【入選】祭りの夜に(著:金沢夜空)
学生の時分の話である。
うだるような暑い夏の夕方だった。アパートの六畳間で効きの悪いエアコンの風を浴びながら無為に過ごしていると、友人の滝山が訪ねてきた。
「どうせ暇なんやろ、祭り行かんか」
ポケットに手を突っ込んだまま、面白くもなさそうに言う。
「祭りがあるのか」
「そうか、お前こっちの出身やなかったな。今日は××神社の祭りや。山車は見ごたえあるし、屋台も一杯出るで」
「そいつはいいな」
退屈を持て余していた私は喜び勇んで、ビーチサンダルを突っ掛け外に出た。
少し行くと、風に乗って祭囃子の太鼓と笛の音が聞こえてきた。色とりどりの浴衣を着た子どもたちが駆けていく。町全体が浮足立っている。私も幼い頃両親に祭りに連れていってもらったことを思い出して、高揚してきた。
「実は××神社、一度も行ったことないんだよ」
「まあ、用もなけりゃ行かんよな。こっちのもんは初詣やら七五三やら結婚式やら、節目節目の行事全部××神社やから」
地元の神社で結婚式まで、というのは今時珍しく思えたが、田舎はそんなものなのかと大して気にはしなかった。私は東京から近畿地方の片隅にある大学に進学したので、文化や風習の違いを感じることは何かと多かった。
××神社が近づいてくると、どこにこんなにたくさんの人がいたのか、と思うほど混雑してきた。息苦しさを感じて、持参したペットボトルの麦茶に口をつける。
日は落ちかけているが、湿度が高く、体感温度がまるで下がらない。じっとりとシャツが纏わりついてくるような、心地の悪い暑さだ。
神社の敷地に面した四車線道路は車の通行が禁止されているらしくがらんと空いているが、歩行者は歩道を歩いている。お囃子の音がやおら大きくなったと思ったら、向こうの角を曲がって巨大な山車が出現した。
全体に古くて黒ずんでいるが、立派な屋根に凝った飾り彫りが施されている。××神社と書かれた提灯がたくさんぶらさがっていたが、まだ日があるので明かりは灯っていない。
「立派なもんだ」
「そうやろ。今日は宵山祭や。宵山巡行がないと本祭りが始まらんからな」
滝山が得意げに鼻を鳴らし、私はニュースで見た祇園祭の賑わいを思い出した。
「宵山って、祇園祭の前夜祭のことじゃないのか」
「お前、ものを知らんなあ。宵山ってのは祇園祭に限る言葉やない。ここいらでも前夜祭は宵山祭って呼ぶんや」
いつもヘラヘラしている滝山が珍しくむっとした様子で、眼鏡のつるを押し上げる。意外な気もしたが、こいつにも郷土愛があるらしい。すまんすまん、と手刀を切った。祇園祭の山鉾ほど立派ではないと思ったが、それも言わないでおいた。
山車が近づいてくると、妙なことに気がついた。
藍色の法被を着た男たちが、十人ほどで巨大な車輪がついた山車を押しているのだが、その全員が白い紙を面のようにして顔を隠している。足元もよく見えないだろうに、どういう意味があるのだろうか。えっさ、えっさ、という男たちの低い掛け声は、驚くほどぴたりと揃い調和している。
目の前を通った時に、山車の中で囃子を演奏する人間の顔がちらりと見えた。提灯に埋もれるようにして篠笛を吹く彼らは、一様に狐の面をかぶっていた。背丈からは、ほんの子どものように思えた。
山車を見送って、道路に面した巨大な鳥居をくぐる。参道にはびっしり人が詰まっている。両脇には屋台が立ち並び、ソースや油の匂いが流れてきて鼻腔をくすぐる。屋台に並ぶ人の列と、境内へ向かう人の列に分かれているが、こちらへ戻ってくる人の列はない。一方通行のルールなのだろう。
私もちょっと焼きそばでも買いたいななどと思ったが、滝山が境内へと向かう列に加わるので、とりあえず横につく。男同士でぴたり寄り添うのも気持ちが悪いが、近くにいないと簡単にはぐれてしまいそうな人波だ。
混んでるなと言いかけて、ふと目を留めた。数メートル先の人波の中に、見知った横顔があった。
あれは、子どもの頃可愛がってくれた叔父貴だ。
