第五話 杏のあとさき

リサイクルショップに並んだそのローテーブルは、エリちゃんの住んでいた208号室にあったものとそっくりだった。雲みたいに丸みを帯びた白色の天板に、ちょうどいい高さの折れ脚。迷わず購入して、自宅まで配送してもらった。
エリちゃんと過ごした日々は、夢から覚めるように唐突に終わってしまった。
空室になった208号室の呼び鈴をいくら鳴らしても、気怠げにあくびをするエリちゃんは現れない。固く閉ざされた扉を前にして、幸福だった朝は、ただの幻だったのではないかと不安になった。
時間が経てば経つほど、思い出の輪郭がぼやけていく気がする。私は慌てて、自分が住む210号室をエリちゃんがいた部屋に似せることにした。幸いにも間取りは同じだ。届いたローテーブルを、部屋の真ん中に置く。エリちゃんの部屋のそれには天板の隅のほうになにかをぶつけてできたへこみ傷があった。再現するためにお酢の瓶の底を打ちつけてみる。
ゴンッという鈍い音。反動が手のひらに返ってくる。生まれたての傷はイメージしていたよりもずっと小さくて、私はもう一度瓶を天板にぶつける。
本当はへこみを広げたかったのに、狙いを外したせいで、小さな痕が二つ仲良く並んでいる。仕方がないので、へこみが繋がるまで瓶をぶつけ続ける。手のひらの力がなくなる頃、三センチほどのへこみが完成する。何度も叩いたから、表面がでこぼこしているし、思ったより二回りも大きくなってしまった。
上手にできなくて落ち込んだけど、レイアウトを変えて、なるべく部屋を散らかしてみると、エリちゃんのいた空間に見えてくる。つまらない茶色のカーテンも、エリちゃんが気に入っていた北欧風のレモンイエローのものに変えれば、きっともっと温かみのある場所になる。
スーパーで買ってきたキウイを剝いて、208号室でそうしていたようにローテーブルの前で食べる。水蜜桃を切らしてからも、毎日果物を食べる習慣がついていた。エリちゃんに喜んでほしくて皮を剝いていた記憶が鮮明に蘇る。この生活を続けていくうちに、いつか彼女はひょっこり現れるのではないか。
長い眠りについていたみたいな、あどけなく緩んだ表情。ふわふわにふくらんだ髪。眠たそうな瞼は、たっぷりの水分を孕んでつやつやに光る果実に少しずつ開かれる。
そのときがいつ来てもいいように、私は毎日二人分の果物を剝いている。
エリちゃんはいなくなるときに手紙を書いてくれた。
それなのに、ショックで部屋に引きこもっていた私は数日間気づけなかった。
二度と同じ失態を犯さないよう、頻繁にポストの中を確認する癖がついた。ピザ屋、不動産屋、葬儀屋のチラシに、県民共済の紹介、高価買取中らしい古物商。ポストになにかが入っていると毎回うっすら緊張してしまうけど、本当にほしいものが投函されていることはあれから一度もなかった。
つい気になり、208号室のポストも同じ頻度で確認してしまう。ダイヤル錠の番号なんて知らないから差込口に手を入れて郵便物を抜き取る。いつだって派手な色のチラシしか見つからない。
ある日、いつも通りポストの中を確認していると、唐突に背後から「おい!」と怒鳴られた。
声の主はくたびれた顔をした男性だった。瞬間的に全身が強張る。つかつかと近寄ってくるのが怖いし、他人のポストを漁っていたから後ろめたい。だけど、どうしてこの男性は怒っているんだろう。
「あんた210号室の人だろ? 俺209号室に住んでいるんだけど、なんで人ん家のポストの中身を漁ってんの? なんか盗もうとしてんの? もしなんか盗ってたら、警察に通報する。言っていることわかるよね?」
怒りながら捲し立ててくる男性は、自分のポストも物色されたと誤解している。
けっしてそんなことはしていないと弁明したいのに、ぶつけられる言葉の強さで頭が真っ白になる。
「なんか言えよ」
