たかが恋の話 第二回

 今年度の東北高校弓道選手権大会の開催地は福島。R大付属高校弓道部からは、二年生男子重野、三年生女子及川おいかわ、そして部長の朝陽が個人戦に出場する。
 開催日は六月二十四日、二十五日の二日間だが、引率いんそつ教師と三人の精鋭たちは、前日の二十三日の早朝に新幹線に乗り込み、こおりやま市に到着した。会場の弓道場で行われる公開練習に参加するためだ。
「調子悪いっす全然あたんねっす俺きっと明日もだめっす
「暗いよ、シゲ。大会前のネガティブ発言禁止。いっぱい食べて寝て明日になれば調子戻ってるって」
「それに中る、中らないは大事じゃない。重要なのはおまえがどういう姿勢で弓を引くかってことだよ」
 たっぷり練習をして帰ってきた夕方、宿泊所の旅館の座敷で夕食のおぜんを全員で囲んだ。髪を活発そうなショートヘアにした及川が、お造りのマグロをしょうにちょんちょんつけながら朝陽にしかめつらを向けた。
「はい出ましたー、朝陽の精神論。大会に出る以上は勝負でしょ、勝負には勝たなきゃでしょ、勝つには中てなきゃでしょ」
「出ました、及川の勝負主義。弓道は道だろ、道はプロセスだろ、結果じゃないんだよ。自分がどういう人間か、どう生きてるかってことが凝縮されて、その結果として中るんだよ」
「前から思ってたんだけどさ、あんたおじさん通りこしておじいちゃんみたいだよね」
「うるせえ」
「ぶ、部長も及川さんもしずまりたまえ!」
「おーい、けんしないでご飯食おうぜ。重野が困ってんでしょうよ」
「秋山くんって部内だと結構じょうぜつなんだね。クラスだともくだからびっくりしちゃった」
 明るい声で笑ったのは、引率の佐久間の補佐として同行した沢内だ。男性教諭と男子生徒二人の中に女子生徒一人だけというのは何かとうまくないということで、女性教諭の沢内が同行を引き受けてくれた。新幹線と宿泊所をセットで予約して割安になるよう手配してくれたのも、旅行好きの彼女だ。
「沢内先生。こいつ外面そとづらいいから外じゃうまく隠してるけど、弓道場だとほんと細かくて口うるさいじゅうとだから」
はしで人を指すな及川、ぎょうのなってない女だな」
「部長はいつもためになること言ってくれてます、俺わかってるっす!」
 にぎやかな夕食をとったあと、明日に備えて体を休めなければいけない生徒たちはそれぞれ風呂に向かった。教師二人だけが座敷に残ると、沢内が食後のお茶を飲みながら口を開いた。
「秋山くんと弓道部の子たち、なんていうか普通ですね。少し心配してたんですけど、よかった」
「そうですね。及川と秋山は小学校から一緒らしいんで特に気心が知れてるのもあるだろうけど、部内はもうほんと、普通です」
 朝陽がひたすら普段どおりの態度をつらぬいたのがよかったのだろう、一瞬波立った部内の空気は、さほど時間をかけず元に戻った。もちろん生徒によって「受け入れた」「気にしない」から「正直苦手になった」くらいまで気持ちにはグラデーションがあるようだろう。けれど、色んなスタンスの人間がとりあえずうまくやれている。それが大切なのだ。
 翌朝、朝ごはんをしっかり食べた生徒たちをつれてバスに乗りこみ、会場の弓道場に向かった。ちゃんと予定時間に会場入りできて佐久間はほっと息をついた。顧問の役目はここまで。ここからは生徒たちの戦いだ。
 団体戦のあと、個人戦予選が始まった。弓道では四射を一セットとし、これを「立ち」という。予選は二立ちの成績を競う。六位同中までの選手が決勝進出だ。
