【入選】浅ましき化け物(著:祇光瞭咲)
音助は足を止め、遥か遠州灘に臨む水平線を振り返った。
掛川の地は古くから東海道の宿場町として知られ、朝比奈氏が城を築いて以降は、城下町としても栄えるようになった。長い歴史の巻物の中で、幾度も武将たちによって奪い、奪われを繰り返す。交通の要であるのみならず、掛川茶を中心とした農産業も盛んに行われている。その賑わいは、時代が下ってもなんら変わりはしていない。
それが妖の里などと呼ばれるようになったのは、いったいいつの頃からだろう。戦乱の混沌に紛れてか、はたまた安政の大地震により溢れ出したのか。
近代に入り、かの地は再び人の手へと取り戻された。妖たちはどこへ消えたのか。山へ身を潜めたのか。海を渡っていったのか。
どのみちそんなものは言い伝えだ。迷信だ。
音助が信ずるものは科学であって、学問であった。妖怪などというものは、所詮は科学を知らぬ未開人が、「現象」に名前を付けたものに過ぎぬ。それが音助の信ずる妖の正体であった。
そんな佐久音助が掛川の地を訪れたのは、一通の手紙による誘いからであった。
差出人は伊藤玄之勝という、その道では著名の民俗学者だ。
先に述べた通り、音助は妖の存在を信じていない。代わりに、伝承を分析し、妖怪の正体である現象を特定することに至高の悦びを感じていた。河童ならば急流に水死体。ヒダル神ならば低血糖。そうした「真相」を突き止めるたびに、推理小説を読み終えた時のような恍惚を感じる。
玄之勝の著作は読んだことがあった。若き音助は無謀にも、この偉大なる先達に感想という体の挑戦状を送り付けていた。「貴殿の著作に記されていた、なんとやら村のかんとやらは、ほんほんという現象の別名に違いない」――音助は学生ならではの生意気さで以て、持論を見ず知らずの相手に披露していたのだ。
ところが、玄之勝先生は寛大だった。気骨ある若者で大変よろしいと、むしろ音助に返信を書き、これこれこういう妖怪はどうだ、あれそれそういう妖怪はなんだ、と挑戦状を返したのである。二人の文通はしばらく続き、顔の知らぬまま、年の離れた友人のような間柄となっていた。
その玄之勝が、最後に寄越したのがこの掛川――とある古寺に伝わる人魚伝説であった。なお、本作ではあえてその寺の名を伏せている。
人魚と言えば、その肉を喰えば不老長寿になるとして知られている。世界中に同様の伝承があり、日本では八尾比丘尼伝説が有名であろう。
しかしながら、現存する多くの人魚のミイラについては、贋作であるという説が有力だ。大昔には――いや、いつの世でも――魚に猿を繋ぎ合わせて偽物を拵える贋作師が蔓延っていた。
掛川の古寺についても同様であると、音助は既に決めかかっている。
それならば、共に真相を確かめてみないか。
なに、年の離れた学者友だちに顔を合わせるいい機会だ。
玄之勝は手紙にそう記し、共に掛川へ参じる日取りを寄越した。
音助としても、敬愛する玄之勝に直接会えるというのは願ってもないことであったし、先方は随分と自分のことを気に入ってくれているようだから、事がうまく運べば今後の口利きなんぞもしてくれるやも――という下心があったことも否定はできない。
掛川に着き、南へと下ってからしばらく。音助は果てしなく続く水平線を見下ろすように坂道を歩いている。潮騒が遠く彼と共に歩いていた。カモメが時折頭上を滑り、水平線の染みになる。
古寺の具体的な場所は知らされていなかった。一応、横須賀城跡の近くであるということだから、その辺りで聞き込みでもすればいいだろう。音助は若さゆえの楽観主義で足を運ぶ。
ただし、この古寺というものが、なかなかに曲者であった。本当に使われなくなって久しいようなのだ。近くに着いてから何人かの住民に尋ねてみたが、皆一様に「あれのことだろうか」と首を傾げるだけだった。
よほど荒廃しており、表札なども読めなくなっているのだろう。だとしたら、見落としてしまう可能性もあるから、十分に注意しなければならない。
などと考えているうちに、とうとう音助は古寺を見つけ出すことができた。意外にも楼門は堂々とした佇まいで、それゆえにむしろ見逃してしまうところであった。二階の高欄部分は褪せた朱が残っていて、かつては華やかな見た目であったことを窺わせる。
