その渇きは恋ではなく

がたたん、ごとん。本日も電車は走っている。
総武横須賀線、千葉東京神奈川の一都二県をまたぐ遠距離走行のJR線。一駅の区間は平均して五分ほど。近年は鎌倉観光を目当てとした観光客が大量に訪れるため、ラッシュ時のみならず、かなりの混雑になることも多い。
一ノ倉すばるは地元住民であり、毎日の通学には絶対に電車に乗る羽目になる。高校に申請を出せば二輪通学の許可も下りるのだが、免許の取得は親が高校卒業まで許さないと宣言したので、激混み状態にうんざりしつつ電車に揺られる日々を送っていた。
ぎゅうぎゅう詰めの人いきれで、冬場だというのにかけている眼鏡が曇って不快だ。息苦しいその電車のなか、毎朝必ず見かけるひとがいる。
まず、背が高い。つり革ではなく手すりを直接つかみ、窮屈そうに背を縮めているけれど、おそらく一九〇センチ近いのではないだろうか。
ワイシャツにブレザー、スラックスと、一見は制服のように思える服装だが、近隣の高校にはないデザインだ。日によってシャツやスラックスの色も違うことがあるので、おそらく私服の学校なのだろう。
肩掛け鞄を、ラッシュ時にはちゃんと胸の前に抱いている。
極力、ひとの邪魔にならないためだろう。大抵は隣の車両との連結部分近くにいる。スマホをいじることなどはないが、たまたま近くで見かけた際に、耳にはワイヤレスイヤホンがあった。音漏れもないのでどんな音楽を聴いているかはわからないが、好きな曲がかかったときなのだろう、時々わずかに唇がゆるんで、指先だけでリズムをとっていることがある。
ひとごみからいつも頭ひとつ高いおかげで、よほどのぎゅうぎゅう詰めにでもならない限りは、どこからでも見つけられる。
その顔は、いわゆるイケメンといわれるようなあまい顔立ちではない。輪郭は端整だし、鼻筋は高く、眉も凜々しく整っている。だが切れ長の一重の目は鋭く、薄い唇は頑固に引き結ばれている。全体に表情が硬く、いっそ怒っているかのような仏頂面だ。
十代らしく身体はまだできあがりきっていないようだが、すばるのようないかにも文系の貧弱男子とは比べものにならない。おそらくスポーツかなにかしているのだろう、夏ごろ見かけた半袖シャツからは、くっきりと筋肉が浮きあがってかっこよく、うらやましかった。
ふたつ年下の妹よりも細いと言われる自身の腕を眺め、すばるはあまりの違いに妬ましくなる。
(いいなあ)
ほうっと、色白なせいで妙に赤いすばるの唇からため息が出る。ついで、ごくりと喉の鳴る音。電車の揺れる音に紛れ、誰にも届かないそれを、すばるは静かに恥じる。
喉が、とても渇いている。そしてこれは簡単に潤せるような渇きではない。仕方なく、すばるは自分の犬歯で自分の唇を軽く嚙み切った。じわっと滲んだ血の味に、少しだけ慰められる。
すばるはヒト亜族の吸血種だ。大昔には吸血鬼などと呼ばれて怖がられていた種族だが、現代ではいわゆるヒト種のなかに溶けこんで、ふつうに生活するようになっている。
さまざまな研究や臨床例により、吸血種の生態もあきらかになっている。定期的に摂取する血液が一定量あれば、吸血衝動を抑えられることが判明してから、他人を襲い暴力的に奪うのではなく、金銭やその他で解決するのがスタンダードとなったためだ。
方法としてまずは献血――吸血種のためのそれは供血と呼ばれるが、善意の第三者により提供された血液は血液銀行によって管理される。
専門機関で体質などの検査を受けたのち、適正量を処方されることが法律で決まっている。凶暴化などの兆候を見逃さないよう、吸血種の国民的義務として専門病院での定期検診も義務づけられていた。
時代や制度の変化に伴い、吸血種が公的機関から補給される血液を摂取する行為は給血と呼ばれるよう推奨され、いまでは一般にも浸透している。どうしても被害状況を想像させる「吸血」という名称自体が野蛮で差別的だと、ヒト亜族としての分類である「吸血種」の名称も、変更されることを検討されているらしいが、まだ世間的には昔からの呼び名が通ってしまっているのが歯がゆいところだ。