 二年男子の重野は、残念ながら八射三中と振るわず、予選敗退となった。三年女子の及川は八射六中と健闘し、佐久間は正直これは決勝に行けるだろうと思ったのだが、さすがは東北のつわものが集結する大会だ。今回の女子は皆中かいちゅう二名、八射七中が四名という信じがたい的中率で、及川は惜しくも決勝進出は叶わなかった。よっぽどくやしかったのだろう、弓道場裏のビニールシートを敷いた陣地に戻ってきた及川は、唇を固く引き結んで目を赤くしていた。佐久間がスポーツドリンクのペットボトルをさし出すと、やけ酒を浴びるように一気飲みし、沢内が「がんばったね」と背中を叩くと少し泣いた。
「朝陽、かたきてよ」
 皆中で決勝進出を決めた朝陽を送り出す時、及川が腰に両手を当てて言った。対する朝陽はスン顔でひと言。
「弓道に仇は存在しない」
 佐久間も大勝負に挑む生徒のために顧問らしい言葉をかけようと、内心の緊張を押し隠してこぶしを握ってみせた。
「お、落ち着いてな。今まで練習してきたものはおまえの中に残ってる、これまで頑張ってきた自分を信じて
「先生が落ち着いてください。俺はいつも通りにやるだけです」
 午後一時半、個人戦決勝開始。決勝はづめきょうしゃ、選手たちが順に射を行って外した者から敗退していくという形式だ。予選の成績はリセットされるため、たとえ予選で皆中した者であっても、最初の矢を外せばそこで終わりになる。
 今大会は男子も女子に負けず劣らずの猛者もさぞろいで、決勝出場者は十四人もいた。白道着、黒袴姿の弓引き少年たちがずらりと居並んだ光景は壮観だ。しばにわを囲む観覧席は、応援の生徒や監督教員、保護者たちで埋め尽くされている。佐久間も重野、及川、沢内と一緒に射場から比較的近い席に陣取ったが、緊張のあまり内臓がひっくり返りそうな気分だった。
 しかし、射場のちょうど中央に立った朝陽はまっすぐに的を見据え、一射目、二射目と的中させていく。まさしくいつも通りに。
「きれいですね」
 隣でつぶやいた沢内に、佐久間も頷いた。
 射場には同じとしかっこうの少年たちが整然と並んでいる。それでも気がつくと、朝陽のしょのひとつひとつを目で追ってしまう。こんなにも美しい射を彼に教えたという祖父は、きっと熟練の弓道家だったのだろう。
 だが美しさだけではなく、朝陽の射は、澄んでいるのだ。
 人間は誰でも勝負には勝ちたいし、名を揚げたい。だが朝陽は自分を大きく見せようとする心を律し、弓を引くことを通して、自己とたいしているように見える。自分の弱さを受け入れ、本当の強さを問うて自分と戦っているように見える。教育実習中に早朝の弓道場で初めて会った時もそうだった。ひたむきに弓を引く少年の姿に、時間も忘れて見入っていた。
 一人、また一人と外した選手が下がり、三射目が終わった時点で射場には朝陽を含めて五人の選手が残るだけになった。ここまで来れば次の一射ですべてが決してもおかしくない。
 それでも射場に立つ朝陽はよく落ち着いて見えた。深い集中状態にあるのがわかる。
 だが、朝陽が四本目の矢をつがえた直後だ。
 朝陽が弦を引き絞った瞬間、ヒャンッと高い音を立てて弦が弾けるように切れ、朝陽の左手から弓が飛ぶように落ちた。佐久間は息をみ、観覧席にもどよめきが起きた。
「あああ、部長!」
「うそ、弦切れ?」
 弓弦ゆづるしょうもうひんでいずれは必ず切れるものであり、それが試合中に起きたとしても射手に非はない。ただ、行射の流れを止めてしまう手前、射手は礼法にのっとってすみやかに対処しなければならない。
 朝陽が動きを止めたのはほんの一瞬で、すぐにり足で弓の落ちた場所まで歩き、跪座きざして弓を拾った。次に、膝をついたままにじり寄って切れた弦を拾い、また摺り足で射位に戻る。そこで朝陽はゆう(上半身を十度程度傾斜させるお辞儀じぎ)をした。行射を止めたことに対して恐縮を表すためだ。腕章をつけた進行係が朝陽のもとへやってきて、弓と切れた弦を受け取り、奥に引っ込んでいく。弦を張り替えてもらう間、朝陽は再び跪座し、じっと待つ。
