たかが恋の話 最終回
「L大学文学部四年の秋山朝陽です。本日より三週間、お世話になります。誠心誠意励みますので、ご指導よろしくお願いいたします」
真新しい紺色のスーツを着た青年が折り目正しく頭を下げると、起立した教員一同は歓迎の拍手で応えた。人事異動がかなり少ない私立校なので、四年前に卒業した彼のことを覚えている教員は大勢いるだろう。
まだ続いている拍手の中で、隣の席の沢内が「ちょっと」と肘で小突いてきた。
「佐久間先生、大丈夫? その顔どういう感情なの?」
「……いや、大丈夫っす」
「大丈夫に見えないなー」
今回、R大付属で教育実習を行う学生は四人。挨拶を終えた大学生たちは、指導教員について職員室を出ていく。姿が見えなくなってから、佐久間は自分が呼吸を止めていたことに気づき、大きく肩で息をした。
「……てか沢内先生、知ってたんならもっと早く教えてくれても」
「だって人気者の佐久間先生は大変お忙しそうでしたし? それに、もう吹っ切ってるなら、わざわざ教えるのも迷惑かもって思って」
沢内は教材をまとめて立ち上がりながら嘆息した。
「ごめんね、まだそんな顔するほど生傷疼いてるとは思わなかったよ」
先輩教員が授業に向かったあと、佐久間は椅子にもたれてため息をついた。確かに生傷は疼いている。名簿で朝陽の名前を見た時、こんなに時間が経ったのに自分は少しも忘れられていなかったのだと知り、愕然とした。
――そもそも、ブラックだから嫌だって言ってなかったか?
『うち、両親とも教師なんです。小さい頃から二人を見てて、とにかく教師にだけはなるまいって決めました』
それなのに教育実習って、どうして。
教育実習生、秋山朝陽の評判はすこぶる良かった。
簡潔、快活、品行方正。佐久間とは休憩中に雑談する仲である国語科指導教員も「いいねえ」と褒めている。「彼は教師がどう授業をしているかだけじゃなく、教師の言葉に生徒がどう反応するかもちゃんと見ている」のだそうだ。教科指導教員の判断で、朝陽は実習四日目には実際の授業を始めた。実習生の中のトップバッターだ。
教科がまるで違う佐久間は、黙っていれば朝陽と関わる場面はほぼない。実習生のうち二人は生物と化学を担当しているので佐久間によく授業見学依頼をしてくるが、国語担当の朝陽は理系教員と関わることはない。と思ったら、朝陽が文系授業だけではなく理系授業まで見学の依頼をしていることを知って地味にショックを受けた。お、俺には?
教育実習生は職員室の隣の会議室を控室にしているが、職員室で教員の話を聞いていたりもする。朝陽はとくに熱心に話を聞いてまわっていた。しかし佐久間には近づいてこないし、目が合った時はすぐに逸らされた。おい、ちょっと、それはなくないか?
そんな感じで心が乱れっぱなしだったが、実習開始から二週間目、朝陽の授業をのぞく機会があった。
佐久間は校務分掌で学校のホームページの管理も担当している。そこに実習生たちの授業風景を載せることになった。授業中に撮影係が行く、ということはあらかじめ指導教員たちから実習生に伝えてもらっている。佐久間は空き時間を使って、デジカメを手に実習生が授業をしている教室をまわった。
「字面だけ見るといかついけど、魚玄機は女性詩人。唐時代末期の高級娼婦」
そっと教室の後ろ側のドアを開けた途端、そんな張りのある声が聞こえてきて、佐久間はたじろいだ。高級娼婦?
