【最終選考作品】幸福な孤独(著:まかろん)


‌ 夕食時、BGM代わりに流していたテレビ画面に映し出された外国の女性が、しきりに「深い山です。そこに工場がある。木材を加工するような工場。()びたクレーンが印象的です」と繰り返している。声は吹替えで、落ち着いた話し方とはチグハグな本人のオーバーリアクションが印象的だった。
‌ 番組の紹介によると彼女の名前はメリッサ。アメリカ人の超能力者で、FBIに協力をして事件解決に貢献した実績があるらしい。彼女は八年前に自宅から(しっ)(そう)した男子中学生の居場所を透視し、「彼は生きています」と断言した。母親との(けん)()を発端とした衝動的な家出だったようで、少年の両親は涙ながらに「帰ってきて欲しい」、「何があっても温かく迎える」と訴えている。
‌ (そう)()が好きそうな内容だ。何せ彼はUFOもムー大陸も宇宙人も(いん)(ぼう)(せつ)も信じている。彼に番組の感想を聞いてみたかったが、オカルトに懐疑的な私は番組のことをすぐに忘れてしまった。しかし、放送から三週間後、何と失踪少年が発見されたのだ。透視の通りちゃんと生きていて、自宅から千キロも離れた東北地方にある製材工場に住み込みで働いていた。偶然番組を見ていた地元の人からの通報だったらしい。失踪当時、台風の影響で少年の自宅近くの川が増水しており『誤って川に落ちた不運な事故』というのがこの事件の定説だったから、まさかの生還に驚いた。単に偶然だったとしても的中させたメリッサには相当な(はく)が付いたことだろう。待ち続けた家族は報われ、オカルト論者の(りゅう)(いん)も大いに下がったはずだ。(ただ)し、ハッピーエンドとは程遠い結末だと思う。家出した中学生が八年も平穏に暮らしていたとは考えにくく、彼の失踪中の生活は興味深い話題としてネットを沸かせている。行方(ゆくえ)不明や未解決事件は、どこか非現実なミステリーめいて人の好奇心を刺激するのだろう。
‌ 私にも失踪について忘れられない記憶がある。二十二年前の夏、一人の主婦が突然消えた事件があった。今も彼女の行方は(よう)として知れない。

‌「(きよ)()ちゃんが家出したなんて絶対にありえない。あの子は何よりも子供を大事にしていたし、真面目(まじめ)だし、この町が好きだった。誰かに連れ去られたのよ。間違いなく!」
‌ その失踪を知ったときの母は手に負えなかった。我を忘れたように叫び、毎日同じ言葉を(わめ)き散らした。「清美ちゃんは家出なんかする子じゃない! 絶対事件に巻き込まれたに決まってる」
‌ 失踪した主婦、岡部清美さんは母の知人だった。
‌ その夏は(こく)(しょ)で、当時十三歳の私は脳味噌が()で上がって()()けになり、日常と化した母の金切り声にも生返事が精一杯だった。実家は狭い戸建てで自室はなく、物だらけの居間で不毛な夏休みをやり過ごす以外にすることがなかった。
‌ やかましく鳴き続ける(せみ)。庭に出されたままの外飼いの雑種犬。蚊取り線香の煙。(じょう)()(そう)からの悪臭。エアコンの風はぬるく、付けっぱなしの高校野球など誰も見ていなかった。十歳と八歳の妹たちが、ちゃぶ台に並べた雑紙の上に退屈そうに絵を描き、引き戸一枚で(へだ)てられた和室から夜勤を控えた父のイビキが聞こえてくる。時間は()(かん)して停滞し、退屈の中に閉じ込められた娘たちは()んでいた。けれど母は死体のような私達を気にも留めず、家族の気力を吸い取っているかのようにハツラツとしていて、
‌「成人の失踪は真面目に捜査していないみたいなの。信じられない警察の(たい)(まん)ね」
‌ 嬉々として怒りながら、固定電話に手をかけて何度目かのリダイヤルをした。
‌「もしもし? 岡部さんの事件を担当している方に回して貰えます? え? だから、私は親友なんですよ。たらい回しは止めてくださいね。ちゃんと対応して貰わないと。はぁ? それがあなた方の仕事でしょ?」