そもそもとして、吸血種はそこまで暴力的な種族でもなんでもなかった。
古い時代、吸血した相手が死んでしまうまで吸い尽くしていたのは、適正量がわからなかったことが要因だ。そのため怪物として忌み嫌われ人里を離れることで、飢えに餓えてからヒトを襲ってしまうという悪循環があった、ということも近年の研究でわかってきた。
また伝承でよく言われるように、特に十字架や太陽光が苦手ということもない。
単純に差別を受けて被害を避けようと隠れ潜んでいたこと、それから中世ごろには教会の僧兵が治安維持を請け負うこともあり、ヒトを襲う吸血種と戦闘になることも多かった。
それらがあわさった結果、伝承として『吸血鬼は日光や神を畏れる』という話に収束したのだろう。
吸血衝動についても、かつては食欲に分類され生命活動と不可分とされていたが、現在では嗜好品のような扱いになっている。大抵の場合は、月に一度程度の給血でまかなえるし、代替品の人工血液ドリンクや鉄分入りのサプリメントでも事足りる者が多いからだ。
同時に、やはり吸血種は身体能力にすぐれ、ヒト族の平均的なそれを遙かに超える者が多いことも知られてきた。容姿にもすぐれ、知能も高い彼らがさまざまな分野でも活躍し、むしろヒトを助けるような活躍をすることで、本能的忌避感を薄れさせていった。
『給血にご協力を! ――供血によって助かるひとは、あなたのそばに』
『バンパイア限定モデル、VRゴーグル新発売! よりソリッドな没入感を! 仲間とつながる最高体験――』
『魅了保護グラス、新規デザインで登場』
電車内の広告に溢れる文言も、ヒト種向け、ヒト亜族向けとさまざまだ。特にゲーム機などは種族間での反射神経や解析能力が違い過ぎるため、機材のほうで調整をかけないと遊びにならない。
ヒト亜族は人類における優等種、という言いかたをされた時代もあったと歴史の授業で学んだが、現在はそうした優生思想は人権的に問題とされ、平等がうたわれている。
なにが平等だ、とすばるは自分の血の味のする唇を嚙みしめた。
すぐれた身体能力? 整った容姿? サプリを飲めば問題のない吸血衝動?
すばるにはなにひとつ当てはまらない。顔も地味で背は低いし瘦せているし目は悪いし、とくに頭がいいわけでもない。なのに吸血衝動だけはひといちばいつよくて、病院にもそういう体質だと診断されてからは、週に一度の血液供与を受けている。
幸いにして実家は裕福で、通常の四倍かかる給血や、とっさのときに飢餓感を抑えるための常備薬など、お金のかかる子どもを大事に育ててくれている。
そしていまは、前回の供血から六日目。つまりもっとも飢餓感がつよい状態だ。明日にはちゃんと得られるとわかっていても、空腹状態がピークなのはどうしようもない。
すばるもわかっている。充分恵まれていて、それでも餓えてしまって、耐えきれず自分の血を舐めてまぎらわす浅ましさが、いちばんいやだ。生きているのがくるしくなる。
(いいなあ)
きっとあの背の高い青年は、こんなコンプレックスなど縁が無いのだろう。すぐれた体格、堂々とした態度。なにより、かぶりつきたくなるようなくっきり浮いた胸鎖乳突筋。
口のなかにじわっとつばが湧いてきた。だめだめ、とすばるは目をそらしてかぶりを振る。魅力的な姿には鼓動が高鳴ってしかたないけれども、見境なく他人にかじりつくようでは、それこそ中世暗黒期の吸血鬼と言われた犯罪者になりさがってしまう。
そんなのはごめんだ。すばるは肩掛け鞄をぎゅっと抱きしめる。
ここしばらく吸血衝動がつよくなってきている。体調の変化は、と定期診断を受けている際、主治医に問われて答えれば、血液検査の結果を眺めて首をかしげていた。
――おかしいですねえ。数値的には数年前から変わらないんですが。一応、お薬出しておきますね。
