しあわせのパン(著:須賀しのぶ)

ディストピア飯小説賞によせて 特別書き下ろし短編

 パン工場は、二十四時間稼働している。
 厳選された素材から生み出された材料の計量から始まり、生地がこねられて等分され、成形される。
 明るい光の中、常に(ごう)(おん)鳴り響くこの巨大な工場を、ヒューは心から愛していた。常に清潔で、賑やかで、厳然たる秩序がある。なによりこの工場ひとつで、約十万の国民全ての食をまかなっているのだ。その誇りが、工場で働く者たちの顔を輝かせている。巨大な機械たちも、きっと同じ。無機物とて、(いつく)しみ大切に扱い続ければ心は宿るのだ。
 ヒューは、この工場の全てを愛していた。生地をこねる機械の轟音も、監督する人間たちも、そしてできたてのパンの甘い香りも。
 ここでつくられるのは、『しあわせのパン』だ。国民の肉体を健やかに育み、維持するための要素が過不足なく入っている。別工場で生産されるお茶も大切だが、やはり食の根幹を成すのはこのパンだ。このパンこそが、民を守っている。
 健全な肉体には健全な精神が宿る。ヴィチノの国民は皆、心も健やかだった。犯罪など存在しない。心やさしく、勤勉で、笑顔が絶えない。そこかしこで楽しそうな笑い声が響き、歌声が聞こえる。
 かつてここが流刑地だったと誰が信じるだろう。毒素が強く枯れた土壌に育つ植物は極端に少なく、常に食べ物を巡って争いが起きていたのは、遠い過去のことだ。
 この国は美しい。そしてこの美しさを支えているこのパン工場こそが、最も美しい。これほど美しい場所に身をおく幸せを、ヒューは今日も()みしめる。漂う甘い香りに包まれキッチンに向かえば、あと十分で正午だ。「管理官は時間に厳しいから一分のズレもダメ」と先輩秘書のミミアに念を押された通り、時間ぴったりになるよう準備を済ませ、部屋へと向かう。
「ああ、ヒュー。ごくろうさまです」
 いつものごとく書類仕事に忙殺されていた初老の紳士は、手を止めて微笑(ほほえ)んだ。名はあるのかもしれないが、誰も知らない。彼はただ「管理官02」と呼ばれていた。管理官についてヒューが知っているのは、彼が人間ではないということぐらいだ。
「お疲れ様です。昼食をお持ちしました」
 メニューは毎日同じ、パンとお茶。それだけだ。昼食だけではない。ヴィチノでは一日二食いずれも同じ。年齢ごとに大きさに違いはあるものの、それで充分腹は膨れる。02は短く礼を述べ、食べ始めた。まずお茶を一口飲み、それからしあわせのパンをちぎって運ぶ。黙々と繰り返す様を、ヒューはじっと見守っていた。
 食事時は、(しゃべ)ってはいけない。しっかり嚙んで、食べることに集中しなければならない。それは最も重要な生命活動である。
 ヴィチノでは誰もが知る作法だ。他の星では、複数人で食卓を囲み、喋りながら食べ進める習慣もあるという。実際に映像で見て目を疑った。なんと非合理的なのかと思った。時間も手間もかかる。食に感謝するためにも、しっかり嚙みしめて食べるべきなのに。歓談は、食後に好きなだけすればよい。なにより、笑い喋りながら食べる様は、とうてい美しいとは思えなかった。
 それに比べ、管理官の姿のなんとすがすがしいことか。背筋をぴんと伸ばし、パンをしっかり嚙んで味わい、茶を上品に(すす)る。十分程度の食事を締めくくるのは、『しあわせのしずく』だ。ヴィチノ花からつくられたこの甘いお茶は、心を穏やかにしてくれる。管理官02はカップの中身をゆっくりと飲み干すと小さく息をつき、ヒューに目を向けた。
「何度も言っていますが、待っていなくていいのですよ。退屈でしょう」
「ご迷惑でなければどうかこのままで。私の一番の楽しみなのです」
 ヒューはポットを手に進み出て、白いカップにおかわりを注いだ。お茶だけの時は、喋ることは禁じられていない。ヴィチノ花の甘い香りがあたりに漂った。
「何が楽しいのかわかりませんがまああなたがいいなら。食事は済ませましたか?」
「この後いただきます」
「ふむ、そうですか。仕事は慣れましたか? 四肢(しし)の稼働に問題は?」
 これも毎日繰り返される質問だ。
「はい、おかげさまで」
「実に結構。ミミアも褒めていましたよ。一度言ったことは完璧に覚えていて、作業も正確だと。それに力も強くて助かると言っていました」
「それは私の生体義肢が優秀なだけです。管理官には感謝しております」
「脳はほとんどいじっていませんよ。覚えがいいのは、ヒューネの資質です」
「それは、しあわせのパンのおかげでしょう。やはり管理官の恩恵あってこそ」
「はは、あなたはいつも感謝してくれて(うれ)しいですが、(けん)(そん)ばかりは感心しませんよ。与えられたものをどう使うかは、本人しだい
 管理官の言葉が不自然に途切れた。突然響いた大きな音にかき消されたのだ。同時に部屋が大きく揺れ、ヒューは身構えた。
「なんの音でしょうか」
「さて。何かあれば報告が来るでしょう」
 管理官は眉ひとつ動かす様子はない。が、さきほどより大きな音が響き渡った。破壊と悲鳴だ。ただごとではない。危険があれば、必ず管理官を守らねば。
「管理官! ヒュー! 大変です!」
 扉のむこうで切羽詰まった声がした。ミミアの声だ。管理官が(うなず)くのを確認し、ヒューは扉を開けた。息を()む。転がりこんできたのは、(すさ)まじい形相のミミアだった。
「C区画で突然、暴動が発生しました! みな武器をもっています、すぐ逃げ