‌ 最初はよそ行きだった声が徐々に荒れて早口になり、喧嘩腰になると最後はガチャ切り。私は電話の向こうの警察に同情した。
‌ 母は悪質なクレイマーだ。失踪事件が起こる前は、スーパーや食品メーカー、学校や町内会にまで()(さい)なケチを付けて回っていた。もちろん個人ともトラブルばかり起こす。初対面では取り(つくろ)えるものの、徐々に(えん)(りょ)とデリカシーが消えて高圧的になり、持ち前の()(せき)()(こう)で相手を叩き潰す。この(しょう)(わる)さに加え、口を開けば()()と不満のオンパレード。当然のように孤立していたけれど、何故か清美さんとだけは関係が続いていた。と言っても、(はた)から見る限り母の一方的な執着だ。母はよく清美さんに電話をしていたけれど、向こうから掛かってきた記憶はない。二人の共通点は年齢が同じであること、清美さんの長女と私のすぐ下の妹が同級生ということだけだ。母が主張する『親友』とは程遠い関係だったと思う。
‌ 清美さんは当時三十五歳。地元出身の専業主婦。色白の()せ型。保護者が参加する学校行事などでも特別目立つ人ではなく、ごく普通の『よそのお母さん』だった。家族は測量士の夫と元美容師の義母、十歳の長女と五歳の次女。自宅は夫の実家をリフォームした一戸建てで、うちから車で二十分程離れた畑の中にある。学生時代は陸上部。結婚前の仕事は農協の事務員で、趣味は海外ドラマを観るくらい。と、母がペラペラと個人情報を話すので嫌でも覚えてしまった。
‌ 清美さんが失踪してからの母は活力に(あふ)れていた。何の代償も払わず合法的に『友人を失った()(わい)(そう)な私』という被害者になれたし、堂々と上から目線で警察に文句が言えた。自分は親友だったと(いん)(ろう)の如く振りかざし、清美さんの家族、マスコミ、ネットの住人に対しても、親友が言うのだから間違いない、という(ごう)(まん)な態度で持論を話しまくった。
‌ 今でも清美さんについてネットで検索すると、事件説の根拠の一つである友人の証言として母の言葉が掲載されているから(あき)れてしまう。単なる知人の(もう)(げん)なのに。
‌ 失踪した当初は事件として(おお)(ぎょう)に報じられてはいなかった。未成年者の失踪と違い成人の場合はそれほど大きな注目は集めない。毎年全国で八万人が失踪しているというデータがあるけれど、その(ほとん)どは自発的な家出か認知症などの病気に起因するらしく、清美さんの場合も警察は一番高い可能性を考えていたのだと思う。母はその見解に反発し、清美さんの夫もそれに(つい)(ずい)した。彼はブログを開設して事件性を訴え、情報提供を求める活動を始めた。その結果夕方のニュースで特集を組まれ、部外者の私でも事件の詳細を知ることになる。
‌ 失踪当日の清美さんはPTAの会合に出席し、午後五時頃にスーパーに寄って帰宅したらしい。板金工場の作業員が証言した、自宅方向へ自転車を()いでいる姿が最後の目撃情報。夫は仕事で義母は旅行中。娘二人は(しん)(せき)の迎えで隣町のいとこ宅に遊びに行っていて、清美さんも合流する予定だったという。
‌ 夫が帰宅した午後七時半、自宅は真っ暗で、清美さんの軽自動車と自転車は定位置にあった。更に玄関が()()(じょう)だった。三和土(たたき)(くつ)(ばこ)の中身が散乱しており、清美さんの携帯電話がリビングの隅に転がっていたそうだ。
‌「警察には家出と判断されましたが妻にはその理由がありません。何があったにせよ、自分から娘たちを置いて出て行くなんて考えられません。子供の成長をとても楽しみにしていましたし、家出なんて大それたことは出来ないごく普通の母親でした」
‌ 清美さんの夫はマスコミの取材に力強く訴えていた。
‌ 今でもブログは残っているが、七年前の日付を最後に更新は途絶えている。過去の記事に母が書いた無責任なコメントもそのままにして。

‌『友達との付き合いを母に(とが)められてカッとした』
