【入選】銀河鉄道の夜を読んで(著:藤紘)

 職員室を出た瞬間、()だるような熱気に襲われる。まっさらな作文用紙をひらつかせ、()(とう)は汗ばんだ(ぼう)()(あたま)をかいた。‌
 読書感想文なんて何の為にあるのだろう。‌
 夏休み前、府大会の三回戦進出が決まった。しかも二年の自分もレギュラー番号をもらえて。はっきり言って今は、とうの昔に誰かが解いといてくれた公式の証明だとか、レ点のルールどころではないのに、大会があるからという理由で野球部は宿題の一部を前倒しで提出させられることになった。‌
 疑問も不満も色々あるが、()(もん)が言えば、首を縦にのみ振るのが体育会の(おきて)。‌
 ワーク類は試合に劣らぬチームワークで得意教科を写し合い、美術の絵の課題は、行ってもいない青い海と咲いてもない(いびつ)なひまわりを5分で描き(なぐ)った。もちろん読書感想文だってちゃんと提出した。去年と同じものを。‌
 告白すると、伊東は小学二年生の時から〝ごんぎつねを読んで〟を今日まで使いまわし続けてきた。きつねも(ひょう)(じゅう)も気の毒なことに毎年変わりはないし、担任は毎年変わる。だから、幼少期に読んだ時とは違う発見があったとでも書き加えておけば今年も乗り切れると思っていたのだが。‌
 再提出用に渡された作文用紙を(かばん)へ雑に突っ込んで、伊東は部活終わりの重い体を図書室へと向けた。‌

 渡り(ろう)()の先は、エアコンもないのに少しひんやりしていた。入口のカウンターに当番らしき学生が涼しい顔で座っている。‌
 見覚えのある顔だった。確か一年で同じクラスで四月の始めの方は少しは話したような気もするが、名前までは思い出せない。(まった)く日に焼けていない青白い肌から運動部ではないことだけは分かった。‌
 どうやらそれは向こうも同じようで、一瞬こちらを見ると、すぐにまた目線を落とし、静かにページをめくった。伊東も無言のまま本棚(ほんだな)へと進む。が、(せい)(ぜん)と並ぶ背表紙をいくら眺めても、どれも手を伸ばす気にはなれなかった。‌
 伊東にとって、読書は面白いとか面白くない以前にはっきり言って苦痛でしかない。‌
 豆粒みたいな文字の()(れつ)を読み続けるという作業自体はもちろん、登場人物や風景などをいちいち頭の中で想像するのが何より面倒くさい。‌
 映画の原作ものというなら、絶対映画の方を見る。二時間もすれば勝手に終わってくれて楽だし、ずっと分かりやすい。‌
 そこでふと名案を思いついた。‌
「なあ、この本読んだことある?」‌
 カウンターに近づいて分厚いハードカバーを差し出すと、図書当番の肩が大きく跳ねた。‌
「え、僕?」‌
 驚いた顔と同時に上がった手元の本には(さん)()(ろう)という表題と誰でも知っている元千円札の文豪の名が仰々(ぎょうぎょう)しく書いていて、互いに名前も思い出せない理由が何となく分かった。‌
「えっと、うん。あるよ。面白いよね。」‌
 困惑の(にじ)んだぎこちない返答が返ってくるや(いな)や、‌
「これさ、映画と話おんなじやった?」‌
 と伊東は矢継(やつ)(ばや)に訊ねる。‌
「ほら、たまに原作と変わってるやつとかあるやんか。」‌
「あ、ごめん。僕、映画はみてなくて」‌
 図書当番は気まずそうに(まゆ)を下げた。‌
「まじか。あんな流行(はや)ってたんに。」‌
 ()(らく)(あふ)れたこの時代にわざわざ文学なんぞ読む奴に流行りというのも(こく)なのだろうか。‌
「じゃあさ俺、映画の内容言うから合ってるか確かめてくれん?」‌
「別に、いいけど。」‌
 戸惑いながらも了承した図書委員に、伊東は映画の内容を順を追って話し出した。‌
