宝石商リチャード氏の謎鑑定 比翼のマグル・ガル 第五回

3 セレスタイトは歌う(1)
真鈴と一緒にファストフード店でねばっていたみのるは、夜の九時までポテト三昧を続けたが、突然リチャードから連絡を受けた。
『そちらに正義はいますか? 買い物に行くと言ったまま帰らないのです。行き先の連絡などは?』
みのるは重たい胃袋をさすりながら、いえ全然知りません、僕と一緒にはいませんと答えた。そうですか、とだけ答え、リチャードは電話を切った。その後思い出したようにもう一度電話がかかってきて、そろそろ迎えに行きましょうかという。リチャードの慌てている様子が、みのるは少しおかしかった。正義のことである。どうせリチャードを驚かせるための買い物でもしているのだろうとしか思わなかった。
真鈴と別れ、リチャードのお迎えを待っていると、凄まじい勢いで緑の車がやってきた。鼻づらに格好いい銀色の獣の像がついている、ジャガーという名前の車である。
運転席のリチャードはひどい顔をしていた。
「乗ってください。病院に行きます」
「えっ」
みのるはぞっとした。病院。お母さん。一体何があったのか。
慌てて助手席に乗り込むか否かで、車は急発進した。急いでシートベルトを締めるみのるの顔を、リチャードは見もせずに喋った。
「正義が」
「えっ? 正義さんですか?」
「正義が、申し訳ありません、日本語が出てこない。困惑、いえ混乱しています」
何か大変なことが起こったのがそれでわかった。みのるは何も言えなくなった。
二人が急行したのは、みのるのお母さんがいる病院ではなく、近くにある中規模の病院だった。救急車が二台ほど停まっていて、リチャードが口元を押さえながらみのるの手を握って入ってゆく。
みのるはそこで何が起こったのかを理解した。
「中田正義さんのご家族の方ですか」
二人を待っていたのは、淡い青緑色の病院着に身を包んだ男性だった。背が高く、めがねをかけている。リチャードが「はい」と答えると、手に持っていたボードつきのA4用紙を差し出した。リチャードが紙を手で退ける。
「電話を受けたのは私です、まずは話を聞かせてください」
「こちらにお名前だけでもよろしいですか。正義さんとのご関係も、おそれいりますが伺います」
リチャードはたじろいだ後、いつもの優雅な調子とは違うトーンでフルネームを告げた。戸籍でいうところのどういうご関係ですかという質問には答えず、正義の容態はと尋ねる。話がかみ合わないことを、看護師は言葉の問題だと思ったようで、視線の先をリチャードからみのるに切り替えた。
「そちらもご家族の方ですか?」
「……霧江みのるです。正義さんの弟、です」
あまりに年が離れているせいか、看護師は少し驚いた顔をしたが、すぐに平常の顔に戻った。みのるの前で少しかがんで身長を合わせて喋る。
「こんにちは。中田康弘さん、中田ひろみさんと連絡をとることはできますか」
「既に私が取っています。今こちらに向かっているそうですので、一時間もあれば」
食い気味に答えたリチャードに、看護師は少し申し訳なさそうな顔をした。
「ありがとうございます。ではこちらでお待ちください」
「正義の容態は? 病室に行きます。彼はどちらに」
「申し訳ありません、ご家族の方であればご案内できるのですが」
「冗談ではない。顔を見るまでは帰りません」
「現在治療中ですので」
「頭を打ったとのことですが、どのような状態なのですか。血がたくさん出たのですか。それとも」
「申し訳ないのですが、プライバシーの問題がありますので、ご家族ではない方に説明することができないんです。中田さまのご到着後にご説明を」
「私があなたを殴らなかったことに感謝した方がいい」
「申し訳ないのですが、次にそういうことを仰ったら警察を呼びます」
自分で自分の言葉にたじろいだように、リチャードは看護師から一歩距離を取った。
ERという看板のあるカーテンの扉の向こうでは、ガヤガヤと人々が騒ぐ声が聞こえてくる。みのるは怖かった。あの向こうに正義がいるのだとしたら、今どんな状態なのか。知るのは怖かったが、知らないでいるのはもっと怖かった。
