【最終選考作品】増量する過去、減量する未来(著:八木真平)
ケイスケは目覚めるとゴミ袋をベッドにしていた。ハトとカラスとネズミがかわるがわる訪問してくる人気スポットだった。人間よりもそういう動物の方が多い歌舞伎町の早朝にケイスケは頭の強烈な痛みを抱えて覚醒した。春は夏の背中を見据えて、湿気を帯びた重たい風で道端に落ちている空き缶を横断歩道まで転がせた。それを二トン車が容赦無く踏み付けていった。
昨日の記憶を辿ろうにもニューロンとニューロンとを繋ぐ神経回路に不備が生じてうまく思い出せない。二日酔い的症状があることから、どこかで飲んでいたことだけはわかった。まして歌舞伎町だ。それからポケットを探った。左ポケットには電源の切れたスマホが入っていた。しかし右ポケットには然るべき膨らみがなかった。しまった、と彼は思った。完全に財布を落としている。
歌舞伎町で財布を落とすのはジャングルに生肉を置くようなもの。決して見つからない。ケイスケは途方にくれた。
居酒屋とキャバクラのテナントが密集する雑居ビルの入り口付近にいた。立ち上がると眩しい朝日と目があった。このまま灰になって消えてしまいそうなほど、全ての罪を曝け出されそうなほどの強烈な光に、目を閉じても瞼の裏側で虹色に焼かれた。どうであれ、帰宅しなければならない。西武新宿線から沼袋に帰って、それから支度して会社に出勤しなければならない。でも肝心の財布がない。ゴミ袋の山をかき分けた。しかし一円すら落ちていなかった。
駅に向かった。向かっているはずだった。前後不覚に歩くケイスケはゾンビ同然だった。砂漠を歩いているみたいだった。延々と風景の変わらない砂漠。砂漠でもサボテンが立っていれば方向がわかるが、この大都会ではビルの乱立のせいでかえって方向感覚が鈍った。どちらを向いても景観が変わらないのが東京砂漠なのだ。
キャバ嬢の送り待ちをするアルファードのスモークガラスに自分の姿が映った。スーツを着ていることに気づいた。それもクローゼットの中で一番仕立てのいいペンシルストライプのドレッシーなスーツだ。肝心な時にしか袖を通さない。つまり肝心な何かがあったということだ。そこでニューロンとニューロンがわずかに繋がった。
結婚式に参加していたことを思い出した。
※
タカシは高校の同級生だ。バレー部で出会い、タカシがセッター、ケイスケがライトだった。マネージャーのワカと付き合っていたのはケイスケだったが、最終的にワカと結婚したのはタカシだった。指輪の交換直前、チャペルのドアを開けて、ちょっと待った! なんてドラマチックな展開を演出することなく、ケイスケはただ大人しく列席して誓いのキスを見守った。
ワカの魅力において欠点というものはほとんど見当たらない。脚は妖精たちが滑り台にするにはもってこいの長さと滑らかさがある。コカコーラの瓶みたいに自然な胸の膨らみとくびれを持つ。お酒をほどよく嗜むことができ、酔うと頬が紅潮する天然のメイクは愛らしい。黒曜石をはめ込んだように澄んだ瞳に見つめられると難攻不落な堅物の税関職員だって懐柔されてしまう。よく笑うが、歯茎が出るほど口を開けることはない。油断すると顎の下に肉が付きやすいのを自覚しているので、習慣的な摂生と週に三回のヨガを怠けることはない。でも、食事に誘われた時、あれもこれも制限しているから食べられないなんて、場の白けるようなことはしない。むしろ彼女が一番食べる。食べている時の彼女がもっとも魅力的だ。いや、もっと魅力的な瞬間があった。花嫁姿のワカだった。純白のドレスに身を包んだ天使が高砂にいた。
ケイスケは嫉妬のほむらが胸にふつふつと燃えてはいた。しかし、事もあろうに友人代表のスピーチを請け負ってしまっていた。
ただいまご紹介に与りましたから始まり、新郎新婦並びにご両家の皆様への寿ぎを述べた。
