【最終選考作品】ターミナル・ダイブ(著:青葉梟)

 田舎(いなか)に向かう電車は、乗客で一杯だ。
‌ 午後六時台の電車の中は、目のやり場がなく困る。下手(へた)に顔を上げれば、視線を感じた誰かと目が合ってしまう。それは、とても失礼なことのような気がして、用もないスマホの画面に助けを求め、ただ不快になるばかりのニュースに目を通す。
‌ 雨宮(あまみや)(まこと)は高校生になった。中高一貫の学校に通っているため通学路は変わらず、今日も乗り慣れたディーゼルに揺られている。中学生の時から部活に所属していない丹は、普段なら余裕のある四時台の電車に乗るのだが、今日は放課後友人と会話して遅くなり、この酸素の薄い電車に乗っている。
‌ 丹は、目をスマホに預けたまま車内に耳を傾けた。今日が金曜日ということもあり、車内からは困憊(こんぱい)と解放のため息や会話、寝息が(かす)かに聞えてくる。車内の(よど)んだ空気と人の多さに、丹は段々息苦しくなってきた。深呼吸をして車内に少しの音を加える。誰も気付かない音だったが、丹にとっては五月蠅(うるさ)い不快な音だった。
‌ 丹は、終点駅から二つ前の駅で降りた。
‌ 無人駅の改札を人が滑るように通り過ぎて行く。余りにスムーズな動きに、この人たちは運賃を払っているのだろうかと丹は都度(つど)疑った。
‌ 丹はポケットから定期を取り出し、改札に引っ付いたセンサーに当て、皆と同じように改札を抜けた。
‌ 駅前のロータリーでは、車が回転寿司のようにレーンに現れては乗客を喰って去って行く。
‌ 丹はレーンを無視して歩き始めた。
‌ 丹の住む田舎は、街灯が少なく(ひと)()もほとんどない。そのため、丹は母親から日が暮れる前に帰ってくること、どうしても遅くなる場合は必ず連絡を入れるようにと言われている。
‌ 丹にとって、母親の言いつけは子ども扱いされているようで嫌だった。軽い反抗のつもりで丹は今日も連絡を入れなかったのだが、六月の日は長く連絡する必要もなかった。
‌ 西の空の残照は未だに真っ赤に燃え続け、迫り来る暗闇に対抗しているようだ。
‌ 丹は空をぼんやり眺めながら歩いて行く。足下の広かった道は狭い畦道(あぜみち)に変わっていた。
‌ 畦道の左側には田畑が広がっており、田植えの終わった田んぼから時々(かえる)の鳴き声が聞えてくる。田んぼの反対側には川があり、奥には畦道と平行に道路がある。
‌ 道路と畦道を(つな)ぐ橋の上を歩いている時、丹の(かばん)から振動音が数回した。
‌ 母親からだろうと思い、丹は鞄から光を放つ端末を取り出した。待ち受け画面は、放課後会話した友人からの通知が三件あることを報告している。丹はロックを解除しメッセージの内容を確認した。メッセージは、今日出された課題を見せて欲しいとのことだった。
‌ 中学校からの唯一の旧友は、今日もまた変わらず課題を見せろとお願いしてくる。この友人は丹の唯一の友人であり、気の合わない友人だった。中学生の頃、丹はこの友人に見放され学校で孤立することを恐れて言いなりだった。けれども、高校生になって友人と話す機会が増え、丹は友人の在り方を見直す必要があると考えていた。
‌「ごめん、もう課題見せられない。自分でして」メッセージ(らん)に何度も書いた言葉を震える指先で再び打ち込む。下手に返事が遅くなって不満を言われるくらいならと自分に言い聞かせ、投げやりに送信ボタンを押した。
‌ 直ぐに既読がついた。
‌ そして、「じゃあいいや」とだけ返事が来た。見放されたような言葉が、丹の胸にずっしりと重くのしかかる。
‌ 丹は前後の友人とのやりとりを何回も目で往復した。言いたいことを言えた爽快(そうかい)感は(まった)くなく、見放された孤独と悲しみで胸が痛む。
‌「来週からどうしよう」
