【最終選考作品】あの日々/あの日々(著:上田しん)
視界が白くなるほどの大雨の中で、俺は佇んでいた。ここがどこかわからない。どこに向かえばいいのか、どんな気持ちでいればいいのか。
ヴ、ヴ、ヴ。
ポケットの中が振動しはじめた。
ビクッと心臓が飛び跳ねる。青木の言葉が、頭をよぎった。
死んだよ。
三週間くらい前にね。
俺はポケットから震えるスマホを取り出した。画面を見るとそこにはやはり「非通知」の文字がある。
微振動を繰り返すスマホを持つ手が、それより大きな振幅で震えはじめる。
やはり、これは。
俺は震える指で「応答」のボタンを押した。スマホを耳に当て、こわばる喉から声を振り絞る。
『青木裕二……なのか……?』
雑多な声が飛びかう同窓会は、一人の女子の声で終わりを告げた。
「ねー、総武線止まってるって」
ちょっと電話、と席を立ったその子は、スマホを耳から離して、こちらに顔だけを向けて言った。
まじ? 京成線は? 雨そんなやばいの?
ついさっきまで場の空気を満たしていた陽気な言葉たちは途端に息をひそめ、焦りと不安を滲ませた言葉たちが取って代わった。場の雰囲気を盛り上げることに徹していた卓上の酒とつまみたちは、急に職をなくして呆然と佇んでいる。
「うん。ほんと? じゃあ北口のロータリーで待ってる。うん、ありがと」
女の子は切迫していた表情を最後に和ませると電話を切った。おそらく彼氏が車で迎えに来てくれるのだろう。
ヴ、ヴ、と右ポケットが小刻みに震えだす。時刻は二十二時半を回っている。こんな時間にかけてくるのは、ヤツしかいない。
「親?」
隣に座っていた男子がそう訊いた。
「いや」
俺はポケットからスマホを取り出して、画面に表示された文字を確認する。やっぱりヤツだ。
「ひつうち」
俺の画面に大きく表示された文字を、そいつはぼそっと読み上げた。
「いたずらだよ。三週間くらい前から」
「出ないの?」
「出ても無言なんだよな」
手の中で震えるスマホは、二、三回コールすると静まった。
「んで意外とすぐに切れる」
俺はそのままスマホのロック画面を開く。ひゅい、ひゅいと画面を何回かスクロールして、新しい通知がないかを確認すると、カチ、と画面を暗くした。
「非通知ブロックすれば?」
「昼はわんちゃん企業の可能性があるからな、ブロックはできん」
「そっかお前いま就活中か。うざいなそれ」
「まじでうざい」
この同窓会、実は俺だけちょっと浮いている。メンツは中学三年生のクラスメイトで、集まった十二人全員が大卒か高卒で既に働き始めていた。大学受験で一浪した俺はみんなより時計の針がいくらか遅れていて、絶賛就職活動中だ。
「就活かぁー。まあ、お前は頭良い大学行ってるから引っ張りだこだろ。もう内定いくつかあったりして」
「いやいや、別に普通よ」
「ってか大学は実家から? 今日帰れんの」
「うん、実家。ここからならバスで帰れる。バスは止まらないだろ」
他のみんながアクセスしやすいところにしようという個々人の配慮からか、同窓会の開催地は自然と地元の最寄り駅になった。しかし蓋を開けてみると、俺以外の全員が既に帰る場所を県内から都内に移していた。
「坂田」
頭上から声が降ってきた。見上げると、俺をまたぐようにして割り勘の金を卓の中心に置こうとしている青木の顔があった。
「バスなら一緒に帰ろうぜ。俺も今日は実家に泊まるわ」
外に出ると、災害を思わせるほどの大雨だった。地面に打ち付ける雨の轟音が、聴覚を曖昧にして不安を煽ってくる。
バス停は店先から見える位置にある。走れば一分もかからずに到着する距離だ。俺と青木は面々に別れを告げると、大雨の中を走り出した。
大雨の中を走り抜けると、なんだか気持ちがハイになる。スポーツブランドのCMのモデルにでもなったような感覚だ。