‌ 少年についての続報が出た。彼の兄がマスコミの電話取材に答えた内容によると、家出は突発的で無計画。きっかけは母親との口論で、友達関係を(せん)(さく)された怒りと反発からの行動。彼には親から見て付き合って欲しくないタイプの友人たちがいたらしく、使いっ走りにもされていた。家出後はその友人と関わりのあるコミュニティ内で生活していたそうだが詳細はまだ不明。記者は記事の最後を、『元少年は疲れ切っていて(しょう)(すい)しており、帰ってこられて本当に良かったと家族に語っている。家出の代償はあまりにも大きかったようだ』と締め(くく)っていた。
‌ 友達。
‌ 少年はそのために(しゅっ)(ぽん)し、母は執着し続けていた。寂しかったのだろうか。孤独に耐えられなかったのだろうか。私には分からない。分からないのはきっと必要がないからだと思う。
‌ 昔から友達と呼べる相手は殆どいなかった。寂しいと思ったことはない。地味な私はどこにいても目立たず、中学に入学すると本格的に孤立した。学校生活では誰かとグループを組まなければやりすごせないイベントがあるため、(もり)さんという無口な女子と行動することが多かった。彼女もどこのグループにも属していなかった。休み時間にはお(しゃべ)りし、移動教室では連れ立って歩いた。趣味も好きな音楽も得意な科目も何も知らない。自宅に遊びに行ったこともないし、何なら会話もしっくりこない。微妙な関係なのは分かっていたけれど、学校内の軽い友達程度の関係なのだから充分だと思っていた。
‌「突然いなくなった人ってどこへ行くのかな。神隠しって本当にあるのかな」
‌ 清美さんが失踪した年の夏休み明け、森さんが能面のような表情で(とう)(とつ)に言った。彼女から話しかけてくれるのは珍しく、
‌「さぁどうなんだろうね」
‌ つい、くだらない返事をしてしまった。
‌「きっと(とう)(げん)(きょう)があって(てん)()とか狐がさらいにくるんだ。いいなぁ。私も連れて行ってくれないかなぁ」
‌ 彼女は独り言を(つぶや)きながら窓際の自分の席に座った。夏の日差しとグランドの砂がキラキラと(まぶ)しかった。

‌ 蒼太と会うのは月に一度、毎月最初の土曜の夜と決めている。何をするでもなく、話をしながら二時間の食事デートをするだけ。今月は連絡がないので予定が()いてしまい、自宅アパートで味気ない夕食を食べていると、スマホに知らない番号から着信があった。出ると相手は若い女で、かなり興奮していた。
‌「あんた蒼太の浮気相手だよね。蒼太はそこにいるの?」
‌ (ずい)(ぶん)()(しつけ)な言い草だと思った。
‌「蒼太のスマホにあんたとのやりとりが残ってるんだけど。何年も前からじゃん。特別な関係なんでしょ。分かってんのよ」
‌「知人です。あなたが心配するような関係じゃないですよ」
‌「余裕こいてんじゃねぇよ。偉そうに。どうせババァでしょ」
‌ 女はカリカリとして余裕がない様子で語気を荒げた。スマホを勝手に見られている蒼太の脇の甘さに呆れてしまうが、彼女も参っているのだろう。
‌「あなたは蒼太の彼女? それとも、」
‌「あんたに関係ない!」
‌「もしそうなら本人と話して。私に言われても何も出来ない。分かるでしょ」
‌「偉そうに説教すんな! ほんっとイラつく。クソ女!」
‌ 通話を一方的に切られたので、その番号を着信拒否にして私は夕食を再開した。冷めた冷凍パスタは不味(まず)く、色恋()()(めん)(どう)(くさ)い。驚きはしたが電話の彼女には哀れみを感じる。きっと(しっ)()と不安のはけ口を探していたのだろう。全部蒼太が悪いのだ。彼はその気もないくせに、女性を自分に依存させることにかけては(てん)()の才を持っている。
‌ 彼の本業は自称劇団員だけど実際は分からない。確かなのは主な収入を出張ホストのバイトで得ているということ。主に女性向けに性的なサービスを提供する派遣型のマッサージ業で、色恋営業や店を通さない個人契約もザラに行っている。天職だと思う。
