【最終選考作品】サクラメント(著:あむだ前歯)


 横168cm、奥行と高さは大体80cm。‌
 押し入れの下の段、使い勝手が悪いからとうそぶいて(から)にしたままだったその場所に、私は聖域を作った。‌
 加工もされていないささくれた茶色がむき出しの、油断して触れれば木くずが指に刺さりそうな空間。そこに私はたくさんのポストカードを、クリアポスターを、カレンダーを、ブロマイドを、ラミネート加工された小さなカードを、押し入れの中に貼り付けた。奥側の壁面はグッズで埋め尽くされている。‌
 その全てが【彼女】の姿を映したものだった。幼い頃に決めた進路を突き進む強い意思を持ち、鍛錬を重ね、今では歌劇団でトップスターとして舞台に立つ彼女の。‌
 彼女私の神様が真っ赤なルージュで(よう)(えん)な流し目をしている写真も、ヌーディなベージュのリップと私服でナチュラルに微笑(ほほえ)んでいる写真も。彼女を写したものは全て(いと)おしく(とうと)いものだった。何十(つい)もの彼女の切れ長の目が押し入れの中の空間から私を見ている。ここにいると実際の自分は孤独な人間なのに、それを忘れられた。彼女とのつながりが、私を孤独から救うのだ。‌
 私は(つた)のように一本につながった小さなLEDライトを、写真の(すき)()()うように押し入れの内側に貼り付けた。そのライトの淡い光と彼女の肖像が満たす空間に、尻だけを(たたみ)の上にはみ出させたまま頭を突っ込んで、じっと彼女の顔を見つめ続けている。‌
 外から見れば()つん()いになって押し入れの整理をしているようにも見えるかもしれない。だが冷静になれば尻だけ出した姿でぼーっとしてるのは間抜けに見えるだけだ、それでもこの家で私が聖域を維持し、そこに浸るにはそうするしかなかったのだ。‌
 人の顔の写真ばかりが押し入れの狭い空間とはいえ壁一面を埋め尽くすこの光景、一番近いと思ったのは海外ドラマに出てくる殺人犯が獲物を狙うときの部屋の中だった。しかしこれは殺人事件などではなく私の贔屓(ひいき)の写真だ。舞台の上では誰より美しく妖艶な男性を演じるけれど、舞台から降りると美人の女性、飼っているうさぎを大層かわいがっている女の子。彼女への祈りの場だ。‌
 舞台上で見せる苦しい顔も怒りの顔も全てが美しい人。この世のものとは思えない彼女の美しさを見つめている時は何より幸福だった。こうして押し入れの聖域で彼女を見つめていると、あの人の声すら聞こえる気がした。私は彼女の全てを知ろうとして、そのうちにだんだんと心の中に彼女が住み着くような感覚になっていた。写真の彼女に見つめられているだけで、こうして彼女のことを思っているだけで、孤独は消え去る。‌
 突然、どんっと尻に衝撃が走った。一瞬何が起きたかわからなかった。押し入れの下に突っ込んでいた頭を部屋に戻して、私の前に立ちはだかる夫の不機嫌そうな目を見あげて、ああ今のはたぶん()られたのだ、そう、あとから気が付いた。暴力を振るわれた時、心と指先が冷えるのは痛みのせいではない。暴力をふるっても構わないような相手だと思われたのだと気づいた瞬間にこそ、心が冷える。‌
「おい何してんだよ、メシ作ったのか?」‌
「おおかえりなさい、もう下ごしらえはしてあるから、あとは火を入れるだけ」‌
「結局出来てねえってことじゃねえかよ、ほんっと使えねえなあ。帰ってきてメシが出来てないとかお前存在する意味ある?」‌
 ごめんなさい、すぐやるね、そう(ささや)いて私は自然な仕草を取り(つくろ)いながら立ち上がり、押し入れを閉める。‌
「しかも結局物置部屋全然片付いてねえじゃん、ハルはほんっと全部トロい」‌
「ちょこちょこは進めてるんだけど」‌
 聖域から文字通り引きずり出された私は、不機嫌そうな(いち)(べつ)を寄越してからすぐに背中を向けた彼の後をついていく。‌