「雨やっば!」
バス停の屋根の下に駆け込むと、俺は濡れた髪をくしゃくしゃとかき乱した。
「やばいね」
青木は息を切らしながら白い歯を見せて笑った。
「次のバス何分?」
「三分後」
青木は時刻表を覗き込んで言う。この雨だと、十分くらい遅れてくるだろう。
「いやー結構集まったな」
俺は濡れたスマホの画面を点けた。写真フォルダーをタップし、さっき店内で撮影した写真たちをスクロールする。
「坂田が声かけてくれたからね」
「まあ、どうせならみんなに会いたいやん」
実は今日の同窓会、開催のきっかけは青木だった。二週間ほど前、青木から個別に会食の誘いがあったのだ。しかし約七年ぶりの旧友と二人きりはさすがに気まずい。そう思った俺はグループチャットに誘いを投げ、人数を募った。
「まあでも、なんで五月にとは思ったけどな。普通三月とか、節目にやるだろ、こういうの」
「就活あるからなって思って」
青木はさらりと言った。その言葉に俺は、「そうそう青木ってこんなやつだったな」と内心頷く。相手に気を遣ういいやつ。でも気を遣いすぎて、行動がワンテンポ遅れるじれったいやつ。就活中だって地元の飲み会くらいには顔を出すし、むしろ息抜きになるからありがたいのに。
「気遣ってくれてありがとう」
青木はいや、と笑った。
「そういや青木は明日の仕事大丈夫なん?」
「ああ、俺もまだ学生だよ」
「え」
俺は青木の顔を見た。さっき飲みの席で受験の話になったとき、青木は誰かから訊ねられて「現役で」と答えていたはずだ。
「休学してるんだよ」
「休学っていつ?」
「大学二年のときから。いろいろあってさ。成人式も行ってない」
青木の「いろいろ」には暗い含みがあった。留学に行っていたことを話したくてうずうずしている「いろいろ」とは明らかに違う。
「まあ、モラトリアム二年延ばせたと思えば最高じゃんか」
落ち込んだ雰囲気を吹き飛ばすように、俺は青木の肩を叩いた。目線が俺の口あたりにある青木は大きく揺れる。
「……うん」
「ピコン、ピコン」という音とともに、バスが滑り込んでくる。思いのほか、バスに遅延はなかった。
俺と青木は並んでシートに腰を下ろした。天候のせいか日曜の夜という時間帯のせいか、乗客は俺たちふたりと出発前に走り込んできた男子高校生だけだった。受験生なのか片手に懐かしい英単語帳を持っている。前の方の席に座るとイヤホンを耳にはめ、そのまま目を閉じてしまった。
「成人式来てないってことは、マキコが結婚したの知らないのか」
「マキコ?」
「え、覚えてない?」
マキコというのは、俺らのクラスの担任だ。担当科目は英語で、ことある毎に生徒から「彼氏いない歴=年齢」であることをいじられていた。彼女も彼女で開き直って、クリスマスが近づくと「Home alone.」と流暢に発音してよくクラスを沸かせていた。しかし式後の同窓会に現れると、薬指に光る銀の輪を見せ「No more thieves at Christmas.」と宣言した。みんなリスニングに弱いらしく、ほとんどの人が「シーブス?」と首を傾げていた。
「担任の名前忘れるか?」
あー、と青木は膝を打った。
「小林先生か」
「そう、小林」
俺は先生のことをふざけて「マキ姉」とか「マキセン」と呼んでいたから、むしろ「小林先生」という響きが新鮮だった。同じ記憶を共有しているはずでも、視点が違えば差異は必ず生まれてくる。
青木の顔を見ながらマキコの話をしていると、俺はとあることを思い出した。
「そういえばお前、マキコのこと好きみたいなノリなかったっけ?」
俺の言葉に、青木は苦笑いする。
「あったっけ、そんなの」
「あったよ」
当時の楽しさが蘇ってきて、俺は少しだけ声が大きくなる。
