【最終選考作品】冬乙女の口づけ(著:桐生燈子)
アルドナは冬が好きだ。
鼻が曲がるような汗と垢のこびりついた体臭も、糞尿の匂いも、床ずれの膿の匂いも凍てつく寒さに紛れてましになるからだ。
この数ヶ月、祖父のジャネクの寝室には死んでいく獣の匂いが漂っていた。それでもアルドナがその体を拭い、スープを飲ませ続けるのは、母カリタの願いゆえだ。
「ドナ、どうかあの人の死に様を見届けて。そして教えて。あの人がどんなに無様に苦しんで死んだのかを」
狂気のこもった母の潤んだ目。祈りに似た囁きを、アルドナは心から追い出すことが出来ない。虫を抱いたまま固まり放さない琥珀のひと粒を思わせる、澄んだ苛烈さだ。
跡継ぎが欲しいのだと五年前の祖父は言った。アルドナが十歳の頃だ。両親は反対したが、抗いきれなかった。アルドナはヴィリニュスから馬車で四時間ほどかかる、祖父が統治する山あいの荘園へと連れてこられた。
母が祖父の元を離れた経緯は知らないが、最後の日の様子といい、恨んでいるのに相違ないだろう。別れの日は三人とも泣いたが、祖父が抗議を受け入れる様子がないのも、畏怖と厳しさの印象を植え付けた。
母がここを出て十年以上経つらしい。聖職者として屋敷に出入りしていた父が母と結ばれ、二人して全て捨ててヴィリニュスまで逃げたのだが、祖父の手から完全に逃げ切ることは出来なかったようだ。それとも初めからうまく泳がされていただけかもしれない。
ともあれ、アルドナの元に祖父が初めて顔を見せた頃は、足腰もしっかりして、きらきらしい衣装の威風漂う姿であった。大公やポルスカ王というものを見たことがないアルドナだったが、こんな感じのお方に違いないとぼんやり思った。
アルドナの母が出奔してすぐに、祖父は妻と息子を失ったらしい。短期間に肉親を失った祖父を悼ましいと思わぬでもない。だが両親が苦労した理由は彼にあるかもしれないと思うと、心を開いて接するのは難しかった。
「多くは問わない」
いつまでも懐かないアルドナを叱責するでもなく、祖父は言った。母は嫌がるだろうが、濁りはあるものの透明な残酷さを持った目は母とよく似ていた。鷲のような鼻も、白くなった口髭も、父の柔和さに比べると、冬の雪が降る前の雷光のように思えた。
だが祖父は見た目よりも優しげで落ち着いた声でアルドナに告げた。
「ここで学べることは全て学びなさい。無理を重ねてここへ来てもらったのだ。お前の希望は叶えてやりたい」
アルドナはその言葉を聞きながら首を傾げた。跡継ぎが欲しいとの名目だったのに、無理に婚姻を結ばせる気はないようだ。雌鶏に卵を産ませて用がなくなればつぶして食べるのと同じだと思っていたのに。
生活は一変した。以前は着ることの出来なかったような暖かい丈夫な服を着て、三食古くなっていない食事を食べ、三日に一度ではあったが熱い湯に浸かる豪勢な暮らしを体験した。忙しそうな祖父ではあったが、時折優しさも垣間見せ、馬の遠乗りや弓の引き方などを教えてくれることもあった。娘らしく針仕事の手伝いなどをしていると、お前のやるべきことは違うと叱られた。お前の仕事は学ぶことだ。天文を、風の読み方を、土と水の動きを、草花と動物を学べ。ポルスカやルーシの国の文化と言葉を学べなどと言われる。
アルドナは今までと反対のことを望まれ、居心地の悪さを感じた。敬虔であれ淑やかであれと教わったのに。だが、すぐ慣れたし学ぶことも嫌いではなかったので従った。
そうして日々は過ぎていった。
この土地は冬になれば雪に閉ざされおいそれと外に出るのも難しくなる。
堆く積もる雪だけではなく、北の海から吹き付ける、方向感覚すら狂わせる切り裂くような吹雪が恐ろしい。ましてこの土地は切り立った山のせいで風が鋭い強風となる。窓も扉も凍りつくこともあり、何もかも白く色を無くす世界で、最初の一年は父母の温もりを思い出して泣いたりもした。