低く重たい声が上から降りかかる。気持ちも身体もどんどん萎縮して、そのまましゃがみ込みそうになる。無性にエリちゃんに会いたくなった。どれだけ時間がかかっても、彼女は長い睫毛をふわりと揺らし、私が話し出すのを待ってくれた。エリちゃんを思い出すたびに、二人で食べた水蜜桃が蘇る。あまりにも濃い甘さ。喉の奥が焼けるようで泣きそうになる。
男性が去っていったあとも、私は立ち尽くしたままだった。
いつか通報されてしまうかもしれないし、こんなこと、もうやめにしないといけない。
そもそも、エリちゃんのポストを確認したところで、私宛の手紙なんて届くわけがない。
ただ、どうしても気になることが一つある。
208号室のポストに入っていた美容院からのダイレクトメール。
宛先に書かれていた名前は『エリ』じゃなかった。
その意味を、私はまだきちんと理解できていない。
翌日の昼間、ぽーん、と呼び鈴の音が鳴った。室内のモニターを確認すると、209号室の男性が映っている。生活音がうるさいとか、またなにか気に障ることをしてしまったのだろうか。居留守を使いたかったけど、それがバレたら余計な火種になる。
頬が膨れるくらいたくさんの冷水を口に含み、ごくりと一息に飲み込む。急激に喉が冷えて、覚悟が決まった感じがしたのに、玄関扉を開くときには、どくどくと痛いほど胸が鳴っていた。
209号室の男性は、昨日とは打って変わって居心地が悪そうな表情をしていた。
男性は「あの……」と口を開き、すぐにつぐむ。意図が読めなくて不安が増す。片手で支えていた扉が急に重たくなって、このまま閉じてしまいたい。
わずかな沈黙のあと、男性は落ち着いた声で、昨日怒鳴ったことを謝ってくれた。お詫びに……、と小さなダンボール箱を差し出される。開かれた蓋、中には二房のブドウが入っている。黒紫色の表面がつやつやしていて、粒がかなり大きい。
途端にうれしくなってしまう。エリちゃんのおかげで、果物を分け与えるという行為は、私にとってこの上なく友好的な意味を持っていた。
「……ありがとうございます」
自然と口から出たお礼の言葉に、向こうもふっと力の抜けた笑みを零す。許されて安心したみたいな無邪気な顔。そもそもの原因は私なのに。
これまで関わりがなかった隣人。昨日の件があって視界に入らないよう避けるつもりだった。でも、本当はそこまで怖い人じゃないんだろう。
ブドウはさっそく剝いてみることにした。皮ごと食べられると言っていたけど、いつもの習慣をこなしたかった。
黒紫色の大きな粒はついさっきまで冷蔵庫の中にいたらしく、よく冷えている。軸のついていた場所を爪で引っかくと、するりと皮がめくれ、宝石みたいにきらきらした黄緑色の実が顔を出す。ほんの少し赤紫の繊維が残ってしまうけど、もくもくと粒を裸にしていく作業は楽しかった。溢れる果汁で手がベタベタになる。いつの間にか、キッチンは爽やかな香りで満たされている。
ローテーブルにブドウの入った白いボウルを置く。爪楊枝を刺した瞬間に、プツッと瑞々しい音がする。一粒口に含むと、喉が潤うほどの果汁が滴る。おいしい。つい微笑んでしまうぐらい甘い。上等なものなんだろう、エリちゃんにも食べてほしかった。ちいさく目を見開いて、『おいしいね』としずかに言う彼女の姿がありありと想像できる。
これ以上ないほど熟したブドウ。水蜜桃の旬はとうに過ぎていて、季節が変わっていた。
夏休みが終わってからも、私はきちんと大学に通い続けた。
アパートを引っ越しただけで、大学では会えるんじゃないかと思っていたから、キャンパス内外のいたるところで、エリちゃんの残像に目を奪われた。明るい茶色がかった長い髪を見かけるたびに胸が騒ぎ、笑みの混じった低めな声が聞こえれば、その持ち主を探した。だけど、期待はいつも外れて、髪型や背恰好が似ているだけの別人ばかりだった。
街を行き交う服装は、少しずつ着飾られていく。
