最終話 熟れた白桃

やたらと首がかゆい。原因はわからないけど、砂でも散らしたように肌がざらざらしている。夜中、無意識のうちに搔いてしまったらしく、皮膚は赤く腫れ、血が滲んでいる。爪の間には赤黒い垢が溜まっていた。
その日の夜は、首がひりひり痛んで、睡眠薬を飲んでいるにも拘わらず寝つけなかった。時計を見ると深夜二時を過ぎている。ざわざわと落ち着かない気持ちを和らげるために、最近買った不眠に効くアロマスプレーを枕へ追加で二度噴射する。もう一度横になると、ベルガモットとラベンダーの爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。
ふと、首元がすーすーと乾燥していることに気づく。噴いたばかりのアロマスプレーが肌に合わなかったのかもしれない。裏返しにした枕に頭を預け、ゆっくり呼吸する。いつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝は、寝ている間に首を搔かなかったようで、腫れが少し収まっている。アロマスプレーを使わなくなって数日が経つと、首の肌はしっとりした質感に戻る。なんて皮肉なんだろう。眠りたくて買ったもののせいで寝つけなくなるなんて。
でも、そもそも規則正しく夜に眠って朝起きる生活をする必要なんてないんだ。
大学へ行かなくなり、群馬県内の実家に戻ってから半年以上が経つ。月に一度医者へ行く以外に、私にやらなければいけないことなんてない。家事を手伝ったり、本を読んだり。なにか目標があるわけではないけど、たまに簿記三級と英会話の勉強をしている。高校に通う妹は解けない宿題があるといつも頼ってくれる。中学生の弟は部活でサッカーをやっていて、練習着を洗ってあげたり試合を見に行ったりもした。
家族との豊かな日々がゆるやかに流れていく。全部で四種類の薬を飲んでいるせいか、日中は頭にうっすら靄がかかり、なにをしていても実感がうすくなってしまう。明るく穏やかな気持ちでいられる代償なんだろう。
毎日、自分に対してなにか取り返しのつかないことをしている感覚に陥る。
私はいつか、薬がないとなんにもできなくなるのではないか。
心療内科の待合室で見かける人たちは、町中にいる人とほとんど違いがない。住宅街に紛れたふつうの家のような診療所で、あまり広くない待合室は、温かな色合いの照明とゆったりしたクラシック音楽で満たされている。
実家に帰って一ヶ月ほど経った頃、不眠で悩む私に、父はこのクリニックを紹介してくれた。初老の先生は症状をきちんと聞いて、適切な薬を処方してくれる。寝つきを良くする薬と、熟睡できるようにする薬、明け方に何度も目が覚めないためのものに、不安や落ち込みを和らげる薬。飲む薬の組み合わせや量を調整して、今の四種類に落ち着いている。
私が中学生の頃、父はこのクリニックに通っていた。あまりにも仕事が忙しく、プレッシャーも大きかったせいで、心身のバランスが取れなくなったらしい。父は具体的な仕事の話をしないので、当時どんな状況だったのかわからない。でも、温厚だったはずの父が、別人になったように怒鳴り声をあげる姿を今でも覚えている。驚きよりも、恐怖よりも、そんな父を妹と弟に見せたくないという気持ちが勝って、私は父が荒ぶるたびに二人の手を引っ張って子供部屋へ逃げ込んだ。
一度休職した父は、すっかり元のやさしい性格に戻った。復職後は異動になり、仕事で深夜に帰宅することもなくなった。
だからきっといつか、私も元の状態に戻るのだろう。元の私が、今の私とどう違って、なにを考えていたのか、あんまり思い出せないけれど。
「谷杏奈さーん」
診察室の中から名前を呼ばれる。
スライド式のドアの向こうに、見慣れた先生が座っている。専門書がたくさん敷き詰められた本棚、テーブルにもたくさんの資料や書籍が乱雑に置かれていて、診察室というより、照明の明るい書斎に見える。
「お変わりないですか」
「はい」
先生は私の顔を一瞥して、すぐに目の前のパソコンにかたかたと文字を打ち込む。その状態でいくつか質問をされる。しっかり眠れていて、薬をきちんと飲んでいて、気持ちに乱れはなく、心配なことも特にない。先月もほとんど同じやりとりをした。体調が安定してからは、ただ処方箋をもらいに来ているようなものだ。
もしかしたら、いつまでこの状態が続くとか、診察室での会話が他人事みたいに感じるとか、相談してみたらいいのかもしれない。だけど、とりとめのない話になるのが目に見えていて、やっぱりやめた。