 夫であるケイは、いつかの私が今日と同じように彼に見つかった時に(とっ)()につぶやいた「引っ越しのごたごたで物置にした部屋の片づけをしている」という言葉をずっと信じていた。でも私はこの部屋にいても一切片付けなんかしちゃいないし、むしろ押し入れの中にグッズを一点ずつ増やしている有様なのに、彼は気づかない。興味がないから。私が従順でいるかどうか、正しく「奥さん」であるかどうか、それだけが彼が私を見る唯一の基準だった。‌
 彼と結婚したのは数年前だ。お互いにこの人「が」いいとは思っていなかったのだろう。タイミング的にこんなものか、そんな()(きょう)で決めた結婚だった。私は結婚と共に仕事をやめた。彼に専業主婦になってほしいと言われたから。そもそも、結婚した途端に夫の会社の都合で転勤が決まったから仕事なんて続けられなかったのだ。そして仕事をしてないんだからと、転勤にまつわる(ぼう)(だい)な事務作業や手続きは全て私がやった。苦手な書類との格闘を、夫に横からなじられながら進める。知り合いもいない縁もゆかりもない土地に住むための、途方もなく終わりの見えない手続きと決めなければいけない物事の連続。手を動かしながら、自分の墓を掘る仕事というのはきっとこんな感じだろうとぼんやり思った。‌
 しかし、そんな住み始めるまで名前も知らなかったような場所、何度書いてもいつまでたっても音も(つづ)りも身に()みない果ての地に、彼女は来てくれたのだ。お隣さんに連れられていった一回五千円もするスピリチュアルセラピー(浄化セージのお土産(みやげ)つき)と同じ場所に、あの人は来てくれた。‌

「腕をまっすぐに伸ばして! 隣の人の呼吸を感じて! 全身で大地と一体化して!」‌
 市民会館ホールの(だん)(じょう)でスーパースピリチュアルアドバイザーのシスター(いま)(もと)さんが朗々と叫んでいた。客席の女性たちも歓声を上げながら今元さんに言われた通り腕を上げている。私をこの会に連れてきた(とお)(やま)さんは隣で感激して泣き出した。私がゴミ出しの時に暗い顔をしてたからってわざわざ家まで押しかけてきて、スピリチュアルセラピーに一緒に行こうと言い出したお隣さん。どうにか断ろうとしたのに、彼女の訪問が運悪くケイが出かけるタイミングとかぶったせいで、(そと)(づら)だけは良い彼は「ぜひこいつ連れて行ってあげて下さい! こっちに来てまだ友達もいないんで!」なんて言って勝手に話を進めていたのだ。断ることも出来ず、私は妙な熱気に満ちた市民会館に連れてこられて、周りと同じポーズを取りながらしかし困惑していた。‌
 遠山さんが言うにはシスター今元さんは(もの)(すご)い有名人で、直接声を聞けることがどれだけ貴重か! とのことだった。その熱弁にうまく驚いた顔も出来ず、私はへらりとその言葉を受け流してその場をやり過ごそうとするだけだった。居心地は最悪だったけれど、それはこの会のせいというよりもこの(とう)(すい)に一切混じれない自分がいたたまれなかったのだ。こんなにわかりやすくお(ぜん)()てされた「のめり込む」ための空間にすら、私の居場所はなかったそれが、何より苦しかったのだ。‌
 置かれた場所で咲くしかない、首まで地面に埋められた私。‌
 あの人はそんな私の前に来た。ギラギラの巨大な羽根を背負って、水色のアイメイクとつややかな濃い赤いルージュとを身にまとって、彼女は私を、救いに来たのだ。‌
 子供がいないけれど、欲しくないという顔も許されない町で、私は何とか取り(つくろ)うように公民館の子供さん相手のイベントにお手伝いとして参加していた。この街の人間は子供がいるか、『まだ』いないの二択しかない。‌
 ケイは私が働きに出る事は許さないけれど、こういう「家の中の人間」としての振る舞いは許した。そしてイベントの手伝いで知り合った人が、うちのおばあちゃんが楽しみにしていたけれど足の()()をしてしまって、興味があれば代わりに舞台を見てきてくれないか、と声をかけてきたのだった。‌