‌ 彼は店のサイトに掲載してある指名数ランキングでは目立たないが、売上げは恐らくトップクラス。そのせいで『自称彼女』を量産してトラブルに見舞われる。過去には客をストーカー化させて怖い思いもしたようで、「もう二十八で年齢的にも(しお)(どき)だから引退する。これから真面目な昼の仕事を探すかな」と最後に会った食事の席でしおらしく()(ちょう)していた。薄々分かってはいたけれど、やはりすぐに(てっ)(かい)したのだろう。
‌ 私も最初は彼の客だった。といっても健全な食事デートでの指名だ。五年前の冬に蒼太と出会った。彼は(あご)の細い()(ちゅう)(るい)系の顔をしていて、ホストから連想するチャラさはなかったが不健康そうで青白かった。ラフで清潔な服装に黒髪。一見どこにでもいそうな青年風なのに学生や会社員には見えなかった。
‌ 予約していた中華料理店の席で簡単な自己紹介をされたが、私は自分について話す必要がないのでこのサービスを利用するのは初めて、とだけ伝えた。その理由も、
‌「社会勉強。ノベルゲームのシナリオを書いてるからそのネタのためでもあるけど」
‌ と、嘘で固めた。本当は三十路(みそじ)になったことによるはっちゃけと、年齢に焦り何か変化を起こしたいという足搔(あが)きでしかなかったのに。
‌「へぇ、脚本家なんだ」
‌「殆ど趣味みたいなもので全然お金にはならないよ」
‌ 頭で考える前にばかみたいな嘘がぽろぽろと(こぼ)れた。実際の私は大量雇用の派遣社員以外の何者でもなかったのに。
‌「僕と会っても何の参考にもならないと思うけどね。だって本当のことなんて無意味じゃない?」
‌ それはお互い様だ。名前は(もち)(ろん)(げん)()()だろうし、プロフィールも全部適当な設定だろう。関係性だけが事実だ。客とホスト。ただそれだけ。私はこの二時間のデートのために指名料一万六千円と食事代と交通費を払っている。その場限りの気楽な関係。でもそんなこと、端から見ても分かりっこないのだ。例え()(りん)カップルにしか見えないとしても問題はない。不健全な関係なんて世間にいくらでもあふれている。
‌ あの清美さんでさえ、一部ではそう思われている節があった。
‌ 私が高校に入った頃、清美さんの失踪が未解決事件を扱うテレビ番組で取り上げられた。事件を再検証して視聴者に情報提供を呼びかけるもので、超能力者は登場しない堅実な構成の番組だった。元刑事が再検証し、家出ではなく事件の可能性が高いだろうという見解を述べた。帰宅直後に連れ去られ、犯人は複数犯。以前から目を付けられていたのではないかと。清美さんの夫も顔にモザイクを掛けて出演していた。
‌ 番組は事件の知名度を大きく上げて風化の防止に貢献したものの(もろ)()(つるぎ)でもあり、放送後から清美さんの夫のブログに中傷が書き込まれるようになった。(いわ)く、『本当はお前が殺したんだろう』とか『嫁は不倫で愛人と逃げたのでは?』などの(たぐい)のものだ。
‌ 自分の妻を、平凡な主婦で子育てだけが生き甲斐(がい)だったと語る夫の言葉が、特に女性視聴者にモラハラめいて聞こえたのが悪いイメージを付けてしまった。それに清美さんには家を出て行く理由もあった。義母との折り合いが悪かったことと、夫には過去に不倫の前科があったことだ。時々清美さんの自宅付近に黒のSUV車が停まっていたという証言もあり、現在でも不倫の果ての逃避行説が一部では真実のように信じられている。私もそうであって欲しいと思っている。清美さんは今もどこかで生きていて、人生をやり直しているのだと。誰にだって(きゅう)(くつ)な現実から逃げたい瞬間はある。そのタイミングでたまたま開いた窓に飛び込めるかどうかだけの違いで、もしかしたら私が行方不明者になっていた可能性だってあっただろう。私はたまたまそうならなかっただけ。代わりにお金で人間関係が買えることを知ったのだ。