‌ 丹は、こんな()(さい)なことでひどく落ち込んでいる自分を認めたくなかったが、自分の(もろ)い自尊心は存外直ぐに姿を消してしまった。今更訂正(ていせい)する気力もなく、後悔(こうかい)は重り付きの足枷(あしかせ)のように丹の足に絡みつき、丹は橋を渡りきることができずにいた。
‌「もう、疲れたな」
‌ 丹は橋の防護(さく)に全体重をかけ前屈みになり橋の下を見下ろした。橋の下には、レジ袋やペットボトルなど不法投棄されたゴミで(にご)りきった川が流れている。
‌ 丹の耳に田んぼから蛙の鳴き声が聞えてきた。最初は二、三匹くらいだった蛙の声は、次第に数を増やし大合唱になってゆく。
‌ 蛙の声が五月蠅さを増すにつれ、空からポツリポツリ雨が降ってきた。雨は、蛙が大合唱をする頃には土砂降りになっていた。
‌ 知恵熱で熱くなった頭が、雨によって強制的に冷まされていくにつれ、丹はむしゃくしゃして叫びたくなった。体を起こした時、左手に握ったスマホが再び小刻みに揺れたが、丹は画面すらもう見たくなかった。
‌ 丹は、高校生からSNSを始めた。中学生の頃は、SNS使用禁止の校則があったため、学校の友人と家に帰っても話すことはなかった。金曜日の放課後会話習慣はそのなごりだ。だが、高校生になりSNSのRAINをいざ始めると、始終会話もしないクラスのやり取りなどの情報が沢山(たくさん)入ってくる。当然、その情報に助けられたこともあったが、二十四時間やり取りできるようになった代償として、中学からの友人からは深夜問わず課題を見せろと連絡され、話であれば既読が遅いと文句を言われる始末だった。ならば、先ほどの対応は正しかったのではないかとも考えてみたが、丹には来週の学校への不安が大きく正しいかどうかはどうでもいいように思えた。
‌ 丹はスマホを震えるほど強く握りしめ、こんなものに振り回される自分を情けなく思った。
‌「そもそも、こんなものがなければ」
‌ 丹は(つぶや)いた。そして、丹は左手を振り上げ端末を掲げ、ドブ川の下流に向かって思いっきり投げた。
‌ スマホは1メートル弱の距離を飛行した後、ドボンと音を立てて川底に落ちていった。落下音はかなり大きかったが、丹には雨の音しか聞こえなかった。
‌ (しばら)くの間、丹は呆然(ぼうぜん)とスマホが落ちた辺りを見つめていた。降ってくる雨は川に飛び込み姿を消して川の一部となっていく。
‌ 丹は防護柵に背を預け、そのままずるずる下に落ち橋の上でしゃがみ込んだ。
‌「なにやってんだぁ」
‌ 丹はひどく情けのない声を(しぼ)り出した。カッとして行った取り返しのつかない行為に頭を抱えるしかなかった。
‌ 土砂降りは止むことなく丹の体を冷やすばかりで、一層丹を惨めにさせる。
‌ 丹はただその場にうずくまることしかできない。そんな丹を他所(よそ)に蛙たちの喜びの大合唱は続いている。
‌「あの大丈夫ですか」
‌ 突然、丹の頭上だけ雨が止んだ。
‌ 顔を上げると久しぶりに人と目が合った。
‌ ビニール傘をこちらに差し出したのは、丹の小学生の頃の同級生だった。けれども、丹には何年生の頃の同級生だったのかも名前すら思い出せない。丹が覚えていることは、一年間だけクラスが同じだったこと、米農家の子どもで何かと()(にし)の卵を見てははしゃいでいたことから『タニシ』というあだ名があることの二つだけだった。
‌ タニシもこちらに気がついたようで、「なにしてんの、マコちゃん」と丹の小学生の頃のあだ名を使って声を掛けてきた。
‌ 丹は返事に困ったため「タニシこそ」といって質問に質問を返した。
‌ タニシは「田んぼ見てきたんよ、すごい土砂降りやからさ。()(かく)風邪(かぜ)引くから家に来い」と言った。丹もこのままここにいるわけにも行かず、黙って(うなず)きタニシの家にお邪魔することにした。
‌ 
‌ 二
‌ タニシの家は、橋から十分程歩いた所にあった。
‌ タニシは玄関で丹を待たせ、家の奥からバスタオルを一枚持って戻ってきた。
‌「これで体拭いて、まずシャワー浴びりい」
