E・ルイスがいた頃 (著:竹岡葉月)
ディストピア飯小説賞によせて 特別書き下ろし短編
サウスアボット基地は月面都市群の一部であり、れっきとしたアメリカ合衆国五十一番目の州である。これはユナイテッド・ステイツで教育を受けた人間なら誰でも知っていることで、十歳のミカエラも五十一個の州名と州都を暗記して、白地図を完成させる地理のテストを先日受けたところだ。
テストの出来は、完璧だったと思っている。
結果が出る前に、優秀なるミカエラ・バーンズは学校を休まざるをえなくなってしまったのだが。
「はあい、ミカエラ」
シートベルト着用の赤いランプが消えてまもなく、スペースシップの客室乗務員がミカエラのところにやってきた。目が合えばいちいちウインクをして、馴れ馴れしいのが煩わしい。
「食事を持ってきたわ。チキンでよかったわよね」
本日の機内食は、皮の表面のつぶつぶまで巧妙に再現した大豆タンパク製グリルチキンか、皮の裏のぬるぬるまで巧妙に再現した大豆タンパク製サーモンステーキの二種類から選べるらしい。付け合わせのグリーンサラダがいかにも栄養パウダーをプレスして作った安っぽい質感で、たぶんレタスを食べてもきゅうりを食べても同じ味がするのは想像がついた。
(……こんなにいらないのに)
パックのフルーツジュースは──よかった。いつも飲んでいる製造工場のものだ。
「いっぱい食べてね。十五分後にまた来るわ」
そしてまたウインク。本当にもう、放っておいてほしい。ミカエラは内心ぼやいた。
基地の搭乗口で母と別れてから、ずっとこんな調子だ。大人抜きで宇宙船に乗る場合、ミカエラのような子供は終始スタッフの監視下におかれるわけである。
期限は着陸先の到着ロビーにいる、ミカエラの祖父に引き渡されるまで。
(一度も会ったことない人だけど。ママの親だった人なんて)
思わず鼻にのった視力矯正用の眼鏡を、人差し指で押し上げた。
──ねえミカエラ。色々手続きが済むまで、フロリダにいるおじいちゃんのところに行かない?
そう言った母、ケイティーの言葉が蘇る。
この場合の『色々』というのは、ただいまバーンズ夫妻は離婚の成立に向けて、詰めの段階に入っているためである。一人娘の親権はケイティーが取る線が濃厚だが、別居中の父スティーブもわざわざ月面都市群の反対側にあるニューロンドンからミカエラたちの居住区まで来て、弁護士立ち会いのもとで最後のお話し合いをするらしい。
とっくに冷え切った夫婦の会話を今さら聞いたところでどうでもいいと思うが、向こうが耳に入れたくないようだ。浮かんだのが月の外への厄介払い──母方の祖父宅に、ミカエラを一時避難させるプランだったわけだ。
『おじいちゃんって、どんな人?』
『……会えばわかるわ。悪い人じゃないから』
ミカエラは真面目で仕事熱心な母の、回答までのわずかな『間』を見逃さなかった。
『ごめんね、ミカエラ。終わったらすぐ迎えに行くから』
子供というものは、基本的に無力である。すまなそうに言われたところで、彼らの決定が覆ったことなどまずなかった。
祖父の名はエディ・ルイス。十年ほど前に経営していた小さな事務所を人に譲り、今は地球のとあるシニア・コミュニティで、リタイア後の一人暮らしを満喫しているらしい。母が手続きを終えて迎えに来る頃、ミカエラたちはこの人と同じファミリー・ネームを名乗ることになるわけだ。
船の窓から見える地球は、ミカエラが生まれ育った月の何倍も大きい。
「……ばっかみたい」
かくしてミカエラはアメリカ合衆国五十一番目に成立した州を出て、二十七番目に成立したフロリダ州に行くことになったのである。
ケネディ宇宙センターを祖とした国際宇宙港は、アメリカ南部フロリダの東海岸にある。
祖父の家も同じフロリダの郊外にあるそうで、車で迎えに来るという話だった。
「さあミカエラ。お祖父様がお待ちしているはずよ。楽しみね」
例の客室乗務員が、テンション高く宇宙港ターミナルビルの到着ロビーを歩いていく。自走式のトランクと一緒について歩くミカエラは、大気圏の中から見る空の異質さと水平線の存在に、内心度肝を抜かれていた。
しかし祖父が待っているというロビー正面に、それらしい人影はなかった。
「あらあ、おかしいわね。ターミナル内にいると連絡は来ているんだけど──ちょっと待ってねミカエラ。ルイス様! エディ・ルイス様はいらっしゃいませんか!」
客室乗務員が、声を張り上げる。
「──私です」
対する返事は、意外と近いところから来た。というより、到着ロビー正面、構内案内図前という、まさにお約束の場所そのままの位置に立っていた人であった。
「……ルイス様?」
「はい、エディ・ルイスです。孫のミカエラ・バーンズを迎えに来ました」
それでも彼を除外して探していたのは、決してわざとではない。
一般的に考える『おじいちゃん』像から、かなりかけ離れた姿をしていたからだ。
(……おじい、ちゃん?)
おにいちゃんの間違いでは?
