みつば百貨店おりおり便り 第二回
「なに。わたしにとっておきの考えがあるのだよ」
ご機嫌にのたまった日野友之助会長は、おもむろに三本の指を立ててみせた。
その一。
「まずはお嬢さんに褒賞を与えよう。みつば百貨店では新参であろうと古参であろうと、その働きぶりのみならず優れた発案で貢献した者にも、もれなく報いるのが慣例だ。よってきみが考えだした大食堂の新メニュウについても、ぽっきり丸一年の学費でもって相応の礼としたい」
その二。
「そうしてきみは心おきなく勉学に励みつつ、毎日の放課ののちに銀座本店での勤務にあたることで、いくばくかの給与を支払われるものとする。配属先は『月刊みつば』の編集部だ。ちょうど手伝いが欲しいという声が届いていたが、丁稚以上の働きが期待できるきみこそが適任だろう」
その三。
「加えて『月刊みつば』における新奇なる企画として、きみには毎号ささやかな原稿を寄せてもらいたい。みつば百貨店の表裏の営みに接してゆくなかで、つれづれなるままに心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくしたためたような読みものが望ましいな」
にわかに兼好法師が乗り移ったかのごとく、会長は朗々と締めくくった。
「どうかね? そう悪くない条件だと思うが」
悪くないどころか、これ以上は考えられないほどの好条件であることは、驚きに言葉をなくしている一同の面持ちからも明らかだった。
それだけに自分が破格の待遇にふさわしい人材なのかどうか、すぐさま飛びつくのもためらわれる。
とりわけ気になるのが、第三の条件だ。
「あの、大変けっこうなお話なのですが、文士でもないわたしが広報誌に寄稿するのは畏れ多いといいますか、そもそも務まるものか……」
女学校での綴りかたは得意なほうだが、いざ読ませるものが書けるかと問われれば、はなはだ自信がない。原稿を提出しては不採用をくりかえすようでは、結果的に迷惑をかけてしまうだろう。
「そう難しく考えることはない。みずみずしい女学生の視点で、四季折々のみつば百貨店の姿を飾らぬ言葉で語ってくれたら充分だ。ちょうど知人に便りを送るようにね」
「便りですか」
「まさにそういう体裁の小説があっただろう。とある女学生が名もわからぬのっぽの男に、長い長い書簡を一方的に送りつけて近況をしゃべりちらかすというような」
そんな傍迷惑な小説があっただろうか……と首をかしげたわたしは、ほどなくぴんときた。
「あ。ひょっとしてジーン・ウェブスター女史の『DADDY-LONG-LEGS』のことでしょうか」
「いかにも。本邦の女学生にも、たいそう好評を博しているというではないか」
「たしかにそのようですね」
なにを隠そう、このわたしも原書を入手して以来の愛読者のひとりである。
主人公は孤児院育ちの少女ジェルーシャ・アボット。彼女の文才に注目した謎の紳士が、大学進学のための援助をする唯一の条件としたのが、月毎の手紙で学生生活のあれこれをありのままに報告することだった。
よって概要の把握に若干の齟齬はあるものの、会長の云わんとするところは理解できた。考えてみれば、いまのわたしとジェルーシャの境遇は奇妙にかさなりあう。
見知らぬ誰かに宛てて、憧れのみつば百貨店で働く日々の所感を打ち明けるようなつもりであれば、さほどかまえずに書けるのではないか。
「どうかね?」
ふたたび問われ、わたしは腹をくくった。
「やります」
「よしきた」
会長は意気揚々と続けた。
「そうとなればまずは表題を考えねばな。月毎に女学生から届く、清爽なる書簡のごとき読みもの……四季折々の時好を伝える便り……おりおり便り……うむ。では《ふたばのおりおり便り》としよう!」
常の辣腕ぶりを感じさせるひらめきで、会長は即決した。おりおり便りとはなんともわかりやすく、また軽やかな語呂も好ましい。
「そのふたばというのは?」
「お嬢さんのことだな」
「みつばにちなんで」
