みつば百貨店おりおり便り 第一回


 なにもこの世の終わりというわけではない。
 そもそもが無謀な賭けだったのだ。
「さてどうしたものかしら」
 ひとりつぶやき、昼さがりの青空を仰ぐ。
 三月も中旬にさしかかり、うららかな陽気が快い。
 けれどもわたしの春だけは、どこか遠くで足踏みしているかのように、華やいだ心地にはなりきれなかった。
 ふりむけば、いましがたあとにしたばかりの白亜館が天にそびえている。
 東洋一の百貨店との呼び声も高い、典雅なルネサンス様式の《みつば百貨店》ぎん本店だ。
 地上七階に地下一階。屋上には緑あふれる大庭園。
 時計塔のてっぺんには、アール・ヌーヴォー調のみつば印の旗が誇らしげにひるがえり、今日も今日とて大勢の老若男女でにぎわっている。
 とはいえわたしの目的は嬉し楽しいお買いものではなく、吹き抜け天井の一階ホールに設けられた《よろずそうだんうけたまわじょ》をたずねることだった。
 相談所のカウンターでは店舗の案内はもちろん、商品券の販売や贈答品の品選びなど、顧客のあらゆる困りごとに力を貸してくれるのである。
 応接にあたるのは選りすぐりの熟練者ばかりで、知りたいことがあればまずまちがいなく解決すると、いたく重宝されているという。
 そこでセーラー服に左右のおさげ髪という、清く正しい女学生の正装でいざ銀座まで出向いたわたしは、弁財天のような微笑をたたえる四十路とおぼしき女性店員に、こうきりだしたのだ。
「おそれながらおたずねします。わたくしこうじまちせいせん女学院の四学年に在籍しておりますもりやまみどりと申しますが、故あって働き口を求めておりまして。読み書き計算には不自由いたしませんし、所作も人並みには身についておりますし、なにより貴店には幼い時分よりたびたびお世話になってまいりましたので、ご指導の吞みこみに難儀することもないものと存じます。配属先につきましては店頭での接客でも、電話販売の交換手でも、食堂や喫茶の給仕でもかまいません。急な人手不足にお困りでしたら、なにとぞ採用をご検討いただけないでしょうか?」
 いっせいに求人の有無を問われるとは、さすがに予想していなかったのだろう。紫紺の制服を上品に着こなした彼女はしばし啞然と目をまたたかせていたが、ほどなく物腰やわらかに告げた。
「ご愛顧まことにありがとうございます。ただ本年度の採用はすでに終了しておりまして、残念ながらご希望にうのは難しいかと」
内定を辞退されたかたなどは?」
「それも見越したうえでの採用人数ですので。もちろん次年度の求人情報につきましては広報誌の『月刊みつば』や主要新聞等でも告知をいたしますので、そちらをお待ちになってご応募いただければ」
 まったくもってごもっとも。あわよくば人事部に取り次いでもらえるかもしれないという淡い期待は、はかなく散ってしまった。
 そもそも百貨店の職に就くのは、自活をめざす当世の女子の憧れでもあり、とりわけみつば百貨店の内定倍率は五倍とも十倍ともいわれている。
 それでも多岐にわたる採用においては、なにかしら誤算が生じることもあるのではと望みをかけてみたのだが、やはり創業二五〇年の老舗に抜かりはないのであった。
 正規の手段を踏んでいないうしろめたさもあり、わたしは潔く諦めることにしたものの、落胆を隠しきれてまではいなかったのか。
「お嬢さん。よろしければどうぞお持ちください」
 気遣うようにさしだされたのは、くだんの広報誌の三月号である。『月刊みつば』は折々の増刊号も含め、各地のみつば百貨店にて無料で配布されており、わたしも欠かさず愛読しているのだが、今月にかぎってはなにかとばたばたしていて入手できていなかった。
「ご親切にありがとうございます。ではご縁がありましたら、いずれまた
 そうして頂戴した小冊子をだきしめ、わたしは相談所をあとにしたのだった。名札に記されていた木村の姓を胸に刻むも、おそらくわたしがここで働く機会はないだろう。