歳の頃は、ミカエラが見るかぎりがんばって二十代半ばといった感じだ。
たとえば南国仕様の派手な半袖シャツと、細身のジーンズとサングラスの組み合わせは、軽々しいことこの上ない。フロリダの宇宙港という場所柄ゆえ、似たような軽装で到着客を出迎えるツアーコンダクターや地元の若者は沢山いたが、そもそもミカエラたちが探していたのは引退済みの老人のはずである。こんなアイドルのプロモーション映像に出てきそうな、チャーミングが売りの優男ではない。断じてない。
「これが身分証です。確認してください」
顔のいい男がIDカードを客室乗務員に提出し、サングラスを取る。瞳の色が、母ケイティーそっくりでどきりとした。
「……失礼ですが、不老処置の手術を?」
「ええ、はい。お恥ずかしい話ですが、若い頃にちょっとヤンチャしたもので」
男はウェーブがかった栗毛をかきかき、照れくさそうに笑った。客室乗務員が、わかっていても一瞬目を奪われていた。
「生体情報を確認いたしました。エディ・ルイス様ですね」
「遠いところから、わざわざありがとうございました」
「それはお孫さんにおっしゃってくださいな。それじゃミカエラ、元気でね」
客室乗務員は、最後までウインク&ハグの、馴れ馴れしい態度を変えようとはしなかった。しかし今はそんな背中でも、『置いていかないでお願い』とすがりつきたくてしょうがない。
「──さ、行こうかミカエラ。外に車を待たせているんだ」
自称エディ・ルイス氏は気さくに言って、こちらの肩を叩いて歩き出す。
国際宇宙港を一歩外に出ると、強い強い太陽光と、路面の埃を舞い上げる風、そして嗅いだことのない匂いが鼻をついた。
「──生臭い、かな?」
まるでこちらを見透かすように、エディが笑った。
「九月も末っていっても、このあたりは一年中温暖だからね。これが大地と大気の匂いだ。ミカエラを歓迎してる」
「……わたしは……」
「ほら、あそこに駐車した車だ。おおいキャプテン!」
タクシー乗り場の脇に、旧式の赤いオープンカーが停まっていた。運転席に、レスラーのような体躯の黒人が座っている。はちきれそうなタンクトップの首元に金のネックレスをつけ、頭はつるつるのスキンヘッドだったが、まばらに生える髭はすっかり白髪になっていて、七十はゆうに越えたご老人のようだった。
(派手)
悪そうなおじいさんだ。
キャプテンと呼ばれた老人は、こちらに気づくやいなや、強面の顔をほころばせた。
「おお、そいつがおまえさんの孫娘か」
「そうだよ、ミカエラだ」
「とにかく乗った乗った。なかなか骨のありそうな面構えの子じゃないか」
助手席のエディに続き、ミカエラが後部座席におさまったところでそう言われた。
ミカエラは、無言で眼鏡を押し上げる。こちらを指して『可愛い』と言われることがないのは、月にいる頃からよくよくわかっていた。
「ミカエラ、彼はキャプテンだ。うちのご近所に住んでいる」
「まあ友達ってやつだ。しょうもない方のな」
キャプテンはかかと大笑いして、骨董品のような車を発進させた。
屋根なしオープンカーの、容赦ない強風にもみくちゃにされながら、ミカエラはずっと助手席にいる祖父のことを考えていた。
「……ルイスさん」
「水くさいな。エディでいいよ」
「もしくはおじいちゃま、とかな」
「ルイスさん。どうして不老処置を?」
ミカエラは頑なに続けた。頑固と呼びたければ呼べばいい。
いわく。健康な体を機械に置き換えること、外見の老化を止める全身不老処置も含め、今となっては全て危険かつ倫理に反する行いとして禁止されているはずだ。ミカエラも本物を見るのは初めてだった。
「……ミカエラは知らないかもしれないけどね、昔ちょっと流行ったことがあったんだよ。戦争がやっと終わって、みんな解放感に溢れていてさ」
「流行ってたら何してもいいんですか? それってかっこいいんですか?」
二人はまたも黙り込んだ。
「体の負担も大きいですし、元に戻すこともできないんです。あまりに『タンリョ』すぎます」
「君は……なんていうか真面目な子だね……」
「真面目どころか、とんだカチンコチンの石頭じゃねえか。こんなん見たら卒倒するんじゃねえか」
「ひ」
いきなり運転中のキャプテンが、後部座席を振り返った。危ない前を見てと思ったけれど、なぜか丸太のような腕から伸びる右手首の先がなく、ハンドルに残った右手が、そのまま自動運転を続けていた。
「さ、さいぼーぐ……っ!」
「これは別に違反はしてねえよ。元の手は爆弾で吹っ飛んじまっただけだ」
分離した右手首の奥から、ちゅいーんという駆動音とともにドリルが迫り出してきて、その先端でぽりぽりと耳の後ろをかいている。
「ま、便利っちゃ便利だ。色々取り付けられるしな」
「だからあだ名がフック船長なんだ」
祖父がにこやかに補足してくれた。ミカエラは本当に卒倒したかった。
「確かにミカエラの言う通り、老けないのもいいことばかりじゃない」
「なんせもてねえしな」
「『孫と話してる気になるからごめんなさい』ってさ。切ないよ」
「で、寄ってくるのは子か孫みたいな歳の小娘ばっかり」
「それは私の方がごめんこうむりたい」
「──いーかげんにして! どうしてそんなに不真面目なの、いい歳して!」
エディとキャプテンが、顔を見合わせて大笑いをはじめた。
「いい歳だから不真面目なんだよ」
知るか。この不良ども!