「そうとも。いまのきみは土から顔をだしたばかりの双葉のようなものだろう。これからいかなる成長を遂げ、いずれは大輪の花を咲かせるものか、あるいはすっくとそびえる大樹となるものか。これから大いに期待させてもらおう」
そうした次第で、わたしの新生活はあれよというまに幕を開けたのだった。
あくまで日野会長の一存による採用だったので、軽佻浮薄な女学生などお呼びでないとの反発もひそかに覚悟していたのだが、幸いにも配属先の『月刊みつば』編集部では諸手をあげての大歓迎だった。
というのも――。
「ふたばくん。至急この草稿を、婦人服部門の主任に渡してきてくれたまえ」
壮年の編集長――高丘幸蔵氏が朗々たるバリトンを張りあげれば、
「ふたばさん。そろそろ図案部に次号の装画を催促したいのですが」
すかさず丸眼鏡の副編集長――梶原啓介氏が物腰やわらかにきりだし、
「ふたば嬢! どどどうしよう、竹久夢二画伯からお預かりした口絵がどこにもない!」
どうにもそそっかしい佐竹小太郎青年が、始終あわてふためくかたわらで、
「ふたばちゃん。わたしお腹ぺこぺこでもう限界。季節限定のお花見弁当が食べたいな……」
すらりとしたおみ足をストッキングにつつんだ才色兼備のモダン・ガアル――神林吟子女史がしどけなく訴えるようなありさまで、まさにてんてこ舞いの忙しさ。
おかげで猫の手よりはまともに使える雑用係として、重宝されているようだ。
女学校が新学期を迎えるまでは、できるかぎり朝の始業時から編集部に顔をだすようにしていたため、こちらもすでに心得たもので、
「すぐにお届けいたします」
「では進捗をうかがってまいりますね」
「その口絵でしたら、さっき上から三番めの抽斗にしまわれていましたよ」
「三月に出店したばかりで大評判の、大阪寿司のお花見弁当ですね? 地下までひとっ走りしてきます」
あらゆる頼みやら泣きやらにもまごつくことなく、てきぱきとさばけるようになってきた。ふたばの呼び名もすっかり定着し、むしろ学生気分を切り替える助けになっているようである。
ひそかに気がかりだった学業との両立についても、いまのところは順調だ。
いざとなれば日野会長みずから説得にあたると請けあってくれたが、幸いにもすんなり母や女学校の承諾をとりつけることができた。
母はたいそう驚きながらも喜んでくれたし、学院長のシスター宮里も森山家の事情を考慮して、本来は禁止されている就労しながらの在学を許可してくれた。
とはいえいくつか条件はつけられた。学業においての優遇はしないこと。勤め先については吹聴しないこと。遅くまでの残業は避けることなどである。
いずれももっともな条件で、異存はなかった。おしゃべり好きの同朋らにあれこれ取り沙汰されて、せっかくの稼ぎ口を失うことになってはたまらない。その点でも、小文の筆名が隠し名となるのは都合が好かった。
授業を終えたら、すみやかに市電で銀座に向かい、裏通りに面した百貨店の搬入口から、関係者専用のエレベーターで最上階の七階へ。
『月刊みつば』編集部に隣接する撮影室――広報誌や新聞やポスターなどに掲載される写真の多くは、ここで撮影されるのだ――の更衣室でささっと私服のブラウスに着替え、いざ出動という生活も板についてきた。
現状は任された遣い走りをこなすのに精一杯だが、いずれはちょっとした編集の実務にたずさわれる機会もやってくるかもしれない。
そんな期待も芽生えつつ、まずは目のまえに立ちはだかる難題を乗り越えなければ始まらなかった。裏階段をかけおりながら洩れるつぶやきは、おのずとため息まじりだ。
「そろそろ取りかからないとね……」
もちろん締め切りの迫る原稿のことである。
『月刊みつば』は毎月一日から配布されるため、高丘編集長が設けた原稿の提出期限は前月の十五日だった。つまりもうあと何日もない。
もとより本職のような読み応えは求められていないだろうが、それでもてんでお話にならない出来ならば、一からやりなおしを言い渡されるかもしれない。それを見越せば、余裕をもって完成させたいところである。