 正直興味があったとは言えない。だが、私の友人と会うと言うと、ケイは不機嫌になる。オレだって友達はここにいないのにとむくれる。だからこの地域で知り合った人の付き合いでというのは彼が私に許したほぼ唯一の他人とのかかわりで、家からほんの少しでも脱出するチャンスだったのだ。「ご近所さんと仲のいい奥さん」は、ケイの想像する「正しい世界」に存在するものだから。‌
 渡されたチケットに書かれた会場がスピリチュアルセラピーと全く同じで、私はあの空間を思い出して一瞬足がすくんだ。ここはお前の場所ではないと言い聞かされる感覚。実際あの場の空気にのることも出来ず、そのフリすらできない、どうしようもなく不器用な自分が再び現れるのではないかと恐怖した。‌
 おびえながら何とか座席までたどり着いてから、少しほっとする。スピリチュアルセラピーの時遠山さんは凄く良い席を取ってくれたようだった、確かあのときはシスターがハッキリと見える位置だったけれど、今日の席は舞台からは遠く、三階から見下ろすような席だったから。一番安い席とはいえ舞台が三千円で見られるのには驚いた。そしてこれくらいの距離が私にはちょうど良いのかもしれない。寝ちゃったりしてそれが舞台の上から見えたら申し訳ないし、そう思って私は遠目で舞台を眺めつつ開演のアナウンスを聞いた。‌
 二幕仕立てのその舞台、私は(きゅう)(けい)時間になった瞬間トイレに並ぼうと小走りになる女性たちの列をかき分けて、受付カウンターへオペラグラスをレンタルしに行っていた。行かなければならなかったのだ。‌
 舞台は凄く遠いのに、彼女をすぐそばに感じた。シスター今元よりずっと近かった。‌
 柔らかく吐き出される息の音や、涙混じりの口付けの湿度、ヒロインに道ならぬ思いを抱いてしまった主人公の苦悩と、同時にあふれる恐ろしいほど深い愛情。そのすべてが伝わってきたのだ、遠い遠い舞台の上から、三階の端に座る私のところまで。‌
 私は(じゃっ)(かん)の恐怖が混じった(こう)(よう)と混乱を感じながら、二幕から始まる「ショー」はオペラグラスをとおして見た。‌
 全身の血が(ふっ)(とう)して、視界が赤くなる気さえした。こんなに人は興奮出来るものなのだと初めて知った。こういう舞台はただ美しいものを見て楽しむような、そんな穏やかなモノなのだと思っていた。紅葉を眺めに行くような、確かにきれいだけど穏やかで退屈なものだろうと思い込んでいた。‌
 しかしそうではなかった。舞台上で女性同士が演じる濃い情愛を、相手の身を焼く熱線のような視線と感情を、自分より年下の女の子から自分の(そう)()()くらいの年齢の人まで、夢中になって見ているのだ。その衝撃に頭を揺らされているうちに私はあっという間にこの世界に転がり落ちていた。‌
 私の目と脳をオペラグラス越しに焼き切った彼女はトップスターだからこそ、無限にグッズが出ていた。私は少しずつそれを通販で買い集めた。私が聖域を作りはじめたのは、その出会いからすぐの事だった。‌
 始めは写真やポストカードを手帳に挟んでこっそりのぞき込んでいた。だが薄い一枚の紙はそのうちドンドンと増えて手帳からあふれだし、そのうちに自然と『飾らなければ』という感情が湧いたのだった。だがもちろん夫には見せられない、見せたくない。彼は、人の気持ちを踏みにじる天才だった。どんなに素晴らしいものでも、私が好きだといえば価値がないと見なす()(けい)な人間に、彼女の姿を見せたくなかった。そうしてたどり着いたのが、押し入れの一段目だった。‌
 この家はもともとファミリーで住むのを想定していたようで、二人きりの暮らしには部屋が余っていた。そんな余った部屋の中に引っ越しのバタバタで整理のつかないものをみな放り込んだ物置部屋、それがここだった。押し入れの一段目はなんだかんだ不便で、ずっと空っぽのままだった。そして(ほこり)っぽいこの部屋にケイはめったに入ろうとしない。ここしかないと、何かに導かれるように私はまず、マスキングテープで一枚のポストカードを押し入れの中に貼った。その瞬間、暗くて埃っぽい家の中の無意味な空間が意味を持ったのを感じた。この狭い空間こそ、この家の中で一番(せい)(ひつ)な場所になった。彼女はポストカード一枚で、私がこの家の中で楽に息が出来るようにしてくれた。‌