「んじゃあな、おまえら。また明日な」
高速と一般道を二時間ほど走らせた先に、祖父とキャプテンが暮らす集落があった。
「ロスんとこのこそ泥に関しては、あらためて話し合おうや」
「了解だ」
「あばよ」
町から少し離れており、カラフルな赤いテラコッタの瓦屋根を使った住宅が、おそろいのように点々と建っている。ほとんどが近年になって移住してきたシニア層とのことだ。集落全体が老人ホームのようなものなのか。
キャプテンはミカエラたちを家の前で降ろして、また車で走り去っていった。
「……何かあったの?」
「気にすることはないさ。さて──と。とりあえず荷物を置きに行こうか」
背の低い柵に囲まれた庭の向こうに、やはりテラコッタの屋根と漆喰の壁でできた、平屋の一軒家がある。ポーチを上がって、明かりの消えた家の中に入った。
「君の部屋は、ここ。バスルームとトイレは、出てすぐ反対側。何か必要なことがあったら、すぐに言ってくれよ」
リビングも通された客室も、コンパクトながら落ち着いた調度で掃除もよく行き届いていた。
「孫が来るっていうからね。シーツもカーテンも新調したよ。なかなかいいだろう」
自慢げにされても、そのセンスはやはりちょっと最新とは言いがたい。
見た目はとても若いけれど、それでも中身は外見通りとは違うのだ。ちぐはぐで小さなところがひっかかる。
「ルイスさん」
「ん?」
「わたしのママは、行き過ぎた高度医療には反対のスタンスで、わたしの近視の治療にもいい顔をしないんです」
おかげでずっと、物理レンズの眼鏡暮らしだ。そばかすが気になろうが、鼻の形が悪かろうが、必要以上に体をいじるものじゃないと、よく言われる。
「それは……たぶん私のせいだろうね」
エディが苦笑いして認めるまでもなく、そうなのだろうと今日一日でわかった気がした。
「ママは、わたしをここにやるのを、最後まで迷っているように見えました」
「それでも大事なミカエラを預けてくれたことを、嬉しく思っているよ」
──なんだかうまくかわされたような。相変わらず祖父の目は笑っている。母と同じブルーアイズに、豊かなブルネット。
エディが部屋を出ていくのを見届けてから、ミカエラはベッドに倒れ込んだ。
(納得いかない)
どうせいるのは期間限定だ。そうそう気を許してなるものかと思った。
翌日の朝。ミカエラが着替えて部屋を出ると、キッチンにエディがいた。
おにいちゃんにしか見えないおじいちゃんは、ミカエラの幻覚ではなかった。
「おはようミカエラ。早起きさんだね」
「……あなたも起きてる」
「年寄りの朝が早いのは普通だよ」
さようでございますか。皺一つない顔で言われましても説得力がない。
「朝ご飯の支度をしようと思うんだ。ミカエラも手伝ってくれないか?」
「……手伝うって、なにを?」
「まずは材料を採ってくる。おいで」
てっきりシリアルに牛乳をかけるか、朝食用のミールキットを温めるぐらいと想像していたが、エディは勝手口の帽子かけにあったテンガロン・ハットをかぶり、ドアを開けた。
建物の裏庭に広がっていた光景に、ミカエラは息をのんだ。
「うそ」
「噓なものか」
「……地面から生やしてるの、食べ物を」
「その通りだよ。昔はそうやって野菜も果物も育てていたんだ」
自分の目が信じられない。
掘り返して耕した地面に、植え付けた植物が規則正しく並んでいる。これが『畑』というのは、教科書で読んで一応知っていた。社会というより、歴史の分野でだが。
「このあたりはもともと農業地帯でね。粘土質でも砂でもない、水はけはいいけどしっかり蓄えられる土なんだよ。トマトやハーブなんかがよく育つ。あとはなんといっても柑橘類だね」
小さな菜園の周りを、黄色い果実をたわわに実らせた果樹が取り囲んでいる。それがミカエラも知るオレンジなのだと気づいてぎょっとした。
世の中の食べ物は、たぶん大きく分ければ二種類ある。一つは味と栄養価だけ似せて合成したもどき系。もう一つは、専用プラントで肉や野菜などを培養する素材系だ。
これは分類するなら素材系なのだろうが、月の食品製造工場で培養され、プラントのレーンをころころ転がるオレンジではない。なんと原始的な!