 しかし、なぜだか一向に話は()み合わない。仕方がなく原作の内容も話すよう促した結果、信じがたいことに両者の物語は登場人物の名前くらいしか一致していないことが判明した。‌
「あかん。受け入れられへん。逆になんで同じタイトルにする必要があったんや。」‌
「借りる?」‌
 恐る恐る聞く図書当番に伊東は首を振った。‌
「ちょっと考える。」‌
 あまりの違いに抵抗を覚えつつも図書員が簡潔に語った物語にも、(がら)にもなく(わず)かに興味をそそられた。しかしながら、カップ麺の重みくらいには十分なりそうな本の厚みと黒が圧勝したオセロのように敷き詰められたページを前にするとやっぱり尻込みしてしまう。‌
「なあ。」‌
 再び伊東が話しかけた時、図書員はもう会話は終了したと判断したのか、また読書を再開していた。黒々とした眼球が静かに文字を追っては、時折ニヤリと不気味に笑った。‌
 呼びかけに困って、(うわ)()きで名前を確認しようとカウンターを(のぞ)き込みかけ、目が合う。‌
「読書感想文ってもう書いた?」‌
 気まずくて、(とっ)()に話を振ると‌
「ううん。まだ途中。」‌
 と図書委員も気まずげな愛想笑いを浮かべた。‌
「何で書いてん?」‌
(ぎん)()(てつ)(どう)(よる)。」‌
 へー。と伊東は単調に相槌(あいづち)を打ったものの、心の内では、舌打ちし、(つば)を吐き、激しく()()った。‌
 大の読書嫌いの伊東ですらその本は、母親が名作を読めとあんまり(うるさ)いので、かつて渋々読んだことがある。確かに最後のオチにはそこそこのインパクトはあったものの、途中の鳥捕りじーさんや十字架のくだりに何の意味があるのか全く分からない。‌
 そもそも、親友と表現するには明らかに関係の薄そうなただのクラスメイトにどこまでも付いて行こうなどという神経が到底理解できそうにない。死に物狂いの読了後、そう母親に食って掛かれば、文学とはそういうものや。とあっさり片付けられた。‌
 以来、伊東は世の名作なんて、本当は皆ただ()(たら)()にいいと言ってるだけではないかと密かに疑念を抱いている。‌
 もう長年の付き合いになるごんぎつねにしたって、母親の死に目に食べさせたかった(うなぎ)を子狐に逃がされた挙げ句、撃ち殺してからそう悪い奴でもなかったと暴力的に悟らされる兵十に気の毒ということ以外一体何を見いだせというのだろう。‌
「なんかもう楽できるようなん知らん? ぱぱっと終わらせられるような。」‌
「読むのが? 書くのが?」‌
「どっちも。」‌
 図書員の問いに伊東は溜息交じりに応えた。‌
「やけど、顧問からは、ちゃんと自分の人生とか受験の為になる本で書いてこいって言われててさ。」‌
「ためになる本。」‌
 呆然(ぼうぜん)とオウム返しされたので、‌
「知らんけど、多分そういうのちゃう。」‌
 そう手元の千円文豪様を指すと、図書員は拍子抜けしたように目を丸くしてから、‌
「多分これはそういうのじゃないよ。」‌
 と曖昧(あいまい)に笑った。‌
「要は、先生受けがよさそうな作品ってことやよね?」‌
「そうそう。」伊東は力強く(うなず)く。‌
「なおかつ、気力と労力はなるだけ抑えたいとこやな。」‌
 うーん。と図書員は悩ましげに(うな)()れてから、‌
「教科書は?」と意外な提案をした。‌
「は?」‌
「教科書の話やったら絶対一回読んだことあるし、授業で習ったこと書いたら作文なんてすぐ埋まるんちゃうかな。」‌
 確かに。それなら、読みたくもない長文を読まずに済むし、一年の時のノートもまだ家に残している。読むのも書くのも楽そうだ。しかし。‌
「でもなんかダサない?」‌
「だ、ださい?」‌
「なんかカッコ悪いやん。うわ、こいつ習ったことそのまま書いてきてやんのって。」‌