 佐久間も高校三年の夏に出場した大会の団体戦で弦切れが起きた。大会であっても、ほうどおりに対応すれば弦が切れても問題なく射は続けられる。減点されるようなこともない。けれど思わぬトラブルに見舞われた動揺どうようと、仲間に迷惑をかけているという焦りからその後は調子を崩し、結局その大会を最後に引退することになった。ずっと一緒に練習してきた仲間たちと挑んだ高校生活最後の大会を、自分のせいで台無しにしてしまったことが死ぬほど申し訳なかった。今思い出しても、心臓がねじれるような記憶だ。
 焦るな。俺のようにはならないでくれ。おまえは絶対に大丈夫だから。両手を握りしめながら祈るような思いで跪座する朝陽を見つめていると、ふっと目が合った、ような気がした。
 たぶん気のせいだったんだろう。観覧席には二百人を超える人間がひしめいている。その中から佐久間を見分けることなんてできるわけがないし、朝陽自身、それどころではなかったはずだ。
 やがて弦を張り替えた弓が運ばれてきた。朝陽は作法どおりに膝をついたまま弓を立て、矢をつがえ、立ち上がる。矢庭に顔を向け、足を開く。時間が止まったような錯覚さっかくさえ抱く静謐せいひつな立ち姿だ。弓を握る左手と、矢をつがえた右手を頭上でそろえ、弦を引き絞っていく。気迫が充満していくような張りつめた時間ののち、非の打ちどころのない「かい」が完成する。
 矢をつがえた右手のかすかな震えがぴたりと消失した瞬間、弦音とともに矢が放たれ、高らかな音を立てて的に突き立った。
 ど真ん中!
「メンタル強っ」
「部長ですから!」
 朝陽が文字どおり正鵠を射た四射目では、他校の生徒がいっきに三名敗退。これで残るは朝陽を含めて二名となった。
 次の五射目はどちらも的中。続く六射目もまたまた両者的中。呼吸すらはばかられるような緊張感が矢庭を包むなか、佐久間の隣で重野が呟いた。
「やばい、部長、那須与一なすのよいちが降臨してる」
 七射目、最初に射た他校生徒の矢が的を外した。佐久間は心臓が縮みあがるような心地だった。外した時よりも、次を中てれば勝つというこんな場面のほうが力んでしまうものだし、その雑念が今まで積み上げてきたものを一瞬で粉々にしてしまうことがよくあるのだ。
 だが朝陽は、涼やかな風に吹かれているような静けさで的だけを見つめていた。矢をつがえる、息も忘れるほど美しい所作。弦がいっぱいに引き絞られ、矢が放たれる。
 再び矢は、かすみまとの中心の白丸を射貫いぬいた。
 歓声と拍手が起きた。「きゃあ! やりましたね、佐久間先生!」と沢内が興奮しながら揺さぶってくるが、何も言葉が出てこない。かくかくと頷きながら何とか拍手をした。及川もうれしそうに手を叩いていたし、重野に至っては「ぶぢょー」とむせび泣いていた。
 一方、射場で礼をする朝陽は、やっぱり退場するまでスン顔だった。

 スタンドマイクが運び込まれた射場で、個人戦表彰式が催された。インターハイ出場予定者もいた中で優勝した朝陽が連盟会長から賞状を渡された時、大きな拍手が起こった。
 また朝陽は、個人競技男子の部において、技能優秀賞を授与された。
 弓道は的中だけを目的とするのではなく、射技、礼節、品格、精神性、様々なものを求められる武道だ。そうした観点から厳正に審査した結果、団体戦では男女各部から一校のみ、個人戦では男子、女子それぞれ一名のみに与えられるのが技能優秀賞で、R大付属では受賞は史上初のことらしい。
「あんたこういう時くらい笑ったら?」
「うるさいな、笑おうが顔しかめようが俺の自由だろ」
