【最終選考作品】ねずみ花火
機械的な音を鳴らしながら火葬炉が開かれた。職員の人たちが台車に乗った棺をゆっくりと運び始める。
僕は最後に何か声をかけようと思ったが、ふさわしい言葉は何も思いつかなかった。ふと、じいじは僕の制服姿を見たことがあったかな、と考える。今年買ったばかりの中学校の制服。少し余らせた袖と裾が、幼さを象徴しているみたいで恥ずかしい。じいじに見られたら笑われちゃうんじゃないかと僕は思った。そんな僕の思考を遮断するように、ゴロゴロと台車の音が鳴り響く。そっと周りを見渡すと、言葉を発せないのは僕だけじゃないようだった。その場にいた全員が息をのんでその真っ白な棺をただ見守っていた。
職員の方たちによって、棺は吸い込まれるように火葬炉の中に納まった。炉の中をぼーっと眺めていると、本当に棺がそこにあるのかはっきりと思えなくなってくる。視界にもやがかかったかのように、棺の輪郭を目が捉えられなくなった。
さっきまでこの手で触れていたのに。
左手にはまだ棺の表面のざらざらとした感触が残っていた。
「では、これでお別れとなります」
一人の職員が僕らの顔をゆっくりと見まわし、はっきりとした口調でそう言った。いつの間にか火葬炉の扉は閉まっていた。まだ現実味のない意識で母さんの方へ目を向けると、母さんは紫のハンカチを口元でぎゅっと握りしめて、目に涙を浮かべていた。しかしその目は、最後の最後までじいじを見送ろうと、しっかり火葬炉の扉を見つめていた。母さんの頬を涙が伝い、ファンデーションに痕をつける。その動きを目で追いながら、僕はずっと一つのことを考え続けていた。
じいじは死んじゃったんだ。
しかし、いくら頭の中で言い聞かせても、その言葉はリアリティを帯びず、ふわふわと頭の中をさまよっているだけだった。
僕は火葬場の中庭にあるベンチに腰かけていた。隣には同い年のいとこの健が座っており、目の前の小さな池を黙々と眺めている。お互いに大人だらけの待合室が居心地悪く、こっそり抜け出してきていた。
「じいじ、死んじゃったんだね」
空をゆっくり流れる雲を眺めながら、僕はつぶやいていた。
「そうだな」健はそう短く答えて、座ったまま大きく背伸びをした。
「でも、まだ実感ねえよ。棺桶見せられて、これがじいじだって言われてもな。ホント信じられねえ」
奏多もそう思うだろ、と健は僕の顔を覗き込んで言う。
「うん。しばらく会えてなかったしね。だから、死んだって最初に聞かされた時、嘘かと思ったもん」
「俺も思った」健は悲しそうに笑う。「にしても、じいじは不死身じゃなかったんだな。最後まで酒とたばこはやめなかったみたいだけど……」
不死身。その言葉を聞いてちょっと笑ってしまった。確かにそんなことを言ってたなあ、と少し懐かしい気持ちにもなった。
じいじは、度が過ぎるほど酒とたばこが好きな人だった。ばあばと暮らしている家を僕たちが訪れても、自分の部屋に籠もってたばこを吸い、カップ酒を片手に時代劇を見ているのが常だった。大工の仕事をケガで辞めてから十年間、このような生活を続けて、二年ほど前に病に倒れた。心臓が肥大化していて入院が必要になる、医者にはそう診断され、これを機に酒とたばこには懲りてくれると誰しもが思った。しかし、そんな期待とは裏腹に、じいじは入院中に数々の問題を起こすことになる。どこで手に入れたのか、病室でこっそり発泡酒を飲もうとしたり、たばこを買いに病院を脱走しようとしたこともあった。結局、病院とはそりが合わず、一ヵ月足らずで退院し、また以前のような生活に戻った。
