オフロサマ(著:桑原水菜)

多くの人間は知らないだろうが、風呂には神がいる。
どの風呂にも神はいる。温泉にはもちろん、昔ながらの五右衛門風呂にもいるし、今時のユニットバスにだっている。せっかく神がいるのに湯も張らずシャワーしか使わないのは実は神に対する無礼なのだ(特に夏場に多い)。
ありとあらゆる風呂に棲むフロガミにも実は「格」があって「格」は伝統的に湯船の大きさで決まるのだが、最近はカランの数で決まったりもする。
私が担当する風呂には、カランが男湯女湯合わせて三十六個ある。
公衆浴場――つまり、銭湯。
私は「銭湯のフロガミ」なのだ。
私が守護する銭湯の名は「萬年湯」という。
創業九十年の歴史ある銭湯だ。
駅からほど近い商店街の外れにあり「萬年湯」と書かれた大きな煙突が目印だ。
終戦直後であちらこちらが焼け野原になっていた時も営業を続けた数少ない銭湯で、あのときは遠方からも風呂を求めて人が押し寄せたものだ。湯船は芋洗い状態、脱衣所もごった返し、まるで満員電車だと客は笑った。
高度経済成長期を迎えると子供を連れた家族や下宿先から通う学生や建設現場の職人たちが汗を流しにやってきた。時には学生運動のデモ帰りの連中がヘルメット姿で押しかけてきて、ひとっ風呂浴びていったこともある。
バブルの頃ともなると「おんぼろ」だの「時代遅れ」だの揶揄されて客足は減少、施設は老朽化。どこの町からも銭湯が消えて、多くのフロガミがあぶれて消えてしまった。我が湯の経営も青色吐息だったが、イベント風呂だのレディースデイ、シルバーデイと知恵を絞って細々とだが営業を続けてきた。
富士山を描いた自慢のペンキ絵もかつては二年に一度は描き替えていたが、前回描かれたのはもう五年前。あんなに青かった富士山も色褪せて、ところどころ剥がれ落ちている。
だが、今では「そのおんぼろさがいい」などと言って遠方からわざわざ浸かりにやってくる者がいるくらいだから、世の中とはわからんものだ。
カランはさすがにシャワー付きになったが、創業当時から使っている大鏡やタイル張りの湯船には年代物ならではの味わいがある。昭和初期の体重計も現役だ。自慢の高い天井は開放感に満ちていて、天窓から差し込む自然光が湯煙に滲んで、優しい。
かぽーん、と響く風呂桶の音には情緒がある。
暖かな湯気に包まれて、広い湯船に満々と湛えた湯に浸かり、手足をゆっくりのばす。
身も心も解放されるその感覚は、家の小さな風呂では味わえまい。
我が銭湯は、三代目が営んでいる。
私が祀られているのは番台の上だ。
毎日、私に手を合わす。
夫の阿比留文太郎と妻の百合恵は仲の良い夫婦だったが、百合恵は二年前に病で他界した。後を引き継いだのは、娘の知子だ。知子の夫はサラリーマンなので銭湯の仕事はしない。父と娘は毎日感心するほどよく働く。夜十一時の営業終了後も清掃やら何やらで、家に帰るのは夜中の一時過ぎ。
萬年湯の釜を預かるのは文太郎で、知子は番台を仕切っている。最近では高校を卒業した孫娘の小雪も手伝いにくるようになった。
「オフロサマ」
文太郎一家は私をそう呼ぶ。毎日、必ず私に水と榊を供え、柏手を打つ。
「オフロサマ、オフロサマ。今日もよろしくお願いします」
湯には私の神力が満ちている。
それが証拠に萬年湯に来る客は皆、どんなに疲れ果ててへとへとで意気消沈していても、風呂から上がる頃には肌の血色がよくなり、目は輝いて活力を取り戻す。悶々と悩みを抱えて入ってきた客も、負の気をきれいに洗い流して、さっぱりとした顔で帰っていく。
どんな神社に参拝するよりも即効性がある。それが我が萬年湯なのだ。
営業時間になった。先代から引き継いできた「萬年湯」と書かれた臙脂色ののれんを、知子が入口にかけると、外で待ちかねていた年配常連客どもがぞろぞろと入ってきた。
「お待たせしました。いらっしゃいませ」
「いやあ、寒くなったねえ、知子ちゃん。待ってる間に凍えっちまったよ」
「そうだと思って、いつもよりちょっと熱くしときましたよ」
「大将、わかってるね」
一年で一番寒いこの時期、銭湯の湯は何よりのご馳走なのだ。
まだ暖まりきれていない浴室に客の声が響き、カランから湯の出る音がして、かぽーんかぽーんと風呂桶の音が谺し始めると、私の神域は生き生きと輝き始める。湧き上がる湯気にも神気が満ちている。
真冬の一番風呂を狙ってくる常連たちは、自分のことを「通」だと言う。