しかし気がついた次の瞬間には、もう人に紛れて分からなくなっていた。
他人の空似だ、と自分に言い聞かせた。何かの間違いだ。叔父貴は十年前に仕事中の事故で亡くなっている。命綱の装着を怠って建築中のビルの足場から落ち、頭が割れたのだ。私は手の甲で額の汗を拭った。
「境内で盆踊りやっとるから、見に行こう」
滝山がぼそぼそした調子で言う。列の先から音頭が聞こえてきた。えんやこらしょ、えんやこらしょ、という軽快な合いの手が風に乗って運ばれてくる。この地域の音頭なのだろう、聞き慣れないメロディーだ。
私は気を取り直そうと無理に明るい声を出した。
「盆踊り、懐かしいなあ。お前も子どもの頃踊ったりしたのか」
「そんなわけないやん」
「なんで」
滝山は少し苛立っているように見え、私は戸惑った。
「こっちの盆踊りは誰でも踊っていい踊りやないんや。選ばれた踊り手が踊るんや」
「そうなのか。うちのとこは気軽な感じだったから」
慌てて言い訳するが、滝山は口の中でぶつぶつと文句を言っているようだ。居心地の悪さを感じた。今日の滝山は少し変だ。元来のんびり屋で気のいい男で、何かにつけ、こちらに知り合いのいない私を誘ってくれるのだが。昼間、何かあったのだろうか。ペットボトルの麦茶を飲む。体中がべたべたする。
「お前、なんでわざわざこっちの大学来たんや」
滝山は私の顔を見ずに聞いた。妙に唐突な質問のように思えた。
「東京には大学なんかいくらでもあるやろ。なんでこっち来た」
「地元にはいい思い出がなくて」
正直に言った途端、ひとりの女生徒の顔が思い浮かんだ。高校に入学してから二年の二学期まで同じクラスだった柏崎である。
数年が経った今でも、思い出すだけで胃が冷たく重くなる。
とにかく陰険で性悪な女だった。私の何がそんなに気に入らなかったのか、やたらと目の敵にしてきた。
気の強さをうかがわせる濃い眉と、くっきりした目鼻立ち。美人だと言う奴もいたが私には分からなかった。
ふと視線を感じて振り向くと、柏崎がほんの少し眩しそうに目を細めて私を見ている。ああ良くない、と目をそらすと、「おーい、何だよ」と険のある声が飛んでくる。
きっかけがなんだったか、本当に覚えていない。私があちらに関わろうとすることはないはずだ。私は良くも悪くもクラスの中で目立つタイプではなく、友人が多いわけではないが、いなかったわけでもないし、成績も平凡だった。気がついた時には常に監視され、一挙一動をあげつらって笑いものにされるようになっていた。
特に屈辱的な記憶がある。
休み時間に自分の席で、当時熱中していた横溝正史を読んでいたら柏崎に「暗い」「気色が悪い」と馬鹿にされ、さすがにむっとして反論したら、その様子がまた気持ち悪いと動画を撮られてSNSに載せられた。そんなつまらない動画、誰が見るでもなかったが、あの頭の中が白くなるような感覚はいまだ忘れられない。
高校生なんて、ちょっと容姿が整っていて態度が大きければ、クラスの中心的存在になれる。それまで私と付き合っていた級友も、柏崎が私を攻撃するようになると同調し始めた。
柏崎に感謝することがあるとしたら、他人は信用してはいけないということを教えてくれた、その一点に尽きる。
ハァヨイヨイ
ちょいと あんた 踊りにおいで
戻れや戻れ 死ねや死ね
冥府の陰に××の
(えんやこらしょ、えんやこらしょ)
ハアヨイヨイ
盆踊りの音頭が大きくなってくる。東京音頭にも似たメロディーだが、どこかずれているような妙な旋律だった。「死ね」と聞こえたような気がしたが、聞き違いだろうか。
じわじわと参道を通り、やっと境内に到達した。境内も混雑しているが、広いため参道よりは呼吸がしやすい。
社の前に、大きなやぐらが組まれている。紅白の布で巻かれたステージは二段になっており、上の段では、狐の面をかぶった大柄な男が一心不乱に太鼓を打っている。下の広い段では、浴衣を着た子どもたちが五人ほど踊っていたが、やはり狐の面をつけていた。あれが滝山の言う選ばれた踊り手なのだろうか。しかし素顔を晒した一般の祭り客も、やぐらの周りを踊っている。大人も子供も、ぴしりと指先まで動きが揃って見事だった。