そんな姿を見て、じいじは不死身なんじゃないか、そんな妄想をしたのである。でも、そんな不死身伝説も長くは続かなかった。
じいじは今年の夏、一人で田舎の実家に帰っている時に心臓発作で倒れ、そのまま助けを呼ぶこともできず亡くなった。倒れてから二日後に、たまたま家を訪れた近所の人が遺体を発見してくれたのだが、猛暑にやられた遺体は腐敗がかなり進んでしまっていた。
そういうわけで僕たちはじいじの遺体を見ていない。棺についていた覗き窓も僕らの前で開かれることはなかった。お葬式で見た白黒の遺影。微笑んでいるようにも、怒っているようにも見えるそのモノクロの表情が、僕がこれから記憶していくじいじの最後の姿となった。中学受験や部活が始まった影響で、じいじとは少しばかり疎遠になっていた。そのため、記憶の中のじいじと、遺影の中のじいじが、別人のように見えて僕は仕方がなかった。
「もう、あのしょっぱいポテトも食べられなくなるんだね」
僕は悲しい空気になるのが嫌で話題を変えた。
「ポテト? 何のポテトのこと?」
健はこちらを振り向き、口をへの字に曲げた。何かが分からなかった時によくする健の癖だ。それを見て僕は何故か安心していた。
「覚えてない? 小さかった時に僕らが泊まりに行ったら、じいじがよく作ってくれたじゃない」
「ああ! あれのことか! あの油でギトギトの塩がたっぷりかかったやつだろ」
そう言うと、健は当時の味を思い出したのか、しかめ面になりそのあと笑顔を見せた。そのいつも通りの笑顔が、また限りなく僕を安心させていた。
「あれポテトチップスだって言い張ってたけど、切るのが分厚すぎて全然パリパリしないし、ホント美味しくなかった」
僕がそう言うと健はうんうんと頷く。
「いっぱい作るから食べきれたことなかったな。ていうか今思えば、あれ自分の酒のつまみにしたかっただけじゃね?」
絶対そうだ、と言いながら健は右手の人差し指を軽く振った。僕は一応頷いてみせたが、内心ではじいじの味方をしていた。普段は仕事もせず酒とたばこで自堕落な生活を送っていたじいじだったが、たまに気まぐれな優しさを見せることを僕は知っていた。
小学校三年生の時のお正月、僕は一人でじいじの家に泊まりに来ていた。母さんも来る予定だったが、父さんが運悪くインフルエンザにかかってしまい、母さんは看病で家から離れられなくなった。健の家族も来るから大丈夫、と母さんには言われたが、その年は積雪が多く、僕たちが住む町より車で二時間ほど遠くに住んでいる健たちは、安全を期して遊びに来るのを中止したのだった。
初めて一人で泊まるじいじの家。僕は不安でしょうがなかった。
ばあばが買ってくれた、お正月に似合わないガトーショコラのケーキを食べながら、僕はお正月特有の派手なお笑い番組を見ていた。豪華なセットの中で芸人が次々にネタを披露していく。僕の好きな芸人もネタをした。一発ギャグでしりとりをしていくというネタ。いつもは、息ができなくなるほど笑ってしまう大好きなネタだったが、その日は少しも笑えなかった。寂しさが耳に膜を張ったようにテレビの内容が全然頭に入ってこなかった。
そんな僕を心配してくれたのか、じいじはつきっきりで話し相手になってくれた。正月はいつも以上に進む酒も、その日は量を控えてくれたようだった。そしてその年が最初で最後のお年玉を僕にくれた。中身は五百円玉が三枚。ごめんなあ、そんなもんしかなかった、とじいじはきまり悪そうにしていたが、金色で少し大きいその硬貨はとてもかっこよく見えて、僕は満足だった。いつものように作ってくれたポテトチップは、いつも通りしょっぱかったが、いつも以上にあたたかかった。