「うう、部長、ほんとすげえっす。これで引退なんて俺イヤっす、もっと一緒に部活したいっす」
「重野、泣くな。記念写真なんだから笑顔、笑顔で」
 横断幕の前に及川、賞状を二枚持った朝陽、重野を並ばせて記念撮影をしたあと、大会のいんを味わうひまもなく片付けに取りかかった。荷物をまとめたら、即バスに乗って駅まで移動だ。
 夕陽をながめながらバスに揺られて駅に着き、みんなで駅弁を買って新幹線に乗り込んだ。
 早めの夕飯の駅弁を食べ終わると、重野は糸がぷつんと切れたように眠ってしまった。通路を挟んだ向こう側の二人掛けの席では、及川と沢内も眠ってしまっている。三人掛けの座席の通路側に座った佐久間は、後輩に窓際をゆずってきゅうくつな真ん中の席に座っている朝陽に顔を向けた。
「秋山も疲れただろ。着いたら起こすから、休んで大丈夫だぞ」
「平気です。寝る時は自分の布団で準備万端整えて寝たいんです、俺」
 パーカーとチノパンに着がえた朝陽は、駅弁だけでは足りずに買ったあんパンをほおりながら言うが、やっぱりまぶたが重たそうだ。弓道衣で射場に立っていた時よりもずいぶんあどけない姿をながめるうちに、ふっと口からこぼれていた。
「ありがとな」
 あんパンをもうひと口かじろうとしていた朝陽が、目をまるくする。佐久間もたぶん同じような顔をしていた。お疲れさん、と本当は言うつもりだったのに。
「いやあのはなはだ私事で恐縮なんだけど、俺も高校最後の大会で弦切れしてさ。大事な団体戦だったのに立ち直れなくて、だめになったんだ。弓道もそれでやめた。でもおまえはちゃんと平常心保って、優勝までした。それ見てたら、思い出すのもきつかった記憶が浄化されたっていうか、あれがあの時の俺だったんだって思える感じに変化したので、だから、ありがとうございました」
 本当に教師か? と我ながら疑わしくなるほどのたどたどしさだ。でも、本心だった。
 再び立ち上がった朝陽が美しい射で的のど真ん中を射貫いた時、長いあいだ記憶の底でうずくまっていた高三の夏の自分を、明るいところに連れ出してもらったような気がした。
「俺も、動揺はしてました。大会で弦が切れたのは初めてだったし、一瞬、頭の中が真っ白になって」
 食べかけのあんぱんをながめながらぽつりと言う朝陽を、驚いて見つめた。
「完全に落ち着いてるように見えてたぞ」
「それは作法がそう見せたんです。礼法って、心が追いつかなくてもある程度までは射手をそれなりにしてくれるものだから。あの時は自分でも集中が切れたのがわかって、心臓が胸じゃなくて耳の奥でバクバクいってる感じだった。でも観覧席のほうを見たら、必死のぎょうそうで手を握りしめてる人がいたから」
 言葉の意味を理解するまでに三秒かかった。
え、それってまさか俺?」
「シゲよりも真っ青な顔してましたよ。自分より動揺してる人間を見ると落ち着くって、あれ本当ですね」
 すました顔で残りのあんぱんを頬張る令和の那須与一を、ぽかんとながめた。あの状況で観客の中から顧問や後輩を見つけ出すって、こいつ本当に大物だな。
「ありがとうございます」
 さっき自分が口にした言葉を返されて、佐久間はとまどった。
「教師なんてただでさえやること多すぎるのに、部活にも毎日顔を出してくれたし、あちこち頼んで歩いてコーチも探してくれた。先生はこっちの出身じゃないし、伝手つてもないところから教えてくれる人を探して交渉するの、本当に大変だったでしょう」
いや、俺は名ばかり顧問で教えてやれないから、別にそんなの当たり前で」
「当たり前じゃないし、名ばかり顧問でもないです」
 朝陽は射場でする揖のように、しんに頭を下げた。