 ミミアは最後まで言うことができなかった。鈍い音が響き、細い体が崩れ落ちる。プラチナ色の髪を濡らし、床に広がる血をヒューは(ぼう)(ぜん)と見つめた。ミミアを殴ったのは、よく見知った男だった。この工場に昔からいる、ベテランの社員テミルだ。人望厚く、半年前にヒューが工場にやって来た時もよく面倒を見てくれた。だが、目を血走らせた彼はまるきり別人のようだった。
(あく)(らつ)非道の独裁者め。これ以上、貴様たちの好きにはさせん。我々は目覚めたのだ!」
 銃口が管理官に向けられた。ヒューはとっさに管理官を(かば)うように前に出た。かまわず男たちは叫ぶ。同時に銃声が(とどろ)いた。
「人類は自由なのだ!」

        *

 飾り(だん)()の上に、大きな肖像画が飾られている。鮮やかな黄色のツーピースに、きれいに整えられたプラチナの髪。美しいは美しいが、それよりも先に眼光の鋭さに意識が向く造作だ。()った額縁の下には、『マダム・ミミ』と表記があった。この客間に入ると真っ先に目につく場所だ。自分の肖像画を最も目立つ場所に飾るセンスはヒューには理解できないが、マダム・ミミはそういう人間ではある。生き馬の目を抜くこの世界で、亡国の移民が一代で成功しようと思えば、それぐらいの(たん)(りょく)やら自己(けん)()欲やらは必要なのだろう。この見せつけるような豪華な内装も何もかも、おそらくヒューが普段身を置いている戦場と変わらない。ここにあるもの全てがマダム・ミミの武器なのだ。
 ひとしきり肖像画を眺めた後、ヒューは近くの()()に座り、(ふところ)から茶葉スティックを取りだした。さきほどメイドが()れたお茶は口もつけぬまま冷めている。招待主が現れたのは、いかにも上等な皿に灰がうずたかく積もったころだった。
「待たせたね。おやま、相変わらずそんな化石を吸っているのか」
 ハイヒールの足音とともに(ごう)(しゃ)な応接室に現れた姿は、肖像画とそっくり同じ。服はインタビュー時と同じイエローだが、デザインが違う。マダム・ミミといえばイエローだ。
 美食の女王マダム・ミミ。その名を知らぬ者はいない。同じ名を冠するレストランは、この星はもとより、各居住コロニーにも展開している。
『私は、この国に来るまで食事に多彩な味と幸福があるなんて考えたこともなかった。大切な人たちと、美味(おい)しい食卓を囲むそれが私が夢見た幸せなんだ』
 彼女はしばしばそう語り、夢を叶えるために馬車馬のごとく働いた。悪逆な独裁国家に生まれ落ち、亡命した後は不断の努力と感性、そして()(ぼう)と社交術でスターダムにのし上がった彼女の半生は、最近エレメンタリースクールの教科書にも載ったらしい。たいしたものだとは思う。
「人を呼びつけておいて待たせるとは」
「悪かったよ、商談がなかなかまとまらなくてね。ふむ、また何も食べていないのか」
 マダムはテーブルの上の菓子やフルーツの山を見て眉をひそめた。
「私は水とエナジーバー、それとこいつ(スティック)以外は口にしない。知っているだろう」
「〝食事を娯楽としてはならない〟」
 (おごそ)かに言って、マダムはフルーツのひとつを手に取った。
「やっぱり何食べても味しないわけ?」
「ああ」
「じゃあそのスティックは?」
「味はない。呼吸みたいなものだ」
「なるほどね。あ、じゃあさ、これ試してみない?」
 マダムは手にした毒々しい色の果実を突き出した。
「初めて発見したやつ。フィウノの森の、うんと高い場所にある()(しょう)な実だ。三年に一度しか花が咲かないんだよ。色は(すご)いけど美味しいんだ。もいでから数日おかないと腹下すけど」
 フィウノといえば、この星からは最低でも片道二ヶ月はかかる。辺境の惑星だ。相変わらず、未知の食材を求めて駆け回っているらしい。彼女の食への執念は、異常だ。
 彼女が二十二歳まで生活していた極小惑星国家では、食べ物は一種類しかなかった。『しあわせのパン』と呼ばれる、完全食だ。来る日も来る日も同じパンを食べ続けた反動かもしれない。
「味がわかるやつにくれてやれ。店に出したらどうだ」
「店に出すほどとれないんだよ」
 稀少だという果実を、マダムは無造作に(かじ)った。途端に幸せそうに(ほお)が緩む。
「甘味と酸味のバランスが最高。フィウノの熱帯雨林で感じる風みたいな味だ。試してみない? これなら味を感じるかもよ」
「結構だ。用件を話せ」
「傭兵はせっかちでいけないねえ。十年ぶりじゃないか」
「こっちは貴重な休みを潰されたんだが」
「せっかくなら観光でもしたら。この街、なんでもあるよ」
「そんな時間があるなら訓練でもしたほうがマシだ」
「その(とし)でまだ頑張るのかい? 自己修復もそろそろ限界じゃないの」
 マダムの目は(あわ)れむようにヒューの全身を見回した。一見したところ、年齢も性別も不明な若者だ。数度の再生手術を受けたマダムも実年齢よりはるかに若く見えるが、そういうレベルではない。ヒューは歳を取らない。ヴィチノが巨大なスラムだったころ(ひん)()の重傷を負い、管理官に命を救われた。その時に脳と一部内臓をのぞき、管理官が製作した生体義肢に()げ替えられている。いつまでも若々しい外見を保ち、たいていの傷も消えてしまうはずが、唯一あらわな顔には大きな傷が残っていた。
「この傷はわざと残している。見た目が若いと()められるんでね」
「そういうことにしておこう。何度も言ってるけど、うちに来たらいいのに。大事にするよ」
「人間に仕えるのはごめんだ。戦場は同類が多くて気楽でね」
「仕えろなんて言ってないんだけどねえ。友だちだろう」
 ヒューの反応はない。マダムは苦笑し、(こぶし)より大きな果実を皮ごとぺろりと平らげた。手を拭き、ヒューの正面に腰を下ろすと、長い(あし)を見せつけるように組んだ。