みのるは看護師に話しかけた。
「看護師さん、僕が質問します。僕は正義さんの弟なので、家族です。教えてください」
「…………」
看護師は少し黙った後、自分は看護師ではなく救急隊員なのですが、と前置きをして話し始めた。
午後八時二十四分、スーパー沿いの国道で、中田正義は車道に飛び出し、大型車両にはねられた。体が二メートルほど吹き飛び、右後頭部を打撲。命に係わるほどの出血はなし。
だが意識が戻らない。
リチャードはそこまで聞いたところでよろよろとし、病院の待合室の椅子に座り込んだ。昼間ならばたくさんの人が呼ばれる順番を待っているであろう白い椅子に、今はリチャードひとりしか腰掛けていない。みのるにはそれがとても不気味に見えた。
それからももう少し、救急隊員は二人に何かを説明していたが、みのるの耳にはうまく残らなかった。
とにかく、正義は頭を打って。
倒れてしまって。
意識が戻らなくて。
治療中であるという。
最終的には中田康弘と中田ひろみ――それが正義の両親の名前であるようだった――どちらかの到着を待ち、次の手続きに移るという話になり、救急隊員は去っていった。
ソファに座り込んだまま、リチャードは片手で顔を覆っていた。
みのるがその姿を見守っていると、二人の傍に中年の女性が近づいてきた。パジャマのようなスウェット姿で、裸足にサンダルをひっかけている。顔は土気色だった。
「あの……もしかして、中田正義さんの関係者の方ですか」
リチャードは答えなかった。そうですとみのるが代わりに答えると、女性は深々と頭を下げた。
「このたびは申し訳ございませんでした。うちの子が飛び出して……子どもを助けようとしてくれたんです。うちの子は二人とも無事です。もう家に帰しましたけど、本当に申し訳ございませんでした」
「正義らしい」
リチャードはぽつりと呟いた。女性は金髪の男性が日本語を喋ったことに少し驚いたらしく、一歩退いた後、みのるを見て尋ねた。
「あの、こちらの方は正義さんの会社の方ですか?」
「あ……」
「そうと言えばそうです」
みのるが言い淀むと、リチャードは事務的な口調で答えた。苦しそうな声だった。そうなんですねと女性がのっぺりとした声で頷く。みのるは耐えられなかった。
「僕たちは一緒に暮らしてます。三人で一緒に住んでるんです」
「あっ……えっ? 法制度的にそういうの大丈夫なんでしたっけ? いいの?」
みのるは混乱した。法制度というのは社会の時間に習う三権分立とか司法の独立などの話で、それが今この状況と何の関係があるのか?
みのると、顔を覆ったままのリチャードとを、心配そうに見比べる女性に、みのるは告げた。
「本当に申し訳ないんですけど、今、僕たちはとても緊急なので……家族の意識が戻らないので……難しい話は後にしてください」
「難しい話っていうか、そう、保険の話があるみたいですよ。あっちにレッカー車の運転手の人がいるんですけど、保険の話をしたがってました。他にご家族の方はいないんでしょうか? 脳死になった場合のこととか」
「後にしてください!」
みのるは大きな声をあげ、リチャードの視界から女性を追い払った。
それからもずっと、リチャードは椅子の上で背中を丸めていた。
両手で髪をかきむしり、端麗にセットされた髪が鳥の巣のように乱れている。
「…………」
みのるはその隣に腰掛け、背中を抱いた。正義がしてくれたように。
だが何も言えなかった。
何を言ったらいいのかわからない。
みのるの頭の中を巡るのは、うんと小さい頃に聞かされた言葉だった。
――怖いこと言うけど、怖いこと言うけど、あんた今日死んでたかもしれへんのやで。
みのるにそう告げた眼鏡をかけたおばさんは、四歳か五歳の夏、みのるを轢き殺しかけたのだった。
それでみのるのお母さんは平謝りし、おばさんはみのるを叱った。
死んでいたかもしれない。それはつまり今ここにみのるがいなかったかもしれないということだった。盛岡の警察署の地下にいたお父さんの体のように、動かなくなっていたかもしれないということだった。
脳裏を正義のことがよぎった。