エディは問題の畑から、なっているトマトやきゅうりをもぎ取り──別に死にはしないらしい──樹の枝についたオレンジも、ハサミでぱちんぱちんと切り取った。
収穫した野菜と果物は、一つ一つミカエラに手渡された。
トマトはミカエラが月で食べているものに比べて、表面に傷がついて塞がった跡があったし、きゅうりは先の方が曲がっていた。オレンジも表面がごつごつしている。
「これが今日の朝ご飯だ」
──本当に食べるつもりらしい。
家の中に戻って、サンドイッチ用の薄切りパンにバターとマスタードを塗って、スライスしたトマトときゅうり、そしてチェダーチーズを挟み込んだ。
あとはオレンジ。中の果汁を搾って、ジュースを作る。
ミカエラはほとんど見ていただけだ。「テーブルに持っていって」と言われて、ダイニングテーブルに皿とオレンジジュースの入ったコップを運んだぐらいである。
「それでは大地の恵みに感謝して。いただこうか」
食べろと言われても──。
エディはこちらの葛藤を知ってか知らずか、なんのためらいもなくサンドイッチを頰張っている。ついさっきまで、剝き出しの土から生えていた食べ物をだ。水で洗ったといっても、衛生的にどうなのだと思わなくもない。
前夜は食欲がないと言って、手荷物に入れていたビスケットで軽く済ませた。朝は起きてからこちら、何も口に入れていない。もともと小食で固形物に執着はないが、喉は非常に渇いていた。
(もう知らない)
半分やけになって、コップのオレンジジュースを一口飲んだ。
酸味のみずみずしさで、半分寝ていた体が一気に覚醒した気がした。
「ミカエラ?」
「…………すっ」
すっぱい。非常にすっぱい。あの宇宙船で飲んだフルーツジュースの、何倍もすっぱい。でも甘味もちゃんと感じられて、ぜんぜん嫌なすっぱさじゃない。
果物から直接搾ったせいで、粒が残って水のように一気飲みとはいかない。でも、この場合はそれでいいのだと思った。コップに少々でも、気持ち的には新鮮なフルーツをまるごと食べたような満足感。
これはサンドイッチの方も、積極的に確かめてみるべきだ。ミカエラは追求の手を止めず、野菜サンドをがぶりとかじる。なるほど──挟まったトマトときゅうり。どちらも味が濃くて、特にきゅうりの歯切れの良さが気に入った。これならレタスと一緒に食べても間違えようがない。
「いいよいいよ。慌てないでゆっくりお食べ」
「…………わたし、何も言ってない」
口いっぱいに頰張ってしまったせいで、返事をするにも時間がかかった。
エディが母と同じ色の目を細める。
悔しいけれど、久しぶりに残さず朝ご飯を完食してしまった。母に驚かれるかもしれない。
本当に、どういうことだこれは。
──数日が過ぎた。
祖父は日中、自分で耕した畑の草を抜いたり、果樹の世話をして過ごしているようだ。
ミカエラもすることがないので、学校から出された課題を端末で解きつつ、そんな祖父の行動を観察して過ごした。
ただいまミカエラは、庭の隅で埃をかぶっていたガーデンチェアとテーブルを引っ張り出してきて、詩の書き取りをしている。エディは脚立にのり、剪定ばさみ片手にオレンジの収穫作業をしている。
終われば傷ありと傷なしに選別して、傷がないものは近隣のホテルやレストランなどに卸しているそうだ。
「わざわざ古文書みたいな育て方で作ったって言うと、珍しがってくれる人もいるんだよ」
「ふうん……」
「案外いい値で売れる。年寄りの小遣い稼ぎとしては、悪くないよ」
変な人だと思う。今頃になって地べたで土にまみれて、自然に寄り添って食べ物を育てて。
自分自身が、何より不自然の塊なのに。
祖父の話を聞いたミカエラは、端末の画面をいったん閉じた。
「……ねえ、なんで?」
「ん?」
「どうして手術なんてしたの?」
「それは前にも説明した通り」
「ヤンチャしたから? 流行ってたから? でもあの頃の流行って、不老処置以外もいっぱいあったはずよね」
どうしてよりにもよって、時を止めることを選んだのかがわからない。
エディは脚立の上で、少し思案した後にこう言った。
「時よ止まれ。そなたは美しい」
「……なに?」
「古い戯曲の一節だよ。とても幸せなことがあるとね、この瞬間を切り取ってとどめておきたいと願う、極めて刹那的な感情に心を奪われることがあるんだよ。てっきり戦地で死ぬかと思ったのに、生きてリンダに会えたとか」
それは母を産んでまもなく亡くなったという、ミカエラの祖母の名だった。
「……わかんない」
「ケイティーも同じことを言った」
苦笑するエディと、飲み込みきれないミカエラと。なかなか埋まらない『間』に割り込むように、どこかから地響きに似た音が聞こえてきた。
「なんの音……?」
「ああ。これはたぶん、キャプテンだな」
エディはオレンジの果樹の向こうに遠く見える、民家を指して言った。
騒音のもとは、キャプテンのお宅の、広いガレージからだった。
ミカエラも乗せてもらった骨董品のオープンカーをよけて歩くと、その向こうに整備用の作業スペースがある。キャプテンはエンジンなどを外して整備するためのスタンドに取り付けられた、チキンの丸焼きサイズの機械を調整しているようだ。