「なあ、見送る時に最後にみんなで棺桶に手をあててお別れしただろ。あの時何を念じてた?」
健は少し意地悪そうな笑みを浮かべながらそう言った。
「何って、そりゃ安らかにお眠りくださいって願ったよ」
実際、頭の中は真っ白だったのだが、僕はしれっと嘘をついた。
「なんだあ、俺は最後に忠告しといたぜ。毛の事言いふらしたの一生忘れないからなって」
健はそう言うと、ニヤッと口角を上げた。
「うわ、僕も言っとけばよかった。骨拾いながら念じてみようかな」
そう僕が言うと、僕たちは顔を見合わせて笑いあった。
小学五年生の時、僕たちは二人で一緒にじいじの家のお風呂に入っていた。お風呂は僕たちが二人入るには少し窮屈だったが、湯船につかりながら男二人だけで会話をするのが僕は好きだった。
二人とも体を洗い終え、いつものように僕たちは湯船の中で語り合っていた。最近の学校の話だったり、好きな人の話だったりと話題は尽きない。そんな中、僕は話題には出せなかったが、ある一つのことが気になっていた。
それは、僕たちの体が思春期特有の成長をしていることだった。
お互い十一歳になり、体も少しずつ大人に近づいている時期である。目に見える形で僕たちの肉体は変化していた。気恥ずかしかったのか、僕たちはその話題を上手く避けながら、会話を楽しんでいた。
しかし、この時間はあっという間に最悪なものへと変わっていった。
脱衣所の扉が勢いよく開かれた。風呂場と脱衣所を隔てるすりガラスの扉にふらふらと佇む影が映る。それを僕が確認するが早いか、影の主はさらに乱暴な手つきでその扉も開けた。
「奏多、俺も一緒に入っていいか?」
呂律の回っていない口調でそう言う。そこにはじいじが立っていた。酔っていて体を支えきれないのか、壁にもたれかかっていた。どうやら悪酔いしているようだった。
「入るわけないでしょ。寒いからさっさと閉めてよ」
僕は相手にしないという風に冷静にあしらった。しかし、ここで湯船から立ち上がったのが間違いだった。立ち上がった僕を見るじいじの目線が、ゆっくりと下に向かったのがハッキリと分かった。途端に無邪気な笑顔になってじいじは言った。
「奏多! お前も男になったんだなあ」
しまった、と僕は内心思った。隠れるように湯船に体を沈める。
「うるさい! 早く閉めろよ」
僕は恥ずかしさを隠すように語気を強めたが、じいじはニヤニヤしたままそこを動こうとしなかった。埒が明かない、そう思って、もう自分で扉を閉めようと、浴槽から身を乗り出そうとしたその時だった。
いきなり健がばしゃりと湯船から飛び出し、勢いよく扉を閉めた。なんだあ、健ももう生えてるのか、と場違いな声が扉の奥から聞こえてくる。だが、健はそれを無視してドアノブを力強く押さえていた。顔は沸騰しそうなぐらい真っ赤で、まるでドアノブを押さえることで自分の怒りを抑え込んでいるようだった。しばらくしないうちに、じいじは、そうかそうか、と満足そうにつぶやきながら出ていった。
ふぅとどちらのため息かも分からない音が僕らの耳を通り過ぎた。
「俺、先に上がるわ」
健はそう言って、握ったままだったドアノブをひねり、うつむいたままお風呂場を出ていった。脱衣所からかすかなアルコールの匂いと少しばかりの冷気が入ってくる。かちゃりとドアが閉まる音だけが余韻を残してお風呂場に響いた。
僕は少し湯船で体を温めなおした後、お風呂を上がり、パジャマに着替えてリビングに戻った。リビングには健の姿はなく、母さんと健の母親である直美おばちゃんとばあばが、こたつに入りながらドラマを見ていた。さっきのことが母さんたちに伝わっていないか不安だったが、誰も何も言ってこなかった。彼女たちはドラマに夢中のようだった。
