たかが恋の話 第三回
二日後のことだ。
R大付属高校では夏休みに入ってからも各学年向けの夏期講習が行われる。参加するかは生徒の自由だ。一、二年生と内部進学を希望する三年生は学校での講習に参加する者が多いが、他大学への進学を志望している三年生は塾の夏期講習を受ける者のほうが多い。朝陽もそうだと聞いていた。
それなのにその日の昼、佐久間が二年生対象の生物基礎の復習講座を終えて職員室に戻ってくると、沢内と廊下を歩いていく朝陽を見かけた。後ろ姿だったが、見間違えるはずもない。二人は職員室の斜向かいにある部屋に入っていった。――どうして生活指導室なんかに。
「佐久間先生、少しよろしいですか」
胸騒ぎを感じながら職員室に入り、自分の机に教材を置いたとたん、教頭に声をかけられた。教頭はいつも品のいいスーツを着た五十代後半の女性で、誠実な人柄で生徒に慕われており、佐久間もとても世話になっていた。
教頭に促されたのは、職員室に隣接する会議室だった。ドアを開けて中に入ると、ひんやりと冷房の効いた空気が頬を撫でて、自分がここに呼ばれることはあらかじめ決まっていたのだと知った。
ローテーブルをはさんだソファセットに佐久間が腰を下ろすと、向かいに座った教頭は切り出した。
「率直にうかがいますね。佐久間先生は、三年B組の秋山朝陽と、個人的な付き合いをなさっていますか?」
一瞬、頭が白くなったあと、脈拍が加速するのを感じた。耳と頬に嫌な熱がのぼる。
「いいえ……なぜでしょうか」
「昨日、匿名の連絡があったんです。本校の男性教員と男子生徒が、夜遅くに一緒に歩いているのを何度も見かけた。とても親密な様子に見えた、と。連絡してきた方の話から、教員とは佐久間先生のことであり、男子生徒は秋山くんであると判断しました」
心臓が胸ではなく耳の奥にあるような気がした――朝陽がいつか言ったことを、今まさに体感している。頭の中で羽虫の群れのように飛び交う感情は、きっと焦りとか恐怖、そんな名前を持っている。
だが、沢内につれられて生活指導室に入っていく朝陽の後ろ姿がよみがえり、佐久間は膝の上できつく手を握りしめた。黙ってるな、おまえは教師だろう。どんな時でも生徒を守り抜くのが役目だろう。
「説明を、させていただけますか」
「はい」
「七月の中旬から、私は毎週水曜日に県営武道館で行われている弓道教室の初級コースに通っています。弓道経験はありますが、ブランクが長いので、感覚と技術をとり戻したいと考えました」
「佐久間先生には弓道部の顧問をしていただいていますからね」
「はい。秋山も、その教室の中級コースに通っています。コースは違っても日程は同じですので、会場で顔を合わせます」
「別々のコースとはいえ同じ会場で行われる教室に通っているのは、偶然なのでしょうか? それとも二人で申し合わせてのことですか?」
「……申し合わせたわけではありません。ただ、弓道教室を探そうと思うと秋山に話したところ、県営武道館の教室のことを教えてもらいました。終業後に通うことを考えると、アクセスのしやすさからも武道館の教室が一番よいと思い、申し込みをしました。秋山については、すでに中級コースに申し込んでいるということを聞いていました」
「わかりました。続けてください」
「私と秋山が一緒にいたということについてですが、教室が終了する時間は夜九時です。時間帯として少々心配だったため、自宅の最寄り駅で電車を降りるまで、秋山と一緒に行動していました」
「それだけなんでしょうか?」
静かに、しかし鋭く切り込まれ、心臓が軋んだ気がした。
いえ、と声を絞り出す。
「一昨日、教室が終わったあとに、秋山を食事に誘いました。店の中と、店を出たあと、個人的な話をしました。その時に……彼の頭と背中にふれました」
なるほど、と短く言った教頭は、膝の上できれいに手を組んだ。
「秋山くんは、しばらく前に、噂になったことがありましたね。彼のセクシュアリティについて。あれをきっかけに教員間でも、性的マイノリティの生徒はごく普通にいるのだという認識を新たにし、私たちも改めて生徒たちとの接し方を考えましょうというお話をさせていただきました」
「……はい」
