【最終選考作品】編み拭う日々(著:岸田怜子)
わたしがトイレに行くと、だいたい掃除中の気がする。
「ただいま清掃中 ご協力お願いします」と書かれた立て看板の横をすり抜けて女子トイレに入ると、中では、うす緑色のぺらぺらした作業着を着たおばちゃんが手洗い場の水滴を拭っていた。このビルのオーナーが雇っている、清掃代行会社の派遣さんだ。おばちゃんはわたしに気づくと無言でぺこりと頭をさげ、わたしも、同じように会釈をしてから個室に入った。
仕事とはいえ、綺麗にしたばかりのトイレを使われるのは嫌でしょうね、ごめんなさいね、でもこっちだって、わざとやってるんじゃないのよ、と、心の中で独り言ちながら。
掃除中だからといってトイレが使えないわけではないし、掃除をしていない時だってある。というか、実際は掃除をしていない時の方が多いだろう。数が少ないから、かえって記憶に残りやすいだけだ。そう、頭では理解していても、どうにもついてないというか、非難されているような気分になる。自意識過剰だということは重々承知しているのだが、どうしても気になってしまう。
かと言って、そうした感情を表に出したりは、もうしないが。
同じ自意識過剰でも、「自分がいるとなぜか店が混む」みたいな、ポジティブな方の自意識だったらまだ良かったのに。きっと安藤さんならそう言う。
そんなことを考えながら掃除したてのカラリと乾いた手洗い場で手を洗っていたら、お昼休憩に入ったらしい安藤さんたちがやって来た。
「あ、井口さん、お疲れ様です」
安藤さんはいつも着ている白いオックスフォードシャツの上に、黒いカーディガンを羽織っていた。先週までとはちがう色だ。先週は、紺色だった。
「井口さん、今日は特急ある?」
安藤さんの後ろから、宇佐見さんが顔を出す。宇佐見さんはうちに来ているパートさんの中で一番のベテランだ。
「今日はないです」
「やった。午後はのんびりできるわね」
「今のうちにのんびりしてください。あと二週間もすれば忙しくなりますから」
「ちょうどよかったわ井口さん! あのね、来週のシフトなんだけど」宇佐見さんの次にベテランの江崎さんがわたしの腕を摑む。昔ながらの化粧品特有の独特な匂いが、鼻をかすめる。「木曜日は知り合いの旦那の三回忌でさ、手伝いに行くって約束しちゃってたのよ! それで、木曜はあたしの代わりに安藤さんがシフトに入ることになったから。だから、あたしがいなくても驚かないでねって、他の社員さんにも言っておいて」
「了解です。他に、何か連絡がある人は?」
宇佐見さんと安藤さんは「特に」と首を振った。わたしは了解です、とくり返した。
宇佐見さんと江崎さんが個室に入る。安藤さんは、そのまま手洗い場の鏡の前で髪を整え始めた。どうやら二人のお付き合いで来ただけらしい。
「カーディガン、新しいやつですか?」
「あー、気づいた? 実は先週破けちゃって。保育園の行事で鮎釣りしたんだけど、枝に引っかかっちゃったの」
「それは災難でしたね」
ちらりと個室をうかがう。まだ江崎さんが出てくる気配はない。わたしは声をひそめて訊ねた。
「さっきのシフトの話ですけど、安藤さんはちゃんと納得してます? ベテランの江崎さんに言われて、断り切れなかったとかじゃないですか? 大丈夫ですか?」
「あっ、大丈夫、心配しないで。前にわたしのシフト代わってもらった時のお返しだから」
「江崎さんが? 代わってくれた?」
珍しい、と言いかけて、ぎりぎりで飲み込んだ。
「うん。前に子供が熱だした時に、ね」
「そうですか。もし何かあったら言ってくださいね。わたしでもいいですし、他の社員でもいいですから」
「ありがと、井口さん」
安藤さんはそう言ってほほ笑んだ。それじゃあ、とトイレを出ようとしたら、
「井口さん」
と、今度はわたしの方が手招きされた。