リビングとつながっているキッチンに水を飲みに行くと、シンクに寄りかかりながら缶チューハイを飲んでいるじいじの姿がそこにあった。悪びれもせず酒を飲んでいるその姿に無性に腹が立った。
食器棚からコップを取り、顔を合わせないようにシンクに近づいた。まだ怒っているぞ、そうじいじに伝わるように少し足音を強く鳴らす。しかし、そんな僕の怒りはアルコールの匂いにかき消された。じいじは足音で僕のことに気付くなりおもむろに口を開いた。
「おい! ちん毛が生えた一人前の男が帰ってきたぞ!」
背筋が凍るようだった。思わず蛇口に伸ばしかけていた手が止まる。そんな僕の肩にじいじは手を置いた。その手は焼けるように熱く、口から洩れる酒気が僕の肉体の感覚をどんどん遠くに飛ばしていった。そんな僕の様子など知らず、じいじはリビングに向かって手に持っている缶チューハイを上に掲げて、
「奏多も股に毛を生やす歳になったんだなあ! みんな、今日は乾杯!」
と言って、勢いよく酒を体に流し込み、豪快に喉を鳴らした。
ちょっとお父ちゃん、そういうことは言わないであげて、と母さんたちはこちらを振り向いて、笑いながらそう言うと、またドラマに集中し始めた。
その瞬間、僕の体は内側から爆発するかのように熱くなった。消えてしまいたいぐらい恥ずかしい気持ちと、じいじに対する怒りが混ざり合って、マグマのようにどろどろとした感情として僕の頭を熱で染めた。しかし、僕は体を動かせなかった。ちょっとでも何かをしようとしたら涙がこぼれそうになっていたからだ。僕は絶対に泣きたくなかった。泣いてしまってはじいじに負けたことになる、何故だか分からないがそんな気がしていた。
じいじは、ただただ愉快そうにチューハイを飲みながら体を揺らしている。肩に置かれた手はもうどっちの体か区別がつかないぐらい熱を帯びすぎていた。
僕は肩にすべての神経を集中させ、何とか体を動かしてその手を振り払った。
すると、
「なんだ、怒ってるのか?」と、じいじは一瞬顔をきょとんとさせた後、すぐに先程までのにやけ面に戻ってそう言った。
「大人の男がこんなので怒るなよお」
じいじの口から洩れる濃いアルコールの匂いが混ざった熱い息が僕の頬を撫でた。
絶対に反応してたまるか、僕はそう思うとコップをシンクにどんと力強く置き、急いで二階に駆け上がった。寝室の扉を急いで開けて中に入り、バタンと扉を閉めた。部屋の中はオレンジ色の豆電球が灯されており、二つ敷かれた布団の片方に健が既に横たわっていた。上がった息を押し殺す僕の鼻息だけが響き渡る、とても静かな空間だった。
扉の前で立ち尽くしていると、おーい、かなたー、と階下からじいじの呼ぶ声が聞こえた。僕はその声を無視し、声を遮断するかのように布団の中に潜り込んだ。布団の中はひんやりと冷たく、気持ちよかった。
その後も二、三回声が聞こえたが、僕の反応がないのをみて諦めたようだった。僕は、じいじが階段を上ってすらこないことが無性に悔しかった。息はもう落ち着いていたのに、なぜか胸が苦しくなった。大きく息を吸おうと思っても呼吸がしにくい。いつの間にか一粒の涙が頬を伝った。涙は溢れ出さず、律義に一滴ずつ零れ落ちていった。僕は瞼にギュッと力を入れた。目元に涙がたまっていく。その涙を落とさないようにしているうちに、僕は疲れ果てて眠っていた。