真夏のアパート、薄手の寝巻き姿が印象深いせいで、季節が過ぎていくほどエリちゃんを捜すのは難しくなっていく。
年末年始の帰省を終えてまたすぐ、次の三連休に長野の実家へ帰った。
移動が面倒だったけど、成人式に出るためだった。
『あなたたちはもう大人なんです』
高校を卒業するとき、担任の先生が最後のホームルームでそう言った。五十代の男性教師で、静かな話し方を好ましく思っていたけど、最後のメッセージにはつい首をかしげてしまった。
『日本の成人年齢は十八歳になりました。だから、大人としての自覚を持った言動を心がけてください』
机に肘をついて話を聞いていた私は、なんですかそれ、と半分可笑しくなって、もう半分で怖くなっていた。つい最近まで二十歳で成人だったのを、十八歳に決め直したので、私たちは大人になったらしい。どうしてもピンとこない。子供でいられる二年間を急に奪われるのは理不尽なことに思えた。だけど同時に、どれだけ時間が与えられたとしても、きちんと自立して、頼りがいのある大人になる自分の姿は想像もつかなかった。
二十歳になった同級生たちは、みんな大人っぽくなっているんだろう。
私だけ場違いなんじゃないかと不安で、成人式にはあまり出たくなかった。三連休は群馬で過ごしたほうがずっと楽だ。そう思っていたけれど、日を追うごとに、もしかしたらエリちゃんに会えるかもしれない、という淡い期待が膨らんでいった。振袖を着てくるのか、それともワンピースやスーツか。髪型はどうするんだろう。どんな組み合わせでも、きっとすごくオシャレなはずだ。華やかな恰好をしたエリちゃんが微笑んでいる姿が鮮明に思い浮かぶ。想像するうちに現実な気がしてきて、式の開催日が待ち遠しくなっていた。
当日の会場は千人ほど収容できる市の文化ホールだった。
最寄り駅の時点で振袖姿を何度も見かけた。いくつかの地区で合同の式だから、小中学校が一緒だった人ばかりではない。大人数の中で、エリちゃんを見つけ出せるだろうか。
会場の建物は市役所も入っている大きな施設だった。でも、入り口に参加者へ向けた案内があって、誘導されて歩いていくうちにコンサートホールにたどり着く。すでに半分ほどの席が埋まっている。
どこに座ればいいか戸惑い、なんとなく見覚えのある顔についていく。ざっくりと地区ごとで固まっているらしく、同じ小学校に通っていた子の中に紛れることができた。当時私を気持ち悪がっていた子の一人と目が合ったけど、特に気に留める様子もなく視線が流れる。私のことを覚えていないのか、それとも話したくないのか、誰からも声をかけられなかった。
ざわざわとした空間の中で、ひたすらエリちゃんを捜した。
衣装の艶やかな色合いが行き交う。ホールの明るすぎる照明に目がちかちかする。
『つかれた』
唐突に、エリちゃんの声が頭の中で響いた。不貞腐れた子供みたいに舌足らずな言い方。勉強やアルバイトを頑張りすぎてしまったんだろう。眠たそうにした瞼。痩せた肩。ほんのりすっぱいアルコールの臭い。
いつだってゆるやかに笑うエリちゃんを思い浮かべていたけど、今になって、いなくなる直前のしおれた姿が蘇る。成人式に彼女が来るとは限らない。わかっていたはずなのに、周囲のはしゃいだ空気が急に耐え難くなり、この場を去りたくなった。
式が始まるとステージ上に色んな人が立った。いつの間にか知った顔から交代していた市長。講演に来てくれたローカルタレント。『誓いの言葉』を堂々と披露する、同い年とは思えないほど立派な新成人代表。
いっぱい祝われて、激励されて、社会の厳しさを教えられ、親への感謝を促され、代表で誓われている間、私はずっとぼんやりしていた。着慣れないワンピースや親しみのない空間に現実味を失う。じっと座っていなくちゃいけないのが、やたらと苦しい。最後に市長が言った『いま隣にいる仲間たちをこれからもずっと大事にしてください』という言葉に、どうしようもなく悲しくなる。