「まあでも、久しぶりに会えて嬉しいよ。ゆっくり食事しながらいろいろ話せたらと思ったんだけど」
「非合理的だな」
 ヒューはそっけなく言った。
『幸福な生活とは、まず食事からつくられる。ただし、食事を娯楽として楽しんではならない』
 故郷で常々言われていたことだ。
 かの国における食事とは、肉体が必要とする栄養素を適時適量に摂取することに他ならなかった。味を楽しむようになると、人は()(こう)に逆らえず、(かたよ)りが生じ、徐々に心身を損ねていく。不健康は必ず精神を乱し、いらぬ不和を引き起こす。肉体をベストな状態で維持するこの根源的な部分を、欲望に負けて(おろそ)かにしたからこそ、人類の発展は頭打ちになってしまった。管理官はそう判断した。だからこそ我々は、ここを克服し、完璧に健全な肉体を手に入れ、真実のしあわせを手に入れる。そう教えられてきた。
「いまだにヴィチノの教えに忠実とは恐れ入るよ。あれは単に、ヴィチノで他に食べるものがないことを誤魔化すためのお題目だろう」
「そもそも私におまえたちと同じ味覚を要求するな。それより用件をさっさと言え、マダム・ミミ」
 マダムは虹色に塗った唇を(とが)らせた。
「そろそろミミアって呼んでくれない? ヒューにマダムと言われると背中がぞわぞわするよ」
「ミミアの名は捨てたはずでは? ヴィチノ風の響きが不快だからと」
「そう言われて封印していた時もあったけど、今は誰も私に文句なんか言わないさ」
 ヴィチノ。五十年前まで存在した、特異な小惑星国家である。
 元流刑地に(とつ)(じょ)降り立った五体の生命体「管理官」と呼ばれる者たちがつくりあげた都市国家は、あまりにも(へき)()にあったこともあり、長らく表に知られることはなかった。その実態が(おおやけ)になったのは、内乱で国が崩壊し、星間連合政府の調査隊が入ってからだ。
 管理官たちは全員殺され、見せしめに吊るされていたが、その死体を調べたところ、脳をはじめ各所に見たこともない変容が認められたという。「人体に寄生した外部の知的生命体の可能性が高い」と発表されてからは大変な騒ぎになった。異星人による実験施設だの、人類支配の(せん)(ぺい)としてヴィチノ人が育成されたという(うわさ)が乱れとび、最初は同情されていた亡命者が(つま)(はじ)きにされるのに、そう時間はかからなかった。だがそれすら踏みつけ、ミミアは君臨している。
「食事は(あきら)めるけど、お茶ぐらいはいいだろう? お茶とお喋りはヴィチノでも禁じられてなかったんだし。昔、仕事の帰りにうちでよくお茶したね。覚えてるかい」
 ミミアがベルを鳴らすと、待っていたかのように扉が開き、執事がティーセットを運んできた。だいぶ年老いてはいるが、その顔は忘れない。五十年前、パン工場で(はん)(らん)を起こした男だ。ミミアを殴り倒し、そして管理官に銃口を向けた。無数の弾丸は、とっさに立ちはだかったヒューの体を貫通し、そのひとつが管理官02の頭に命中した。(はち)の巣になったはずなのに生き延びてしまった自分も信じがたいが、この男をずっとそばに置いているミミアの神経はもっと理解できなかった。
『あれは起きるべくして起きたもので、誰か一人が悪いという話じゃない。それでも、これが彼なりの(しょく)(ざい)なんだろう』
 なぜと問うたヒューに、ミミアは一度だけそう言った。実際、執事は非常に献身的だったが、ヒューはどうしても彼が許せなかった。早々にミミアのもとから離れ、傭兵となったのは、この男のせいでもある。そうでもしなければ、このありあまる力をもってテミルを破壊し尽くしたいという衝動に勝てなかったからだ。
 しかし年月というものは偉大なものだ。今はこの顔を見ても、体が燃え立つようなあの怒りは感じない。ただ、ずいぶん歳を取ったなと思う。懐かしいとすら感じる自分に驚いた。
「いくつになったんだ、テミル」
 声をかけたのは、気まぐれだった。今日までは目が合おうが全くいないものとして振る舞ってきただけに、相手も驚いたようだった。一度うかがうようにミミアを見て、彼女が頷くと一礼し、「この春で七十八になりました」と答えた。
「そうか。元気そうで何よりだ」
「五年前に再生手術を受けたおかげです。ヒューネ様も、お変わりなく」
 (いん)(ぎん)なテミルの表情からは、なんの感情も読み取れなかった。よく訓練された執事だ。
慣れた様子で茶を淹れると、テミルは音もなくさがっていった。
「珍しいこともあるものだ。ヒューも丸くなったな。いや、単に老紳士ってやつに弱いだけかな? 02も見た目はそうだったから」
 からかう声を聞き流し、薬草のような香りを漂わせる茶を(のど)に流し込む。途端に眉根が寄った。
「ミミア、これは」
 思わず昔ながらの名前を口にしたヒューに、ミミアは悪戯(いたずら)が成功した子どものような顔で笑った。
「わかる?」
『しあわせのしずく』じゃないか」
「そうだよ。せっかく旧友が来るんだ、故郷の味をお出ししたくてね」
 ヒューは顔をしかめて、カップをソーサーに戻した。悪趣味だ。しあわせのしずく。ふざけた名前のお茶は、かつてヴィチノで日常的に飲まれていた飲料だ。ヴィチノで開発された薬草を主材料としたもので、現在では栽培が禁じられている。
「なぜこんなものが。ヴィチノのものに手を出せば捕まるだろうが」
「コロニー∑(シグマ)で流行しているんだよ。もちろん非合法だけど。リラックス効果がある、幸せになるお茶だってさ」
