【最終選考作品】世界一サイダーが美味い夏(著:風見鈴)
夏は透明だ。どの季節よりも透き通っている。
エアコンの涼しい風も透明だし、カーテンを開ければ、窓ガラスは曇ることなく青空を映しだす。だから透明だ。冬が白、春が桜のような淡いピンク、秋が枯葉の色だとしたら、夏は絶対に透明なのだ。
だというのに私は、ギンギラギンに照り付ける太陽のもと、真っ黒なリクルートスーツを着て突っ立っている。ついでに暑苦しいストッキングに足を締め付けられて。直射日光にさらされて、それでも動けなかったのは、履きなれないパンプスで外反母趾が痛むからではない。記念すべき三十通目のお祈りメールを、ちょうど開いてしまったからだ。熱されたアスファルトの上で、信号待ちをしていたときだった。
真昼の東京駅前、美しいコンクリートジャングルのど真ん中で、がっくりと肩を落とす。ごちゃごちゃしたビル群は、しかし確かな秩序をもって並び、日の光を反射して輝いている。街はただ整然とそこにあって、止まることなく動き続けているのに、私の足は靴裏と地面が接着剤でくっついているかのように動かなかった。気付けば信号が二回目の赤に変わっている。
「帰ろう……」
汗と疲れがどっと噴き出す。重い足を地面からべりべりと剥がしたら、ふと先日、就活コンサルタントと面談したときのことを思い出した。
「なんでもいいのよ、自己PRなんて。大学だけじゃない、中学とか高校とかでやってきたこと、ないの? 部活とかなんでも」
「中高は、帰宅部でして……。図書室で本を読んで帰るのが楽しくて、部活に入ろうと思ったことはないんです」
「習い事とかは?」
「小学四年生まで水泳とピアノをしてましたけど……。平泳ぎまでしかできないし、楽譜はまったく読めません……」
「そうねえ……でも何か頑張ったエピソードとか、あるでしょう? サークルでみんなのまとめ役だったとか。ゼミで結果を出したとか」
「ええと、ううん……」
「じゃあなんでもいいから、自分の良いところはないの?」
「いいところ……そうですね……」
必死で頭を回転させる。私が人より優れてるところなんて、目つきが悪くて人除けになるところしか思いつかない。言葉に詰まっていると、眼鏡をかけたおばさんは、わざとらしくため息をつき、「もういいわ」と言った。
「あなたって、なんにもないのね」
ペットボトルのサイダーを飲もうとして、それが空っぽだったことを思いだす。ゴミ箱を探したが近くにない。しかたなく鞄にしまいなおして、八重洲方面の改札に向かって歩いた。
「だとしても最終面接で落とされるって……そんなことあります?」
ようやくレジの列が途切れ、「レジ停止中」のパネルを、万波さんがレジ台に置いたとき。そんな泣き言が、私の口から漏れた。
「カナさんならすぐ決まりますよ」
「もういいんです。私、夏休みに突入しましたので。しばらくは就活、お休みです。嘘ついて必死でいい子ぶって、そんなのもうやってられませんよ」
「でも、そのおかげでバイトに多く入ってきてくれるのは、こっちとしてはすごくありがたいんですけどねえ」
万波さんは、じめじめした私の愚痴を一瞬で乾かしてしまうように、からっとした声で言った。わざとなぐさめさせてしまったようで、少しばつが悪くなる。
やることがないから、こうやって毎日のようにバイトに入っていた。家でだらだらしていると母の視線が痛いのだ。友人たちはすでに複数の内定をもらい、悠々自適にモラトリアムを謳歌するなか、私は羽虫のようにつきまとう焦りから抜け出せずにいる。
五月あたりまではみな、他人の内定状況にいちいちピリピリして、話題に出すのも探り探りだったのに。いまや梅雨明けと共に、ほとんどが晴れやかな顔で就活を終えての総括をそこかしこで話すようになった。この時期にまだ内定のない学生なんて、腫れ物扱い以外の何物でもない。