 裏通りを歩きつつ、あらためて最新号の『月刊みつば』をながめてみれば、おなじみすぎえだしゅうすい画伯の麗しい装画が表紙を飾っていた。
 エレガントな釣り鐘クローシェ帽をかぶった細身の美女が、咲き初めの桜の許にたたずむ姿が、うっとりするほどに美しい。勢いこんで銀座まで足をのばしたものの、無駄骨に終わったいまのわたしには唯一のなぐさめだ。
 またあとでゆっくり楽しもうと、手提げ鞄に大切にしまいこみながら、
「せっかくだから木村屋總本店に寄って、お土産にあんぱんでも買っていこうかしら。この時季ならやっぱり桜あんぱんにかぎるわよね」
 これからは気ままな散財も控えるべきだ。といえどもまだ幼い双子の弟妹を喜ばせるために、小遣いをくくらいなら許されるだろう。それにわたしも母も父もまた木村屋のあんぱんを長らく愛好してきたのだから。
「木村屋のぱんをごろうじろ、西洋仕込みの本場もの。焼きたてできたてほっくほくの、木村屋ぱんを召しあがれ。文明開化の味がして、寿命ものびる初もの初もの」
 かつておおりしたという宣伝歌を景気づけにくちずさみながらきびすをかえすと、ほどなくみつば百貨店の搬入口にさしかかった。
 みつば印の配送車両や、メッセンジャー・ボーイの自転車がめまぐるしく行き来して、正面入口とはまた異なる活気にあふれている。
 注文品のお届けを担うメッセンジャー・ボーイは、まるで英国ホテルのポーターのような、帽章や肩章つきの凜々しい制服に身をつつんでいた。
 銀輪の自転車をたくみにあやつる紅顔の少年たちは、せいぜい十代なかばにもかかわらず、誰もがみつば印を背負っているという気概に満ちているようだ。荷を扱う手つきは丁寧ながら、きびきびとした動きがなんとも清々すがすがしい。
 と同時に、職も決まらなければもはや学生でもいられそうにない自分のありさまが、ふわふわと枯れ野を漂うたんぽぽの綿毛のようで、心許なさがこみあげてくる。
 なんだか無性にいたたまれず、歩みを速めようとしたそのときだった。足を向けたその先に、車椅子のおきながたたずんでいることに気がつき、わたしは立ちどまった。
 おおしまつむぎにインバネスを羽織り、顎に豊かな白鬚をたくわえたいでたちは、いかにも裕福な資産家という風情だ。それでも嫌味な印象を受けないのは、中折れ帽からのぞくまなざしに、ありがちな尊大さがうかがえないためだろう。
 どういうわけか、熱心なその視線は搬入口に注がれているが、連れを待っているようでも、ひとりきりで難儀しているようでもない。
 妙に気にかかったものの、声をかけあぐねていると、当の老紳士がふとこちらをふりむいた。
「おや。これは失礼したね」
 わたしの行く手をふさいでいた車椅子を、自力でどかそうとする。
「いけません! どうかそのままで」
 わたしは急いでとめにかかったが、とっさにふれた手押しハンドルの、艶やかな胡桃くるみ材の美しさに目を奪われた。それだけではない。しっくりと腕になじむ肘かけの曲線や、可動式の足板の透かし彫り、籐製の背もたれなど、あらゆる意匠がすばらしく、隅々までなでさすりたくなる。
「どうかしたかね?」
 そう声をかけられて、わたしは我知らずのばしかけていた指先をひっこめた。いぶかしげな老紳士に、あたふたと釈明する。
しつけにすみません! あまりに素敵な車椅子で、ついつい見惚れてしまいました。まるで年代もののチッペンデールのようなこしらえで」
「ほう」
 老紳士は意外そうに目をみはった。
「これはお目が高い。じつは英国から取り寄せたばかりの品でね。さっそく行きつけの百貨店にやってきたところなのだよ」
「どうりで」
 舶来の調度を彷彿させるわけだ。
「国内での製造も始まってはいるのだが、怪我人の移動に重宝すれば及第点という段階で、この分野ではまだまだ遅れをとっているようだ」
 たしかに日常において足の代わりとするには、実用一辺倒でも味気ないだろう。同じ杖でも、松葉杖ではなく粋な紫檀のステッキをお供にできるなら、外出にも前向きになろうというものである。