 しあわせのしずくは、怒りや悲しみといった負の感情を抑制する。人間性の否定だと憤激したテミルたちによって、畑も工場も徹底的に破壊されたはずだ。
「コロニーΣたしかヴィチノの亡命者が最も多かったな」
「そ。まあこういうのは、ヴィチノの外でこそ必要だろうからねえ。禁じられても手を出すやつはいるさ」
 ミミアは皮肉げに目を細め、お茶を口に運んだ。細い喉が上下に動く。たしかに必要とする人間は多いだろう。ミミアに必要とは思えないが。
「とはいえΣのものは、ヴィチノ花は使用しているものの粗悪品でね。ヴィチノ花を香り高く育てるのは難しい。それで苗を(おど)いや譲ってもらって、うちの畑で育てたんだ」
「いま脅してと言ったか」
「気のせい気のせい。まあ茶葉は立派に育ったけど、ブレンドがまた至難の業でね。なにしろ味は記憶にあるだけだ。ここに来るまで二年近くかかった。だから感想を聞きたいんだよ」
素材、配合、しあわせのしずくと全て同じだな」
 ヒューの返答に、ミミアは頰を緩めた。
「よかった。ヒューが言うなら間違いないね。美味しくない? 当時は味がよくわからなかったけど」
「だから私に味を()くな。素材と配合の分析はできるが、美味(うま)いかどうかはわからない」
「それじゃ困るなあ。次はしあわせのパンをつくろうと思っているのに」
 ヒューの()(けん)(しわ)が寄る。
「正気か?」
「もちろん」
 ヴィチノを出てから、ミミアは「味」に執着した。何かに取り()かれたように食材を買いあさっては料理をし、仲間たちに振る舞った。寄る()ない亡命者たちにとって、月に一度の食事会は貴重な情報交換の場でもあり、不満を晴らす大事な時間であったとは思う。しかしヒューにとっては苦痛以外のなにものでもなかった。味はしないし、ぺちゃくちゃ喋りながら食事をする光景は耐えがたかった。ヒューが傭兵として世界を転々とするうちに、ミミアは店をもち、さらに新しい食材を求めて世界を飛び回り、気がつけば『マダム・ミミ』は巨大企業に成長していた。
 味のない世界で生まれ育った人間が、世界を魅了する味をつくる。なかなか皮肉がきいていて悪くはない。だが、しあわせのパンを食べたいなどと一度も聞いたことはなかった。
「世間に知られたら大問題だ」
「もちろん表に出す気はないよ。ただ、認めるのは悔しいが、今あれ以上のパーフェクトフードは存在しない。私たち全員、昔は不気味なぐらい健康でスタイルもよかったじゃないか?」
「いまさらダイエットに興味が?」
「必要ないよ。いいかい、ヴィチノが崩壊してから、まだ誰もあのパンを再現できていないんだ。料理人として最高で最後のチャレンジってやつさ。それに、今の自分の味覚で、あのパンを改めて味わってみたいじゃないか」
 ミミアの目が(らん)(らん)と輝く。ヒューはため息をついた。こういう顔をした時は、もう何を言っても無駄だ。
「ならまずはヴィチノ(むぎ)を手に入れることだな。花の苗があるなら、どうせヴィチノ麦も開発されたんだろう?」
「まあね。でも、ヴィチノ花はコロニーでもうちでも育てられたけど、麦はヴィチノの土壌でなければどうしても無理なんだってさ。あんな毒素満載の、不毛の土地でなければね。不思議だよねえ。それで五年前にあの星を某軍事企業が買い取って、秘密裏に栽培してるらしいんだけども」
 なるほど、自分が呼ばれた理由はわかった。しかしヒューは素知らぬふりで、茶を口に運んだ。花の香りは(めい)(てい)を誘う。胸に湧き上がった(いら)()ちを穏やかに鎮めてくれるようだ。
「なら、麦の調達はそこに頼めばいいだろう」
「そんなことしたら、パンづくりに強制参加だよ。今まで『しあわせのパン』をつくれって依頼、さんざん来たんだから」
「企業と組んだほうが、やりやすいんじゃないか?」
「私は自分のために再現したいだけだ。軍で量産なんて冗談じゃないよ。何に使われるかなんて、わかりきっているんだから」
 射貫く視線に、ヒューはカップをソーサーに戻した。マダム・ミミ。ほしいものは必ず手に入れてきた女。
「では、(ほう)(しゅう)の相談に入ろう」
 つとめて事務的に応じると、ミミアの頰がほころんだ。
「ありがとう、ヒュー。きみならやってくれると思ってた」
 その一瞬だけ、〝マダム・ミミ〟の仮面が剝がれ、快活なミミアが現れたように感じた。


 この星は、ほぼ死んでいる。いや、もともと死んでいたのだ。
 目につくのは灰色の巨大な壁ばかりで、街路樹ひとつない。同じく灰色の道で時折会うのは運送ロボットだけだ。空気は(ほこり)っぽく、異臭がする。ヒューはフードを()(ぶか)に被り、マスクを鼻の上まで引き上げた。
 かつては美しい街だった。中央には天をも()くような虹色の塔が立ち、そこから放射線状に伸びた広い道は清潔で、大きな街路樹が並んでいた。人々はみな自宅の窓に花を飾り、おかげで街はいつも華やかだった。商業区はあらゆる娯楽に満ち、街はずれには大きな森や湖もあり、休日はいつも人で溢れていた。あの不毛の土地にどうやって森などつくったのか。今となれば、夢としか思えない。離れてつくづく感じる。管理官たちの知識と技術は、人から見ればほぼ神のみわざだ。
 ヒューが歩くのは、かつて毎日通っていた道だ。このまままっすぐ行けば、パン工場に突き当たる。ヒューの勤務先だった。道を中程まで進み、ある巨大な建物の前で足を止める。今は無味乾燥な工場のひとつだが、もとは集合住宅のひとつだった。その二階、左から三番目の窓。開け放たれた窓辺には、いつも黄色の花が飾られていた。
『ヒュー、おはよう! 待ってて、すぐ行く』