 へへへっ。と図書当番が声を上げて笑った。予想外のツボに、思わず顔を見つめると、途端に図書員は取りなすように咳払(せきばら)いした。‌
「教科書が嫌やったら、これとかいいんやないかな。」‌
 返却ワゴンから一冊取り出される。表紙には〝わかりやすい(ろん)()〟と書かれていた。‌
「自分ふざけてる?」‌
「へ?」‌
「だって、これあれやん。社会科の授業でやった。」‌
「そうそう、()(いわ)くの。」‌
「なーにが、シイワクやねん。物語ちゃうやん。どうやって感想文なんて書くねん。」‌
 伊東の()(とう)の抗議にも、「大丈夫やよ。」と図書員は軽く請け合う。‌
「共感できそうな一文だけ選んで、後は適当に自分の思ったことを足せば、感想文くらいすぐ終わると思うよ。」‌
「ええー。」‌
 半信半疑にページを(めく)ってみる。項目ごとに抜粋(ばっすい)された漢文と短い解説が載っており、確かに読むにも写すにも楽そうではある。‌
「でも俺、教訓とかあんま好きやないんよな。絵に描いた(もち)って感じで。」‌
 ふいに(こぼ)した愚痴(ぐち)に、意外にも図書員が「僕も。」と笑った。‌
「やんな。こんなん言葉通りにいけば苦労せんわって感じよな。」‌
 思わぬ共感に嬉しくなって伊東が言えば、‌
「そうやね。」と図書当番も穏やかに(うなず)いてから、‌
「けど、きっとかがみもちみたいなもんなんちゃうんかな。」‌
 そう言って、先の丸い鉛筆と真新しい図書カードが差し出された。‌

 その日の夜、伊東は重たい(まぶた)をなんとか起こし、パラパラと(こう)()の教えを読み飛ばしてみた。‌
〝子曰く、(ふる)きを(たず)ね、新しきを知る〟‌
〝子曰く、遠き(おもんぱか)り無ければ、必ず近き(うれ)い有り。〟‌
 漢文と解説文を流し見る。そう言葉通りにはいかないから苦労するのだと悪態をつきつつ、助言通りに、教科書に載っていた論語の歴史と、有り難い教えを丸写ししていく。原稿用紙の半分ほど字数を(かせ)げたところで、続けて自分の経験を重ねて書いていく。‌
 野球をしてて、(くや)しかったこと嬉しかったこと。いざ書き出してみれば、マス目はみるみる埋まっていった。‌
 しかし、もう書き切るという時になって、突然ふと、この気持ちを悔しいとか嬉しいなどで示してしまうことに伊東は(わず)かな抵抗を覚えた。‌
 生まれてこの方、日本語だけを親しんできたつもりだったが、言葉にするというのは案外難しいものなんだと少し不思議な感じがした。‌
 数日たってから、顧問に提出すると表題にちょっと驚いた後、行数が埋まったことをしきりに()めていた。‌
〝子曰く、(じん)に当たりては、師も(ゆず)らず〟‌
 ()(しょう)に言われるがままではいけない。できることなら誰だってそうしたい。結局はどれも()(じょう)の空論なのだと思う一方で、感想文を書き終えた今もパラパラとなんとなくページをめくってしまう自分もいた。‌
〝明知不可而為之〟‌
 意:子曰くは理想的やけど無理やろが。‌
 孔子バリバリの現役(げんえき)時代の、2500年前の人も似たようなことを考えていたのだと思うとなんだか少しほっとした。‌
「かがみもち。」‌
 いつかの誰かが言った言葉を伊東はぼんやりと(つぶや)いてみる。‌
 変な奴だから、〝お飾り〟と妙な言い回しをしているのかと思っていた。だけど、読み進める内、そこにあることに意味がある。そういうこともあるのかもしれないなんて思ったりもしている。‌
 少なくとも伊東には、その餅がなくては年が越せないような、そんな気もした。‌
 ‌
 グラウンドに(つち)(ぼこり)が舞っている。夏休みが明ける前に、大会が終わった。‌