だから必死だった。季節が春から初夏を経て、本格的な夏が見えてきたころになっても、藁をもすがる思いでセミナーを受けまくった。だけど就活メイク講座なんてものを受講した際、勤続二十年のベテランCAみたいな雰囲気の講師が、
「アイラインは控えめに! あまり長く、濃くしすぎると派手に見えます。また、シャドウはラメやパールの入っているものは避けましょう。多少ならいいですが、キラキラしすぎるとビジネスにはふさわしくありません」
とか言いだした瞬間、すべてがバカらしくなった。だから就活を辞めた。プチン、と糸が切れた気がした。なんだよそれ。面接官に、「うーん、この子はアイラインが二ミリほど長いねえ」とか、「おや、アイシャドウの色がずいぶん明るいぞ。もっと細かいラメの方がビジネスの場にはふさわしいんだけどなあ」とか思われんのか。んなわけねえだろ。別にギャルメイクするわけじゃないんだからさ。
それをそのまま言ったら、万波さんがけたけたと笑ってくれたので、多少溜飲が下がる。メイク好きの万波さんからしたら、そういう講座なんて笑っちゃうだろうなと思う。万波さんは美人だ。隣に立つと、彼女の華奢さがよくわかる。白いシャツの上からしたえんじ色のエプロン。ウエストが細すぎて、リボン結びの下の部分が、他のみんなよりずっと長い。私はせめて身だしなみだけはちゃんとしようと、頭の三角巾を、前髪が出ていないかどうか触ってチェックした。
「そうだ、カナさん休憩どうぞ。昨日の三便のお弁当、冷蔵庫に入ってますから」
そうやってウインクしてくれるところも。人から好かれるゆえんなのだと思う。私は時計を見、いつもの休憩時間には十分ほど早いのを確認した。それから努めて明るい声で、「お先に二番いただきます」と言って、すごすごとバックヤードに戻った。
「あの子、まだ内定貰ってないらしいわよ」
従業員用の冷蔵庫の中から廃棄の弁当を取りだし、そのまま休憩室に入ろうとしたとき。換気対策で開けっ放しになっていたドアの中から、そんな声が聞こえてきた。
少し高めの早口は、いやというほど聞き覚えがある。パートの和田さんだ。うちじゃあ一番の古株で、お局さん的な存在。最初から馬が合わなかった。仕事はさくさくこなすひとだから、どんくさい私は格好のターゲットだったのかもしれない。
「こんな売り手市場で、八月になっても内定貰えないって相当よ。うちの息子なんて、五月には二社貰ってたわ」
「あらそうなの? ただ納得いくまでやってるだけじゃない? あの子、完璧主義みたいなとこあるし」
「偏屈なのよ。理屈っぽいっていうか。この前、まーた加藤さんにうまく対応できてなくて。もっと柔軟になってくれないと困るのよ」
休憩所の入り口の壁に、『私語は控えめに!』という標語が、ラミネート加工されて貼られている。四隅のセロテープはすでに色あせて、縁にホコリが溜まって黒くなっていた。
一度大きく息を吸う。逃げたら負けな気がして、堂々と部屋に入った。心臓は痛いほど鳴っていたけれど。
「お疲れさまです」
入るなり、わざと目を見て言ってやった。うわやべ、みたいな顔をした和田さんと、申し訳なさそうに下を向くもう一人のパートさんの脇を通り過ぎる。鮭の塩こうじ焼き弁当を電子レンジに突っ込み、500wで二分セットして、窓際のテーブルに座った。
「そういえば、万波ちゃんの送別会、八月末で調整してるらしいよ」
和田さんの向かいに座っているパートさんが、スムーズに話題を変え、和田さんもそれに乗った。
「聞いたわよ。もう、三年で異動なんてやっぱ早すぎるわよ」
「でもそんなもんじゃない? むしろ長い方だと思うけど」
「万波ちゃんがいなくなるのは痛いわ~。言わなくても何かを察せる子って、今なかなかいないからねえ」
電子音が鳴るほんの手前で電子レンジを止め、アツアツの弁当を取りだす。熱ですこし変形してしまった。耐熱ではない、冷たい弁当は温め加減が難しい。短すぎると米の芯が冷えたままで美味しくないし、しっかり温めようとすると容器が歪んでしまう。
