【入選】プロポーズは三度目に(著:樹れん)
あ、結婚したい。恋人の額に保冷剤を当てた瞬間、陽凪はそう思った。春の平日、お風呂上がりについさっきまでアイスを食べていた、変わり映えしない毎日の中。ぽつん、とそれは現れた。
「陽凪ちゃんからプロポーズしたらいいじゃん」
陽凪は飲料メーカーの総務部で事務職をしている。六人しかいない部署で唯一恋人と同棲していることを話しているのが、峰山先輩だった。
社食で互いに弁当を広げながら、相談というほどの重さもなく軽ーく話をふってみれば、彼女は簡潔な答えをくれた。白米にのっかる梅干しを箸の先でほぐしながら、陽凪は答えない。
恋人である真鷹さんとは、同棲して丸一年が経つ。関係は良好どころか、世間一般に聞くカップルたちより仲がいいのではないか、と陽凪はひっそり思っている。惚気だと呆れられたくないから、誰にも言わないけれど。
陽凪は今二十五で、自分は結婚に焦らなきゃいけない歳とは思っていないし、両親に急かされたりもしていない。けれど、突然目についたカーテンの染みみたいに、そのことが頭から離れなくなった。
真鷹さんは背が高い。自己申告によると百八十センチ後半ある。なのでいつも部屋の鴨居をかがんで通るのに、たまにがつんと頭をぶつけることがあるのだ。陽凪ももう慣れたもので、額を押さえる彼をソファに座らせ、冷凍庫から出した保冷材にガーゼタオルを巻いてやった。
それをそっと彼のおでこに添えたとき、思ったのだ。このひとと結婚がしたい、と。
隣に座って、じっと考えた。どうしたらこのひとと結婚できるだろう。難しい顔をしていたのか真鷹さんに不思議そうにされた。あなたと結婚したいんです。どうしたらいいですか? 聞いてみたい。でも、そんなこと聞けない。
「まあ、やっぱり相手にしてほしいよね」
膝からずり落ちそうになったショールを手繰り寄せながら、峰山先輩がにやっと笑う。「そういうのじゃないんです」と陽凪は力なく首をふった。
真鷹さんにプロポーズしてほしいかと言われたら、してほしい。今日長めの残業になってもいいからしてほしい、いや、今日は真鷹さんがサーモンとアスパラのクリームパスタにするって言ってたからやっぱりむりだ、あれは陽凪の大好物なのだ。
「断られそうなの? 相手さ、けっこう上だったよね?」
「十コ上です」
「もしかしてバツついてる?」
「ないです、ないです」
先輩は騙されてないか、という顔をしたが、これに関して陽凪は確信を持っている。
真鷹さんは結婚歴もないし、もちろん現在進行形の家庭持ちで、陽凪が愛人として囲われているなんて昼ドラめいた関係でもない。もしこれで結婚詐欺だったら、悲しむより段取りの悪さにびっくりする。
何気なく社食の窓から外を見下ろすと、小さな子どもが母親の手を引っぱってはしゃいでいるのが見えた。三月もそろそろ終わるがまだ寒く、少年は着膨れている。よく見ると母親がカラフルなマフラーを腕にかけていた。心配して防寒させたけれど、子どものほうは暑くなってマフラーを取ったんだろう。
つられて目をやった先輩が、「あのくらいの歳がいちばん大変なのよね」と笑う。彼女は三人の子の母親で、下の子はまだ小学二年生だったはずだ。
「子どもほしいならさ、相手の歳も重要だよ」
卵焼きの切れ端を口に放りこんで先輩が言う。弁当箱代わりのタッパーをさっさと片付け、お手洗いに立ってしまった。
夫婦と恋人は何がちがうのか。プチトマトを奥歯で嚙みつぶしながら考える。関係を変える一歩を、みんなどんな覚悟で踏み出すのだろう。
真鷹さんと出会ったのは、陽凪が大学一年生のときだ。