「恥ずべきことではありますが、男性教員と女子生徒のそういった問題は、昔からしばしば起こってきたことであり、残念ながら今も中々なくなりません。女性教員と男子生徒の問題も、それに比べれば数は少ないですが、時折起こります。ある意味、世間も聞き慣れていて『またか』という反応をする。しかし、男性教員と男子生徒となれば、かなりセンセーショナルに受け取られるでしょう。LGBTQという言葉が毎日のようにネットや記事に見られる、多くの人々がそれを認識している、多様性は尊重されなければならないと誰もが言う。それでも、現実では男性同士であることが強い興味を引き、教師と生徒であることがさらに人々の好奇心を煽るはずです。下手をすれば、あなたも、生徒も、取り返しのつかない火傷を負うほど強力に」
胃を雑巾のように絞られている心地だった。佐久間先生、と教頭が落ち着いた声で呼ぶ。
「あなたの秋山くんに対する個人的感情については、立ち入ることはしません。それはなんぴとにも侵害されざるべきあなたの聖域です。ただし、それはすべてがあなたの胸の内にとどめられている間だけのこと。あなたには、よこしまな思いなど何もなかったかもしれません。しかし、あなた方を目にした誰かは、学校に連絡を入れるまでのものを、あなた方に感じたんです」
「俺が不用意な行動をとったせいです。秋山は何も――」
「ええ、そうです」
教頭の声が鋭くなった。
「佐久間先生、あなたは不用意でしたし迂闊でした。教師は教師です。いくら校外でも、勤務時間外でも、人々は我々を人間であるよりも先に教師として見做すんです。にもかかわらず、あなたは不注意極まる行動によって生徒を巻き込み、第三者に『何かある』と思わせた」
「……秋山くんっ!」
会議室の外で大きな声がしたのと、叩きつけるような音を立ててドアが開かれたのは、ほぼ同時だった。
半袖ワイシャツの制服を着た朝陽は、顔が石のようにこわばって青ざめていた。
追いかけてきた沢内が「落ち着いて」と声をかけるが、朝陽は彼女には目もくれず、教頭をにらむように見つめる。教頭が手ぶりで指示すると、沢内は会議室に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。
「連絡してきた人って、どこの誰なんですか」
「名乗りませんでした。匿名ということでしたので」
「そんなの卑怯だ。自分は正体を隠して、安全な場所から好き勝手に攻撃だけするなんて。先生たちもそんなやつの言うことだけ信じて、佐久間先生を責めるんですか」
「責めているわけではないですよ、事実確認のために話を聞いていたところです。佐久間先生が本当にあなたに対して不適当なことをしていたのかどうか」
「そいつは何も知らない!」
朝陽がそんな風に顔をゆがめて声を荒らげる姿を、初めて目にした。
「先生と俺がどんな話をしていたか、先生が俺に何を言ってくれたか、どうしてそうなったのか、そいつは何ひとつ知らない。知らないくせに好き勝手に加工したストーリーを面白半分で流してる。なんでそんなやつのせいで先生が責められるんだ」
だめだ。佐久間は、教頭に詰め寄ろうとした朝陽の前に立ちふさがった。
「秋山、外に出てくれ。これはおまえには関係ないんだ」
「関係ない? ないわけないじゃないですか、弓道教室を勧めたのも、牛丼食べたいって言ったのも、バカみたいなこと言って先生のこと困らせたのも全部俺だ。それなのになんで先生ばっかりが」
「あなたが生徒で佐久間先生が教師だからですよ、秋山くん」
教頭の声は静かで、それだけに厳しかった。
「たとえ歩行者の側に問題があったとしても、車と歩行者が接触したらそれはドライバーの責任になりますね。それと同じです。あなたはまだ十代の生徒であり、私たちはそれを預かる教師です。だから何か問題が起きた時、責任を取るのは私たちの役目です」
声を失って立ち尽くす朝陽に、秋山くん、と教頭が呼びかける。
「あなたはまだ大人とは言えない、それでももう子供でもない。だから覚えておいてください。あなたたち生徒は導かれ、守られる立場にある。しかし、だからこそ教師を脅かすこともできます。佐久間先生が責任を問われることを嫌だと思うなら、あなたも今後は自分の行動について、よくよく考えるようにしてください」
教頭が目で合図すると、沢内が頭を下げて「少しあっちで休みましょう」と朝陽を促した。うつむいた朝陽は動こうとしなかったが、秋山くん、と沢内に声を強めて呼ばれると会議室を出ていった。
ドアが閉まり、足音が完全に聞こえなくなってから、佐久間は教頭に向き直り、できるだけ深く頭を下げた。