‌ 出張ホストは一度利用して気が済んだ。経験してしまえばどうということもなく、最初のデート後に届いたアフターメールはすぐに削除した。ただ電話が良くなかった。蒼太は声のトーンが落ち着いていて耳に心地よく、不覚にもずっと聞いていたいと思ってしまった。恋心はない。あわよくばを期待してもしていない。便利な食事係だという自覚もあるけど、気楽な話し相手がいるのが良かった。会社でする事務的な会話を除けば、私は一日中誰とも話す機会がない。
‌「おねーさんは飲み友達が欲しい人なんだね」
‌ 月に一度の指名を続けているのに一向に性感コースに移行しない私を蒼太はそう解釈したらしい。お金で作ったごっこ遊びなのだから、性を介入させないほうがより(ぜい)(たく)で特別に感じるのだから仕方ない。
‌「そうかもね。一人もいないから」
‌「大人になったら学生みたいなノリは難しいよ。仕方ない」
‌「年齢のせいじゃないの。昔からそう。親友どころか普通の友達もいなかった。いじめや仲間外れにされるわけでもないのに一人。どうでもいい存在なのよ」
‌「そんな寂しいこと言わないでよ」
‌ 僕は友達だよ、なんて雑な嘘は言わないところが蒼太の美点だと思う。
‌「色恋で一線を越えるほうがよっぽど簡単よ。体を使えば手っ取り早いもの。でも友達はそうはいかないでしょ」
‌ こんな話は誰にもしない。日常の外にいる存在だからこそ蒼太には価値がある。この騒がしい居酒屋こそが私にとっての桃源郷だ。過去も未来もない、今ここだけの時間を過ごせる。
‌「中学生の頃、あんたなんか友達でも何でもないって叫ばれたことがあるの。(みじ)めじゃない?」
‌ 気付けば口走っていた。たった三杯のビールで酔ってしまったわけでもないのに。
‌「惨めだった?」
‌「そうでもない。やっぱりな、って思っただけ。私がその子の立場でも私と友達になんかなりたくない。少しも楽しくないからね。まだ我慢してくれたほうよ」
‌ 近くのテーブル席から楽しそうな女の子たちの笑い声が上がった。スマホをのぞき込んできゃあきゃあと盛り上がっている。私の(そう)()(とう)には一瞬も映し出されることのないキラキラした光景。
‌ 改めて思い返す必要もなく森さんは友達なんかじゃなかった。
‌ あの夏は本当にろくでもなかった。残暑が厳しく、九月の終わりまで日中は汗ばむ日々が続いた。あれはまだ夏服を着ていた技術工作の授業中のことだった。
‌ 担当の若い男性教師は色々配慮に欠けていたと今でも思う。何度かの授業に分けて木製の折りたたみ()()を作るという課程を毎回、生徒たちの好きな場所で自由にやらせていた。当然仲の良い友達同士で()()(あい)(あい)という(ふん)()()になり、殆どのクラスメートはこの授業を楽しみにしていた。椅子の出来なんてどうでもよくて、堅苦しくないフランクな教師が作り出した『自由で楽しい授業』を(きょう)(じゅ)していた。
‌ 勿論私は(ゆう)(うつ)だった。工作室にも座席表はあったはずなのに、私の席は三人組の女子グループの指定席になってしまい、後方の(ろう)()に近い隅で作業を進めるしかなかった。お喋りが飛び交い、担当教師は一部の生徒に付きっきりになっている。それでも椅子は完成間近で表面を滑らかにする行程に入っていた。近くには森さんがいた。
‌「これどうかな。もう少しヤスリがけしないと手に刺さるかな」
‌ 私はどうでもいいことを聞き、いつものように森さんは顔も上げなかった。
‌ 彼女の椅子は雑に組み立てられてささくれ立っていた。
‌「早く出来たら色を塗ってもいいみたいだよ」
‌ 私は沈黙を恐れ、自分の口から(こぼ)れる間抜けな言葉を止められなかった。工作室の後方は歴代の生徒が作った作品の一部が並べられていて、その中にあったスタンドミラーにぎこちない自分の作り笑いが映り、ゾッとした。何て(しゅう)(あく)で陰気な顔だろう。こんな気持ちの悪い顔で近付かれたら誰でも不愉快だ。森さんだって例外じゃなく。(ちょう)()そんな絶望が(よぎ)ったタイミングだった。(みにく)く笑う私を振り払い、森さんは()(ぎし)りするように苦々しく言葉を吐いた。憎しみと共に垂れ流したと言ってもいい。