昼は手頃なランチを提供し、夜はちょっとお高めのコース料理を出すイタリアンレストラン『rosso』。陽凪の人生初のアルバイトが、そのレストランのホールだった。すべり出し好調のバイトで大きなミスをしたとき慰めてくれたのが、そこでシェフとして働く真鷹さんだったのだ。
「試作に使ったあまりの処分に困って。チーズが苦手じゃなかったら」
そんな建前とともに、やわらかそうな真っ白いチーズをバックヤードに持ってきてくれた。彼は寡黙で、その口から料理名とテーブルの番号、「お疲れさまです」以外の言葉を、陽凪はそれまで聞いたことがなかった。
気持ちが落ち着く温かい飲み物とか、甘いお菓子とかじゃなくて、チーズなんだ。呆気に取られながらもらったそれをいただけば、ミルクの味が口いっぱいに広がって彼の善意のすべてを理解した。悲しみが吹っ飛ぶ美味しさだった。
真鷹さんに懐いたのはそれが切っ掛けだった。帰りの方向がいっしょということもその日わかって――それまでシフトがきれいに被ることがなかった――、それからは陽凪が締めまでいる日は、駅まで送ってくれるようになった。帰り道、話すのは陽凪ばかりで真鷹さんはほとんど相槌を打つばかりだったけれど、たまに何か引っかかることがあると質問してくれた。ちゃんと耳を傾けてくれていることにうれしくなって、ますます陽凪は口を動かす。二人でゆったり夜の街を歩く時間が、好きになっていた。
「好きです。私とおつき合いしてもらえませんか」
就職が決まり、バイトを辞める最終日。送ってもらった駅の近くで告白した。真鷹さんの表情は強張っていて、あ、気づいてたんだな、と暴れる心臓と切り離された頭の片隅で思った。私、そんなにわかりやすかったかな。返事がなんとなくわかってしまって、鼻の奥がつんと痛んだ。二月の、まるで緩まない寒さのせいだということにした。
「そういうふうに、見たことがないんだ。ごめん。でも、ありがとう」
道徳の教科書にでも載ってそうな、当たり障りのない順当な文句でフられた。でもゆっくり頭を下げてくれた真鷹さんが、陽凪という人間を尊重してくれていることを知っていたから笑顔をとりつくろえた。
「さっきも言ったけど、私、職場この近くなんです。だからまた、今度はお客さんとしてrossoに行ってもいいですか? 迷惑じゃないですか?」
「そんなわけない。……みんな待ってるよ」
首をふった真鷹さんのやさしげな笑みに見え隠れする安堵に、どうしてか断り文句を告げられたことより胸をぐちゃぐちゃにされた。笑って別れを告げて、電車に揺られ、アパートの明かりが見えると小走りになった。玄関で踵がほとんどないパンプスを脱ぎ捨て、コートを脱ぐ間もなくトイレに飛び込んだ。
膝をつく寸前、目から涙がこぼれた。もう社会人になるのに、失恋で泣くなんて自分が信じられなかった。子どもみたいに口からわんわん大きな泣き声があふれたけど、ご近所さんに聞かれたら通報されるかも、と現実的な恐れを捨てきれなくて便器に半分顔を突っ込んだ。大学の飲み会で吐いてる子だって、ここまで惨めじゃなかった。思い出して笑おうとしたけれど、無理だった。
夜景の見えるレストランで給料三か月分の、というテンプレートはどこから生まれたのだろう。陽凪はソファでスマホをスクロールしつづけた。
真鷹さんがレストランで働いているのだから、他の店でプロポーズするのはちがう気がする。遊園地でフラッシュモブなんて以ての外。というか逆プロポーズって、何? このご時世に腑抜けた造語だ。求婚は男性からして然るべき、婦女子は淑やかに時を待てなんて、そんなの甘えだ、甘え。
スマホには一般論も経験論もあふれていて、世の中の人間が悩むことって同じような事象に収束するんだなと妙に冷めた目線で感心する。でもプロポーズなんて一大事、誰かの意見なしに決行できないからまたスクロールを繰り返す。