まだ少し冷気が残る洗い場と浴槽に張った湯との温度差は「銭湯通」にはたまらないものがあるらしい。年寄りには体に悪いので薦められないが、あえて洗い場が「ひんやり」しているほうが湯は体に沁みる。湯船に身を沈めるときの「あ~~」という五臓六腑から染みだしたような声で、本日の湯の良し悪しがわかる。
「しみるなあ……」
今日一発目の「沁みる」が常連の源さんの口から漏れた。
「凍えた身に熱い湯が骨まで沁みる……。これこれ。これがいいんだよ。萬年湯はわかってるねえ」
三代目の文太郎は寡黙な男だが、「ボイラーの魔術師」だ。二代目までは薪を燃やしていたが、三代目の文太郎が重油ボイラーを導入した。A重油と呼ばれる燃料は煙も少なく、環境にも配慮できる。文太郎はボイラー番に命をかけている。風呂の温度計など見ずとも、天候と湯気の量、鏡の曇り具合、客たちの表情や頬のほてり、湯に浸かる平均時間で適温か否かがわかる。ボイラー自体は旧式も旧式だが、何もかもが自動化した今時のしゃらくさい機械より遙かに絶品の湯を作り出す「天才ボイラー技士」なのだ。
「やっぱり萬年湯だ。家の風呂とは湯の沁み方が比べものにならんよ」
頭にタオルを載せて常連客たちは湯船のふちにもたれて溶けた餅のようになっている。
「いい湯だねえ」
その一言を聞くために、ボイラー職人の文太郎は釜の火に魂をこめているのだ。
一番風呂の常連が帰っていくと、新たな客がのれんをくぐって入ってきた。
「よう、萬年の。元気か」
中年の男だ。だぼっとした黒ダウンにゆるゆるのスウェットパンツを履き、髪を金髪に染めていかにもチャラい装いのこの男……。
人間ではない。
私と同じフロガミだ。
誰かと思えばおまえか、亀之湯。
「その名前で呼ぶなっつーの。今の俺は『スパリゾート・タートルズ』なんだって何度言わせんのよ」
二駅先にある亀之湯は二年前に改装して六階建てのスーパー銭湯になった。名前も横文字になったが、七十年前から亀之湯だったのだから、おまえの名は亀之湯だ。
「えらそうにいうな、萬年湯。うちにはサウナはもちろんジャクジーも炭酸風呂もあるぞ。それに比べてここは相変わらず狭くて古くさくて、きったねえな」
汚いとは聞き捨てならん。建物こそ古いが、掃除は隅から隅まで行き届いておるし、おぬしのところなんぞより遙かに清潔だ。
「うちの風呂を見たこともねえくせに、よくゆーわ。今時サウナもない公衆浴場なんて、よくこんなんで客が来るもんだ」
亀之湯は服を脱ぎ始めた。実はフロガミは人に依り憑くことができる。亀之湯が憑いているこのチャラい若造(私から見れば四十代なぞ若造だ)は、亀之湯社長の息子だ。とはいえ誰にでも依り憑けるわけではなく、よほどの巫覡体質(神降ろしをする者)でなければならず、非常に稀なのだが、社長親子はたまたまこれに該当した。亀之湯は体を借りてたまにふらりとやってくる。というか、亀之湯も営業時間中ではないか?
「今日は設備点検で休館日。俺の仕事も休みってわけだ」
フロガミのくせに風呂に浸かるのが大好きで、好きが高じて温泉ソムリエの資格まで取ってしまったほどだ。
「ああ~これこれ。やっぱ萬年湯の三代目は釜の魔術師だな。湯加減が神がかってるわ」
古い汚いとけなした口で、絶賛する。神が神がかっているというのだから間違いない。湯に浸かってご満悦だ。うちの湯は文太郎の巧みなボイラー術と私の力が合一して生まれる絶品中の絶品であることは、亀之湯もよくわかっているのだ。風呂上がりには必ず、
「おかみ、いつものくれ」
フルーツ牛乳を所望する。蓋をあけると一気飲みだ。いい飲みっぷりだ。飲み終わると今度はマッサージ機だ。昭和三十年代製のマッサージ機は六十年前から稼働している。
「おーい、また故障だ。早く直せ、萬年湯」
機械の修理はフロガミの管轄外だ。
「うちなんか最先端のAIマッサージャーを三台も入れたぞ。いつまでこんな骨董品使ってる」
うるさいこと、このうえない。この粗野なローラーがいいという客もいるのだ。
そこにまた新たな客がやってきた。
のれんをくぐって入ってきた若い男は学生だろうか。黒髪を真ん中分けにした痩せ型の男だ。初めてなのかキョロキョロとロビーの配置を見回していたが、こちらを見るとギョッとした顔で固まった。
そして、うろたえたようにそそくさと我々の前を通り過ぎて脱衣所に向かう。
なんだ、いまのは。
おい、亀之湯。いまのはおまえの知り合いか?
