【最終選考作品】スピカ(著:岩月きさらぎ)


‌ 外れた音を叩いた人差し指からミスが広がる。心臓が嫌な音を立て、視界がみるみるうちに狭まっていく。()(みつ)に、美しく構成されたはずのラフマニノフの名曲がたたらを踏み、もつれるように転がった。立て直さなければと思えば思うほど指先に(しび)れが走り、テンポが荒くなっていく。さっきまで(つか)みかけていたラフマニノフの指先が俺の手から離れ、瞬きをした瞬間、偉大な作曲家が俺を見放したように首を横に振る姿が(まぶた)の裏をよぎった。指を(けん)(ばん)から離し曲を弾き終える。(かっ)(さい)とは程遠いまばらな拍手がホールに浮かんでは消えていった。
‌ 嫌だ、このまま終わりたくない。今のは何かの間違いだ。もう一度やり直せばきっと。
‌ 思ったけれどこんな言い訳、コンクールでは通用しない。唇を()み締め立ち上がり、腰を九十度に曲げて礼をする。(くや)しさと(しゅう)()に胸を押し潰されながら()(たい)(そで)へ向かうと、(はるか)とすれ違った。タキシードに身を包んだ彼は俺を見るなり柔らかく微笑(ほほえ)み、
‌「素晴らしかったよ。でも後半は惜しかったね」
‌ と言って入れ違いに舞台へと上がっていった。遥の背中を見送ったまま立ち尽くす俺へ、スタッフが「袖で見ていかれますか?」と気遣わしげに声をかけてくれた。我に帰った俺はぶんぶんと首を横に振り、足早に舞台袖から逃げ出した。遥を迎え入れた途端、湧き上がった拍手に背中を押されるように(ろう)()へ出る。(しゃ)(おん)性の高い扉を閉めても、細い(すき)()()うように遥が奏でるラフマニノフが聞こえてきた。緻密で論理的で寸分の狂いもない、(かん)(ぺき)な演奏。音楽の神様に愛された(ちょう)()から放たれる旋律。さっきまで俺も同じ曲を弾いていたはずなのに、全く違う曲に聞こえる。遥の演奏に()(まく)を揺らされるたび、薄氷ほどのプライドが鼓膜と一緒にぐらぐら揺れて眩暈(めまい)がした。いっそこんなプライド、割れて粉々になってしまえば楽なのに、この期に及んで自分にはまだ才能があると願ってやまない心がある。本当はもう何年も前からわかっているはずなのに。俺には才能がない。この先の人生、ピアノにすべてを捧げても、俺が(きり)(たに)遥に勝つ未来は訪れない。
‌ わかっているのに、まだ音楽に(すが)りついてしまう自分がいる。それが(みじ)めでたまらなく嫌だった。

‌ 初めてピアノに触れたのは五歳の時だった。
‌ 姉が音楽教室へ通うことになり、自宅にアップライトピアノが運び込まれたのだ。二階の物置を片付けて防音材を貼った壁の隅に置かれた美しい(しっ)(こく)の楽器を見た瞬間、俺は興奮しいの一番に触りたい! と言った。背丈が足りず、()()に一人で座ることすらままならなかった俺は椅子に座った父の膝に乗せてもらって初めてピアノと(たい)()した。かぱっと黒い(ふた)が開き()(れい)に並んだ白い鍵盤を見た時、俺は母の(つぶ)の揃った白い歯を思った。その隙間を縫うように置かれた黒い鍵盤からは父の細く整った(まゆ)を思い、父に右手を摑んでもらった。母の前歯によく似た大粒の白を人差し指で押すとぽーんと音が鳴り部屋中に響く。俺はびっくりしてすぐさま手を引っ込め、父にしがみついて「歯が鳴った」と(つぶや)いた。「歯?」と父は俺の連想を理解しかねるような声を出したが、「これはピアノという楽器だよ」と優しく教えてくれた。
‌「楽器ってなに?」
‌「音が鳴るものだよ。ばらばらに弾くとこう、一つ一つの音にしかならないけれど続けて弾くと
‌ 父は両手を構えて簡単な音階を弾いた。一オクターブを行き来するだけの、単純な譜面。それは俺が初めて聞いた生の演奏だった。
‌「音楽になる」