「お前のノートに、英語のラブレター挟んで提出したりさ。お前めっちゃキレてたじゃん」
「あったな、そんなこと」
「あれマジでおもろかったよな。今思うと失礼極まりないけど」
信号に差し掛かったのか、バスが停車した。エンジンをぐつぐつと煮立てながら、次の発進を待ちわびている。
「あとさ」
ひとつ思い出すと、堰を切ったように次々と青木との記憶が蘇ってきた。
「あれ覚えてるか、ビオトープの金魚釣ったの」
俺たちの中学校には、校庭の隅にコンクリートで囲った小さな池があった。そこでは理科の先生が世話をしている金魚が数匹飼われていた。
「あー、やったな」
青木はまた苦笑いする。
「いま思うとあれ窃盗か器物破損だよ」
実のところ、いま改めて思わなくたって、学校の金魚を釣ることが何らかの罪になることは自覚していた。当時はその罪を知りながらそれを犯すことが勇気であり、正義であり、名声だった。そしておそらく俺は、その道では独自の地位を獲得していたはずだ。わざわざ教師に見える位置でタバコをふかす馬鹿ヤンキーとは違う。俺は知的で、ユーモアに富んでいた。
おれ、
『――十字路、道路冠水』
運転手が無線で話している声が飛んできた。「冠水」という言葉に反応して窓の外に視線を向けると、さっきの停車位置から全く移動していなかった。バタバタバタ、と天井に打ち付ける雨の音がバスの中を満たしている。
『――了解しました』
運転手は無線を切ると、運転席から顔をのぞかせた。
「お客さーん。道路冠水しちゃって進めないみたいなので、迂回します。今日は運賃はいりませんので、ここでお降りになる方いらっしゃいますか?」
俺と青木は顔を見合わせた。
「今どこ?」
俺は窓に額をぴったりとつけて、外の状況をもう一度よく確認する。
「十字路前。病院過ぎたところ」
「さすがに遠いな」
「うん」
前の方に座っていた男子高校生が手を挙げて「降ります」と言った。運転手は高校生を見送ると、「お客さんたちは大丈夫ですか」とこちらに顔を向けた。二人で頷くと「じゃあ迂回しますんで。しばらくお待ち下さい」と運転席に戻った。
「こんなのはじめて」
俺は窓の外を見ながら言った。それから思い出した。
「そういえば、なに?」
「え」
青木は俺の顔を見つめる。
「さっき、何か言いかけなかった?」
俺の耳は、無線の声にかき消される青木の声を確かに拾っていた。
「あぁ」
青木は視線を前の座席に投げた。何かを観念したように、はぁっと息を吐いて無機質な天井を見つめている。それから視線を足元に落として、言った。
「俺、お前にいじめられてた」
一瞬、青木がなんと言ったのかわからなかった。俺は青木の横顔を見つめたまま、固まった。
バスがぐうっと重力を引き連れて大きく左折する。迂回ルートを取るために、一度駅の方向に戻るようだ。
「いじめられてた」
青木は念を押すように、もう一度言った。今度は俺の目を見つめながら。もう聞こえなかったふりは許されない。
「いじめられてたって」
ざわつく胸の奥とは裏腹に、俺の顔には笑みが浮かんでいた。心と表情を繋ぐ糸がどこかで絡まって、伝達エラーを起こしている。
「いじめられてたって、例えばどれだよ」
エラーを起こしているのは表情だけじゃなかった。声も、言葉も、間違っている。でも俺は、そのエラーを制御できなかった。
「例えば」
青木の口が動いた。そこから発せられる次の言葉に、俺は身構える。
「さっきのラブレターのやつ。あれも、嫌だった」
青木が言うなり、俺の腕はぐっと伸びて、青木の肩を摑んだ。ほとんど反射的な動きだった。そして青木の身体を揺らしながら、笑って言う。
「ごめんて」
口から出たのは、自分でも驚くほど薄っぺらい謝罪だった。
それ?