「ホーキング博士は」ケイスケはたっぷりと間を置いてからマイクに声を吹き込んだ。「ある日、彼の所属するケンブリッジ大学にて、タイムトラベラーを招くパーティを開きました。本物のタイムトラベラーを招待するために、一切の告知を致しませんでした。パーティが始まり、集まってきた人は、結果、誰一人いませんでした。未来においてタイムマシンが完成していないことの実証になったのです。ですが、もしタイムマシンが存在するとしたら、僕がタイムトラベラーになれるのだとしたら、間違いなく高校の卒業式の日に戻りたいと思います。それは部活を通して仲を育んだタカシ君を殴ってしまった日であり、当時付き合っていたワカさんに別れを告げた日でした」
会場はざわつき始めた。結婚式のスピーチにおいて、いかなる理由であれ、新婦と交際していた話などご法度に決まっている。新郎も新婦も顔が強張っていた。
ケイスケは構わず続けた。「タカシ君を、いやタカシを殴ったのには理由があります。タカシは、ワカと僕の仲を引き裂くために緻密で綿密な工作を三年間かけて実行していたのです。僕はまんまとはめられました。そのやり方はとても愚劣で、自分の手を汚さない、公衆便所の排水溝よりも汚い侮蔑すべきやり口でした。まず彼は――」
そこでマイクの音がミュートになった。スタッフがコンセントを抜いていた。後方の新郎側の友人席からバレー部の仲間たちが駆け寄ってきてケイスケを羽交い締めにし、会場を退席させた。
ケイスケはスピーチがあるにもかかわらず、控室の段階からだいぶ酒を呷っていた。乾杯後にはシャンパンを立て続けに三杯飲んだ。おめでたいのだから、とワインの赤と白を交互に飲んで紅白幕と重ねた。酒で気持ちを誤魔化すしかなかった。
控室に閉じ込められたケイスケは椅子を蹴って、壁にかけてある加山又造が描いたような、険しい山から音が聞こえそうなほどの滝が勢いよく流れる日本画をはずして叩き割った。スタッフが入ってきた。ケイスケは式場から退場をくらった。
ケイスケはタクシーを捕まえた。歌舞伎町に行った。目についたキャバクラに入った。目についた女を指名した。卓について見上げればシャンデリアがぶら下がっていて、バカラのグラスに入ったブランデーに光を注いでいた。その光は黄金色になって複雑な照り返しをしながら輝いた。深紅の革張りのソファは彼の腰に吸い付いたようにフィットした。もう、動くことができない。高級シャンパンを入れた。あまりにも延長を重ねて支払いも嵩んできたので黒服は不審に思い、ひとまずここまでの料金を精算してもらいにきた。ケイスケの財布には祝儀に用意した五万円しか入っていなかった。会計の十分の一にも満たない額だった。隣につく女を剥がされて、屈強な黒服に首根っこを摑まれた。ATMに連行され、クレジットのキャッシング枠の限度額まで下ろすことになった。財布を奪われて、あとは路地に放り投げられた。
朝方にゴミ袋がベッドになっている状況はこうして完成した。
そのような出来事を這いつくばるように西武新宿線に乗ってから徐々に思い出してきた。でもお金がないのにどうやって電車に乗ったのか。ケイスケは文字通り這いつくばって改札を潜ったのだ。早朝で周りに人はおらず、夜勤交代前の駅員も警戒心が薄かった。
しかし、沼袋に着くとそうはいかなかった。通勤を始める人は始めている時間だし、改札には、バッキンガム宮殿の門前を守っているかのように微動だにせず不正を取り締まる熟練駅員がいた。とにかく片道一八〇円が必要だった。そうでなければ一生駅構内から出られない。『ターミナル』のトム・ハンクスみたいだな、と彼は思った。
地見屋という仕事をドキュメンタリーで知った。地面を見る仕事、つまり落ちている小銭をかき集めて生活している人だ。自動販売機の底や小銭返却口をのぞく。そうして得たお金はもちろん申告しないし所得税もかからない。彼はいよいよ一時的に地見屋に転身しなければならないことを覚悟した。