「御免ください」
音助は物おじせずに踏み込んでいった。
前庭は玉砂利が敷かれているが、さすがに放置されて久しいためか、ところどころに雑草が葉を出している。本堂は漆喰の白が目に鮮やかで、寄棟屋根の下には金字の棟札が鎮座していた。
砂利を踏む音を聞きつけたのだろう。本堂から禿げ頭の男性が顔を出した。ツイード地のスーツを纏い、背は低いが恰幅がいい。如何にも学者らしい風貌をしている。
音助は帽子を外して頭を下げると、元気よく声を掛けた。
「玄之勝先生ですか」
「そういう君は音助くん。よくぞ来てくれた。どうぞ上がりたまえ」
玄之勝は勝手知ったる我が家のように音助を招き入れた。
無人で放置されていたという割には、綺麗なものである。玄之勝は一週間前に着いていたというから、埃や蜘蛛の巣なんかは払っておいてくれたのかもしれない。
しかしまあ、それにしたって綺麗すぎやしないか。長いこと空き家になっていたならば、漆喰が剥がれたり、畳に苔でも生えたりしそうなものである。ましてやここは海が近いのに。荒んだところといえば破れた障子くらいで、引き戸の滑りすら申し分なかった。
「もしかして、誰か住み着いていたんですかね」
玄之勝の後について歩きながらそう呼び掛けたが、生憎相手には届かなかったようだ。確かに、床板の軋みだけは酷い。
客間らしき部屋に着いてから、二人はしばし歓談に耽った。改めて自己紹介をし合ったり、これまでの手紙でのやりとりを振り返ったりなどした。
玄之勝は手紙の文面から感じたように、腰が低く感じのいい人物で、学生の音助とも旧知の仲のように語らってくれた。音助は持参した玄之勝の著作にサインを求め、玄之勝は快くそれに応じてくれた。手紙の文字とは印象の違う、流れるような崩し字であった。
一頻り話が済んだところで、いよいよ本題である。音助はこの地へ人魚伝説の謎を解きに参ったのだ。人魚など実在しないと、この玄之勝に示さなければならない。
「この寺に伝わる人魚伝説だが、まずはこれに目を通してみてほしい」
玄之勝は紐で綴じられた古い書物を差し出した。素人目でも、かなり古いものだ。数百年は軽く経っているのではないか。文字は草書体で難読だが、時間を掛ければ読めないこともない。
「わからない箇所があれば訊きなさい。私は向こうの部屋にいるから」
玄之勝はそう言って部屋から下がった。
音助はというと、本音を言えば、まずは寺の全体を見て回りたかった。しかし、ここはあくまで年長者の手前、言う通りにしておくのが礼儀というものだろう。渋々読解に取り掛かる。
以下、この寺の住職が記したらしい日記である。
***
夜中のことだ。一組の男女が寺を訪ねてきた。
しとしとと音のない雨の降る夜で、生暖かい空気が潮風に乗って運ばれていた。
「お坊様、こちらでしばし匿ってくださいませ」
男は言った。男は肩に腕を回して女を背負っており、女の方は頭から羽織を被っているので、顔はよく見えなかった。丈の長い着物を着ているため、この雨にもかかわらず、裾を引き摺っているようだった。
「お前は確か、安寿堂の」
私が言うと、男は「へぇ」と頭を下げた。
「六兵衛でございます」
安寿堂といえば、この辺りで有名な薬屋である。元は小さな問屋に過ぎなかったものが、近頃急に繁盛し始めた。噂によると、安寿堂が売る新しい薬というのが、一服呑めばたちどころに万病に効くというのである。
六兵衛というのは、その薬屋の下男である。
詳しい事情を聞く前に、とにかく寺の中へ入れた。囲炉裏に当たらせ、手拭いを何枚か貸してやる。
「掛けておこう。寄越しなさい」
そう申し出たのは、いつまでも濡れた羽織を被っているのは不憫と思ったからなのだが、男も女も少し渋った。否、渋ったのは六兵衛であって、女の方は先程から一切答えようとしない。ほとんど身動きすらしなかった。
長く躊躇った挙句、六兵衛は言った。
「驚かないでくんなせぇ」
そして、女の羽織を取る。
私は「あっ」と声を上げた。口を押さえずにはいられなかった。