手元のスイッチを押すと、激しい振動とともに反対側のノズルから火が噴き出る。動作を見守る目は、熟練のエンジニアのように真剣そのものだ。
「あれは……?」
「キャプテンの新しい義手だよ。分離して発射できるようにするんだ」
「……なんのために?」
「ロマンだよ」
今度こそ曇りのない顔で即答された。他にいったい何が? と。ミカエラは何も言えなかった。エディがキャプテンのところへ歩いていく。
「どうだい、調子の方は」
「ダメだな。どうも出力が安定しねえわ──」
ここの老人はみんないかれている。
その場で夢とロマンの実現のため、あれやこれやと議論が始まったので、ミカエラは完全に置いていかれた形だった。
仕方なくガレージの隅で、さきほどの宿題の続きをやっていた。
「──それ、ゲームできる?」
無遠慮な質問に顔を上げれば、同年代ぐらいの赤毛男子が、チューインガムを嚙み嚙み端末画面をのぞき込んでいた。
「……できない。勉強用だから」
「まっじめー」
ミカエラは黙って青筋をたてた。少年は冷めた目でガムの風船を膨らませる。
「あんた? 月から来たエディの孫って」
「その通り。ぜんぜん見えないでしょうけどね」
「まあオレだって、じいちゃんの孫にはぜんぜん見えない方だ。養子だし」
さらりと返された。横に腰をおろされる。
「オレ、オリバー。あんたは?」
「……ミカエラ」
内心気まずく思うミカエラだが、オリバーは特に気にしていないようだ。
「とりあえずさ、エディはわりといい奴だぜ」
「フォローどうもありがとう」
「いやお世辞とか、そういうんじゃなくて。かなり物知りだし、育てりゃ小遣い稼ぎできるってんで、このへんのじじばばはみんな庭や空き地にオレンジだのレモンだのを植えだしたんだよ。エディの影響だ」
ガレージの出入り口から見える花壇にも、確かに柑橘の低木が生えて実をつけていた。
祖父のおかげ。
──そんなことは知らなかった。
エディとキャプテンは、いじっていた新型ロケットパンチの噴射が止まらなくなり、「緊急停止!」「消火器持ってこい!」と大騒ぎしている。
「……そのわりに大人げはない気もするけど」
「否定はしねえな」
お互い顔を見合わせた。ちょっとだけ、心が通じあったような気がした。
「おい、オリバー! いるなら座ってねえで手伝え!」
キャプテンに呼ばれたオリバーが、「わーかってるよじいちゃん!」と叫び返す。
「あのさ、幽霊見たくね?」
「え?」
「出るんだよこのへん。夜になったら案内してやろっか」
オリバーは至近距離、ひどく愉快そうに口の端を引き上げ、立ち上がった。キャプテンのところに走っていく。
「おまえが女口説くなんざ、百年早いわ」
「そんなんじゃねえって──」
ミカエラは、ただどぎまぎと端末を抱えることしかできなかった。
そんなんじゃない。確かにそうだ。でも友達にこんな風に誘われるなんて、サウスアボットの学校でも一度もなかったのだ。
その日の夕飯は、手作りのチリコンカンとチキンサラダに、ガーリックトースト。畑のトマトと玉ネギも使って、居候のミカエラも手伝った。
食卓で考え込むミカエラを、エディが案じて声をかけてくる。
「どうしたミカエラ。チリが辛い?」
実際、分厚い鍋でことこと煮込んだチリコンカンは、トマトと牛肉の旨みを豆がたっぷり吸い込んで、かりかりのバゲットに合わせて食べると最高だった。
前ほど祖父という人に嫌悪感があるわけではなかったが、オリバーの誘いを報告するのは違う気がしたのだ。なんだか『告げ口』になってしまうようで。
「……ううん。大丈夫」
「ならいいよ」
まったく──品行方正な優等生のミカエラ・バーンズが、大人に秘密を作るなんて。後ろめたいのと同時に、ちょっぴりどきどきした。
そして──コン、と部屋の窓がノックされたのは、零時近い真夜中のことだった。
明かりを消し、ベッドにもぐって寝たふりをしていたミカエラは、その合図で毛布をはねのけた。
着ているのはパジャマではなく、動きやすいTシャツとハーフパンツだ。用意していたリュックサックを背負い、スニーカーに足を突っこみながら、窓辺に近づく。約束通り、オリバーが手を振っていた。
「満月だぜ。ライトいらないぐらい」
「静かに。ミスター・ルイスが起きちゃう」
冒険の始まりにテンションを上げるオリバーに対し、ミカエラはひたすら周囲を気にしていた。
オリバーに手を貸してもらいながら、庭に面した一階の窓から飛び降りる。
「幽霊って、どこに出るの?」
「バイパス沿いを少し行ったところに、閉店したレストランがあるんだ。オレが見たのはその近く」
いわく、誰もいない荒野の方角から、青白い鬼火の列が現れ、廃墟となった店に向かって消えていったのだという。
「ウィル・オ・ウィスプ……」
「そうそれ。絶対やばい」
確かにやばい。ミカエラたちは、庭の柵を乗り越え、道路を横切り、死んだように寝静まった家々を後にした。
ロードサイドの廃墟レストランは、深夜もトラックドライバー向けに明かりを灯す他の店と違い、そこの周りだけ真っ暗だった。背後は不気味な草っ原が広がっている。