毎号およそ三十頁の広報誌の、ほんの一枚を埋めるだけの小文だ。その気になれば一晩で書きあげることもできそうだが、じつのところ肝心の題材の時点でつまずいている。
長らく親しんできた百貨店について、いざ見知らぬ相手に便りをしたためるようになにかを伝えるとなると、どこからきりだしたらよいものか。
多少なり参考になるかと、自宅の『DADDY-LONG-LEGS』をぱらりぱらりとめくってみたところ、つい夢中になって読破してしまったが、これというひらめきが降ってくるわけではなかった。むしろ夜更かしのせいで、授業中に眠気をもよおしているのだから、本末転倒である。
ううむと呻吟しつつ、わたしは買いもの客でごったがえす地下階をするするとかいくぐり、行列が見え隠れする折詰弁当の店舗をめざした。
暖簾にあしらわれた桜の花枝や、料理人が折詰をこしらえるさまを店先から観覧できるという工夫も、功を奏しているのだろう。出店してからというもの、その人気は勢いを増すばかりだそうだ。
ことにお花見弁当はまとめて求める客も多く、早々に完売してしまうこともめずらしくないという。わたしはそわそわしながら行列の末尾に並び、春めかしい桜柄の和装でそろえた売り子に注文した。
「お花見弁当をいただけますか?」
「あいにく残り三折になりますが」
なんと。並ぶのがあと数分でも遅ければ、目のまえで売り切れてしまっていたかもしれない。
「一折のみでかまいません」
「では三十五銭ちょうだいします」
手渡された折詰を宝箱のようにたずさえて、わたしはいそいそと帰路についた。残りわずかなところを入手できたとあり、達成感もひとしおだ。神林女史をがっかりさせずにすみそうで、おのずと足取りも軽くなる。
なんでも今日は打ちあわせがたてこんで、昼食にありつきそこねたのだという。編集部そのものは少数精鋭だが、広報誌としてあらゆる部署や取引先との連携が必要なため、刊行までにかかわる相手はかなりの人数になるのだ。
発行部数は六万部。各地の支店で配布されるほか、お得意さまには郵送もされるとあって、それぞれの部門の責任者も真剣だ。
一押しの商品を魅力的に紹介できれば、集客の促進のみならず通信販売での注文にもつながり、いまや馬鹿にならない割合を占めているという。
となれば惹句や写真の割りつけひとつにも吟味をかさねることになり、編集部としても要望の意図をしっかり汲んだうえで誌面に反映させなければならない。
よってわたしも連絡役として、ひっきりなしにかりだされているわけだが、いずれも荷室などを兼ねた店裏にあたるため、いざ働きだしてからは売り場に顔をだす機会はほとんどなかった。
せっかくここまでやってきたのだから、売り場のにぎわいに浸りながら編集部に戻ってもかまわないだろう。気ままにそぞろ歩きとはいかなくとも、これぞという妙案が生まれるかもしれない。
近くの階段で一階までのぼり、エスカレーターに向かっていると、通りがかりの《萬御相談承り所》に木村さんの姿があった。
出勤から退勤まで、ほぼカウンターに詰めている木村さんとは、このところ顔をあわせていない。お客さまがとぎれるのを見計らい、わたしは彼女に声をかけた。
「お疲れさまです」
「あら! しばらくぶりね。調子はどう?」
「おかげさまでなんとかやっています。その節はすっかりお世話になりまして」
急に採用が決まって右も左もわからないわたしに、出勤の方法や移動経路など、従業員なら心得ていて当然のあらゆることを急ぎ教えてくれたのが木村さんだった。
「いいのよ。なりゆきとはいえ、会長のご指名で大先生のお世話役を仰せつかったなんて光栄だもの。それで? お原稿の進みはいかがかしら?」
「やめてくださいって!」
すっかりくだけた口調でからかってくる。そんなところは巷の女学生とちっとも変わらない。恥ずかしくもほがらかな気安さに誘われるように、わたしは打ち明けた。
「その原稿なんですが、じつは行き詰まっていて」
「どんなふうに?」
「まだ一文字も書けていないんです」
「さすがにそれはまずいわね」