その時だった。硬貨が何枚か落ちる音がそう遠くないところでかすかに聞こえた。構内の売店の近くだ。そのうちの一枚が転がってきて、彼の前で静止したのち、パタっと倒れた。五百円玉だった。これは何かの恩寵とばかりにまず、右足で踏んづけて硬貨の存在を消した。売店前には硬貨を拾い集めるOLがいた。手入れの行き届いたネイルが小銭拾いを困難にしていた。その子のものに相違ない。しかしケイスケだって必死だった。はい落としましたよ、と紳士にお返ししてそこでいくらか恋の予感が募ろうとも、今はそんな余裕などない。OLには申し訳ないけど、本日のランチにサラダとスープをつけてもらうのを我慢してもらう。
OLが二番線のホームに続く階段に消えていくのを見送ったあと、彼は右足をあげた。
改札を出ると道路工事が行われていた。都合が良かった。
ケイスケはどうしても叫びたくなった時、工事現場を探す。油圧ブレーカー――工事現場の騒音の正体――をドドドドドドドと使いこなす花形の作業員がいれば文句ない。ともするとブラジルの人も起こしてしまうかのようなドドドドドドドに紛れて彼は叫ぶのだ。
「あああああああああああああああああああ!」
ドドドが収まった。花形作業員は水分を補給し、額の汗を拭いた。助手にタオルを投げて、ブレーカーを持ち直した。ドドドが再開した。
彼の雄叫びも再開した。
「あああああああああああああああああああああああああああ!」
先ほどよりも少しだけ長く、息が続くまで叫んだ。いくらかスッキリしたところで幹線道路を離れた。帰路に小さな神社があった。普段立ち寄ることはないのだが、その時はどういうわけか吸い込まれるように鳥居を潜っていた。境内の隅に腰をかけた。白く白骨化した月が妙によそよそしく青白む空に浮かんでいた。
「ようよう、痛えよ、あんちゃんよう」
何処かから声がした。彼はあたりを見渡した。しかし人気はなかった。そう、人気はないのだが、何か別の温もりを感じた。
「こっちだよこっち」
彼は声の出所を突き止めた。お尻の下だった。白と黒と茶のもふもふを踏んでいた。猫の尻尾だった。ケイスケはお尻を浮かして下敷きになっていた尻尾を解放した。
「痛えじゃねえか」と猫は言った。「まったく、俺の睡眠を邪魔するなよな」
「あ、ごめん」とケイスケは言った。
猫は尻尾を毛繕いしてから「ところでだ。こうして俺は冷静を装ってはいるが、もしかして俺の言葉を理解できるのか?」
「僕も顔色には一切出してないけど、これでも相当驚いてはいる。でも場所が場所だから、大声をあげることはできない。ここが工事現場ならよかったのだけど」
「工事現場?」
「なんでもない」
「まあいいや。俺と話せる人間はお前が初めてじゃあないしな」
「神主さんとか?」
「神主? ああ、あいつは間抜けだ。俺のことをちっとも理解してねえ。でも俺だって飯を食っていかなきゃならん。撫でられたくもねえ奴に撫でられて、そいつを癒やしてチュールをもらうんだ。他の野良からは軽蔑の眼差しを受けているよ。狩りを怠って安易に身体を売るような体たらくな猫ってな」
「風俗嬢みたいだね」
「風俗猫だ」
「それで、話せる人に特徴はあるの?」
「特徴ねえ。あいつなんかは話せるぞ」猫は前脚を鳥居の方に突き出した。
しかし、猫が指し示す先には誰もいなかった。
「赤いランドセルを背負って黄色い帽子を被った子だよ。何? 見えねえのか」
「僕の目には何も」ケイスケは首を傾げた。
「なるほど。お前らの世界ではあの少女はいないことになっているんだな」
「猫は、幽霊とならお話しができるってこと?」
「そういうことになる」
「つまり、僕も幽霊?」
「自覚はあるか?」