「いただきます」
湯気をふうふうと吹きながら、まずは煮物をひとくち。
「それでさ、万波ちゃんへのプレゼントだけど」
「いつもみたいにお菓子でしょ? 何がいいかしらね、やっぱ甘いものかなあ」
「いや、それでちょっと考えがあって」
和田さんが身を乗りだしたのを、背中で感じる。
「せっかくだからちょっとよさげな財布とか、どうかしら。ほら、昨日これ見つけて、いいなあと思って。サマンサの」
むせそうになった。サマンサの財布? なんで? ただの異動だぞ? 退職じゃねえぞ? 私は白米と鮭の切り身を、胸を叩いて飲み込む。
「え、財布? しかもブランドもの?」
「ほら、このピンクの。万波ちゃんに似合うと思わない?」
「そうねえ……、まあ、似合うとは思うけど」
パートさんは少し困ったふうな雰囲気を醸し出しつつ、否定はしないというずるい方法を取った。
「ねえ、原田さん。どう思う?」
煮え切らない態度に、矛先を急に向けられた。つり上がった細い眉毛が、拒むことは許さないと言っている。
「お菓子が良いと思います」と素直に言えるわけもなく、私は「いいんじゃないですか」と言った。それは事実上の、私の敗北だった。
「だーかーらー。から揚げ、なんで置いてないのかって聞いてんのよ」
「お客様、恐れ入りますが、若鳥の唐揚げは午後三時には新しいものが並びますので、どうかそれまでお待ちください」
「ねえ、言ってる意味理解できてる? いつもはこの時間に置いてあるじゃん。なんでないのって聞いてるんだけど」
「それは……今日は想定以上にご好評いただいているようで」
「売り切れなんてあっちゃあいけないでしょうよ。発注ミスだよそれ。わかる? 機会損失。きみたちのためにもならないから言ってるんだよ、もう」
またか。きっかり十分前に売り場に戻ったとたん見えた景色にげんなりする。胃のあたりで、さっき食べた弁当の、おかず同士がケンカするみたいにぎゅるぎゅるした。サービスカウンターでネチネチと騒いでる、ヒョロヒョロした体格のジジイは、この店で知らぬ者はいない悪質クレーマーだ。名前は加藤という。下の名前なんか知るか。年齢は六十くらいで、平日も休日も関係なく現れ、小一時間は店に居座る。なぜかいつもテニスラケットの刺さったリュックを背負っている職業不詳の男を、万波さんと和田さんが交互になだめていた。
「社会で仕事するっていうのはねえ、そんな甘いもんじゃないのよ。ね? もうちょっと頭使わないとさ。女だからって甘えてたらだめだよ」
「ご不快な思いをさせてしまって申し訳ありません」
だがクレーマーは、万波さんの言葉を遮ってヒートアップする。
「あのさあ! そうじゃないでしょ? 売れ行きが読めなかった自分たちの非を認めろよ! 何話すり替えてんの? 感謝しろよ、こんなふうに指摘してあげてるんだから!」
「申し訳ありません、もしよろしければ午後の分からお取り置きいたします。ご連絡先を教えて頂ければ、揚がり次第お電話もさせていただきますが……」
万波さんが困った顔で、ジジイに提案した。すると、また反論しようと口を開けたところで私の存在に気づき、一層顔を険しくした。そう、私は加藤さんの天敵なのだ。それはたぶん、私の目つきが悪く、どんなに詰められてもしてもビビったり泣いたりしないから。できないものはできません。それが毅然とした対応なのか、和田さんのいう通り柔軟性に欠ける対応なのかは場合による。ただ一つ言えるのは、私に対する逆恨みが、こいつのクレーマーぶりを増長させていたことだ。
やがて加藤さんは、「そんなめんどくさいことしてる暇ないよ!」と捨てゼリフを吐いて去って行った。完全に姿が見えなくなったあたりで、二人が大きくため息をつく。