「乗り心地はいかがです?」
「なかなかのものだよ。お嬢さんも試してみるかね?」
「あら。かまいませんの?」
 うっかり好奇心にひきずられたわたしは、おのれの失言を悟って赤面した。
「いえいえそんな。滅相もありません」
 ご老人を押しのけて車椅子を乗りまわすなど、たとえ孫娘でも遠慮するだろう。
 ひたすら恐縮するわたしを、老紳士は愉快そうにながめている。冗談を鵜吞みにした、無神経な小娘だと呆れられてはいないようなのが救いだ。
 わたしはいまさらながらかしこまり、
「ところでなにかお困りのことがあれば、お手伝いいたしますが」
「それはご親切に。しかしお嬢さんにも予定が控えているのではないかね?」
「いえ。ちょうど用向きを終えて、あとは家に帰るばかりでしたので、お気になさらず」
「そういうことなら、ひとつ年寄りの我がままにつきあっていただくとしようかな」
「どうぞなんなりと」
 これもご縁というものだろう。帰りがけにいくらかでも人助けらしいことができれば、徒労感の埋めあわせになるのではというひそかな期待もあった。
「百貨店の入口にご案内すればよろしいですか?」
「うむ。さしつかえなければ、上階の大食堂までおつきあい願えるかな。まずは休憩をしたくてね」
「承知しました。大食堂でしたら、エレベーターで七階にお連れしますね」
「ついでに同席も頼めると嬉しいのだが」
「え?」
「いまならそう混みあってもいないだろう。メニュウはなかなか充実しているし、味も悪くはないと評判だ。なんでもお好きなものを注文したらいい」
 まさかの望みに、わたしは目を丸くした。
 これが若者の誘いなら、いかにも軟派だと警戒するところだが、相手は鷹揚なろうだ。いかがわしい喫茶カフェに連れこもうというわけでもないのに、変に怖気づいて断るのも失礼ではないか。そんな迷いがせわしなくのうをかけめぐる。
「で、ですがわたし、あまり持ちあわせが」
「ははは。もちろんこちらが全額もたせてもらうとも。ささやかな礼としてね」
「お礼だなんて、そんなつもりでは」
 ほんの数分ばかり車椅子を押して歩くだけで、そこまで気遣われてはむしろいたたまれない。やはり丁重に辞退しようとするが、
「だがきみは車椅子を褒めてくれただろう?」
 意外な主張に、わたしは首をかしげた。
「それがお礼に値するのですか?」 
「出合い頭に車椅子の意匠に感嘆されたことなど、これまでになかったものでね。それも目の肥えたお嬢さんに注目していただけたとは、なおさら嬉しいことだ」
「はあおそれいります」
 ひょっとして、めったにお目にかかれないような変わり者だと、おもしろがられているのだろうか。
 とまどうわたしをよそに、老紳士は上機嫌に続ける。
「それにじつのところ、介添えを任せていた者とはぐれてしまってね。お嬢さんがそばについていてくれたら、わたしとしても心強いのだよ。なに、我々が連れだっていれば、誰しも祖父が孫娘をともなっているものとみなして、怪しまれることもないだろう」
 それはそうかもしれないが、吞気に食堂でくつろいでいてもいいのだろうか。
「お供のかたを捜さなくてかまわないのですか?」
「よいよい。そのうちなんとかなるだろう」
 老紳士はいたってほがらかだ。どこかで合流できる目星でもついているのだろうか。世話役はさぞかし焦っているものと察するが、あまり問いただすのも素姓を詮索するようで気がひける。
 いずれにしろこのまま放ってはおけないと、わたしは心を決めた。
「ではあまり遅くなってもいけませんので、半時間ばかりご一緒させていただきますね」
「ありがとう。充分だ」
 わたしは慎重に車椅子を押し始めた。速さと向きの力加減が難しいが、じきに勘どころをつかんで安定した動きを保てるようになる。
 それでも整然と舗装されている銀座の路面が、決して平坦とはいえないことに驚かされる。そこかしこにちょっとした段差があり、そのたびに車輪を取られそうになってひやりとせずにはいられないのだ。
