【最終選考作品】トンネル(著:池田佑)
十二歳の夏、ぼく梶井陸は母と四つ下の妹はるとともに、東京から母の生まれ故郷の田舎町に越してきた。
両親が離婚すると聞いたとき、さほど驚きはなかった。
二年くらい前から父と母は目すらろくに合わさなくなっていたし、夜中に激しく口論する二人の声で目を覚ましたのは一度や二度ではなかったから。
ぼくら家族が身を寄せた母の実家から新しい小学校までは、徒歩で四十分もの距離があった。通学路には小さな墓地が二カ所と薄暗いトンネル道が一本あって、妹はそこを「おばけが出そう」だと怖がった。
まだ小さいはるに慣れない道を一人歩きさせるのは心配だからと下校時はしばらく祖母が付き添う約束になったが、どうしても都合がつかない日はぼくが一緒に帰ることになった。
その日、授業を終えて待ち合わせ場所の図書室へいくと妹はいなかった。二年生は一時間早く授業が終わるから、ここで時間を潰すといっていたのに。
司書の先生に妹の特徴を伝えて見かけなかったかたずねると、彼女はああとうなずいて少し前に一人で帰ったと教えてくれた。
例のトンネルの途中でしゃがみ込むはるの後ろ姿を見つけたときぼくは心底ほっとしたが、同時に無性に腹も立ってきた。わがままで気分屋な妹は時々こういうことをする。
「はる! 勝手に帰るなよ」
はるが振り返る。そのとき、暗がりにもう一人いたことにぼくはようやく気づいた。
「梶井くん?」ぼくの同級生だ。
名前は新島、(たしか)純。すらっと背の高い大人っぽい顔立ちの女の子だ。一度か二度話した気がするが、なにせこちらは越してきてまだ一週間だし、そこまで親しくもなかった。
その新島とはるが揃って足を止めて眺めていたのは、車にはねられたと見える子猫だった。大きな傷こそ見当たらないが、横向きに倒れた白い体はぴくりとも動かない。
「死んじゃったみたい」泣きそうな声ではるがつぶやいた。
新島はなぐさめるようにはるの背中をぽんぽんと叩き、
「このままにしておくのは可哀想だから、どこかに埋めてあげようかって相談してたところで。ね?」はるはコクンとうなずいた。
「フゥン」
生返事をしてしまったのは「手伝って」と頼まれやしないかと警戒したからだ。
大きな声でいいたくはないが、ぼくは動物が苦手だった。生きているのだって怖いのに死体に触るなんてとんでもない。しかもぼくは気づいてしまった。ぱっと見綺麗に見えた子猫だが、よくよく見ると片目が飛び出していることに。もしこの場にぼくひとりきりだったらもう逃げ出している。だが、心配は杞憂に終わった。
新島はリュックサックからハンカチをとりだすと、広げたそれで子猫を優しくくるみ、そっと抱き上げた。
自分がそうするのが当然でしょといわんばかりの、迷いのない手つきだった。小さいはるはまだしもぼくの方すらちらとも窺いもしなかった。我ながら身勝手だが、絶対に頼られたくないと考えてたくせに、いざそうされるとプライドがひどく傷ついた。
「あと埋めるとこだけど……シャベル持ってないから、わたしは学校戻るね。たしか教室に花壇用のがあったから」
「はるも一緒にいく」
「うちにくればいいよ」いってしまいそうな二人に、ぼくは慌てて口を挟んだ。「学校より近いし、うちは庭だけは広いから。たぶんどっかしら埋められるはず」
「でも、家の人に怒られない?」
「平気。ばあちゃん動物好きだし、昔飼ってた猫も金魚もみんな庭に墓作ったっていってたから。一つくらい増えても気にしないよ」
「そう? じゃあ、お願いしようかな」
頷いてくれた新島にほっとする。とりあえず、いやなことを全部女の子におっかぶせて逃げた情けない男にはならずにすんだ。
猫の一件があってから、ぼくは少しだけ新島を気にするようになった。
実はぼくは新島に「あいつ、子猫の死体を怖がって近づこうともしなかったんだよ」といいふらされはしないかと心配していたが、彼女はクラスのだれにもあの事件そのものを喋らなかったらしい。ぼくにすらその話題をふってきたのは翌朝教室で顔を合わせた際に「昨日はありがとう」と一言口にしたくらいで、あとはなにもなかった。