「おとといは餃子の皮が破れてて、先週はサバの味噌煮の骨が喉に刺さって、その前は卵が割れてたんだっけ? あの人も大変ねえ」
和田さんがちいさく嫌味をつく。その点だけは、和田さんに同意だ。万波さんが苦笑したのを見て、私は心の中で舌打ちをする。
加藤さんはいつも、人を選んで因縁をつける。まず狙われるのは若い女性店員だ。絶対に男がいるレジには行かないし、こうやって難癖をつけるときも、チーフなどの男性店員が見当たらないときだけ。仲の良かったアルバイトの女の子も、あいつに怒鳴られて泣いてしまった。さらには店員の至らないところを、だらだらとお客さまアンケートに書いては、週二回は投稿してくる。もしトラブルが起きたら、すぐに上の者を呼ぶようにと言われているが、それを心得ているのか、最近はクレームというよりは、店員に説教を垂れることに楽しみを見出している節があった。
だから、万波さんは格好のターゲットなのだ。何事にも真摯に対応する接客業の鏡。そういうプロ意識につけ込み、ストレスのはけ口にするクレーマー。それがあの男だった。
むかむかした気分のまま二時間ほど、ぶっ続けでレジにいた。気づけば十五時半。あのジジイは来てるだろうかと、ひと段落したタイミングで総菜コーナーに目をやる。すると買い物客の間から、テニスラケットの柄がちらりと見えた。うげえ。
ウロウロウロウロ、一般人とはまったく異なる動線で、フロアを徘徊している。私はため息をついて、その場で指をぽきぽきと鳴らした。
早くも卒業旅行の計画が、イツメンの間で立てられていたことを知ったのは、水分をたっぷり含んだ雲が、どっしりと頭上に居座っている朝だった。
それは『うちパスポート持ってないから、早く作らないとなあ』と友達が口を滑らせたことに始まる。『え、海外行くの?』と返したら、丸三日返信が返ってこなかった。
今朝になってやっと『うん、卒業旅行の計画の話がちょっと出ててさ~。カナも行くよね? また連絡するね!』と返ってきた。ああ、余計な気を使わせてしまったのかと思うと胃がキリキリとする。わかってる、ハブろうとしたわけじゃない。たぶん、すべてタイミングの問題。私がすでに内定をもらっていたら、こんなことは起きていない。それはわかってる。こんな時期になって、内定をもらえない私が悪いのだ。
それでもぶすっとした顔でトーストをかじっていたら、母親が「朝から辛気臭いわねえ」と眉をひそめた。今日は推しの出る歌番組がある。一週間前から楽しみにしていたのに、それを上塗りしてしまうほど憂鬱だったことに、ぼんやりと気づく。私はおかえしにでっかいため息をついて、さっさと家を出てスーパーに向かった。
はっきりしない天気に加え、万波さんが休みの日ということもあり、本日の和田さんの機嫌は三割減だった。いつも以上にピリピリした空気が息苦しい。これで万波さんが異動したら、一体私はどうなってしまうのか。
「原田さん、万波さんのプレゼントだけど、一人二千五百円ね。来週までに持ってきて」
果たして好みでもない財布をもらってうれしいのだろうか。ピンクが好きでなかったらどうするのか? 長財布派ではなく、二つ折り派だったらどうするのか? 勤務先のパートやアルバイトから三万円弱の贈り物を受け取って、万波さんはどう思うだろう。お返しをしなくては、と思うのではないか? それは逆に負担ではないか。使わなくては失礼だと思うのではないか。私ならメルカリ直行コースだが、万波さんはそういう人ではないだろう。
「二千五百円ですね、わかりました」
だが今の和田さんに、そんなことは言えない。のどまで出かかった言葉をごくんと飲み込み、腹の中で必死に抑え込む。エネルギーが腹に溜まりすぎて、そろそろブラックホールが誕生しそうだった。
「雨降ってきたからさ、見切りやってくれない?」
十八時きっかり、忘れ物がないこと、ゴミが落ちていないことも確認し、バックヤードに戻ろうとしたときのことだ。和田さんに投げやりに声をかけられた。