みのるは恐ろしかったが、それ以上にリチャードが心配だった。正義同様、あるいは正義以上に完璧で、何事にも動じず、世界の全てを何とかしてくれそうなリチャードが、みのるより小さな子どものように何もできなくなっている。
みのるはただ、リチャードに体をくっつけていた。
そのまま一時間ほど待っていると、着の身着のままという感じの男女が病院の夜間出入口から入ってきた。みのるの担任の先生よりは校長先生に近そうな年ごろで、項垂れたリチャードを見つけると駆け寄ってくる。
「リチャードさん、息子は! 正義は!」
「あの馬鹿息子、また変なことしたって聞きましたけど」
リチャードは久々に顔を上げ、やすひろさま、ひろみさま、とぼそぼそと呟いた。正義の両親であるらしい。みのるは次の言葉を待ったが、リチャードはそれ以上何も言わない。顔を見ると目の焦点が合っていない。みのるが代わりに説明する。
「中田さんのご両親が来るまで、ここで待機だって言われました」
「は? 何で?」
正義とよく似た目元で、正義より剣呑な喋り方をする女性は、みのるが怯えると思い出したような顔をした。
「ああそうか、緊急時手続きの規定とか、そういうやつか……戸籍って不便ね」
「とにかく会わせてもらおう」
中田夫妻はERのカーテンの向こうに入ってゆき、追い返され、その後また別の救急隊員がやってくるまで足を踏み鳴らして待っていた。今度は女性のスタッフがやってきて、二人に用紙への記入を迫る。中田夫妻は三十秒で全ての記入を終わらせた後、リチャードを立ち上がらせた。中田ひろみが右から、中田康弘が左から。
「そちらの方は……?」
リチャードを見て、おずおずと尋ねるスタッフに、二人は声を合わせて宣言した。
「家族です!」
「家族ですから!」
「行きますよリチャードさん、正義にはあなたがいないと困る」
「しっかりして。うちの息子と最近一番親しくしてるのはあなたでしょ」
左右からステレオで励まされ、リチャードは幾らか人間らしい顔になって頷いた。
四人は病院を早足に歩いた。
正義は既に救急救命室とやらではなく、『集中治療室』と書かれた病室に移されていた。透明なビニールのカーテンの向こうで、頭に包帯を巻かれた状態で寝かされている。腕にも怪我があるようで、左腕にも包帯が巻かれていた。点滴。カテーテル。ドラマの効果音などでよく聞く心電図モニターの音が、メトロノームのように病室に流れていた。
それ以外の音のない部屋だった。
口にマスクをかぶせられた状態で、正義は目を閉じていた。眠っているようにしか見えない。だが意識が戻らないという。
壁際に二つ並んだ椅子にリチャードを座らせると、中田夫妻はベッドに近づき、正義の顔を覗き込んだ。そして声をかける。
「正義、正義。あんたねえ、久しぶりに会ったっていうのになんてひどい格好してるの。さっさと起きなさい。貴重な病院の集中治療室のキャパを埋めないで」
「正義、久しぶりだなあ! 最近会えなかったから寂しかったよ。大丈夫なのか、よく食べてるか。目を覚ましたら最近のことを聞かせてくれ」
二人はまるで、正義が起きているかのような様子で声をかけた。ただ少し、ボリュームが大きくて、滑舌がはっきりしていて、ゆっくりした声である。
目を覚ましてもらおうとしているのだった。
みのるも真似をしたかったが、何を言えばいいのかわからない。
背後の壁際にいるリチャードを振り返ると、青い瞳が目に入った。
リチャードはただ、意識の戻らない正義の姿だけを見ていた。それ以外の何も目に入っていない。ぼんやりとしているようにも見えた。
振り返った中田康弘が言う。
「リチャードさん、息子に話しかけてやってください。あなたの声が一番届くんじゃないかな」
「そうそう、身近な人の声には本当に効力がありますよ」
みのるはリチャードに近づき、手を伸ばした。立ち上がるのを手伝いたかった。
リチャードはみのるの手を取り、立ち上がったが、ベッドに近づこうとしない。
張り付けたような笑みを浮かべている中田夫妻に、リチャードは消え入るような声で言った。
「……いえ…………結構です」
「何言ってるんですか。お願いしますよ」