女の子ってもっとお喋りなものじゃなかったか。母も祖母もはるも家ではみんなやかましい。時どきいやになるくらいに。
二度目の偶然がなければ、ぼくらはそれ以上特に関わることもないまま卒業していったと思う。
あの日は学校を出たときから遠くで雷がごろごろ鳴っていた。傘がなかったから家までもてばいいなと早足で歩いたけれどやっぱりだめで、例のトンネルに飛び込んだ頃には全身ずぶ濡れになっていた。
「あ。やっぱり梶井くんだった」
トンネルの壁を背にして座っていた新島はぼくを見上げてそう笑うと、ポケットから出したハンカチをさし出した。
「どうぞ。拭いた方がいいよ」
「いいよ」
「猫くるんだやつじゃないから安心して」
「べつに、そんなの気にしたわけじゃないよ」
ハンカチは乾いていた。いつからここにいたのかたずねると、ちょうどトンネルに入ったときに雨が降り出して足止めされていたといった。
「はるちゃんは?」
「今日はばあちゃんと帰った。いつも一緒なわけじゃないから」
「いいな、お兄ちゃん。わたし一人っ子だからさあ。お兄ちゃんかお姉ちゃんにくっついて歩くのちょっと憧れた」
「くっつかれる方は大変だよ」
「だよねえ。だから下はいいや」
新島はいやに饒舌だった。
前に住んでたところはどんな感じだったの? 友達とは連絡とってる? 新しい学校にはそろそろ慣れた?……
ぼくはどうせ既にずぶ濡れだったしここを走り抜けてもよかった。けど矢継ぎ早に喋る新島の勢いに負けてしまって、なんとなく彼女の隣に座りこんだ。
ごろごろ。ざあざあ。
ごろごろ。ざあざあ。
ざあざあ。ざあざあ。ごろごろ……どしゃん!
激しく降る雨の音に、時おりどこかに落ちた雷の音が混じる。ひと際大きな雷が落ちると新島はちらっと外を窺ったが、怖がっているわけではなさそうだった。
「雷すごいねえ。当分出られないかな」口調ものんびりしている。
本当に長い雨だった。徐々に話題が尽きかけてきた頃、雨をかきわける音と共にヘッドライトを光らせた自動車が一台、トンネルに滑り込んできた。
母親の車ならよかったのになとぼんやり眺めていると、突然横から腕を摑まれ、ぐいっと引っ張り起こされた。
「危ないから」新島が低い声でつぶやく。
ぼくらは充分道路の端に寄っていたし、車も大してスピードは出ていなかった。なのに新島はぼくを引っ張って限界まで後退すると、冷たい壁に背中をぴったり押しつけた。目の前を車が通過する瞬間、まだぼくの腕を摑んだままの手にぎゅうと力がこもる。
車を見つめる新島の顔は明らかに怯えていた。
グロテスクな猫の死体にも、耳が割れるような雷の音にも平然としていた彼女が、なぜかただの車を怖がっていた。
車が完全にトンネルを抜けたのを見届けると、新島はようやく手を放してくれた。
「もしかして、車に轢かれたことでもある?」
いってすぐ、ぼくは聞かなきゃよかったと後悔した。新島の目から涙がぼろぼろ溢れ出したからだ。
「ごめん」ぼくは慌てていった。
「いや、違う。こっちこそごめん」
「いや、でも、たぶん余計なこと」
「ごめん、本当に違うから。梶井くんのせいじゃなくて」
新島は必死に否定しながら手で何度も顔を拭うが、涙は止まらないようだった。
借りたハンカチを返そうかとちょっと考えたが、雨とぼくの汗でぐっしょり濡れたそれで涙を拭けとはいえなかった。
クラクションの音がして振り返ると、今度は見覚えのある車が近づいてきた。
「陸、おかえり」運転席の窓が開き、母が顔を出した。
「雨すごいから乗りな。お友達もどうぞ。おうちまで送るよ」
「大丈夫です。すぐそこなので」
新島は食い気味にそういうと軽く会釈をし、止める間もなく走っていってしまった。
なぜ泣かせてしまったのか気にはなったが、また地雷を踏むのが怖くて翌日もなんとなく声をかけられなかった。
新島も話しかけてこなかった。
だから涙の理由を知ったのは、何日もあとになってからだった。
「そう、交通事故で。お葬式は一月だったんだけど、純がまた学校に来れるようになったのは春休みの少し前かな」