「だいぶよくなってきましたね」
顔を皺いっぱいにして、先生が言う。咄嗟に「ありがとうございます」と返す。
「様子を見ながら、自分で薬をやめてみても大丈夫ですよ。眠れそうなら、回数や錠剤の量を減らしてみてください。調子が悪くなったら、また元のように飲めばいいので」
先生のやわらかい口調が、父の姿に重なる。
『大学は休学にしてある。いつでも戻れるし、他にやりたいことができたら応援する。とにかく、焦る必要はないよ』
私は今、すごく優しい人たちに囲まれている。ただ、選ぶ自由を与えられ、その上で、なにを望めばいいかわからずにいる。
診察を終え、受付で渡された処方箋を手に、近くの薬局に向かう。
きっかり二十八日分用意された錠剤たちの説明を受ける。先生の勧める通りに量を減らして、気分や体調が安定すれば、私はたぶん大学に戻る。でも、父が言うような、他にやりたいことなんて浮かばない。そもそも、どんな希望があって進学したのかも思い出せない。現在の自分にすら実感が持てないのだから、過去の出来事はほとんど幻だった。
私はこれまで、どんな風に生きてきたのだろう。
誰かのさびしさに寄り添うようになったのは、七つ下の弟が生まれたときだった。
そのとき、ずっと末っ子として両親の注目を浴びてきた四つ下の妹が、急に『お姉ちゃん』になった。弟が泣けば大人たちは慌てて駆け寄るのに、妹が転んで膝をすりむいても「もうお姉ちゃんなんだから泣かないの」と言われる。抱っこをせがんでも「今は手が離せないから」とやんわり断られる。不貞腐れた横顔を見ているうちに、まさしく妹が生まれたときに自分が感じた、置いていかれるような心細さが蘇った。それからは、なるべく妹の隣に座り、彼女の話に耳を傾けた。両親の関心がうすくなったことには相変わらず拗ねていたけど、うれしそうに私を見上げる妹の笑顔に、満ち足りた気持ちになった。
その頃から私は、誰かのさびしそうな横顔に気づくのが少しだけ早くなった。
当時通っていた小学校では、クラスで喧嘩が起きても低学年まではお互いすぐ謝って解決したのに、四年生ぐらいから不和が長引くようになった。
誰と誰がペアで、邪魔しているのは誰で、最近調子に乗っているから、一回無視をしよう。明確に話し合いをしたわけでもないのに、そういうことが当たり前に決まっていく。一人になって落ち込んでいる様子を見て、みんなでくすくすと笑う。陰湿な空気が嫌いだった。周りに避けられた結果、グループを離れてしまった子と仲良くしていたら、私まで無視された。
『いい子ぶってる』
当時の私がさんざん言われていた言葉だ。
さびしそうな姿を見たくなかっただけなのに、負の感情を向けられてしまう。だけどそれよりつらかったのは、一緒にいる子が申し訳なさそうにしていることだった。でもやっぱり、見て見ぬふりをするのは耐えられなかった。
中学校は学区の関係で、三つの小学校の寄り合い所帯だった。各々の学校で築いてきた人間関係が再編される。みんなどこか慎重になっているせいか、小学生の頃みたいに露骨なわだかまりは生まれなかった。だからといって、なにがきっかけで孤立する子が出てくるかわからない。もし誰かがグループを離れてひとりになったとしても、私だけは受け入れたい。だからクラスメイトとまんべんなく仲良くしようと、いろいろなグループを行き来してみたものの、逆に誰とも親しくなりきれず、クラスで浮いてしまった。
中学二年生の頃、七菜ちゃんと同じクラスになった。
七菜ちゃんは、背が高くて、美人で、びっくりするぐらい気の強い女の子だった。自分が好きなもの以外に興味はなく、嫌いなものは徹底的に嫌いで、絶大なエネルギーを発しながら生きている。クラス内はもちろん、他のクラスや、後輩も先輩も関係ない。時には先生を相手に大喧嘩を繰り広げる。彼女が気ままに過ごすだけで、もめごとが生まれる有様だった。
ちょうど同じ時期に、父が調子を崩した。くわしい事情はわからない。憔悴していく父を励ましたくて、家の中で意図して明るく振る舞った。でも、その態度が怒りっぽくなった父の神経を逆撫でしてしまったりした。
家でも、学校でも、誰かを思って行動しているはずなのに、なぜかうまくいかない。気づけば私は、みんながやりたがらないことを進んで引き受けるようになった。そうすれば、自分の努力は無駄じゃないと思えた。……もともとは誰かのさびしさに寄り添いたかっただけなのに、いつの間にか、認められることが目的になっていたのかもしれない。