ワイシャツの袖を折りたたんだ朝陽は、一瞬佐久間に目を向けたが、すぐに黒板を細長い指で示した。黒板には、端正な字で漢詩がつづられている。
「妓楼で育った魚玄機は、その美貌と詩の才能で長安でも有名だった。それで李億という官僚に見初められて妻になる。でも正妻じゃない。愛人。だから立場は弱い。この詩は、李億に見捨てられた魚玄機が、彼に送ったもの。ざっくり訳すと、こんな内容」
普通なら生徒に訳させそうなところ、朝陽はよく通るテノールで意訳をした。
「『――今でもあなたを想い、ひとり眠るさびしさに枕を濡らしています。春の花の中にいても、心はかなしく、腸もちぎれるほどつらい。それでも、ずっとお慕いしていたあなたのもとへ自ら行ったのだから、見捨てられた今でも、あなたを恨んではいません』。こんな感じ。どう思う? 今日は五月十八日だから……十八ひく五で、十三番の小篠くん」
「え。えー……彼女がいたことがないのでわかりません。でも彼女ができたら、絶対捨てたりしないで一生大事にします」
生真面目な回答に、どっと笑いが起きる。朝陽もおごそかに頷いた。
「君は立派な人間だ、その心根を忘れないでほしい。女性の意見も聞きたい……じゃあ、足して二十三番の新川さん」
「捨てられても恨んでないとか嘘くさい。いい子演じすぎ。と、思います」
うんうんと頷く女子が多数。率直な意見を聞いた朝陽が破顔したので、佐久間は驚いた。記憶の中のスン顔少年は、無愛想ではなかったが、人前ではあまり笑わなかった。
「だね。俺もそう思う。ただ、魚玄機はこれを李億に送ってる。だから、嘘くさいほど李億を責めず、今でもあなたを慕っていますと言ってるのは、あわよくばこれを読んだ李億が、自分への愛情をとり戻して帰ってきてはくれないか――そういう切ない願いがこもってる。そう、俺は思ってる」
佐久間はデジカメで一枚撮ったあと、生徒たちの様子を観察した。集中している。みんな「知りたい」という根源的欲求を刺激され、朝陽の言葉に耳を傾けている。
「しかもこれ、すごくしおらしいことを言ってる詩ではあるけど、高度な漢詩テクも駆使されてるんだ。ちょっと聞いて」
すっと息を吸った朝陽は、なんと原文をすらすらと中国語で読み始めた。音楽のように流麗な抑揚をもった本格的発音に生徒たちはどよめき、朝陽が読み終わると「おー!」と拍手した。朝陽は「驚くには及ばない」という感じの真顔で手のひらを向けて拍手をやめさせた。
「わかったかな? 全部ではないけど、それぞれの行の最後の文字が、よく似た発音のものでそろえられてる。つまり韻を踏んでる。ラップみたいに。これが漢詩テクその一。それに最後の『あなたを恨んではいません』のところ、魚玄機は直接的にそう書くんじゃなく、李億を美男子詩人に喩えたり、古い時代の人の名前を引用したりして、味わい深く心情を伝えている。これが漢詩テクその二。魚玄機がどれほど教養豊かだったかがこの詩からわかるし、彼女も詩を送った李億にそれが伝わることを狙ってたはずだ。捨てられたまま黙って泣いてるんじゃなく、自分がどんなに寛容で賢くていい女か、とり戻したい男に伝えようとしてる」
朝陽は黒板に書いた詩の上に、そっと手を当てた。
「詩は、それをつづった人の人生のかけらです。レ点、一二点、上中下点にばっかり気を取られないで、そこには実際にこの世界に生きていた人間のドラマがあることを感じてほしい。ほんとにさ、めちゃくちゃ面白いんだよ、漢文って」
真顔で語っていた実習生が不意に楽しくてたまらないという笑顔を見せると、ふわっと教室の空気がほどけて、明るいさざめきが起きた。佐久間はもう一枚、生徒たちの笑顔を撮影し、音を立てないように教室を出た。
その日の昼休み、購買に行くと、見覚えのある後ろ姿が自販機スペースにあった。
「面白かったよ、授業」
小さく肩をゆらした朝陽は、一拍置いてふり向くと、ちゃんと佐久間と目を合わせた。スン顔を通り越して無表情ではあったが。
背が伸びた、と思う。体つきにも顔つきも、もう少年めいたところはまったくない。まる三年。過ぎ去った時間の長さをありありと感じた。