‌ 音楽、と父の言葉を反芻(はんすう)する。その時、俺は生まれて初めて自分の心臓が飛び跳ねる音を聞いた。

‌ それから俺はピアノに夢中になった。朝、目覚めると真っ先にピアノへ向かい、脚の長い椅子へなんとかよじ登って席につく。両手で持っても重たい蓋をうんしょ、と力を込めてこじ開けると白と黒の鍵盤が視界いっぱいに広がり、心臓が高鳴る。初めて見た時は母の歯や父の眉に見えた鍵盤たちも、いまは鍵盤以外のなにものにも見えない。それは恐らく、俺がこのピアノという楽器を理解し始めたからだろう。人差し指に力を込めてドの音を鳴らす。ぽーんと柔らかい音に部屋も耳も満たされるとじわり、と(ゆる)やかな興奮が足の先から頭の先を駆け巡った。その一音を合図に、訳もわからず一心不乱に鍵盤を押す。音階もリズムもなにもないめちゃくちゃな、子どもの落書きみたいな演奏。けれど俺は世界一(すう)(こう)な行いをしているような気持ちで指が痛くなるまで鍵盤を押し続けた。俺の奇行はあまりのうるささに目を覚ました両親に数日と経たないうちに見つかり、こっぴどく(しか)られた。しかし両親は俺の並々ならないピアノへの関心を()み取って、姉と同じ音楽教室へ俺を通わせることを決めた。
‌ 自宅にピアノが運ばれてから二週間ほど経ったころ、きょうだい揃って音楽教室へ通うことになった。が、数回の練習を終えてすぐ、姉は自分には俺ほどのピアノに対する熱量はないと悟ったらしく、音楽教室を辞めて水泳を習いたいと言い出した。両親の説得も(むな)しく、姉の意思は固く音楽教室には俺だけが通うことになった。姉と共有だと思っていたあの素晴らしい楽器を(ひと)()めできると知り、思わず俺が独り占めしていいの? と姉に尋ねたことを今でもよく覚えている。その時、当時小学一年生だった姉はさっぱりした口調でこう言った。
‌「いいよ。あんたのほうがピアノ好きだし。それにピアノより水泳のほうが生活の役に立つから、あたしは水泳でいい」
‌ 生活、というものがなんなのかさえ知らなかったあの時の俺には、姉に言われたことの意味が分からなかった。けれど今ならわかる。体育のプールの授業や水難事故など、水泳は生きていくために役に立つ。けれどピアノは役に立たない。生きていく上で多くの人が必要としないものだ。むしろ自分の時間やエネルギーをピアノに投資しすぎることは人生を破滅に導く可能性すら(はら)んでいる。ピアノを弾くだけでご飯を食べ、税金を払い、風呂に入って布団で眠ることができる人間はごくごく限られていることを聡い姉はすでに知っていたのだろう。俺だけが知らなかったのだ。ただ楽しいから、好きだからという理由があればいつまででもピアノと一緒にいられると思っていた。

‌ 音楽教室に通い始めて一年が経つころには俺は教室のなかで一番の実力を誇るようになっていた。他の子どもはみんな練習を嫌がっていたけれど俺は一秒でも長くピアノに触れていたくて親に止められるまでピアノを弾き続けていたからだろう。地元という小さなコミュニティには俺ほどピアノに触れる時間を多く持つ子どもはいなかった。
‌ それが一変したのは、桐谷遥が引っ越してきてからだ。遥は東京からやってきた同い年の、都会的な男の子だった。まだ六歳だというのにボタン留めのシャツを着て、彼が動くたびさらさら流れる薄茶色の髪が揺れた。親の都合で遥は東京からこの町へ引っ越してきたのだという。有名な音楽家を()(しょう)に持っているそうで、それを聞いた音楽教室の先生は遥も含めみんなでピアノを使って自己紹介をしましょう、と提案した。今振り返ると、先生は俺の実力を遥に見せつけたかったんじゃないかと思う。立派な音楽家に弟子入りしなくとも、うちの音楽教室にはこれだけ弾ける子がいる、と対抗したかったのではないだろうか。