宝石商リチャード氏の謎鑑定 比翼のマグル・ガル 第四回

2 告白とペンダント(3)
マリンタワーは灯台を模してつくられた塔であるという。入学してすぐの頃、社会科見学で上ったことがあった。
真鈴は白い息を手にはきかけ、指先を擦り合わせた。手袋はしたくなかった。モデル業の最中、何度も指の美しさを褒められたことがあったからである。自分の魅力になりそうなものは全部出しておきたかったし、今ここでそれが発揮できないのなら何の意味もなかった。ダッフルコートの下で、分厚い冬物のスカートが揺れる。
真鈴の待ち人は、七時二分にやってきた。
「志岐さん、お待たせ」
「いえ、全然待っていないです。今来たところです」
それは嘘だよと中田正義は言わなかった。真鈴は十五分前から寒空の下に立っていたのである。無駄にちゃかしたり追及したりしないところに、真鈴は正義の誠意を感じた。
マリンタワーは午後六時には閉まり、その後はナイトタイムという夜景を楽しむ入場が始まる。どこもかしこもカップルだらけだった。近隣の商店のネオンはカラフルに輝いている。
真鈴はまず、頭を下げた。
「お忙しい中、お時間をとっていただきありがとうございます」
「こちらこそ、遅い時間にしてもらってありがとうございます。土曜日に仕事があるのを、きっとみのるくんから聞いていたんだよね。気を遣わせてしまってごめん」
「いいえ」
真鈴は顔を上げ、髪を整えた。
中田正義は冬物のコートの下にスーツを着ていた。いつものみのるの保護者然とした雰囲気よりも少し『大人の男の人』風の要素が強く、格好よくて、礼儀正しかった。
真鈴の歩幅で五歩ほどの距離を詰めようとしない正義に、真鈴はまっすぐに瞳を向け、告げた。
「あの……もう、何を言われるのかわかっていると思うんですが、言わせてください」
「はい」
「好きです! 付き合ってください!」
真鈴は言った。
心の全部を言葉にのせて、差し出すように。
今までもらったどの台詞よりも、ありがちでつまらなくて笑ってしまうような台詞だったが、考えに考えた末に選んだ言葉だった。
真鈴がそれ以上何も言わないとわかると、中田正義は小さく頷いた。
そして深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
真鈴は正義が頭を上げる前に、短く、ぎゅっと目を閉じた。落ち着け、落ち着け、と自分の心に言い聞かせる。何を言うにもするにも、取り乱していては駄目だった。それは普通の子どもがやることで、真鈴は普通の子どもになどなりたくなかった。
真鈴はうっすらと微笑みながら口を開いた。
「……一応、理由をおうかがしてもいいですか。もちろん、何も言わなくても構いません」
正義は特に何も気にした素振りを見せず、静かな口調で告げた。
「好きな人がいるから」
真鈴は奥歯を嚙みしめた。正義は静かに言葉を続ける。
「俺には好きな人がいるから、志岐さんとは付き合えません。ごめんなさい」
正義は名前を出さなかったが、真鈴には『好きな人』の顔が浮かんだ。美しい顔だった。この世の全ての綺麗なものを集めてきて、ぴったり調和するように芸術家が組み合わせたような存在で、頭もよさそうで日本語も上手で物腰も柔らかで優しくて、非の打ちどころがなかった。最初に戦う恋敵じゃない、と真鈴は少し笑いそうになった。少なくとも初めての恋でぶつかる恋敵ではなく、もっともっと恋愛の経験を積んでからぶつかるべき大ボスのような存在だった。だった。だった。
ありとあらゆることを、既に頭が過去の出来事として認識していることが、真鈴はおかしくて、悲しかった。
もうあまり時間が残されていないことを悟りながら、真鈴は正義に言葉を投げかけた。