 窓から身を乗り出して笑うミミアが見えるようだ。すぐ行く、との言葉通り、ミミアは数分で降りてきて、一緒に工場へ向かった。ヴィチノは安全で、誰も鍵など掛けずに出かけたものだ。帰りにもよく部屋に立ち寄った。その時はきまって、しあわせのしずくを淹れてくれた。どれも同じ味なはずなのに、ミミアが淹れるとより香り高く、甘く感じるのが不思議だった。
 管理官02の端然とした食事姿を見るのも好きだったが、ミミアとお茶を飲みながら喋るのもヒューにとって大事な時間だった。稼働して間もないヒューの教育係でもあった彼女は、そのくるくる変わる表情で、人とはどういうものかをよく見せてくれた。彼女はいつも(ほが)らかだった。もっともミミアにかぎったことではない。負の感情を抑制された人々はたいてい笑っていた。小競り合いがあっても、怒りが長続きせず、最後はなぜ(けん)()をしたのかも忘れて握手を交わすのだ。
 しかし幸福な日々は突然、崩れ落ちた。原因はいまだ不明だが、しあわせのしずくの抑制効果が効かない人々が現れたらしい。感情の一部を抑えられていたと知った人々は激怒し、はじめて知る(ふん)()は彼らをたやすく暴走させ、人間の自由意志を奪った管理官たちへの叛逆に至るまでそう時間はかからなかった。しかしヒューは、Xデイが来るまで全く気づいていなかった。管理官02の護衛兼秘書として雇われたのに、何もできぬまま目の前で02は殺され、ミミアは殴られた。ヒューも抵抗をやめるまでずいぶんと痛めつけられた。そして人を支配する「しあわせ」の元は全て焼き払われ、国民はみな他国によって救い出された。
 その後、星間連合政府によってヴィチノが封鎖されたまま数十年が過ぎた。ヴィチノの土壌はそもそも人体にとって有害らしい。某国営企業が(かん)(ごく)兼工場用として買い取ったのが五年前。皮肉にもヴィチノは、もともとの用途に戻ったわけだ。この延々と続く壁のむこうには、終身刑の囚人ばかりだ。資源なし、他の星との距離を考えれば、それぐらいしか使い道はないだろう。あの国が異例だったのだ。
 ただ自分の足音だけが響く道を、どれほど歩いたことだろう。監獄の正門前に立ち、左手に埋め込まれた人工宝石でスキャンすると、センサーが作動し、ヒューの全身をくまなく探る。
『キー・ホンク。傭兵ギルド・ホンク登録No.A0003。生年月日
 機械音が(たん)(たん)と読みとった情報を読み上げる。ヒューはただ両手を広げ、突っ立っていた。武器は携帯していない。どうせ取り上げられるし、無事入団すれば支給される。 
「確認終了。オールグリーン。どうぞ」
 今度は人の声が聞こえ、門が開いた。見た目の重々しさからは想像もつかぬ、滑らかな動きだった。武装した兵士が二人進み出て、敬礼する。
「名高いホンク殿とお会いできて光栄です」
 ざっと全身を見たところ、第七世代の普及版ヒューマノイド。生体部分は最小限で頑丈さを優先している。見た目は人間とまるで区別がつかないヒューとは明確に違う。大気も土壌も人体に有害と言われるヴィチノでは、ヒューマノイドが優先的に送られているらしかった。しかし監獄にいるのは人間だ。
「名高いのか、私は」
「傭兵でその名を知らぬ者はいないでしょう。ですが驚きました。このような所においでになるとは思わず」
 言いたいことはわかる。ここでの仕事は、働かされている囚人たちの監視だ。危険は少ないが、報酬も低い。一流の傭兵が志願するような仕事ではなかった。
「私もあちこちガタがきているのでね。お手柔らかに頼むよ」
「とんでもない。伝説の傭兵から教えを請える貴重な機会だと、皆とても楽しみにしているのです」
「その呼び方は恥ずかしいな。まずは新しい職場を、ひととおり案内してもらってもいいかい」
「もちろんです」
 兵士は先に立って歩き出した。灰色の廊下、灰色の兵士。(ひと)()はないが、無数の視線を感じる。灰色のカメラ。囚人たちは労働中らしく、監房エリアはほぼ無人だった。一見すると清潔だが異臭がする。こんな僻地の監獄におしこめられた囚人の境遇に興味をもつ者などいないだろう。ヴィチノもそんなふうに、捨て置かれていた。だからこそ、あの奇跡の箱庭は何十年も続いたのだ。
 突然、視界が開けた。薄暗がりに慣れた目に、金色の光が降り注ぐ。いくつもの扉と永遠に続くかのような廊下を抜けた先は、一面の麦畑だった。人工太陽のもと揺れる麦の穂が、黄金の波をつくりだしている。
「美しい」
 ヒューはつぶやいた。
「我々が守るのは、この麦畑です」
「なにか特別なものなのか」
「極秘で開発された、特殊な麦です。不思議なことに、これほど汚染された土壌で育ったにもかかわらず、普通の大麦よりもきわめて栄養価が高い。奇跡の食材として、注目されはじめているのです」
 兵士は誇らしげに説明した。極秘で開発されたとは片腹痛い。五十年前の遺物を()(まなこ)になって復活させただけではないか。そもそもヴィチノ麦の栄養価が高いのは事実だが、毒素も強く、このままでは食べられたものではない。「しあわせのパン」は、見た目こそ硬いパンだが、きわめて複雑な配合と過程を()て管理官02が完成させた完全食だ。まさに人類が「しあわせ」になるために生み出されたもの。今となってはお(とぎ)(ばなし)。そんな夢のごときパンが量産できたとしたら、各地の食糧問題は解決するだろう。ヴィチノが崩壊し、その生活が明らかになるにつれ、食料と飲料が一種ずつのみという非人間的な生活に非難が集中したが、その一方で研究は盛んに行われたという。
 しあわせのしずく、しあわせのパン。従順で(かっ)(たつ)で、はちきれんばかりに健康な人間を作り出す(えさ)