それ以後、飢餓感を抑える薬は種類を増やして処方されていて、それもちゃんと飲んでいるのに、やはり効き目はあまりないらしい。次の問診ではこの薬では無理だと伝えなければ。浮いてきた汗を手の甲で拭って、すばるは冷静につとめようとする。
――もし緊急の場合はこちらを。副作用がひどいので、どうしても、のときにだけ。
念を押す主治医から処方されたのは、十代のうちには少しつよすぎるため、あまり推奨されていないという、衝動を鎮めるための緊急用のペン型注射器。カバーを外し上腕か太腿などに押し当てるとニードルが出て薬液が注入されるものだ。
吸血衝動に飲まれると牙が伸び唾液が異様に溢れてくる。全身に震えが出ることもあり、結果として経口薬を飲みづらくなるため、ペン型注射器が適しているのだ。
(大丈夫、注射がある。間に合う。落ち着け)
鞄の内ポケット、すぐ取り出せるところに、それがある。だから大丈夫。すばるは何度も自分に言い聞かせたが、じわじわする冷たい不安は消えない。
一度、あまりに吸血衝動がひどくなり、注射を使った。その際の副作用は、医者が勧めないだけあってひどかった。嘔吐にじんましんで、数日寝こんだのだ。内臓がひっくり返るほどの気持ち悪さは、あまり経験したくない。
(いや、そういうこと考えない!)
そもそもパニックになると理性のタガがはずれやすくなるので、ストレスを自覚したらゆっくりと深呼吸。教えられたとおり、口で静かに吸って、鼻で深く吐く。
冷や汗が浮きはじめていた額を手で拭い、すばるは興奮の対象である彼から目をそらした。
「……わ、わっ」
とたん、カーブにかかった電車の揺れが激しくなり、車内の立っていた乗客が遠心力に揺られてぞろりと動いた。手すりに摑まれなかったすばるも押し流され、最初に立っていた位置から数歩ぶん、たたらを踏みながら移動させられる。
(つ、つぶれる)
みっちりとした人垣の圧迫。最悪なことに周囲のひとびとは女性ですらすばるよりも背が高く、呼吸すら危うくなった。みしり、と骨が軋んだような気がしてコンマ数秒、カーブで傾いていた車体が立て直されると同時に圧が緩和された。さらに、逆方向にぐらついた身体が倒れそうになった。心臓がひやっとなったところで、誰かのつよい腕が自分の腰を摑むようにして、支えてくれたのがわかった。
「あ……あっ、すみません、ありがとう――」
すばるは慌てて顔をあげ、ぎょっと目を瞠る。いますばるの身体を摑まえている腕の持ち主は、あの憧れの彼だった。
どん、と胸の内側が殴られたかと思うくらい、鼓動が跳ねた。衝撃に硬直していると、密着状態のままの彼が「だいじょうぶか」と声をかけてくる。
「ひっくり返りそうだったから、とっさに摑んだけど」
「だっ……だ、だ」
だいじょうぶです、と言いたいのに舌がもつれる。心拍数があがり、どっどっどっどっと耳の奥で音がする。汗が噴き出し、息があがって、落ち着こうとするため深呼吸をした――それがまずかった。
(あ)
鼻腔を通して流れこんできたのは、健康で若い男性ならではの匂いだ。きちんと清潔にしているのだろう、通常なら石鹸やシャンプー、整髪剤などの香料が勝っていて、体臭などは気づけないはずだ。
けれど、いまのすばるにとっては、とんでもないごちそうの匂いでしかない。若く代謝がよく、常に新鮮な血肉を成長させ続けている身体からは、頭がぐらぐらするほどの香気が放たれているのだ。
ずくずくと犬歯が動いた。とっさにつよく口を結ぶと、伸び上がったそれが口腔を傷つけ、ぶわっとひろがる血液の香り。
「あ――」
「ちょっ、おい!?」
キャパオーバーだ。ブツンとブレーカーが落ちるかのようにすばるの意識はそこで途絶える。倒れたら痛いだろうな、と思ったけれど、それを確認する間もない、ブラックアウト。
* * *
美味しそうないい匂いに包まれて、すばるはここしばらくないほどの多幸感を味わっていた。周囲にあるのは中身が真っ赤なレアステーキに、ブラックプディングにブラッドソーセージ、血を使ったブルーパンヌカックなどなど。どれも、幼くてそのまま血を飲むことがむずかしかったころ、親が工夫して食べさせてくれた、いまだに大好物の料理ばかりだ。