 いざ入店すれば、こちらはこちらで混雑していて気が抜けない。桜の花枝をあしらった春めかしい内装や、舶来の香水瓶やパウダーコムパクトなどのきらきらしい陳列に目を奪われたお客の意識が、足許から逸れがちなだけに、より厄介でもあった。
 もちろんこちらが予期せぬ動きをしなければ、たいていは向こうからすいと避けてくれるのだが、目線の低い車椅子に乗っていてはいまにもぶつかりそうで、さぞおちつかないのではないか。
 そういえば幼い時分はあまりの人混みに怖気づき、母の袖にしがみつくこともたびたびだった。
 そのわたしがいまや五歳の弟妹を左右に従えては、迷子にならないよう目を光らせてもいるのだから、月日が経つのは早いものである。
 そんな感慨を胸にエレベーターをめざしていると、じきに先刻の《萬御相談承り所》にさしかかり、ちょうどお客さまを送りだしたばかりの木村さんと視線がかみあった。
「あら」
 小声で洩らしたきり、彼女はなんとも奇妙な面持ちで黙りこんでいる。それも当然だろう。職を求めにやってきたはずの女学生が、どういうわけか資産家然とした老紳士のお供として戻ってきたのだ。
 まじまじとこちらを注視するまなざしが、どことなく不審げな色を帯びているのを見てとり、わたしはそそくさと会釈をして通りすぎた。
 職を諦めきれずに、なにか突拍子もないことを企てているのではないかと、怪しまれていたらどうしよう
 カウンターに背を向けてからも疑惑の視線が追いかけてくるようで、わたしは折りよく到着したエレベーターに乗りこむことに集中した。
 格子と蛇腹の二枚の扉を、白手袋をはめた昇降機ガールがからからと閉じ、わずかな衝撃のあとに美しい箱がゆっくりと上昇を始める。その魔法の儀式のような流れには、いまでもなんだかわくわくさせられる。
 昔はエレベーターを待つあいだすらも、天球の月を追いかけるようなブロンズ製インジケーターの針を、飽かずにながめていたものだ。
 同じ儀式が幾度かくりかえされ、七階で残りの客がすべて吐きだされた。どうやら大半の乗客の目的は、大食堂だったようだ。
 いまでは決してめずらしくないが、誰もが気軽にくつろげるような大食堂の併設は、このみつば百貨店の画期的な試みだったという。もちろん買いもの客にとっても、腹ごしらえや休憩を挟みながら品定めに専念できるのはありがたいことである。
 席は五百をはるかに超え、純白のクロスを敷いたテーブルの群れは、正装で舞踏を披露する淑女たちのようだ。午後のお茶にはまだ早いが、それでも見渡すかぎりほとんどの席が埋まっている盛況ぶりはさすがだった。
 黒のボウタイを結んだボーイは、
「いらっしゃいませ。おふたりさまのご利用でよろしいですか?」
 車椅子の客にほんの一瞬のとまどいをみせたが、速やかに誘導されたのは、ちょうど空席になったばかりの窓際の角のテーブルだった。客の出入りに煩わされずにすむよう、気を利かせてくれたようだ。
 椅子を一脚どけてもらい、車椅子の老紳士と向かいあって腰をおろしたわたしは、ようやく安堵の息をついた。
「ご苦労だったね。さあさあ、てん蕎麦でもプッデングでも、遠慮なくお頼みなさい」
 手渡された《御献立》表に目を走らせてみると、カツレツにビーフスチュー、チキンライスなど洋食の定番が揃っていれば、やや値は張るが鰻御飯やお好み寿司のような和食も並んでいる。
 続いては和洋の甘味や飲みものだ。ホットケーキや栗ぜんざいにも惹かれたが、いまの気分にぴんとくるのはひんやりしたデザートのほうだった。
「わたしはアイスクリームを」
「まさかそれだけかね? お椀付の鯛御飯は? 焼きたてのアップルパイはどうだい? カレーライスも本格的な味わいだというが?」
「そ、それなら紅茶もお願いします」
 かたくなに固辞するのも許されない勢いに、わたしは慌てて追加した。それにしても品書きを見遣るまでもなく、おすすめの料理がすらすらと口をついてでてくるあたり、どうやらかなりの常連のようだ。