「それが今のところまったく。ただ思い当たる節はいくつかある。むしろ幽霊になってしまっていた方が都合がいいほどの醜態を晒した。でも僕が幽霊なら君が見ているランドセルの少女も見えていておかしくないよな。『猫と話せるならば幽霊』というトートロジーは成立しなくなる」
「めんどくせえ話はするな。俺だってわからんよ。話せる奴とは話せる。話せねえやつとは話せねえ。それだけだ。人間同士だって話の通じないことは多くあるだろう」
「その通りだ。僕の方にも随分問題があるのだけど、コミュニケーションというものが得意じゃない。会話を始めるとすぐに詰まってしまう。腋の下に嫌な種類の汗をかく。投げたボールは全て的外れなところへ行ってしまう。相手の速い球も受け損ねる。何処かへ消えてしまいたくなる。人と接する時の僕は常に『蛇に睨まれたカエル』なんだ」
猫は一度大きなあくびをした。それから言った。「蛇に睨まれたカエル、ねえ。なあ、知ってるか。カエルは蛇に睨まれると思考停止して硬直し、丸呑みになる運命だと思われているが実は大きな誤解がある。カエルはもちろん捕食される側にはある。が、ビビってるから固まってるんじゃねえんだ。先に動くと不利なのをヘビもカエルも知っている」
「どうしてだろう? 真っ先に逃げた方が有利に思えるけど」
「カエルが逃げるためには跳躍する必要がある。が、一度跳んでしまうと着地まで進路の方向転換ができない。一方でヘビも咬みつき始めたらその動作は一直線だ。だから互いの動きを見てから動作を始めた方が有利になるわけだ」
「後の先をとるってやつだね」
「格闘技で言えば。コミュニケーションも同じだ。あんちゃんが無理に空気を作ろうなんて思わなくていい。相手の出方をじっくり待ってから、自然な相槌を打つだけでいいんだ。うまい返しをしようなんて考える必要もない。捕れる球だけ捕ればよろしい」
「なるほど」
「第一、あんちゃんはこうして俺とは滞りなく喋ることができるじゃねえか」
「僕も驚いている。対人だと喉に突っかかって何も言葉が出てこないのに、猫となら二ヶ月たまった宿便もするりと出てくる」
「俺を便秘薬みたいに言うな。なあ、そろそろ寝ていいか」
「時間を取らせたね。でももう一つだけ聞いてほしい。僕は友人の結婚式を台無しにしてきた。取り返しのつかないことをしてしまった。どうすればいいだろう。電話で謝れば済むだろうか。それとももう二度と会わなければ済むだろうか」
猫は顔を洗いながら思索に耽った。
「こんな小咄がある」と猫は言った。「真夜中、街灯の明かりが届くところで、失くした鍵を探している男がいる。『本当にこの辺りでなくしたんですか』と通りがかりの人が探すのを手伝ってくれた。男は答えた。『いえ、でもこの辺りは明かりがあるので』」
ケイスケは沈黙した。
「あんちゃんは過去に失ったものを見つかる可能性のある場所ではなく、自分が求めるのに容易な場所で探しているに過ぎないんだ。それでは過去を清算できない。五億回の呼吸を無駄遣いして死ぬのがオチだ」
「五億回?」
「哺乳類は個体の大きさの別なく、一生に五億回の呼吸をする。ネズミだろうがゾウだろうがネコだろうがその回数は一緒。あんちゃんたちニンゲンもまた決められた回数の中で生きている。こうしている今も呼吸は絶え間なく続いている。生命のカウントダウンは刻一刻と進んでいる。過去が増えて、未来が少なくなっている。悔いを抱えたまま死にたいのか」
「死にたくない。どうすればいい?」
「そんなの簡単だ。鳥居を逆立ちして潜るんだ。そうすれば、あんちゃんはその日に戻ることができる」
「本当に?」
猫は顎が外れそうなほどのあくびをしながら答えた。「本当に。なあそろそろ寝るよ」
「どうもありがとう」過去に戻れるかどうかは別にして、とケイスケは思った。「今度お礼をさせてほしい」