 それからは、彼にバレないように少しずつ彼女の肖像を増やしていった。押し入れの奥に()つん()いになるなんてことを夫が絶対にしないことは分かっていた。そもそもこの部屋にもめったに入ってこないのだから、そう思って、だんだんと隠れて飾った彼女の写真を四つん這いで見つめる時間が増えていった。だからある日、私を探しに彼がこの部屋に入ってきたのにも気が付かなかったのだ。‌
「おい、何やってんの? 探したんだけど返事しねーし」‌
 息が止まった。異教徒が土足で聖域に入り込もうとしている。そしてその声に込められた不機嫌具合に、彼が今にも爆発寸前だと察知する。少しでも間違った答えを差し出せば、あっという間に彼は何もかもをめちゃくちゃにしかねなかった。‌
「この部屋、いい加減整理しなくちゃって思って。収納のサイズとか、いれるモノの順番とか考えてたの」‌
 そして私はピンチに追い込まれた時の、咄嗟の虚言に()けていた。なんでもない顔をしながらゆっくりと後ろ手にふすまを閉めた。‌
「ここが整理出来たら、ケイくんが欲しいって言ってたロードバイクも、部屋の中で保管できるようになるかなって」‌
 すらすらと出た虚言、まったく本心ではない言葉を彼はもっともらしく聞いていた。彼のためだと言えば、まさかこの私が彼に嘘をつけるわけが、裏切れるわけがないとそう信じているのだ。‌
「ふーんじゃあいいけどさ、オレのモノ勝手に捨てたら許さないからな? あとお前は服とかどうせ多いんだろ、そっちから捨てろよ」‌
「うん、わかった。ちょっと時間かかっちゃうかなって思うけど、整理頑張るね」‌
 それに返事はせず、彼はドカドカと足音を立てて部屋を出ていった。私はそっと深く息を吐き出してから、さっき閉めた押し入れのふすまをもう一度だけ引いて、その奥を四つん這いで(のぞ)き込む。彼女の微笑み、彼女の苦悩、彼女の踊る姿様々なあの人の表情に囲まれたそこは、本当に、()()でなく清潔なにおいがした。彼女の肖像に触れた空気を深く吸い込むことでなんとか、私はこの家で()いられる酸素ボンベなしで深海を歩かされるに等しい生活の中、何とか呼吸が出来た。‌
 ここは聖域、彼女は神様だった。‌
 聖域づくりに精を出す(かたわ)らスマホで見られる動画配信にも助けられた。スマホの小さな光の窓は臨場感には欠けるものの、私が息継ぎをするための水面にはなってくれた。トイレで五分ずつ、彼がお風呂に入っている時に十分ずつ決まりを設けながら、私はひとつひとつの映像を()め回すように見続けていた。舞台の公演の映像もあれば、同期たちとバラエティ番組でにこにこしながらじゃれている動画も。彼女の(ほが)らかな明るさと人懐っこさ、何もかも隠さないであっけらかんとファンの前で言ってしまう姿を見て、舞台の上とはまた違う彼女の人間としての魅力にも()かれていった。知れば知るほど、どんどん彼女が自分に近づいてくる気がした。コンビニで売ってるホットスナックが好きだとか、いつも使っている入浴剤は何だとか。彼女自身によって明らかにされるこまごまとした情報は、聞くだけでまるで自分が彼女の友人にでもなったように思わせるには十分だった。‌
 キリスト教の社会で、神は隣にいるという、だから神に恥じないようにしなさいと教わると聞いた。今ならよくわかる気がした、彼女は心の中で尊く遠いものであると同時に、友人の距離にいると感じるようになっていた。‌
 トップスターである彼女は、(おぼ)れるほどに映像もグッズもあった。それでも厳選しつつ手にとりながら、結婚前の貯金に感謝する日々だった。これも夫には咄嗟の虚言で隠していたもの。「貯金はないよ、親に仕送りしてたから」過干渉の私の両親にケイがうんざりしてるのは知っていた、それ以上彼は追及しない事に決めたようだった。しかし私自身が、あまりにも自然に自分が嘘をついたことをずっと気にしていた。いつかバレたらどうしようと(おび)えていたけれど、今となってはそんな事思う必要すらなかった。今こうして彼女に祈りをささげるために、私はこれまでそのストレスを抱えてきたのだ。‌