 しかしミミアの言う通り、最も重要な「しあわせのパン」を再現できたものはいない。人には複雑すぎて無理かもしれない、と管理官02も(こぼ)していた。もし可能性があるとしたら、ミミアだろう。彼女は管理官02の秘書だった。多少の知識はあるかもしれない。
 一面の麦畑では、囚人たちが収穫に励んでいる。何かあればいつでも消せる連中をかき集めたのだろう。にもかかわらず、囚人たちはみな笑顔だった。いずれも全身に入れ(ずみ)だのつぎはぎだの、なんだよくわからない動物とのキメラ化など、風体は様々だったが、表情は同じだった。てきぱきと働き、汗を流している。しあわせのしずくは、ここではすでに日常に使用されているらしい。
 よく見た光景だ。ヴィチノでも皆、こんな顔をしていた。だがヴィチノを離れてからは、ちっとも幸せそうではなかった。失望し、いつもいらいらして、争いあい、みじめに死んでいった。かつて笑みが浮かんでいた顔は、苦悩の皺が刻まれていた。あんなによく笑っていたミミアだって、変わってしまった。世界中を飛び回り、自分の欠落を埋めるように味を求め、食べ続け、そしてその成果を人に認めてもらいたがった。
 彼らが求めた幸せとはなんだろう。ヒューにはわからない。自分が人間のままだったら、理解できたのだろうか。
「良い職場だな」
 ヒューは右手を前に伸ばした。黄金の麦畑に憧れるように、まっすぐと。この手は、管理官02が作ってくれた。生まれた時についていた腕は()()で腐り落ちてしまったから、うんと強化した素晴らしい腕をくれた。腕だけではない。ヒューを構成するほとんどが、管理官の(えい)()を注ぎ込んだ生体義肢。いわば、あのパンと同じ。
 人間たちは、しあわせのしずくは再現できた。ではパンは? 管理官がつくりあげた神のごときレシピに、人類はいずれ到達するだろうか。
 するかもしれない。(どん)(よく)な彼らなら。
「はい。囚人たちも非常に従順ですし、飯も悪くありません。娯楽がほとんどないのは玉に(きず)ですが」
「そんなもの、必要ないさ」
 ヒューは麦畑に背を向けた。ヴィチノでは食以外の娯楽はたいていあった。それでも人々は怒りを抑えられなかった。
 なにも必要ない。自分がすべきことをするだけだった。ずっとそうして生きてきたように。

 ミミアに再び呼び出されたのは、二年後の秋だった。
 ヒューがヴィチノの工場にいたのは半年ほどで、帰還の際には小麦を大量に持ち出したが、パン製作は案の定だいぶ難航したらしく、それから一年以上時間がかかった。
 呼びつけられた先は、以前の邸宅ではなかった。驚いたことに、ヒューがヴィチノに向かった直後にミミアは表舞台から身を退いた。存分にパンづくりに打ち込むためか、わざわざ私有地の森に家を建てたらしい。相変わらず行動力の(かたまり)のような人間だ。
 森には人っ子ひとりいない。しかし凄まじいセキュリティが張り巡らされていることはわかる。歩いているだけで、ヴィチノのあの工場のように全身くまなくチェックされているのを感じた。ヒューが自由に進めるのは、ミミアに許可されたからだ。
 以前の邸宅の十分の一ほどの家でヒューをまず出迎えたのは、テミルだった。
「いらっしゃいませ。マダムがお待ちです」
 無表情の執事は、なめらかな動きでヒューのコートと荷物を受け取り、案内に立つ。この家の生体反応は二つだけ。家主のミミアは、テミル以外の使用人を入れていないようだった。
「やあ、久しぶりだね」
 観葉植物だらけの部屋で出迎えたミミアは、二年前とはまるで別人だった。服もトレードマークのイエローではなくあっさりした()()りのワンピースで、白いエプロンをつけていた。ミミアの素顔を見たのは何十年ぶりだろう。もう再生手術は受けていないのか、笑うと肌にはいくつも皺が寄った。
本当に、久しぶりだ」
「あはは、そうまじまじ見ないでおくれ。恥ずかしい。私なんてね、テミル以外の人間に会うのが久しぶりなんだ。パンづくりに集中するために、ここには家族も近寄らせなかったから」
「相変わらず極端だ」
「それぐらい集中しないと、夢なんて叶わないものさ。さ、座って」
 勧められた()(ぼく)な椅子には、お手製とおぼしきクッションが載っていた。この()()(がく)模様は、ヴィチノでよく見たものだ。部屋の内装は簡素で、絵のひとつも飾られていなかったが、かわりに溢れんばかりの花と緑が彩りを添えていた。
「パンの完成まで二年。結構かかってしまったね」
「むしろずいぶん早いほうじゃないか」
「私は天才マダム・ミミだよ? 本当は一年ぐらいでいけると思っていたんだ。なのに、ヒューがヴィチノ麦をけちるもんだから。試作も慎重に進めるしかなかったんだよ」
 悪戯っぽい視線に、ヒューは(じゅう)(めん)をつくった。
「けちったわけじゃない。畑が焼けてしまったんだから仕方ないだろう」
「ほんとにね。また暴動なんてツイてない」
 ミミアは嘆息した。去年の夏、ヴィチノの工場では囚人とヒューマノイドたちが結託し、大暴動が起きた。麦畑は再び焼け落ちた。ごく近くにあった茶畑も、なにもかも。ヒューがヴィチノの工場に着任して、ちょうど半年が経った日だった。あの美しい黄金の麦畑が赤黒い(ほのお)に呑み込まれていく様を、ヒューは黙って眺めていた。
 もう二度と、あの星を買収しようなどという企業は現れないだろう。あの汚染された土壌は、どんな生物も、それこそヒューマノイドすら侵食し、危険な破壊衝動を呼び覚ます。たとえ「しあわせのしずく」で抑えつけようと、耐性がついてしまえば終わり。二度も危険性が証明されれば、もう手を出すものはいないはずだ。ヴィチノは再び眠りにつく。つかのまの楽園の記憶を抱いたまま。