何だか、じいじの火葬を見送ってから、懐かしい記憶がこだまするかのように、頭の中を駆け巡っていた。横を見ると、健もじいじの残してくれた思い出を反芻しているようだった。しばしの静寂が僕らを包みこむ。今この瞬間も、ゆっくりとじいじの死を実感しているのかもしれない、と僕は思った。
雲に隠れていた太陽がそっと顔を出す。日差しが僕らの顔を照らした。あたりにはいつの間にかアキアカネが飛び回っていた。
「ねえ、じいじが言ってた武勇伝、覚えてる?」と僕が言うと、
「待って、俺も同じこと考えてた」と健は笑った。「大工だった時に三階建ての屋根から落ちて、無傷だったっていうやつな」
「そうそう、柔道の受け身で受け流したって言ってた」
静寂があっという間に笑い声にかき消される。どうやら健はまだまだ話し足りないようだった。こうなったら僕もとことん話したい。
僕たちの間を風が通りすぎた。アキアカネはその風に乗るように、緩やかに飛行している。その中の一匹のアキアカネがみるみるうちに高度を上げ、やがて見えなくなった。健の笑い声が軽快に響く。初秋の匂いを運ぶ風がやけに気持ちよかった。
ばあばに呼ばれ僕らは収骨室に向かった。
「では、中にお入りください」
職員の方は、僕らが着くなりそう言うと、ゆっくりと扉を開けた。ばあばを先頭にして、僕たちは部屋の中に入った。
大理石で造られた床と壁、天井に埋め込まれた大きな照明が、白い光を部屋全体に落としている。窓はない。その部屋は、時が止まっているかのように粛々としていた。
小さい。
僕は思わずそんな感想を抱いた。
部屋の中央には漆黒の台にのせられたじいじの遺骨が静かにその存在を主張している。だが、そのじいじの体を形成していたはずの骨は、朽ちた枝木のように弱々しい見た目をしていた。僕は途端にいたたまれない気持ちになった。僕の記憶の中のじいじは長身で、細身ではあったが、筋肉がしっかりとついている人だった。そんな彼の骨がこんなにも頼りなくて、みすぼらしいなんて。僕はある種の絶望感を一人静かに嚙み締めていた。
職員の方から箸を受け取り、僕たちは収骨台の周りに並ぶ。心なしかみんなの足取りが重かった。間近で見る遺骨は強迫的なまでに不安定だった。
「こちらの骨が喉仏となります。形が仏様に似ていることから、喉仏には仏様が宿ると言われております。最後にこちらを納めて頂いて、収骨は終了となります」
職員の方が手のひらで指し示す先には、今にも崩れそうなぼろぼろの骨が一つ置かれていた。僕には真ん中に空洞のあるその骨が、仏様にはどうしても見えなかった。
じいじは仏様に見放されたのか。
僕はじいじにされて嫌だったことを思い出す。いつもたばこ臭かったし、毛のことをばらしたのも本当に嫌だった。だけど、その記憶のほとんどが、今となっては笑い飛ばせる思い出になっていることに、僕は既に気が付いていた。
仏様、じいじが安らかに眠れるように、ちょっとでもいいから手伝ってください。
化けて出てきたら大変なので、そう付け加えて僕は心の中でお祈りをした。その時、一瞬喉仏が、座禅を組んで微笑んでいる仏様に見えた気がした。願いを聞いてくれたのか、と僕は少し安心する。次の瞬間には、それはもうただの骨に戻っていた。
いよいよ収骨が始まった。収骨は二人一組になって行う。僕は父さんと一緒に行うことになった。まず、ばあばと長女である母さんが一緒になって骨上げを行った。二人で遺骨を挟んでゆっくりと持ち上げ、職員が抱えている骨壺に納める。その動作を僕は息の詰まるような思いで眺めていた。
骨上げはスムーズに行われていった。じいじの妹さんの家族が行い、健の家族も終わらせた。骨壺を持った職員がコツコツと足音を鳴らし、僕の方に近づいてきた。箸を握っている右手がギュッと力む。次はいよいよ僕の番だった。