「カツオの刺身が俺の好物だ」
「焼津産のやつを届けるよ」
「もっとインスタントなお礼の仕方がある。俺の頭、撫でてもいいんだぞ」
ケイスケは猫の頭や腰や顎の下を撫でた。小さなトラクターを稼働させているように猫は喉を鳴らした。そっと抱き寄せてあげるとコクリコクリと丸くなって眠った。呼吸で膨らむ身体はたしかな体温を伴っていた。
彼は猫を、日があたるお餅みたいな丸い石の上に寝かせた。それから重たい腰をあげた。鳥居の前に来た。
物は試しに、と逆立ちをしてみた。現役時代なら容易くできたのに、三十歳のいささか肉が付いて重力を受けやすくなった体格では足を振り上げるのも困難だった。頭に血が上ってきた。六回目の挑戦でバランスを保つことができた。目に見えない少女が補助してくれたのだろうか。何歩か大急ぎで歩いて鳥居を潜った直後、バランスを崩して仰向けに倒れてしまった。痛いのは腰であるはずだった。
しかし、不意に頬が痛くなった。誰もいないのに頬に痛みを断続的に感じた。理解が不能だった。聞き覚えのある声が、ちょうど上空をヘリコプターが飛んでいる時のように途切れ途切れに聞こえた。それから強く揺さぶられた。
※
気がつくと結婚式場にケイスケはいた。
「おい! お前がスピーチするんだろうが!」
バレー部の主将だったハジメがケイスケの肩を揺らしていた。おまけにもう一発張り手をくらって完全に目が覚めた。
「司会に呼ばれてるぞ。まったく控室から飲み過ぎなんだよ。ほら、早く行ってこい」
リベロでキャプテンのハジメは証券会社の営業をしていた。厚い胸板と太い腕を持ち、大きな手の平でケイスケの背中を押した。
どこまでが夢でどこまでが現実なのだろう、とケイスケは思った。予知夢なのかもしれない。つまり、スピーチを台無しにしてしまったら未来はゴミ袋をベッドにしている。小銭を必死で見つける羽目になる。工事現場で叫ぶことになる。ここで心ならずも無難に祝福を述べれば二次会、三次会と続く。タカシとワカ、旧友たちとあの頃に戻ったように楽しく過ごせる。人生の分岐点が目の前にある。
花嫁姿のワカを見つめた。優秀な建築家が崩れることのないアーチ上の橋を渡すように芸術的な弧を描いた二重瞼の目と、目が合った。涙袋はぷっくりとしていて肌は薄めたカルピスみたいに透明感がある。ステンドグラスから注ぐ春の陽光を得ると美しい黒髪はキューティクルで天使の輪が浮かんでいた。彼女と天使の差は羽があるかないか程度のものだった。彼女が砂漠を歩けばたちまちその足跡から花が芽吹いてくるだろう。きっと。彼女は奇跡だ。
今でも、しっかりワカのことが好きだった。
ケイスケは壇上に立った。深い呼吸をした。何億回目の呼吸だろう、と思った。マイクに声を吹き込んだ。簡単な挨拶と、ホーキング博士の話をした。
「――僕がタイムトラベラーになれるのだとしたら、間違いなく高校の卒業式の日に戻りたいと思います。それは部活を通して仲を育んだタカシ君を殴ってしまった日であり、当時付き合っていたワカさんに別れを告げた日でした」
会場はざわつき始めた。ここまではまったく同じだった。
ケイスケは構わず続けた。「タカシ君を、いやタカシを殴ったのには理由があります。ワカが本当に恋をしていたのは最初の最初からタカシの方でした。当時からタカシは僕よりもずっと大人でした。僕はワカのことを好きだ、とある日タカシに告げました。彼は僕とワカを繋げるためにあらゆる工作をしてくれました。タカシは僕の乏しいコミュニケーション能力を抜群に底上げしてくれました。僕のオチも何もない話も、彼の的確な相槌と小匙いっぱいの毒を盛ったユーモアにかかれば壮大な物語になりました。これまでの拙い人生が彩られ、まるで偉人にでもなったかのような気分になります。彼が間に入り、僕の話のタネに水やりと追肥をすることで、ワカは笑顔の花を咲かせました。