 そんな彼の注文はコーヒーのみだった。帽子もインバネスも脱ごうとはせず、まずは休憩をという言葉どおり、ここに長居をするつもりはないらしい。
 優雅なアーチ窓に目を向ければ、見渡すかぎりの青空に心洗われるようだ。そのはるかかなたには、霞みがかった山影が浮かびあがっている。
「あれは富士山でしょうか」
「いかにも。今日はお嬢さんと張りあっているのか、とりわけ姿が美しいようだ」
「お上手ですね」
 ほどなくエプロン姿の少女給仕が、銀盆をかかげてやってきた。踊り子のような足さばきでくるくると動きまわる彼女たちは、わたしと同年輩の者がほとんどだが、すでに立派に務めをこなしている。
 わたしのアイスクリームが盛られていたのは、アネモネの花茎を凍らせたような、繊細なガラスの器だった。
「ほらほら、溶けないうちに召しあがれ」
「ではありがたくいただきます」
 老紳士にうながされたわたしは、さっそく冷えたスプーンでアイスクリームをひとすくいした。しゃりりと新雪のごとき氷の粒が舌先にほどけ、濃厚なバニラの香りが脳裡に忍びこんでうっとりせずにはいられない。
「ん幸せ」
「それはなによりだ」
 彼は嬉しそうにコーヒーをすすりながら、
「ここで楽しめる甘味といえば、始まりは団子や季節の果物程度だったが、それでも当時はかなり話題を呼んでいたものだよ。名の知れた銀座の甘味処は、どこもかしこも混雑していて待たされるのがたまきずだと、お客さまがこぼしていたことからひらめいたとか」
「お詳しいですね」
「みつば百貨店とは、かれこれ三十年以上のつきあいになるからね」
「ではまだ呉服店の看板を掲げていた時代からのごひいなのですね」
 多くの百貨店と同様に、みつば百貨店もまた呉服店がその商売の始まりだった。江戸期から銀座の目抜き通りに大店を構えてきた老舗《三つ葉屋》だが、時代の流れとともに業績は落ちこみ、心機一転デパートメントストアとしてよみがえることでさらなる飛躍を遂げたのだ。
 そもそもは創業者の家紋であった三つ葉紋もまた、意匠を一新したみつば印として生まれ変わった。三枚のかたばみの葉はそれぞれに商品の〈生産者〉と〈販売者〉と〈購買者〉を象徴しており、そのいずれをも幸福にという願いがこめられているという。
「ふりかえればあっというまの三十年だった。かつて寸暇を惜しんで新事業の起ちあげに邁進していた時期が、いまでも昨日のことのようだよ」
 そう述懐し、ながめやった青空には、いったいどんな光景が映しだされているのだろうか。 
「お嬢さんもみつばを贔屓にしておいでなのかな?」
「はい。子どものころから、しばしば両親に連れられてきていたもので。女学校のお友だちとあちこちの百貨店をそぞろ歩くこともありますが、結局のところいつもみつば百貨店に戻ってきてしまうんです」
「なにか決め手があるものかい?」
「そうですねいずれの百貨店も品揃えや季節の催しにはそれぞれに工夫を凝らしていると感じますが、一番の違いは居心地のさでしょうか」
「ほう?」
「わたしの父は大学の英語教師で、若かりしころに英国にも留学していたのですが、最先端の百貨店が揃い踏みするなかでも、とりわけ《ハロッズ》の接客に感銘を受けたというんです。あちらでは東洋人というだけでなにかと不快な扱いをされがちだったのが、かの百貨店だけはどのようなお客さまに対しても、気遣いに満ちたもてなしをしていたのが印象的だったと。いかにもみすぼらしい装いのお客さまが、なにを買い求めるでもなく美しいディスプレイをぼうとみつめているだけでも、決して追いだしたりはせずにそっと見守っていたとか。階級社会でありながらそうした接客が徹底していたのは、誰もに豊かなひとときをすごしていただくということをとする理念が行き届いているからだろうと。父に云わせれば、そのハロッズの雰囲気にもっとも似ているのが、みつば百貨店なのだそうです」