「……おい」
かじりつくと、芳醇な血の香りにスパイスが絡まって、最高の味わいが舌を震わせるはず――しかし、きょうの肉はいささか硬いようで、どうもうまく嚙みきれない。
もごもごと前歯でかじりついていれば、骨付きTボーンステーキがじたばたと暴れ、すばるの口から逃げていった。
「おい! さすがにいてえよ!」
「へうっ!?」
嚙みついたままついて行こうとしたところで、怒鳴り声に目を覚まさせられる。いったいどういう、と目をしばたたかせれば、歯形とよだれがついた腕を自分の手で抱えこみ、こちらを睨みおろしている青年の顔がすぐ近くにあった。
「やっと目ぇ覚ましたか」
「……え?」
がたたん、ごとん、という電車の音。まだ車内にいるようだけれども、あれだけ混みあっていたはずの乗客らは見当たらない。そしてすばるの身体は長い座席に横たえさせられ、彼の膝枕に寝ている有様だった。
そして車窓からは、きらきらした朝の光を反射する大きな川が流れているのが見える。
「え!? ここどこ!?」
「多摩川橋梁。つか、もうすぐ品川」
「ええええええ!」
がばりと起きあがり、腕にはめているスマートウォッチを確認する。時刻はすでに九時をまわっていて、降りるべきだった横浜駅はとうに過ぎた。そしてはたと気づく。
この車両のなかには、膝を貸してくれた彼とすばる以外、誰もいない。
「あの……ほかのひとたちは……?」
ラッシュのピークは過ぎたとはいえ、まだこんなに電車が空くような時間ではないはずだ。どうして、と問いかけながらいやな予感を覚えていると、ため息をついた彼の答えは案の定のものだった。
「吸血発作の起きた吸血種に対する、緊急避難行動ってやつ」
「……あ」
やってしまったのだ、と真っ青になる。
いくら医学が発達し、法整備がなされたところで、発作的に吸血衝動がこみあげ、抑えられない事態がまったくなくなったわけではない。理性を失い暴れる個体が出た際には、すみやかにその場を離れるようにと行政や学校で指導されている。
「ご……ごめんなさい」
青ざめながらひとまず目のまえの彼に謝罪をするが、しかし、とすばるは思う。
「でも、なんでぼく、ここで寝てたんでしょうか……逮捕とかされても、おかしくないし」
意識が途切れたのがどのあたりかはもうろうとしていたので定かではないが、少なくとも一駅・二駅くらいは通過しただろう。すばるは意識がなかったし、鉄道警察なりに連絡し、拘束して電車外で確保される状況もあり得たのでは。
申し訳なさと同時に困惑しつつ問いかければ、青年は「ああ」とうなずいてみせた。
「おまえ、おれの腕に嚙みついてすぐ、気絶したんだよ」
「嚙み……ほ、本当に、申し訳ありません」
あらためて言われると地の底まで埋まりたくなる。土下座せんばかりのすばるに、いいから、と青年は手を振ってみせた。
「とにかくそんとき、倒れかかったとたんに眼鏡はずれてな。この車両の乗客全員、固まっちまった」
続いた説明に、今度こそすばるは埋まろうと思った。電車内の床は硬いからそれも無理だが、少なくとものうのうと椅子に座っているわけには――と膝をつこうとして「汚ねえからよせっつの」とまたもや止められた。
「おまえ、えっらい分厚い眼鏡だなと思ったけど、それ近眼じゃなくて魅了眼の防止か」
「……そうです」
うつむいて、すばるは眼鏡のブリッジを押しあげる。これは視力の矯正器具ではなく、周囲の人間が直接すばるの目を見ないように、そして視線に当てられないようにと、特殊な効果を持っているウェアラブルデバイスだ。単なるレンズに見える部分は投影用モニターで、実際のすばるの顔とは違うものが映し出されるようになっている。
「まあそんなわけなんで、おれが指示して、全員よその車両に行ってもらった」
「な、なんで」
「うん?」
「きみは、どうしてそばにいてくれたの?」
「いやだって、嚙まれてたし。離れようにもおまえ、まっじで食いついて無理だし」