妙に色っぽい女であった。髪は長く、細い首筋に濡れて貼り付いている。口は真一文字に結んでいるが、唇は死人のように蒼褪めていた。女は男物の着物を与えられており、先に述べたように裾を長く垂らしているのだが、今は崩して座っているので中が見えている。
足はなかった。
女の下半身から生えていたのは、大きな魚の尾だったのである。
「人魚だっ」
私は叫んだ。六兵衛はまたも「へぇ」と頭を下げる。
「人魚でございます」
そして、六兵衛は経緯を話し始めた。
「ひと月前のことでした。嵐の翌朝に遠州灘を歩いておりますと、浜で人魚を見つけたのでございます。荒波に揉まれて怪我をしたのでしょうか、泳ぐことはおろか、自力で海に戻ることもできずにおりました。それがなんとも可哀想で、店に連れ帰って手当てしてやることにしたのです」
安寿堂の主人は大層驚いた。
「でかしたぞ、六兵衛。主人様はそう言って褒美をくださいました。お坊様、人魚の肉を食べるとどうなるか、言い伝えをご存じですか」
私は答えた。
「不老長寿になると聞く」
「その通りでございます。うちの主人様はそのことを信じていて、この娘を商売に使うことを考えついたのでございます」
六兵衛は人魚の着物を捲ってみせた。鯉のように大きな鱗で覆われているが、そのうち両手くらいの面積が剥げて傷になっている。白く膨れた肉が見えていた。
「近頃、うちで売っている薬があるでしょう。あれには人魚の鱗を粉にしたものが入っているのでございます。はじめは眉唾物で売り始めましたが、これが効果覿面。病が治ったと評判になり、今では飛ぶように売れるのです」
安寿堂の主人は大層喜んだそうだ。作れば作るほど金になる。主人はどんどん鱗を剥がさせ、薬にして売り捌いた。安寿堂の霊薬は立ちどころに噂になり、今では京の都からも注文が入るという。
「俺にはもう見ていられないのでございますよ……このままでは鱗をすべて剥がされて、終いには肉にされて食べられてしまうでしょう」
「それで、逃げ出してきたというわけか」
「今頃は人を雇って、俺たちを探しているに違いありません。どうか、騒動が収まるまで匿っていただけないでしょうか」
「匿ったその後はどうするつもりなのか」
「沖へ出て、海へ帰します」
私は真意を探るように六兵衛を見据えた。妖にすら憐れみを掛ける六兵衛の行いは、尊いと言うべきであろう。畳に両手をつき、真っ直ぐにこちらを見上げる彼の眼差しには、針先程の悪意も感じられなかった。
「お坊様、お願いいたします。決してご迷惑は掛けません。少しの間だけ、こちらに置いていただければいいのです」
私は了承した。
人と妖、生きる世が違う。幽世のものは幽世へと帰す。その六兵衛の判断は正しいように思われたからだ。
私は二人に部屋を与えた。人魚に名はない。それでも、「お前、お前」と言って甲斐甲斐しく世話をする六兵衛を見ていると、二人の仲は恋人にも見えた。実のところ、六兵衛は確かに人魚の娘にのぼせ上がっている。アレを見る六兵衛の眼差しは、慈しみの情を超えていた。
追っ手の者たちはすぐに来た。私は知らぬ存ぜぬで押し通した。安寿堂の人間も人魚のことを公にするつもりはないのだろう、「なぜ六兵衛を追うのか」と逆に追及し返したら、尻すぼみになって退散していった。
傷の手当てを終えた後、六兵衛が困った様子で訊ねてきた。
「お坊様、お知恵をお貸しくださいませ」
「何だ」
「人魚が食べ物を口にしないのでございます。安寿堂にいた時からそうでした。浜で拾って以来、水の一滴も口にしておりません」
「ふむ」
人魚は海のものであるから、魚や海藻を食べるのではないか。そう提案してみたのだが、一通りのものは試してみたという。ならば肉を果実を、といくらかの食材を与えてみる。つんと尖った鼻先で肉の匂いを嗅いだのち、また蹲るようにして動かなくなった。
「海に帰せば食べるでしょうか」
六兵衛は心底心配している。私は蔵を漁り、人魚についての記録がないか探してみると約束した。
はたしてそれから、六兵衛の人魚はどうなったか。