‌ それだけ言うとタニシは、洗面所に行き風呂の準備を始めた。
‌ 丹が「服これしかないんだ」とバスタオルに包まって言うと、「洗濯(せんたく)して、ドライヤーで乾かしといちゃるけん」とタニシが洗面所から大声で言った。
‌ 丹はタニシの態度に驚いて、玄関で立ちすくんでいた。タニシは丹が中々上がってこないため、洗面所から玄関の方を(のぞ)いた。
‌「どうしたん、はよ来いよ」
‌ タニシに()かされ丹は「お邪魔します」と小声で言うと急いで洗面所に向かった。
‌ 丹は再び制服を着て頭にタオルを(かぶ)せたままリビングへ向かった。リビングでポテチを食べていたタニシは、丹が戻って来たことを確認すると手招きをしながら目の前の椅子(いす)に座るように言った。丹は黙って頷き、タニシ前に腰掛けた。
‌「いやぁ、すごい雨やね」
‌ タニシは、窓の外を見ながら言った。
‌ 丹は「そうだね」とだけ言って、(うつむ)き黙り込んだ。タニシは机に肘をつき手のひらに(あご)をのせ、薄塩味ポテチをバリバリ食べながら窓の外を眺めていた。
‌「あのさ」と丹はタニシに声をかけた。
‌「どした」タニシは丹に視線を移す。
‌「なんでここまでしてくれるの」
‌ 丹は、タニシの目を見て言った。
‌ タニシは少し間を開けて、鼻から息を吹き出すと丹の方を見て口を開いた。
‌「そりゃあ、こんな土砂降りの中、傘も差さずに橋の上でしゃがみ込んで目ぇ真っ赤に()らした人がおったら誰だって心配するやろ。それが見知った顔やったらなおさらのこと」
‌ 丹は目を伏せて「そっか」とだけ言った。
‌「そういえば、ご両親は」
‌ 丹は、自分からふった話を()らしたくなり、家中を見回しながら尋ねた。
‌ タニシはポテチに手を伸ばした。ポテチの袋の中はもう(から)っぽだった。
‌「ご両親は来月ある(はち)(まん)(さま)のお祭りの打ち合わせらしい。何時に帰ってくるのかは知らんけど」
‌ 薄塩味のポテチがなくなったことに気付いたタニシは、台所に行き九州限定味のポテチの袋を取ってきた。
‌「あぁ祭り。懐かしいな、もうそんな時期か」
‌ 丹が独り言のように呟くと、タニシは袋を開けながら「毎年あるけん別に懐かしい気せんけど。まぁ、マコちゃんにとっちゃあそうか」と言って会話を繋いだが、丹はそれ以上会話を繋ぐことができなかった。
‌「高校はどんな感じ」タニシがポテチを食べながら話題を変えた。丹もポテチに手を伸ばした。
‌「ぼちぼちかな」
‌「部活入っとるん」
‌「いや、帰宅部」
‌「そうか」
‌「タニシは」
‌「ずっと水泳部」
‌「泳ぐの上手(うま)いけんね。大会あるの」
‌「ある。大会の選抜メンバーに選ばれたっちゃん」
‌「すごいな」
‌ 部活の話題はそこで途切れた。ポテチはまだ半分も減っていない。
‌「そういえば、気象予報士だったけ。まだ目指してんの」
‌ タニシが将来の夢に話題を変えた。
‌「いや、学力的に厳しいかなと思っとる」
‌「えっ、マコちゃん成績良かったやん」
‌「小学生の頃はよかったけど、今じゃあ、下から数えた方が早いよ」
‌「へぇ、私立進学校は猛者(もさ)揃いってことか」
‌ タニシの意外な言い回しに、丹はくすりと笑った。
‌「タニシこそ、将来は米農家なるんやろ」
‌「あ~そうやったけど、今は将来模索中」
‌「なんで」
‌「そりゃあ、色々よ」
‌「そう」
‌「まぁ、お互い将来模索中ってことで」
‌ 将来の夢の話題が尽きると、タニシは窓の外を眺めた。水滴まみれの窓の奥は真っ暗でよく見えない。雨音の代わりに虫の声が聞える。
‌「あっ雨上がった」
‌ 丹も窓の外を見た。
‌「そういえば、マコちゃんここにおること母さんに連絡したと」とタニシが尋ねた。
‌「いや、別にせんでもいいよ」
‌「だめに決まっとるやろ!」
‌ タニシは立ち上がり、玄関から急いで子機を取ってきて丹に渡そうとした。