だが泣いても逃げ出す場所もない。アルドナは言われた通り学ぶことに決めた。無聊にかこつけて、自由に入っていいと言われた祖父の書斎に入り浸るようになった。
地主の家らしく、高価な写本も多くはないが置かれていた。語学の本、農作物についての書き付け。母に似た誰かの肖像画が置かれているのも見つけた。おそらくこれが祖母だろう。ひっそりとたくさんの物に隠れるように置かれていたのが少し不憫だった。
そのうちに、『冬乙女の伝説』という本に引き寄せられた。それだけ他より古びていて、何度も読まれたらしい痕跡があったからだ。高価な絵の具で描かれたらしい、鋭い眼差しをした美しい女性の絵が挟んであった。
『吹雪は獣の足跡も橇の跡もすぐさま消し去る。血も凍るそんな吹雪の日を狙って、冬乙女はやってくる。白い毛並みの狼が引く橇に乗って風を操り空から滑り降りてくるのだ』
よくある寝物語の悪い老婆の魔女とは違って、誰もが心を奪われるような若く麗しい妖婦の姿をしているらしい。
『冬乙女が求めるのは永遠の若さと美しさだ。美しく、慎みのない不用心な娘を攫っていっては、数十人の姉妹と分け合う。
どのように分け合うか? 初めに全員でその娘の額に、頬に、唇に口づける。すると、その娘はとろけるような表情で夢の中だ。
痛みを忘れたまま、娘は首から血を抜かれる。その血を飲み、または体に塗りたくる。血が抜けて体が萎み切る前にその皮を剥いで、古い自分たちの肌と取り替えてしまうのだ。その狂宴は見るに堪えず、彼女らの笑い声は吹雪の叫びに似ているという。
だが、心配無用。十字架を掲げた家に魔が忍び込む隙はない。敬虔な祈りと慎みだけがその身を守る。どんな時も冬乙女は姿を変え形を変え、どの娘が良いかと品定めを怠らない。ゆめゆめ慎みを忘れぬよう――』
馬鹿げているとアルドナは嘆息した。堕落した女には相応の結末しかないと言いたいらしい。
だが、そういえばこの大きな屋敷の中で、十字架を見ることがない。礼拝に使っていただろう物置になっている部屋ならあった。かつては色とりどりに描かれていたはずの聖三位一体と思われるモザイク画に、上から漆喰が塗られていた。小ぶりの聖母像と思われる木の塊は、槌で砕かれ床に転がされていた。
この家には何かがある。母の狂気を宿した目を思って、背筋が少し冷えた。
あんなことをするからね。ばちあたり。
掃除婦たちがくすくす言い交わしていた。祖父が領主の館から戻る折に落馬し腰を打ちつけて、それから床を長く離れられなくなったのは、アルドナが来て三年目の年だ。
もう長くはないと誰もが噂したが、なんの執着があるのか、枯れ木のような姿になってなお、ジャネクの息はなかなか絶えない。
財産が残るうちに館にいた使用人に暇を取らせ、それでも恩義があるからと執事一人と家政婦一人、そしてアルドナが残った。
もう帰ってきてもいいと父も便りの中にほのめかしたが、屋敷にも金品にも、跡継ぎの称号にも興味はなく、好奇心が勝った。
祖父を狂わせ、母を狂わせた何かがここにあるのだと、五年の短い間で悟っていた。
アルドナはそれを見届けたかった。
「おじい様。今日は塩鱈のスープです。お口に合うといいのだけど」
その夜も、吹雪の日だった。女の泣き叫ぶ声のような鋭い音が空を切り裂いていく。
祖父は今日は調子が良いようだった。
「あれも、よく鱈のスープを作った」
普段より明瞭な言葉で、祖父は語る。祖母の話だろうと気にも留めずに、アルドナはスープが熱すぎないか、入れた燕麦が固すぎないかをよく確かめて差し出した。