「私が教師の自覚に欠ける行動を取ったために、学校に大変な迷惑をかける事態になりました。本当に申し訳ありません」
ですが、と血を吐く思いで言葉を継ぐ。
「秋山は何も悪くありません。受験も控えた本当に大事な時期です。これ以上は秋山を追及しないでいただけませんか。処分は俺だけに――」
「秋山くんの話は沢内先生が聞き終えましたし、あなたへの処分も今完了しましたよ。お昼も食べられないままお説教されて、さぞ骨身にしみたでしょう。これに懲りたら今後はプライベートでも重々行動に気をつけ、生徒との接し方について自戒してください」
驚いて顔を上げると、教頭は、二十三歳の若造の何倍もの経験を経てきた深いまなざしを向けてきた。
「佐久間くん。教育実習に来たあなたに、私は言ったわね。教師は生徒に勉強を教える以外のところで本当に大変よ、って」
その時まだ教頭ではなかった彼女は、卒業生でもない実習生を、指導教員として厳しく手厚くしごいてくれた。
「あなたは『それでもいい先生になりたいです』と言った。私はあなたの言葉がうれしかったです。教師がいなくとも生徒は学べるし、成長します。けれど、いい先生と出会えた時、その子が学校で過ごす時間は豊かでかけがえのないものとなる。私はそれを知っていて、だからこそ教職に就きました。佐久間先生、どうか、あの時のあなたが思い浮かべていたような先生になってください。制約を破らず、しかし萎縮せず。とても大変で難しいけれど、あなたはその大変で難しいことをしてください」
職員室に戻ると、隣の席に沢内が座っていた。パック入りの甘酒を飲んでいる彼女に、佐久間は腰を九十度にして頭を下げた。
「沢内先生にも、本当にご迷惑を――」
「飲んで。夏バテにも美肌にもいいの」
鼻先に突き出されたのは、沢内が飲んでいるのと同じパック入り甘酒だ。受け取ると、まだひんやりしていて紙パックの表面に水滴が浮いていた。
佐久間が椅子に腰を下ろすと、沢内は盛大なため息をついた。
「佐久間先生が来てから、いい先輩ポジションを維持しつつ、あざとすぎないアピールを続けてきた私ですが、まあ見事にスルーされて。気づいてましたよね、佐久間先生」
「………はい」
「彼女がいる感じでもないのにな、って若干自信を失くしたりもしてたんですけど、東北選手権からの帰りの新幹線でわかりました。そうだったんだ、って」
甘酒のパックを持ったまま固まると「目をつむってるからって寝てるとは限らないですからね」と沢内はにっこりした。
「でも、目は閉じてたから、あなたの声がいつもよりよく聞こえた。すごくやさしくしゃべったり、たじたじになったり、楽しそうに笑って弾んだり。私の知らない声だった。恋しちゃってんじゃんこいつ、って思った」
目の奥に熱い痛みがこみ上げ、唇を嚙みしめた。
俺もおまえと同じなんだということは、最後まで朝陽に告げるつもりはなかった。
それなのにあの夜、こらえきれずに打ち明けたのは、朝陽に知ってほしかったからだ。そういう目で自分を見てほしかったからだ。
だがそれは、やはりフェアではなかった。
教頭も言ったように、朝陽はもう子供ではない、かといってまだ大人でもない。思春期の感受性は鋭く繊細で、与えられるものに染まりやすいのだ。力を持った大人が本気になれば、意のままにすることもできる。ましてや教師という、下手をすれば親よりも長く密な時間を生徒と共有する大人ならば。
わかっていたはずなのに、ふれ方を間違えば壊してしまいかねないほどやわらかく繊細な心をつかみ寄せ、恋という響きのいいラベルを貼った欲望を塗りつけた。俺を見てくれ。俺をほかの人間よりも特別に思ってくれ。朝陽が初めて涙を見せたあの時、今ここで付け入って自分のものにしたいという邪念が確かにあった。
教師だからと言い訳しながら手をのばした。だがあれは結局、ふれたかったからふれたのだ。
そして罰を受けた。絶対に傷つけてはならない存在を傷つけてしまった。
うつむいて声を殺していると、叱りつけるように背中を叩かれた。
「たかが恋だよ、そんな顔しなくていい。想うことは青少年保護育成条例違反でもないし、服務規程違反でもない」
堰き止められなかった熱い水が指の隙間からこぼれ落ちて、スラックスを濡らした。
恋をしていた。
一年前の五月三十日、教育実習が始まって二度目の月曜日。雨の弓道場で、澄んだ瞳で弓を引く少年に出会った時から、ずっと恋をしていた。
*
八月下旬に新学期が始まった。