きちんとやりなさいよ、と先生から無言の圧をかけられたのを幼いながらに感じつつ、他の子が簡単な(どう)(よう)をぽろぽろと鳴らすなか、俺はモーツァルトのきらきら(ぼし)変奏曲を弾いた。子どもらしい無邪気さが残る出だしのワンフレーズを緩やかに弾いた後、深く息を吸い込んだ。急上昇するテンポ、複雑に絡み合う譜面、流星群を降らせるように(すさ)まじい速度で鍵盤を叩く。緩まった、と思ったらまた早くなり、早くなった、と思ったらまた緩くなる。瞼を閉じるとモーツァルトがこっちこっち、と顔を(ほころ)ばせ俺に向かって手招きをしていた。早熟の天才は同じく早熟の天才を愛する。俺は彼の手をとり星の間を飛行した。曲を奏でる時、その精度が高ければ高いほど俺には作曲者の顔が不思議と見え、この曲はもしかしたら俺のために作られたのかもしれないと(さっ)(かく)するほど譜面が()()むことがある。星々の間を乱気流に乗ってすり抜けながら、一瞬のきらめきをモーツァルトと共に譜面へ書き起こし指先を動かす。俺はモーツァルトと手を(つな)ぎながらピアノを鳴らした。
‌ 緊張と緩和を行き来する俺の演奏は淡いきらめきを残し、観客たちに息をつく暇も与えずに終わった。最後の一音を弾き終え、モーツァルトの幻影が薄らいでいった後、(まさ)()くんすごい、と黄色い歓声と割れんばかりの拍手が聞こえた。先生なんかはあからさまで俺に向かってGOOD! と親指を立てて喜んでいた。やり()げた。そう思いながら椅子から降り、次の演奏者である遥へと席を(ゆず)る。すれ違いざま、遥は俺をきらきらした大きな目で見つめ
‌「素晴らしかったよ」
‌ と賞賛の言葉を口にした。初対面の、しかも自分より都会的でいかにも上手(じょうず)といった(ふん)()()の男の子に()められ、照れた俺は(うつむ)いた。でも、と遥は呟く。
‌「一音、抜けがあったね。次から運指を見直すといいよ」
‌ え、と振り返ったときには遥はもう椅子に座り、鍵盤の上に手を置いていた。ゆるく動き出した指先からきらきら星が流れる。子どものお(ゆう)()ではない、モーツァルトが奏でたきらきら星変奏曲。同じ曲だ、と俺を含めた観客たちがざわめくなか、遥の(まと)う雰囲気が変わった。
‌ 瞬間、目の前に夜空が広がる。星の瞬き、足元に流れる小川のゆらめき、山のなかにいるような静けさとは相反するはずの、(あふ)れるような子どもたちのはしゃぎ声が不思議なほどに両立して響く。足が汚れることも(いと)わずサンダルで青き芝を踏みしめて、夏の()だるような暑さも(いと)おしくなるような、満天の星を見上げる。星を見上げているのは自分と、最も愛しく親愛なる誰か。この光景を(しょう)(がい)忘れないように譜面に起こし、闇にきらめく無数の(こう)(せい)を音符へ書き換える。そうして作られたのがこの曲なのだ、と遥の演奏を聞いたその場にいた誰もが思った。
‌ 知らないはずの(きょう)(しゅう)と一瞬のきらめきに胸を打たれ、演奏が終わる。彼が鍵盤から指を離し、椅子から降りて礼をするまで誰も息をしなかった。(かた)()を飲んで稀代の演奏家の(いっ)(きょ)(しゅ)(いっ)(とう)(そく)を見守る。遥が頭を上げた瞬間、豪雨のような拍手が教室を満たした。なかには泣いている生徒もおり、先生は(くや)しそうに歯嚙みしながらも負けを認めるように喝采を送る。
‌ 俺は拍手もできず、ただ(ぼう)(ぜん)と遥を見つめたまま動けずにいた。なんだ、いまの演奏は。あんなのモーツァルトのきらきら星じゃない。あれは桐谷遥の、遥のために作られたきらきら星だ。
‌ 呆然と立ち尽くす俺に遥が気がつき、視線を向ける。にこりと微笑むその表情には邪気などまったく混じっておらず、むしろ俺に向けた好意が読み取れた。なのに俺は遥に対して好意的な感情を持てずにいた。
‌ 悔しい。負けた。全力を出したのに、どうして。