「俺、高校時代は古文漢文がかなり苦手だったんだけど、ああいう授業だったら、もっと好きになってただろうなって思ったよ」
朝陽は返事をしない。別れた時よりも精悍になった横顔には、どんな感情も見えない。
卒業式で、これが最後と思って声をかけた。勝手にそれですべて終わったような気になっていた。だが、朝陽の中ではそうではなかったのだ。彼を傷つけた自分は、今もゆるされていない。それは、無理もないことだった。
教育実習生は常に観察され、ジャッジされている。今のところ朝陽が佐久間を避けていることに気づいているのは沢内くらいだが、ほかの教員も気づくようになって、揉めているように捉えられたらまずい。大事な時期にいる朝陽に耐えがたい思いをさせた、あんなことは二度とくり返してはいけない。
もう、こんな風に声をかけるのもやめたほうがいい。
「じゃあ俺、行くから――」
きびすを返そうとした時、いきなり朝陽が、少なくとも佐久間が着任してからまったくラインナップが変わっていない古い自販機のひとつを指した。
「買ってください」
びっくりして、とまどいつつも、佐久間は紙パック入りのジュースが並んだ自販機に百円玉一枚と十円玉二枚を投入した。朝陽はすぐにボタンを押した。
コーヒー牛乳。
「ありがとうございます」
落ちてきた紙パックジュースをとり出すと、朝陽は礼儀正しく頭を下げて去った。佐久間は少し考えて、自分も同じものを買った。
新米教師だった頃、コーヒー牛乳のパックを持って夕暮れの桜並木を歩き、弓道部の部室にひとつだけ残っているスクールバッグのそばにそっと置いてきた。
次の日、職員室の散らかった机には、黒糖飴が二粒置いてあった。趣味の渋さに笑いながら口に入れた飴は、とても、甘かった。
驚きは続いた。その日の放課後、佐久間が切りのいいところで仕事を中断して弓道場へ行くと、やけに楽しそうな声が聞こえてきた。
中に入ってぎょっとした。
ワイシャツ、ネクタイ姿の朝陽を、部員たちがとり囲んで和気あいあいとしていた。
「あ、佐久間先生。教育実習生の方が来てくださいました。秋山先生も、佐久間先生に指導してもらったって聞きました」
現部長の三年生女子がはきはきと報告してくれた。「そっか」と佐久間はかろうじて笑顔を作ったが、相当ぎこちない自覚がある。
「でも秋山は俺が指導したっていうより、俺の代わりにみんなの指導をしてくれてたんだよ」
「すごい。秋山さんって東北選手権の個人戦で優勝したんですよね?」
「うん、まあ」
「大学でも弓道やってるんですか? 大学の弓道は的が違うってほんと?」
「そう。みんなが使ってる霞的じゃなくて、星的っていう白地の真ん中に黒丸ひとつのやつを使う。俺は霞的のほうが好きだけど」
「大会とか出てるんですか? どうですか?」
「まあ、そこそこ」
「去年のインカレでは、個人戦三位だよ」
つい口をはさむと、部員たちに囲まれた朝陽が目をみはったように見えた。個人戦三位と聞いた生徒たちがどよめく。
「インカレ? インドカレー的な?」
「馬鹿なの? 大学生の全国大会だよ」
「日本の大学生の中で三位ってこと? すげ!」
そこで、ずいと朝陽の前に進み出た男子部員がいた。
「俺、先週の高総体県大会で個人戦二位でした。インターハイ出場も決まってます。勝負してもらえませんか?」
勝気な笑みを浮かべるこの三年男子は、技量はピカイチなのだが、鼻息の荒さが心配要素でもある。「田沼、こら」と佐久間が止めようとするのを、通りのいい声がさえぎった。
「弓道に勝負は存在しない。唯一闘うとするなら、それは自分自身だ」
静かな気迫で田沼を黙らせた朝陽は、一転、不敵な笑みを浮かべた。
「だけどせっかくだから受けて立とう。ほかにも俺に挑みたい剛の者がいるなら、全員並べ」
歓声をあげて腕自慢たちが次々と弓と矢を持ってきて、男女も学年も関係なく射場に並ぶ。初心者たちやそこまでの自信がない部員も、後ろに並んで楽しそうに見守る。「ちょ、おい……!」とあわてて声をあげた佐久間は、けれど言葉を切った。
つい先週、高総体県大会が終わった。インターハイ出場者、そこに及ばなくとも東北選手権出場資格を得た者がいた一方で、本番で思うような力を発揮できなかった者も少なからずいた。そういう部員たちにどうやってモチベーションを維持してもらうか、佐久間も悩んでいたところだった。