「俺と及川はこれで引退だけど、シゲたちのこと、よろしくお願いします」
 目の奥に熱いものがこみ上げて、おう、と答える声が情けなくかすれた。生徒の前でみっともないことになるわけにはいかないから、腹筋に力を入れ、最大限に明るい声を出した。
「大会見てたら、弓道もう一回やりたくなったよ。顧問が下手へたくそじゃ情けないし、弓道教室でも通って修行し直そうかな」
「だったらまずは県営武道館の弓道教室がいいですよ。初級コースと中級コースがあって、七月から始まるんです。ブランクがあって再開するなら初級コースから始めるのがいいかもしれないですね。定員がありますけど、たぶん今ならぎりぎり申し込みも間に合うと思います。武道館のホームページから申し込みできますから」
「お、おう、詳しいな?」
「俺も中級コースに申し込んでるので。毎週水曜日、夜七時から九時までの二時間、全十回。初級コースは弓矢のレンタル料込みで一万八千円、自前の弓矢があるならもっと安くなると思います。余談ですけど中級コースの佐々木ささき講師はきょう七段。称号を持ってる人に教えを受けられる機会なんてめったにないんですよ」
「おまえさん、筋金すじがね入りの弓道オタクだなあ
 目をかがやかせながら語る朝陽は、週明けの全校朝会で表彰されたが、その時はやっぱりスン顔に戻っていて、佐久間は教師の列で笑いをみ殺した。

     *

 六月末から七月じょうじゅんにかけての期末定期考査が終わると、一日が二十二時間くらいにちょろまかされているんじゃないかと疑ってしまうほど時間の流れが早くなった。テストの採点のかたわら、受験生の対策を行い、時間をって弓道部にも顔を出す。朝七時半に登校してから夜になるまでがあっという間だ。新米教師の佐久間でさえあわただしいのだから、担任クラスを持っている教諭はなおさらだし、三年生の受け持ちともなればもう大変である。佐久間の隣の席、朝陽のいる三年B組担任の沢内は、最近「あー」と発声練習みたいに太い声を発しながら椅子いすにぐったりともたれかかっていることが多い。
 朝陽とは東北選手権以来ほとんど顔を合わせていない。佐久間は三年生の授業を持っていないので、部活のつながりがなくなれば、本当に校内では接点がなかった。
 ただ、七月中旬からは毎週水曜日の夜、県営武道館で顔を合わせるようになった。
 七時から始まる弓道教室のために佐久間が六時四十分頃に武道館に到着すると、ちょうど朝陽もそのくらいの時間に玄関にやってくる。「おー、元気?」「ぼちぼちですね」などというあいさつを交わしたあと、佐久間は実家から送ってもらった高校時代の弓袋を肩にかけて初級コース、朝陽は中級コースの会場に向かう。
 終わる時間はどちらも夜九時なので、自然と玄関でまた合流する。佐久間は初日だけ原付を使って学校から直接武道館に来たが、朝陽が電車と徒歩で武道館に通っていると知ってからは、自分も電車を使うことにした。選挙権も持っている十八歳男子だし、夜九時はまだ心配するほどの時刻ではないかもしれないが、やっぱり気にかかったので。武道館から徒歩五分の駅で電車に乗って二駅、同じ駅で降りたら朝陽は自転車で、佐久間は原付で自宅に帰る。
 じつに五年ぶりに弓を引くのは、想像の三倍は大変で、想像の十倍は楽しかった。放課後の部活で一緒に弓を引いて「先生、上達してるじゃん」と部員たちにめられると照れくさいがうれしかったし、自分も実際に射場に立つことで部員と細やかなコミュニケーションが取れるようになった。
 八月の第二水曜日、五回目の弓道教室が終わった夜のことだ。