「カーディガン繋がりでちょっと……井口さんのカーディガン、背中がだいぶ薄くなってるよ、買い替えた方がいいかも」
慌てて鏡ごしに背中を見る。確かに、真ん中あたりが擦り切れて、今にも穴が空きそうだった。恥ずかしい。いつからこうなっていたんだろう。
「ありがとうございます。そうします」
「せっかくだから次は明るい色にしなよ。井口さん、緑とか似合いそう。ほら、最近すごく流行ってるじゃない?」
「たしかに流行ってるけど、派手じゃないですか? わたしじゃ服に着られそう」
「だーいじょうぶだって」
宇佐見さんと江崎さんが個室から出てくる。わたしはまた「それじゃあ」と言って、トイレをあとにした。
フロアの一番奥にあるドアを開ける。普段はかなり賑やかだが、皆休憩で出払っているし、機械も停まっているから、とても静かだ。今のパートさんたちは、口は多いが、手もちゃんと動かす人たちだから助かってる。
特に、安藤さんが来てからは、人間関係のトラブルもなく、穏やかな日々が続いている。
うちは貴金属のアクセサリーパーツを作る会社だ。指輪や、石を嵌める前のネックレスの土台や、あとは、ベルトの金具なんかを鋳造している。表面にすを出さず金属を流し固めるのは熟練の技と勘が必要なので本社で職人さんたちがやっているが、金属を流し込む型を作るのは主にパートさんたちにお願いしている。以前は本社の二階が型作りの工場だったが、手狭になったので四年前にこのビルの一室を借りた。
わたしの仕事は、事務。本社のすみでパソコンに向かい、出来上がった商品を梱包し、取引先に送り、その合間に本社とここを車で行き来して物を受け取ったり置いてきたりする。手先の器用さは必要ないが、仕事量自体はけっこう多いので大変だ。
棚から本社に持っていく型を集めてカゴに入れる。安藤さんたちはまだ帰ってこない。トイレのあと、どこかにお昼を食べに出かけたのだろう。今のうちにゆっくりしてほしい。あと二週間ほどで十一月だ。十一月からクリスマス直前までは、プラチナリングの注文が山のように来る。その間は、社員もパートも、休む暇がない。
だから、その前に、いつもより多めに仕入れておかないと。
カゴの中身とメモの型番が合っているか、もう一度よく確認してから、わたしは工場を出た。
定時で退勤したわたしは、会社にほど近い大型スーパーに車を走らせると、一階、文房具売り場となりの手芸用品コーナーに駆け込んだ。手芸用品コーナーは食品コーナーより一時間早く閉まるから、いつも閉店ギリギリにしか来られない。ライトグレーのアクリル毛糸と、白とベージュのコットン糸を買い物カゴに放り込み、急いでレジに向かう。
レジには、いつもの店員が立っていた。店員は低い声で「いらっしゃいませ」と言うと、わたしと目を合わせないまま商品をレジに通した。この人はいつも愛想が悪い。
誰に対してもそうなのか、それとも、わたしにだけなのか、それは分からない。
わたしはこの人に、どう思われているのだろう。いつも来てくれる上客か、はたまた、毎回閉店間際に来る迷惑な客か。
どっちだろう。
マンションのドアを開けると、昼間のうちに下に落ちたホコリが風圧で舞う気配がした。
わたしはあえて思考を停止させると、靴箱の上に置いたハンディモップと、壁に立てかけておいたフローリングワイパーを手に取った。もう何年もやっている、ルーティーンのうちの一つだ。
一度でも座るとそのあと立ち上がるのが億劫になるので、帰ってすぐに家中のホコリを取り除くようにしている。これだけでも、部屋が散らかるのをかなり防げる。
モップがけが終わったら、明日出すゴミをまとめて、出し忘れないように玄関に置く。それから、夕飯を食べ、シャワーを浴びる。これも、ルーティーンの一環。
――さあ、仕上げだ。
カウチに腰かけ、サイドテーブルの上のカゴを引き寄せる。