‌ こうして桐谷遥は俺に人生初めての()(せつ)を与えた男になった。

‌ それから遥が海外へ引っ越すまでの七年間、俺は彼と同じ教室でピアノを弾いた。一番記憶に残っているのは十四歳、中学二年生の頃の夏合宿だ。その頃、俺も遥と同じように東京の師匠に弟子入りをし、高校から音楽科のある進学校を目指していた。遥ほどではないが、コンクールでそれなりの実績を収めていたため、このまま問題がなければ(すい)(せん)入試で合格するだろうと見通しがついた頃だった。音楽教室は趣味と、騒音を一切気にせず思い切り演奏できる場所として俺も遥も使い続けていた。
‌ 合宿名物であるキャンプファイヤーが始まり、舞い上がる火の()の暑さにうんざりした頃、涼をとろうと俺は一人、火を取り囲む集団から抜け出して川辺へ向かった。(じゃ)()を踏みながら歩いているとぼちゃ、ぼちゃと水に何かが落下するような音が断続的に響いていることに気がついた。音のするほうへ視線を向ける。遥がいた。川辺の砂利に尻をつき、小石を手に取ってはぽいぽいと無心で投げつける。水切りをやっているのだろうかと思ったけれど、その割には石は水を切るどころか真っ逆さまに落ちるばかりで(こころ)(もと)ない。投げている遥からも水を切ろうとする気は感じられなかった。彼の左隣に立ち、何してんだよ、と声をかけるが無視される。なあって、と怒鳴るように言うとようやく気が付いたらしく、遥は顔をあげた。声の主が俺だと分かるや(いな)や、遥はにこりと微笑んだ。
‌「やあ。星を見ていたんだ」
‌ 遥がとんとん、と自分の右隣を叩いて俺に座るように促したので、俺はわざわざ右へ移動して腰を下ろしてやらなければならなかった。空を見上げる。街灯もなく、火の灯りもないこの場所からは確かに星の瞬きがよく見えた。
‌「僕はおとめ座なんだ。おとめ座ってどんな星座か知っている?」
‌「知らねえよ」
‌ 俺は()()(くさ)れたみたいに言った。遥がおとめ座かどうかなんてどうでもいい。そんなことより、結局この合宿期間中、実技講習の成績で遥に一度も勝てなかったことで頭がいっぱいだった。悔しさに(にが)(むし)を嚙み潰す俺には気が付かず、遥は夜空を見上げううん、と悩ましそうに眉をひそめた。
‌「さすがに今は見えないか。あ、そうだ。おとめ座っていうのはこんな星座でね」
‌ 言うなり、遥はまた川にぼちゃぼちゃと石を投げ始めた。無秩序に投げこまれているように見えるその石は、よく見ると点で結べそうで、結ぶと確かに何かの星座になりそうだった。俺はようやく遥が石を川へ投げ込んで勝手に星座を描いていたことを知った。(あき)れながら肩を落とす。
‌「やめろよ。指、痛めるぞ。角で切ったらどうすんだよ」
‌「切らないから大丈夫だよ」
‌ なんの自信があってか、そう言って遥は石を投げ続けおとめ座を描いた。あそこ、と最後に石が落ちて波紋が残る水面を指さして
‌「スピカと呼ばれる星がおとめ座にはあるんだ」
‌ と遥は言った。
‌「スピカというのは穂先、という意味でね、おとめ座が握る穂の先で輝いている星なんだけど、肉眼では一つの星に見えるんだ。ところが実はスピカは二つの星がお互いの重力を利用して回り合う連星なんだ。一つに見えて実は二つ。将暉くんはどう思う?」
‌「え? どう思うって
‌ 突然の星空談義についていけず、言葉に詰まる。僕はね、と遥は構わず続けた。
‌「人間も同じだと思うんだ。一人でいるように見えても、実はその一人のそばには必ずもう一人、重要な人がいる。人は互いに重要な人のそばでくるくると回りながら持てる力を発揮するために自分を燃え上がらせているんだろう。つまりね、将暉くん。僕は来月から海外へ行くことになったんだ」
‌「はあ?」