「ですよね……」
情けなく眉をさげるわたしを、木村さんはほほえましげに見遣る。商品券の束を華麗にさばきながら、
「あまり難しく考えないで、初回ならご挨拶みたいなものでかまわないんじゃないかしら。匿名とはいっても、書き手のあなたがどんな娘さんなのか知ってもらわないことには始まらないでしょう?」
「ご挨拶……」
「お便りらしく、季節の話題を織りまぜたりしてね。たとえばほら、そのお花見弁当みたいに。もう試してみた?」
「あいにくまだなんです。これも編集部のお遣いで」
「とってもおいしかったわよ。出先で食べやすいし、彩りもきれいだから、お客さまにもお薦めしているの」
旬の品はみずからの舌で把握しているとは、さすが抜かりがない。
「それに銀座本店は、毎月の催しにもかなり力を入れているから、覗いてみたらどうかしらね」
「そうします。ご助言ありがとうございました」
「がんばってね」
頼もしい木村さんは、商品券を雅な扇のようにひらめかせてわたしを送りだしてくれた。その姿はまさに福々しい弁天さまだ。
「たしかに手紙には時候の挨拶がつきものだものね」
わたしはエスカレーターで上階をめざしつつ、それぞれに趣向を凝らした陳列を横目でうかがった。
ざっくりと二階は婦人もの。三階は紳士もの。四階は呉服や家具や宝飾品。五階は子ども服や玩具や文具。六階は写真館や美髪室や、催しのたびに展示品を総入れ替えしてがらりと生まれ変わる催事場。そして七階には大食堂に加え、社長室なども含めたさまざまな部署の事務室が並んでいるという按配だ。
こうしてながめてみると、各階ごとに醸しだされる雰囲気の違いが感じられる。婦人ものの華やかさ、紳士ものの重厚さ、生活雑貨の上品さ、玩具の明るさなど、什器ひとつにも客層にあわせたこだわりが生きているようだ。
あらためて百貨店とは、老若男女が楽しめる稀有な施設であり、そのためのさまざまな工夫がほどこされているのだと感嘆せずにはいられない。
にぎわいという点では、やはり入口に面した一階と地下の食品売り場が一番手にあげられるだろう。
続く二番手が、おそらく六階の催事場だ。
国内外の名産品や美術工芸品、新奇なる生活用品や玩具なども展示販売され、さながら月替わりの万国博覧会のごとき盛況ぶりだ。新聞等でも大々的に宣伝され、最近では仏蘭西から招聘した服飾デザイナーによるファッション・ショウの開催が、ことに話題を呼んでいた。
もちろん奇抜さのみが取り柄の客寄せにはあらず。かつて日野会長が掲げた、世界の文化の最先端を発信する百貨店になるという気概が、脈々と受け継がれているのだ。
広報誌の『月刊みつば』でも、当月の催しを案内する記事は欠かせない。今月の《五月人形大陳列會》も、写真入りの見開きで紹介されていた。
五月人形を実際に売りだすのは四月で、その告知の原稿を用意するのは三月になるところがいささかややこしい。進行に慣れた編集部の面々でもついうっかりすることはあるそうで、おまけに依頼していた原稿や画稿が予定どおりに集まらずに冷や汗をかくこともままあると聞けば、ますます新入りの分際で迷惑はかけられないのであった。
六階までやってくると、ちょうどエスカレーターの正面に催事場が広がっていた。つい立ちどまったわたしは、気づけば人の流れに乗るようにそちらに足を踏みだしていた。
「わあ」
鮮やかな皐幟が目に飛びこんでくると同時に、菖蒲の清々しい香りに出迎えられて、おのずと気分も盛りあがる。生の菖蒲がさりげなくあちこちに活けられているのだ。
古来より菖蒲は邪気を払うとされ、端午の節句には菖蒲や蓬を軒に吊るすなどしていたのが、やがて鎌倉の武士の世となり、菖蒲の読みが「尚武」に通ずることから、武具を飾る風習も広まったとか。
ずらりと並ぶ五月飾りは、さすがみつば百貨店が厳選した品とあって、いずれも精巧だ。定番の武者人形。桃太郎などの子ども大将飾り。平飾りの兜も手軽さが人気らしい。