「人出が足りないんですって。あなた、見切りやったことあるわよね? 上がる前にちゃちゃっとやっちゃって」
「……了解です」
見切りというのは、値引きのシールを貼ることだ。20%オフとか30%オフとか半額とか、在庫が多かったり消費が近いなど、売れにくそうなものに貼っていく、これが意外と面倒なのだ。一枚一枚張っていくから時間もかかる。実際売り場に行ったら、ちゃちゃっと終わる量ではなかった。歌番組までに間に合うだろうか。舌打ちをしたい気持ちを、なんとかおさえる。
いや、大丈夫だ。集中したらすぐに終わる。そう言い聞かせてさっさと作業を始めた。端末をいじりながら、総菜コーナーの端からシールを出しては貼っていく。リズムよくぺっぺっと。いい感じだ。このペースならいける。それからは無心で貼り続けた。だが見切りゾーンに入っていた私は、二メートルほど離れたところで、コソコソとおこなわれている行為にすぐには気づけなかった。そしてそいつが、背中にテニスラケットを背負ってることにも。
そっち側を見たのは、右の首筋がかゆくなって、ふと顔をあげ、左の方を向いたから。私は見た。そいつが持っているから揚げのパックに、見切りのシールを貼る瞬間を。
「加藤さま」
反射的に声をかけた。
「な、なんだよ!」
ジジイは虚を突かれたようだが、それをごまかすように初手からキレだした。だが私も負けられない。見てしまった以上、それを知らんぷりはできない。
「から揚げは値引きをしていないはずですが」
「はあ? 何? なんなのお前」
加藤さんを無視して、私は素早く陳列棚に視線を向けた。から揚げは残り少ないことから、見切りのシールは貼らなかったのだ。貼らなくても売れると判断したから。それは確実だ。そしてイカリングのパックの一つに、付けたはずの見切りシールが消えているのを見た。
「私はから揚げに値引きシールを貼っていません」
「っはああ? 貼ってあるから買うんだよおれは」
「イカリングのパックから、シール剥がして貼りなおしましたね」
万波さんなら、和田さんはじめ他のパートさんなら、チーフなら、どういう対応をしただろう。だが今の私は、正義感に燃え、こいつが一応客であるということを忘れていた。案の定、目の前のクレーマーは顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら詰め寄ってくる。
「なに客にいちゃもんつけてんだよブス! どこにそんな証拠があんだよ!」
「見てましたから。あなたがそれにシール貼ってるの」
「おい、どうなってんだこの店は! 店長を呼べ! 早く!」
「から揚げは値引き商品ではありません。返してください。シールを貼りなおします」
ペースに乗せてはいけない。いきなり激昂されて引き下がれば、やつは味をしめて、また二度、三度と同じことを繰り返すだろう。いや、もうすでに初犯ではないのかもしれない。むくむくと湧き上がる疑念が、そのまま視線に現れたのが自分でもわかる。
「なんだその目つきは! それが客に対する態度か! 謝れ! お前! おれに謝れよ!」
「返してください、から揚げ」
私は負けじと、自分ができうる限りの、最高に治安の悪い顔を作って言った。なぜだろう。絶対に引き下がりたくなかった。負けたくなかった。その頃にはあたりに人だかりができ、私たちを遠巻きに眺めていた。遠くから社員がすっ飛んでくるのを、視界の隅でとらえる。なんだかそれが、スローモーションのように遅く、遠く感じた。
「なんでお前みたいな女のガキが偉そうな口きいてるんだよ!! 早く謝れ! 謝れえええ!」
あのときと同じ。ぷちん、と何かが切れた音がした。
「なんでこんな底辺にごちゃごちゃいわれにゃならんのだ! 話にならん!! 原田だな!! 名前覚えたからな!! 名前、覚えたからなあ!!」