「それはごけいがんだ。時代遅れの呉服屋をなんとかたてなおすために、かつて欧米の視察に出向いた責任者がたどりついた目標が、まさに東洋のハロッズをめざすことだったというからね」
 実業家としての興味をかきたてられたのか、老紳士は身を乗りだした。
「ではお母上のご意見はいかがかな?」 
「母はが許されるのが魅力だと。たとえば呉服店では一対一の接客があたりまえで、こちらの要望を汲んだお店のかたが反物を見繕ってくださるわけですが、あれこれおすすめいただいたからには手ぶらで去るのは気がとがめますし、焦りばかりが募って心から楽しめないこともあったそうです。それが新時代の百貨店では、あたかも絵画を鑑賞するように目星をつけたものの残影を胸にとどめて、次回までにじっくり吟味できるのがありがたいと」
「なるほど」
「そもそもなにかを選択するのはとても気力がいることですし、悩みに悩んだあげくに納得して決めたはずでも、自分が選ばなかったものにはいつまでも未練が残ったりもするものですから」
 老紳士はしみじみとうなずく。
「それが人間のさがというものだろうな」
「そこでいざ決断に踏みきるためのもうひと押しが欲しいというときに、みつば百貨店では絶妙な助言をいただけることが多いとか」
「押しつけがましいのはご勘弁だが、目利きの太鼓判があるなら、なおご満足というわけだね」
 わたしは苦笑した。
「我がままなものですが」
「いやいや。非常に参考になるよ。お嬢さんもそうした理由でみつば百貨店を好いているのかな?」
「はい。ですがごく個人的な思い入れもありまして」
「ぜひ拝聴したいね」
 人生の大先輩が、熱心に耳をかたむけてくれているというめったにない状況に、わたしは長らく心にしまってきたことを打ち明けたくなった。
「五年まえの大地震のときのことです」
 麴町区の我が家は半壊したものの、幸い在宅していた家族の命は助かった。だがじきに火の手があがり始め、ほとんど身ひとつでの避難を余儀なくされたのだった。
「春に生まれたばかりの双子を、わたしと母がそれぞれにおぶってきゅうじょう(皇居)をめざしましたが、瓦礫の山が急にごうごうと燃えだしたり、空には巨大な暗雲が渦を巻いていたり、まるでこの世の終わりのような光景でした。勤め先の大学にいた父は生死不明で、母は心痛のせいかお乳もでなくなり、ドライミルクを入手できそうな小売店も全滅で
 あのときの絶望的な心地は、いまでも忘れられない。
「そんなときにうしごめほんごうや、しん宿じゅくうえなどにも出張マーケットを設けて、いち早く必需品の提供を始めてくださったのがみつば百貨店だったんです」
「あああのときは大阪の支店から、できるかぎりの物資を船で輸送したのだったな」
「ええ。一刻をも争う状況で、信頼のおけるみつば印の旗がどんなに心強かったか。ですからわたしにとっては、いまだに希望の象徴のようなものでもあるんです」
 ひどい混乱のただなかに、あたりまえだったはずの日常の営みがともしのようにさしだされたおかげで、めげずに踏みとどまることができたのだ。
 あらためて眼下を見渡せば、そこには活気にあふれた銀座の街が広がっている。ほんの数年まえに焼け野原と化したのが噓のような復興ぶりだ。
 この銀座本店も倒壊こそ免れたものの、店内は延焼で壊滅的な被害を受けた。ならばいっそのこととばかりに、大胆な改修と拡張に踏みきった本店は、ますます魅力を増した姿で復活をはたしたのだ。
「しかし人々の窮乏につけこむように、金儲けの機会に飛びついたとは感じなかったかね?」
「ちっとも。だとしたら割高な料金をとるところが、むしろ割安で提供されていましたから」
「そうか」
 かみしめるようにつぶやき、老紳士はほほえんだ。
「それでご家族はいまもご健在かな?」
「おかげさまで母と双子は元気にしています。父ともじきに合流できまして、郊外の知人宅にしばらくお世話になったりしながら新居に移りましたが、つい先月その父が心臓発作で他界しまして」