二日目の晩に、私が二人に与えた部屋に向かうと、部屋は血潮に塗れていた。噎せ返るような血と汚物の臭いの中で、あの美しい人魚の娘が、白いかんばせを血に汚していた。抱えているのは六兵衛の屍か。もはや肉塊以外の何物でもなくなったそれを、娘は大事そうに、大事そうに、喰い千切っては食べていた。
私は慄きながらも、酷く納得していた。
人と妖は共には生きられぬ。怪物に道理は通じず、慕情も持たず、恩に報いることもない。私には、必死で抵抗したのであろう六兵衛の折れた爪が、あまりに痛々しく映った。
化け物を、海に帰さなければ。
私は人魚を簀巻きにして縛り上げた。人魚は抵抗しなかった。ただ、満足そうに口の周りを舐めていただけだった。
日の暮れる仏間に、明かりも点けず佇んでいた。
足元には人魚。ぺちゃぺちゃと舌を鳴らしている。ひぐらしの声が遠く聞こえた。
ほんの好奇心、だったのだ。
浅はかな欲望。
***
「なんです?」
音助は怪訝そうに眉を顰めた。
「住職は最後どうしたのです? 人魚は? 海に帰したのでしょうか?」
玄之勝は音助の性急さに苦笑している。
「先を読んでいくと自ずとわかる」
「まだ、続きがあるのですか?」
音助は正直げんなりし始めていた。文献を読むのは嫌いではないけれど、ここには人魚伝説の謎を解きに来たのだ。せめてもっと具体的な素材がほしい。
そんな音助の本音を見透かしたように、玄之勝は答えた。
「あるとも。ここに」
その「あるとも」は当然書物のことではない。音助は身を乗り出した。
「本当ですか」
「見たいのかね?」
「ぜひに」
玄之勝は立ち上がった。
音助は、玄之勝が素足なことに気が付いた。畳の上を摺り足で歩く。指先には黄色味を帯びた爪が、指と一体化するようにして貼り付いていた。
座敷の奥に奇妙なものがあった。蔵である。中庭のように抜けた座敷の中央に、小さな土蔵が鎮座していたのだ。蔵には重厚な南京錠が掛かっていて、鍵は鍵穴に挿さったままであった。
「どうして建物の中に、蔵が」
音助が驚いていると、玄之勝は錠を開けながら微笑んだ。
「貴重なモノを守る家では、たびたびこうした造りがあったのだよ。例えば、質屋なんかに多く見られるね」
「そうなんですか。よかった、てっきり僕は――」
「――座敷牢だと、思ったのかい?」
音助は言葉を失った。
蔵の中には牢があった。
窓のない部屋。視界を遮る鉄格子。
「もちろん、こういう例もあった。それだけ厳重にしておくなんて、いったい何を閉じ込めていたのだろうね?」
玄之勝が先に立って中に入る。彼は音助を振り返った。
「入りなさい」
全身が怖気立っていた。音助は足を踏み出す。爪先が土のざらつきを感じた。
外の光が入り口から差し込んで、四角く暗闇を切り取っている。鉄格子の先は、その領域の外だった。闇よりも黒々とした何かがそこにある。
奇妙な音がしていた。ぬちゃり。ぺちゃぺちゃ。それからザラついた呼吸音。
目が暗闇に慣れ、光の領域の外にいた塊が、徐々に輪郭を取り戻していく。音助の呼吸は速くなっていった。心臓はもはや早鐘のよう。
鉄格子の向こうに見える、あの塊は何であろうか。人型だと思ったのは気のせいだろうか。気のせいであってくれないだろうか。どうして僅かに動いているのだろうか。
「……あれは」
「もっと近づいて見なさい」
玄之勝の無骨な手が、そっと音助の肩を押した。
見たくはなかった。かと言って、どうして今さら「見たくない」などと言えるだろう? 相手は高名な学者先生なのだ。これは、学者先生に認められるチャンスなのだ。そうやって自分を奮い立たせ、音助はさらに一歩足を進めた。
玄之勝が鉄格子の扉を開ける。音助は促されるまま、座敷牢の中に首を突っ込んだ。
濃厚な血の臭い。鼻が曲がりそうになる、汚物の臭い。奇妙な生臭さに、遠く磯の臭いを感じた。
男がこちらを見上げていた。大きく口を開けている。口の中には血が溜まり、土気色の顎に何本もの筋をつくっていた。両手はきちんと体にくっつけて。見開いた双眸の白眼が際立つ。
奇妙なことは、男の顔の位置がやけに低いことだった。座っていたって、もう少し高いところに顔が来るだろう。もとの背が低い可能性もありえるが、がっしりした肩幅を見ると、そういうわけでもなさそうだ。