大学進学を機に、一度生まれ育った環境を離れたくなった。初めての一人暮らし。生活費はアルバイトで賄うつもりだった。
とはいえ、進学先は県内であり、さほど遠くない距離に中学や高校時代の知り合いが複数いた。誰かと予定を合わせて遊ぶことはなかったけど、七菜ちゃんが近くに住んでいると知ったときは、なぜか私から食事に誘っていた。
中学卒業以来に会う七菜ちゃんは、相変わらず美人だった。彼女も大人になったんだろう。当時ほど表情に鋭さはなく、ほどけた笑みも見せてくれた。
食事の最後に、彼女の働くガールズバーでのアルバイトに誘われた。びっくりしたし、自分がそういうお店にいる姿は想像できなかった。だけど、まったく向いていない人なら勧誘しない気がして、行ってみることにした。
初めての体験入店では、丈の短いチャイナドレスを衣装として渡された。てらてら光る安っぽい生地は、品がなく見えて、あまり着たくなかった。でも、抵抗感を示したら誘ってくれた七菜ちゃんを困らせてしまうので、喜んで着てみせた。
ガールズバーで働くのは、思いのほか楽しかった。お酒を飲むと、ほんのりと明るい気持ちになる。相変わらず露出の多い衣装と、店外で会おうとしつこく誘ったり、セクハラしたりするお客さんがたまにいるのが嫌だったけど、基本的には気楽におしゃべりをするだけでよかった。
七菜ちゃんは、言葉の節々にきつい性格が出てしまうため、お店の女の子にあまり好かれていなかった。気に入らないお客さんには平気で冷たい態度を取る。中学時代となにも変わらず、彼女は自分中心に生きている。当時は振り回されたし、空気が悪くなるのも嫌だった。でも、大人になった今は、彼女の強さに素直に驚いてしまう。真似したくはないが、お客さんやお店の女の子に気を遣い、思ってもいないことを言ってばかりの私には、彼女のあり方は新鮮に映った。そういう予感があったから、七菜ちゃんに会いたくなったのかもしれない。
初めての給料で、七菜ちゃんに檸檬の鉢植えをプレゼントした。お店を紹介して、慣れるまでサポートしてくれたお礼。お客さんとの会話で彼女が欲しがっているのを知って、ちょうどいいと思った。
でも、実際に手渡すと、七菜ちゃんはちっともうれしくなさそうだった。本当に欲しがっていたわけではなかったんだろう、受け取った鉢植えを呆然と覗き込んでいる。こんなことばっかりだ。ただ喜んでほしいだけなのに、いつもどこかずれてしまう。
ガールズバーによく来てくれるお客さんに『今度はうちに遊びにきてよ』と誘われたのが転機となった。差し出された黒いカードには、金色の文字で彼が働くホストクラブの店名と源氏名が書かれている。これまでにびっくりするぐらいお金を遣ってくれていたから、なかなか無下にできなかった。
煌びやかな店内、やけに陽気な男の人たちに囲まれて、お酒を飲む。なにが楽しいのかピンとこなかった。でも、楽しんでみせるのがこの場で最も適切なのは間違いなくて、私はいつもよりたくさん笑った。
ホストクラブに誘った彼は、月ごとの売り上げの順位で上位を取りたいらしかった。
「今月はできるだけお店に来て応援してほしい。その分またガールズバーでお金を遣うから」
意味のない循環に思えたけど、ガールズバーでも結局いい子ぶっていた私は、変化を求めていたのかもしれない。
何度か彼のお店に行き、いろんなお酒を飲んだ。
ホストクラブで散財して、その分だけガールズバーで働く。飲酒量が増え、二日酔いを何日も繰り返した。当たり前みたいに、翌月もお互いのお店に通う。大学の勉強はついていくので精一杯になった。不摂生をしているせいで、顔や足がひどくむくむ。
毎日少しずつ、自分がまっすぐ立てていないような気持ちになっていく。昼夜問わず動悸がする。眠りにつこうとすると、ばくばく鳴る心臓の音が、体内を通って耳元で響き続ける。そのせいで酔っていないと眠れなくなった。
免疫力が下がっていたのか、夏風邪を引いて喉がひどく腫れた。アルバイトはしばらく休むことにし、彼にもお店に行けないと連絡した。
すると彼は、コンビニのビニール袋いっぱいに食べやすいものや栄養ドリンクやらを買ってきて、アパートのドアノブにかけていった。ほかに必要なものはないかとこまめに連絡をくれ、暇つぶし用に頼んだ文庫本もきちんと入手してくれていた。