今年の干支にちなんで、鉞片手に龍とたわむれる木彫りの金太郎がいれば、子ども軍人と銘打って、ご立派に帝国陸軍の軍服を着こんだ人形もいるのは時世柄か。
尚武太刀の刀掛台には、堂々たる金文字の〈壽〉がいかにもおめでたく、またより本格的な具足一式も陳列販売されている。
絢爛豪華な京甲冑と、質実剛健な江戸甲冑。どちらもそれぞれに魅力があるなと堪能しながら歩みを進め、ちらと値札をのぞきこんで絶句する。
「二……二百三十円!?」
文句なしに上等な素材や職人技の極みを考えれば、たしかに納得だが、昨今の新任の小学校教論の月給がおよそ五十円であることをふまえれば、やはり庶民にはなかなか手がでない価格だろう。
それでも我が子の一生に一度の贈りものとなれば、奮発を決心することもあるはずだし、純粋に目の保養として味わうのもまた、こうした催しの楽しみだろう。
特に今年の陳列会は、目玉として某大名家秘蔵の五月飾りが展示されているのだった。もののついでと足早に人混みをすり抜けていくと、それは深緑の毛氈を広げた三段の台座にそびえたっていた。
上段には鎧兜の左右に弓矢と太刀はもちろんのこと、染め抜き紋の両旗や吹き流しや蒔絵の櫃もそろい、中段には軍扇や陣笠や陣太鼓が続き、下段には対の篝火に挟まれた三方や八足台に柏餅や粽や瓶子が供えられ、そのすべてを金屛風の放つ淡い後光がつつみこんでいる。
江戸期から大切に扱われてきたのだろう、傷みはほとんどないが、若干の色褪せが時代の移り変わりを感じさせてまた趣き深い。
どこか畏れ多い心地で遠巻きに鑑賞していると、正面に足をとめた和装の老翁も、しばし徳川の御世を偲ぶかのようにたたずんでいた。
老翁が名残惜しげに立ち去り、入れ替わるようにかけつけてきたのは、どこぞの私学の制服に身をつつんだ七歳ほどの少年だった。
これほど格式ある五月飾りをまのあたりにするのは初めてなのか、熱心に身を乗りだすさまにほほえましさをおぼえながら、わたしも歩きだそうとしたときである。
こちらに背を向けている少年が、飾りをただながめるだけではなく、片手をのばしてさわるような動きをしているのに気がついた。
驚いてあたりをうかがうが、家族らしき姿はない。案内係でもないのに声をかけてよいものだろうか。けれどもみつば百貨店が責任をもってお預かりした秘蔵品に、もしものことがあっては大変だ。
わたしはためらいをふりきり、やんわりと呼びかけた。
「坊ちゃん」
「っ!」
飛びあがるようにふりむいた少年は、警戒心もあらわに肩がけの鞄を握りしめる。
「こちらはとても貴重なお品なので、お手はふれないようにお願いしますね」
できるだけおだやかに告げたつもりだったのだが、少年はじりじりとあとずさり、身をひるがえすように逃げだしてしまった。
「あ。待って!」
とっさに呼びとめるも、その姿は人混みにまぎれてどんどん遠ざかっていく。
「そういえばあの子どこかで……」
上品ながらも、一本気な瞳が凜々しいおもだちには見憶えがある。首をひねっていると、少年はほどなくひとりの老女の許にたどりつき、ふたりは連れだってエレベーターのほうに向かっていった。
祖母というよりは、世話役の乳母でも待たせていたのかもしれない。そう考えて、わたしはようやくぴんときた。
あの少年は女学校の同級生――桐嶋峰子嬢の弟君だ。
武家華族の家柄で、組の違うわたしはそこまで親しくないのだが、昨年の春には自邸の庭での花見の宴に、級友の誘いでお邪魔させてもらったことがある。その席にあの少年も顔をだしていたはずだ。
そういえば今年はいまだお招きの声がかからない。理由はわたしが嫌われたから……ではなく、現在の桐嶋子爵家にはすでに華やかな宴を催すだけの余裕がないからだという噂を女学校で耳にした。
なんでも昨春の金融恐慌で、資産の大半を失うほどの打撃を受けたというのだ。
あの恐慌によって十五銀行――多くの華族が資産を預けていたため華族銀行とも呼ばれる――が破綻し、実際にあちこちの土地屋敷のみならず、伝来の家財までもが次々と売りにだされているのは広く知られるところだった。