ぐちゃり。
音助の足が何かを踏んだ。その瞬間、彼は目の前の光景を理解すると共に、男が置かれた境遇を理解した。
下半身がすべてない。床から生えるように置かれた上半身に、溢れるようにして臓物が零れ出している。音助の足の下にあるぐにぐにとした感触は、ブツ切れになった腸だった。
咄嗟に振り返る。眼前に腕が迫っていた。
「うわぁ!」
音助は目の前の腕を摑むと、即座に全体重を掛けた。体勢を崩した玄之勝は音助を軸に円を描き、そのまま床へと投げ出されてしまう。
よろめいた玄之勝が肉に激突する。悲鳴は潰れた蛙のようだった。音助は全速力で座敷牢から抜け出すと、牢屋の戸を閉めてしまった。震える指で鍵を掛けた。
つまるところ、相手が悪かったのだ。玄之勝は――いや、玄之勝と名乗るあの男は――音助がまだ若く、力のあることを考慮していなかった。
「出してくれ!」
男が叫ぶ。音助は肩で息をしながら、男が死骸を撥ね除け、鉄格子に縋りつく様を見ていた。
「あなた……僕に何をしようとしたんですか。その男の人は誰ですか。そもそも、あなたは誰なんですか?」
男は答えず、頻りに後ろを振り返りながら必死で訴えた。
「それは後でいい! 話すから、全部話すから! 早くここから出してくれ!」
不意に、男が「ひぃ」と叫んだ。彼の踵を摑む者があったのだ。それは死体を乗り越えて、男のスーツに指を這わせた。
ぬっと浮かび上がった白い顔。あまりに白く透き通っているため、朧げな光を纏っているかのように見えた。つんと上を向いた小振りな鼻に、赤い唇。だらしなく垂れた唇からは牙が覗き、口の周りは血で真っ赤に汚していた。
女だった。女は圧し掛かるようにして伸び上がると、水搔きのある手を頬に添え、こちらに振り向かせる。唇を奪った。
それは甘美な接吻とは程遠い。間もなくブチリと大きな音がしたと思うと、重ねられた唇の隙間から血が溢れた。絶叫は言葉にならず、ごぼごぼという粘ついた音に取って代わられる。
打ち捨てられた男。血と嗚咽を吐きながら、それでもなお助けを求めて手を伸ばそうとした。
女は。喰い千切った男の舌を、それはそれは美味そうに咀嚼していた。
その壮絶な光景に、音助の脳は焼き切れた。彼は泣き叫ぶ男を置き去りに、土蔵を後にした。
それからしばらく経った頃。
音助は書物を検めた。住職の日記。それは時代を下っても続いていき、江戸幕府の設立から終焉までを綴っていた。
その後、日記に人魚の話は登場しない。その代わり、最も奇妙なこととして、日記の筆跡が一切変わっていないことが見て取れた。それ則ち、すべて同一の人物が記したことを意味している。
極めつけの一文。
『玄之勝なる学者が訪ねてくる。如何にしてこの寺を見つけたのか』
玄之勝の名前もそれっきりであった。彼の末路は、記されずとも、音助は知っている。
音助を迎えた男の正体こそ、古寺の住職であろう。彼は六兵衛が人魚に喰われてしまった後、人魚を海に帰すことはしなかった。座敷牢を造り、監禁した。餌なら六兵衛の死体があった。それが尽きても、寺ならば死肉には事欠かなかったかもしれない。
例えば、そう。遠方より訪ねてきた旅人を迎え入れ、騙して座敷牢に閉じ込めたりしたのであろう。化け物の餌にするために。
音助は玄之勝の顔を知らないのだ。知っているものは彼の字だけ。改めて見返せば、「玄之勝」が本にくれたサインは日記の文字に酷似している。つまり、それが真相だったのだ。
住職は、人魚を生かしながら、少しずつ、少しずつ、その肉を食べていた。暗がりに目が慣れてみれば、人魚の鱗はほとんど剥がされていて、尾ひれには痛々しい傷がいくつもあった。住職の最期は無惨ではあったけれど、彼が人魚にした仕打ちを考えれば、自業自得だったのかもしれない。
さて、この人魚をどうするべきか。
音助は座敷牢の前に立ち、思案した。
幽世のものは幽世に。それが正しいことなのだ。
しかし、嗚呼――人間というものは斯くも浅ましき化け物かな!
人魚は膜の張った眼で音助を見上げた。血塗れの口元が動く。それは微かに笑っているようで。音助の内に秘めたる欲望を刺激した。
ほんの好奇心、だったのだ。
【おわり】