式が終わった途端、客席中から笑い声や嬌声が上がりはじめる。人の波に飲まれるのが嫌で、私は席に座ったままでいた。どうしても諦めきれなくて、出口の方向で向かう人の中に、208号室の彼女がいないか眺め続ける。コンサートホールの壁が音を吸収するため、騒々しい声たちは大きな渦にならず、一つ一つが粒立って、流れるように移動している。そのせいもあって、私はあの名前を呼ぶ声を聞き逃さなかった。
「エリちゃん」
親しみがこもった女の子の声。
雑多に人が入り乱れているのに、不思議なほど正確に声の方向を特定できた。
水色の振袖を着た女性が、自分を呼んだ相手と喋っている。
大きいフレームの眼鏡。その奥で愉快そうに細めた目。想像よりも小柄な体格。黒髪のボブ。瑠璃色の天の川みたいな髪飾り。口元に手を当てて、楽しげに笑っている。
こっそり近づいて確認すると、小学三年生の頃の記憶とぴったり重なる。
「スギモトさん」「エリちゃん」とさらに彼女を呼ぶ声がして、間違いないと確信する。
同級生だった杉本恵梨さんが、そこにいる。
私は今すぐ泣き出してしまいたかった。
杉本恵梨さんと208号室のエリちゃんは、まったくの別人だ。
208号室のポストに残っていた、美容院からのダイレクトメール。
『谷杏奈』という宛名。
彼女は〝エリちゃん〟のフリをしてくれていたんだ。
寒さの厳しい冬だった。
大学の周りで三センチほど雪が積もって、滅多にないことだと地元のニュース番組で大騒ぎしていた。生まれ育った長野のほうがよっぽど寒いはずなのに、平地を吹き荒ぶ木枯らしがあまりにも冷たくて、大学までのわずか数分の道のりでさえ心が折れた。
成人式で杉本恵梨さんを見つけた瞬間から、ずっと夢の中にいるみたいな状態になっている。例えば電車の時間を調べるつもりだったのに、数秒後には自分がなにをしたかったのか忘れてしまう。なにかを決めるのが難しくなって、頭を使うための筋肉がすっかり衰えてしまった。
そんな有様だったけど、やっぱり大学には通い続けた。
たくさんの時間をかけて、試験範囲をひたすらなぞらえる作業を繰り返し、どうにか進級することができた。きちんと頑張らないと在籍し続けられないし、このアパートに住む理由もなくなってしまう。それだけは避けたかった。
208号室を真似たレイアウトは生活に馴染みきっていた。へこみ傷をつけようと瓶底で何度も叩いたローテーブルの天板。がさがさにささくれ立った木目の破片が、指に突き刺さることもあった。ちくりと傷んで慌てて棘を引き抜くと、人差し指の腹にちいさな赤い点が一つ残る。思いのほか深く刺さったらしい。じっと眺めているうちに、点はぷっくりと膨らんでいき、赤い滴がローテーブルにポタリと垂れる。ちょうど手作りのへこみ傷に落下し、荒れた木目に浸透する。ティッシュや湿らせた布で何度もごしごしこすったけど、わずかに残った赤黒い跡はいつまで経っても消えなかった。
五月の連休が明けた頃、自宅に来訪者があった。
ドアモニターには大家さんとオフホワイトの作業着を纏った四十代ぐらいの男性が映っている。そういえば消防点検のお知らせが来ていた。
玄関扉を開くと、大家さんは目じりをふんわりと下げて笑いかけてくれる。
「こんにちは。大家の酒井です。チラシで連絡していた通り、消防点検に協力いただきたくて、お部屋に入らせてもらってもいいですか」
「……はい」
「ではお邪魔させていただきます」
業者さんがはきはきした声で言う。なにかの営業みたいに明るい笑顔。あんまり広くない部屋で、きっと危ないことなんてなにもないのに、しっかりヘルメットを被っているのが不思議だった。
意図的に散らかしていた衣類やケーブルやダンボール箱。それらを踏まないようにしながら洋室にある火災報知器のチェックをする業者さん。申し訳なくて、恥ずかしくって、私は拾える荷物を一か所に固める。せめて今日だけでも綺麗にしておけばよかった。