「しらん。健太の知り合いなのではないか?」
健太とは、亀之湯が依り憑いている「社長の息子」のことだ。
真ん中分け男は我らの視線を避けるように隅っこで服を脱ぎ、浴室に入っていく。
見かけん顔だが。
「こいつ(健太)の知り合いか何かだろ。借金でもしてたんじゃないのか?」
亀之湯はお風呂セットを小脇に「また来るよ」と去っていった。いなくなった後も、真ん中分け男は私のほうを視ずにやけにコソコソとしている。なんだ、この男は。怪しい。
夕方になると家族連れが増えてくる。近所の学生や仕事帰りのサラリーマン。スーパー銭湯ではないので客の滞在時間は短いが、そのかわり何度も来てくれる。ほぼ毎日来る者もいる。今時、風呂のついていない安アパートなど数少ないはずだが、銭湯が生活の一部だったり、ご褒美だったり、客の事情は十人十色だ。子供連れや部活帰りの高校生が湯上がりに飲んだフルーツ牛乳の空き瓶が、木箱をどんどん埋めていく。
脱衣所にある大鏡の前では、裸の客が自分の筋肉に見とれたり、腹の出具合にため息をついたり……、人間はどうも自分の姿を見るのが好きなようだ。
「萬年湯さんからの帰りは、真冬でもぽかぽかしてて途中で湯冷めしないんだよ。温泉でもないのに不思議だね」
独り暮らしの九十歳からのお墨付きに、寡黙な文太郎も満足げだ。
「気をつけて帰りなよ」
萬年湯の一日はこうして終わっていく。
*
もちろん、フロガミの仕事は湯に神力を注ぎ込むことだけではない。一番重大な任務は風呂場の安全を守ることだ。
洗い場で滑って転んだり、のぼせて倒れたり……、と風呂はとかく事故の起きやすい場所でもある。特に今の季節は浴室と脱衣所の温度差に気をつけなければならない。所謂ヒートショック対策だ。萬年湯では脱衣所も浴室も十分に暖める。問題なのは「一番風呂」だ。前にも言ったとおり、一番風呂好きの常連は洗い場のひんやり感がいいというが、これで事故が起きては元も子もない。だから文太郎は一番風呂にやってくる顔ぶれを毎日よく見ている。たまに老齢の客や調子の悪そうな者が混ざっていると、皆が脱衣所で着替えているうちにボイラーの蒸気を使って浴室を暖めたりもする。亀之湯みたいに最新の浴室暖房なんてついていないので細やかな工夫がいるのだ。
今日は夕方から雪が降るらしい。
「積もらないといいわねえ」
知子と小雪も心配している。浴室の温度も大事だが、入口の凍結も心配だ。
「雪かき用意しておきましょう」
するとそこへまた客がやってきた。昨日の黒髪真ん中分けの若造だ。小雪が「あっ」という顔をしたところを見ると、知り合いらしい。
「来てくれたんですか」
真ん中分け男は極度の人見知りらしく、申し訳程度に会釈だけして、そそくさとのれんをくぐっていく。番台の前までやってくると、また私のほうを見てギョッとした。
今日は亀之湯の息子はいない。
後ろは壁があるだけだ。
男は私のほうを見ないようにしながら脱衣所に向かい、湯に浸かる。二十分ほどで出てきたが、明らかに私のほうから顔をそらしていて、それがかえって怪しい。
それからというもの、真ん中分け男は二日とあけずに通ってきた。来るたびに私が祀られた神棚のある番台をチラチラと見ては、明らかに避けてコソコソ脱衣所に入っていく。挙動不審だ。まさか、こやつ、何か神に顔向けできないことでもしようとしているのでは。
おい、おまえ。我が銭湯で悪さをするつもりではあるまいな。
男は「ひ!」と飛び上がり、直立不動になった。
「し、してません! 悪い事なんてしてません!」
ん? こやつ、私の声が聞こえたのか?
もしや、私が見えるのか?
「いいえ、フロガミ様なんて見えません! 見えてませんし何も聞こえていません!」
いや完全に見えてるし、聞こえているな。
「聞こえてません。見逃してください」
稀にいるのだ。
フロガミが「視える」人間が。
いるとわかるなら、手ぐらい合わせていかんか。
「すすすみません。下手に視えているのがバレると絡んでくる神様もいるものですから」
あれだけ目と目が合っておいて、無視するほうが無礼ではないか。
おまえ、小雪の知り合いか?
「ちちちがいます。ただの客です、知り合いなんて滅相もない」
真ん中分け男がひとりで騒いでいるように見えたのだろう。待合ロビーにいた客が不気味そうな顔で見ている。これはいかんと思った私は、番台にある公衆電話の受話器をとるよう、分け男に命じた。分け男はおそるおそる受話器を耳にあてた。
「こ……こうですか」
それでいい。電話で話しているふりをしながら答えろ。おまえフロガミが見えるのか。何者だ。どこぞの山伏か霊媒師か。
「山伏でも霊媒師でもありません」
ではなんだ、と問うと、分け男は降参したように肩を落とした。
「……実は僕、オフロサマを祀る神社の、神主の息子でして」
オフロサマを祀る、と言ったのか?
神主だと? 一体どこのフロガミの?
「裏磐梯にある大場温泉の湯神社です」
ほほう、秘湯の神社か。さもありなん。温泉地にいるフロガミは我々の祖だ。古くから温泉湧くところには「温泉神社」というものがあり、その地の源泉を守護している。そこの神主の血筋というわけか。名は?