 試合中には気にも留めなかったのに、びっしょりと背中に張り付いた汗や、いつまでも整わない乱れた息が、今は全部、鬱陶(うっとう)しくてしかたがなかった。‌
 今日の試合を母親は仕事を休み、妹を連れ応援に来てくれていた。‌
 感想文なんて書く前から、言葉にしたくないというあの感覚は、自分の中にずっとあったのだと伊東はようやく気づいた。‌
 勝ちたくて必死で振って、走って。それでも負けた試合の後、スタンドに行くこの感じ。例えばこれを〝惨め〟とかそんな言葉で片付けられては溜まらない。‌
 図星だからなのだろうか。でも、それならばまだ〝火曜のプール後の六限〟のあの感じの方がまだずっとしっくりくる気がしたし、やっぱり全然ちっとも違うような気もした。‌
 肩にかけたエナメルバッグがずっしりと重い。無意味に染み込んだ泥まみれのユニフォームを思うと、まだ家には帰りたくなかった。‌
 扉を開けると、図書室のカウンターには誰もいなかった。‌
 好都合だと伊東は窓側の席に腰掛けて、木目の机に顔を伏せた。‌
 生温かい風がゆっくりと吹いてくる。グラウンドで走るどこかの運動部のかけ声がぼんやりと遠くに聞こえた。‌
 目を(つむ)って、小さく息を吐くと、カタカタと金属の擦れるような音が耳を(かす)めた。‌
 近づけば、本棚の奥に長い影が伸びている。脚立(きゃたつ)の一番上で、いつかの図書委員が本棚の整理をしていた。片面の足場にはぎっしりと本が乗っていて、見るからにバランスが悪く、青白い腕が本棚へ伸びるたび、カタカタと不安定に床を鳴らした。‌
「あ、」‌
 と互いに声が上がった時には、脚立がぐらりと揺れて、伊東は慌てて足下を支えた。‌
「あ、ありがとう。」‌
「横着すんなよ〝注意一秒怪我(けが)一生〟やぞ。」‌
 練習のたびいつもコーチが(くち)(うるさ)く言う言葉が(とっ)()に出てきて、自分で自分に少し驚く。‌
「俺、代わるわ。お前なんか危なっかしい。」‌
 散らばった本を拾いあげ、見上げると、すっと白い手が延びてきて、坊主頭をそっと()でた。パラパラと砂埃が床に落ちる。‌
「あ、ごめん。なるだけ払ってきたつもりやってんやけど。」‌
「今日はもう部活終わり?」‌
 一段ずつ足場を慎重に下りながら、図書員が訊いた。‌
「そう、今日は試合やったから。」‌
 つい馬鹿正直に答えてから、勝敗を聞かれたら嫌だなと後悔したが、生憎(あいにく)相手はそれどころではないようで、慎重な足取りで踏み台を降りながら、ただ「そっか。」とだけ気もそぞろに言うのでほっとした。‌
 ようやく両足が床に着いた途端、かすかに石けんの(にお)いが鼻を掠め、はたと伊東は我に返る。‌
「俺、汗(くさ)ない?」‌
 着替えはしたものの途端に不安になって訊ねれば、図書当番はすんっと鼻を鳴らしてから、‌
「僕結構な鼻炎もちやから。」‌
 となぜか自信気に笑った。‌
「図書当番って大変なんやな。夏休みにこんなことやらされて。」‌
 立ち位置を交代し、伊東は地上から手渡された返却図書を背表紙のシールと合わせ本棚に戻していく。‌
「うーん、まあ家でもここでも本読んでるだけだし。」‌
「今もなんか読んでるん?」‌
「シャーロックホームズの冒険。」‌
「へー。」‌
 不思議と以前のように鼻には付かなかった。‌
 こいつは(ぞく)に言う、本の虫という奴なのだろう。自分はとてもなれそうにないし、特段なりたいとも思わないが、とにかくこいつはそうなのだとなんとなく今はすんなり思えた。‌
「なあ、ごんぎつね読んだことある?」‌
 本を差し込みながら、伊東はふいに訊ねた。‌
「鰻と栗の?」‌
「そう。お前だったのか、の。」‌
「そりゃ読んだことはあるけど、」‌