 その日、佐久間は学校での用が立て込んでいて、夕食をとる暇もなく武道館に直行した。夏休みでも補講があったり研修会があったりとなかなか忙しいのだ。朝陽も朝陽でその日は塾の模試があったらしく、時間ギリギリに武道館に来て、夕食を食べそこねていた。教室が終わって合流した時にそれを知った佐久間は「ちょっと食ってかん?」と駅に向かう途中にある牛丼店に誘った。正直立っているのもつらいほど腹ペコだったし、朝陽も同じようなものだったのだろう、「いいですね」と即答した。
 蒸し暑い外から冷房の効いた店内に入ると、冷蔵庫の中にいるように涼しく感じた。夜九時を過ぎているから、客もまばらだ。長い弓と大きな道具袋を持った二人なので、邪魔にならないよう奥のボックス席に座った。注文してすぐに運ばれてきた大盛牛丼を「肉しみる」「タンパク質ぐいぐい入ってきますね」などと言い合いながら、しばし夢中でかっこんだ。
「受験生。どうですか、調子は」
「日々やるべきことをやれるだけやっています。時が来れば俺が為したことにふさわしい結果が出る、それだけです」
 あいかわらずの朝陽節に佐久間は笑った。関東の国立大を第一志望にしているということは、職員室情報で知っていた。
「先生は、どうして教師になろうと思ったんですか」
 今度はこちらに水を向けられ、佐久間は口角を上げた。
「ブラックなのに?」
「まあ」
「順に話すと、ちょっと長くなるんだけど」
 肉体を動かしたあとで疲れていたのと、でもその疲れが心地よかったのと、夜の力が心をゆるませていたのかもしれない。あるいは、実習生の頃から縁のある少年と二人でいることに浮かれていたのかもしれない。話すつもりのなかったことを口にするほどには。
「俺の実家、札幌さっぽろりんざいしゅうの寺なんだよ」
「そうだったんですか? そういえば下の名前、禅ですね」
「いかにも『おまえは寺の後継ぎ』って名前だよな。俺も大人になったら父親の跡を継ぐんだって当たり前みたいに思ってた。寺も、おきょうも、線香のにおいも好きだったし。でも中学に入ってしばらくした頃に、俺は寺の後継ぎにはなれないって自覚した。俺はどうやっても、女の人と結婚して子供を作ることができないから」
 朝陽は、少なくとも表面上は驚きやとまどいは見せなかった。黒い目で黙ってこちらを見つめ、続きの言葉を待っている。
「高校で弓道部に入ったのも、弓が好きっていうより、人数が少なめで男女が一緒だったからだ。男子って、男子だけで固まるとよくそっち方面の話で盛り上がるだろ。話合わせるのがきつかったし、『好きなやついねえの?』って訊かれても嘘しか言えない。その点、同じ空間に女子がいると男子も少しはぎょうがよくなるからさ。でも弓道部に入ってよかった。今でも連絡取り合う友達もできたし、顧問の先生にもすごく世話になった。生物の先生でさ、ぱっと見は渋いイケおじなんだけど、すげえ変な人だったんだよ。俺、その人の授業が面白かったから理科教員になったところあるな」
 語るごとに時間が戻っていく。制服を着て高校に通っていた十代後半の時代が、色あざやかによみがえってくる。
「高二になって、進路の話が本格的になってくると、親に言われるようになった。どこでも好きな大学に行って好きなことを勉強していい、でも卒業したら戻ってこいよ、って。それでもう、黙ってるのも苦しくなってさ。当時はまだ今ほど活発じゃなかったけど、クィアの話題もそれなりに出るようになってたから、話してみてもいいんじゃね? って思ったんだ。父親も母親もよくだんさんの相談にのってるし、親は俺の一番の理解者なんだから、きっと俺がどんな人間でも受け止めてくれる、って。それで高二の冬に話した。父親も母親も、ちゃんとわかってくれた。そんなあからさまには驚かなかったし、気持ち悪がったりもしなかったし、それは何も恥じることじゃない、胸を張って生きろって言ってくれた。でも、卒業したら戻ってこいよとは、一切言わなくなった」