一昨日は大ぶりな白桃が入っていた。すぐに回収するとはいえ、真夏の屋外に吊るされた袋に果物が入っていて驚いた。触れるとほんのり冷たい。直前まで冷やしていたらしい。皮を剝いて食べてみると、びっくりするほどおいしかった。お礼のメッセージを送ると、彼から『桃なんて入れてない』という返事が来た。あまりにも怖くて、腐った果実を飲み込んだと錯覚するほど、強い吐き気に襲われた。翌日も差し入れに白桃が紛れていた。扱いに困り、次の燃えるごみの日に捨てるつもりで冷蔵庫に放置していた。
とはいえ、ほかに心当たりもない。やっぱり彼は冗談でも言っているんだろうか。
買い物に行くのも億劫だったので、差し入れは本当にうれしかった。
だけど、体調が戻ったら、またお礼をしにホストクラブへ行かなくちゃいけない。
夏風邪は回復に向かっていったのに、動悸はどんどん激しくなっていった。
差し入れの連絡があって玄関へ回収に向かうと、内側から開いた扉がなにかにぶつかる。
頭を押さえて俯く女の子。赤いフチの眼鏡の奥で、まあるく目を見開いている。
同年代ぐらい。見たことのない子だった。うちの前に突っ立っていた目的がわからず、彼女の姿が不気味に映る。
「なんですか、なにか用ですか?」
彼女は今にも泣きだしそうな表情を浮かべている。そして、しばらく沈黙を貫いたあと、ふっと、右手を差し出してくる。手のひらには薄ピンク色の物体。小刻みに震えるそれは、大ぶりの白桃だった。
「その桃、あなたが持ってきていたの?」
こくこくと、彼女は小さく首を頷かせる。
「あの、私、小学校のときの同級生で、それで、お見舞いがしたかったんです」
手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、彼女のか細い声は、じっくり耳を澄まさないと聞き取れなかった。やっぱり顔に見覚えはないが、知り合いだったのか。ひどく心細そうに眉を下げる彼女に、思い出してあげられないことが申し訳なくなってくる。
「それで、桃を食べてほしかったんですけど、ごめんなさい、迷惑でしたよね。帰ります」
彼女はすっと扉から遠ざかる。私は無意識のうちに「待って」と呼びかけていた。
不安げな表情。じっとこちらを見る瞳が、日差しを浴びてきらきらと光っている。私の言葉を待つあどけない態度が、妙に懐かしく思える。
既視感を辿ると、私を見上げる妹の顔が浮かぶ。弟ができたばかりで、さびしい思いをしてばかりだった彼女。
このまま追い返してしまったら、きっと目の前の女の子も、ひどくさびしい気持ちになってしまう。
「せっかく持ってきてくれたなら、一緒に食べようよ」
部屋に招き入れると、彼女はきょろきょろと周囲を見渡しながら、たどたどしい足取りでついてくる。深酒をするようになって、片付けができなくなっていた。散らかった部屋が今さら恥ずかしくなる。だけど、彼女は美術館にでも来たみたいに目を輝かせていて、気にするのも馬鹿らしくなってしまった。
「そういえば、名前は?」
彼女は緊張した様子で「タナカイチル」と答えた。そして、「三年生のときに同じクラスだったよ」と続ける。
タナカイチル、たなかいちる。よくある苗字と、珍しい下の名前。忘れにくそうな音なのに、ピンとこない。
「ごめん、思い出せない」
素直に謝ると、タナカさんは私までさびしくなってしまう顔で微笑んだ。
冷蔵庫に保存していたものと合わせて、二玉の白桃を剝いた。皮にくし切りになったそれは、つやつやした白色をしていて、お腹の部分がほんのりピンク色になっている。ローテーブルにお皿が置かれただけで、あたりに甘い香りが漂う。一口齧ると、とろけるように嚙み切れる。舌の上でほどけた繊維が、とびきり濃い甘さをいつまでも残し続ける。
「おいしい」
二日前にも食べたはずなのに、その味に驚いてしまう。
勝手に差し入れのビニール袋に白桃を追加するなんて、あまりにも気持ち悪い行動だし、へんな子だと思う。でも、悪意がないのはわかる。自然と許せてしまうのが不思議で、私はただただ可笑しくなった。
不意に俯いてしまったタナカさんは、ゆっくりと話し始める。
実家でおじいちゃんが作っている白桃を、喜んでもらえてうれしい。一部屋挟んだ隣の210号室に住んでいて、大学もたまたま一緒。ずいぶん前から、私に声をかけたかったらしい。なにかが決壊してしまったタナカさんは早口になっていく。隣県とはいえ、地元の長野ではなく群馬でまた会えるなんて。それはとてつもない確率なんだって、目を真っ赤にして言う。
彼女の声は、風鈴みたく透明に澄んでいる。ぼんやり聞き惚れているうちに、一度流してしまった違和感に遅れて気づく。
――地元の長野?