その日ぼくは日直当番で、相棒がたまたま新島と仲のいい女子だった。
話の流れは覚えてないが、日直の仕事を片付けながら雑談するうちたまたま新島の話になった。そして彼女の母親が今年の一月に亡くなっていたことを聞いた。
「みんなすごく心配したけど、元気になってくれてよかった」
「元気? 前と変わらず?」
「最近はね。あ、でも事故の話は純にしないでね。みんな触れないようにしてるから」
新島の友人からはそれ以上聞き出せなかったから、ぼくは家に帰るとすぐネットを繋ぎ該当時期の新聞記事を漁った。
間もなく地方紙にそれらしい事故の記事を見つけた。
事故が起きたのは一月九日の深夜。歩いて帰宅途中だった新島の母をはねた車の持ち主は、通報もせず逃げてしまった。大怪我をした彼女は長い時間そこに放置され、べつの通行人に発見されて救急車が呼ばれたときにはもう手遅れになっていた。
事故現場はあのトンネルだった。
ぼくは基本的に平和主義で、家族なり友達なりと喧嘩をしても大抵は先に謝ってしまうタイプだった。仮に自分は悪くなくても(妹との喧嘩は八割方向こうに原因があった)相手の出方を待っていつまでも気まずい思いをするよりは、頭を下げてしまった方が遥かに気楽だった。
だから、傷つけたとわかっているのに相手に謝ることすらできない状況というのははじめてで、居心地が悪かった。
知らなかったんだから仕方ない、と言い訳はできる。もっと早く彼女の母親の事故を知っていたら少なくともあのとき「轢かれたことがあるのか」なんて無神経な質問はしなかった。よりによってあの場所で。
謝りたかったが、きちんと謝るには事故の話をほじくり返す必要がある。そんな真似できるわけない。
気にはしながらなにもできないままずるずると日が過ぎ、気づけば夏休みに入ってしまっていた。
ぼくにとって夏休みとは忙しいのが当たり前だった。
東京では野球の少年団に入っていた。少年団の練習は普段は土日だけだが夏休み期間中は特別に月水金の三日間、朝六時から一時間半の朝練もあった。平日昼間はほとんど毎日塾へ通い、空き時間は塾や少年団の仲間と遊んだ。
今年も夏期講習には通っていたが用事らしい用事はそれだけだった。
夏休み前に仲良くなった同級生のうち一人は習い事で忙しく、もう一人は休みに入るとすぐ家族と海外へいってしまった。向こうに親戚がいるらしい。
居間で一人、面白くもないテレビを見ているとはるが寄ってきて、暇なら図書館にいこうといいだした。
「一昨日もいったろ」
「だってもう借りた本全部読んじゃった」
「だからもう一冊借りとけっていったのに」
「ねえいこうよ。お兄ちゃんが一緒にいってくれるなら外でお昼食べてきていいよって、お母さんがお金くれたよ。ねえ」
「ああもう、わかったよ。その代わり、ぱっぱと選べよ」
「うん!」
そう約束したのに、結局本選びに二時間以上付き合わされた。
図書館の用事が済んで隣にあるファミレスにようやく入れたのは、昼時などとうに過ぎた夕方の四時近くになってからだった。
「きみたち二人だけ? お父さんかお母さんは?」
ぼくらだけだと答えると、ウエイトレスのお姉さんは困った顔をした。
「お金はちゃんとあります」
「ごめんね。うちのお店の決まりで子供だけのお客様はお断りしてるの。今度、大人の人と一緒にきてくれる?」
「ええーっ」はるが露骨に不満の声をあげると、近くのテーブルのお客さんがちょっと迷惑そうな顔でぼくらを見た。
「仕方ないよ。帰ろう」
はるの手を引いて店を出ようとするが、妹は足を踏ん張って抵抗した。
「やだ。疲れたしお腹すいたもん」
「じゃあ途中でコンビニ寄ろう」
「やだ。ここでチョコレートパフェ食べる」
「はる……」
「い! や!」
「お兄ちゃん、困っちゃってるよ。一度おうちに帰って、パパかママとまたくるのはどう?」見かねたお姉さんも説得に加わってくれたが、これがかえってはるの機嫌を損ねてしまった。
「お父さんいないもん!」はるは金切声で絶叫し、わーっと泣き出した。
きっとぼくの顔は真っ赤になっていた。