父さんが僕の方を向く。目があった。父さんの目は力強く、安心させようとしてくれているのが分かって、僕は嬉しかった。
「じゃあ、やるぞ」
父さんが小声で言った。僕は大丈夫、大丈夫と心の中で唱えていた。握りすぎて汗ばむ右手。これで摑めるのかと不安になるぐらい、僕の右手は頼りなかった。
「大丈夫だ」
父さんはそう言うと、左手を僕の肩にのせた。その手はいつかのじいじのように熱くて重かった。僕は父さんの目を見て、ゆっくりと頷いた。
もう大丈夫だ。
僕たちは呼吸を合わせて、優しく遺骨に箸を当てた。どこの部位かも分からない、細くて頼りない骨だった。持ち上げるぞ、父さんがそっと問いかける。僕はその言葉に小さく頷き返した。箸に挟まれてじいじの骨がゆっくりと宙を移動する。僕はその骨を遠い意識の中で眺めていた。浮いているかのように体が軽くなった。
ふとその瞬間、走馬灯のようにじいじとの思い出が次々と目の前を通過し始めた。
花見で一人酔っぱらうじいじ。
僕と健を連れて三人で行った虫取り。
ジッポライターで得意げにろうそくの火をつけてくれた僕の誕生日。
お年玉でくれた三枚の五百円玉。
しょっぱいポテトチップ。
アルバムを一ページずつめくるように、記憶の中のじいじが次々と動き出した。その中でも僕は、まだ幼かったあの夏の出来事を、強烈に思い出していた。
トウモロコシにかけた醤油が炭火に落ち、弾けるような心地よい音が辺りに響く。僕と健はこんがりと焼けたお肉をタレに付け、白米と一緒にかき込んでいた。
夜風が涼しく、近くの田んぼからはカエルの声が聞こえた。だが、それに負けないぐらい僕らも賑やかだった。じいじの家の狭い庭を大人が動き回っている。小さなグリルを囲むように、所狭しとキャンプ用の椅子が置かれているが、みんな替えの木炭を用意したり、野菜を切ったりと忙しい。座っているのは僕と健とじいじだけだった。
プラスチックのコップに入ったビールを一口飲み、じいじは言った。
「食い終わったら花火やるよな? 今日買ってきた花火はすごいぞ!」
無邪気な少年のようなワクワクとした目をしていた。
「ホント? 早くやりたい!」と僕らも足をバタバタさせながら答える。
じいじはそれを見て満足そうにビールを一口飲むと、立ち上がって、
「よし、じゃあまずはたくさん食うぞ!」
と言った。そして、グリルの上のトウモロコシを素手で豪快に半分に割ると、僕たちのご飯の上にのせた。僕は手が熱くないのかと心配に思ったが、じいじは、
「これあっついなー、フーフーして食えよ」
と、ケロッとしていた。
時間が経ち、こんもりと皿にのっていたお肉や野菜は、もうすっかりなくなっていた。夜は深まり、カエルの声は数時間前よりずっと遠くまで響いている。僕たちを照らす電球に、小さいコガネムシや蛾が何度もぶつかって、コツコツと音を鳴らしていた。みんな椅子に座り満足そうな顔を浮かべている。ばあばと母さんは後片付けで忙しそうだった。
「ねえ、花火やりたい!」
僕は待ちきれずそう言った。
「そうこなくっちゃなあ! じゃあ準備するぞ」
じいじはそう言って椅子から立ち上がり、少し足をふらつかせながら地面に薪を並べ始めた。僕と健は玄関に行き、花火セットを取ってくる。カラフルな手持ち花火がたくさん入ったお徳用のものと、ドラゴンファイヤーという名前の派手な置き花火。庭に戻るとじいじがチャッカマンで薪に火をつけているところだった。