聞き返す暇もないぐらい、タナカさんは滔々と語り続ける。小学三年生の頃、やさしくしてくれてうれしかった。そのときの思い出をずっと大事にしている。何度もお礼を言われ、反応に困ってしまう。
「エリちゃんって、呼んでもいい?」
タナカさんはまっすぐに私を見つめる。涙を湛えた瞳。紅潮した頬。彼女が口にした、知らない名前。
――ああ、この子は、私を誰かと間違えているんだ。
途端に、目の前の女の子が不憫で仕方なくなる。これだけ切実に想う相手に、会えないままでいるんだ。
「好きに呼んでいいよ」
つい、そう答えてしまう。
タナカさんは、この部屋が明るくなったと錯覚させるような笑顔を見せた。
白桃をまた持ってきてもらう約束をして、彼女とお別れをした。
散らかった部屋を片付ける気力はなかったけど、使いかけのノートや郵便物など、私の名前が書かれたものは目につかない場所に移動させた。
それから毎日、タナカさんは白桃を剝きにきてくれた。私はガールズバーに復帰していて、彼女が鳴らす呼び鈴で目覚めることもあった。まだ体調は戻りきらず、アルコールがなかなか抜けきらない。そんな状態なのに、差し入れのお礼に彼のお店へ行った。食欲はあまりなくて、彼女が届ける白桃だけが、くたびれていく身体に栄養を与えてくれていた。
夢を壊さないようにするだけのつもりだったのに、私のほうがお世話になっている有様だった。
ぼうっとしているとき、透明に澄んだ声で名前を呼ばれる。
心地がよくて、するりとまどろみの中に落ちる。
細かく呼びかけられて、意識を呼び戻される。
目を開くのも、返事をするのも億劫だった。ぼやぼやした頭では意味を上手に理解できなかったけど、それらがやさしくて温かい言葉だということはわかった。
気持ちの和らぐ綺麗な声は、次第にざらざらと淀んでいく。薄く目を開くと、タナカさんが泣いている。両手で目元をこする、あどけない仕草。私のせいで悲しんでいる彼女を見たくなくて、背中に手を触れる。
タナカさんは、ひどく懐いてくれている。〝エリちゃん〟はそれだけ素敵な人なんだろう。見間違えられただけの私が、この健気さを享受してしまうのは、ものすごく卑怯だ。
〝エリちゃん〟なら、こんな馬鹿げた生活を続けないはずだ。でも、終わらせる方法がわからない。私はもう、冷静な判断なんてすっかりできなくなっている。
タナカさんはその日、四玉の白桃を冷蔵庫に置いていってくれた。お盆に帰省する間の分だそうだ。
結局、それが彼女との最後の思い出になった。
自分ではどうしようもなくて、現状をすべて両親に話した。
落胆したはずなのに、二人は一度も私を叱らなかった。
すぐにでも環境を変えるべきという父の判断で、私は実家へ戻ることになった。帰省中のタナカさんとお別れできないのは心苦しかったけど、直接会ってしまえば後ろ髪を引かれる。
はじまりは成り行きだった。でも、彼女の前で〝エリちゃん〟のフリをしていたのは、これまでみたいに相手の望みを知った気になって、空回ってしまうのとはまるで違った。
彼女には手紙を残すことにした。
ホストクラブに行くためのお金をガールズバーのアルバイトで捻出する日々。たくさんのアルコールと睡眠不足で調子が崩れ、すっかりおかしくなってしまった。
笑ってしまうくらいにロクでもない。それでも〝エリちゃん〟のまま去らないといけないので、経緯が多少ましに見えるように何度も修正した。連絡先は書かなかった。いつかぼろが出て、偽物だって知られるのがこわかった。
手紙を受け取ったとき、彼女はなにを思うだろうか。どうせ悲しませてしまうなら、最初から〝エリちゃん〟のフリなんてするべきじゃなかった。
……いや、そんなの本心じゃない。