恥ずかしくて顔を伏せていても、突き刺さる視線で店中の注目を集めてしまっているのはいやでもわかった。
うるさいよな、邪魔だよな。わかってるよ。でも今一番はるを疎ましく思っているのは間違いなくぼくだ。小学生最後の夏休みに、なんでこんな恥ずかしい思いをしなくちゃならない。
「あの、すみません」
近づいてきたのは、三十代くらいと見えるワンピース姿の綺麗な女の人だった。
怒られると思い、ぼくはまだ泣いているはるを強引に引っ張った。ここまで騒いでしまったのなら、もう喧嘩になろうが構わず引きずっていくしかない。
「うるさくしてすみません。はる、いくぞ」
「待って、違うの」女の人は微笑んだ。
「よければおばさんの席に一緒にどうかなって。あそこの席なんだけど。座ってる子、あなたの知り合いじゃない?」
女の人が指した方を見る。窓際のソファ席から新島が笑顔で手をふっていた。
希望のチョコレートパフェが運ばれてくると、はるはすっかりご機嫌になった。
ぼくはもう食欲なんか失せていたが、仕方なしに頼んだサンドイッチにとりあえず手を付ける。味はしなかった。
「おばさんたちはもう食事済んじゃったけど気にしないでゆっくり食べてね。純ちゃん、紅茶おかわり頼む?」
「まだ大丈夫です」
「遠慮しないでね。あ、ごめん。ちょっと仕事の電話してくるね」女の人はそういうと、バッグを持っていってしまった。
ハァー。と、隣に座る新島が大きなため息を吐いた。
「ごめん」
「ん? あー、違くて。むしろ梶井くんが居合わせてくれて助かった。って感じ?」新島は意味深に笑う。
新島は普段学校で会う姿とは雰囲気の違う格好をしていた。余所ゆきというやつだ。裾がひらひらした薄手のワンピースを着て、踵の高いサンダルを履いている。爪にピンクのマニキュアまで塗っていた。
どこかへいってきた帰りなのか、足元にある荷物用の籠にはバッグとはべつに大きな紙袋も二つ並んでいた。
新島がトートバッグから取り出した薄い冊子をテーブルに置くと、はるは食べる手をとめてそれをじっと見た。
「それなに?」
「午前中行ってきた美術館のパンフレットだよ。見る?」
「見る!」
片手にスプーンを握ったまま、差し出されたパンフレットを受け取ろうとする妹をぼくは慌てて止めた。
「全部食べてからにしろよ。汚すだろ」
「ハハ。べつにいいよお、汚しちゃっても。ただの紙だし。ハイどーぞ」
「ありがとう」
ちらっと見えた表紙には洒落た字体で「東京国立近代美術館」と書いてあった。
東京。今や胸にずしんとくる言葉だ。車なら二時間ちょっとでいけるが、十二歳のぼくにはその距離は遠すぎた。
「梶井くんて」ぽつっとつぶやいた新島が、突然ずいっと距離を詰めてきた。「お父さんいないの?」
はるに声が聞こえないようにとの配慮だろう。互いの肩が触れるほどぼくに体をぴったり寄せて、新島はひそひそ声でいった。
「ごめん、さっき聞こえちゃった」
ぼくはどきどきしながら小さく頷き、ちょっと考えてからテーブルに指で「りこん」と書いた。新島はウンウンと頷いた。
「うちはお母さん」
新島もまたテーブルに指でなにか書いた。ほとんど殴り書きに近かったので、予め事情を知っていなければ「しんじゃった」の文字は読み取れなかったと思う。
ぼくはちらっと向かいのはるを見た。まだパンフレットに夢中だ。
「いつ」と書くと、すぐに「いちがつ」と返ってきた。聞いていた通りだ。
「さっきの人ね、たぶん新しいお母さんになりそう」
「え?」
「ごめんねえ長くなっちゃって。あら、パンフレット見てたの?」
女の人が戻ってきたのに気付くと、新島はぼくからさっと離れた。
「おかえりなさい。全然早いですよ」さっきまでのピリついた空気がうそのように、笑顔でそう答える。
「休みの日くらい電話はなしにしてほしいわ。ね、ケーキ半分食べない? ちょっと甘いもの欲しくなっちゃって」
「じゃあいただきます」
女の人の視線がメニュー表に移ると新島はまたこっそりぼくを見た。作り笑顔はすっかり消え、口だけでこういった。
はやすぎない?