そしてはっとスマホの画面を胸に伏せた。あれから一週間、すっかりプロポーズのことばかり考えている。実際は、真鷹さんが結婚を意識しているのかどうかすらわからないのに。輪郭を持たない「結婚したい」という願望にふり回されていた。
危ない危ない。こういうの、一歩間違えたら破局にまっしぐらだ。ほうと息をつく陽凪を、風呂上がりの真鷹さんが見つめている。
「明日早いって言ってなかったか」
「んー」
「歯は磨いた?」
「お母さんやめて」
二人の関係が恋人と定義されてなお、真鷹さんはよく陽凪を子ども扱いする。親のムーヴメントをされるたび、かつての失恋を思い出して反射的に反抗してしまう。それがよけいに子どもっぽいとわかっていても。
結婚したら、恋人ではなく夫婦になる。紙切れ一枚提出するだけで成立する関係でしかない、そう言い聞かせても、あの日の結婚したいと思った陽凪が主張する。夫婦がいい。入籍がしたい、ゼロ等身になりたい、どうしても。
真鷹さんは真っ暗闇だと逆に眠れないたちのひとだ。陽凪は明るかろうが暗かろうがぐっすりな人間だから、いつも照明を消す代わりにベッドサイドのランプの豆電球をつける。
薄ぼんやりとした視界に、真鷹さんの横顔がある。分厚い胸が規則正しく上下していると、なぜだか安心する。夢を見ているのか、微かに瞼が震えた。
ふと思い出した。恋をしたときのこと。ハンガーの跡だ。
秋だった。真鷹さんとともに駅へと歩いているとき、彼のカーディガンの肩の部分に、ハンガーで干した跡が残っていたのを見たからだ。
きゅっと息が苦しくなったのだ。シャツやボトムスにはぱりっとアイロンをかけている真鷹さんの、生活の跡を見て。
今陽凪は彼と生活を分かち合っている。血の繋がりも何もない二人の人間が、ともに暮らし、生きていくことは難しい。それでも二人の生活は破綻を免れながら、波が寄せては返すように絶え間なく「規則正しさ」を繰り返し、続いている。
腹の上に投げ出されている左手に、そろそろと手を伸ばす。薬指に触ろうとしているだけなのに、いつの間にか心臓が胸を突き破りそうだった。
真鷹さんの瞼がうっすらと開き、陽凪は手を引っ込めた。
「どうした」
「んーん……ごめん、起こした?」
枕に頭を擦りつけるようにして首を振った真鷹さんの左手が、陽凪の腹をとん、とん、と叩いた。また子ども扱いする。その左手を摑んで、節のある薬指をぎゅっと握ってやったらどんな顔をするだろう。しないけど。目を閉じるのと真鷹さんの手が止まるのはほとんど同じタイミングだった。
薄く雪が積もった夜だった。陽凪の二度目の告白は、一度目と同じように駅の手前でおこなわれた。
近くに就職したから、大学時代とアパートも変わらず。不定期になるように意識して、元バイト先に今度は客として訪れた。rossoが好きなのもあるけれど、真鷹さんのことを諦めきれなかったからだった。
トイレで泣き疲れて、店の周辺に足を踏み入れることすらできなくなるだろうと思っていた大学生最後の春。なのに翌朝、どうしたら好きになってもらえるかを考えていた自分の図太さに陽凪は自分で少し引いた。でも失恋のあとはじめてrossoに足を踏み入れるときは、ヒールが膝の震えで折れそうになるくらい緊張した。真鷹さんは変わらない態度で迎えてくれて、そのことに安心しながらご飯を食べて帰ったのに、家に着いたとたんまた涙があふれたことをよく覚えている。
ホールの学生バイトではなく、客として接するようになって一年。仕事が終わったら時間をほしいと願い出て、告白した。