「全然気にしなくていいですよ」
業者さんは朗らかに笑ってくれて、いっそう居たたまれない。
ふと、閉じたままのカーテンが視界に入る。208号室を真似て、秋に買い替えた黄色のカーテン。色が濃くて若干雰囲気が違っていたけど、外から差し込む陽光に薄く照らされ、彼女が気に入っていたレモンイエローのカーテンとちょうど同じ色合いになっている。
衝き動かされるようにして、私は部屋を出る。
208号室に似せた空間。そこにエリちゃん以外の人間がいてはいけない。そんな光景を見たくない。大切な記憶が薄れてしまう。
外に出ると、大家さんが驚いた顔でこちらを見る。
「五分ぐらいで終わるので、部屋で待っていても大丈夫ですよ」
不意に声をかけられ、萎縮してしまう。
「知らない人が部屋にいると、落ち着かない?」
落ち着かないのとは少し違ったけど、どうしようもない不安感を上手に説明できる気がせず、私は頷く。
「大学二年生だっけ?」
大家さんの問いに、「さんねんです」と答える。会話は得意じゃない。でも、やわらかい表情や声の大家さんが相手だと、あまり苦ではなかった。
それ以降は黙って玄関扉を眺めているうちに、初めて208号室の扉が開いたときのことが蘇る。ごちん、と頭に衝撃が走り、目の前に彼女が現れた。やっと向き合えたのに、困惑した表情。怖がらせてしまっているのがつらくて、心底消えたくなった。だけど、水蜜桃を差し出すと、彼女は事情を聞いてくれた。自分は小学校のときの同級生で、彼女が体調を崩していると知って、お見舞いがしたかった。今思うとあまりにもたどたどしい説明で、不審者にしか見えなかったはずだ。それでも、彼女は私を迎え入れてくれた。
「田中さんは、208号室に住んでいた子を知ってる?」
大家さんの声で現実に意識が引き戻される。
急に彼女の話をされて、瞬間的に胸がどくどくと弾みだす。
「谷さんって言うんだけど」
美容院からのダイレクトメールに書かれていた『谷杏奈』という宛名。
やっぱり、それが彼女の本名だったんだ。
「去年の夏に急にアパートを出ていっちゃったから、どうしたんだろうって心配していたの。同じ大学で、年も近いし、なにか知っていないかなって」
大家さんも把握できない理由で、彼女はいなくなっていた。尚のこと遠くに行ってしまった気がして、弾んだ胸元が一転、圧迫されたような心地になる。同じ大学で、年も一緒で、二人で何度も水蜜桃を食べた。それなのに、私は本当の名前すら知らなかった。複雑な事情を打ち明けられる相手ではなかったんだ。
「田中さんは、谷さんと友達だった?」
大家さんの言葉を聞いた瞬間、ぼろぼろと涙が溢れ出す。わからない。そんなの私が聞きたい。〝エリちゃん〟のフリをし続けてくれた彼女は、どんな気持ちで私を見ていたんだろう。勘違いした私を哀れに思い、相手をしてくれたのだろうか。彼女はただでさえ疲れていたのに。
いつの間にか業者さんが外に出てきていた。二人は泣いている私に困惑している。居たたまれなくなって部屋に戻る。
点検を終えた洋室は、さっきまでと何も変わらずに散らかっている。
〝エリちゃん〟との思い出が風化しないように、208号室に似せたレイアウト。
彼女との繋がりを途絶えさせないため、きちんと大学に通って、この部屋で暮らし続けた。
でも、そもそも繋がりなんてあったんだろうか。
初めて会った日、別れ際に208号室の玄関から顔を出した〝エリちゃん〟は『桃、また持ってきてね』と言ってくれた。ふんわりした笑顔。つっかけサンダル。『いつでもいいからね』とひらひら振る手。
受け入れてもらえたのがうれしくって、何度も部屋に通った。でも、親しげな言葉や態度はただの社交辞令で、本当は、押しかける私を疎ましく思っていたかもしれない。
それにも拘わらず、私は今でも〝エリちゃん〟が好きだ。どこにいてもあなたの残像を探して、会いたいなぁって、泣きたくなるほど切実に願う。すごく身勝手だよね。