「……その人と付き合って、幸せになれそうですか?」
「うん。俺は今、幸せだし、もう一生分の幸せをもらってるとも思う。俺が幸せにしてあげたいと思うくらい」
お手本のような答えだった。こんなことを言ってもらえたのが自分だったらと、真鈴は少し夢を見た。それはとても幸せで嬉しくて満たされていて夢のようで、本当に夢だった。
真鈴は口角に力をこめ、笑おうとした。モデルの最高の武器は笑顔である。だがうまく笑えなかった。真鈴はいびつな表情を浮かべながら喋った。少しだけつけてきたアイラインやアイカラーが、どろどろになっていないことを祈りながら。
「…………十五年くらい、早く生まれたかったです。悔しい。本当に悔しいです。でも、わかってました。お返事をしてくださって、ありがとうございました」
「志岐さん」
もうちょっと言わせてください、と告げるように、真鈴はハンドサインで正義を留めた。
「言いたかったことは、さっき伝えたことだけじゃないです。私、中田さんにお礼を……お礼を言いたかったんです。告白がどういう結果になっても、お礼だけは、きちんと伝えたかったんです」
「俺に? どういうお礼?」
真鈴はぱっと、両手両足を広げた。SNSの海外旅行アカウントで、国と国との境をまたいでいる旅行者がよくやるような、大の字のポーズだった。
そしてにっこりと笑った。はずみで涙がぼろぼろとこぼれる。
「私、中学生なので! 最初に出会った時より、背が伸びてます!」
「…………」
「顔の骨格も、少しずつ大人っぽくなってきたねって言われます」
「…………」
「でも何よりよく言われるのは『最近変わったね』『表情がよくなった』『笑顔が素敵』とか、そういうことです。中田さんに……恋をしてから! 私、どんどん成長しています!」
正義はまっすぐに真鈴を見ていた。
真鈴は涙をこぼしたまま、精一杯の笑顔を浮かべた。大の字ポーズをやめ、直立不動になり、またお辞儀をする。深い礼だった。
「こんなに私を成長させてくださって、本当にありがとうございました。恋をするのがこんなに楽しくてつらくて、素敵なことなんだって、今まで少しも知りませんでした。本当に、どれだけいっぱい感謝しても足りないです。ありがとうございました」
「……志岐さん」
「お時間をいただき、ありがとうございました。中田さんと……中田さんの好きな人の、これからのたくさんの幸せをお祈りしています」
真鈴は一度顔を上げ、にっこり笑った後、再び頭を下げた。
しばらくの沈黙の後、正義は頷き、改めて真鈴を見つめた。
「ありがとう。志岐さんにもたくさんの幸せと成功があることを祈ってる。何か困ったことがあったらいつでも連絡して。俺は志岐さんの恋人にはなれないけど、応援団ではいるつもりだから」
「応援団から恋人への繰り上がりはありえますか?」
「ない」
「そうですよね」
真鈴は笑い、正義も笑った。
そして正義は少しだけ気まずそうな顔をし、懐を探った。真鈴が目を瞬かせる。
「何ですか?」
「実は志岐さんに、ヨアキムさんからの預かりものがあるんだ。今渡してもいいかな」
「えっ、キムさん全然そんなこと言ってなかったけど」
「驚かせたかったんだって。手紙つきだよ」
こんな時にごめん、と言いながら、正義は真鈴に少し近づき、小箱を差し出した。扁平で長細い。ペンダントかな、と思って箱を開けると案の定だった。箱に沿って細長く折りたたまれた手紙が出てくる。躍るような筆跡の英語だった。素早く目を通す。
『私の大切なマリリンへ
チャオ! 元気? ヨコハマにいた時には何もできなかったけれど お守りを贈ります。可愛い頑張り屋さんのマリリン 苦しい時も私の心はずっと一緒にいるからね!