‌「そういえば、今はスマホがあるんやった」
‌ タニシは子機を手にしたまま言った。
‌「あぁ、えっと」
‌ 丹は、目を泳がせながら言い逃れ策を考える。
‌「あぁ、不携帯なん」とタニシが言ったため、丹はほっとして「そうそう、学校に忘れた」と言って子機を受け取った。
‌ 丹は母親の携帯番号を打ち込んで、恐る恐る子機を左耳に当てた。母親は三回コールで電話に出た。最初、無愛想な態度だった電話越しの母親は丹だとわかるといつもの声のトーンに戻ったが、丹が帰宅していないことを知った途端、(なが)(ちょう)()になりそうな説教が始まった。丹は、スマホを学校に忘れたこととタニシの家にお邪魔になっていることを説明しつつ謝った。母親は、丹の説明を聞くと「すぐに迎え行くから神社のところ来とって」と言って電話を切った。
‌ 丹はタニシに礼を言って子機を渡した。タニシは「すごい雷落ちてたな」と笑って受け取った。九州限定味のポテチは、もう空っぽになっていた。
‌「母さん、迎えに来るって」
‌「車で」
‌「うん」
‌「どれくらいかかる」
‌「出かけていたらしいから、二十分くらいだと思う」
‌「車なら畦道通りづらいな。橋の所まで歩いて先に行っておこう」
‌「いや、八幡様の所に来いって」
‌「八幡様、畦道の途中だから橋の方がいいんじゃないか」
‌ 丹は「確かに」と言って頷いた。
‌ タニシは「送っていくよ」と言い、丹と一緒に玄関へ向かった。

‌ 三
‌ 丹とタニシは、畦道に出た。タニシはまた雨が降ったら行けないからとビニール傘を一本右手に持っている。
‌ 畦道の両側には、真っ赤な提灯(ちょうちん)が並んでおり神社の方まで続いていた。
‌「お祭りは来月じゃなかったっけ」
‌ 丹が尋ねた。
‌「提灯は毎年早めに飾っとったやろ」
‌ タニシが答えた。
‌ 丹は全く覚えていなかったが「そうだったね」と返した。
‌「なぁ、マコちゃん。小学生の頃に流行(はや)った自転車の噂話(うわさばなし)覚えとる」
‌ 丹は「えっと、水面を走る自転車のこと」と尋ねた。
‌「そうそれ、川の中に捨てられた自転車に乗ると水面を走れるっていう噂」
‌「よくそこまで覚えとうね」
‌ 丹は少し感心したように言った。
‌「そりゃあ、忘れんよ。あの噂のおかげで、マコちゃんと友だちになれたしね」
‌ 丹は首をかしげて「そうだっけ」と言った。
‌「マコちゃん、まさか忘れたん」
‌ タニシは目をまん丸にして言った。
‌ 丹は黙って(うなず)いた。
‌「嘘やろ。ほら、(ちょう)()八幡様のお祭りの日、川の水がひいとって、例の自転車が橋のすぐ横の、ほら今立ち入り禁止になっとる川に降りれる坂道の所にあったやん。それを上級生が引っ張り上げて、これに乗って水面走って来いってその場にいた下級生全員に命令してさ。皆、したくないけん黙っとたらマコちゃんが上級生の前に出て」
‌ そこまで聞いて、やっと丹は思い出した。
‌ 小学校中学年の頃、丹は上級生が引き上げた自転車にまたがり、川へ繋がった坂道を一気に下っていった。本当はブレーキを何回もかけて止めようとしたのだが、自転車のブレーキが壊れていたためそのまま川に突っ込んだ。当然自転車が水面を走るはずもなく、丹の乗った自転車は川のど真ん中で沈んでしまい、丹も一緒に(おぼ)れかけたのだった。
‌「あぁ、あの()(ほう)な話ね」
‌「阿呆なもんか。あん時のマコちゃん、最高にかっこよかったわ」とタニシが言ったが、丹はすぐに「最高にかっこよかったのはタニシの方やろ」と訂正した。
‌ あの後、溺れていた丹を、水泳が得意なタニシが助けてくれたからよかったものの、丹はどうしてそんな無鉄砲なことをしたのだろうと思い出す(たび)に後悔していた。
‌ 当時のことを思い出すと、その時に戻ったような感覚に襲われる。丹は感謝代わりに「今度なにかお礼するよ」と言った。