 夫の監視の下で息ができたのは、神様がいたからだった。どこを踏めば爆発するのかわからない爆弾が耳元で毎日(さく)(れつ)するのを聞きながら私は彼女に(すが)りついて生きていた。‌
 それでも実際の舞台を見に行けた回数は多くはなかった。家からは三時間電車を乗り継いで、やっとのことで()()()の劇場にたどり着く。会社帰りにふらっといけるようなものではなくて、夫に嘘をつき命がけの小旅行だった。きっとバレたら、これまでと違って顔を(なぐ)られるかもしれない。彼は私が一人で楽しんでいると、ひどく不機嫌になるのだった。‌
 しかし命をかける価値は確かにあった。劇場で彼女の流し目に脳を焼かれ、二千人に聞かせるために劇場中を満たすように響く吐息に拍手をしながら泣きそうになる。私は必死にオペラグラスを上げ下げして、彼女を追う。いつの間にかストーリーが追えなくなるくらいに彼女ばかりを見つめていた。‌
 人に『色気』を感じて、それを尊ぶことが許される空間。その場で私は自由だった。彼女の事を好きだと思うとき、舞台上の彼女のことを一生懸命オペラグラスで追っているとき、私は自由だった。‌
 セクシーとか色っぽいとか、女性が発する性を思わせるものはみな、「男性のもの」だと思い込んでいた。だけど彼女の目線は、声は、愛は、まっすぐ私に向けられていた。‌
 全く「男性に向けた」エロスを感じないその色気に当てられて、ふと言葉が自分の心に降りてきたのを感じた。「取り戻した」と。‌
 女性の身体(からだ)は、色気は、性欲は、決して彼らのものではない。それは私にとって(てん)(けい)だった。‌

 舞台の感想は、帰ってから押し入れの中の彼女に報告する。私たちだけの聖域で、彼女自身がどれだけ素敵だったかを伝えるのだ。だんだん舞台を見ている時よりも、押し入れの中で彼女と見つめあっている時にこそ、彼女とつながっているという実感を強く感じるようになっていた。劇場では二千人と一人の対話だけど、押し入れの中なら一人と一人だ。彼女は私の声を聞く。私は彼女の声を聞く。心の中で、私と彼女は通じあい同じものを見ていた。私たちは一つだった。‌

 ある日スマートフォンが振動して私に知らせたのは、そんな日々の終わりを告げる通知だった。‌
たいだん」‌
 口からこぼれた音は、うまく自分の中で像を結ばずに、ばらばらのパーツのままぽろぽろと床にこぼれていった。料理を作っている最中にスマホを開いて通知を確認してから、私は(なべ)が噴きこぼれるまで自分が硬直していたことに気が付かなかった。‌
 退団。いつかは来るとはわかっていた、でも今ではないと信じていた。彼女は、トップスターになってからたくさんたくさん我慢してきた人だった。感染症で何度も舞台が中断になっていたことを知った、そんな中でも私の住む地方に来てくれていたのだと感謝の念がたえなかった。‌
 他のトップスターが話題性のある新規作品を手掛ける中、彼女は何作も古い作品の焼き直しをさせられていた。古典の再現が出来るというのは芝居技巧者だからかもしれないと思うし、今我慢すればこれからもっともっと色んな世界を見せてくれると思っていた、というよりだからこそ我慢したことがたくさんあった。でもきっと長くそばにいてくれるだろうから、耐えられるその忍耐が今、つき壊される感覚があった。‌
(どうして)‌
 きっと彼女も、不完全燃焼のはずだ。これじゃあ報われない、「もっとやりたかった」よね、私は彼女の悲しみと怒りを夢想する。押し入れの聖域を通して彼女と私は同じ感情を共有していた。だから今私が悲しんだり怒ったりしているということは、きっと今の彼女も同じ感覚でいるに違いなかった。普段なら幸福に思える感覚が、ひどく苦しくて仕方なかった。‌