これを断られたら、もう諦めます。困らせるようなことはしません。考えてもらえませんか。一度はフられている身だから、気持ち悪がられたくなくてずっと喋っていた。上擦った声で建前や言い訳を連ねる姿は滑稽にも見えただろう。でも真鷹さんは、絶対に嫌な顔は見せなかった。
「俺は子どものころ親に捨てられて、施設育ちなんだ」
三月下旬なのに、前日夜通し雪が降りつづけたから、道路の端に薄汚れた積雪が残っていた。溶けかけたそれの上に、真鷹さんが差し出してくれた誠実が転がり落ちた。
「今までもそうだったんだ。つき合うまでいっても、その先を考えられなくて、うまくいかなくなる。きみはまだ若い。今しかない貴重な時間を俺みたいなのに浪費するより、もっと他のひとと実のある関係が築けると思う」
しつこい、迷惑、気持ち悪い。そう言われることも覚悟していて、でも真鷹さんはそんなことを言わないと知ってもいた。甘えたな考えの陽凪を突き落とすのに十分な、彼が持ち得るいちばんの誠意だった。
ごめんと言って、じゃあ帰り、気をつけてと彼が止めた足を再び動かしはじめる。コートをまとった背中は大きく、陽凪は彼のカーディガンの布地にあった、微かに膨れたハンガーの跡を思い出して泣きそうになった。
いやしくも、勝算があったのだ。この一年で、憎からず想われるようになったと確信があったからまた告白して、でも直前で怖気づいて不格好な食い下がり方をした。
「フるなら私に興味なんかないってフってください」
真鷹さんの腕を摑んでやりなおした告白は、一度目よりもさっきよりももっとひどかった。
「将来の私の心配してくれるなら、なんで今の私の心配してくれないの。このまま帰ったら私また、家のトイレでずっと泣きます。今あなたの恋人になりたくて頑張ってるのに、なんでそんな理由でフるの」
むりだって思ったらフってくれていいです。そしたら次はもう粘りません。約束します。だから、私のこと嫌いじゃないなら、お試しでつき合ってもらえませんか。真鷹さんが好きなんです。将来のことはまだわからないけど、今あなたにフられたら私、ひとりでたくさん泣くことになる……。そんなことをわめきながらもう目から涙がこぼれはじめていて、真鷹さんは陽凪の頬にハンカチを当ててくれた。綺麗に端までぴんと、アイロンがかけられていた。
ベロアの生地が手汗で湿ってしまいそうだから、羽織ったカーディガンのポケットに突っ込んだ。つい手でいじくりまわしてしまう。
手触りのいい小箱の中身は空。結局真鷹さんの指が何号かはわからないままだけれど、また機会を待っていたらきっともう自分から言い出せなくなると思ったから。
箱の中身を一緒に選びに行こうと、言えばいい。今日は何の記念日でもなく、夜景が見えるレストランではなく自宅のリビングだけれど、むしろこっちのほうがいいとすら思えてきていた。家庭を作るわけだから、日常の中で……言い訳っぽい。
はじめて結婚したいと思ってから一か月。テーブルの端に結婚情報誌を置いておくなんてしゃらくさい真似はしたくないから、陽凪は肚を括った。
そろそろ真鷹さんが帰ってくる。ちらちら時計を確認して、スマホをいじり、画面を伏せてため息をつき、また時計を見る。その繰り返し。
一年前、真鷹さんが住んでいたアパートが耐震の問題で取り壊しになることが決まったので、陽凪は露骨なアピールの元、同棲までこぎつけた。陽凪が甘えると真鷹さんはだいたい応えてくれる。子ども扱いされるのは嫌がるのに、こういうところずるいよ。真鷹さんの呆れた、でもちょっと上擦った声を聞くたび陽凪は笑ってしまう。だって頼られるの、うれしいんでしょ? 知ってるよ。