 佐久間には二人の姉がいる。上は三十代後半、下は三十代前半のとしの離れた姉弟だ。母が苦労しながら不妊治療をして生まれた末っ子が自分だということは、幼い頃から親戚しんせきに聞かされてきた。寺の夫婦は、そうまでして息子を欲した。いずれは家に戻り、よい女性と結婚し、子供をもうけて寺を受け継いでくれる息子を。
 両親が口にはしなかった落胆らくたんたんが今はよくわかるし、あの頃も察してはいた。ただ、察することと、受け入れられることは別だった。
 朝陽が痛みをこらえるようにまゆをよせて、何か言いたげに唇にすきを作る。大丈夫、これは別にかなしい結末の話じゃないんだ。佐久間は笑いかけた。
「そんでここからが本番だけど、俺もちょっとへこんで、部活で全然中てられなくなったんだ。そうしたら先生が、佐久間、何かあったのかって訊いてくれた。誰かにそう訊いてほしかったんだな、俺。部活が終わってから弓道場で洗いざらい話した。俺のことも、両親に打ち明けたらどうなったかも。もう人生全部が嫌だ、くらいの勢いでしゃべった俺に、先生が言ったんだ。『佐久間、君はO型だ。お父さんはB型、お母さんはA型、ということはお父さんの遺伝子型はBO、お母さんはAOで、父方の祖父母はOOとBBないしはBO同士の組み合わせ、母方の祖父母はOOとAAないしはAO同士の組み合わせであると推測される。つまり君は両親の子供ではあっても、血液型の観点からすれば祖父母のかくせいでんということだ』」
 完全文系人間を自称する朝陽が、ぽかんとしている。高二の自分もそんな顔をしていたはずで、今思い返しても笑ってしまう。
「『血液型ひとつ取っても明らかだが、親は君が思っているほどには近しい存在ではないし、君のことを何でも理解してすべてを受け入れてくれるわけでもない。闘争と齟齬そごは自然界の常だ。だから今君に起きていることも自然のことだ、なんとか適応して生きていきなさい』って先生は言うんだよ。びっくりだろ。俺は慰めてほしくて全部話したのに、そんなこと言われたもんだから、なんか逆に涙も引っ込んだ。そうか、親だって神様じゃないんだもんな、って。今は二番目の姉がお婿さんに来てもらって、寺を継いでるよ。俺は大学に入って家を出てから五月の連休もお盆も帰ってないけど、正月だけは実家に泊まって、みんなとおぞう食ってる」
 質問の答えにたどり着くまでに、ずいぶんかかってしまった。佐久間はひとつ息をつき、テーブルの向かいに座る生徒を見つめた。
「どうして教師になろうと思ったか。それは、いい先生に出会ったからです。あの頃の俺みたいに、それぞれの悩みを抱えて、だけど友達の前では何でもない顔をして過ごしてる生徒は大勢いると思う。もしもそういう生徒が苦しくなった時、俺がそうしてもらったように、話を聞いてそばにいられる教師になりたいと思いました」

 自分の分は自分で払うと抵抗する朝陽を押しのけて、牛丼大盛二人前の会計をスマホでピッと決済した。自動ドアを抜けて外に出たとたん、むっと熱い風が吹きつけてきた。
 長話をしてしまったせいで、もう夜十時近い。朝陽をひとりで歩かせて補導されたら困る。今日は自宅の近くまで送ったほうがいいだろう。
「あのさ秋山、あっちの駅に着いたら
 最寄り駅に向かって歩きながら隣を見たら、そこにいるはずの朝陽の姿がなかった。どこ行った? と驚いてふり返ると、白い五分ごぶそでパーカーにくるぶし丈のパンツをはいた朝陽は、二メートルくらい後方で立ち止まっていた。すぐ後ろに街灯があるせいで、逆光で表情がよく見えない。
「どうした?」