錆の浮いた立て看板の下に、二人して陣取る。
さまよう魂が近づいてくれば、どの方向からだろうとすぐにわかるはずだった。
「今、あの地区に子供ってオレしかいなくてさ。こんなネタがあっても、話せるやつがいないんだよ」
ミカエラには同級生は沢山いたが、話してくれる人など皆無だったなんて言えない。
「ちょっと前まで、年上でも一人いたんだけど。そいつ都会の寄宿学校に行っちまった」
「……オリバーは、ここを出たいの?」
「出る。っつーかいつかはそうなると思う。宇宙船とか作る人になりたい」
看板の支柱に背中を預け、夜空を見上げる横顔は、暗いせいであまり判別がつかなかった。でも、声には確かな決意がにじんでいるように思えた。
「あんたはいいな。月面都市群なんてなんでもできそうじゃねえの」
「……そうでもない。単に生まれた場所がそこってだけ」
親が離婚するなら厄介払いされるし、自分の力では眼鏡も外せない。間違っているかもと思っても、いったん染みついてしまった価値観を変えられない頑固さではさもあらんといった感じだ。
「はじめて祖父に会ってね、びっくりして、それからずっと固まったまま。ああいう人は認めちゃいけないって、『コテイカンネン』が邪魔するの。ほんと石頭なのわたし」
「ならもう、握手するまで秒読みじゃねえの。楽勝楽勝」
オリバーは楽観的なようだ。ミカエラはそれこそ羨ましいなと思った。
「──おい、ミカエラ」
「しっ。わたしも見えてる」
オリバーが急に腰を浮かそうとしたので、ミカエラはその場で制止した。
二人が喋っているうちに、待ちかねていた鬼火らしきものが近づいてくるのだ。
数は一つ、二つ──三つか。真っ暗な平原を、地面から少し離れた、大人の頭ぐらいの高さで移動している。
「……ねえ、あれ、もしかして人間じゃない?」
「は?」
「幽霊じゃないよ。ヘッドランプとかつけた人だよ」
ミカエラは早口に喋った。満月なのが幸いして、ランプの光源以外の部分も、月明かりで照らし出されている。露出をおさえた黒っぽい服を着て、それぞれ肩に、荷物をつめこんだ麻袋や、コンテナをかついでいる。
「……泥棒……?」
「ま、まさか。このへんに盗むような金目のものなんて」
「あるでしょ。地植えのオレンジとか」
オリバーが、ぎくりとするのがわかった。
そう。エディ・ルイスの影響で、このへんのじじばばはこぞって小遣い稼ぎをしているのだろう? 思ったよりもいい値で売れると、祖父も言っていた。
「……きっと町のやつらだ。くそ、上前だけ横取りしようとしやがって」
「誰かに知らせないと」
通報は市民の義務、国民の義務だった。
ミカエラはリュックサックを背中から下ろし、中に入れていた宿題用の端末を起動する。
存在だけは教えられていた、緊急コールに繫げようとして──。
「誰だ!」
カッと両目に強い光源が飛び込んできて、目がくらんだ。
「そこで何をしてる。動くんじゃねえ!」
ようやく目が慣れてくる。廃墟レストランの駐車場に、黒のバンが一台停車していた。いつからあった? 背景に溶け込んで気づかなかった? 中から降りてきた男が、懐中電灯でこちらを照らしていた。
「……十秒数えたら、それぞれ反対方向に逃げるぞ」
やめてよ。そんなの無理だよオリバー。
「……いったいどこのガキだ。痛い目にあいたくなければ答えろ」
男がすごむ。野原を移動していたオレンジ泥棒たちも、たぶんすぐ側まで来ている。
──八、九、十。
「つっ走れ!」
オリバーのGOサインに、無我夢中で地面を蹴った。
運動神経は、お世辞にも良いとはいえない。それでも必死に数十メートル走ったところで、「この野郎!」と男の悲鳴が聞こえた。振り返れば、さきほどの駐車場でオリバーが男に羽交い締めにされ、その手に嚙みついているところだった。
「オリバー!」
「バカ、止まるな!」
別々に逃げるのではなかったのか。まさか一人で足止めする気だったのか、何をしているのだ。
「いいから走れ!」
「嫌だよそんなの!」
泣きながら首を横に振った。そんなことできるはずがない。
路肩に上がってきた泥棒たちが、ミカエラの前に立ち塞がる。
「ミカエラ!」
ヘッドランプの強い明かりで顔がよく見えないまま、大きな手が伸びてくる。
いやだ。たすけて。
肩をつかまれそうになった瞬間、けたたましい音とともにレストランの窓硝子が割れていった。
(は)
フルオートの機関銃が、いきなり撃ち込まれたようだ。オリバーをつかまえていた男は、手を放して地面にうずくまった。
車道の反対側から、道路照明灯のわずかな明かりを背に、十数人規模の集団が徒歩で近づいてくるのが見えた。
レストランの窓を木っ端みじんにしてみせたのは、義手の先端から細く煙をたなびかせるフック船長だろう。以前はドリルを生やしていた右手が、まるごとマシンガンに付け替えられていた。
他にもミカエラのところにパイの差し入れをしてくれた老婦人が、年代物の猟銃を構えている。三軒隣のボブじいさんは狙撃銃。みな地区の引退したご老人であり、装備する火力と平均年齢が高すぎる。