 図書当番は意味ありげに間をあけた。‌
「でも僕、実写は観てなくて。」‌
「いや、そんな実写俺も見たないわ。」‌
 即座に突っ込めば、へへへと本の虫が小さく笑った。‌
 自分より幾分か小さい足には上履きでなく、なぜか来客用のスリッパを履いていて、今日も名前は分からない。だけど今は、この距離感が案外心地よくも思えた。‌
「あれってさ、何を伝えたかったんやと思う?」‌
 名前も知らない相手に伊東はふいに訊ねてみたくなった。‌
「え?」‌
「悪い事をしたらどれだけ償おうとしても、もう取り返しがつかんとか。そういうことなんかな?」‌
 鰯を()ってこようと、山の(さち)を取ってこようと、あの日の鰻は決して返ってこない。‌
「先生にさ、いつまでもきつねが()(わい)(そう)っていうだけじゃ、ちょっと幼いんちゃうかって言われてさ。」‌
 作文の再利用に対しての注意の際、付け足すように顧問は言った。(とし)を重ねる内、身勝手な自己()(せい)に振り回される男が気の毒でならない。と。お前は純粋でいいな。と。‌
 腹は別に立たなかった。ただ、大人になるとはそういうものなのかと、ぼんやりと頭に染みていく感じがした。‌
 伊東が〝ごんぎつねを読んで〟を初めて書いた小一の時、読書感想文は何のために書くのかとか、物語の教訓が何かとか考えることもなく、思うがままに文字を追い、作文用紙は悲しいと(つら)いという言葉でいっぱいになった。‌
 毎年、漢字や小難しい言葉に書き換えても、新たな発見というフレーズを取ってつけてみても、結局あの時から何も変わっていない。‌
「でも俺、どんだけ考えてもさ。やっぱ可哀想以外に何も思われへんねんな。」‌
 伊東がぼんやりと呟くと、下から本を差し出す手が止まった。‌
「僕はあの話に教訓があるやんとするなら、」‌
 図書委員がゆっくりと口を開く。伊東はただじっと続く言葉を待った。‌
「やっぱ鰻の(かご)は、野生動物の手の届かんとこに置こう。ってことやと思う。」‌
「え、」‌
「ほら、洗剤とかでもお子様の手の届かない場所で保管してください。て書いてあるし。」‌
「ええ。」‌
 まじ? と思わず顔を見つめれば、まじまじ。と図書員は舌っ足らずに答えた。‌
 拍子抜けする伊東を前に図書員は微笑(ほほえ)み、繊細な指で背表紙をゆっくりと()でた。‌
「でも一番初めに読んだ時は、殺すっていうよくないことをした兵十が悪者みたいにも思ったんだ。」‌
 意外だった。コイツのことなら、てっきりごんの孤独がどうとか、償いの在り方とかそんな小難しいことでも考えるのだろうとなんとなく思っていた。名前も(ろく)に知らぬ奴相手にそんな勝手な期待をいつの間にか抱いていた。‌
「だけど、どこかでずっとモヤモヤしてて、中学入ってからまた読み返してみたんだ。」‌
「おお。それで?」‌
 再び高まる期待にも、図書員は平然と続けた。‌
「まあ狐なんやから、鰻にちょっかいを出すこともあるだろうと。」‌
「結局それかい。」‌
 同じタイトルの小説と映画で話が変わっていた衝撃とはわけが違う。同じ言葉を、同じ物語を読んでこんなにも違ってしまうことに少し怖いような、笑ってしまいそうな、そんな妙な気持ちがした。‌
 続きを受け取ろうと首だけ振り返ると、宮園は何か思い詰めたように顔を(こわ)()らせていた。唇は震え、小さく息を吸い込む。‌
「やから、伊東くんがそう思ったなら、それでいいんちゃうかな。」‌
 差し出された本を後ろ手に受け取る。背表紙の厚みを(てのひら)に感じながら、ただ、うん。とだけ伊東は頷いた。‌
 返却図書を仕舞い終え、ずっしりと重いエナメルバッグを伊東は再び肩にかけた。‌