中田康弘の声に、リチャードは首を横に振った。
「私は…………私は、疫病神ですので……」
みのるはびっくりした。リチャードが気弱なことを言っていた。背筋も曲がっている。
中田夫妻は顔を見合わせ、小さく頷き交わした。中田ひろみが部屋に残り、中田康弘がリチャードの肩を抱いて出てゆく。よく日焼けした顔の男性は、どことなく年を取った体育の先生のような雰囲気だった。
ピッピッピッという音と共に、みのるは中田ひろみと部屋に残された。
中田ひろみは正義を見たまま喋った。
「あなた、閑の息子なんですってね」
「は、はい」
「最近あいつが死んだって聞いた。私はせいせいしたけど、あなたには寂しいかもしれないわね」
「………………」
みのるは何も言わなかった。この人は正義のお母さんである。ということはみのるのお父さんが、みのるのお母さんと出会う前に結婚していた人ということになる。
冷たいというよりは厳しい顔をしている女性は、正義を見つめ、そっと頬に触れながら喋った。
「あいつは思いつく限り最悪の男だったけれど、一つだけ私にいいことをしてくれたとしたら、この子を授けてくれたことだと思う。女にはタイミングってものがあってね、急がないと子どもが産めなくなる。それであんな怪物にひっかかったんだから馬鹿な話だけど、本当にそれだけは感謝してる」
みのるには三分の一くらいしかわからない話だったが、中田ひろみは中田ひろみなりに、息子の状態に慌てているようだった。そうでなければ初対面のみのるに、お父さんのことを『最悪』『怪物』などと言うはずがない。みのるも特に突っかかる気にはなれなかった。今はそれどころではない。
正義のお母さんはじっと、正義の顔を見つめながら、厳しい表情のまま、涙を一滴こぼした。
「この子が死んだら私も死ぬ」
「えっ」
「本当に死ぬわけじゃないよ。でもおばさんの心は死ぬの」
胸がうんと冷たくなる言葉だった。
中田ひろみは無言で、ぽたぽたと涙を垂らしていた。みのるは隣に寄り添い、必死で元気な声を作った。
「……正義さん、大丈夫だと思います。きっと目が覚めますよ」
何の根拠もなかったが、みのるの口からは言葉が出ていった。テスト前に励まし合う言葉のようだった。俺全然勉強してないよ。やべー。まあ大丈夫だろ。大丈夫大丈夫。きっと何とかなるって。わははは。もちろん何ともならず、ひどい点のテストが返ってくることもままあった。
それでも正義は、叱ったりせず、「頑張ったね」と褒めてくれるのだった。
その瞬間、もしかしたら正義が死ぬかもしれないという感覚が焦点を結んだ。みのるはいきなり怖くなり、悲しくなり、慌て、歯の根が合わなくなったような気がした。怖かった。正義が死んでしまったらどうすればいいのか全くわからなかった。正義が横浜に住んでくれているからこそ、みのるはあのマンションに住み、学校の宿題を見てもらい、おそらくはお母さんを入院させるお金を出してもらっているのである。それがいなくなってしまうとしたら。
一体どうすればいいのか。
口に手を当てて震え始めたみのるの肩に、中田ひろみがそっと手を置いた。
「励ましてくれてありがとう。そうね。きっと目が覚める。うちの息子はタフっていうか、ど根性っていうか、まあ体力だけはある男の子だから平気だと思う。中学生の時なんか友達と自転車であっちこっち走り回って、隣の隣の町まで行っちゃったことがあるのよ。どこまで遊びに行くのかになるくらいだった」
「…………そうだったんですね」
「ええ、そうなの」
みのると中田ひろみは壁際の椅子に腰かけ、しばらく何も言わずに過ごした。正義も何も言わない。
無限とも思えるピッピッピという音を聞いた後、中田ひろみは口を開いた。
「万が一のことがあっても、大丈夫よ。あなたのことはリチャードさんと私たちが面倒を見るから」
「…………」
「何とでもなるから心配しないで」
「……はい」
「しかし不便よね。うちの息子とリチャードさんは、確かもう十年くらいの付き合いになるけど、それでも制度的には『家族』じゃないのよ。そんな『家族』決めのルールに何の意味があるんだか正直わからないし、こういう場面になると本当にうんざりするわ」