あなたのソウルメイト キムより』
真鈴はしばらく目をぱちぱちさせることしかできなかった。
箱の中に入っていたのは、小さな宝石が一粒ついた、プラチナのチェーンのペンダントだった。雫のような形状。淡い水色。
再び五歩の距離をとった正義は、少しだけ明るい口調で喋った。
「それはアクアマリンって宝石なんだ。船乗りのお守りにもなった石だから、挑戦を助ける宝石言葉がたくさんある。ヨアキムさんに頼まれて俺が探したんだけれど、志岐さんにはこれが似合うと思う」
「……中田さんが探してくれたんですか」
「仕事だからね。でも本気で探した」
真鈴はペンダントを箱から取り出した。鎖骨の間あたりに収まりそうな長さのチェーンで、淡い色のアクアマリンも上品に仕立てられている。ネオンに照らされた宝石の輝きに、真鈴は目を細めた。少しだけ視界が滲んだ。
「……お礼の電話をしなきゃ」
「是非してあげて」
そう言った後、正義は少し申し訳なさそうな顔をして、真鈴に頭を下げた。
「ごめん、志岐さんに渡すタイミングが最悪だ。キムさんには怒られるな」
「そんなことないです。逆に失恋させた後に『そういえばこれ』って渡す方が気まずいと思います。中田さんは間違ってません」
「……ありがとう。ごめん」
「大丈夫です。私はこれからも成長するので」
真鈴はにっこり笑ってみせた。何でもどんと来いという気持ちが伝わればいいという思いを込めた、精一杯の笑顔だった。
正義は頷き、手を差し出した。
「…………」
真鈴は少し驚いた後、手を差し伸べ返した。
二人はがっちりと握手を交わし、それぞれの方角へ歩いて、マリンタワーを後にした。
ファストフード店に入ってきた真鈴は、みのるの顔をみるなり顔をぐしゃぐしゃにした。わあああんと声を上げて泣く。映画の登場人物でもこれほどまでにはというほどの泣き声に、店中の視線が集中する。
みのるは慌てて駆け寄ったが、真鈴は何も言わず、ファストフード店のカウンターに近づいていった。困惑顔の女性スタッフに告げる。
「シェイクとポテトのLとナゲットと普通のバーガーと、期間限定のアップルパイ三つください! ソースはマスタードで。あとサラダとレモンソーダ。ドレッシングいらないです」
それだけ言い、支払いを済ませると、真鈴は再び、今度は少し声のボリュームを落として泣き始めた。みのるに促されるまま席につく。
結果は、とも、大丈夫か、とも尋ねられず、ただみのるが寄り添っていると、真鈴は顔をあげ、店の紙ナプキンを豪勢につかみどりして顔面をぬぐい、宣言した。
「私、今日、めっちゃ食べるから! 話はそれから!」
「うっ、うん……」
「みのるも食べて!」
みのるはあたふたと頷き、追加の注文をしにカウンターに向かった。
「おかえりなさい」
マンションに戻った正義は、ダイニングテーブルに正対するリチャードの横顔に迎えられた。珍しく立ち上がろうとはせず、テーブルの上に並んだ宝石を眺めているリチャードに、正義は微笑む。
「……いたのか」
「今日は少し早く仕事が終わりました」
「こっちは仕事が長引いたよ。みのるくんは友達と夕飯を食べるって言うから、今晩は俺たち二人だけだな」
「そのようです。メールが入り次第、彼は私が車で迎えに行きますよ」
「頼んだ」
正義は手洗いとうがいを済ませた後、リチャードと対面の場所に腰掛けた。
薄明かりの下で宝石を眺めるリチャードを、占い師や魔術師のようだと正義は思った。一分ほど無言でその姿を見つめていると、リチャードが笑みをこぼす。
「……穴が開いてしまいます」
「そんなに見てたかな」
「ええ」
「綺麗だと思って」
「それはそれは」
リチャードがふわりと微笑み、宝石を片付け始める。正義もそれを手伝った。
てきぱきと宝石を小分け袋に収納しながら、正義は口を開いた。