 図書当番はついさっきまで「ありがとう。」とか「助かった。」とかしつこいくらいに繰り返していたくせに、扉から出る間際になって、ただ「おつかれさま。」とだけ静かに言った。‌
 手伝ったことへなのか、何に対してか、あいつは何も言わなかったし、伊東も何も聞かなかった。‌
 それから少し経った部活終わりに、また図書室に向かった。楽するためだけに借りたはずの孔子の教えを結局はほとんど読み切ってしまった。‌
 カウンターには女子の当番がいた。図書室に生息している生物でもあるまいし、本を返しに来ただけなのだから別に何の問題もない。‌
 少しは軽くなったエナメルバッグから、本を取り出す。一行だけ埋まった伊東の図書カードに返却判子が初めて押される。‌
 ふと積み重なった返却ワゴンの中に、三四郎という文字が目に入った。‌
 にやりと不気味に笑った顔が頭を(よぎ)って、なんとなく、ただなんとなく貸し出しカードにまた自分の名前を書いていた。‌
 秋が近づいてきたホームルーム終わり、夏休みの絵画の課題で賞を取ったとかで、美術部の奴が先生から起立を促されていた。明日の朝礼では表彰されるらしい。‌
 クラス中から拍手を受けても、当の受賞者はぴくりとも表情を変えず平然としていた。本当にどうでもいいのか、それとも湧き上がるような喜びをひた隠しているのか伊東にはよく分からなかった。‌
 配られた学級通信には、白黒印刷で少し潰れてはいたが、繊細なひまわりが小さく咲いていて純粋にすごいと思った。‌
 隣のサッカー部が煩いくらい響いた拍手をしてからプリントを机へ雑に突っ込んだ。伊東だっていつもそうしてきた。誰が賞を取ったとか、仲のいい友達であっても今まで大して気に留めた記憶がない。‌
 だから、バスケ部優勝の横でおまけ程度に書かれた野球部二回戦突破の文字なんて、どうせ誰も気にしていないのだと必死に自分に言い聞かせる。‌
 ダラダラと終わる気配のない連絡事項の間、伊東は気休めにプリントを眺めてみた。部としてまとめられる活動報告と違って、夏休み課題など個人表彰の(らん)は、作品と一緒に学年とフルネームの名前が載っている。‌
 達筆な書道の下には、パソコンで打ち直された作文が長々と載っている。文字は豆みたいに小さく、印刷の加減で(じゃっ)(かん)潰れてもいた。これで読めという方が無理があると苦笑いしかけ、ぴたりと目が止まる。表題には〝銀河鉄道の夜を読んで〟とあった。‌
「はよ部活行くで」‌
 気づけばホームルームは終わっていて、チームメートが()かすように立っていた。(きょう)(だん)の上の時計を(あお)ぎ見ると針が一気に進んでいる。急いでプリントを(かばん)に突っ込みかけ、慌てて伊東は手を止めた。‌
 机の中を(いじ)り、鞄の中を()き回してみるが、クリアファイルなんて下敷きと同様にここ数年持ち合わせていた記憶がない。仕方がないので、机の奥底から一番デカい美術の便覧(びんらん)を引っ張りだして、押し花のように真ん中のページに挟んでからエナメルバッグへそっとしまった。‌
 教室を出て、ぞろぞろとチームメートと部室に向かう途中、向かいから青白い顔の学生が歩いてくるのが見えた。‌
 一瞬目が合ったのに図書当番はこの夏のことなど何もなかったように通り過ぎていく。‌
「おめでと。」‌
 少し離れた後ろ姿に声をかけると本の虫〝(みや)(ぞの)(あきら)〟は小さく肩を跳ねさせて、ゆっくりと振り返った。‌
「作文読んだで。なんかよかった。」‌
「あ、ありがとう。」‌
 チームメートに先に行くよう促して、伊東は少しだけ歩み寄る。‌
「あと、作文手伝ってくれてありがとうな。ほんま助かったわ。」‌
「そんな、僕は何も。」‌
 宮園が弱く首を振ると、いつかのようにまた思い詰めたような顔をして息を吸い込んだ。‌