既に辺りはとっぷりと暮れ、夕闇に包まれ始めている。逢魔が時である。やぐらにも提灯がたくさんついていて煌々と照っている。薄墨を垂らしたような夜の気配の中、浮かび上がる盆踊りを、私と滝山は突っ立ってぼうと眺めていた。そういえばスピーカーのようなものが見当たらないが、この歌はどこから流れてくるのだろう。
境内にも屋台が出ている。嗅いだことのないような何とも魅惑的な匂いが流れてきて、急激に腹が減ってきた。何でもいいからひとつ買おう、とズボンのポケットを探って、ぎょっとした。
やぐらの周りを踊り歩いている人の中に、柏崎がいた。
「なぜ」
思わず声が漏れ出た。
柏崎は白っぽい色の半袖のワンピースを着て、長い黒髪を背中に垂らしている。高校生の時と変わらないように見えた。音頭に合わせ、挙げた両手をゆらゆら揺らし、ぱんと打ち、粋な足さばきで、踊り歩く。周りの人間と重なるようにぴったり動きが合っていた。
私は動揺していた。彼女は両親とも東京の出身で、自分は生粋の江戸っ子なのだと自慢していたのを聞いたことがある。こちらに縁があるなんて思いもしなかった。知っていたなら、この地の大学を受験するなんてことはしなかったのに。
逃げなくては。顔を合わせたくない。走り出そうとすると、いきなり滝山に腕を取られた。汗でぬるりと滑る。
「どこ行くんや。迷子なるで」
滝山はどこか面倒くさそうな顔をしている。
「会いたくない奴がいた」
「ああ、ほうか。でも逃げん方がええ」
「なんで……」
そうこうしているうちに、盆踊りの輪が進み、私の近くまで柏崎が来てしまった。ぼうっと曖昧な顔つきをしていたのに、私に気がつくと目を見開いて、私の名を呼んだ。
「何してるわけ、こんなとこで」
「……それはこっちの台詞なんだが」
仕方がなく言うと、柏崎は盆踊りの輪から抜け出てきて、私の目の前に仁王立ちした。
「私がどこで何してようが、あんたには関係ないよね」
蛆虫を見るような冷え切った目線も、苛立った口調も、全てあの頃の柏崎のままだった。滝山の前で嘲るのはやめてほしいところだったが、滝山は特に何も気にならない様子で、ぼんやりと盆踊りを眺め続けている。
「あんた、全然変わってないね。何だっけ、横溝正史とか、ああいうのまだ読んでんの? 相変わらず暗くて気持ち悪そう」
息を吐くように悪態が出てくる。
「気持ち悪いと言えばほら、修学旅行でさ。何だっけ、あのお寺。あんたにそっくりの気持ち悪い仏像がいたよね。あれ、笑ったな。あの前で写真撮ろうよって言ったのに、あんた逃げてさあ。懐かしい」
懐かしい、ほんと、懐かしい。柏崎はしつこいほど繰り返して、私にとっては忘れたいような暗い思い出話をまくしたてた。妙にはしゃいでいる。私は重い溜息をつく。彼女だけ、高校生のまま時が止まっているようだった。
勿論、あの頃の記憶は私の心を重苦しくさせたが、あの時と同じように傷ついたかと言われると、そんなことはない。もう私は狭い教室で居場所を探す高校生ではないし、今は大学生活と卒業後の進路のことで頭がいっぱいだ。それよりも数年ぶりに会って、こんなくだらない嫌がらせじみたことしか言えない柏崎に呆れていた。
「もう俺たちは同級生じゃないんだ。今後関わることもないだろうし、放っといてくれよ」
柏崎は形の良い黒々とした眉をあげた。大学生になったら派手な化粧や髪型に変えるのではないかと思っていたが、あの頃と変わらない素顔のままだ。
大学生。ふと疑問に思った。柏崎はどこの大学に行ったのだったか。
いや、柏崎とは一緒に高校を卒業していない。そうだ、同じクラスだったのは、二年生の二学期までだった。
転校したのだったか? なぜだか記憶にもやがかかっている。私はしきりに顔の汗を拭ったが、柏崎の額には一粒の玉も浮かばず、青白く涼しげだった。