この部屋も、実際どれだけ208号室に似ているんだろう。もう一度戻れたとしても、全然ちがうじゃんって、可笑しくなってしまうかもね。
杉本恵梨さんとの思い出は、小学三年生の頃からずっと大切に抱きかかえてきたはずだった。でも、時間が経つにつれて、記憶の中の姿は少しずつ変わっていた。
あなたが〝エリちゃん〟なんだって、疑いもしなかった。
……いつか、二人で水蜜桃を食べた記憶も、忘れたり、間違えたりしちゃうのかな。
数年後、どこかでまた会えても、本当に悲しいけれど、あなただって気づけないかもしれない。だとしたら、私はいま、誰に話しかけているんだろうね。こんなこと言ったら幻滅するよね。
それでもやっぱり、思い描いていたいのはあなたなんだよ。
もしもやり直せるなら、今度は〝エリちゃん〟じゃなくて、
谷杏奈さん。
あなたに会いたい。
梅雨が明け、ひりひりするほどの日差しとジメジメ湿った空気が生活を覆う。
二人分の果物を剝く習慣は相変わらず続いていた。
六月の終わり頃には、スーパーで売られている杏を購入した。ジャムしか食べたことがないから生での食べ頃はわからなかったけど、名前に惹かれた。買ってすぐは表面が固くて黄緑色のところもあったので、常温で二日ほど放置してみた。すると、杏は染まった頬みたいなオレンジ色になり、甘酸っぱい香りを放ち始めた。種を除いて四等分のくし切りにする。皮はそのまま食べられるらしく、四等分にしたうちの二つだけ剝いてみた。
口に含んだ瞬間、やわらかな酸味が舌の縁をなぞる。ひんやりとした、清潔な刺激。遅れて果肉の奥からじわっと甘みが滲み出てくる。砂糖のように輪郭がはっきりした甘さではなく、果実そのものの水分に溶け込んだ、静かな甘み。後味は、名残惜しいほどに軽やかだった。
気に入っていたのに、杏は旬が短くて、二週間ほどでスーパーの商品棚に並ばなくなってしまった。
七月の終わり頃、梨を買った。夏に旬を迎える品種。大ぶりで、手に取るとずっしり重たい。瑞々しくて、甘みが強くて、シャリシャリとした果肉の食感が楽しい。当たり前なんだけど、杏とは間違えようがないほど違う果物だった。
今年もまた、水蜜桃が送られてくる。
去年ほどたくさんは食べない、と家族に伝えていた。
もうじき、彼女と言葉を交わしてから一年が経つ。振り返ればたった二週間ほどの出来事だ。反芻してばかりいたせいで、一年分の記憶のほとんどが、あの清潔な朝に集約されている。
でも、思い出に縋るだけの日々を続けるのはよくないんだろう。
『いま隣にいる仲間たちをこれからもずっと大事にしてください』
文化ホールに響いた市長の声が蘇る。
彼女の抱えていたものを受け取ってあげられるように、ほんの少しでも寄りかかれるように、きちんと自立した大人になろう。
そう決めてから、果物は一人分しか剝かなくなった。わざと散らかしていた部屋は片付けと模様替えをした。ローテーブルのへこみ傷も、いつ手に入れたかわからない猫の肉球のシールで隠した。
すっきりとした210号室の真ん中で、『エリより』と書かれた無地の封筒を手に取る。何度も読み返した手紙は、しばらく仕舞っておくことにした。思えば、彼女は一度も名乗らなかった。最後に名前を書いたとき、なにを考えていたんだろう。
また彼女と一緒に水蜜桃を食べたいけど、それ以上に、本当に自分が望むことをしていてほしい。私なんかにもかまってくれるぐらい優しくて、損な性格だから、無理はしないでほしい。
『つかれた』と言う幼い声。痩せた肩。のそりと起き上がり、爪楊枝ですくう水蜜桃。果汁の甘味で微笑む顔。するりと音もなく、とろとろと眠り出す。やわらかく長い睫毛。瞼が開かれるのを待つ時間が、たまらなく好きだった。
梨では上書きできなかった杏の後味がまだ喉の奥に残っていて、鼻先がつんと痛んだ。
【おわり】