華族や資産家の顧客を大勢かかえるみつば百貨店にとっても他人事ではなく、そうした動向にいち早く通じておくことも、とりわけお帳場さま――格別の愛顧に報いる待遇としてつけ払いや出張販売などもうけたまわるお得意さま――との密なおつきあいには欠かせないという。
たしか編集部にも、名家が貴重な家財を競売にかける売立会の目録が積んであったはずだ。手放す品をあらかじめ目録にまとめ、広く買い手に告知することでより高値での落札を期待できるが、没落の恥を晒す結果にもなり、それでも売立に踏みきるのは、もはや体裁にこだわってはいられないほどに追いつめられていることの証左ともいえた。
いまやめずらしくもない華族の苦境が桐嶋家にもあてはまるのかどうか、真偽のほどはわからない。
ともあれ桐嶋家が武家の流れを汲むのであれば、あの少年が由緒ある五月飾りに夢中になるのもうなずけた。だとしたら追い払うような結果になって悪いことをしたなと、なおさら気が咎めてくる。
そんなわたしの肩先を、誰かがちょいとつついた。
「あなた『月刊みつば』編集部の新入りの子ね」
「え? はい」
ふりむけば二十代なかばほどの女性の案内係が、好奇心に満ち満ちたまなざしでこちらをうかがっていた。どこかでお世話になっただろうかと急いで記憶をさぐるが、名札の栗原にも心当たりがない。
「つい何日かまえに、五階裏の荷室までなにか届けにきてたでしょ。わたしも普段は玩具売り場の担当だから、ちょうど在庫の確認で居あわせたのよ。編集部ではずいぶんこき使われてるんですって?」
あけすけな問いに、わたしは苦笑いした。
「そんなことは。たしかにのんびりしてはいられませんけれど、いただきもののお菓子もいつも忘れずに勧めてくださいますし」
「それって餌付けのつもりなんじゃない?」
「違いますよう」
妙な噂が広まっては困るとひそかに焦るが、相手のおかしそうな顔つきからして、どうやらからかっただけらしい。
「ところでいまの男の子はどうしたの?」
「それが声をかけたら、逃げだしてしまって」
少年の素性にはふれず、手短に状況を説明する。
「接客の作法も知らないのに、勝手なことをしてすみませんでした」
「いいのよ。わたしたちもいざお客さまのお相手を始めるとなかなかそばを離れられなくて、目が行き届かなくなるからむしろ助かったわ」
数百年ものの三段飾りをながめやった栗原さんは、なぜか不可解そうに黙りこんだ。
「新入りちゃん。さっきの子は、あなたが声をかけたとたんに逃げていったの?」
「はい。なんだか怖がらせてしまったみたいで」
「手をのばしていたのはどのあたりだった?」
「たしか下段だったかと」
そう答えてから、わたしははっとした。
「まさかどこか壊れているんですか?」
栗原さんは首を横にふった。
「それに消えているものもないわ。わたしは飾りつけの段階から応援にかりだされていたし、今朝も念入りに埃を払ったからまちがいないはず。ただ─」
「ただ?」
「どういうわけか増えているものがあるのよ」
栗原さんが取りあげたのは、八足台に供えられたひとふりの短刀だった。
黒檀の鞘に納められた短刀を、桐嶋家の子息が持ちこんだという証拠はない。
それでも不可解なふるまいについてひとつの仮説をたてるに至ったわたしは、真相をつまびらかにするべく行動に移ることにした。
すなわち姉の峰子嬢を、女学校の昼休みに呼びだしたのである。わたしが校舎裏の桜のかたわらで待っていると、峰子嬢は約束どおりに姿をみせた。上背のある彼女がまっすぐに顔をあげ、志士のような足取りで歩いてくるさまは、いかにも清々しい。
「わざわざありがとう。急にごめんなさいね」
「いいのよ。でも意外ね。あなたがわたしとSになりたいだなんて」
「なんですって?」
度肝を抜かれ、わたしは頓狂な声をあげた。Sとは姉妹の頭文字で、女同士の熱烈な友愛を指す隠語である。たしかにひっそりした校舎裏が、愛の告白やら密会やらの定番の舞台になっていることはわたしも知っていたが。
「まさか! とんでもない!」