ハァヨイヨイ
ちょいと おかしな 冥土の土産
食えや食え 死ねや死ね
今夜だけは此方を見よし
(えんやこらしょ、えんやこらしょ)
ハアヨイヨイ
どこから流れてくるのか分からない歌声が、重い闇にべっとりと絡まる。やぐらの周りを踊る人の数はどんどん増えている。老いも若きも、男も女も、提灯に照らされてひたすら踊っている。
いつの間にか、滝山がいない。私と柏崎は黙って互いの顔を見ていた。暴言を吐いている時は活き活きとしていた柏崎は、口をつぐむと精気に欠けたぼんやりした表情になる。
その顔を見ていると、急に記憶が蘇った。
高二の夏休み、柏崎は姿を消した。
クラスの女子と繁華街へ遊びに行く約束をして夕方自宅を出て、待ち合わせの駅前に現れなかったのだ。家出なのか、事件や事故に巻き込まれたのか。家族が捜索願を出して、警察もそれなりに捜したはずだが、それきり柏崎が姿を見せることはなかった。
しばらくは皆心配していたが、三年生になるとクラス替えがあって、受験勉強に忙しくなり、柏崎の所在は有耶無耶になっていった。見つかったという話は未だ聞かない。
「なぜ、こんなところにいるんだ」
私は呟いた。酷く暑かった。大量の汗をかいているのに、唇も喉もかさついて、張り付いている。柏崎は鼻を鳴らした。
「私がどこで何してようが、あんたには関係ないって言ったでしょうが」
「いや、でも……。家には帰ったのか。三原や田中には連絡したのか。みんな心配して」
「あんたは心配したの?」
遮って問われ、ごくりと喉を鳴らした。
私は、どうだったのか。
目の前の柏崎を見つめたまま、汗を拭う。私は、彼女が学校に来なくなって安堵した。これでもうちょっかいを出されずに済む。嫌な思いをせずに済む。ほっとした。事実、柏崎がいなくなってから私に対するクラスメイトの態度は軟化して、以前のように戻っていた。
この女がいなくなったから、全てが上手くいくようになった。
私が黙っていると、柏崎は口の端をあげた。笑ってみせたようだが、引き攣ったような、柏崎にしてはやたらと不器用な笑い方だった。
「何だよ、その顔。あんたが心配してなくても当然じゃん。嫌われてるの分かってるっつうの」
全身が痺れるような衝撃を受けていた。木偶のように立ち尽くした私は、何とか声を絞り出した。
「……嫌ってたのは柏崎の方だろう」
「お待たせ」
振り向くと、滝山が立っていた。両手に一つずつ、白い発泡スチロールのトレイを持っている。屋台で買ってきたらしい。私に向かって一つ差し出す。
「腹減っただろう。食えよ」
思わず受け取ったトレイには、串に刺した何かよく分からないものが載っており、ほかほかと湯気が立ち昇っていた。えもいわれぬ良い匂いがする。滝山は串を持ち、がぶりと食らいついた。汁が滴る。いかにも美味そうで、柏崎と再会したことで一旦忘れていた空腹が主張しだした。
私も串を持とうとしたその時、急に柏崎が手を伸ばし、私からトレイを奪い取った。
「えっ」
呆然とする私を尻目に、柏崎はそれを自分の口にぐいと押し込んだ。私を睨みつけ、栗鼠のように頬を膨らませて咀嚼する。
「ああ」
滝山が残念そうに肩を落として、私はあまりのことに開いた口が塞がらなかった。信じられない。友人が私のために買ってきてくれた食べ物を横取りするなんて、本当にとんでもない女だ。
とんでもない、野蛮で、非常識な女……。
私は唾を飲んだ。
ああ、そうだ、なぜ忘れていたのだろう。
柏崎が失踪した数年前のあの日、私は彼女を見ていた。
今日のように蒸し暑い、いやな日だった。私は予備校の帰りに駅前の本屋に寄って、自転車で帰路についた。大きな公園の脇を通った時、ベンチで知らない男と口論になっている柏崎を見た。白い半袖のワンピースを着ていたと思う。ああ本当に気性の荒い野蛮な女だ、関わり合いになりたくない、と思いながらさっさと通り過ぎた。
それだけのことだ。ただそれだけだ。