テーブルに突っ伏す。同棲を始めるとき、ふつうより少し高めのものを陽凪が選んだ。真鷹さんは背が高いから、物を置くとき変に中腰にならなくてすむように。このテーブルで二人で向かい合って、ご飯を食べる。陽凪が作ったものを真鷹さんはいつも褒めてくれる。陽凪がそうだから。最初は料理人なんだから当然だよ、なんて言っていたのに、今は陽凪が一口目を食べて、どんなふうに褒めてくれるのかを自分は食べずにちょっと待っている。陽凪にはそれがどうしようもなくかわいい。料理を生業にしているひとは家では全く作らない、なんて話はよく聞くけれど、彼は惜しまずその腕を揮ってくれる。
甘やかすほうが得意な彼を、甘やかすのが好きだった。彼が子どものころ胸のところに開いた穴に陽凪が思う素敵なものをぽんぽんと放り込んで、いっぱいにはできなくたって、真鷹さんが受け取ったものと同じものを陽凪に与えようとしてくれる、それがしあわせだった。
玄関の物音に陽凪は勢いよく立ち上がり、机の角でちょっと脇腹を打った。もしスタンダードな高さのテーブルだったら膝を強打していたかもしれない。この高さでよかった。
「おかえりなさい」
わざわざ玄関まで迎えにいけば、真鷹さんは驚いたのか唇を真一文字に結んでいる。送り出すときは見送りに行くけれど、同棲して一年ともなるといちいち迎えに出たりはしない。今日は何かある、とすぐ気づいたようだった。
「ご飯食べる?」
「いや……あー、うん」
真鷹さんの目が一瞬陽凪を通り越してリビングに向き、それから曖昧にうなずかれた。
あれ。あれ、もしかして、察されてる? コートを預かると真鷹さんはまた微妙に強張った顔をして、手を洗いに行った。陽凪はハンガーを手に取りながら、暴れる心臓をなだめようと深呼吸を繰り返す。コートから春の夜の匂いがした。
プロポーズしようとしてるの、もしかしてばれてる? うなじあたりにざわざわと鳥肌が立つが、顔に出さず温かい玄米茶を淹れる。今日は予約が混み合っているからまかないを食べる時間もないと言っていた。そういうときは、帰宅が余裕で十時を回る真鷹さんのために陽凪が夕飯を用意する。温かくて遅い時間でも胃にやさしいものを、と五目粥にしたけれど、なんでそうしたんだろうと急に不安になってきた。プロポーズしようってのに、五目粥って。
キッチンで温めた粥をよそっていると、戻ってきた真鷹さんが淹れたお茶を持っていってくれる。その様子はもういつもどおりで、少し肩の力が抜けた。
「ありがとう、陽凪。いただきます」
不精せずちゃんと手を合わせるところ、陽凪はけっこう重要な長所だと思っている。自分の分のお茶で指を温めていると、向かいの真鷹さんがスプーンを口に運びながらちらりと陽凪を見た。
「美味しい。中華久しぶりだな」
「よかった。お店とかだと、パリパリした揚げたやつのってるよね。私あれ好きなの」
なんだか、薄氷一枚、という感じがする。お互いにこのあと何かあるとわかっていながら、あえて触れないこの感じ。でも真鷹さんはしっかり味わって、ちょっと多かったかなと思った量をきっちり完食してくれた。陽凪が用意した食事を、彼は決して残さない。
お風呂の準備もしていたけれど、風呂上がりのスウェット姿でプロポーズしたりされたりするのはちょっと間が抜けすぎな気がする。だから夕食の皿を食洗器に入れた彼を、陽凪はリビングに呼び寄せた。二人テーブルを挟んで向かい合う、その構図はさっきと何も変わらないのに、今は部屋全体に重苦しい空気が立ち込めていた。真鷹さんは、いつの間にか表情を失っている。
プロポーズ計画、ばれてるかも。そしてもしかして、歓迎されていない? ネットで見かけた、逆プロポーズに対してナシ派の意見が脳裏をよぎる。こっちからしたいとか、プレッシャーを覚えるとかそういうひとも。何より真鷹さんが、やっぱり家族という形を望んでいなかったとしたら?