「ルールがあるんですか」
「社会の授業とかでやらない? あ、中学生か。まだ習わないかもね」
中田ひろみは何かを説明しかけて、やめた。今そんなことを話している場合じゃないわねと言い、立ち上がって再び正義の顔を見る。ピッピッピッの音はさっきとまるで変わらずだったが、中田ひろみはみのるに笑ってみせた。
「さっきより顔色がいい気がする!」
「…………よかったです」
みのるはいたたまれなくなり、トイレに行きますと言って病室を後にした。夜の病院のトイレなんて恐怖の塊でしかないはずなのに、みのるは何の感慨もなくトイレに行って用を足した。いるかいないかわからないおばけより、意識不明の正義の明日の方がよほど怖かった。
トイレから出てくると、廊下の真ん中に誰かが立っていた。
ぼんやりとした立ち姿、茫洋とした視線、淡い色の髪。
リチャードだった。
みのるが駆け寄ると、リチャードはいつものように少し姿勢を落とし、みのるに視線を合わせてくれた。微笑もうとしている様子もあったが、うまくいっていない。
「……みのるさま、取り乱しまして、大変失礼いたしました」
「気にしないでください」
「……もう夜も遅い。一度マンションにお戻りになりますか。それとも」
「ここにいます」
「…………」
「僕もここにいます」
「……徹夜になってしまうかもしれませんよ」
「今、そんなことを言ってる場合じゃないので」
「………………そうですね」
集中治療室を通り過ぎ、待合室の方角に向かうと、リチャードは再び、たくさん並んだ白い椅子に腰かけた。座っている人が一人もいないたくさんの椅子が、やはりみのるには不気味だった。
ここで何をするつもりなのだろうと思い、みのるが少し待っていると、リチャードは喋った。
「何故いつも、こうなってしまうのか」
「え?」
「昔から……私が親しくしたいと思った人たちには、何らかの不幸が訪れます。ジェフも、ヘンリーも、デボラも、他の人々も…………私はどこかで何かを間違えたのでしょうか? 何を? いつ? それはやり直したり償ったりすることができることなのか……? 誰と何の取引をすればよいのか……?」
「お願いです、落ち着いてください」
「…………申し訳ございません」
待合室の端っこ、自動ドアの側の観葉植物の近くで、中田康弘が若い男の人と話をしていた。男の人は帽子を両手でくしゃくしゃになるまで摑んでおり、ひたすら頭を下げている。
あの人が正義さんを轢いたんだな、とみのるは思った。
中田康弘はできるだけてきぱきと喋っているようだったが、立ち姿に感情が滲んでいた。背中がいかり、顔色が紅潮している。運転手は三秒に一回は左右どちらかの足で片脚立ちになり、重心を神経質に左右に移動させていた。手からは握りつぶした帽子を離そうとしない。
待合室の時計を見ると、深夜の一時だった。日付が変わっている。
真鈴とファストフード店にいた時は、予想だにしなかった長い夜になっていた。
みのるは手持ち無沙汰になった。何か明るいことを喋りたかった。
「……正義さん、きっと大丈夫ですよ」
リチャードは応答しなかった。
みのるは自分の言葉を恥じた。
しばらくと呼ぶには長い間、沈黙が流れた末、リチャードは脈絡なく喋った。
「…………反吐が出る」
「え?」
「もし…………もしも正義の意識が戻らなかったら…………私は一体どうしようというのか……? また『次』を見つけて生きていくとでも…………? もう疲れた。疲れました。私はもう全てに疲れた……くだらない。しゃっきりするがいい、リチャード。今のお前を正義が見たら何と言うか…………しかし……どうすればいい、どうすればいいのか……正義、正義……」
みのるはどうしたらいいのかわからなくなった。だがどうにかしなければならなかった。リチャードは明らかに考えるべきではないことを考えていた。そして正義はいない。みのるはリチャードが好きだった。
何かしたかった。
ぶつぶつと呟いているリチャードの横から立ち上がっても、リチャードは何のリアクションもしなかった。しばらくしてから戻ってくると、ふっと顔を上げて微笑む。機械的な表情だった。