見ると、青木の目には侮蔑の色が浮かんでいた。その侮蔑の視線をやり過ごす術を、俺はヘラヘラ笑う以外に知らなかった。
「他にあるなら言ってくれよ。謝るからさ」
「さっきの金魚釣りも」
青木は半ば食い気味に言葉を連ねる。
「釣ったあとの金魚、どこに入れたか覚えてるか?」
釣ったあとの金魚は、青木の机の中に入れた。もちろん金魚は死んだし、青木の机には生臭さがこびりついた。
お前も釣ってたじゃんか。被害者意識強すぎー。
「あれか! ごめんて。確かにやりすぎた」
それでも俺は、笑って青木の肩を揺するしかなかった。青木の顔はもう直視できない。同じ動作を繰り返すことしか、俺にはできなかった。
「靴を隠された」
別にドブに捨てたわけじゃないんだから。結局近くにあっただろ。
「いや、マジで冗談のつもりだったんだよ」
「トイレの個室に閉じ込められた」
いやいやそんなの俺もされたことあるよ? こいつ繊細すぎね?
「あのイタズラ流行ってたじゃん? でもごめんなー」
「死ねって言われた、書かれた」
「死ね」なんてあの教室じゃあ飛び交ってただろ。ヤンキー口悪かったしなー。めんどくせー。
「いやいや本当に死ねなんて思ってないよ。傷つけたなら悪かったけど、まじで深い意味ないんだよ」
「んで……」
青木は言葉を止めた。余罪はまだまだある。だがこれ以上同じことを繰り返しても同じだと判断したのだろう。青木は短い沈黙を挟み言った。
「自殺した」
え。
ざわついていた心から、何かがスッと抜け落ちた。絡み合っていた糸さえ消えてしまったのか、自分の顔から表情が消えたのがわかる。
「死んだよ、祐二は」
青木は俺の目を見た。俺はその視線から逃げられない。
「三週間くらい前にね」
心臓がびくんと跳ね上がる。
じゃあ……。
「俺たち、双子なんだ」
俺は青木の顔をまじまじと見つめた。約七年ぶりに見るその顔は、裕二の顔でもあるし、全くの別人の顔でもあった。
「うちが中学の頃に引っ越してきたのは知ってるよね?」
声が出ない。
「それはね、俺が中学受験に受かって、ここから通いやすい私立中学に行くことになったからなんだ」
話のスジは通ってる。でも。
「祐二は自分だけ受験に受からなかったのをすごい悔しがってたから。たぶん、双子のことは話さなかったんだろ」
ああ。
ごめんて。それ? 被害者意識強すぎー。近くにあっただろ。繊細すぎだろ。めんどくせー。
口から吐き出した言葉、頭の中で呟いた言葉が鎖のように繋がって、俺の首を締めはじめる。
「裕二は中学を卒業してからずっと精神的に不安定だった。なんとか大学には合格したけど、一年ちょっとで休学した」
青木は落胆するようにため息をついた。
「祐二は、自分なんて誰からも愛されるはずがないって強く思い込んでたらしい。そういう精神状態になるのは幼少期とか思春期に受けた虐待、いじめが原因のことが多い。心療内科の先生がそう言ってた」
青木はもう一度俺の目を見た。
「中学生の頃、祐二は君の名前を口にしながら、よく泣いていた」
俺は目を逸らせなかった。逃げたいのに逃げられない。何か言いたいのに言葉が出ない。息が、できない。
次の瞬間、青木が目を丸くした。それからすぐに侮蔑の色を滲ませた目に戻る。
「それは、罪悪感?」
え。
青木が指す「それ」がなんなのか、俺にはわからなかった。座席のシートに雫が落ちる。
あ……。
「今更泣かれたって、祐二の苦しんだ時間は戻ってこないんだ」
違う。
俺は直感した。
「君が大人になるために過ごした時間を、祐二は君から受けた傷に苦しむのに費やした」
これだけは。
俺は胸の奥からのびる一本のかぼそい糸を感じとった。何にも絡まらず、かろうじて残った最後の一本。