‌「まじか、じゃあ期間限定ポテチ買ってきてくれ」とタニシは目を輝かせて言った。丹は「わかったよ」と頷いた。
‌ 丹とタニシは橋に着いたが、丹の母親の姿はまだなかった。
‌「あのさ、タニシ」
‌ 丹が(おもむろ)に口を開いた。
‌「なん」とタニシが雑に言った。
‌「実は嘘ついていたんだ」
‌「えっ。ポテチのことか」と言い、丹の方を見た。
‌「いや、お礼はもちろんするけれど、そのことじゃなくて」
‌ 丹は苦笑いを浮かべた後、俯いて握りこぶしを二つつくった。
‌「スマホのことやろ」とタニシが言った。
‌ 予想外の台詞(せりふ)に、丹は思わず顔を上げた。
‌「タニシ、まさか見ていたの」
‌「マコちゃん、かっこよかったよ」と言って、タニシは微笑(ほほえ)んだ。
‌「なら、なんで」
‌ 丹の質問を遮りタニシは「だって、土砂降りの中、スマホ自分で投げ捨てて後悔している人がおったら、なんて声かければ良いかわからんやん」と笑いながら言った。
‌ 丹の体温は、恥ずかしさのあまり一気に高くなっていく。
‌ 顔を真っ赤にした丹にタニシは「スマホで良かったな」と慰めるように言った。
‌「あはは、ほんっとバカだなぁ。小学生からなんも成長してないわ」
‌ 丹は、自分が変わらずバカなままだったことを自覚し、恥ずかしくて笑いが止まらなくなった。防護柵に腕を置き(うな)()れて笑う丹の背中を、タニシは黙ってさすっていた。丹の肩は次第に小刻みに震えるようになり、笑い声はいつしか()(えつ)に変わって、今度は涙が止まらなくなっていた。
‌ あの夏の日と同じように、タニシは丹の背中をさすりながら、ただ真っ直ぐに川下を眺めている。
‌ 丹には、火照(ほて)った体をさすってくれるタニシの手が心地良くも、ずっしり重たく感じた。
‌ 
‌ 四
‌「そうだ。タニシRAIN交換しよう」
‌ 丹は涙を腕で(ぬぐ)って言った。このままタニシとまた()(えん)になるのが嫌だった。
‌ 丹は、スマホを取り出そうと思い肩に掛けた鞄のチャックに触れた時、さっき話したばかりの内容が頭をよぎった。
‌ 肩で笑っていたタニシは、我慢できずケタケタ笑いながら「流石(さすが)マコちゃん、天才や」と言い、さすっていた手で丹の背中を強く叩いた。丹も恥ずかしいのと可笑(おか)しいので、タニシにつられて笑った。
‌ 丹は、久しぶりに友人と心から笑い合えた。
‌ 突然、タニシは真面目(まじめ)な顔をして丹の顔を見た。
‌「スマホの中の友達じゃなくてさ、疎遠になっていたけど、こっちでもう一回友達になろうよ、マコちゃん」
‌ そう言ってタニシは、丹に手を差し出した。
‌ 丹の胸が高鳴り、畦道の提灯の火が一気についたように視界も明るくなっっていく。
‌「もちろんだよ、タニシ」
‌ 満面の笑みで丹はタニシの手を握り返そうとした。けれども、その直前でタニシは「やっぱり、だめだな」と声を(しぼ)り出して言うと手を下ろしてしまった。
‌ 丹がタニシに「どうした、タニシ」と尋ねた時だった。
‌「まことぉ!」
‌ 背後から母親の声がして丹は振り返った。母親は丹の手を強く握り引き寄せると、丹の(ほお)を叩いた。
‌「心配したのよ」
‌ 丹には、なぜ母親に打たれたのかわからなかった。
‌「でも、ほらタニシが助けてくれたから」
‌「丹」
‌ 母親は丹の肩を両手で(つか)み、今にも泣き出しそうな顔を丹に近づけた。
‌「田西君は、もう死んでるの」
‌ 丹は母親が何を言っているのか理解したくなかった。
‌「でも、そこに」
‌ 丹は声を振り絞りながら、タニシがいる方を見もせずに指さした。母親は、丹の指さす方を見てから再び丹の顔を見た。
‌「丹、誰もいないわ」
‌「田西君はね、去年の夏、プールで溺れて死んでしまったのよ」
‌ その言葉を聞いた途端、丹の背中は冷たくなり、顔から赤だけが抜け落ちた。何か言いたかったが、頭も(のど)も思うように使えない。
‌ 丹がゆっくり田西の方を振り返ると、田西は防護柵の上に立っていた。