「なんと。それは気の毒に」
 絶句しながらも、残された妻子の暮らし向きを気にかける面持ちに、わたしは手短に伝えた。
「幸いすぐにも困窮するほどではありませんが、新居を建てるのに蓄財をはたいたばかりで余裕もありませんので、近く働きにでるつもりでいます」
「女学校を退学してということかい?」
「まだ幼い弟妹がいますし、いざというときのために備えてもおきたいので」
「しかし多少の無理をしてでも、できるかぎりの高等教育を修めておいたほうが、むしろ家族の将来のためになるという考えかたもできはしないかね?」
「そうですね男子であればおっしゃるとおりかもしれませんし、わたしとしても残念ではありますが、女子ではそもそも就ける職業にかぎりがありますから」
 いまさらためらうこともないと、わたしは洗いざらい白状した。
「そうであれば女子であることが強みになるような職を選びたいと考えていて、まっさきにひらめいたのがみつば百貨店だったんです」
「本当かね」
 老紳士は驚きに目を丸くしている。
「はい。みつば百貨店では女性従業員を積極的に採用されていて、成績次第では昇進も望めると『月刊みつば』にも特集が組まれていましたので。じつはついさっき、一階の《萬御相談承り所》に突撃してきたところなんです。次年度の募集が始まるまで待つようにと、丁重にうながされてしまいましたが」
「それは大胆なお嬢さんだ」
「お恥ずかしいです」
 すげなくあしらわれたわけでもないだけに、未練は残るがしかたがない。これもめぐりあわせというものだろう。結果として見ず知らずの相手と、楽しいひとときをすごすこともできた。冷めかけの紅茶を飲みほして、わたしは居住まいを正した。
「ごちそうさまでした。いつかまた、銀座のどこかでお会いできるかもしれませんね」
 そろそろお暇をと腰をあげかけると、すかさずひきとめられた。
「お待ちなさい。そのまえにひとつだけ、お嬢さんにうかがいたいことがあるのだが」
「なんでしょう?」
 首をかしげたわたしに、つと品書きがさしだされる。
「ここに新しいメニュウを追加するとしたら、きみならどんな提案をするかな。大食堂の目玉になるような、斬新なひと皿ならなおよいのだが」
「そうですね
 老紳士は飲食業にでもたずさわっているのだろうか。ともあれ女学生の感性での意見が欲しいというのなら、協力するのはわけないことだ。
 わたしはあらためて品書きを手にするが、和洋ともに定番の料理はひととおり並んでいる。桜餅やかき氷のような季節限定の甘味もすでに供されていたはずだし、そもそもいずれのメニュウも魅力的で、毎度のように目移りしてしまうのが困りどころなのだ。
 とりわけ子どもにとっては難題だ。いつまでも注文を決められず、あげくに親に𠮟られる子もいれば、森山家の双子はそれぞれに望みの料理を頼んでおきながら、おたがいの皿に手をだそうとして、楽しいはずの外食がだいなしになりかけたこともある。
 選ぶことは諦めること。それでもせっかくの外食くらいは心残りもなしに、選べる喜びだけを味わってもらえないものだろうか。
 わたしははたと顔をあげた。
「笑顔の盛りあわせ」
「いまなんと?」
「子どものための特製のメニュウです。大食堂の魅力を満喫できるように、メニュウに載っている数種類の料理を一枚のお皿に彩りよく盛りつけてみてはどうでしょう?」
「折詰弁当のようにかい?」
「はい。量を加減すれば食べ残しを大人がかたづけることにもなりませんし、栄養が偏らないよう考慮すれば保護者にも歓迎されるはずです」
「なるほど」
「もちろん甘味も添えて。そうすれば悩みどころは、どこから口をつけるかだけですから」
「それは嬉しい悩みだろうね」
「お役にたちましたか?」
「もちろんだとも。文句なしの採用だ」
 言い放つなり、老紳士はすっくと立ちあがった。おもむろに脱いだ中折れ帽を、敬礼のように胸にあててみせる。
「喜んでお嬢さんをみつば百貨店にお迎えしよう」