「だから、今更泣いたって」
「……ちがう」
俺は最後の一本をたぐり寄せる。
これだけは見失っちゃいけない、最後の一本。
青木は驚いた様子で俺の顔を見つめる。
俺はこわばった喉をこじ開けて、かろうじて言葉を吐き出した。
「……友達が……死んだ」
次々とシートに雫が落ちる。
青木は俺の目を見つめている。俺の言葉に目を見開いたまま、瞳に宿る小さな光をちらちらと揺らしている。
次の瞬間、青木がざっと動いて席を立った。
「降ります」
「え?」
運転士の困惑の声と共に、バスが急停止する。迂回したバスは、いつの間にか知らない道路を走っていた。
「待って!」
俺もすぐに席を立った。
急かされたように開くバスの扉から、青木が飛び出す。
俺はそれを追いかけて、どしゃ降りの雨の中に飛び出した。
あたりは相変わらず、視界が白くなるほどの大雨だ。すでに青木をはっきり視認できない。俺は青木の気配と駆ける音を頼りに、その背中を追いかけた。
大粒の雨が顔を叩く。涙と雨の境がなくなる。鼻口に入り込んだ雨水は、呼吸の機会を奪う。
「ぶはぁっ」
鼻の中を遡ってきた雨水に咽せた。その場に立ち止まり、水を搔き出すように何度も咳き込む。
ああ。
俺は顔を上げて、その場に立ち尽くすしかなかった。
もう青木の姿は見えなかった。
無我夢中に走った。休学以来ずっと引きこもってきたから、足腰がひどく弱っている。息は切れ、足を踏み出す衝撃が腰から背骨をまっすぐに貫いてくる。これ以上走り続ければ、背骨が砕けて身体がバラバラになるのではないかと本気で思った。
俺は歩道橋の階段下に入った。坂田の姿がないか、ちらりと背後を見遣る。
坂田の姿はなかった。大粒の雨が、ザァーッと音を立てながら世界を白く濁らせている。
膝に手をつき、呼吸を整える。ぜぇぜぇと肺に何かが引っかかり、何度も咳き込んだ。
坂田のやつ、本当に。
俺は息を整えながら、スマホを取り出す。それから坂田の連絡先を表示して、手を止めた。
もう一度、確かめたい。
最初に「184」と打ち込み、それから坂田の電話番号を入れた。
俺は。
「発信」ボタンを押す。スマホを耳に当てると息が切れているのがバレるから、スピーカー機能をオンにした。
数コールの後、坂田が出た。
『……青木裕二……なのか……?』
電話の向こうもザァーッという音が鳴り続けている。大雨の中に坂田は立っているのだろう。
俺は応えない。
『……ごめん』
坂田の声が震えた。喉の奥から込み上げてくるものを抑え込むような、特有の厚みを持った声だ。
『俺さ、信じてもらえないかもしれないけど、青木と仲良いつもりだったんだ』
スマホを握る手に力が入る。
『俺さ、友達だと思ってたんだよ。やったことは全部間違ってたけど、友達だと思ってたんだよ』
胸の奥から込み上げてくるものを、俺は必死に嚙み殺す。
『だからさ、なんでさ、なんで……死ぬなよ……』
画面に雫が落ちた。俺は何も言わないまま、電話を切る。
スマホをポケットにしまい、襟で顔を拭った。胸の奥から言葉が湧き上がってくる。これ以上は嚙み殺せない。
「……よかった」
一つ口から出た。すると堰を切ったように、涙と言葉が溢れてくる。
「よかった、よかった、よかった」
電話を切って正解だった。
俺は涙を拭いながら、歩道橋の下を出て雨に打たれた。顔を上げると、涙と雨の境がなくなる。
また坂田に連絡してやらなければ。今度は非通知じゃなく、こちらが誰かわかるようにちゃんと。
明日からは、少しだけ上を向いて歩けるような気がした。自分を「友達」だと思っていた人がいるとわかったから。
【おわり】