彼の腕から出血してはいないし、口腔にも後味がないことを思うと、おそらく血を吸うまでには至っていないだろう。
よだれと歯形はつけてしまったが、すばるの口が小さく、彼の腕が太く硬いおかげで、前歯でしか嚙みつくことができず、すぐにブラックアウトしたのだろう。結果として彼の肌を食い破ることだけはしなかったらしい。
とはいえそれも立派な咬傷だ。
「ごめんなさい、本当に……あとで病院行って、診断書とってきてくれたら医療費とかも支払うから」
「んあ? いやいいよ、この程度、昼には消えるだろ」
それはよかった。いやよくない。最大の謎が残っている。
「じゃなくて、なんで平気なんだ? ぼくの目って、相当に影響力がつよくて、だからこれ、かけてるんだけど」
身体能力も貧弱だし顔立ちも地味なくせに、魅了のちからだけは異様につよかった。そしてすばるにとって最悪なのは、それが「すばるの意識していない第三者」に対して、とくに影響力が激しいこと。
家族や友人など、双方向に関わりが深く、お互いに好意的に思っている間柄であれば問題がない。というよりもとから好意的なのでほぼ関係がない。
しかしこれが、すばるに興味のない他人に対しては、強制的に興味を持たせてしまう。しかし本来は好意など持つはずもない相手であるため、脳が混乱してしまうらしい。いわゆるフリーズ状態で、しばらくぼうっとしてしまうのだ。
子どものころはさらにそれがコントロールできず、また最悪なことに少年趣味な人物に当たって誘拐されかかったこともある。
「いまはとくに血が足りない時期で、微妙に誘引力が増してたんだと思う……」
ヒトを惹きつけ、ぼんやりさせたままに吸血を行う。吸血種が持っている、原初的なその能力は危険視されており、普段の行動にもさまざまな制約を課されている。
月に一度、供血まえの飢餓状態の際には行動を控え、三日ほど自宅やホテルなどでおとなしくするよう、減血休暇をとるなどが義務づけられているのだ。
しかしすばるの特異体質でそれを当てはめると、週の半分近くはなにもできなくなってしまう。結果、投薬に頼っていたが、それでも足りなかったのだろう。猛省だ。
(副作用嫌がる資格なんかない。さっさと、注射打っておけばよかった)
自分は危険な生き物だということを、いやでも思い知らされる。妙に喉が渇いたと自覚した、あの時点ですでに判断力が鈍っていたのだ。深く落ちこんでいるすばるに対し、青年はあっけらかんと失礼なことを言った。
「あ~なるほど。誘引臭で虫取りする感じか。よくできてんな」
シリアスに悩んでいた空気を吹き飛ばす、直球かつ失礼すぎる物言いに、反射的に言い返していた。
「そ、それさすがにハラスメントだよ!」
「ああ、ドラハラだっけ? バンハラ?」
吸血種に対し、ヒト種がいささか歪んだコンプレックスを持ったり、敵愾心を持ったりするのは仕方ないことだった。表面上いくら平和に共存しているとはいえ、根本的な種族の違い、生態の違いなど、どうあっても完全な理解がむずかしい部分もある。
すばるも、子どものころから遠巻きにされたり、ひっそりと悪口を言われたこともあった。とはいえ、面と向かってケンカを売ればなにをされるかわからないからと、正面切って暴言を吐かれたり、暴力を振るわれることはなかった。
だからこそ、彼のストレートすぎる言葉に目をしばたたかせてしまう。そんなすばるに彼は、にやぁ、とこちらを見て笑う。
「ところでおれ、神宮朗希な。いま高校二年」
「あ……一ノ倉、すばるです。学年、いっしょ」
「その制服、横青のだよな。あったまいいなー」
感心したように言いつつ、「てことはやっぱ学校通り過ぎたか」という彼にすばるはうなずいた。
「あ、あの、神宮くんは、どこ高?」
「おれ? カナコー」
略称で言われ、一瞬戸惑うもこの沿線で私服の高校はさほど多くない。意外と言ってはなんだがそこそこ偏差値の高い高校だった。
そしてさらに意外なのが、口を開いた彼はずいぶん砕けてなつっこい気配がある。
「なに?」