 夕食の時間になっても表情をうまく取り繕うことも出来なくて、私は自分が作った夜ご飯を前に、悲しみに(おお)われた顔をしていた。そしてそれを、許すような夫ではなかった。‌
「なんでそんな顔してんの? 食べる気失せるんだけど」‌
っ、あの、好きな芸能人が、引退、みたいなニュース見ちゃって」‌
「げぇいのうじん~??」‌
 なんで私はいつも忘れてしまうのだろう、本当の事なんか彼にいうべきじゃないと。‌
 漢字にすればたった三文字の言葉を、よくもまあこんなにも意地悪く言えるのだろう、(かん)(たん)するくらいに彼の言葉は悪意に満ちていた。語尾には確実に(笑)がついていたし、わざとたどたどしく言われた言葉には「いいよなお前はそんな風にずっとテレビも見れて赤の他人がテレビに出るだの出ないだのたったそれだけで落ち込んだりする暇があって、本当どうしようもねえな」という意味まで込められているのが、私には分かった。‌
「そんな他人の事でつらいみたいな顔されても困るんだけど? そういう顔されると責められてるみたいな気持ちになるんだけど」‌
 彼は私が微笑んでいないといつもそう言った。つらい顔痛い顔苦しい顔、少しでも見せればいつでも彼は不機嫌になった。私がつらいと感じた事実の何が彼の不利益になるのかわからなかったけれど、夫はそう信じていた。‌
 こんな日だからしたくないと言ったのに、彼は私が食卓で悲しげな顔をしたことへの慰謝料としてセックスに付き合うよう命令した。普段は(たん)(ぱく)でめったに私に触れることもないのに、私が悲しむ事も自分以外の誰かを考えている事も気に食わないのだ。()に服す時間と寝る時間を奪うように、彼は私を抱いた。そのままベッドで眠りに落ちた彼とそのまま朝まで一緒にいたくなかった。私は冷水のシャワーを浴び、(ざん)()を皮ふの上から押し流してからリビングのソファで眠った。翌朝はほとんど眠れないままキッチンに立っていた。そうしておけば彼は私が同じベッドで眠らなかった事に気付かず、不機嫌にもならない。‌
 夫が仕事に出てから、私は大急ぎで家事を全て終わらせると、退団会見のニュースを求めスマートフォンを握りしめていた。‌
 どこかで会見を生放送してくれたらいいのにと思ったけれど、残念ながらそれはない。私は会見が終わった途端に大量に出回ったネットに上がった記事や動画を、一つ一つ食い入るように読み始める。‌
 その瞬間まで私は、彼女が私が感じているように「もっとやりたかった」そう言ってくれると信じていた。こんなのひどい、まだまだやりたい事があった、劇団でもっとかなえたいことがあったと、どこかそんな言葉を口にしてくれるのではないかと思い込んでいた。‌
 でも彼女はどこまでも晴れやかに、やり切った、そう言っていた。あとは最後の公演の日まで頑張ります、そんな事をそつなく笑顔で言い切っただけだった。まるで他人のようだった。動画の中で言葉を発する彼女も、記事の中に大量に立ち現れるテキストの彼女も。‌
 やり切ってないまだまだ見たりないと叫んでいるのは私たちファンだけで、彼女がもう、吹っ切れてしまっていることを、記事を読めば読むほど理解させられるだけだった。‌
 私は彼女の毎朝のルーティンも、朝一番で何を飲むかも、劇場についてからのアップの順番も、どこで服を買うかも、お正月にはどんな風に過ごすのかも、お(もち)の好きな食べ方も、お風呂で最初にどこから洗うかも知っているのに、彼女が未来について考えている事、その一つもわからない。‌
 何でも知ってると思っていた、私は聖域で彼女と見つめあい、舞台でオペラグラス越しに見つめあい、色々な記事や番組で彼女自身の言葉を聞き、すぐそばに彼女を感じていた。同じ気持ちでいるに違いないと思い込んでいた。‌
 妙な寂しさと、心の中に冷たい風が吹き抜けていくような荒涼とした感覚があった。その風が、私と彼女の聖なる(つな)がりを断ち切ってしまった。‌