「狩りの日に、落馬を……同じことを、すれば、また、会えると……浅はかな、ことを」
この話は何度も聞いた。要領を得ない言葉をつなぎ合わせると、若い頃やはり落馬して祖母に看病してもらい、求婚したらしい。
「聡明で、物怖じというものを知らず……赤い毛が、炎のようにきらめいて、美しい娘ではなかったが、あの緑の目に見つめられると、何もかも、見透かされる気がして……」
アルドナは手を止めた。母もアルドナも金色の髪で、目は淡い褐色だ。書斎の肖像画の女性も赤い髪ではなかった。
誰の話だろう。アルドナは耳を傾けようとした。その時、ずしんと大きな音が響いた。近くに雷が落ちたかもしれない。馬小屋から哀れな馬たちの怯えた声がしている。
火が燃え広がっていないだろうか。アルドナは立ち上がった。だが、急に部屋中の明かりが消えた。隙間風にしてはおかしい。
不安になったのも一瞬で、アルドナは操られるように暖炉の目の前の椅子に腰掛けていた。考えなければいけないことがたくさんあるのに、眠い。持っていたスープはいつの間にかアルドナの手を離れてテーブルの上に置かれている。
アルドナは抗えず、眠りに落ちた。
アルドナは吹雪の中を縫うように飛んでいた。やがて春になり、緑が芽吹き花が咲き……夏を過ぎ、木々が紅葉し、いつしかアルドナは馬を駆って狩りをしていた。
「やったぞジャン! 丸々した兎だ!」
周りの青年たちが囃し立てる。これは祖父の記憶だとアルドナは気づいた。矢を受けた灰色の毛皮の兎がぴくぴくと痙攣している。
だが祖父は、落ち着かない心持ちでいるらしい。ヴィリニュスから来たというルータという名の婚約者の貴族の娘が気に食わない。美しくはあるが陰鬱な娘だった。
アルドナは若かりし頃のジャネクと一体となり、その目から世界を見ていた。だが成り行きを見守るしかないようだ。
ジャネクには五つ離れた姉がいた。物憂げな顔をして、外に出ず刺繍などをしているのが好きな人だった。吹雪の日に突然姿を消して、四年になる。冬乙女に連れて行かれたと思いなさいと、ジャネクの乳母は慰めにもならぬことを言った。冬乙女の説話の写本を渡されたのもその時だ。事実、太陽を遮る冬の厚い雲と、絶えず降り続ける雪の長い季節に気が塞がって、いつの間にやらどこかへ消えてしまう人間はこの土地に多かったのだ。
姉を思い出そうとしても儚げな微笑みしか思い出せない。それでも苦しまずに死ねたのなら良かったと思い込むことにした。
曖昧に微笑む淑女。そんな女を見ると肌が粟立ってしまう。なよやかなのに、意志を持って俺を置いていく、そんな女。
「ジャン! 手綱を引け!」
仲間の鋭い声に、ジャネクはハッと顔を上げた。兎の血に興奮した猟犬が我を忘れて馬の脚に絡みつくように走っていた。驚いた馬が大きくのけぞり、姿勢を保つ間もなくジャネクは地面に叩き付けられた。
馬に踏まれぬように頭と腹を守って丸くなるのが精一杯だった。右手に嫌な痛みがあったが、それを構う暇もない。
「落ち着いて」
死を覚悟したジャネクの耳に届いたのは、静かな少女の声だった。
「驚いたね。怖くないよ。ゆっくり前に進んで。お前も落ち着きなさい。おすわり」
そっと覗き見ると、赤毛の少女が馬に飛び乗り、首を撫で綱を引き誘導して、犬笛で走り回る犬を座らせているところだった。
ほんの数分にも満たなかっただろう。馬はすぐに落ち着きを取り戻しジャネクから離れる。馬が跳ねるたびに娘の赤毛が空に投げ出され、ひらめく炎のようだった。
「お怪我はありませんか、ジャネク様」
馬から降りて振り向いたその少女は、顔の右半分が痘瘡の痕のあばたで覆われ、美しいとは言えない容姿だったが、ジャネクには雪解け水が春の陽光を反射してきらきらと輝く様を思い起こさせた。