 キッチンから懐かしい香りが漂ってくる。焼きたてのパンの、香ばしさ。胸が締め付けられる。ああ、この香り。あの美しいパン工場に毎日当たり前のようにあったもの。
 テミルがお茶を、そしてミミアがパンを運んできた。(かご)の中にあるのは、まぎれもなく「しあわせのパン」だった。
「すごいな」
 心の底からの賞賛だった。見た目も香りも、全てが記憶のままだ。ヴィチノで見かけた、似ても似つかない試作品とは違う。
「お褒めの言葉は、食べてからどうぞ」
 (うなが)され、まずはお茶を口に運ぶ。以前の通り、ふわりと心が軽くなる。そして次はいよいよパンだ。籠から皿に移し、丁寧にちぎる。エナジーバー以外の固形物は久しぶりで、我知らず指が震えていた。口に運び、ゆっくりと嚙めば、じんわりと味が(にじ)み出る。舌に広がる記憶に、鼻の奥がつんとした。
 間違いない。これは、しあわせのパンだ。
 五十年以上前、繰り返し食べていたもの。
 ヒューは夢中でパンを食べた。脇目も振らず、一心に。こんなふうに何かを食べるなど、いつぶりだろう。ヴィチノを出てからというもの、何を食べても味がしなかった。
 夢中でパンを食べるヒューを見て、ミミアは口を開いた。が、何も言わなかった。食事の間は喋ってはならない。ヒューがいまだ守り続ける故郷の流儀を尊重し、自身もただ静かにパンを口に運んだ。
「どうだった?」
 ヒューがパンを平らげるのを待って、ミミアは訊いた。テミルがお茶のおかわりを注ぐ。がっついた自覚のあるヒューはわずかに頰を赤らめた。
「間違いなく、しあわせのパンだ」
「よかった。ヒューが言うなら、確かだね」
「ああ、美味しかった」
 自然と言葉が出て驚いた。美味しい。たしかに自分はそう感じた。味覚はないはずなのに。
「美味しい、か」
 嚙みしめるようにつぶやいたミミアから、ヒューは恥ずかしげに目を()らした。
おかしなことを言うと思っているな」
「いや。味覚ってのは記憶と密接に結びついているものだから。しあわせな記憶は、美味しいのさ」
 ヒューは自分の腹をそっと(さす)った。ここに、しあわせがある。ずっと昔に失って、ただ後悔と(せき)(りょう)だけが漂っていたこの場所に。
「そうか。パンはまだあるのか?」
「いや、それが最後。ほんと難しくてね、完成品がこれだけ。レシピは完成したけど、(かん)(じん)のヴィチノ麦がもう存在しないし」
「なるほど。これは、少々早まったかな」
 後悔を滲ませた声に、ミミアは笑った。
「何が? 暴動を主導して畑を焼いたこと?」
 ヒューは黙って肩を(すく)めた。お見通しのようだ。
 再びヴィチノを訪れ、あの美しい麦畑を見て確信した。人類に、あれは不要だ。いつかもし、あの地で再びしあわせのパンが誕生したとしても、それは破滅にしか(つな)がらない。しあわせのしずくがすでに悪しき使われかたをしているように。だから半年かけて準備をし、全てを消した。
「まあな。しかし、限られた麦でよくつくりあげたものだ」
 約束なのでミミアに送りはしたものの、パンが完成するとは正直思っていなかった。だがミミアはやり遂げた。いつもそうしてきたように。
 これがこの世界で最後のしあわせのパン。ミミアが命を燃やしてつくりあげたもの。それが今、自分の中にある。そう思うと、とるにたらないこの身がとても尊いもののように思えた。
 胃から柔らかいぬくもりが広がっていく。心地よい。ふわふわする。
「素直に褒めてもらうなんて、いつぶりかね。まあでも、喜んでもらえてよかったよ。私も夢が叶った」
「夢?」
「ヒューと一緒にご飯を食べて、美味しいって言いたかったんだ」
「奇特なやつだ。だが、叶ってよかった」
 うつらうつらしながら、ヒューは答えた。腹が満たされると、人間は眠くなることがあるという。なるほど、これがそうなのか。はじめて知る現象にヒューは抵抗するすべをもたない。心地よくて、抵抗したくもなかった。
「しあわせのパン名前の通りだな」
 ヒューはつぶやいた。その声すらもう遠い。
「寝ていいよ。起きたら、今度は私の自信作をご馳走するから」
それは楽しみだ」
 ミミアの料理。今なら、味を感じることができるかもしれない。また新しい「美味しい」を知れるかもしれない。幸せな予感に微笑みながら、ヒューは目を閉じた。

 椅子に腰掛けたまま、静かに寝息を立てる友人を、ミミアはじっと見つめていた。
 目を閉じたヒューは、あるかなしかの微笑みを浮かべている。ヴィチノを離れてから、はじめて見る表情だった。
「ミミア、どうしますか?」
 それまで黙ってそばに控えていたテミルが言った。 
「どうって?」
「機能停止まであと一月あります。今ならヒューネの脳データを、完璧な形で別の肉体に移すことも可能です」
 ミミアは一瞬息を呑んだが、すぐに首を振った。
やめよう。これ以上は酷だよ」
「そうですか? 今まで何度も修理してきたではないですか。どうせ修理の記憶はヒューネには残らないのですから」
「いいんだよ。もう充分だ」
 テミルは不思議そうにミミアとヒューを見比べ、頷いた。
「そうですか。なんにせよ、最後の(ばん)(さん)が間に合って良かったですね」
 ヒューの最後の晩餐に、しあわせのパンをつくる。ミミアがそう決めたのは、まさにこのテミルが三年前に告げた言葉がきっかけだった。
『ヒューネの機能は、あと三年で停止します』