「そこまで全力で否定されると傷つくわね」
「あ……違うの! そういう意味じゃなくて」
「冗談よ。あなたってお人好しね」
涼しい顔でふざけてくるところが心臓に悪い。そういえば中性的な雰囲気が魅力的な峰子さんは、学年の上下を問わず人気があるのだった。当人は興味がないとの噂だが、実際にここで告白されたことがあったりするのかもしれない。
「それで? いったいなんのご用かしら」
「じつは訊きたいことがあるの」
わたしは持参した風呂敷包みを解いた。催事場の栗原さんに断り、短刀を預からせてもらったのだ。
「これに見憶えがないかと思って」
峰子さんは短刀をのぞきこんだ。黒檀の鞘そのものにこれという特徴はないが、ふと目をとめた下げ緒を指先でつまみあげる。どうやら鶯色の組紐に心当たりがあるようだ。
「これってうちにある短刀だわ」
「ひょっとして弟君のものではないかしら」
「そうよ。かつて家斉公から拝領した宝刀だとかで、他界した祖父に譲られてから呆れるほど大切にしているわ。なぜこれをあなたが? 真之助が屋敷から持ちだしたことはないはずなのに」
「じつは昨日のことなのだけれど」
ここから先は桐嶋家の内情に踏みこむことになる。わたしは礼儀として、みつば百貨店で働いていることも含めた経緯をかいつまんで説明した。
峰子さんは驚きもあらわに耳をかたむけていたが、やがて困惑の面持ちで口にした。
「……たしかにそれは弟の真之助ね。昨日は学校帰りに銀座の百貨店まで連れていったと、乳母が話していたの。あの子にはめずらしいことに、かなり強くせがまれたみたい」
ならばまちがいないだろう。彼はなんとしても、この短刀をみつば百貨店に持ちこみたかったのだ。
「あの子ったらいったいどういうつもりかしら。桐嶋の家蔵品を商品にまぎれこませるなんて」
「商品ではないわ。展示品よ」
「なにか意味があるの?」
「おそらくは」
ますます不可解そうな峰子さんに、
「不躾なようだけれど、桐嶋家では近く売立会の予定があるそうね」
意を決してきりだすと、すかさず苦笑をかえされた。
「そんなに気を遣うことはないわ。お察しのとおり、桐嶋家の懐事情がかなり苦しいのは事実よ。わたしも隠すつもりはないの。わざわざ言いふらすことでもないから、黙っているだけでね」
わたしは神妙にうなずいた。あれから編集部で売立目録の束を漁ってみたところ、予想どおり桐嶋家のものも交ざっていたのだ。写真入りの小冊子には、いかにも高価そうな書画骨董や宝飾品など、さまざまな家蔵品がずらりと掲載されていた。
「あくまで想像だけれど、弟君は家財が散逸することに胸を痛めているのではないかしら。生きていくにはしかたのないことだけれど、自分の短刀だけはお金のために手放してしまいたくなかった。だからせめて真の価値のわかる相手に預けようとしたのかもしれないわ」
「真の価値って?」
「武士の魂よ」
その点みつば百貨店に展示されるほどの五月飾りを、現在まで受け継いできた大名家なら、名乗れぬ者がどんな想いで短刀を託したかを汲み、大切にしてくれるはずだと、七歳の子どもなりに知恵を絞ったのではないか。
峰子さんは理解しがたいように眉をひそめた。
「でもこの短刀は、売立会には出品されないわよ。真之助は知らないだろうけれど、競売にかけても高い値がつくような品ではないし、そもそも拝領の謂れだって眉唾だから、家の者も話題にすらしないもの」
「そのようね」
目録にはそれらしい短刀の記載がなかったのだ。
「でも弟君にとってはあらゆる意味で唯一無二の宝刀だったからこそ、いつ奪われるものかと恐れずにいられなかったのではないかしら」
「つまりなにもかもが、あの子のむなしい独り相撲だったというわけね」
峰子さんは呆れたように嘆息した。
「まったく困ったものだわ。祖父の世代はともかく、父まで記憶にもない徳川の御世を懐かしんで、武士の誇りだのなんだの説くばかりでお金を稼ぐ努力をしないから、なけなしの財産まで失うはめになったというのに。一族の男たちは戦争のたびに死んでゆくばかりだし、あの子もきっとそうなるわ。武士の魂でどうやって機関銃に立ち向かうのよ」