中身は、今日買った毛糸と、四号と五号のかぎ編み針。
ここ数年、どれだけ忙しくても、帰ってすぐのモップがけと、寝る前三十分の編み物は欠かしていない。編み物にいたっては、趣味というより、もはや習慣になっている。
何を編むかも決めている。台所用のふきんと、フローリングワイパーに装着するモップがけ用のアクリル雑巾と、水拭き用の雑巾、それだけ。見て区別できるよう、色は変えてあるが、編み方も全て同じだ。作りたい長さだけ奇数で作り目を作ったら、くさり一目で立ち上がり、こま編み、くさり編み、作り目一目とばして、またこま編み、くさり編み……と、交互にくり返す。段の最後は、こま編みを二目続けて終える。編み地をひっくり返したら、また同じことのくり返し。
編み物初心者でも間違えようがないこの編み地は、正式には「よね編み」というらしい。全部こま編みするのが一番簡単だが、雑巾やふきんにするには地が厚く、硬くなりすぎる。棒針編みにすれば厚みや硬さは出にくいが、今度は伸縮性がありすぎて絞りにくくなる。
掃除と編み物を始めたのは、前の会社を辞める直前のことだ。その頃わたしは、職場の人間関係に悩み、精神的にボロボロだった。
――ただ、その原因の多くは、周りよりも、わたしの方にあったと、今にしてみれば思う。
わたしは子供の頃から自意識過剰だった。自分が他人からどう思われているのか、気になって仕方なかった。他人の何気ない言動に過剰に期待し、悲観し、落胆した。それだけでなく、卑屈な態度をとって、相手を困らせた。悪循環は重なり、わたしの周りからは、どんどんと人がいなくなっていった。
そんなわたしを、掃除と編み物は変えてくれた。
編み物は、編んだ目の数だけ糸が編み地になる。掃除は、掃除しただけスペースが広くなり、ホコリが減り、床や水場のステンレスが輝く。努力の成果がすぐ目に見えるし、誰も傷つけず、自分だけで完結できる。それが、精神の安定にとても良かった。性格は変わらないままだが、自分の負の感情に、他人を巻き込んだりはしなくなった。
編み物のおかげで、好きでもないのにずるずると付き合い続けていた恋人とも別れることができた。きっかけは、編み物の最中に投げかけられたひと言だ。
「そんなにお金ないの?」
編み物を始めた当初は、カバンやウエアにも挑戦していて、わたしがその時編んでいたのは、家で羽織る用のジレだった。
元恋人の中では「手作り=安上がり」という認識だったらしいが、とんでもない勘違いだ。着るものを作るにはそれなりの質の毛糸が必要で、百均の安物というわけにはいかない。くわえて、編み方にもよるものの、最低でも毛糸が十玉は必要になる。材料費だけでも市販品より高くつくことが常だし、編む手間を人件費と考えれば、費用は更に上乗せされる。
「趣味に理解のない人とは付き合えない」
ようやく踏ん切りがついたわたしは、そう告げて、恋人と別れた。
今は、完成までの長い時間がかえってストレスになるので、大きな作品を作るのはやめている。ふきんや雑巾なら、短い時間で出来上がるし、必ず使うものだし、汚れたら気軽に捨てられて、スペースもとらない。わたしにぴったりだ。
メトロノームのような一定のリズムで針を進める。針と糸が擦れる、しゅっ、しゅっ、という小さな音が、優しく耳をくすぐる。集中しすぎず、とりとめもないことを考えながら編むのがリラックスのコツだ。
明日はまず一番に取引先に電話しないと……昨日のお笑い番組のあのボケ……あれは最高だった……本社の近くに市役所と郵便局があればいいのに……今度の休みは何をしよう……。
……そうだ、今度の休みは、カーディガンを買いに行かないと。
わたしは昼間の会話を思い出した。急がないと、いつ穴が空いてもおかしくない。