‌「・・・・・・()()れしく話しかけてこないで。あんたなんか、あんたなんかさ、」
‌ 一瞬、心臓が透明の槍で貫かれた。目には見えない鋭い刃。血の気が引くという現象を初めて味わい手足の力が抜け、真っ直ぐ立つのもおぼつかなくなる。彼女は私を(いち)(べつ)もしないで踏みにじった。しかしこれで終わりではなく、
‌「つまんないんだよ! 私に友達なんかいない!」
‌ 休憩を知らせるチャイムをかき消すほどの大声で森さんは叫んだ。本当に(よう)(しゃ)がなかった。立ち上がり、目を血走らせ、拳を握り込んで。私は瞬きも出来なかった。他の生徒たちと教師は一瞬で静かになり、(あっ)()に取られて固まっていた。動く時計の針は見えているのに確実に止まった時間。こめかみから汗が一筋落ちる。
‌ 我に返った教師が近付いて声をかけようとすると、森さんは両眼から大粒の涙をぼろぼろと零して弾かれたように廊下に飛び出した。工作室は一階の玄関近くにあったため、校庭に飛び出して正門へと走って行く後姿が窓越しによく見えた。白いソックスにベージュのスニーカー。膝上辺りで揺れていたプリーツスカートの(すそ)。今でもその光景は忘れられない。砂煙と眩しい太陽。しんと静まり返った教室で、私の心臓だけが狂ったように跳ね回っていた。
‌ その日、技術工作の教師も担任も森さんも戻ってこなかった。クラスメートたちは騒ぎ立てることもなく、突然の出来事に驚いてはいたが次の日には何事もなかったような様子だったし、森さんも普通に登校してきた。()き物が落ちたようなスッキリとした顔をして。
‌ 程なく森さんは明るい女子たちのグループの一員になった。盛り上がる彼女たちの会話の中から、森さんがお笑い芸人とアイドルが好きだったことを知った。クラス内は何事もなかったように落ち着いていて、森さんが正しい場所へ収まった以外に何の変化もなかった。
‌ 私だけが完全に蚊帳(かや)の外だった。私はいつも人の輪を外側から遠巻きに見ているだけの(ぼう)(かん)(しゃ)。そして思い知る。誰でも良いから友達が欲しい、恋人が欲しい、なんて真っ赤な嘘だと。それこそ弱い相手を狙った通り魔の言い訳の定番である、「相手は誰でも良かった」と同じくらいの白々しい嘘。誰でもの中に入るにはある程度の価値が必要で、その基準を満たしていない人間は視界にさえ入れない。
‌ 友達はステータスと同義で、より魅力的で価値のある人間と(つな)がっていることを誇示するためのステータスなのだから(ざん)(こく)(げん)(しゅく)なボーダーラインがある。その基準をクリア出来ない人間が一方的に追い(すが)るなんて惨めさを上塗り続けるような(しゅう)(たい)だ。友達なんて必要時に()()お金で買えば事足りる程度の存在でいい。人生を掛けるまでの価値はないし、ごっこ遊びでも充分楽しい。そもそも友情なんて(あい)(まい)で不確かな思い込みの産物。その実態はどこにもないのだ。

‌「先月はごめんね。急用が出来ちゃってさ」
‌ 唐突に蒼太から電話が来た。
‌「三ヶ月もどこで何をしてたの?」
‌「実家に帰ってた」
‌「若い女の子から電話が来たよ。お客さん? 結構面倒臭そうな子だったな。ちゃんと管理しないと恨まれて刺されても知らないよ」
‌「既に刺されたんだよね」
‌ 蒼太は苦笑しながら、でも真剣な声で言った。
‌「冗談でしょ」
‌「結構立派な包丁でさ。傷口は浅かったから痕が残っただけで済んだけど、内臓までいってたらマジでヤバかった。さすがに(へこ)んだ」
‌「生きてて良かったね」
‌「結構トラウマで、しばらく実家にいることにした。しばらく東京へは戻らない。ホストも引退した。もうこれで終了」
‌「そうなんだ。でも連絡くれて良かった。何にも知らないで終わりはモヤモヤするから」
‌ 少しの寂しさと名残(なごり)()しさと(あん)()感。最後に気の()いたお礼の言葉でも、と明るく言いかけた私に、