「俺のうちは、両親とも教師で、俺が小さい頃から二人とも忙しくて家にいないことも多くて」
 声が、いつもより小さい。聞き逃さないように、うつむき加減の朝陽に近づく。
「だから俺は、祖父じいちゃんの家にしょっちゅう預けられてました。箸の持ち方も、難読漢字も、弓道も、人と比べるんじゃなくて自分が自分をどう思うかが大事だってことも、みんな祖父ちゃんが教えてくれた。俺は祖父ちゃんが好きで尊敬してたし、祖父ちゃんも俺を最期までかわいがってくれた」
 けど、と声がかすれた。
「祖父ちゃんが時々言う、『朝陽が結婚したら』とか『朝陽の子供ができたら』とか、そういうことには、だんだんうまく答えられなくなった。嘘なんかつきたくない。でも、俺がいつか女の人と結婚してひ孫ができるって普通に思ってる祖父ちゃんに、本当のことを言ったらショックを受けさせる。気持ち悪いと思われるかもしれない。だから、言えなかった。ずっと祖父ちゃんをだましてた」
「秋山、それは違うよ。絶対に違う」
「客観的に考えて、俺が悪いわけじゃないのはわかってる。わかってても、苦しかった。もうすぐ死ぬ祖父ちゃんに隠し事してることが、俺は自慢に思ってもらえる孫じゃないかもしれないことが苦しくて、祖父ちゃんがいなくなった今も、ずっと、苦しくて
 前髪をきつくつかんでうつむいた朝陽の目もとから、透明なしずくが何滴も落ちた。
 とっさに朝陽の肩に手をのばし、けれどふれる寸前でぎしりと止まる。
 教師になるために学んでいた頃、大学の教授に、実習中に面倒を見てくれた指導教員に、言葉を変えながら何度もいましめられた。
 命に関わるような緊急の事態を除き、教師が生徒にふれることはきんだ。
 居眠りしている生徒を起こすにしても、努力をめるにしても、それは言葉をもって行うべきであり、生徒の肉体に教師はみだりにふれてはならない。合理的理由のない接触はハラスメントであり、場合によっては性暴力とも捉えられかねない。これには生徒の性別、教師の性別は関係ない。
 生徒を守る教師であればこそ、生徒との適切な距離を踏み越えることはあってはならない。
秋山。おまえは、お祖父さんを騙してなんかない。そんなことは、絶対に
 口にするそばから、自分の言葉の薄っぺらさにつらくなって声がとぎれる。朝陽は、こんなことを言ってほしいのではないのだ。そんなことを望んで、今までずっと閉じ込めていたものを吐き出したのではないのだ。
 だけどそれなら、どうすることが正しいのか。教師を名乗っていながら、何もわからない。本当は教師になったって、大人になったって、ほとんどのことがわからないままだ。それでも生徒の前では何でも解決できるようなふりをしている。
 だけど今、こうして泣いている朝陽に何もしてやれないなら、そもそも俺は何のために教師になったんだ。
 こういう瞬間、苦しむ生徒に寄り添うために、俺はここにいるんじゃないのか。
 そっと、息を殺しながら手をのばし、指先でふれた朝陽の髪は、思いがけないほどの熱を宿していた。いつも風にゆれるのを、陽の光に淡い茶色に透けるのを、離れて見ているばかりだった髪は繊細せんさいで、指の間を通り抜けていく感触に心臓が引きしぼられた。
 汚い欲望を奥歯で嚙み潰し、教師の心だけが残るように念じて、うつむく少年の頭をでる。そっと、そっと、まだ羽も生えそろわない小鳥の背を撫でるように。朝陽は呼吸を乱して肩を震わせ、さらに深くうつむく。声を殺すのがあまりに痛々しくて、絶対に抱きしめないように慎重に腕をまわし、そっと背中をさすった。
 教師だから。俺はそのために教師になったから。言い訳がましく何度も念じながら、本当はわかっていた。
 自分は罪を犯した。
 だから罰を受けた。

【つづく】