安藤さんは似合いそうと言ってくれたけど、やはりわたしに緑は派手だと思う。せいぜい小物で差し色にするくらいだ。それに、緑が似合うのは、むしろ安藤さんの方な気がする。
安藤さんはわたしと同じ三十一歳。地元の国立大出身で、子供を産む前は銀行に勤めていた。子供は年子の男の子が二人。前に会社に連れてきたことがあったけど、二人とも安藤さんに似ていた。顔だけじゃなく、性格も。素直で、礼儀正しく、明るく、人懐っこい、良い子。
安藤さんはパートさんだから、社員で事務のわたしよりも、自分と同じくパートの宇佐見さんや江崎さんと一緒にいる時間の方が長い。けど、うちの会社で歳が同じなのはわたしだけだし、なんだかんだ言って、わたしに一番気を許している気がする。
そう、思っているのは、わたしだけだろうか。
繫忙期をなんとか乗り切ったわたしは、いつものように手芸用品コーナーに駆け込むと、アクリル糸とコットン糸をカゴに放り込んだ。
そのままレジに向かおうとして、ふと、足を止めた。
「セール品」と札の貼られたワゴンの中に、若葉のような、あざやかだけど目に優しいグリーンのコットン糸がふた玉、置かれていたからだ。
高級な毛糸メーカーの、普段ならあまりセールにならない糸だ。前に安藤さんが言っていたのは――わたしに「似合いそう」と言っていたのは――たぶん、こういう色だろう。ふらふら、吸い寄せられるように、ワゴンの前に立つ。
もうウエアを作る気はないし、そもそもふた玉ではカーディガンは編めない。でも、これだけの糸を雑巾やふきんにするのは惜しい。コースターかランチョンマットでも編む? いや、既に家に何枚かある。今さら増えても邪魔だ。
「買うことを前提に話が進んでいませんか、いいんですか、ルーティーン、崩れませんか」
頭の中のもう一人のわたしがそう囁いたが、無視した。
ポーチや巾着は雑誌の付録で事足りている。アクセサリーやブローチは、作っても着けていく場所がない。何か、雑巾やふきんのように手軽に作れて、そして、確実に使うものは――
――そうだ、ハンカチ。
以前、編み物のサイトで、手編みのハンカチが紹介されているのを見た。拭くのがテーブルか、床か、それとも人の手か、それだけの差だ。それに、雑巾より小さいから、すぐに編める。
人に見られるのも、トイレの時や、昼食の時だけで、多少出来が悪くても、悪目立ちしない。
――いけるんじゃないだろうか。
なぜだか震える手でカゴの中にコットン糸を入れ、そのままレジに持って行った。いつもは目を合わせない店員が、ちらりとわたしの顔を見た、気がしたのは、やはりわたしが自意識過剰なせいだろうか。
自宅マンションのドアを開ける。はやる気持ちをおさえて、努めていつもと同じように振る舞う。家中をモップがけし、明日出すゴミをまとめて玄関に置き、夕飯をすませシャワーを浴びる。
ことさらゆっくりとカウチに腰かけ、今日買ったコットン糸の入ったカゴを引き寄せる。
――変に凝ったりせず、いつもと同じ編み方にしよう。
普段使っているタオルハンカチに合わせて作り目を作った。上質な糸は糸だけでも肌触りがよく、編んでいて割れることもなく、するりするりと針を通り抜ける。それがまた心地よく、つい「三十分」という決まりをオーバーして、一時間半かけて完成させてしまった。
ライトの灯りに照らして出来を確かめる。今までで一番、綺麗に編めた気がする。本当は水通しが必要だけど、かまわない。明日、持っていこう。早く誰かに見せたい。
みんな、なんて言うだろう。安藤さんは、以前自分が勧めた色だと気づくだろうか。褒めてくれるだろうか――その晩、わたしはハンカチを抱きしめて眠った。
トイレに行くと、また入り口に「ただいま清掃中」の立て看板が置かれていた。手洗い場のハンドソープを詰め替える掃除のおばちゃんの横をすり抜け用を足し、個室から出る。