「あ、いや。いつもあの、むすっとしてたんで、こんなに喋ってくれるんだなって思って」
「いつもって……いや満員電車うぜえじゃん。おれいっつもひとの頭のにおい嗅がされてっから、まじきちぃんだって」
「そ、そっか」
言われて、なるほどと思う。ひとより背の高い神宮は、すばるの知らない苦労があるようだった。
「でも、……本当にありがとう。助けてくれた、んだよね」
「あ? まあ。行きがかり上な」
ずっと憧れていたコワモテ気味の彼は、気さくでやさしくて親切だった。ますます好意を持ってしまうな――と思ったすばるは、はたと気づく。
(……そういえば、なんで神宮くん、平気だったんだろう)
毎朝電車で見かけるだけの関係だった。彼にしてみればこちらを意識したこともなかろうし、だとすればすばるの魅了がかかってしまうはずだ。
嚙みついていたから、痛みで魅了の幻惑が紛れたのだろうか。
「……」
「おい、どうした?」
「え、あ、いや」
無言で考えこんでいると、神宮が顔を覗きこんでくる。
相変わらず車両のなかにはふたりしかおらず、そうこうしているうちに、さらに東京方面へと電車は進んでしまった。
「あっ、そ、そうだ。遅刻の連絡しなきゃ」
「そういえばそうだったな」
「本当にごめん、たぶんぼくに関わったからだって言えば、遅刻の証明書出ると思う」
吸血種に関するトラブルにヒトが巻きこまれた場合、交通事故などの事由と同等に見なされるのだ。
「SNSとかでいいんで、連絡先教えてもらっていいかな」
なるべく負担にならないツールを選ぼうとすると、神宮はしばし考えたのちに言った。
「ふつーに電話でいいか?」
「え、いいけど……」
スマホを出すように言われ、あわててポケットからそれを出す。エアドロップでの情報交換は秒で終了。画面に、Jinguを登録しました、のポップが出る。
「とりあえず、もうこうなったら適当に遊んで帰るか。品川ってなんかあるっけ? 渋谷とか行くか?」
「さ、サボるの?」
自由な神宮に驚いている間に、電車は品川駅にすべりこんでいく。歯形のついた腕に自分の腕を摑まれると、物理的にちからのつよさが違うだけではなく、心理的にも抗えない。
「事故にあっちまったしなあ。おまえもつきあえよ」
「えええ!?」
明るく笑った神宮が、自分たち以外誰もいない車両から堂々と降りていく。ガラガラの車両に、電車を待っていたひとびとは一瞬不思議そうな顔をするけれど、忙しい都会のひとびとはかまうことなく乗り込み、あっという間にひとで満ちていった。
ほかの車両に移動していたひとびとも、特に変わった様子もなく人流に紛れていって、思うほどの影響がなかったことにすばるはほっとする。
「おい、ぼーっとしてんなよ、すばる」
「呼び捨て……」
「クンとかつけるか? すばるクン」
「ばかにされてる感じだから、いいよ……」
完全に巻きこまれてしまって、すばるはため息をついてしまう。まったく、とあきれ顔をしてみせながらも、不思議に思った。
(渇いてないなあ)
一度倒れてしまったせいで、逆に落ち着いたのだろうか。いまは神宮を見ていても、あの毎日感じていた異様な衝動はおさまっている。
「とりあえずおまえなんか食えよ。気絶したの、腹減ってるのもあんじゃねえの?」
「いや……まあ……うん」
とりあえず肉類を食べてサプリを飲めば、身体は落ち着くだろう。長い脚ですたすたと歩く神宮に引きずられるすばるは、苦笑しているつもりの顔がやわらかくほころんでいることには気づかない。
そして、なぜ神宮に対してだけ、魅了眼の影響がなかったのかも――双方向の好意がある時点で、意味をなさなくなる程度の能力のおかげで、気づけない。
「あ、映画やってんじゃん。観るか」
「ちょ、もう、強引すぎるんだけど! あと足速い!」
腕のちからがつよい。有無を言わせない態度に、思うがまま行動する自由さ。
(ちょっとこれ、どうしよう)
しばらくは振り回され続けるだろう未来だけが、スマートグラスの向こうに見えていた。
【おわり】