峰子さんは怒っている。怒りながら案じているのだ。幼い弟や家族の未来を。
峰子さんがこちらに手をさしだす。
「それ預かるわ。迷惑かけたわね」
「とんでもない」
わたしは風呂敷ごと短刀を手渡した。
沈黙するわたしたちの足許では、すでにほとんどが散った桜の花弁が春風と戯れている。
わたしはささやいた。
「峰子さん。ひょっとして学校をおやめになるの?」
「いいえ。しっかり卒業して、職業紹介所でもなんでもたずねて、しっかり働くわ。じつは親が進めていた縁談が、先日ご破算になったばかりなの」
「まあ……」
とっさの反応に迷うわたしを一瞥し、峰子さんは不敵に口の端をあげた。
「お気の毒どころか大感謝よ。そもそもが財産めあての結婚なのに、お相手も破産しかかっていることが露見したあげくの破談だもの。わたしがごねずに早まっていたら、取りかえしのつかないことになっていたわ。まったくもって危機一髪よ、危機一髪」
「……粘り勝ちね」
「どうぞ教訓になさって」
わたしたちは視線をかわし、声をたてて笑った。
峰子さんが伸びをしながら青空を仰ぐ。
「わたし葉桜って好きよ。儚い花の季節が終わっても、みずみずしい若葉が次々に芽をだしてくると、ここからが本当の始まりだっていう気がして力が湧いてくるもの」
「わたしも」
そうして緑の五月がやってくる。
そのまえに五月号の締め切りもやってくる。
桐嶋家の短刀をめぐる顚末は、もちろん胸に秘めておかなければならないだろう。それでも一途な真之助少年のおかげで、書くべきことは定まった気がする。
春の陽気の許、わたしはひそかに祈った。
どうか彼の未来に幸多からんことを。
ふたばのおりおり便り
拝啓
みつば百貨店を愛するみなさま。あるいはこれから愛することになるかもしれないみなみなさま。ごきげんよう。
すっかり葉桜のまばゆい季節となりましたが、いかがおすごしでしょうか。
このたび数奇なご縁で、みなさまに月に一度のささやかなお便りをお届けすることとなりました。
差出人の素性につきましては、東京市に生まれ育ったありふれた女学生とだけお伝えいたしましょう。なにぶん勉学に勤しむ身でありますれば、それ以上のご詮索はご遠慮くださいますように。
女学生のとりとめもないおしゃべりになど、耳をかたむける価値なしとお考えの向きもありましょうが、どうぞごゆるりとおつきあいくださいませ。
まずはご挨拶に代えるべく、わたしの記憶のアルバムを紐解きますと、その折々にみつば百貨店の情景が浮かびあがります。
幼い時分は魔法の階段に夢中になり、舶来の積み木で遊び始めたらとまらず、中元歳暮のご贈答品コーナーでは包装の華麗な手さばきに魅せられ、雛人形の陳列会ではちんまりとした黒牛が曳く牛車だけが欲しいとせがんで親を困らせておりましたのが、やがてちまちまと貯めたお小遣いで千代紙を求め、英国製の便箋をじっくりと吟味し、髪に結わえる繻子のリボンを友人と贈りあうようにもなりました。
そうしたすべてをかき集めましても、わたしがみつば百貨店で費やした金額は微々たるものでしょう。それでも滞在したひとときも含めたすべてが輝く宝石のように、まるで色褪せることはありません。
いまのわたしは美しい宝石に見惚れはしても、自分のものにしたいとまでは感じません。いずれそうなるのかもしれませんし、そうならないのかもしれません。
これから自分がどのように変わってゆくものか、わたしはいくらか不安で、とても楽しみです。
いずれにしろみつば百貨店に並ぶ品にまちがいはないのですから、みなさまもお気軽にそぞろ歩きを楽しまれてみてはいかがでしょうか。きっと思いがけない収穫をお持ち帰りになれることでしょう。
それでは今月はこのあたりで。
来月までどうぞお元気で。
あらあらかしこ
ふたば
【つづく】
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