でも今、部員たちは誰もが笑顔だ。楽しいという気持ちがあふれて、射場の空気がキラキラ光っている。
朝陽はネクタイを外して、女子から借りた胸当てを付けた。「離れ」の瞬間、弦がボタンを巻き込むのを防ぐためだ。右手に弽も付け、二本の矢と弓を携えて射場に立った朝陽は、若武者さながらだった。
総勢十四人による射詰競射が始まった。一射目を外してすごすごと退場する者。二射目で悔しそうに下がる者。三射目を終えた時点で射場に残ったのは三人だけだった。朝陽と、二年女子と、先ほど朝陽に勝負を挑んだ田沼だ。
四射目を射貫いたのは朝陽と田沼だけ。いよいよ緊張感が高まった五射目、力んでしまったのだろう、田沼が的を大きく外した。きつく唇を嚙みしめて下がっていく。
一方の朝陽は、どこにも気負いは見えない。静謐な空気をまとう立ち姿で、矢をつがえ、引き絞り、放つ。生徒たちは次第に口数が減った。美しい射に見入るだけではなく、鍛錬を積み重ねてきた弓道家の動きから、学ぼうとしているのが目の光からわかる。
朝陽がたったひとりで七射目まで中てると、部員たちはざわついた。ここまで皆中させるのは信じ難いことなのだ。そして八射目が的中した時、ざわめきはどよめきになった。
九射目がわずかに的を逸れた時、朝陽は作法どおりに美しい揖をして矢庭に感謝を捧げた。わっと拍手が起きた。
朝陽はもうヒーローになってしまい、うまく中てられないのはどうしてなのか教えてほしい、射形を見てほしい、と部員たちに次々と迫られていた。朝陽は面倒がる様子もなく、順番にそれに答えていく。弓道部顧問は今日は完全に出る幕なしで、すみから部員たちと朝陽をながめていた。どうしても思い出してしまった。面倒見のいい部長が、初心者の一年生を指導したり、同輩たちとアドバイスし合っていた、かつての光景を。
「今日、ありがとな。実習中で忙しいのに。あいつら、すごく楽しそうだった」
結局部員たちが帰るまで残ってくれた朝陽に、佐久間は玄関で礼を言った。「いえ」と素っ気ない声音で答えた朝陽は、黒い革靴を履き終えると、板間に立つ佐久間をふり向いた。
以前よりも鋭くなった黒い瞳に真っ向から見つめられて、思わず息を詰めた。
「どうして俺のインカレの順位なんてご存じなんですか?」
「……インカレのチェックしてたら、たまたま、大学名と名前が出てたから」
「たまたま? 俺のことを気にして調べてたんじゃなくて?」
じわりと頬骨のあたりから耳にかけてが熱を持った。さいわい玄関には夕陽が射しこんでいる。それで自分の顔色が誤魔化されてくれることを切に願った。
「俺はたまたまじゃなく、全部知ってますよ。先生が学校でカムアウトしたことも、生徒の相談に乗ってることも、あちこちの学校で講演してることも、でもテレビは絶対断ることも、この前はローカルのラジオに呼ばれて生徒と電話で話したことも、その時にめちゃくちゃ緊張して嚙みまくってたことも、先月の市の広報に先生のコラムが載ってたことも」
驚きというものは、ある地点を越えると完全に肉体と思考を停止させるのだと知った。
朝陽は黒い瞳を細める。
「少しは俺を意識しました?」
――少しは、って何を。だってずっと無視してたのも、避けていたのも、素っ気なかったのも、全部そっちのほうで。
何ひとつ言葉にできず、馬鹿みたいに突っ立つだけの理科教師に、不敵な実習生はきびすを返しながら流し目をよこした。
「もっと意識してください。俺から目を離せなくなるくらい」
*
沢内いわく、その後の佐久間は「かろうじて仕事してるぽんこつ」だったそうだ。挙動不審で上の空、授業中は通常営業になるものの、職員室に入るなりまたぽんこつに逆戻り。部活でも「先生、どうしたの? よかったら話聞くよ?」と十歳も下の部員たちに気遣われるありさまだった。
一方、理科教師を情けないありさまに陥らせた張本人は、着実に力をつけ、生徒たちと関係を築いていた。そして五月最後の金曜日に、教育実習の最終日、研究授業の日を迎えた。