「……いいから、から揚げ返せよ」
「はあ!? てめえ!! 今なんて言っ――」
「から揚げ返せっつってんだよこのクソジジイがあ――――????」
絶叫。
その瞬間、すべてが停止した。
加藤さんも、走ってきていたはずの社員も、こちらをあぜんとした表情でレジから窺う和田さんも、他の客も、この場の空気も、私以外のすべてが停止していた。その隙をついて、から揚げのパックをひったくる。加藤さんが状況を把握して、つばの溜まった汚い口を開け、茶色い歯をのぞかせた瞬間。
私は大きく息を吸った。
「てめえなんなんだよ毎日毎日よお!!! せこいんだよずりいんだよ生き方が!! てめえ人生何年目だよ!!! 恥ずかしいと思えよ値引きシール張り替えて安く買おうとするとかさあ!!! 万引きと変わんねえからそれ!!! 何十年生きた結果やることがスーパーの総菜三十パー引きにすり替えることかよ!!! いっつも弱そうな店員ばっか狙ってネチネチ絡んでよお!! だっせ―――んだよバ―――カ!! マジでゴミみてえな人生だな!!! 母親の腹ン中からやり直せ!!! クソが!!!! クソ!!! いいか!!! てめえはクソだ!!!! クソ!!! さっさと便器から流されろ!!!」
私はいつだってルールを守ってる。どんなにラーメン屋が並んでたって、順番は守る。当たり前だ。年寄りが来たら席を譲る。映画館ではスマホの電源を切る。ゴミはきちんと分別する。コンサートでは、後ろの人が見えにくくならないように、うちわは常に胸の位置。誰が聞いてるかわかんないところで、人の悪口なんか言わない。自己満足のプレゼントも贈らない。友達から連絡が来てるのに、丸三日放置なんてしない。たとえからっぽでも、そういう信念だけは持っている。人間、立派でなくてはならないと思っているから。そうやって生きている。
なのにどうしてこんなやつが、大手を振って外を歩いているのか。堂々と生きているのか。己を顧みず、人に迷惑をかけ続け、そしてそれが許されているのか。こんなに己に制約をかけている私が、内定をもらえないのか。
どうして、どうして、どうして。
そのあとのことは覚えていない。どうやら頭の血管がブチぎれると、記憶は飛ぶらしい。あとで聞いた話によると、あのクソジジイに摑みかかろうとしたところをチーフに抑え込まれたのだという。クソジジイの呆然とした顔。それが最後の記憶だった。
この出来事は、のちに「から揚げ事変」と呼ばれ、長く語り継がれることになる。
望まぬ形でスーパーの歴史に名を残してしまった私だったが、クビになった程度で済んだのは、本当に良かったのかもしれない。運よくクソジジイの犯行が防犯カメラにしっかりと映っていたため、それによりキレ散らかしたことにも、一応は正当な理由があるという判断が下った。また、店に残っていた様々なクレームの記録、それと、万波さんの嘆願によって、きついお叱りは受けたけれども、情状酌量の余地があるとしてそれ以上のお咎めはなかった。
だから、スーパーに行くのはから揚げ事変以降、初めてだった。ロッカーから私物を持ち帰り、鍵を返却するためだ。クリーニングしたてのリクルートスーツを着、右手に大量の菓子折りと、財布に二千五百円を持って。入口の警備員さんに「あっ! こいつから揚げの……」という目で見られながら従業員入り口を通ったとき、ばったり、万波さんに出会った。
「あ……」
「ま、万波さん」
私はゴキブリ並みにささっと彼女の元へ寄っていくと、腰をピッタリ九十度曲げて、デカい声で謝罪した。
「本っ当にすみませんでした!!」
「う、うわあ! なに!」
万波さんは悲鳴をあげ、それから「もう、びっくりしたあ」とつぶやいた。やがていつもみたいな笑い声で、わたしの肩をぽんと叩きながら言う。
「ちょっと、顔上げて下さいよ」
「万波さんにも、みなさんにも迷惑かけちゃって。ほんとに申し訳ありません」