集団の先頭にいるのは、外見だけなら飛び抜けて若い男だ。ふらりと歩いてきて、相対する泥棒たちに警告の言葉を発した。
「うちの孫から手を放しなさい。今すぐに」
エディ・ルイス。ミカエラの祖父である。
「待て。俺たちは──」
ポケットから手を抜いたと思ったとたん、銃声がとどろいた。ミカエラをつかまえていた男から、ヘッドランプのバンドだけが落ちた。
エディは笑った。
「手を放せ、と言ったんだ。戦後生まれのひよっこには、これ以上の説明が必要か?」
「……あ、あ、あ」
それ以上は言葉にならず、男たちはわあわあと動物じみた悲鳴をあげながら、ちりぢりに逃げ出していった。
周辺の路肩には、彼らが盗んだオレンジが、場違いな明るさで散らばっていた。
どうもエディを含めた老人たちは、ちょくちょく納屋や畑の収穫物が盗まれているのを知っていて、対策に動いていたようなのだ。
知らずに現場に飛び込んでしまった形のミカエラたちは、かなり叱られた。
「こんのバカ孫が! よりにもよって嬢ちゃんまで巻き込みやがって!」
「いて、いってえよじいちゃん! ただオレは幽霊」
「反省しろ!」
オリバーは、キャプテンの銃になっていない方の手で、しこたまゲンコツをくらった。
一方、ミカエラだ。
キャプテンとは逆に、エディがひたすら静かなのが気まずくてたまらない。
隠し事をした。心配をかけたし、迷惑もかけた。
「あの」
「……ともかく、無事でよかった」
エディはため息とともに、ミカエラのことを抱きしめた。
眼鏡がずれて頰に食い込んで、ちょっと痛い。少し前まで、ミカエラたちを守るために銃を構えていた祖父の手だ。普通じゃない、正しくないからなんなのだ。ここで心から安堵しているのだと思ったら、また泣きたくなった。
「……ごめんなさい。おじいちゃん」
言葉は、気持ちと一緒に素直に出た。
きっかけなどというものは、どんな形でも足下に転がっているのかもしれない。
大気圏の下で見上げる空は、まっさらな晴天。
ミカエラとオリバーが、担当する計器の数字を読み上げる。
「西の風、風速三・五メートル!」
「気温二十七度!」
「これ以上は下がらないか。キャプテン」
今日は家の近くの原っぱで、キャプテンのロケットパンチの発射試験なのだ。
「おう。やるか」
試作機を腕にはめたキャプテンが、おもむろに足幅を広げる。彼の近くにいたエディが、小走りにミカエラたちのところまで後退した。
「遮蔽物なし!」
「ファイアアアアア!」
仰角六十度。激しい煙と音をたてて、右の拳が撃ち出される。
「すごい、飛んだ!」
「行け行け行け行け!」
「思ったより素直に行ったな」
さながら小型のロケットか、ミサイルの打ち上げシーンを見守るかのようだった。形状が拳である意味はさっぱりわからなかったが。
「これさ、飛ばしたらどうなるの」
「落ちたところで回収するんだよ。もったいねえだろ」
「なかなか落ちないんだけど」
もう肉眼では、飛んでいくパンチ型ロケットの本体が見えない。糸を引く煙が、わずかに見えるだけだ。
「ちと燃料入れすぎたか」
「あ、曲がった」
「は?」
唯一双眼鏡をのぞき込んでいるオリバーが、呟いた。
「パンチが曲がった。Uターンした。こっち来る」
「なんて言ったおまえ」
「逃げろ!」
現場は騒然となった。駆け出すオリバーとキャプテンに交じり、もたつくミカエラを小脇に抱え、エディも走る。上空を一周したロケットパンチは、原っぱに捨て置かれた掘っ立て小屋に着弾した。
もうもう砂煙が舞い上がり、小屋は原形をとどめないほどばらばらになった。
姿勢を低く、頭を守れと指示されていたミカエラだが、それを見て笑うのをこらえられなかった。
「ミカエラ」
「だって、おかし……ははは!」
地面に伏せたまま笑い転げるミカエラを見て、近くにいたエディもまた笑い顔になった。
けれど、盛大に舞い上がった砂煙がおさまると──。
「……何をしているの、あなたたち」
スーツ姿の母、ケイティー・バーンズが、口元を引きつらせて立っていた。
ミカエラがここに来たのは、父と母の離婚問題が片付くまでの、期間限定。
なぜか最近は、その事実を忘れかけていた──。
「連絡してくれればよかったのに。宇宙港まで迎えに行った」
「別にそこまでしてもらわなくてもいいわ。いい大人なんだから、住所がわかれば一人で来られるもの」
「──あの、ママ!」
祖父と母親の、どこかぎこちなさが漂う会話に、ミカエラは無理矢理割って入った。砂だらけの服を両手ではたいて、ケイティーの手をつかむ。
「あのね、お腹減ってない?」
「え?」
「減ってるよね。そろそろランチだし。わたしね、お昼ご飯作れるよ。作ってあげる!」
「ミ、ミカエラ?」
家と畑の方角を指さし、そのまま彼女の手を引き、強引に歩き出す。
もし母とエディの距離感が、ここに来る前のミカエラそのものなら、きっと誤解していることがあると思うのだ。それを少しでも伝えたかった。
「ここにあるのはね、オレンジの樹だよ。本物の食べられるやつ。おじいちゃんが植えて育ててるの。フロリダは気候がいいから、真夏以外は一年中収穫できるんだって。それであっちの畑が野菜畑。土を耕すところから始めたんだ。ここはしっかり『蓄える』いい土なんだよ」
