」
パッケージを見て言った。
「なんで、ゆにこぉん・プリンって名前なの?」
「ミルクプリンだから。白い馬のこと言うでしょ」
それはペガサスのことじゃないだろうか。
駐車場に大型のバスが立ち寄り、小学生が団体で降りてくる。静かだった場所に活気が満ちて、若者は「そろそろ戻んなきゃ」と立ち上がり、自動ドアをくぐると外のキッチンカーに戻っていった。
――こんにちはぁ。
舌ったらずな幼い声がガラス越しに聞こえてくる。勤めていたときは、教員と事務員の区別がついてないから、子どもたちはみんな自分のことを「せんせー」と呼んだ。若い自分が珍しかったのか、興味しんしんな幼い眼がじーっとくっついてくるのを感じていた。
――なんで先生は、そーじしてるんですか。
――仕事だからだよ。僕は先生じゃないから。
――えー。せんせーになってよ。
――うちのせんせー怖いんだもん。
気が弱そうなのは子どもにもばれていて、舐められてるなと思ったけど、嫌な気持ちにはならなかった。落ち葉でいっぱいのゴミ袋を抱えていたとき「てつだいます!」って来てくれた子がいた。掃き掃除をしていたら手紙をもらった。
――せんせーこれよんでください。
キャラクターのメモ用紙をふたつに折りたたんだものを広げると「すきです」と書いてあった。大吉のおみくじも同封してある。すごいな、と思った。子どもにはこんなエネルギーがあるんだ。嬉しいとかよりも、素直に感心した。子どもの頃、クラスの女の子から手紙をもらったけれど彼女は早熟で、ほとんどの男の子に手紙を渡していたことを思い出した。彼女とどうにもならなかったけど、手紙は嬉しかった。勤めていたときのたわいもない思い出が、今になって出てくる。
就職活動をしたとき「やりがい」について考える機会があった。「やりがい」という言葉が嫌いだった。僕にはやりたいことがなかったから。全員が持っている前提で「やりがい」なんて曖昧な言葉で搾取されるぐらいなら、適当な仕事に就いて、感情を揺らさずに粛々と生きたい。やりたくもないことをやって、給料をもらい、社会に適応するライセンスをもらう。それでいい。悲しみはあるのに大きな喜びはない、うっすらとした絶望の中で生きていく。そう思っていた。
振り返ればあの仕事も悪くなかったと思える。子どもとのやり取りを懐かしく思う。
理由なんて後付けでいいのかもしれない。
生きてる理由も同じだろう。まっさらな状態でこの世に生まれ、環境の間で揺れ動きながら、どうにかして自分の人生をこねくり回す。生きがいもすべて、後付けで。
それに見つけられなかったとしても、いい。
退職届を出す前に、休ませてほしいと相談すればよかった。もう遅いけれど、自分の臆病さが招いたことだ。
外に出てキッチンカーに近寄ると、お客さんがはけていち段落したところだった。若者は自分に気が付くと、こっちに向かって手を振った。小ぶりの真っ白な瓶がずらりと並んだカウンターのそばまで来ると、ポケットから財布を出した。
「もうひとつくれないか」
「いいですけどぉ、うち一種類しかないよ。気遣わなくてもいいっすよ」
「いいんだよ」
正直いってプリン二個はしんどい。でも自分の金を払って買いたかった。若者はわざわざキッチンカーを出て、直接紙袋に入った瓶を手渡してくれた。「今日はもう商品なくなったから。最後のお客さん」礼を言ってスプーンとプリンを受け取った。
「どうして最初、駐車場にいた僕に声をかけたの」
「流行んねえから手当たり次第声かけてるんですよ」
「それだけで何回も、車の中で引きこもってる怪しい男に声かけるものなのかい?」
うーん、と若者は悩むように左右に首をひねってから、言った。
「ときどき隅っこに停めてたでしょう。おんなじ感じでちょっと前に、車の中で生活してるおじさんがいたんですけど。去年の夏に熱中症で病院に運ばれて騒ぎになったんです。気づいてあげらんなくてね」
「それは、大変だったね」
「病院に付き添ったんですけど、その人ずっと申し訳なさそうな顔して何度も『すみません』とか『恥ずかしい』って言ってた」
「ああ」
確かにそれは同じかもしれない。この人は馬鹿にしないんだな。車の中で生活してるおじさんも。二十五にもなって親の機嫌を気にしてる僕のことも。その場で起こっていることだけを見ている。
おじさんにもこの若者が、天使のように見えたんだろうか。天使といっても翼のあるペガサスを率いるのではなく、七色のユニコーンに乗った刈り上げの天使に。
おかしさがこみあげて、くくっと笑った。視線に気づいて顔を上げると若者が目に心配さをにじませている。ばしん、と音がしそうなほど肩に思い切り手を置かれた。勢いがありすぎる。
「お兄さんそんな落ち込むなって! 仕事なんていくらでもあるんだからさあ。次いこう、次」
「わ、わかった。ありがとう」
「あとちゃんと休みなよ。マジで。車にいんのは休んだうちに入らないから」
「うんわかった。わかったよ――」
「晃一?」
振り返って、固まった。後ろにいたのは母親だった。母の背後には大型バスが停まっていて、母と同じような年齢の女性が婦人会か何かで和気あいあいとしている。
「あなたこんなところで何してるの。仕事は――」
母親がいま僕しか見えていないように、僕も母親しか見えていない。
喉がカラカラになった。自分がどうやって立っているかもわからなくなって、足元に真っ暗な穴が現れる。
あ、痛い。
「いまお仕事の時間でしょう、あなた――。それ、なに?」
母は手もとを見ている。そこで僕は自分が手に持っているものの存在に気づいた。
「そんなもの食べてる場合なの。まさか、ずる休みなんか」
「おいしいよ」
僕の言葉に、母親の眼が怪訝そうに歪む。僕は言った。
「お母さん。僕、なにかを食べておいしいって思ったの久しぶりだった」
曇った空を光るものがかすめ、雪はスマートフォンの上に落ちて水になった。着信を知らせるランプが光る。母親からの着信に、いつもならすぐに出るところをいちどポケットに戻し、車の中に入ってドアを閉めた。すぐにまた電話がかかってきて画面をスライドする。
「ああよかったやっと出てくれた。お父さんには言っておいたわ。ちゃんと就職の世話してくれるって」
「俺はそんなこと言っとらんぞ!」父の声が後ろから聞こえる。
「次の職場は家から遠いじゃない? それに塾の先生なんて、大変そう。とても心配。お母さん大丈夫だとは思えない」
「もう内定受けたから。すぐ来てほしいらしいんだ。前も言った通り、家も出るよ」
「寂しいわよ。お父さんと二人なんて」
深呼吸した。腹は痛まない。
「お母さん、お父さんが就職の世話してくれるとか、都合のいいでまかせを言うのをやめてほしいんだ」
電話を切って、後部座席のハンガーにかけてあったコートを羽織った。SNSの通知が飛んできて、開くと「ゆにこぉん・プリン」からだった。
『冬の新作・濃~いミルクプリンです』見た目、同じじゃないか。
雪道を走るのは大変だけど、新作のプリンを食べにいこう。
【おわり】