手を洗おうとポケットからハンカチを出して、少し考えてから、周りからよく見える位置に置いた。ドキドキしながら待っていると、やがて、休憩時間に入った安藤さんたちがやって来た。
最初に気づいたのは、安藤さんではなく江崎さんだった。
「あら? 何それ、変わったハンカチね」
「あ、ほんと」
「なにこれ、何でできてるの」
江崎さんがハンカチをつまみ上げる。安藤さんが一番先に気づくと思っていたので、少し戸惑った。どうしよう、と考えて、正直に答えることにした。
「編んだんです」
一瞬、間があった気がした。
「……へえ、ハンカチって、編めるのねえ」
感心したように安藤さんが呟く。
「せっかくの手編みなのにハンカチ? 他に何か編んだりしないの? セーターとかマフラーとか」江崎さんが訊ねる。
「雑巾とか、ふきんとか編んでます」
雑巾? 三人の声が重なった。
どうしよう、思ってた反応とちがう。
「着るものとか、大きなものは編むのが大変なので……。それに、どうせ編むなら、確実に使うものにしたい、ので」
江崎さんと宇佐見さんは、「理解できない」という顔をしていた。
ちらり、安藤さんの方をうかがう。安藤さんはにこやかにほほ笑むと、
「井口さんすごい。器用なんだね。わたしなんか、何にも編めないよ」
と言った。
その笑顔に心底ホッとしながら、「それじゃあ」とわたしはトイレを出た。
必要な荷物を運び、車に戻ってエンジンをかける。足先に何か当たった気がして、屈みこんでよく見たら、今日、こちらに置いてくる予定だった指輪の原型がひとつ、落ちていた。何かの拍子に、カゴから飛び出してしまったようだ。急いでビルに引き返す。
工場から、モーターの回る低い音と、話し声が聞こえてきた。安藤さんたちは、今日は早めに休憩を終えて仕事に戻ってきたらしい。
ドアノブに手をかけた瞬間、宇佐見さんの声が聞こえた。
「井口さんさあ……」
どきりとした。声の感じからして、あまり良い話題ではない気がする。わたしはとっさに手を止め、耳をそばだてた。
「……もしかして、お金に困ってるんじゃない? 借金があるとか」
「そう、そう、あたしもそう思ったのよ!」
江崎さんが身を乗り出す気配がする。
「だってねえ、今時、雑巾やハンカチなんて百均でも買えるじゃない。それをわざわざ作るって、そうとうお金がないってことでしょ。可哀想に。若い娘が、あんな貧乏くさいハンカチ持って」
数年前、恋人と別れた時の怒りが瞬時によみがえる。なんてことだ。せっかく元恋人と縁を切ったのに、身近にまだ、同じような人がいたなんて。
「社員だから、わたしらよりは良いお給料貰ってるはずだけど……どうしたのかしらねえ」
「男に貢いでるんじゃない? ねえ、どう思う、安藤さん」江崎さんが訊ねる。
安藤さん、言ってやって。
期待にぎゅっとドアノブを握った瞬間、
「そうかもね」
と、答える安藤さんの声が耳に入った。
胸を強く押されたように息ができなくなって、逃げるようにその場を去った。
早めに仕事を切り上げて帰宅すると、室内に、昨夜の浮かれた空気が残っていて、むなしかった。
今日はもう、このままベッドに倒れて寝てしまおうか。一日くらい、掃除をさぼったって死ぬわけじゃないし。
編み物をするのも、もう、やめよう。安藤さんや江崎さんたちとも、極力関わらないようにしよう。なんなら、また転職して――
――以前のわたしなら、そうしていた。
そうやって、些細なことに浮かれ、悲しみ、傷つき、自分の殻に閉じこもって過ごすうち、気づけば部屋にはホコリが溜まり、ゴミが溜まり、周りには、誰もいなくなっていた。
気合いを入れるために頬を叩いてから、ハンディモップとフローリングワイパーを手に取る。
安藤さんたちがしていたのは、ただの世間話だ。悪口でもなんでもない。なんなら、わたしのことを心配してくれてさえいた。傷つく方が幼稚だ、こんなこと。