ジャネクは胸が高鳴り頬が強く熱を持つのを感じていた。右手の痛み以上に、乾くような疼きが胸を叩いている。
「結婚してくれないか」
気づいたらそう口走っていた。
娘は一瞬驚いたように目を丸くし、それから吹き出した。袖で顔を隠してくすくすとこらえている。そんな顔が新鮮で愛らしく、ジャネクの心を突き刺した。
「混乱しておいでのようですね。早く館に戻って手当をしてあげてください」
腕に添え木と包帯を簡単に巻いて、少女は背を向けた。
「待ってくれ! せめて名前だけでも……」
少女は振り向いた。
「■■■」
ジャネクには――アルドナには――その名前がどうしても聞き取れなかった。
ほうぼう探してジャネクは村はずれで羊の放牧をする母娘がいると突き止めた。二年前の疱瘡の流行で父を亡くし、母も死の淵を彷徨ったせいで体力を奪われたらしく病気がちになったらしい。感染を恐れて皆遠巻きにするせいで荒れた暮らしをしているようだ。
礼も受け取らないので、理由をつけて看病させることにした。許嫁は私がやると懇願したが、ジャネクは断った。暗い顔の女よりも、あの草原の風のような少女といたかった。
料理人たちが騒ぐのを黙らせて、彼女の作るスープを食べさせてもらったりもした。母の看病によく作るという、塩鱈を水で戻した素朴なスープだった。不思議と沁み入る味だった。
あばたで隠れてしまったが、愛らしいそばかすがあるのに気づいた。体は細いが意外に柔らかい。近くに寄ると干し草の匂いがした。蜘蛛が意外に苦手で、遭遇するとか細い悲鳴をあげた。そんなことを記憶に刻みつける。
「もう治っているんでしょ? 嘘ばっかりついて。あとはルータ様にお任せします」
ひと月も経つと、痛みもなく生活に支障もなくなった。必死で引き留めたが、母親の体調が思わしくないと家に帰すことになった。
季節は冬になろうとしていた。
もしもこのまま■■■の母が死んだなら。ジャネクは思った。父から身分の低い女に関わるなと釘を刺されたばかりだ。ルータと形だけ婚姻を結んで、■■■を愛妾として迎えるのがいいだろう。天から土地を任されたのだから、住む人間のこともきちんと不備なく管理する。それが自分の務めだ。
アルドナは黙って見ていたが、そんな若き日の祖父に唾を吐きたい気分になっていた。傲慢にもほどがある。
そうしているうちについに■■■の母親が力尽きたと聞いた。ジャネクの姉が消えた日のような、吹雪の日だった。
今なら説得出来るかもしれない。ジャネクは雪に足を取られながら走り出していた。
やけにはっきりとした夢から目を覚ますと、きちんと閉じていたはずの木窓が開いていて、雪の礫が頬にばちばちと当たっていた。
祖父の寝台に、誰かがかがみ込んでいる。アルドナは悲鳴を飲み込んだ。
白い外套に身を包んだ誰かが祖父を見ていた。髪も目も肌も唇も雪で漂白されたように白い。だが、顔のあばただけは残っていて、それを隠すように上からヘンルーダの絵が描かれている。
美しい。アルドナは思って、だが、人間ではないと直感した。あまりにも夢の少女に似ている。同じ年頃だった祖父はここまで老いたのに、彼女は時が止まったように幼い。
「久しぶり。ジャネク」
彼女――名前の知らない女性は、愛おしそうに祖父の手を取った。頬をすり寄せ、語りかけている。
「ずいぶん待った。長かったね」
祖父はその枯れた体でどこにあったのだと思うほど涙を溢れさせた。手を取り合う二人は似合いの比翼に見える。運悪く添い遂げることが出来なかった、運命の二人のように。
だが、何故だろう。アルドナは悪い予感が胸を満たすのを感じていた。
「ああ、■■■――」
祖父は確かにその名前を呼んだ。だがアルドナにはどうしてもその声が聞き取れない。