 私にとって人生のすべてになっていた彼女にとって、私の人生は全く関係のないものだった。私と彼女は、同じ事を考えているのだと思っていたのに、実際は、彼女が与えてくれたパーツを使って、きらびやかな芸名の上に広げられたパズルを組み合わせて、私が見たい「あの人」を生み出していただけだった。‌
「痛ッ」‌
 気付いてしまった絶望でその場にくずおれる前に、ずきっ、と嫌な風に下腹部が痛んだ。心臓の音に合わせるようにずきずきと鈍い痛みが続く。ケイに抱かれた日はいつもそうだった。その痛みは私と彼女の人生は関係がないのに、私とケイの人生には関係がある、むしろ、私の人生に今一番深く関係しているのが彼だということを思い知らせてくる。‌
 ぐらぐらと、また血が沸騰する。彼女を初めて舞台で見た瞬間とは違う感覚だと、わかっていた。‌
ふざけるな」‌
 痛む腹をかばうように手のひらをのせながら、私は思わずつぶやいていた。‌
 聖性で繋がっていた彼女から切り離された実感、神に見捨てられた感覚。それに十分絶望しているのに、その後に残されたのはこの狭い町と、暗い家と、私の感情ひとつすら自由にさせない夫だと気づくと、その絶望の何倍にも(ふく)れ上がった恐怖と怒りが襲ってくる、嫌だここに閉じ込められるのは絶対に嫌だと、強い感情が自分の中に(うず)()くのを感じる。こめかみのあたりが熱をもって、ぼうっとなる。‌
「嫌だ、いやだ!」‌
 久しぶりの感覚だった、私は怒っていた。‌
 この家では嫌だという感情を抱いても、それに正しく対処しようとすると更に傷つくと分かっていた。怒りも痛みも抱いたところで、この狭い家の中では露わにした瞬間その代償を支払わされる。それならそんなもの抱かない方がマシだと思うようになった。‌
 もちろん贔屓(ひいき)の退団は嫌だ、でもそれ以上に彼女の聖性によって何とか耐えていた世界がこんなにもクソだと気づいてしまったからこその怒りだった。私の人生と彼女の人生になんの関係もなくなってしまったのに、私の人生にはケイとの太い繋がりだけはあるという事実に、気づいてしまったから怒っていた。‌
「あぁあああ」‌
 かすれた妙に高い声が口から勝手にこぼれる。何とか怒りのままに吐き出したそれは動物の鳴き声のようだった。それでも、唇からにじみ出る声と共に心が少しずつ軽くなる気がした。‌
 それに合わせて、一つの言葉が頭に浮かぶ。逃げよう、と。‌
 繋がりが憎いなら切ってしまえばいい。そして失われたのならまた、勝手に結んでやる。自分の思いを相手に重ねる乱暴さを自覚しながら、今度は聖人としてではなくて、一人の人間として彼女を愛せるように。‌
 そう思ってからは早かった、家の中は広かったけれど、私の大切なものは押し入れの下の段、そこに収まっているものだけだ。押し入れの壁に貼り付けていた写真に手をかける。私の聖域を崩していく。私が生きるために。‌
 写真を一つずつはがしてファイルに入れて、余ったものは折れないようにお菓子の缶に入れて整えるとボストンバッグに収まるくらいになってしまった。‌
 私と彼女の間にあったはずの聖なる繋がりはもうほどけた。私は彼女と同じ世界を見れないし、彼女は私の存在なんか知りもしない。それでもかまわなかった、私は彼女が好きだった。自然と浮かんだその言葉に、(あん)()している自分がいた。私はまだ、彼女の事が好きだった。‌
 どこに逃げるかは、当たり前のように決まっていた。兵庫に行こう。彼女の最後の舞台を()いなくこの目で見届けるために。‌
 彼女が退団した後、私の人生がはじまるのか終わるのかすらわからない。だが最後のその日まで、私は彼女を見つめ続ける。私の事など視界に入れてくれない、ただ美しい人間としての彼女を見届けると決めた。(しん)(おお)(さか)行きの新幹線を調べる。三時間後のものなら乗れそうだ。そういえば新幹線に一人で乗るのも初めてだった。やはり高揚と恐怖はないまぜで、でも幸福だった。‌
 全てを捨てて、写真だけを抱えて、私は西へゆく。‌

【おわり】‌