話は飛んで八月が終わる頃、ぼくらの家に子犬がやってきた。
実ははるは律儀にも、庭の猫を埋めた場所に毎朝花を供えてやって拝んでいたのだが、母はそれを喜ばなかった。飼っていた猫でもなく、拾ったときは死体だったものに感情移入しすぎるのはよくないと。
他の対象に興味が移れば奇行がやむのではと考えた母は、ちょうど子犬が産まれて里親を探していた知人から一匹貰い受けてきたのだ。
母の読みは当たり、新しい家族にすっかり夢中になったはるは朝のお参りの習慣を忘れてしまった。
子犬はネロと名付けられた。
相変わらず塾の行き帰りくらいしかやることがなく退屈していたぼくにとっても、ネロの登場は嬉しいサプライズだった。朝の散歩はぼくが、夕方の散歩ははると祖母が担当することになり、ぼくは久しぶりに早起きをはじめた。
八月三十一日。夏休み最後の日。
学校が始まれば散歩にたっぷり時間を割くのは難しくなるから、今日はネロが満足するまで付き合ってやることにした。
ネロは体は小さいくせに力はとても強かった。その上好奇心旺盛で、ぼんやりしていると勝手に散歩コースから外れていこうとするから油断ならなかった。
「今日は好きなところにいっていいよ」
いつものようにリードを引っ張られないとわかるとネロはいたくご機嫌になり、軽くステップを踏みながら、ぼくも知らぬ道にどんどん入り込んでいった。
知らない家と家の間の細い路地を抜け、知らない交差点を渡り、知らない公園の中を二周した。
公園の時計を見るとやっと六時になったところだった。ネロはまだ散歩を続けたそうな様子だったが、あいにく少し前から小雨が降り出していた。
「ねえ、きみ……」
声にふり返ると、知らない女の人が立っていた。
「やっぱり。純ちゃんのお友達よね? この前、図書館の隣のレストランで会った。おばさんのこと覚えてる?」
そこまで聞いてやっとぼくは目の前の人物がだれなのか気がついた。
あのときとはずいぶん様子が違った。化粧はしていないし、髪は乱れているし、部屋着にサンダルを引っかけている。辛うじて傘は差していた。
美人とはいえないぼくの母だって、こんな格好で外を歩き回ることはちょっとないかもしれない。
「どうした?」
遅れて、背の高い四十代くらいの男の人もやってきた。彼も寝起きのまま家を出てきたという感じだった。
「純ちゃんのお友達」女の人がぼくを指していった。そしてぼくに目を戻し、「純ちゃんのお父さんよ」
二人は新島を探していた。
朝から姿が見えないらしい。どこへいくなどの書置きはなく、スマホと財布は部屋に置かれたまま。見かけなかったか、行先に心当たりはないかと聞かれたが、ぼくはどちらもないと答えた。
「もしなにかあったらここに電話をちょうだい」
女の人は財布から名刺を一枚抜いてこちらに差し出した。それを受け取る際、ぼくは彼女の薬指に光る指輪に気付いた。
まさかとは考えたが、確認せずにはいられなかった。
トンネルに駆け込んですぐ、道路の真ん中で仰向けに倒れる人影を見つけた。一瞬足が竦んだが、胸に抱いたネロになんとか勇気をもらい、意を決して影に近づいた。
道路に横たわった新島は目を閉じていた。
傍らにしゃがみ、脈を確認しようと手首に触れると、新島の体がびくっと動いた。
「……梶井くんかあ」薄目を開けてぼくを見ると、残念そうにつぶやいた。
「お母さんも、もう少し早く気付いてもらえたらよかったのにな」
新島はどこも怪我はしていなかった。車は通らなかったらしい。手を貸してやると、意外にも素直に立ち上がった。
ネロがクンクンと鼻を鳴らした。
「犬飼ってたんだ」
「ちょっと前からね」
「触っていい?」
やんちゃ盛りのネロはただ大人しく撫でられてはいなかった。お返しとばかりに新島の手をなめ回し、指をべたべたにした。
新島は怒らなかった。涎まみれの手を見て「ひどい」とこぼすと、その手で顔を覆い、肩を震わせて笑い出した。
「いつでも見においでよ」
ぼくがそういうと、新島は派手に音をたてて鼻をすすり、コクンと頷いた。
【おわり】