ポケットに突っ込んだ右手が攣りそうだ。暖房が利いている部屋で、背中にびっしょり冷や汗をかきながら陽凪は何も言えずにいた。
先に動き出したのは真鷹さんのほうだった。テーブルに置いたままの左手を大きな手で覆われてびっくりしていると、彼は前のめりになった。
まさか。心臓がウサギのように跳ねた。まさか、逆逆プロポーズでは?
「……別れたくない」
彼の声は押し潰されたように重く、苦しかった。陽凪ははい、と答えようとしていた口を閉じる。もしかして、緊張でこれまでの会話を何か聞き逃しただろうか。だって、脈絡がない。
「俺が……もういやになったとかなら、諦める。でも、まだ望みがあるなら、チャンスがほしい。どこがいやだった? 直すから」
「あっ、待って、待ってよ」
彼の顔色が青白く見えて、陽凪は慌ててポケットの中のケースを手放し真鷹さんの手にさらに重ねた。手が冷えきっていて驚く。真鷹さんの手は陽凪と同じくらいに冷たかった。
「な……なんで? 別れ話みたいな……」
「他に好きなひとができたんじゃないのか」
どこ情報? 意味がわからない、と思ったのがそのまま顔に出ていたのか、真鷹さんは面白いくらいうろたえた。
「最近、なんか上の空だし。ずっとスマホ見てるし……今日も休みなのに、出かけてたんだろ?」
それはあなたにプロポーズするためにリングケースを買いに行ったからですが。
どこから説明していいかわからず途方に暮れたが、そんな陽凪の様子から真鷹さんは自分が勘違いしていたのだと気づいたらしかった。商売柄短めに切っている髪は、赤くなる耳を隠してはくれない。ゆっくり握りしめられていた手が解かれ、陽凪も手を引いた。
「……悩んだ、すごく……」
「ご、ごめん! ごめんね、紛らわしかった、私が」
「別れたほうが、陽凪のためにはいいんじゃないかと思って」
「おっ……怒るよ!」
日常でまず出ない声量が出たが、真鷹さんは臆したふうもなく深々とため息をついて首をふった。
「でも俺が、ほんと……だめで。陽凪からそのうち別れ話されると思ったら……ほんとだめなんだ。今日も連続でミスやらかした、さんざんだった」
また、心臓が跳ねた。今度は嫌な跳ね方じゃなかった。
ほとんど無意識に、慰めるように短い髪を爪先で梳いていた。真鷹さんはごく自然に、猫が擦り寄るように陽凪の手に頭を寄せた。
「情けなくてほんと、いやだな。かっこ悪い」
そう眉を下げて笑った顔が、結婚したいと思ったときの、保冷剤を額に当てたときと同じで、陽凪はポケットを突き破る勢いで手を突っ込み、ケースを引っ張りだした。
目を瞠る真鷹さんの目の前で、パカッと開けて見せる。
「真鷹さん、結婚しよ!」
いっしょに、指輪買いに行こう。
はじめて告白したときより二度目のほうが緊張して、二度目より今のほうが胸が苦しかった。勝利を確信してなお一度フられた、あの冬の終わりを思い出した。
真鷹さんは答えを待つように口を開けるリングケースと、陽凪の顔を何度も見比べた。陽凪はたぶん縋るような顔をしていたと思う。お願い、断らないで。
宙に浮いた手を緊張でぷるぷる震わせていると、下から支えるように真鷹さんの手に包まれる。気を紛らわせるのに点けていたテレビからはバラエティーっぽい騒々しい音がするけれど、なんだか壁一枚挟んだみたいに遠く聞こえた。
「陽凪はきっと、いい母親になる。きみはすごく愛情深いひとだから。俺はそうじゃないって、ずっと思ってた」