‌「最後に告知事項がありますので少々お時間を頂きます」
‌ 蒼太の声が突然機械的になった。穏やかで耳に優しい声の感触はどこにもなかった。私は冷や水を浴びたようにハッとして、胸の奥がつっかえたように苦しくなる。
‌「え? どうしたの、急にそんな事務的な、」
‌「あなたは俺の写真を勝手に撮影してSNSに載せてましたね。ルール違反ですよ」
‌「顔は出してない。誰にも分かるはずない。それにもう消してある」
‌「それから尾行して自宅までついてこようともした。どういうことですか。最低限のルールってもんがあるでしょ。分かります?」
‌「蒼太はお気に入りの客を部屋に入れてるって掲示板で見た。私は長い間一緒にいたのに一回も呼ばれてないから」
‌「は?」
‌「一度くらい入る権利あるでしょ。別に泊めて貰おうなんて思ってなかったし」
‌「やば。気持悪い」
‌「ごめんなさい。二度とそんなことしない。もう終わりなのも受け入れてる。でも最後くらいきれいに別れさせて欲しかった」
‌「金で買った付き合いにきれいな別れも何もないですよ。出会ってないのと同じでしょ。利用規約に書いてあるように、キャストのプライバシーを侵害した場合は罰金が発生します。事務所から振込先のメールが届くので速やかにお願いしますね。またストーカー行為があった場合は即警察案件になります。こっちには諸々(もろもろ)証拠もあるので」
‌ 事務的な冷たい声がグサグサと胸に突き刺さり、やがて(りん)(かく)をなくして遠ざかっていく。頭が真っ白になり何も考えられない。気付けば通話の切れたスマホを握ったまま立ち尽くしていた。かけ直すと機械音声が「お客さまのご都合によりお繋ぎ出来ません」と繰り返す。かけ直す。何度もかけ直す。何度も何度も何度も何度も何度も何度も! やがてスマホが手から滑り落ちると、足の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
‌ キッチンのシンクに(すい)(せん)から水滴が落ち、ベランダの物干しが風でくるくると回っているありきたりな風景が見える。日常は何も変わっていない。変わるはずがない。だから大丈夫。大丈夫だと言い聞かせるけれど体は冷えていく。
‌ 五年間で蒼太に使ったお金は総額約三百万円。少なくとも食事をして連絡を取り合ってくれる相手の一人すら、お金を払わなければ手に入らなかった。でも、簡単に手に入ったものだから簡単に失った。どれだけお金をかけても人の心は手に入らない。得たものは何もない。そんな当たり前のことをじわじわ理解していくと、涙は出ないが吐き気がこみ上げてくる。
‌ (とっ)()にスマホを拾い、清美さんの名前で検索する。画像表示に切り替えると在りし日の清美さんと目があった。その写真は彼女の夫のブログに残っているもので、(にゅう)()に笑う微笑(ほほえ)ましい写真だ。この人のことを考えると気分が少しマシになる。少なくとも私は生きてはいると実感出来るから。未解決事件が好きな人間はみんな同じ。自分より可哀想な被害者の存在で惨めさを()()()しているだけだ。
‌ 失踪から四年目に投稿されたその記事のコメント(らん)に母がいる。
‌『大好きだった清美ちゃん。また会いたいよ』
‌ 母と私はそっくりだ。但し、嫌われ者の自覚のない母は私よりは幸せだったに違いない。(しょう)(がい)、清美さんの親友だと思い込めた。母は警察に直接クレームを入れに行くと激怒しながら車に乗り、一旦停止を無視したせいで大型のバンに弾き飛ばされてガードレールに突き刺さった。友情を過信したために死んだ。
‌ ほら、分不相応に友達なんて求めるから(ひど)い目に()う。友情には何の価値もない。それでいいじゃない。一人なら傷付かずに済むし、余計な感情に振り回されることもない。私はそう信じている。そうでしょ。ねぇ。そうに決まってる。誰か、私を肯定してよ。ねぇ。

‌【おわり】