「伊東くんもおめでとう。」‌
「は?」‌
「その、二回戦突破。」‌
 悪意なき(まな)()しに全身の力が一気に抜ける。‌
「おめでとちゃうわ。三回戦負けとかほんまダサいわ。」‌
「え、そうなの?」‌
 宮園が分かりやすく狼狽(うろた)える。二回戦で止まった成績結果が、次の負けを意味することくらい、こいつなら読み取れそうなものなのに。別に気にしなくていいから。と笑って返しかけた時、‌
「でも、やっぱりすごいよ。」‌
 宮園は少しも悪びれることなく言った。‌
 言葉が(のど)まで上がってこなかった。今、声を発すると息が震えてしまいそうな感じがして、伊東は「うん。」とだけ小さく応えた。‌
「宮園は、小説とか書いたらええのに。俺でもちゃんと読めそうや。」‌
 その瞬間、宮園彰の顔が(わず)かに(こわ)()るのを見て、すぐに後悔した。自分だって、大して野球に詳しくもなければ、まして友達と言える程も親しくもない奴にあれこれ言われれば、それなりにカチンとくる。‌
「いや、その、ほんまに面白かったから。」‌
 ホームルームが終わったのも気づかず、あの豆みたいな文字の()(れつ)を夢中で読んでいた。‌
 あの本がもう一度読みたい。それをどう伝えればいいのか伊東には分からなかった。‌
「書いたのは宮沢(みやざわ)さんやよ。」‌
 やけに神妙な口ぶりで宮園が言った。‌
「いや、俺もそんくらい知ってるわ。」‌
 すかさず突っ込めば、本の虫は顔を(ほころ)ばせ、へへへっと小さく鳴いた。‌
 意外とくだらない話が好きなこと、よく笑うことを伊東は知っている。だけど、宮園彰が100メートル走を何秒で走るのか伊東は知らない。勉強はやっぱり得意なのか、教室でクラスメートとはどんな話をするのか、伊東は何も知らない。‌
「伊東くん。」‌
 宮園が自分を呼ぶ。この声はいつから自分の名前を呼んでいたのかと今更気づいた。声の元を真っ直ぐ見つめる。図書当番は唇を震わせ、また小さく息を吸った。‌
「ありがとう。」‌
 伊東は少し迷ってから、やっぱり「うん。」とだけ言葉を返した。‌
 僅かに沈黙が流れ、じゃあ。と宮園が離れていく。伊東も片手で応じて、しばらくの間、渡り(ろう)()の先を見つめた。‌
 鳥捕りの正体や、銀河の秘密が分かっても、行き先も分らぬ乗り合わせた列車で、どこまでも一緒にあろうとした少年たちのことは、伊東にはやっぱりよく分からない。‌
 だけど同じように、どうして自分は、あの図書当番の名前を知ろうとしなかったのか、伊東にはもうよく分からなくなっていた。‌
「なあ! 今日図書室おる?」‌
 呼びかけに、宮園は再び足を止め、うん。と不思議そうに首を(ひね)る。‌
「当番やから。」‌
「部活終わってからやけど、俺今日行くわ。返さなあかん本あって。」‌
 あれから毎日、三四郎を少しずつ読んでいる。文字を追うことにも少し慣れてきた。‌
 どうやら図書当番殿の言うとおり、世の名作と呼ばれるものも、必ずしも教訓や教養だとかを得るためではないらしく、ただ面白いから読む。今はそれが楽しかった。‌
「返却やったら、僕が今返しとくよ。」‌
 差し出された白い手に伊東は弱く首を振る。‌
「ちゃうねん。そうやなくて、」‌
 もし、感想文を小学校から使い回しなんてせず、下手(へた)なりに作文用紙と向き合っていれば、こういう時、必要な言葉はちゃんと口からでてきたのだろうか。‌
 プール後の()(だる)さや、火曜の五限のあの感覚を伊東はうまく言葉にできない。宮園にはそういうことはないのだろうか。‌
 なんだか途端に気恥ずかしくなって、伊東は汗ばんだ坊主頭を弱く搔いた。‌
「なんか面白い本教えてくれん?」‌

【おわり】