「湯出湧人、と申します」
温泉の申し子みたいな名だな。産湯はまちがいなく温泉だ。上京してこの近くの大学に通っているという。一人暮らしをしているアパートの給湯器が突然壊れて風呂に入れなくなってしまい、困っていたところ、学友から「近くに銭湯がある」と聞き、わざわざ二駅先から自転車でやってきたのだと語った。二駅先なら亀之湯があるが、あちらは日常通うには値段が高すぎたようだ。
「東京に来てから初めてオフロサマを視てしまったものですから、驚いてしまって……」
なんだ、そういう理由か。てっきり悪さを働こうとしているのかと思ったぞ。
地元の古い温泉ではちょくちょく湯神を視ていたという。神主の息子とは言え、おそるべき特異体質だ。
「うちの風呂でも見ないので、湯神はきっと温泉が自然に湧いてるとこにだけいるんだなぁと油断してたら……。銭湯の沸かし湯にもオフロサマはおられるんですねえ」
まあ、一口にフロガミと言ってもその力はまちまちだ。萬年湯で創業から九十年大切にされてきた私の湯力はそんじょそこらのフロガミとは比べものにならない。強力すぎるがゆえに視えたのであろうな。
「確かにこちらのお湯は、うちの温泉に入ってるみたいで、すごく沁みるんですよねえ」
そこへ「あら」と声がして、孫娘の小雪がやってきた。
「湯出さんじゃないですか。また来てくれたんですね」
すると湧人は再び飛び上がって直立不動になってしまった。
「こ、こんにちは阿比留さん。給湯器が壊れてしまって直るまでお世話になっています」
「そうだったんだ。うちのおじいちゃんの沸かす湯は最高でしょ。おじいちゃんは釜の魔法使いなの」
「魔法使い」
「ふふ。ゆっくりあったまってってね」
小雪は笑顔を向けるとバスマットを取り替えるため、脱衣所へと消えていった。
おいこら、どういうことだ。やっぱり知り合いではないか。学校も違うくせに、いったいどういう関係だ。
「サ、サークルの交流会でちょっと顔見知りになっただけです」
小雪が通っているのは女子大だぞ。いかがわしいサークルではあるまいな。
「誤解しないでください。映研の自主製作映画で撮影に協力してもらったんです」
湧人が通っている大学は女子学生が少なく、近所の女子大の映画愛好会に時々出演をお願いしているのだという。その撮影で知り合ったと言い訳するが、まさか風呂が壊れたとかなんとか抜かしつつ本当は小雪に下心があって通っているのではあるまいな。
「ちがいます。風呂が壊れたのは本当です。ただ、ずっと男子校に通っていたので女子とどう接していいのか……」
うぶなやつだ。まあいい。視えるだけで害をなすわけでもあるまい。ゆっくり浸かっていけ。但し、今度来たら私を無視せず、ちゃんと挨拶をしろよ。
「はい、ありがとうございます」
それから湧人は毎日のように通ってくるようになった。給湯器の修理が終わった後も来るところをみると、我が湯の効能に気づいたようだ。私が「絡む」タイプの神様でなかったことにも安心したのか、徐々に警戒を解いて身の上話までするようになった。大学の人間関係だとか一人暮らしの苦労とか就職の悩みだとか。
地理学科に所属する湧人は温泉地誌を学んでいるという。
「実はちょっと東京のオフロサマが怖かったんです。おおらかな山の温泉と違って、めちゃめちゃ入浴作法にうるさそうじゃないですか。少し間違えただけで祟られそうで……」
男湯の大きな湯船の端っこで湯に浸かりながら、湧人は独り言を呟いた。正確には小声で私と会話をしている。
「でも安心しました。萬年湯のオフロサマ。あなたはちょっと、というか、だいぶ人間に近いようですね」
人間に近いだと? この私が? おぬしの実家の温泉神とは何が違うのか。
「同じオフロサマでもうちで祀るのは湯神。つまり自然の神様なので、やはり自然に近いというか、おおらかではありますが、こんなにおしゃべりではありません」
おしゃべりで悪かったな。
「そういう意味じゃなくて、ここまではっきりと〝言葉〟を発しないといいますか。ふんわりとした意向を感じるだけといいますか」
そういうものなのか?
「銭湯は人工の湯だからかもしれませんね。オフロサマも人間に近い気がします」
おまえ、私の姿が視えると言ったな。
私はどんな姿をしているのだ?
「えっ。ご存じないんですか……?」
人間と違って私には姿を映すものがない。
大鏡にも私の姿は映らぬ。
私には自分が見えぬ。
「どんな姿か、というと……うーん、どう言ったらいいのか……」
湧人は湯船のへりに肘を置いて、じっと私のほうを視た。こんなに緊張しながら人間の答えを待つのは初めてだ。自分のことを人間から聞く、という体験がそもそもない。湧人と対話するまで自分がどんな姿をしているかなど、言われてみれば考えたこともなかった。湧人が「姿が視える」というものだから気になり始めたのだ。なにせ私は私が見えない。人間には体があるから見える。自分の顔は鏡に映さないと見えないかもしれないが、少なくとも体の前部分や手足は見える。だが私には体もないし手足もない。
そう、私には「私」という形がない。
でも、おまえは「視える」という。おまえの目に私はどう「視える」のだ?
私は人間と同じ姿をしているのか?
それとも湯気のようなものなのか?
いや? 形がないのだとしたら「目が合った」と感じるのもおかしいか。ということは、私にも目はあるのか。人間のように。
「うーん……」
と湧人はますます眉間の皺を深くした。私の形状というものをどう表現したらいいのか、言いあぐねている。挙げ句、
「わかりません」
ぽつん、と天井から水滴が落ちた。
おい。おぬし、私は「人間に近い」と言ったではないか。
「いや、人間に近いと言ったのは、こうやって会話ができるという意味です。実家の温泉のオフロサマたちはこんなふうに人間同士が会話するように話したりはしません」
そうなのか。同じ風呂の神でも性質が違うようだな。
「実家の神様は、風呂の神、というより、源泉を守る湯守の神様なので、山の神様や川の神様に近いのかもしれません。やはり銭湯というのは人の手で沸かした湯なので、神様も自ずと人間臭くなってしまうんじゃないでしょうか」
なるほど。おぬしと話していると今まで知らなかった己のことが理解できるようだ。
「今まで人間と話したことはないのですか?」