早口になりそうなのを、懸命におさえて説明する。そして母屋の前まで来たら、「待ってて」と言って、キッチンへ走った。
(よし)
朝に収穫したオレンジが、カウンターの籠に入っていたので、果物ナイフで食べやすい大きさにカットした。本当はエディがやったように、手搾りのジュースを作りたかったが、ミカエラには少々力が足りない。
パンはゴマ付きバンズを半分に切って、バターを塗ってからレタスと昨日の残りのミートローフをどんとのっける。薄切りのトマトと赤玉ネギをトッピングして、ケチャップとホットソースをかけたら、残りのバンズをのせてピックを突き刺す。どうだ、立派なミートローフ・サンドイッチのできあがりだ。
これもここに来てから、エディを手伝って覚えたものである。
三人分のサンドイッチとフルーツを用意して、トレイにのせて母たちが待つ裏庭へ向かった。
勝手口の開閉に苦労していたら、エディとケイティーが、ガーデンチェアに座って話しているのが見えた。
「かたはついたのかい」
「……おかげさまで。色々と迷惑をかけてごめんなさい」
「ミカエラのことなら気にするな。とても良い子だよ」
よくミカエラが、作物の世話をする祖父を横目に、宿題を解くのに使っていた、あの椅子とテーブルだ。
ケイティーが、テーブルを挟んで隣にいるエディに目を細めた。
「いつ見ても変わらないわね」
「君は老けた」
「そりゃそうよ。余計なことはしていないもの」
あっさり認める。年相応の美人な母は、人工的に時を止めたエディより、ずっと年上に見えた。
「昔は嫌だったわ。家にいる年齢不詳の人を、父親と呼ばなきゃいけないんだから。いちいち兄や従兄に間違えられて、訂正しなきゃいけない人生なんてまっぴらだと思った」
「面倒な目にあわせたとは思うよ」
「引っ越しも多かったわよね。どうしてもっと先を見据えて、計画的に生きてくれないのって、親にむかって悪態ついて」
「健全な反抗期だ」
エディはどこまでも穏やかだった。この会話ですら、嚙みしめて味わっている気がした。
「いつかわかるって言っていたから、この歳になるまで期待してた。いつか目の前にいる人が全てになるような、何もかも捧げたくなるような相手に、出会えるって──」
「ケイティー……」
「私はダメだったけど、だからこそパパのこと尊敬してる。あなたがすごく羨ましい」
母は目頭をおさえて涙をぬぐい、エディは立ち上がって、そんな彼女のことを抱きしめて慰めた。いつかミカエラにしてくれたように。
二人に近づくきっかけがなかなかつかめず、ミカエラはランチのトレイを持ったまま、おずおずと声をかけた。
「……あの、お昼食べない?」
「まあ、ミカエラ。もしかしてあなたがこれを作ったの!? キットじゃなくて?」
母はミカエラ製作のランチを見て、ひどく驚いていた。
それからミカエラも加わって、裏庭の木陰で昼食をとった。
今はめいめい空になった皿の上に、サンドイッチを留めていたピックと、オレンジの皮だけが寄せて置いてある。
「本当はね、ミカエラと一緒に、あなたも連れていけないかと思っていたの」
ミカエラは驚き、母を見返した。彼女は期待に満ちた目で、エディの反応をうかがっている。
「どう。月で一緒に暮らさない? パパ」
思いがけない申し出だ。三人で暮らせるなら、確かに嬉しい。
けれどエディの答えは──申し訳なさそうな微苦笑で。
「私は……ここが好きなんだよ」
「そうね。きっとそう言うんだろうと思ったわ」
母も同じ顔で笑っていた。
***
──澄んだ大気の空の下、太陽光に暖まった風を浴び、走り、転がり、オレンジを口いっぱい頰張った日のことを思い出す。
あれからミカエラは、母の旧姓ルイスを名乗り、月のサウスアボット基地州で高校までの時を過ごした。長期休暇になるたび、宇宙船に乗って地球へ降下し、フロリダの祖父のもとへ行くのも欠かさなかった。
宇宙船の技術者になりたいと言っていたオリバーは、奨学金で月の大学へ行った。
地球のフィラデルフィアで法律を学ぶことにしたミカエラとは、まさしく入れ違いになった形だが、お互い遠距離でのつきあいは慣れっこだ。今のところまだ彼氏の札は外れていない。
祖父は最期まで若い外見を維持したまま、あの家で眠るように亡くなった。
キャプテンの葬儀があった、翌年の話だ。
不老ではあっても不死ではない。当たり前の話なのだが、いざ訃報を聞いた時は当惑した。そして、もう緑の指を持つ優しいあの人の作るものが食べられないのだと思ったら、無性に悲しかった。
実家や大学近くで手に入る、美しくくるいのないオレンジを見るたび、ミカエラは子供だった一時について思いを巡らせるのだ。
裏庭に作ったささやかな畑。皮が厚くて傷があっても、みずみずしくて最高においしかった完熟オレンジ。サンドイッチの間で主張するトマトの赤。飛んでいくパンチ型ロケットの軌道。
総じて言うなら──わたしの祖父は優しい人だった。幸福な幼年期だったと。
【おわり】
◆初出:WebマガジンCobalt 2022年3月18日