「うん」と打った相槌が掠れる。なんでも器用にこなす真鷹さんは、おしゃべりが苦手だ。そのことに気づいてから、陽凪は彼が話すとき、そんなことない、と口を挟みたくても黙って耳を澄ますようにしていた。
「でもさ、自分でも思うんだけど……きみといるうちに、俺、きみに似てきたよな」
陽凪は手を摑まれながら身じろいだ。真鷹さんはめずらしく微笑んで、陽凪の手をやさしく撫でた。ふいに思い出す。身にまとっているカーディガンを干してくれたのは、真鷹さんだった。陽凪が教えた、ハンガーの跡が残らないやり方で。
「陽凪と最初に会ったとき、なんか、圧倒されたんだ。周囲にパワーをふりまいてる子で。世話焼くのも焼かれるのも上手いタイプで、愛されて育ったんだなって。そういう子は見てわかる。『育ちがいい子』ってそういう子のことなんだよ。だから俺はあまり仲よくなれないと思った」
「ちがったね」
あのときは陽凪だって、このひとと結婚したくてそれ以外何も考えられなくなる日が来るなんて思わなかった。自分からプロポーズをする行動力と積極性を、自分が持ち合わせていることさえ知らなかった。
いっしょに生活しているうち、自分たちはやんわりとたわむように変わっていった。でも陽凪は昔も今も、真鷹さんのことが好きだった。
「そんなふうに思ってたのに、慰めてくれたんだ。私、あのチーズ大好き」
「それは、ひととしてふつうだろ」
「ふつうじゃないよ。そういうの、難しいんだよ。私のこと育ちがいいって言ったけど、真鷹さんこそそうだよ。そうやって自分で自分を育ててきたの、そうやって生きてきたの、すごいなーって思うもん」
目の奥が熱くなって、全然泣く場面じゃないのに、陽凪はあの日トイレでそうしたみたいに、声を出して泣きたくなった。
「あのね、ひと月くらい前にさ。真鷹さん、また頭ぶつけたでしょ。そのとき、私が保冷剤当てたら、私のほうに頭あずけてくれたの。覚えてないかもしれないけど、うれしかった。つき合ってすぐのときは絶対してくれなかったと思う」
さっきも髪撫でたとき、したね。笑うと、真鷹さんは照れくさそうに唇を結んだ。
彼は年上の恋人らしく陽凪を甘やかしてくれたけれど、その逆を「許してくれる」までに時間を要した。許してくれるようになったのは真鷹さんが陽凪に似てきたのと、何より陽凪が彼に似ていったからだ。
「私ね。真鷹さんのこと、一生懸命生きてるひとだなーって思って、そこが好きになったの。真面目に一日一日、頑張って生きてるひとだって思ったから、私が守ってあげたいと思ったの。だから家族になりたいの」
記念日に、夜景の見えるレストランで給料三か月分の指輪を手にするロマンティックな求婚。そんな理想とかけ離れたいっそ乱暴なプロポーズを、このひとは断らないという勝算が、確かに芽生えていた。とうとう目から涙がこぼれ落ちる。真鷹さんの少し荒れた指が目の縁を拭ってくれた。
「かっこ悪いついでに一個いい? 陽凪」
「うん」
「……このパカッてやつ、俺からやりたかった……」
ケースごと陽凪の手を包み込んでうなだれる真鷹さんがかわいくて、陽凪は腰を上げそのつむじにキスをした。
次の日、二人でエンゲージリングを買いに行った。その一か月後に、真鷹さんはマリッジリングでパカッとするやつをしてくれた。早すぎない? まだ婚約期間楽しんでもよかったかも。心にもないことを言えば、真鷹さんは口を大きく開けて笑った。陽凪、結婚しよ!
【おわり】