匿名通報の一件については、あれ以上のお咎めはなかった。夏休み中だったこともあり、ほとんどの同僚には知られることもなかった。生徒たちにも。だがそれは、たまたまに過ぎない。自分の行為が、もっと抜き差しならない事態を引き起こしていてもおかしくなかったのだ。
「佐久間先生! おはようございます!」
始業式の日、いつもより早めに登校して体育館での諸々のセッティングを終えて職員室に戻る途中、昇降口前で重野と会った。夏休みを満喫したらしく、日焼けした笑顔の重野の隣には、スクールバッグを肩にかけた朝陽もいた。
「校門のとこで部長と会って、あ、今の部長は俺なんですけど、九月の選抜の地区予選に向けてみんな頑張ってるから、よかったら顔出しに来てもらえませんかって話してて――あれ、部長!?」
ひさしぶりに慕う元部長と会えてうれしそうな重野を置いて、朝陽は早足で離れていく。佐久間とは目も合わせない。
前の週の水曜日、事情があって弓道教室を辞める旨を講師に伝えに行ったら、いつも丁寧に教えてくれた講師はさびしそうに言った。
「残念です。中級コースでも、とても筋のいい高校生さんが辞めたそうで、先生が残念がっておられましたよ」
遠ざかっていく背中に、佐久間は声をかけた。
「おはよう、秋山」
朝陽は一瞬歩調を鈍らせたが、立ち止まることはなく、ふり返ることもなく、生徒たちでにぎわう廊下の向こうに消えた。
その後も、何度か校内で朝陽と行き合った。友達と一緒だったこともあるし、ひとりだったこともあった。ただどんな時でも、朝陽は佐久間を認めるとすぐに目を逸らし、唇を固く引き結び、無言ですれ違う。
胸は痛んだ。だが、無理もない。もう関わりたくないと思わせるような体験を、たった十八歳の少年に自分がさせたのだ。
もう二度とあってはならない。必要に迫られた時以外は、佐久間も近づくことはしなかった。偶然顔を合わせた時には「よう」とか「気をつけて帰れよ」とか、ほかの生徒にするのと同じように声をかけた。いつも返事はなかったが、かまわなかった。元気でいてくれれば、望んだ道をちゃんと進んでいってくれれば、それだけでいい。
九月の球技大会では、テニスの男子シングルスの部で決勝まで勝ち上がり、インターハイ出場者と死闘を繰り広げたと耳にはさんだ。弓道で鍛えあげた上腕三頭筋と三角筋が火を噴いたんだろうか。
十月の文化祭では模擬店でたこ焼きを焼いていた。学校のホームページに載せる写真を撮って歩いている途中、ばったり会った重野に「おまえの分も一緒でいいから」と金を渡して一パック買ってきてもらった。外階段に座って食べた。美味しかった。
十一月。初雪が降った放課後に、白い息を吐きながらいつまでも空を見上げているのを、窓からながめた。
十二月。友達と廊下を歩きながら「餅は砂糖醤油一択だ、ほかは認めない」と暴君みたいなことを言ってるのを聞いた。俺はきなこ一択だな、とすれ違いながら思った。
一月。共通テスト初日、自分が受けるわけでもないのに緊張で胃が痛くなった。
二月。第二志望の私立大に共通テスト利用で合格したと、沢内の大きなひとり言で知った。よかった。下旬には第一志望の国立大の試験がある。
三月。国立大合否発表の日、痛む胃をさすりながら授業を終えて職員室に戻ってくると、甘酒をストローで吸っていた沢内が、もう一本同じものを放ってよこした。
「飲みな、祝い酒だ」
意味を理解した瞬間、鼻の奥が熱くなった。「……っす」と頭を下げて、甘酒を飲んだ。時が来れば俺が為したことにふさわしい結果が出る、それだけです。確かそんなことを言っていた。それなら、この結果を受け取るにふさわしい努力をしたんだろう。
卒業式の日は晴れた。東北の三月の風はまだまだ冷たいし、卒業ソングみたいに桜が咲いたりもしないが、学び舎を巣立つ者たちを祝福するように青い空は美しかった。
「佐久間先生、一緒に写真撮って」
式が終わると、昇降口から校門まで続く石畳の道に卒業生と在校生が集まり、思い思いの場所で別れを惜しむ。胸に卒業生の花のコサージュをつけた及川に腕を引っぱられて、弓道部が集まっているところにつれていかれた。朝陽もいた。顔を赤くして声を震わせる一年生女子に、第二ボタンをくださいと頼まれていた。
弓道部員が囲むなか、左を及川、右を学ランの二番目のボタンがなくなった朝陽にはさまれて記念写真を撮った。ちゃんと笑顔だったと思う。この日を迎えられたことが心からうれしかったから。