研究授業は教育実習の集大成といえるもので、指導教員以外にも都合のつく教員が参観し、授業後には実習生と教員たちとの合評会が開かれる。
朝陽の授業は『臥薪嘗胆』についてだった。
呉の王、闔閭は、越に侵攻するも敗北して失意のうちに死ぬ。その際、後継者の夫差に「必ず越を破って仇を取れ」と託す。夫差は「三年以内に必ず仇を取る」と誓い、軍備を整えるかたわら、自分は薪の上で眠った。痛みによって主が受けた屈辱を忘れないようにするためだ。これが『臥薪』の由来だ。
やがて夫差に攻め込まれた越は陥落し、越の王、句践は復讐を誓う。越の民衆と富国強兵に励むかたわら、自分は苦い肝を嘗めることで、夫差から受けた屈辱を忘れまいとした。これが『嘗胆』だ。権力者となって驕りが見え始めた夫差を、句践は打ち倒す。越が呉に敗れてから、じつに二十年後のことだ。
朝陽はあらかじめこの前の授業で現代語訳などの下準備をしていて、今回の授業ではこの物語を生徒たちに劇として上演させた。選出された役者が演じるに当たって、グループ分けされた生徒たちは漢文の内容について話し合い、解釈を深める必要がある。意見を出し合う生徒たちの顔を見れば、楽しんでいるのは佐久間にもよく伝わってきた。授業の最後に生徒たちによって上演された劇は、短いながらも見ごたえがあったし、こんがらがりがちな人物の相関関係も劇にすることで整理され、漢文が苦手な佐久間でもちゃんと内容が理解できた。いい授業だった。
最後に朝陽は今日で実習が終わることを生徒たちに告げ、挨拶をした。大きな拍手が起こり、こんな声もかけられた。
「がんばってください」
それに朝陽は、やさしい笑みで答えた。
「はい、いい先生になれるようにがんばります」
合評会には、佐久間は仕事の都合で参加できなかった。だが心配はしていなかった。朝陽流にいえば、彼が為したことにふさわしい評価がされる。それだけだ。
現在校内では、教員、養護教諭、スクールカウンセラーからなる性的マイノリティの生徒に対するサポートチームを作ろうという動きがあり、佐久間もミーティングに出席した。苦しさを感じる生徒をケアできる体制があるのはいいことだ。しかしそれが理解を示したい大人の自己満足に終わっていたら意味がないし、マイノリティの生徒のすべてが悩んでいるわけでもないし、生徒の悩みはセクシュアリティだけでもない。バランスのとり方が難しく、話し合いが一段落した時には、夜八時をまわっていた。腕時計を見た佐久間は、ため息をついた。
最後に話をしたい気持ちがあった。けれど、この時間ではきっともう帰ってしまっただろう。
しかし教員の姿もまばらになった職員室に戻ると、散らかった机の上に半分に折ったルーズリーフが置かれていた。
『弓道場にて待つ』
は、果たし状? 達筆で記されたルーズリーフには、文鎮代わりのように黒糖飴が二粒のせてあった。
荷物をまとめて、すっかり暗くなった桜並木の道を歩いた。射場の照明が点いているのが、遠目にも見えた。パンッ、と矢が的を射る軽やかな音が聞こえる。
玄関で靴を脱ぎ、射場に入ると、ワイシャツ姿に胸当てをした朝陽が、弓を構えていた。あいかわらず、見惚れるほどに美しい「会」。矢が的に中たるかどうかなんて二の次のことだとわかる、努力の証だ。
夕闇の中に放たれた矢は、それでもやはり見事に正鵠を射て、それを見届けた朝陽は弓を下ろした。
「やっぱりブラックだ、教師なんて」
古い壁掛け時計で時刻を確認した大学生はため息まじりに言い、佐久間と向き合った。
「授業参観にはろくに来てもらえたことがないし、三者面談もどこの学校も似たような時期にやるので、両親のどっちがいつ来られるのか、調整するのにいつも苦労してました。卒業式も、入学式も、どっちも来られないか、いつもぎりぎり。だから教師だけは絶対にやめておこうって思ってました」
でも、とかすかな声が空気をゆらす。
「気持ちがだんだん変わったのは、高三になってからです。教育実習で生物の授業をしてた先生が、次の年には本当の先生になって戻ってきて、部活の顧問になった。その人は、やたらと腰は低いし、涙もろいし、あんまり教師っぽくなかったけど、いつも一生懸命で俺たちのことをよく考えてくれる、いい先生だった」