‌ 思わず()(げん)な声が出た。こんなに意味をなさないつまり、聞いたことがない。俺が(いら)()ちに片眉を吊り上げても、遥はにこにことしたまま明るい表情を崩さなかった。
‌「海外ってつか、今の話とお前が海外へ行くこととなんの繋がりがあるんだよ」
‌「あれ。伝わらなかったかな。まあそうか。確かに僕はもっと直接的に言うべきなのかもしれない。僕がいなくても君は音楽を続けてくれ。言いたいことはそれだけだよ」
‌ じゃあ戻ろうか、と言って遥は立ち上がった。どういうことだよ、と呼びかけても返事はなくマイペースに歩き出す。諦めて俺も立ち上がり、遠く離れたキャンプファイヤーの灯りを目指して二人で歩いた。歩いている間中、遥はさっきのスピカみたいな、天然といえばいいのか、能天気といえばいいのか分からない話を一人で(しゃべ)った。彼の話が普通の人間がする話とピントがずれているのはいつものことであるため、さきほどの話だって気にすることはないと思いながらも俺はつい考えてしまう。
‌ 遥が海外へ行く。俺のそばからいなくなる。長年の()まわしいライバルがいなくなる(あん)()と少しの寂しさが砂利を踏みしめる足を重くした。言われなくとも、遥がいなくたって俺は音楽を続けるつもりでいた。でも遥は? 彼は俺がいなくても音楽を続けるんだろうか。海外へ行く、とは言ったが遥は音楽のために海外へ行く、とは言わなかった。遥はどうしてわざわざ俺に音楽を続けてくれ、なんて言ったんだろう。直接聞けばよかったのかもしれない。でももし聞いて、いつものようにさらりとした口調で「ああ、うん。僕はもう音楽はやめるよ」と言われたらショックを受けて立ち直れないような気がした。自分より優れた人間が、才能のある人間が音楽をやめる。それは俺にとって遥に負け続けることより恐ろしいことだった。
‌「そろそろつくね」
‌ キャンプファイヤーの灯りが遥の横顔を照らす。お前こそ、海外に行っても音楽を続けろよ、と言いかけた唇を俺は閉じた。俺はいま遥の左側を歩いていて、彼に話しかけるなら右側にいったほうがいいような気がした。けれどそこまでするのは面倒で、俺は結局何も言わなかった。

‌ それから数年が経ち、日本屈指の音楽大学へ進学した俺は、思っていた以上に厳しい現実を()の当たりにして(がく)(ぜん)とした。大学には遥に勝るとも劣らない化け物がぞろぞろいて、俺は入学してすぐ自分の底を知った。天才も二十歳(はたち)すぎればただの人。過去、ピアノコンクール入賞常連者だった俺はすぐに没落し、二年生になる頃には自分はなんの才能もない、ただピアノが好きなだけの凡人なのだと思い知った。俺はピアノを愛していたけれど遥のようにピアノからは愛されなかった。それでも夢中になって鍵盤を叩き、譜面を追いかけている時間は何物にも代えがたく、一心不乱にピアノを弾き続けた。次のコンクールで結果を出せなければ音楽業界で生き残っていく道は絶たれる。そんな(きゅう)()に追い込まれてもなお、俺はピアノが好きだった。けれど時折邪念が入りミスをすると、黒い鍵盤が黒いネクタイに見え、自分の首を()めてくるような錯覚に襲われた。
‌ 桐谷遥が日本に戻り、国際コンクールの地区予選に出るらしい、と聞いたのはそんな時だった。今までも遥の名前はコンクールで聞いていた。キャンプファイヤーでの俺の心配など()(ゆう)にすぎず、海外へわたってしばらくすると遥は当然のように各国際コンクールでの入賞者として名前を刻むようになり、俺は海の向こうで遥が音楽を続けていることを知った。一度だけ、遥の演奏動画も見たことがある。WEBサイトへ掲載されたコンクール本選での遥の様子は相変わらずだった。自分が作曲した曲を自分の好きなように演奏しているかのような自由さ。彼が弾くと曲の空間がぶわっと広がり、聞く者はみんな遥が奏でる幻影に飲み込まれる。喜び、悲しみ、怒り、寂しさ。感情のすべてを遥のピアノに支配される心地よさ。二十歳をすぎてただの人になったのは自分だけで、遥は相変わらず天才なのだと思い知らされた。