「カナさんったら」
「ほんとに……会社の信用に関わることでした」
「ねえ、カナさん」
万波さんが、ぐいっと私の顔を、無理やり上げさせた。視線が交じり合う。私の話を聞いて、とその目が言っていた。
そのときだけは、わたしと万波さんの間には、なにもなかったと思う。
「私ね、カナさんをね、すごいって思ったんですよ」
「……え?」
「自分の、本当に譲れないところだけは、意志を貫くところがとても。加藤さんに毅然と対応するなんて、普通は怖くてできませんから」
そう言って、万波さんが、いつもの笑顔を消した。笑顔の後に残ったのは、凪いだ海のような目だった。だが同時に、そこに嵐の前の静けさを見る。
「……万波さん?」
万波さんは黙った。それがどのくらいの時間だったか、正確にはわからない。
「トラブルになるくらいなら、トマトを指で押そうが、キャベツを剥くだけ剥いて結局買わなかろうが目をつぶる。店員が多少泣かされても、それで済むならそれでいい。私もチーフも、そう思っていたフシがあります」
「……」
「でも、それはちがうんですよね。そうじゃないんだってカナさんが示してくれて、はっとしました」
今度は万波さんが、私の目を覗き込む。今、万波さんの目に自分が映っていることが、なんだかとても嬉しかった。
「正直スカッとしましたよ。よく言ったわって、裏ではみんな言ってます。加藤さんはあれから一度も来ていません。ま、あの人にもいい薬だったんでしょう」
「……」
「カナさんのまっすぐなところが、私たちを救ってくれたんですよ」
カナさんが笑った。じわじわと広がるこの気持ちはなんだろう。体の中が、何かで満たされていく。それは透明で見えないし、温かいのか冷たいのかもわからない。だがたしかに、そこにあるもの。
「便器とかクソとか言っちゃったのに?」
「食べ物売ってるところでね」
「すみません、ほんと」
「でもそう言うところ、私は好きですよ」万波さんはそう付け加えた。照れくさくなって、持ってきた菓子折りのうち、一つだけ色の違うものを、両手で献上するように渡す。紙袋の中を見た万波さんが、目を大きく見開いた。
「うわ! 私、バームクーヘン超好きなの! いや、うれしいなあ。いいんですか? もらちゃって」
「はい。ずいぶん前ですけど、バウムクーヘンが好きって言ってたので。その、お詫びの気持ちも込めて……」
「うわあ、うれしいなあ。ちょっと待ってね。どうしよ……」
万波さんは近くにあった自販機に走り、Suicaを使ってペットボトルを買い、いそいそと戻ってきた。
「じゃあこれ、どうぞ。カナさん好きでしょ? よく飲んでるもんね。交換ってことで」
差し出されたのはサイダーのペットボトル。水滴で少し濡れたそれを受けとる。その重さと冷たさを感じると、何だか少し涙が出そうになった。
「てかカナさん、手土産多すぎ! 重いでしょ? 半分持ちます」
そう言って手を伸ばした万波さんの笑顔を、私は一生忘れないだろう。
にっと歯を見せて笑う、それは今まで見てきたような控えめで、上品な笑い方ではなかった。それなのに、今までと変わらず、からっとしてて、いたずらっぽくて、人の不安を根こそぎ洗い流してしまうような、そんな笑顔だったのが、とても衝撃だったからだ。
謝罪行脚を終え、外に出れば容赦ない紫外線。容赦を知らない日差しが、私の肌をじりじりと熱する。ガンを飛ばすように空を仰ぎ、せめてもの抵抗で飲みかけのサイダーを太陽に掲げたら、その向こうが透けて見えた。
ああ、やっぱり夏は透明だ。
サイダーを飲み干し、一息つく。さて、この後はどうしようか。おひとりさまランチを食べて、ウインドウショッピングして、甘いものでも食べて、それから履歴書を買いに行こうか。
私は歩き出した。パンプスはいつのまにか私の足になじみ、高らかな音を灼けたアスファルトに響かせていた。
【おわり】