‌「本当に、スマホで良かった」
‌ 田西は笑顔を浮かべていたが、その声はひどく震えていた。
‌ 田西は川の方へ向き直すと、その場に屈み夜空に向かって思いっきりジャンプをして川の中へ飛び込んだ。
‌ 
‌ 五
‌ あの日、タニシが消えた後「制服ずぶ濡れじゃない。風邪引くわよ」と母親に言われて、丹は制服が濡れたままであることに気がついた。加えて、丹が車の助手席に乗り込み川を眺めていると畦道の提灯がなくなっていることにも気がついた。母親に尋ねると、祭りは八月にあることと祭りの時、畦道に提灯など飾らないことを教えてくれた。
‌ 丹はひどく目眩(めまい)がする感覚に襲われ車の中で気を失った。丹が眠ったのだと思った母親は、丹の額に手を当て熱いことを知り、そのまま急いで病院に向かった。丹は医者から(ねつ)せん(もう)と診断され、解熱剤だけ処方された。丹の高熱は解熱剤を服用しても繰り返し、一週間ほど学校を休んだ。四日目で高熱は(しばら)く微熱まで下がり、丹の体調は良くなっていった。
‌ 丹は家にいる間、母親から田西の話を聞いた。
‌ 去年の夏、田西は全国水泳大会に出場するため、休み時間や下校時刻ギリギリまでプールで練習を続けていたのだという。その成果もあり、田西は選抜チームに選ばれたのだが、大会一週間前、田西の両親が祭りの打ち合わせから帰ってくると田西がまだ帰宅していないことに気がついた。心配した田西の母親が学校に連絡を入れると既に下校したと言われ、田西の家族は急いで警察に通報し、警察が捜索を行うとプールの底に田西が沈んでいるのを発見した。急いでプールサイドに引き上げたが、既に田西は息がなかったそうだ。
‌ 死因は、練習中に足をつり(でき)()
‌ その後の詳しいことはわからなかったが、田西が死んでから田西の家族はすぐに引っ越してしまったのだという。
‌ 丹は、田西が行方(ゆくえ)不明になったことを知っていた。田西が行方不明になった日、丹は家で地域の放送を聞いておきながら、何もしなかった。部屋にこもって、音楽を流し、スマホと(にら)めっこをしているだけだった。
‌ だから、タニシが傘をかざしてくれた時、丹はタニシが無事だったことを知って心の内で密かに安心していた。

‌ 今、丹は小さな花束を両手に抱えて、田西が休ませてくれた家の前に立っている。
‌ 丹は田西と約束したとおり、期間限定のポテチを三袋買ってきたのだが、家に上がる勇気がなく()き家のポストにポテチを入れた。
‌ 丹は空き家から離れ、畦道をゆっくり歩いて橋へ向かう。途中、青い空からぽたりぽたり雨が降ってきた。丹は、返しそびれた田西のビニール傘をさした。
‌ 橋まで歩くと丹は立ち止まり、鞄から新品のスマホを取り出し、RAINの隣にある雲のようなマークをタップした。待ち受け画面に現れたアイコンは始め曇っていたが、すぐに晴れた。データの引き継ぎを行っていなかったため、インストールされたばかりのRAINを開いても友達もグループもなにもない。
‌ あの土砂降りの日に(おび)えていた来週は、再来週となり普段通りにやってきた。例の友人とは少し距離ができたが、一人で日々を(おう)()する同級生も意外に多いことがわかり、特に学校生活において困ることはなかった。
‌ 丹はスマホを鞄の奥にしまい込み、防護柵に軽く体重を乗せ川を覗いた。川の水深は浅く、真っ黒な鯉が数匹流れに逆らって泳いでいる。
‌「スマホで良かったよ」
‌ 丹は独り言を吐いた後、静かに目を閉じ、耳を澄ました。自分の呼吸と雨音と、それから重たい水しぶきの音が聞こえる。
‌ 丹は、目を開き真っ直ぐ川下を見つめ、両手に抱えていた小さな(しょく)(ざい)をそっと川へ落とした。花束はぽたりと川に飛び込むと、川下に向かって流れてゆく。
‌ 花束に添えられたメッセージカードには、「ありがとう」とだけ書かれてあった。

‌【おわり】