「最期にどうしても会いたかった」
暗いはずの部屋の中が、彼女の周りだけ発光しているようだ。白い女はかすかに瞑目すると、すぐに目を開けた。その目はさっきと異なり、蛇の目のように黄色く光っている。
「美しい思い出で勝ち逃げさせてたまるか」
地鳴りのような声だった。アルドナは、とうとう足が力を失い床に座り込んでしまう。
「お前だけは許さない、絶対に」
彼女の顔が、ルータと呼ばれた女性に、それから、アルドナの母カリタの顔に。もう一人、名前の知らない誰かに変わる。
「どうして、ルータ、姉さん」
祖父の顔も真っ白だ。喉の周りの太い血管が浮き上がり、今にもはじけそうだ。
「見せてあげようか?」
アルドナが止める間もなく、その女は祖父の額に口づけた。甘美な死を誘うと言う、冬乙女の口づけ……。
だが、祖父はがたがたと大きく震え、目が転げ落ちそうなほど見開かれ、首を絞められているように舌と涎を口からはみ出させ、この世のありとあらゆる苦痛を受け取ったかのように悶え……そのまま、小さな息を吸う音だけ残して、ことりと力尽きた。
女はそれを見届けると、アルドナに向かって柔らかく微笑んだ。
「ごめん。怖い思いをさせたね」
茶目っ気のある笑みは、夢の通りだった。怖さもあったが、それよりも祖父の目を通して見た親しみや恋慕の感情が強かった。アルドナは唾を飲み込んだ。
「私の皮を剥いで、血を飲むの?」
アルドナは、からからの喉で精一杯言った。女は顔を隠してくすくす笑う。
「そんなもので満足出来る女がいるもんか」
女は滑るようにアルドナの隣へやってきて、震えるアルドナの額に手をかざした。たちまち、またゆっくりと眠くなる。
「私たちが見てきたものを見せてあげる。さあ、行っておいで」
アルドナの意識は暗い底へ落ちていった。
■■■ではない。母ではない。ルータでもない。誰かが泣いていた。
「ごめんなさい。イーシ」
祖父の姉だ。何故かすぐにわかった。名前はサルメ。何もかもアルドナには手に取るようにわかるようだった。
サルメの肩を抱いて慰めているのは、イーシと呼ばれた、サルメとジャネクの乳姉弟の女性だ。頑健な体をした女性だった。
「悪魔だと父にも弟にも罵られたわ」
だが、アルドナにはわかる。ジャネクが自分の不用意な言葉のせいでサルメが消えたと薄々気づいていたことを。
アルドナは今は傍観者なので、この女性にも何をしてやれることもないのだが。
「愛している。ここを出ましょう。二人になれる場所がきっとある」
イーシはサルメの手を引いた。吹雪の夜だ。そうでなければ、足跡ですぐに追っ手に捕まるだろう。二人は無謀な賭けに出て、そして森に迷い込み、互いに防寒具を譲り合い抱き締め合って、死んだ。
血も肉も凍り、引き剥がすことも出来ない遺体を見て、祖父の父は「春になったら獣の餌にするように」と吐き捨てた。
まばたきすると場面が変わった。ジャネクの夜着を運んでいた■■■の足を、ルータが蹴飛ばした。幸い転ばず踏みとどまった。
何するんだ。怒りたい気持ちはすぐ消えた。当のルータが泣いていたからだ。
「どうして? どうして私はここに来たの」
若き日の祖母は顔を覆って泣く。
「良い妻になりたいと思っていたわ。でもジャネク様は私を塵みたいに扱う。貴方が羨ましい時もあったわ。でも本当はあの人が怖い。あの人の子供を産むのも怖い。似たような男の子が産まれたら愛せるかわからない。なのに貴方を恨む気持ちもまだ残っているなんて。醜い人間。こんな風になりたくなかった」
ルータは静かな雨のように泣いた。内心苦く思いながら、それでも■■■は放っておけずにルータの手を取る。
「うまく行かなかったらあの女のせいって思えばいい。嘘でもずっと思ってれば頭が勝手に騙される。それでいいよ」