薪を燃やす炎がゆらゆら揺れ、色とりどりの火花が僕たちの顔を照らした。赤、紫、緑と変化する花火。ぱちぱちと音を立てながら星のような火花を散らす花火。まるで空中に絵を描くかのように、僕たちは様々な花火を楽しんだ。
一通り手持ち花火を遊びつくし、最後にドラゴンファイヤーに火をつけた。じりじりと導火線に火が回り、シュッという音とともに噴水のような火花が噴きあがった。きれーいという歓声がたちまちみんなの口から洩れる。バーベキューを締めくくるのにふさわしい豪華な花火だった。
ドラゴンファイヤーの火が消えると、夜が急に顔を出したかのように辺りは静まりかえった。薪が燃える音とカエルの鳴き声がかすかに聞こえる。じゃあ今日はお開きだね、と誰かが口を開きだしそうなその時、じいじが満面の笑みで僕らの前に現れた。
「よーし、今日のメインイベントだぞ!」
じいじは自慢するかのように、手に持っていたものを僕らに見せた。
「なにそれ?」と思わず健が聞く。
「ねずみ花火だ。楽しいぞー」
とじいじは愉快そうに答えた。
「ちょっと、本当にそれやるの?」と母さんとばあばは不満そう。
「あったりまえだ。これやんなきゃ終われねえだろ」とじいじ。
母さんとばあばは呆れた顔をしていたが、じいじはそれにかまうことなく、僕と健を家の前の道路に連れ出した。
「気をつけなさいよー」と母さんが言う声が聞こえる。
ほれほれ、とじいじは僕と健にねずみ花火を一つずつ渡した。そして一つを地面に置き、カチカチとチャッカマンを鳴らした。
「見てろよー」
そう言い放つと、チャッカマンが火を噴き、ねずみ花火に引火した。すると次の瞬間、その花火は激しく火花を散らしながら回転し、僕の足元に近づいてきた。
「わあ!」と声を洩らすと、じいじは満足そうに笑った。
「どうだ、面白いだろ」
「すごい! 僕もやる!」
そう言うと、じいじはチャッカマンを渡してくれた。僕と健はしゃがんでねずみ花火を地面に並べ、順に火をつけた。二つの花火はシューっと音を鳴らし、コマのようにぶつかりあった。その様子に興奮していると、じいじが地面にたくさんのねずみ花火を並べているのに気が付いた。僕たちの前で弾けていた二つの花火が静かになる。
「よし、チャッカマン貸せ」とワクワクした顔でじいじは言った。
「危なくない?」
そう言いながらも僕はチャッカマンを渡していた。
「少しぐらい派手な方がいいんだ」
受け取るやいなや、すぐに花火に火をつけた。
一個、二個と次々に火花を散らし始める。あっという間にすべての花火に引火し、地面は激しい光を放つねずみたちで燦々と輝いていた。僕と健は一歩下がってそれを眺めていた。じいじはサンダルでむき出しの足に、火花が当たったようで飛び跳ねている。それを見て僕らは笑った。じいじは、それでも手をたたいてはしゃいでいた。
「ちょっと何の音?」と母さんが小走りでやってくる。
やばい、怒られる、そう思ったが、
「ほどほどにしなさいよ、もう夜なんだから」と母さんは呆れた顔で笑うのみだった。
なぜ、今、あの日のことを思い出したのか分からない。はっきりとしていく意識の中で、慎重に骨壺に骨を納めた。胸の動悸は収まらない。右手の感覚は麻痺したようになかった。
「緊張したな」と父さんが小声で言った。
僕の視界にはじいじの喉仏が映っていた。ぼろぼろで、丸くて、真ん中に空洞のあるその骨。その骨があの日のねずみ花火のように見えた。あの日のように、僕の心の中でねずみ花火が煌々と火花を散らして動き回っている。その瞬間、じいじの少年のようなあの笑い声が聞こえたような気がした。
さようなら、じいじ。
僕は胸の奥でそっとつぶやいた。
【おわり】