私の言葉は人間には直接は届かん。それゆえ対話というものはない。
「えー。それは淋しいな」
淋しくなどはない。神は神、ひとはひと、依り憑いた者の口から神託を下すことはあっても、直接会話を交わすことなどありえない。それが神とひとの常。いまこの状態が異常なだけだ。
「でも会話にはやけに慣れてますよね」
たまに来る亀之湯とはよく話す。
「この前話してたスパリゾート・タートルズのオフロサマですか」
ああ、そうだ。あれとはかれこれ七十年来のつきあいだ。後輩なのだ。
「じゃあ、ずっとひとりぼっちだったわけじゃないんだ。ならよかった」
人間から憐れみを受けたようでモヤッとするが、神はひとりでも自分を祀る者がいる限り、神を名乗っていられるというだけだ。ひとりぼっちなどというものは人間が抱く感傷であって我々神にはない。それにこの銭湯にはいつも客が来る。銭湯を守る文太郎たちもいる。
たとえ私を祀る者がひとりもいなくなって放置されたとしても、ここに風呂がある限り我々は厳然として存在するが、手厚く祀られていたほうが、神の自我ともいうべきものが強化され、明瞭になり凝縮して神力が強くなるというだけだ。まあ、私が「人間臭い」と思われてしまうのは、それだけ人格ならぬ神格が屹立している証かもしれないが。
とはいうものの、やはり話し相手がいるというのはいいものだ。自分以外の言葉が返ってくるのは面白い。何より発見がある。
「僕でよければ、話し相手になりましょうか」
と湧人が申し出たので、私は思わず黙った。別に話し相手が欲しいわけではない。人間からそういう物言いをされるのは心外だ。というか、こちらがおぬしの愚痴を聞いてやっているのではないか。まあ、いい。風呂に入りに来た時はたまに話をしてやる。
湧人はにこにこしている。
変なやつだ。
だが私も湧人の下心がわからないほど鈍くはないのだ。湧人が萬年湯に通う目的は、小雪だ。孫娘の小雪に惚れているのだ。
番台の周りでちょこまか働く小雪をちらちらと見ている、その視線でわかる。この銭湯で何十組とカップルを成立させてきた私の見立てに間違いはない。今は多少減ったが、その昔、銭湯は社交場で、この狭い待合ロビーで漫画を読むふりをしながら目当ての相手がやってくるのをこっそり待ち伏せしている若人も珍しくなかった。恋の花咲く銭湯だったのだ。
だが、黙って見ているだけでは前に進まんぞ。
「そんなんじゃないですから。ただの推しですから」
湧人は私のおせっかいを嫌がる。今時の連中が言う「推し」という概念がわからぬ。
「つまり、アイドルみたいな人なんです。つきあいたいとか生々しい話じゃなくて見てるだけで気持ちがアガるというか」
それは恋とはちがうのか。
「恋みたいなもんですが、彼女にしたいとかは望んでないというか」
望んでいないのか。
「う……。はっきり言われると、その……」
と湧人は口ごもる。まあいい。小雪は幼い頃から私を祀ってくれた大事な娘だ。邪な気持ちでいるならこの私が許さんが、遠くから慕うくらいなら許してやろう。というと湧人は何か釈然としないのか、へそを曲げ、
「……もちろん、小雪さんのこともあるんですが、それ以上に僕はここのお風呂が単純に好きなんですよ」
下心ではないというのか。
「子供の頃、うちの風呂は浴槽がホーローだったんです。知ってますか? ホーローのお湯ってなんか体に沁みるんですよ。気のせいかもしれないけど。子供の頃、じいちゃんと一緒によく入った。ホーローの湯は体の芯まであったまる、真冬は特に。ほかほかに火照った体で冷たい布団に潜った時のひんやりした気持ちよさまで思い出す。僕はじいちゃんが大好きでした。萬年湯は、死んだじいちゃんを思い出させるんです」
祖父が懐かしくて通ってきていたのか?
「ええ、そうなんです。ここの浴槽はホーローじゃないのに不思議だ」
湧人はしみじみと呟いた。
「小雪さんも言ってたな。魔法使い、か……。確かにこれは魔法のお湯です」
そうか、亡き祖父との思い出がここに通わせていたのだな。納得した。
「よう、萬年の。また来たぞ」
そこに現れたのは亀之湯だ。例によって社長の息子に依り憑いていて、湧人を見ると、
「おまえが例の温泉神社の跡取りか」
「もしや、あなたが亀之湯さんですか」
亀之湯は喜んで湧人の肩を両手で掴むと、グイグイ揉み始めた。
「こりゃいい。なかなか良い依り憑き先を見つけたもんだな、萬年湯」
「依り憑き先って僕のことですか?」
「視える人間はそもそも憑坐体質なのだ。やっと見つけたな、萬年湯。これでおまえも人間に依り憑き放題だぞ」
「ちょっと待ってください。まさかそのために僕を呼び止めたんですか」
「いいから試しに依り憑いてみろ、萬年湯。楽しいぞ。さあ」
「何を勝手な。やめてくださいったら」
亀之湯よ。私はそもそも依り憑きになど興味が無い。皆がおぬしのような「放蕩フロガミ」ではないのだぞ。
「つまんねえこと言うなよ。おまえ自分とこの銭湯しか知らねえだろう。うちの豪華なスパ見せてやっから、ちょっとコイツに依り憑いて、来い」
「だから、そういうの勘弁してくださいよ」
まさかフロガミと人が言い合う姿を見られるとは……。言葉が通じるというのは面白いものだ。これが「人間臭い」ということなのであれば、私と亀之湯は一般的な神と比べるとだいぶ神らしくないようだ。
銭湯という場所が――そこに集う人間たちが私をこういう性質にしたのだとしたら、銭湯というのは特別「人間臭い」場所なのかもしれない。
だが、その「特別な場所」が数日後に存亡の危機に見舞われることになろうとは。
この時の私は想像だにしていなかったのである。
*
その日は朝から様子がおかしかった。
文太郎がいつも出勤してくる時間に現れず、それどころか、娘の知子も姿を見せず、営業開始時間の一時間前になってようやく孫娘の小雪がやってきた。だが様子が変だ。こわばった青白い顔をして、私に手を合わせるのも忘れてバタバタと走り回っている。文太郎が来ないので、むろん浴槽には湯も張っていない。おい、どうしたのだ。文太郎はどうした。小雪は慌ただしく番台でちらしの裏に書き物をし始めた。
〝店主急病につき、当面の間、休業させていただきます〟
そう走り書きしたものを入口の戸に貼り付ける。文太郎が急病だと? 休業だと?