 信じ難かったが、テミルの言葉に(うそ)がないことは知っている。彼はいや彼に寄生しているのは、ヒューネの生体義肢をつくりあげた、いわば創造主だから。ヒューネ自身も知らぬ能力も全て知っている。もちろん、寿命も。
 ミミアは息をつくと、テミルに向き直った。
「ありがとう、管理官。あなたのおかげで間に合わせることができた。私だけでは、死ぬまでしあわせのパンを再現することはできなかっただろう」
 テミルはぱちくりと目を(またた)かせ、それからやけに老成した笑みを浮かべた。
「お役に立てて何よりです。まさかあなたが、料理について私に教えを乞う日が来るとは思いませんでしたが」
 ミミアはふんと鼻を鳴らし、(きん)(げん)な表情を放り投げた。
「私のプライドなどより、ヒューに美味しいと言ってもらうほうが大事だ。それこそ料理人の本懐だよ」
「そういうものですか。しかし、やはり不思議ですね。何度調整しても、味覚は戻らなかったのに。もともとあなたがたと同じように整えてあったはずなんですが」
 テミルは首を(かし)げ、眠るヒューを見やった。
 かつてのミミアとヒューの上司、通称『管理官02』。番号に意味はない。もとはひとつの生命体で、文字通り社会を管理するために五体に分裂していただけらしい。当人からそう聞いた。
 管理官は(ちまた)で言われているような侵略者ではない。少なくともミミアはそう思う。彼らにとってヴィチノはテラリウムに近い。たまたま目についた星で絶えかけていた生物に、快適な箱庭を用意して餌を与え、大切に育てる。不死の種族である管理官にとっては、この巨大なテラリウムが(かっ)(こう)の娯楽なのだそうだ。
 ヴィチノでの暴動で箱庭が破壊されたことに関しては、なにも感じていないという。(しゅう)(えん)を見守るまでが、正しい観察だからだそうだ。今まで様々な生物で箱庭を作ってきたけれど、例外なく崩壊し、宿主は死亡した。
 自分を撃った男に寄生した管理官は、何を思ったかそのままずっとミミアのそばにいた。どうやら味覚というものが管理官にとっては非常に新鮮な感覚らしく、ミミアの料理に強い関心を示したせいだ。より素晴らしい料理をつくらせるため、新しい味を知るために、管理官はかいがいしくミミアに仕えた。
「やはり、わからない。私の調整が甘かった? 分解してみましょうか」
 ヒューの(くち)(もと)に伸びたテミルの手を、ミミアは素早く払い落とした。
「意味がない。機能の問題ではないよ。あなたにはたぶん永遠にわからないことだ」
 テミルは首を傾げたが、すぐに納得したように頷いた。
「心の影響ですね? あなたがたにあって私にはないものと言えばそれしかない」
「味覚の次は心を手に入れたいの? あまり欲張らないことだね」
 興味(しん)(しん)のテミルをおしのけ、ミミアはヒューの頰に手を触れた。傷が痛々しい。恩人を守れなかったことをずっと悔やみ、罪人のように()(みょう)(やみ)を生きてきた友。ミミアがどんなに心をこめた料理も、ヒューには全く届かなかった。
 一度だけでいい。しあわせだと、生き延びてよかったと、思ってほしかった。これが「美味しい」ということだと、知ってほしい。ならばミミアがヒューのために作るものはひとつしかなかった。ヒューの幸せと罪の象徴。これを消化しなければ、ヒューは人に戻れない。
「食べてすぐ眠るなんて。ふふ、子どもみたいだ」
 きっと、よほど疲れていたのだ。ミミアは眠る友人を抱きしめた。
 ヒューが永遠の眠りにつくまでは、まだ少し(ゆう)()はある。今度こそ、ここまで磨いた料理の腕をふるって、美味しいと笑わせてみたかった。(しゅう)(えん)の瞬間まで、ただただ幸せだと思ってほしい。
「ヒューネはおよそ十一時間後に、一度目覚めます。あなたもお休みになっては?」
 見透かしたようにテミルが言った。ミミアは友から体を離し、ぐるりと肩を回した。
「そうするよ。睡眠時間も削ってパンづくりに没頭したからね、あちこちが痛い」
「いつでも性能の良いボディをお贈りしますのに」
「結構だよ。片付けは頼む。あと、ヒューを客室に移しておいて。丁重にね」
 ミミアはもう一度ヒューネの傷に触れると、勢いよく背を向けた。
 立ち去る背中を見送り、テミルはひとり頷いた。
「やはり面白い」
 しあわせのパン。管理官がその気になれば、麦でもなんでもすぐに再生できる。せっかく人類のために最善のものを心をこめてつくりあげたというのに、いらないと焼かれてしまった。しかも二度も。もっとも、そんなことは慣れている。よかれと思って介入すると、しばらくはうまくいくのに、最後はめちゃくちゃになる。いつもそうだ。だがそういう無駄な過程を見るのが面白い。
 そういう意味では、ミミアとヒューは最高の素材だった。だから本当は、ここで失うのは惜しいのだ。どちらもこっそり、新しい体に移してしまおうか? そんな誘惑に駆られるものの、残り一ヶ月、ヒューが新しい味にどんな反応を見せるのかも見てみたい。ヒューを見てミミアがどんな顔をするのか。彼らがどんな話をして、「その時」を迎えるのかも。
「ヒュー、しあわせのパンを愛してくれてありがとう。たぶん、だからあなたは畑を焼いたのですよね」
 眠るヒューに語りかける。当然、答えはない。
「昔、あなたは私がパンを食べるところを見るのが好きでしたよね。その気持ち、少しわかりました。あなたが夢中で食べるところ、いいものでしたよ」
 否定されたしあわせのパンを、あんなに夢中になって食べるとは。そのときテミルの中に(きざ)したものは、瞬きの間に消えてしまったけれど、ミミアが新しい珍味を用意した時に感じたものに似ていたような気がした。

【おわり】