‌ そんな遥が東京の地区予選に出るという。今まで彼は海外の演奏者として名を連ねていたが、一時帰国するタイミングと予選の期間がちょうど重なったため、今回は日本の演奏者として出場するのだという。俺たちのような凡人からすれば迷惑千万な話だった。勘弁してくれ、と思いながら課題曲を確認する。ラフマニノフピアノ協奏曲第二番。ピアノを知らない素人(しろうと)でも知っている、有名すぎる一曲。重々しい旋律から始まり、すぐさま現れる超絶技巧の数々。気難しい作曲者の内面をそのまま表したような複雑()(たん)()な楽曲。遥が得意そうな曲だ、と真っ先に思った。気持ちで負けていたのだろうか、俺は本番、普段であれば決してしないミスを連発した。もう後がないと言うのにこの(てい)たらく。最悪だ、と思いながら逃げるように舞台を降り、遥の演奏からも耳をそむけた。が、いつまでも逃げてばかりではいけない、とホールへ入り、客席の隅で遥の演奏を聞く。
‌ 遥の演奏は存在しないオーケストラの音の多層性まで再現しているように聞こえた。緊張と重々しさに満ちた出だし、張り巡らされた神経のひとつひとつが音の響きとなって立ち上がり、(つか)()の休息を挟んで息をついたのもわずか、クライマックスへ向けてすべてのエネルギーが集約する。遥の鬼気迫る演奏からは体を切りつけられるような痛みに耐えながら、なおも前に進もうとする戦士の姿が浮かんだ。その戦士を支えるために一頭の馬が(さっ)(そう)と現れ、荒れた大地を駆け抜ける。手負いの戦士は馬に乗り、再び剣を(たずさ)えて命果てるまで戦地を走る。
‌ 圧倒的だった。演奏を終え、遥が指を鍵盤から離した途端、喝采が沸き上がる。ブラボー! と席から立ち上がり、涙を流す者さえいる。人の心を強く揺さぶる。これが遥の音楽だ、と感じた途端、(ひど)い頭痛に襲われ俺はホールを後にした。
‌ ホールの外へ出て休憩所で一杯三十円のカップコーヒーを買い、一人苦みを嚙み締める。完敗だ。何年経っても結局俺は遥には勝てない。悔しくて奥歯をぎりっと嚙み締めていると、「将暉」と声をかけられた。遥だ。衣装のまま、(ほお)を上気させ嬉しそうにこちらへ近づいてくる。今となっては背丈も実力もなにもかもに差がついて、俺が遥に勝っているところなんてひとつもないように思えた。よお、となんとか笑みを張り付ける。不自然な表情を浮かべる俺とは対照的に遥はにこりと自然な笑みを返した。
‌「どこにいるのかと思って探したよ。僕の演奏、聞いてくれた?」
‌「ああ」
‌「どうだった?」
‌「よかったんじゃねえの。つか、俺の意見なんて聞かなくても分かるだろ。あの観客の反応見れば」
‌ 遥はそうか、とうまく喜べない子どものように眉を寄せながら口元だけで微笑んだ。
‌「でも僕は最後に将暉に聞いたほしかったんだよ」
‌「最後?」
‌「ああ。しばらく僕は演奏ができなくなるからね」
‌ ひゅっと息を呑む。遥は変わらず穏やかな表情を浮かべていた。
‌「耳、いよいよ限界がきていてね。手術をするんだ。だからその前にどうしても将暉と勝負したくて()(しょう)には無理を言って帰国した」
‌ 手術、と口の中で(はん)(すう)する。俺は遥の左耳を見た。はっきりと尋ねたことはなかった。けれどもう、あの夏の合宿の頃から彼の左の聴力は少しずつ失われていたのだろう。海外へ渡ったのも日本では見つけられない打開策を探すためだったのかもしれない。分かっていたけれど気が付かないふりをしていた。だって左耳が聞こえない遥が俺の何百倍も素晴らしい演奏をするだなんて認めたくなかった。それに、遥より素晴らしい演奏ができない俺の左耳が問題なく聞こえてしまうということも到底認められない。どうして俺は遥より恵まれた、健康な体を持っているのに彼より優れた演奏ができないのだろう。遥より劣る俺は俺の健康な耳を彼に差し出すべきだ。なのにそれもできない。自分の腕を(みが)いて成果を上げることも、成果を上げ音楽業界に奉仕し続ける遥のために自分の一部を捧げることも、俺にはできない。こんな役立たずが存在していていいのだろうか、と虚しくて胸が潰れそうになった。