小雪は休業準備のため場内を走り回っていたが、ふと神棚のほうに気づくと、急に泣きそうな顔になって手を合わせた。
「オフロサマ、おじいちゃんが倒れたの。今朝、病院に運ばれて、いま集中治療室に……。脳梗塞だって。お願いします! どうかおじいちゃんを助けて。お願い、オフロサマ!」
大変なことになった。
だが、私の神力が及ぶのは銭湯の中だけで、病院にいる文太郎を私の力ではどうすることもできない。神だというのに大事な祭主を救うことができないとは、と私は歯がみした。
幸い文太郎は一命を取り留めた。しかし後遺症が出てしまったようでリハビリには半年はかかりそうだという。この知らせに娘の知子は絶望した。ボイラー技士の資格を持っているのは文太郎だけで代わりはいない。ボイラーを動かせなければそもそも湯も張れない。そうでなくても赤字ギリギリ、かつかつでやってきた家族経営のおんぼろ町銭湯だ。文太郎が元通りに動けるようになるかもわからないこの状況では、再開できる見込みがあるかどうかも見通せない。
家族の誰かが今からボイラー技士の資格を取るにしても扱いを習得するには何ヶ月かはかかるだろう。知子の夫は勤め人で銭湯の事は何もわからない。知子の兄弟は地方にいて、事業を継ぐのは知子しかおらず。
「オフロサマ、萬年湯、廃業することになるかもしれない……」
小雪が手を合わせ、悲しい知らせを伝えてきた。
そうでなくても燃料代は高騰し、経営は厳しい。ボイラー免許のいらない給湯施設を取り入れるにしてもお金がかかる。さらにあちこち経年劣化してそろそろ大がかりな補修も必要だったが、銀行の融資を受けるにしても返せる見込みはあるのか。いっそ閉じたほうがいいのでは。このあたりが潮時なのでは。知子夫婦は「廃業やむなし」に心が傾いているらしい。
――萬年湯、廃業。
突然降りかかってきた存亡の危機に私は目の前が真っ暗になった。自分が守る風呂がなくなれば、私は消滅してしまう。人間風に言えば「死」だ。萬年湯の廃業は私の消滅を意味していた。
いつかその日が来るかもしれぬと覚悟はしていたが、まさかこれほど急に現実となってしまうとは。
打ちひしがれていた私の元に駆けつけたのは、湧人だった。廃業の話を小雪から聞いたのだろう。「大至急、萬年湯に連れていってくれ」と無理矢理頼みこんだらしい。小雪に裏口を開けてもらった湧人は血相を変えて番台の前に飛び込んできた。そして神棚にいる私にこう訴えた。
「オフロサマ、大丈夫ですか! しっかりしてください!」
もう何日も湯を張っていないので、だいぶ弱っているように見えたのだろう。
「ああ、こんなにしおしおになって……。萬年湯がなくなるって聞きました。なくなってしまったら、オフロサマはどうなるんですか」
どうなるもこうなるも、風呂がなくなれば私の力は弱まって、いずれ消えることになるだろう。
「消えるって……そんなのだめです。どうにかできないんですか!」
神棚に向かってひとり吠える湧人を、小雪が異様なものを見るような目で見ている。小雪には私が見えないし声も聞こえない。だが湧人は構っていられない様子で、
「営業を続ける方法はないんですか」
続けようにもこの銭湯は、文太郎にしか、あの旧式ボイラーを扱えないのだ。文太郎がいなくてはそもそも湯が沸かせない。
「ボイラー技士なら、ここにいます!」
なに?
いまなんと申した。
「僕、ボイラー免許持ってます。二級免許ですけど」
驚いた。私もだが、小雪も驚いた。
なぜそんなものをおまえが持っている。おまえがいるのは地理学科ではないか。
「高校の時、親父に受けさせられたんです。うちの温泉は源泉温度が低いから冬場は加温するのにボイラー使ってて。いつでも扱えるようにって」
「ほんとなの? 湯出くん」
小雪がすがりつくように言った。湧人はうなずき、
「二級の免許は資格条件がなくて誰でもとれるんだ。実技講習を受けなきゃならないけど、高校二年の夏休みにまとめて受けた」
沈みきっていた小雪の顔がぱっと明るくなった。希望が見えたというように。
「阿比留さん、ボイラー室を見せてくれるかな」
「うちのお風呂焚いてくれるの?」
「ボイラーを見てみなきゃわからないけど、萬年湯がなくなるのはいやだ。力になりたい」
小雪は地下にあるボイラー室へと湧人を案内した。そこにあったボイラーを見て、湧人は「うっ」と詰まった。
「こ、これはまた旧式な……」
操作盤にはデジタル表示などというものはない。見るからにアナログで黒いつまみとメーターが並び、配管も複雑で一見しただけではどれが何のバルブなのかもわからない。
「おじいちゃん、今時のボイラーは焚き具合が機械任せになるから嫌だって言って、ずっとこの古いのを使ってたの」
修理を重ねて古い部品を取り替えて、部品がなければジャンク屋から取り寄せたりしてどうにかこうにか今日まで保たせてきたものだ。取扱説明書はあるにはあるが、操作を習熟するにはかなりの時間を要しそうだ。大学に通いながら片手間でできるものではない。
湧人はごくり、と唾を飲んだ。
「確かにこれを扱いこなしてたんなら魔法使いだな。簡単じゃないと思う。車で言えば、マニュアル車みたいなもんだから。でも仕組みは同じだ。覚えられないことはない。ただ使いこなすには時間がかかるかも」
「おまえにはムリだ」
突然、背後から声をかけられた。振り向くと階段の上にいたのは、なんと亀之湯だ。萬年湯廃業の噂を聞きつけて、駆けつけてきたところらしい。
「亀之湯さん……。ムリってどういうことですか」
「そりゃ説明書を読み込めば、湯を焚くことぐらいはできるだろうさ。だがそれは本当に〝萬年湯の湯〟と言えるのか?」