相手から思ったような反応が得られなかったから拗ねるなんて、小学生並みの我儘だ。
努めて、いつもと同じように過ごす。部屋中にモップをかけ、ゴミをまとめ、夕飯を食べ、シャワーを浴びる。
カウチに腰かけ、毛糸と編み針の入ったカゴを引き寄せる。
わたしは、これからも、雑巾やふきんを編み続ける。
編んだハンカチも、捨てずに使い続ける。
安藤さんたちにも、変わらず接する。
自分のナイーブさが原因で、趣味を投げ出したり、好きな人を嫌いになったりなんかしないぞ、という確固たる意志のもと、わたしはいつものように編み物を始めた。
けれども、初心者向けの、間違えようのない編み地のはずなのに、わたしは何度もくさり目を忘れ、こま編みを編む位置を間違え、糸をゆるめすぎたりしめすぎたりした。けっきょく、出来上がった雑巾は、これまで作った中で一番酷いものになった。
これはいけない。まだ、心が乱れている。このまま人前に出るのは危険だ。
バケツに水を汲み、編んだばかりの雑巾をひたす。テーブルを拭き、家中の棚を拭き、フローリングを水拭きする。
それでも、まだ、すっきりしない。
わたしはそのまま一晩、掃除を続けた。シンクを磨き、便器を擦り、天井や壁、窓という窓、玄関のタイルまで水拭きした。最後は、ベランダの床まで拭き上げた。最初は真っ白だった雑巾は、見るも無残なこげ茶色になり、繊維のいたるところに、ゴミや髪の毛が絡まっていた。
昇ったばかりの朝日が頬をかすめる。立ち上がって、深呼吸した。掃除したばかりの部屋よりも静謐な朝の空気が、肺を満たした。
もう、大丈夫。わたしは一人うなずいた。
ビルに行くと、トイレの前には「ただいま清掃中」の立て看板が置かれていた。掃除のおばちゃんが、三つある個室のうち、一番左の便器を擦っている。他の二つは、すでに掃除を終えたらしい。おばちゃんはわたしに気づくと、ぺこりと頭をさげた。
仕事とはいえ、綺麗にしたばかりのトイレをすぐに使われるのは嫌でしょうね、ごめんなさいね、と心の中で独り言ちながら、一番右のドアを開け用を足す。性格は、そう簡単には変えられない。
でも、意地でも、自分の負の感情を表に出したりはしないぞ、という決意は、昨日までよりも深く、わたしの胸に刻み込まれていた。
また、昨日のように安藤さんたちにハンカチのことで何か言われても――憐れみの目を向けられても――それでわたしは、安藤さんを嫌いになったりしない。もちろん、宇佐見さんのことも江崎さんのことも、嫌いになったりしない。
昔の自分に、戻ったりしない。
大丈夫。いつでも来い。そう、ちらちら入口の方を気にしながら手を洗っていたら、突然、
「ねえ」
と声をかけられた。
自分でも大げさだと思うくらい肩がはねる。ふり返ると、掃除のおばちゃんがいた。
「昨日持ってたハンカチってさあ、かぎ針編み? 棒針編み? それともアフガンってやつ?」
昔からの知り合いのような口調で、おばちゃんが訊ねる。
「か、かぎ針です」
「全部こま編み? 長編み……じゃなさそうだったけど」
「よね編みです」
よね編み? おばちゃんが首をかしげる。
「……こま編みとくさり編みを交互にくり返すんです。作り目を奇数で作って、最後はこま編み二目で終えます。前の段のこま編みをとばして、くさり編みにこま編みを編みつける感じです」
「なるほど、分かった。ありがとね」
おばちゃんはそう言って、立て看板を抱えてとなりの男子トイレに消えた。
奇妙な静寂が、掃除されたばかりの清潔なトイレの中を満たした。
同時に、わたしの胸は高鳴っていた。
分かってる。これは単なる自意識過剰だ。
いつまでたっても成長しない自分に呆れながら、でも今だけは許してほしいと、誰に懇願するでもなくそう思った。
【おわり】