「……どうかなさいましたか」
「これを、どうぞ」
みのるは自動販売機で買ってきたお茶を差し出した。『あったかい』という表記がついていた、ペットボトルのミルクティーである。
リチャードはしばらく、みのるとペットボトルの間あたりの何もない空間を見つめていた。だがみのるが差し出し続けていると、我に返ったようにはっとし、みのるの手からボトルを受け取る。
リチャードはボトルのキャップは開けず、赤ん坊か何かのように抱きしめて胸元にもって行った。
しばらくぬくもりを味わうように目を閉じた後、リチャードはみのるに優しく微笑んだ。
「ありがとうございます、みのるさま」
「好みのじゃありませんでしたか……? いつもロイヤルミルクティーを飲んでいるので……」
「いいえ、とても助かりました」
リチャードはみのるの頭に手をやり、優しく撫でた。ボトルを持っていたので、手があたたかくなっていた。
リチャードはきっと眦を決し、カチッという音を立ててボトルの蓋を開け、何か凄まじい覚悟を決めるような顔でミルクティーを飲んだ。ぐっぐっとのどぼとけが上下する。喉が渇いていたのかなとみのるは訝った。
ややあってから、リチャードは何とも言えない微妙な表情で口元をぬぐい、ふうとため息をついた。
「……全く違う」
「えっ」
「正義のいれるロイヤルミルクティーとは、似ても似つきません。しかしこれは、今回に限りこのペットボトルのお茶は、美味です。みのるさま、あなたに心からの感謝を捧げます。あなたの優しさがこのお茶を通して私の心に沁み込みました」
みのるは少し笑った。リチャードがほんの少し、いつものリチャードに戻った気がしたからである。乱れたままの金髪を少しだけ直してあげながら、みのるは喋った。
「リチャードさん、ひとりじゃないですよ」
「…………」
「いろいろ考えていると思うんですが……あの……僕もいます。他にも正義さんのお父さんとお母さんとか、病院の先生とか、他にもたくさん、いろんな人がいます。だから、全部ひとりで考えようとしなくていいと思います」
「……みのるさま」
「ちょっと体操をしますか? 正義さんがよく言ってくれるんです。宿題で行き詰まった時には少し体を動かして、気分転換をするといいよって。やりませんか。僕やります」
みのるは自分の分のホットレモンを椅子に置き、椅子のないスペースで両腕を持ち上げたり下ろしたりした。リチャードもおずおずと立ち上がり、同じことをしてくれる。
リチャードは笑っていなかった。
ただ決然とした顔をしていた。
二人で短い体操をした後、リチャードはみのるのことを抱きしめた。足が持ち上がってしまうほどの強いハグである。みのるはたじろいだ。
「わっ、リチャードさん……」
「この先に何が待ち受けていようと、あなたのことは私が守る」
「あの、僕、大丈夫ですよ」
「……そうですね。あなたは私よりよほど強い。今回は私があたためていただきました。ですからお返しがしたいのです」
「ミルクティーは二百円くらいだったので、今度ジュース買ってください」
リチャードは少し目を見開いた後、みのるを見て笑った。久々に見る、少し楽しそうな笑顔だった。みのるは自分が何か変なことを言ったのだと気づいたが、それでよかったと思った。
リチャードは手櫛で髪を整え、皴になったシャツを伸ばし、スーツの袖と裾を整え、さて、と頷いた。
「私の親族にも連絡をします。彼らも正義には恩がある者ばかりです。みのるさま、よろしければ病室で正義の様子を見ていていただけますか。連絡が済み次第すぐ、私も病室に戻ります」
「わかりました」
みのるは頷き、早足に集中治療室の方向に向かった。
振り向くとリチャードが携帯端末を取り出し、白い椅子の片隅に座るところだった。脚を組んで背もたれに肘を置く。話している言葉は英語のようだった。みのるに気付くと小さく手を振ってくれた。
いつものリチャードに似た人間が戻ってきたことに、みのるは心からほっとした。
たとえ集中治療室の中にいる正義が、相変わらず眠ったままであるとしても。
【つづく】