お迎え?」
 わけがわからず、神々しいような禿頭をぽかんとみつめていたときだった。ひどく取り乱した青年が、テーブルを縫うようにこちらにかけつけてきた。そのあとにはこの席に案内してくれたボーイと、どういうわけか《萬御相談承り所》の木村さんまでもが続いている。
「会長! いたいけな女学生をたぶらかして、のんびり茶など楽しんでいるとは、いったいなにをお考えですか! 急に姿をくらまして、すわ誘拐でもされたものかと、こちらは肝を冷やしていたというのに!」 
「たわけたことを。これはれっきとした覆面調査と採用面接だ。しかし車椅子の目線でまわってみると、どこもかしこも配慮が足りなくていけない。すぐにも改善策を検討しなければな!」
 どうやらこの汗だくの青年こそが、老紳士とはぐれたお供らしい。だがどうにも状況を吞みこめずにいると、木村さんが隠密のような足取りで身を寄せてきた。
「ね。あなた会長に直談判したの?」
「なにをです?」
「あら本当に知らないのね」
 こそこそとやりとりしていると、老紳士がくるりとこちらをふりむいた。
「名乗るほどの者ではないが、名乗らせてもらおう。わたしはみつば百貨店の会長職を担うゆうすけだ」
「ええっ!?」
 わたしは今度こそ仰天せずにはいられなかった。
 日野友之助といえば、みつば百貨店をここまで育てあげた立役者として広く名をとどろかせる、大人物ではないか。
 つまり彼はあえて正体を隠したり、車椅子に乗ったりしながら店内外をつぶさに観察することで、気になる点を洗いだそうとしていたわけだ。
 必死に会長を捜していただろうお供の青年は、木村さんやボーイの目撃情報から居所を突きとめたのだろう。おそらくふたりは日野翁の容貌を知っていたために、とまどった表情を浮かべていたのだ。
「お忍びのめくらましに、孫娘のようなわたしは打ってつけだったわけですね
「たばかるような真似をしてすまなかった。しかしどうにもしょげた風情のお嬢さんを、道端に放っておくのもしのびなくてね」
 わたしははっとした。軽口めかしながらも、偽りなきいたわりのまなざしを向けられて、たちまち目の奥が熱くなる。
 なにもこの世の終わりというわけではない─そんなふうに考えさえすれば、どんな逆境でもへこたれずに乗りきれるつもりでいたが、それが頼りない紙風船のような支えにすぎないことを、あえて身語りをするまでもなく見抜かれていたようだ。
未熟者でして」
 日野会長は呵々かかと笑う。
「なんの。それどころか褒賞ものの妙案をあっさりひらめくとは、爺も歩けば逸材に当たるものだ。さっそくにも食堂部と打ちあわせるとしよう」
「ではその、採用面接というのは」
「そのつもりはなかったが、結果として大収穫だったということだな。わたしはみつば百貨店の会長として、お嬢さんが女学校での勉学を続けながら、この銀座本店の働き手となる道を提案したい。興味はあるかな?」
「それはもちろん。ですが─」
 すぐには信じがたく、わたしはくちごもった。もしも実現するなら願ったりかなったりだが、はたしてそんな二重生活がありえるのだろうか。
 ろんな表情の一同に、会長は不敵な笑みをかえした。
「なに。わたしにとっておきの考えがあるのだよ」


新案メニュウのご紹介
 すべての御子様に笑顔をお届け

 このたび銀座本店七階の大食堂にて、ご好評の洋食各種を盛りあわせた特製《御子様御膳》をご用意いたしました。

 コロッケ、サンドウィッチ、スパゲティ等々。加えてみつば富士のご登頂記念にかわいらしき小旗がお出迎えと、お味は本格ながらも目に楽しい魅惑の一皿。お飲みものと季節の甘味も添えまして、お手頃価格の三十銭にてご提供させていただきます。

 どうぞご家族様おそろいで、心浮きたつランチのひとときをおすごしくださいますよう、お願い申しあげます。



【つづく】

※『みつば百貨店おりおり便り』は、集英社の読書情報誌『青春と読書』で好評連載中です!