腕組みをして厳しい面持ちで亀之湯は言った。
「文太郎の魔術みたいな腕があったから、あの特別な湯を毎日焚くことができたのだ。おまえみたいなトウシロが手を出したところで、あの文太郎の湯にはならん。あの唯一無二の湯でなければ、舌ならぬ肌の肥えた萬年湯の客を納得させることなどできんぞ」
湧人の顔色がサッと青ざめた。横から小雪が反論し、
「それはそうかもしれないけど、萬年湯がなくなるよりはずっといいでしょ!」
「よくなどない。客はすぐに湯の質が落ちたことに気づくだろう。人間の肌はとても敏感なのだ。違和感を覚えた客は次第に離れていくだろう。客の期待に応えられなくなったら営業を続けたところで無意味だ。扱いの難しい旧式ボイラーで素人がやっとこ沸かせた湯など、萬年湯の客には通じん。それで事故でも起きてみろ、取り返しがつかん。湯加減も安定しないような悪湯で客が健康を損ねて、萬年湯の名を落とすくらいなら、ここで潔く終わったほうが文太郎のためではないか。文太郎も本望なはず」
湧人も小雪も言い返すことができなかった。全くその通りだからだ。自動化された今のボイラーならともかく、不安定な旧式のボイラーを付け焼き刃の腕で扱いこなせるとは思えない。本来なら文太郎について修業するべきところなのだ。そうでなくとも湧人には経験が無い。いくら温泉神社の跡取りでも、ボイラーにかけてはずぶの素人で初心者だ。文太郎の腕があの域に達するまでだって何十年とかかったのだ。
やはり自分たちには無理なのか。
意気消沈してしまうふたりを見て、私はたまらなくなった。黙っていられなかった。
ならば、と私は言った。
ならば、この私が教える。
「は? なにを言い出すのだ、萬年湯」
耳を疑った亀之湯に向かって、私は決然と言った。
私が湧人へ直々に萬年湯のボイラーの扱い方を教えてやる。
私はずっと文太郎のボイラー術をこの目で見てきた。そしてこの銭湯は私の体も同然だ。萬年湯にかかわることはすべてこの体で熟知している。むろん、文太郎のボイラー術もだ。
「ばか。そんなんムリに決まって」
「お願いします!」
湧人が私に向かって頭を下げた。
「僕に文太郎さんのボイラー術をたたき込んでください、オフロサマ。もちろん、すぐには文太郎さんのようにはできないかもしれません。それでも文太郎さんが戻ってくるまでこの萬年湯ののれんを守ることはできるはず」
「おい、冗談も休み休み言え」
「僕に萬年湯の釜を焚かせてください! お願いします!」
私に向かって深々と頭を下げる湧人と亀之湯のやりとりを、小雪は呆然と見ていたが、やがて何かを察したのか。湧人の隣に立って、一緒に私のほうへと頭を下げた。
「オフロサマ、お願い! 湯出くんに力を貸してください! 萬年湯を守って!」
小雪には見えないし聞こえないはずなのに。
亀之湯もぽかんと口を開けている。
私は若者たちの心意気に応えなければならなかった。
よし、やろう、湧人。おまえに萬年湯の釜を預ける。一緒に文太郎の湯をふたりで再現しようではないか。
萬年湯を守ること。それがフロガミであるこの私の仕事なのだから。
「ったく、しょーがねえな」
亀之湯は口を尖らせて頭をかいた。
「なら、俺が風呂の湯加減を見てやる。指示を出すから調節しろ」
「協力してくれるんですか、亀之湯さん」
「仕方ねえだろう。文太郎が帰ってくるまでだ。おまえが萬年湯の釜を守れ」
こうして私たちの格闘が始まった。知子には小雪から事情を説明し、私のことはもちろん出せないので亀之湯(が依り憑いている)の社長の息子が指導をするというていにして、湧人がボイラー技士として、ボイラー室に入った。指導するのはこの私だ。だが、そう何日もかけられない。営業できない状況では馬鹿高い水道代も燃料代もまかなえない。採算を考えると習得にかけられる日数は三日間だ。四日後に常連たちを納得させられる湯を沸かすことができたら、知子は廃業を撤回してくれると約束してくれた。
そこからは必死だった。あの文太郎の境地を再現するために、私も湧人も亀之湯も小雪も文字通り、死に物狂いだった。萬年湯がなくなれば私は消えるのだから、それはもうなりふりかまってはいられない。湧人は見たこともない旧式ボイラーの操作を覚えるので必死だったし、亀之湯と私もこの身にしみ込んだ感覚と知見を総動員して文太郎の湯を再現すべく、試行錯誤を繰り返した。手伝う小雪も湧人にだけ「聞こえる声」とやらに戸惑っていたが、「どこぞのベテランからスマホで指示を受けている」とでも解釈したのだろうか。率先して手伝うようになった。分厚い説明書と首っ引きになり、火力調整に格闘し、私も自分が神であることを忘れるほど、ひたすら泥臭い努力を重ねたのだ。
そして、ついに――。
その日がやってきた。
天窓から差し込むすがすがしい光が湯気に滲んでいる。
この日、審査のために招集された常連たちは、二週間ぶりに萬年湯の浴室へと足を踏み入れた。ひんやりとした空気の中、四十二度の少し熱めの湯にゆっくりと身を沈めていく。湧人も私も固唾をのんでその反応を見つめている。その横で小雪と知子も凝視している。険しい顔をして肩まで浸かった常連たちは、しばらく何も言わなかった。眉間に皺を寄せ、湯の中で達磨のようにじっとしていたが、やがて、ちろりと湧人のほうを見て、
「若いの。これ、おまえさんが沸かしたのかい」
ズボンの裾をまくって浴槽のそばに立つ湧人が緊張した面持ちで「はい」と答えた。
すると、常連たちの眉間のしわが緩み、そして、
「ああ~」
と例の五臓六腑から湧き出すうめきを漏らしたではないか。
「しみるねえ……」
しみたのか?