私は夏休み明けに柏崎が失踪したことを知る。どうして教師や警察に、あの日彼女を見ていたことを言わなかったのか。
ただ、知らない男と言い争っていたというだけだ。相手の顔もよく覚えていない。それに、あの男が柏崎の失踪に関わっているという証拠はない。それなのに私が根掘り葉掘り聞かれて、どうしてお前が止めに入ってやらなかったのかなどと責められても面倒だ……。
いや違う。
私は柏崎を憎んでいた。もう学校に来なければ良い、と思っていた。いっそ死んでほしいと思っていた。彼女が見つからなければ良いと思っていた。
だからあの日見たことを誰にも言わなかった。
口の中のものを飲み下した柏崎は、手の甲でぐいと唇を拭った。
「あんた、帰れ」
私に向かって言い放つ声は、あの頃と全く変わらずに刺々しい。生気のない白い指が、境内の隅の暗がりを指さす。赤い前掛けをした狐の像がこちらを見ていた。
「通ってきた参道じゃなくて、あっちの細い方の道を行け。何があっても、絶対に振り返るな。ひたすら行けば外に出る」
自分の足が震えていることに、その時気がついた。何とか誤魔化しながらゆっくりと踵を返すが、滝山は食べ物のトレイを持ったまま、その場に留まっている。
「滝山、一緒に帰ろう」
滝山は悲しそうにかぶりを振った。
「俺は踊ってくわ。先に帰っとってくれ」
なんで、と言いかけて、はっとした。その眼鏡のレンズが片方割れているのに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。
えんやこらしょ、えんやこらしょ
奇妙な旋律の音頭が、一層大きくなった気がした。
誰も彼もが踊っている。夕闇に浮かぶ提灯の橙色に染められて、魂の抜けたような顔でひたすら踊りくるっている。人々の踊りは寸分の乱れもなく指先に至るまでぴたりと重なる。その輪の中に、叔父貴もいた。選ばれた狐面の踊り手たちが、彼らを導くのだろう。
「振り向くな、走れ」
柏崎が鋭く叫んだ。その声に衝き動かされるようにして、砂利を蹴った。
虚ろな瞳の人々を押し退けるようにして、狐の脇にある細道に飛び込んだ。灯りのひとつもない暗い路を、破れかぶれにひたすら走る。おかしな声が耳元で囁いたり、足首にぬるりと触れるものがあったりして、その度に転倒しそうになったが、決して振り向かなかった。走って走って、走り抜けた。
*
その後、気がつくと朝になっており、アパートの万年床の上でひとり伸びていた。
大学の友人から電話が来て、滝山が昨日車に轢かれて死んだと聞かされた。夕方頃に事故に遭い、直後は意識不明ながら息があったので救急車で搬送されたが、夜半に息を引き取ったという。彼岸のものを食べてしまうと、二度と現世には戻れないという話を今更思い出した。
私は滝山の葬式に出てから東京の実家に帰って、地元の警察署に行った。私の目撃証言がどの程度役に立ったのかは分からない。一年程経って、男が逮捕された。その証言から、隣県の雑木林で白骨化した柏崎の遺体が見つかった。
あの宵山祭は私の深層にある罪の意識が見せた夢だったのだと結論付けるのは容易いが、恐ろしくて結局××神社を再訪しないまま、大学を出て大阪で就職した。
私は今でもまだ、柏崎は陰険で憎らしい女だったと思っている。高校の時の残酷な仕打ちをなかったことにはできないし、彼女を許さないのは私の自由だ。
しかし、柏崎は知っていたのだろうか。
あの日私が自転車で公園の脇を通ったことを。私が高校や警察に通報することを期待したのだろうか。そして、それをしなかったことも知っていたのだろうか。知らないでほしいだなんて、私に願う権利はない。
それでも、柏崎はあの夜の宵山から私を逃がしたのだ。
彼女がどういうつもりで私を罵り嘲っていたのか、そしてなぜあの宵山祭から私を逃がしたのか。理由を聞くことはもう叶わない。
走れと叫んだ柏崎の声を、今でも耳に思い出すことがある。
いやな女だったと思いながら、私は少し、泣きたくなる。
【おわり】