胸が詰まる。だけど黙って耳を澄ます。
「その人は、俺が卒業したあとも、いい先生でした。俺は別にカムアウトなんてしなくていいと思ってるけど、でも、自分がそうじゃないかと思い始めた時、相談できる人がいたらって何度も思った。俺がちゃんと色んなことを受け入れて強くなれるまで、親にも祖父にも秘密にしてくれて、何でも話せるような人がいたらって。その人は、たくさんの生徒にとってのそういう存在になろうとしていました。教師として授業もして、校務分掌とかの七面倒くさい仕事も抱えて、その上こんなことをしてたら寝る暇もないんじゃないかって心配になるほど、ずっと頑張っていた。俺は」
声がかすれ、朝陽は唇を引き結んだ。
心を静めるように深く呼吸し、睫毛を伏せたまま、ゆっくりと口を開く。
「俺は、その人に、言えないことがあった。どう伝えればいいかわからなかったし、何よりその人は先生で、俺は生徒だった。でもその人は毎日学校に行けば職員室にいて、廊下で会えば笑って挨拶してくれて、部活を引退したあとも週に一回は会えたから、俺はだんだん、いい気になった。気をつけなければいけないという気持ちを緩ませて、その人に近づこうとした。俺が苦しいと言えば、きっと手を伸ばしてくれるやさしい人だとわかっていたから」
吐息が、かすかに震える。
「俺は、わかっているつもりで何もわかっていなかった。俺が少し迂闊なことをしただけで、その人の社会的信用や教師としての立場を脅かすことがあるということを。そして俺は、その人が責められていても何もできないガキだということを。あんなに自分に失望したことはなかった。もう、絶対に、その人を追い詰めるようなことをしたくない。今なら、もっと別のやりようがあるとわかります。でもガキだった俺にできたことは、ひどい態度を取ってその人から逃げることだけだった。ゲイだって知れ渡っている俺と親しくしているところをまた誰かに見られて、その人が責められる。そんなことがもう二度と起きないように」
肺が潰れそうなほど深いため息をつき、朝陽は顔を上げた。
「俺は教師になります。あの時の俺のように、自分が願うことのためにどうすればいいのかわからず苦しんでいる生徒と、一緒に言葉をさがす教師になります。佐久間先生」
「……はい」
「ひとつ質問させてください」
まっすぐなまなざしで、かつての教え子は言う。
「俺はこの学校を卒業して、大学生になりました。教育実習も今日で終わりました。もう、大丈夫ですか。俺は、あなたを好きだと言っても、あなたに迷惑をかけることはないですか」
冬が春に生まれ変わる時に吹く強風のように、春が夏にうつろう時に降り注ぐ雷雨のように、切なさが心臓を締め上げ、感情の嵐はやがて目の前に立つひとりの青年の形に結晶化した。
「はい」
黒い瞳がゆれ、深い色合いの虹彩の表面に水の膜が張っていく。
そのきれいな目を、今度は自分がまっすぐに見つめる。
「だけど、ひとつ訂正がある。俺は迷惑をかけられたことなんてない。ただの一度だってない。傷つけられたことも、脅かされたことも。秋山朝陽、君は初めて会った時から、俺に大切なものだけをくれていた」
朝陽はあふれた涙が頬を濡らした瞬間、子供のように顔をゆがめ、前髪をきつく握りしめながらうつむいた。
衝動的に彼を腕の中に入れようとしたところで、佐久間は我に返った。
「抱きしめていい?」
「……黙ってさっさとやれよ」
涙声の苦情に笑って、今度こそ力いっぱい抱きしめた。腕から伝わる体温に、懐かしい匂いに、離れて過ごしてきた時間を思う。
長かった。さびしかった。この弓道場でただ笑って過ごせていた月日を思い返して、何度も苦しくなりもした。けれど、つらいばかりの別れではなかった。あの痛みがあったから、自分は自分のやるべきことを知った。朝陽も自分がどんな人間になるべきか、その手で何を為すべきか、この四年間懸命に探してきたのだと、教壇に立つ姿から伝わってきた。
そんな朝陽が好きだ。もう隠すことなく言える。
これからは一緒に歩いていける。
いろんな形の命と想いがひしめくこの世界の、どこにでも転がっているありふれた恋の話を、これから二人でつづっていく。
【おわり】