「いい湯じゃないか」
一番風呂好きの源さんが、目をつぶってそう言った。
「骨まで沁みる湯だ。湯温も安定している。文太郎さんの湯にそっくりだ。若いのに、よくぞここまで再現できたもんだな」
ということは……。
「合格だ。これなら客を入れても大丈夫だろう」
湧人が私を振り返った。満面の笑みを浮かべている。小雪は目に涙を浮かべている。私も胸が熱くなった。私のどこに胸があるのかはわからないけれど、そういうものが熱くなった気がした。
私たちはやり遂げた。
自分たちの力で、文太郎の魔法を再現することができたのだ。
*
こうして萬年湯は無事、当面の営業を続けることと相成った。
湧人もちょうど大学が春休みだったことも幸いし、それから毎日のように萬年湯に通い、ボイラー技士として萬年湯の釜を預かることになった。文太郎が受け持っていた風呂掃除などもすべて担うことになったので、ほぼほぼ一日中、萬年湯にいる。
文太郎のほうも幸い後遺症は想定したより軽く、本人の頑張りもあって、三ヶ月ほどのリハビリで復帰できる模様だ。一度、仮退院をしてきた時に初めて湧人とも対面し、改めてボイラー操作について確認をしてもらったのだが、ほとんど完璧だったことに文太郎はひどく驚いていた。
「うちのじゃじゃ馬ボイラーをこんな短期間で扱いこなすとは……。君、卒業したらうちで働かないか」
直々にスカウトまでされるほどだ。
湧人は笑っているだけだったが。
何はともあれ、私の首も繋がった。
当分はまだこの萬年湯を守っていけそうだ。
感謝しておるぞ、湧人。おぬしには何か礼をせねばなるまいな。何か願い事があるならかなえてやろう。そう湧人に告げたところ、
「でしたら、ひとつ頼み事があります」
と言われた。
その頼み事とは……?
「あああ~」
湯船に張った湯にきらきらと天井から差し込む光が反射している。肩まで浸かると湯が波立ち、光をゆらゆらと揺らしながら、湯船のふちまで広がっていく。
「この声は本当に五臓六腑から出てくるのだな……」
どうですか、オフロサマ。僕の湯は。
と湧人が問いかけてくる。
「うむ。こんなに良いものに毎日浸かっていたのか、人間は。なんという心地よさだ。これが日常の慣わしとは、人間たちは贅沢すぎる」
私は生まれて初めてこの身で味わう萬年湯の湯に身も心も震わせていた。
私は今、湧人の体に依り憑いている。湧人の体で湯を味わっているのだ。
湧人の頼み事とはこれだった。「僕の体に依り憑いて僕が沸かせた湯を批評してほしい」というのである。
どうですか、沁みますか?
と体の中から湧人が問いかけてくる。
「ああ……、沁みる。これが沁みるというやつなのか」
こんなもの毎日味わいたいに決まっている。一日働いて疲れ切った後にこれを味わったら、それはもうたまらんものがあるだろう。やみつきにもなるだろう。私はこんな恐るべきものを九十年も守ってきたのか。
おそろしい……。
「文太郎の湯はこんなものじゃないぞ、萬年の。この数倍、いや数十倍は沁みるぞ」
すぐ隣で浸かっている亀之湯が言う。
「そうなのか? これの数十倍なのか? どれだけすさまじいのだ」
はは、と体の中で湧人も笑った。この分じゃ、亀之湯さん同様、オフロサマもやみつきになりそうですね、と。
全身を包み込む湯の心地よさに私は夢心地になってしまった。わかっているさ、湧人。おまえは私にこれを味わわせるために「批評を頼む」なんて言ったんだろう。そのために自分の体まで貸して、なんとも心憎い計らいではないか。
こんな心地よさを覚えたのは生まれて初めてだ。このまま湯に溶けてしまいそうだ。
「人間には風呂があってよかったなあ……」
濡れタオルを畳んで頭の上に置き、湯気の向こうに鎮座するペンキ絵の富士山を眺める。褪せた色合いが霞みを帯びているようで、ますます遠目に眺める雄大な風景のように感じられる。私は富士の実物は見たことがないが、これ以上に美しい富士はないだろうと思えた。
目の前にこんなに素晴らしいものがあるというのに味わったこともなかった私は、今までどれだけ人間のことがわかっていたのだろうと思った。そう考えると、湧人と出会えたことはこれ以上ない僥倖だった。何より人間である湧人と「言葉」を交わせたから、不可能を可能にできたかと思うと、本当の魔法なるものは「言葉」というやつなのかもしれない。
私はきらきら光る湯を手ですくって、一度だけ顔をつけた。染み渡るのは、文太郎たちや湧人が注ぐ萬年湯への愛なのだ。
私は湯船のへりに後頭部を預けた。
目を閉じて、カポーンカポーンと響く桶の音に耳を傾けながら、幸福だと感じていた。
そして私は人間のように呟くのだ。
「ああ、いい湯だなあ……」
と。
【おわり】