ルータはますますわっと激しく泣いた。
「どうしてそんな風に思えるの。私、貴方にひどいことしたのに」
■■■はその日の予定を全て明日に回して、ルータの部屋で一日中彼女を慰めた。他愛もない話をしながら。ルータはジャネクに見せないような愛らしい顔で時折はにかんだ。
「貴方がいてくれるなら、少しは怖くない。ねえ、お友だちになってくれる? 私、命じられてヴィリニュスから一人でここへ来たの。もしも子供が産まれたら、最初にあなたに会わせたい。貴方となら、間違えることなく育てられる気がする……我儘かしら?」
■■■はまんざらでもない気分だった。ルータを哀れに思い、力になりたいと願った。だが、身分だの病だのに縛られた自分に出来ることは少ないだろうとも知っていた。
「もう友だちだよ」
■■■は内心を隠してそう言った。ルータは弾けるように笑った。
くるくるとまた場面が変わった。■■■は母の亡骸を墓掘り人夫に渡していた。小さな教会で、一人で一晩中祈っていたらしい。さすがに疲労の色が色濃く見えた。
悲しみよりも、ようやく母が楽になれたと安堵の方が強かった。これからどうしよう。ここから離れたっていい。だけどルータとの約束を違えるのは、心が痛む。
思案にふける■■■の体を、誰かが強く引っ張った。不意打ちだったので足がふらついて倒れてしまった。すぐに、重たい何かが覆い被さってくる。暗くてよく見えなかったが、ジャネクだろうと察しはついた。
「何をしに来たんです」
問わなくてもわかる。■■■の体を押さえつけている手は燃えるように熱い。
馬鹿みたい。■■■は、その体の向こうにあるだろう十字架を思った。馬鹿みたい。祈って真摯に慎み深く生きたってこんな一生で何が面白いんだ。
母がただ一つ遺してくれた貝殻細工のブローチが手の中にある。助かった。安物ではあるが、針は鋭い。
「今すぐ、どけ」
■■■は出来うる限り低い声ですごんだ。針で少しだけその首を引っ搔きながら。
「俺と来てくれ。悪いようにはしない」
まっぴらごめんだ。彼を看病した日々が鮮明に蘇る。醜女。病が伝染る。あんなのにおっ勃つなんてゲテモノ喰いだね。物好きな。嘲笑があちこちから聞こえて、そのたび胃の腑がひっくり返るくらいの憤りを感じた。それだけではない。何度この坊ちゃまに寝台に引っ張りこまれそうになったことか。
あの館の中で、本音で自分に向き合ってくれたのは、ルータだけだったのだ。
必ずお前も連れて行く。そうすればルータも助かる。針を持つ手に力を込めた。
「サルメのように俺を捨てないで」
必死な声をしながら、その手はしっかりと■■■の乳房を鷲摑んでいる。今すぐ殺す。覚悟を決めたその時、重い扉が大きな音を立てて開いた。強い風と、痛いくらい体に当たる雪が吹き込んできた。
「……サルメ?」
呆然と呟くジャネクをようやく渾身の力で押しのけた。腰が抜けて上手く立てない■■■の腕を取り立たせてくれたのは、衣服も肌も髪も目も真っ白な女だ。見た覚えがあるようなないような二人の女が、■■■には優しく微笑みながら、ジャネクには氷のように鋭い一瞥を送った。その顔はサルメとイーシに似ているようにアルドナは思ったが、すぐにぼやけてわからなくなる。
「捨てなさいな、こんな男。貴方もおいで」
吹雪の泣き声に混じって、そう聞こえた気がした。抗う理由はない。例え血を抜かれて皮を剥がされても、ここよりはましだ。
「連れていって!」
■■■は叫んでいた。女たちはその手を引いて、外の橇に乗せた。粗末な服を着た娘達数人がぼんやりとした顔で乗っていたのがわかったが、もうどうでも良かった。