「佐久間先生、打ち上げ来ますよね?」
「いや、俺ちょっとやることあってさ。みんなで楽しんでこい」
「えぇー! そんなぁ」
残念がる重野に笑って手を振り、きびすを返すと、学ランの朝陽が立っていた。もう半年以上、目が合うことはなかったのに、今はこちらを見つめていた。
鹿のそれのように黒々とした虹彩の表面に、小さな光の粒が浮かんでいる。きれいだな、と思う。風が吹くように、水が流れるように、生き物が呼吸するように、自然に言葉がこぼれていた。
「会えてよかった」
黒い瞳がゆれた。
消えない後悔はある。けれど今はただ、可能性に満ちた未来をあゆんでいく彼を祝福する気持ちが胸にあふれている。その想いのまま、佐久間はほほえんだ。
「おまえは自分のやるべきことをやり抜けるすごいやつだから、どこに行っても大丈夫だ。どんな事態に直面しても、おまえなら絶対に大丈夫だ。がんばれ」
じゃあな。笑顔で手をあげて、朝陽の肩先をすり抜けた。
昇降口に向かいながら、終わった恋を空に高く投げるように、大きく息を吐いた。太陽の光があまりにまぶしくて、少しだけ、視界がにじんだ。
*
その後の三年間は、一日が二十時間くらいにちょろまかされてるんじゃないかと疑いたくなる早さで過ぎていった。
ただ、三年の間には色んなことがあった。
校長、教頭と相談の上、職員室でカムアウトしたり。次は教員と相談の上、生徒たちにカムアウトしたり。それで下準備は済んだので、学校の許可のもと、生徒が匿名でメッセージを送れるSNSを開設したり。文章ではうまく表現できない生徒が話をしに来られるよう、毎週水曜日の放課後に生物準備室を使わせてもらいたいと教科教員たちに頼んで、思ってもみなかった協力までしてもらえたり。
そういうことを始めた当初は、一人か二人の生徒の胸のつかえを少しでも軽くできたら儲けものだ、くらいの気持ちでいた。しかし実際にSNSのことを公表すると、想像していた数倍もの相談があり、それにひとつひとつ応えているうちに、さらに数は増えていった。生物準備室を訪れる生徒も。
中にはもちろん悪戯や中傷めいたものもあった。だが胸が痛むほど切実で悲痛な声もあり、どうにかできないかと必死にやるうちに、バランスを見失ってのめり込んでいた。授業や校務、部活の顧問の仕事もある中で睡眠時間を削ってやっていたら、ある日突然高熱が出て、数日間寝込む羽目になった。食料を届けに来てくれた沢内に、眉を吊り上げて叱られた。
「あなたが倒れたら元も子もないでしょ? 本当に力になりたいなら、あなたの面倒もきちんと見ないとだめだよ」
ぐうの音も出ないほどもっともで、その後はちゃんと睡眠時間だけは確保するようにした。一年くらいすると、だいぶペースをつかめるようになった。
そのうち近隣の自治体や学校から講演の依頼が来るようになった。「いや自分そんなたいしたものじゃないので」とぎょっとしながらお断りしていたが、それでも来る。校長からぜひにと勧められて断れなくなり、小中学校と高校の依頼だけ引き受け、カチコチになりながら話してきた。ただ、講演が終わったあとに思いつめた表情で相談しにきた生徒もいて、こういう機会もあったほうがいいのかもしれないと思い直した。ただ、テレビ取材の話だけは、すみません本当に無理なんでとお断りした。
そんな風に毎日を走っていくのに必死で、自分のすぐそばで起きていることには頭がまわっていなかった。
「佐久間先生、ちょっと」
教師になって四年目の四月、沢内が何か興奮した様子で声をかけてきたことがあった。しかし佐久間はその時、講演に招かれている隣県の高校へ行くためにあわただしく荷物をまとめていたところで、それを見た沢内は。
「あー……うん、いいや」
「え、何すか。気になるんですけど」
「たいしたことじゃないから。それより急いでるんでしょ、行って」
この時、沢内が何を言おうとしていたのか、知るのは実に一年後のことだ。
教師になって五年目、誕生日がくれば二十七歳になる年の四月下旬。朝の職員会議で、五月の連休明けから始まる教育実習の話が出た。正直、自分の忙しさにかまけていて、一年前から学校側と打ち合わせを重ねていた彼ら実習生のことについては何ひとつ知らなかった。
配布された実習生の名簿を見て、佐久間は時間が止まった気がした。
名簿の一番上、出席番号一番になることを運命づけられたような名前があった。
『秋山朝陽』
【つづく】