‌「治るのか?」
‌「どうかな。治るといいけど。まぁいまどき補聴器もあるしね。どうとでもなるよ」
‌「怖くないのかよ」
‌ 意図せず低い声が出る。俯き、(から)になったコーヒーカップを握りつぶした。
‌「俺は最近、毎日怖いよ。ピアノしかやってこなかったのにもしこのまま芽がでなかったら、毎日スーツ着てネクタイ締めて働かないといけないのかなって。それが嫌なわけじゃない。ただ悔しいんだ。こんなにピアノに捧げてきたのに、結局ピアノを手放さないといけない人生って一体なんなんだろうって。報われないなら最初からやるんじゃなかった。音楽なんて始めるんじゃなかったって。なのに、お前は怖くないのかよ」
‌「うん。怖くはないよ。だって僕には将暉がいるからね」
‌ 顔を上げる。遥は変わらず穏やかな表情で微笑んでいた。
‌「六歳の時、東京から引っ越して将暉に出会って衝撃を受けたんだ。僕と同じ人間がいた、って。名誉や技術なんて関係ない、ただピアノが好きで(かじ)りついていたらいつの間にか遠くまで来てしまった愚か者が僕以外にもいたんだ、って嬉しくなった。きっと君は僕と同じくなにがあっても死ぬまでピアノを弾き続けるだろうと想像したら、すごくホッとしたんだ。僕は一人じゃなかったんだって。いつか何かのはずみで僕が音楽をやめたくなっても、将暉がいれば大丈夫だと思った。将暉の重力が僕を引っ張って音楽の道に留めてくれる。僕を一等星でいさせてくれるって、あの頃からずっと今でも変わらずに思っているよ」
‌ 一等星、という言葉におとめ座の穂の先についたスピカという連星を思い出す。あの時も今も、遥が何を言っているのか俺にはよくわからない。でも俺がいれば大丈夫、という彼の目は確かに輝いていて、俺はその輝きに引っ張られるように頭に浮かんだことを口にした。
‌「理不尽に思ったことはないか? 自分の耳が聞こえなくなっていくのに、自分よりもへたくそなやつの耳が変わらず聞こえることを」
‌「あるよ」
‌「それでもきっと何が起きてもピアノを弾き続けてしまうんだろうな、って思う自分に呆れたことは?」
‌「そりゃもう毎日さ」
‌「なのに自分よりうまい奴は山ほどいて、どれだけ練習してもかなわなくて」
‌「滑り落ちるように欲しかったものは手のひらから落ちていく」
‌「それでもお前は、ピアノをやるのか? 耳が聞こえなくても?」
‌「もちろん。どれだけ(みじ)めな姿になっても、音楽にふさわしくない体になっても、僕は君より先にピアノを手放す気はないよ。だから君も僕より先にピアノを手放さないでくれ」
‌ 息が詰まり、返事もできずただ(うなず)く。あの頃、俺たちはただピアノが好きで楽しくて、わき目もふらず一心不乱に鍵盤を叩いてはしゃいでいた。しかし大人になるにつれ、たくさんの現実やしがらみに囚われてあの頃のほどの純真さでピアノに向かうことはできなくなった。それでも俺たちはピアノを始めた。音楽を始めた。それだけできっと一生分の価値がある。たとえ死ぬまで報われなくても、俺たちはきっと明日もピアノを弾いている。
‌「そういえば将暉、自由曲は何にした? 僕はね」
‌ 遥の言葉を(さえぎ)って曲名を口走る。彼は一瞬、驚いたような顔をした後、瞳をきらきらと輝かせ正解、と嬉しそうに言った。俺は遥を見返しながら、闇にきらめく無数の(こう)(せい)を思った。

‌【おわり】