橇は少しずつ滑り出す。もう寒くもないし、空腹もない。何よりも、「■■■」という自分を縛り付けていた両親にもらった名前が、爬虫類が脱皮をするように抜け落ちて、強い風の中に消えていった心持ちがした。
ルータとの約束を守れなかったことだけが、悲しい。■■■は涙をこぼしたようだったが、それも凍って風に紛れて消えてしまった。
ジャネクの悲痛な声が聞こえた気がしたが、それはもう違う世界のこと。橇はあっという間に雲を抜け空へと飛び出していた。空に溶け月の光に溶け、一緒に橇に乗っていた娘たちとぎゅっとくっついては引き離されを繰り返し、雨粒が大河になるように、娘たちは人間ではない何かへと変わっていた。
ああ。全部わかった。そうだったんだな。みんなみんな、そうだったんだ。
■■■の残滓は一瞬そう思ったが、それすらも風の中に消えていった。
さらに景色は変わる。永遠に消えた友を思いながら、一人きりでカリタを産んだルータの姿。カリタはすぐに美しく育ち、アルドナの父となる助教と逃げていった。ルータはそんな娘の姿をいつまでも見送っていた。
カリタの弟は屋敷に残ったが、ルータはその子がジャネクそっくりに育つのを見ておののいた。権力を振りかざし、女を無理に食い散らかすことが増えていく。傲慢な物言いも増え、母であるルータや消えた姉のカリタを嘲笑することもあった。ルータは泣いて■■■を呼んだ。■■■であった雪の娘はすぐにやってきて、ルータには優しい口づけを、彼の息子には氷の吐息を吹きかけた。ルータはそのまま静かに死に、冬の娘たちに連れ去られた。息子の方は原因不明の高熱にしばらく苦しみ、その年の冬は越えられなかった。
ジャネクは三人の肉親を失っても顔色一つ変えなかった。十四、五の娘を連れてきて雇っては、適齢期になったら放り出すことを繰り返している。それと同時に、念入りに神の名を冠するものを汚し続けていた。
冬乙女を呼ぶために。
カリタもまたその生贄とされかけたこと、父の狂気と母の悲しみを知って逃げたのだ。
さらに年月は過ぎ、アルドナが産まれた。ジャネクはその日を待っていたのだ。次の生贄が産まれる時を。■■■だった女も、サルメも、イーシも、ルータも、それら全てを見ていた。
そしてジャネクの命の火が消える日を、心待ちにしていたのだ。
「後悔や謝罪の一つでもあったなら、違う結末だったろうに」
アルドナは気づいたら今に戻っていて、■■■と向き合っていた。
「アルドナ。お前は全てを見たね。ほんの一部に過ぎないけれど。もしもお前が望むなら、ここでない場所で生きていくことが出来る」
かつて誰かだった娘は、アルドナに手を差し出した。冬乙女の烙印を押された女たち。だが、アルドナはもうそれが何かを知っている。
魔女。神様の庇護から自ら抜け出た存在。名前も選択肢も奪われて、それでも希望は捨てたくないと足搔いた女たちの残滓。
アルドナは手を強く握りしめ、離れた。
「私、まだお母さんに伝えなくちゃいけないことがある。それでも行きたいと思ったら、その時こそ連れて行ってください」
アルドナはまだ、全部失ったわけではない。まだ自分で進める。選ぶことができる。
彼女たちと違う結末を見つけられる。
女は笑った。その顔は、ルータの笑顔に似ている気がした。
「カリタは幸福なのね。ありがとう。忘れないでアルドナ。私たちはいつでも貴方たちと共にある」
窓の外の吹雪は気づいたら止んでいた。そろそろ朝になるらしい。厚く垂れ込めた雲の向こうにうっすらと紺と橙が混じっている。
「さよなら、アルドナ。また会おう」
「さよなら。ありがとう。おばあちゃんの味方でいてくれて」
女は晴れ晴れとした顔で笑っていた。
アルドナは彼女たちの橇に手を振った。空を駆ける狼と橇が見えなくなるまで、手を振り続けた。
そうして、また、春がやって来る。
【おわり】