三人でキャンプに行ったことがあります。タカシは薪を集めて器用に放射状に組み、焚き火を作りました。でも焚き火は煮炊きをするには小さ過ぎました。どうしてこんなに小さく作るのだろう、と僕はワカの隣で冷えた手を炙りながらタカシに質問しました。
焚き火は小さければ小さいほどいいんだよ、と彼は僕にだけ聞こえる声で言いました。だって近くに寄り添うことができるから。
この巧緻なセッターはいつも素晴らしいトスをあげてくれるのです。ワカと付き合うことができたのは完全にタカシのおかげです。ですが、ワカと二人きりで話をすると、最後はいつもタカシの話になりました。タカシくんってさ、とか、タカシくんならこう振る舞ってくれるでしょう、とか。
もちろんワカはそれなりに僕に好意を抱いてくれてはいました。しかしどこかで一線を引いていて、僕を見つめるよりはもっと違うところに視線を投げていました。その視線の先がタカシであることは卒業間際に知りました。いや、知ってはいたけど知らないふりをしていました。このままワカにとって一〇〇%でない男と付き合っていて彼女の人生になんの意味があるのだろう。そろそろ僕の方がトスをあげる番じゃないだろうか。
僕はタカシに告げました。ワカはお前のことが最初から今まで好きだったんだ。僕はマトリョーシカだ。マトリョーシカは最初は大きい。しかし蓋を開けていくにつれ、前よりは小さな人形が出てくる。その次はさらに小さなやつ。果ては米粒ほどになる。ワカの心から、僕はマトリョーシカ的に矮小化され、タカシの存在は三分間で四十倍になるアメーバ的に膨らんでいる。だからもう、ワカを頼む、と僕はタカシに言いました。
『馬鹿を言うんじゃない。親友の彼女を奪うほど俺は下劣じゃない』自分の血を吸う蚊も殺せないほど底抜けに優しいタカシはそう答えました。
いい加減にしろ、と僕は殴ってしまいました。お前もワカのことが好きなんだし、ワカもお前のことが好きなんだ。最初から僕だけがピエロだった。お前たちこそがお似合いだったんだ。これ以上僕に惨めな思いをさせないでくれよ。頼むよ。
ワカがその光景を見ていました。僕が理不尽にタカシを殴るその光景を。ワカは僕よりもまず、タカシに駆け寄りました。それで良かったのです。全ては最初からそうなるべきだったのです。
こうして二人が結婚してくれて今は心から喜んでいます。だからあの時タカシを殴ったこと、それはもう謝らなくていいよね。僕は君みたいに器用じゃないけど、当時の精一杯のトスのつもりだった。見事なスパイクを君は決めた。末長く、お幸せに」
会場は水を打ったように静まった。ケイスケは壇上の前で深々と礼をしたまま頭を上げられずにいた。どうしよう、また失敗してしまった。ゴミ袋がベッドになってしまう。どうして僕はいつも――。
そう思った瞬間、万雷の拍手が彼を襲ってきた。顔を上げた。タカシもワカも立ち上がって拍手をしていた。
「良かったじゃないか」と主将のハジメが席に戻ったケイスケの肩を叩いた。
ビールを一口飲んでカラカラになった喉に湿り気をもたらしてからケイスケは言った。「ようやく過去を清算できたみたいだ」
あれは夢だったのだろうか。ケイスケは新婦の友人が余興で踊る姿を眺めながら思った。不意にポケットを探った。三二〇円が入っていた。
三二〇円? とケイスケは考えた。心ならずもOLからせしめて電車賃を支払ったお釣りだと気づくまでに時間がかかった。スーツをよく見ると所々に毛玉がついていた。神社の猫のものだ。ほんの少し先の未来からやってきたのだ。ホーキング博士の仮説を否定したのだ。
ケーキ入刀のあと、高校のバレー部グループは高砂で集合写真を撮った。
ポジション通り、タカシは真ん中に、ケイスケは右端にいた。
【おわり】