彼女と出会えたのは、208号室に住む私に起きた、かけがえのない出来事だった。
処方されたばかりの薬は、先生の助言通りに減らしてみることにした。
安定するまで色んな種類の薬を飲んでみたのと同じように、減らしたときの体調の変化を観察して、いろいろ試すのがよさそうだった。
寝る前に飲む薬の一つを半分に割って水と一緒に流しこむ。暗い部屋でベッドに横になっているうちに、すーっと静かな眠気がやってきて、全身の力が抜けていく。
いつもはそこですとんと眠りに落ちるのに、心地のよいリラックス状態が続く。減らしたのは寝つきをよくする薬だった。明日は特段予定がない。眠れなくたって、焦る必要はない。
更けていく夜の中で、私はこれまでのことを思い返していた。
幼い頃から、誰かのさびしさに気づいては寄り添おうとしてきた。だけど、いつも空回ってしまった。環境を変えたくて選んだ大学、旧友との再会。知らない世界に飛び込んでいった。
そして、疲れ果てていた夏に、変わった女の子に出会った。
彼女は、いい子になりきれなかった私に好意を向けてくれた。本当のところ、その想いは私に重ねた幻影へのものだったけれど、それでもうれしかった。まどろみの中で聞く、澄んだ声が好きだった。
彼女の前では自然体でいられた。なんて皮肉なんだろう。他人のフリが一番うそのない姿だったなんて。
『大学は休学にしてある。いつでも戻れるし、他にやりたいことができたら応援する。とにかく、焦る必要はないよ』
父の言葉が脳裏に浮かぶ。
今日の心療内科の帰り、不意に自分の望みがわからなくなった。だけど本当は、もっと前から見失っていたのかもしれない。いつからか、自分が我慢すればすべて丸く収まると思い込んでいた。でも、最初はそうじゃなかったことを、タナカさんが思い出させてくれた。
――私はただ、目の前にいる人と笑顔でいたいだけなんだ。
舌の上でほどける繊維。部屋中に広がるとびきり濃い香り。
二人で食べた白桃の甘さが、はっきりと蘇る。
夏休み明けからの復学に向けて、勉強のブランクを埋めていく。
薬は少しずつ減らせた。種類によっては、飲むのをやめた拍子に、やたらとだるくなり、気分が落ち込むものもあった。正常な反応らしく、あまり動けない状態を二週間近く耐え忍ぶと、何もなかったみたいにすっきり落ち着いた。
幸いなことに、あのアパートの208号室は空室のままだった。
きっかり一年分止まってしまっていた時間が、またゆっくりと動きだす。
ガールズバーのバイトはもうやらない。そもそも連絡もせずに辞めたから、戻れるはずもない。誘ってくれた七菜ちゃんには悪いことをした。彼女にもなにも言わずに引っ越していた。正直、あんまり心配していない気もするけど、復学したら知らせよう。
お盆が明ける頃、父の運転する車に揺られて、アパートに向かう。
二時間程度の道のり。助手席の窓から見える山間。高速道路を降りると、アスファルトの上で陽炎がゆらゆら揺れている。強い日差しに目が眩む。
タナカさんは、今も変わらずに210号室にいるだろうか。
久しぶりに会う彼女になんて声をかけよう。きらきらした瞳や、その場を明るくしてしまう笑顔が頭に浮かぶ。傲慢なことに、喜んでくれる姿しか想像できない。
ずるいよな。綺麗な思い出を壊さないために去ったのに……。
途端に視界が滲む。
――ごめんね。〝エリちゃん〟じゃなくて。
流れ落ちた涙が服の裾にぽたぽたと落ちて、雨の跡みたいだった。
彼女が待っているのは私ではないけれど、きちんと謝って、今度は本当の自分であの子と友達になりたい。
爽やかな記憶は、これ以上ないほど熟しきっている。
「もうすぐ着くよ」
けっしてこちらを向かずに、父が言う。
車窓に、あのアパートが見える。
【おわり】