「今日は、勇気をもらったよ」
「勇気?」
「ぶつかっていく勇気とか、立ち向かう勇気とか……俺も昔はああだったのかなと思って、まぶしかった」
「笑わせますね、私より年下の誰かが『昔』とは。私の知る限りあなたは世界で一番の無鉄砲ですよ。勇気なら売るほどお持ちのはずでは?」
「昔はそうだったかもしれないけど、今はどうかな。今の俺は当たって砕けるのが怖い」
「当たって砕ける?」
「現状維持に甘んじてるって言えばいいのかな。ずるい大人になったんだ」
「その言葉には確かに思うところがありますね」
「だろ。でも今日、もうそういうのはいいかなと思った」
宝石という宝石を片付け終わり、後は仕事用の鞄に収納するのみになった時、正義は声をかけた。
「リチャード」
顔を上げたリチャードと目が合っても、正義はしばらく何も言わなかった。リチャードも何も言わない。
静かな時間が流れた後、正義は肩を竦めた。
「……ごめん。やっぱり明日言う。夜に言うことじゃないな。明るい時がいい。宝石と同じだ。何をするにも太陽の陽ざしがあった方がいいよ」
「そこまで言われると大変気になるのですが」
「改めて言う。今日はちゃんと今日あったことを消化したい」
「……左様でございますか」
苦笑したリチャードに、正義は小さく頷いた。そして椅子から立ち上がり、一度はテーブルに置いた車のキーを手に取る。
「どちらへ?」
「卵を買ってくる。いい加減にきちんとプリンの作り置きをしないと、お前の胃袋の甘味大王もご立腹だろ」
「急ぐようなことではありませんよ。それこそ明日でもいいのでは?」
「明日は明日で片付けたい仕事もあるから。すぐ戻る」
「逃げ癖がつくのはよくありませんね」
「逃げてない。俺も腹を決めたんだ」
正義はリチャードの顔をもう一度見て、微笑み、いってきますと言って家を出た。
「……やれやれ」
リチャードは微笑みながら、静かに片付けを再開した。
マンションから車で十五分の距離にあるスーパーには、夜だというのに特売の卵がまだ残っていた。うきうきしながら二パック手に取り、駐車場に停めた4WDまで戻ろうとした時、正義は目を留めた。
車道の近くで兄弟が遊んでいる。年齢は六、七歳程度。
駐車場と車道を区切る縁石の上に乗ったり下りたり、時々お互いを突き飛ばし合ったり。二人とも荷物を持っていないので、どうやら保護者が近くにいるようだったが、姿は見えない。
暗い道をゆく車のヘッドライトが、何度も二人の横顔を照らしていた。
「危ないよ」
声をかけると、二人は正義を見てびくりとしたが、すぐに目を逸らし、また笑いながら遊び始めた。
正義は卵のパックの入った袋を提げたまま、二人の方向へと歩き始めた。子どもたちは少し困った顔をし、正義がどんどん近づいてくるとわかると恐怖の表情を浮かべた。正義は立ち止まり、両手を上げる。
「不審者じゃないよ。お父さんとか、お母さんとか、どこか近くにいる? 夜中に二人だけでいるのは危ないと思う」
話しかけられたことが号砲になったように、二人の子どもは駆けだした。追いかけるか否か少し迷った後、正義は目を見開いた。子どもたちが車道を横断しようとしているのである。
子どもたちの背後からは車を乗せたレッカー車が迫っている。運転手は脇見をしていた。
「車が来るよ!」
正義の声は届かなかった。
車道を渡るか渡らないか、タイミングを見計らっていた兄弟のうち、少し体の大きい方が車道に飛び出した。後ろから弟らしき影も続く。五メートル向こうにいる車は、ブレーキを踏まなかった。
正義は走った。
兄弟の体を摑み、歩道に押し戻す。
そこで転んだ。
急ブレーキを踏んだ車の横で、ビニール袋にはいった卵が割れ、中身がどろどろと溢れ出していた。
【つづく】